2007年02月07日(水)  マタニティオレンジ74 子育て中の美容院とエステ

「お誕生月につき10%オフ」の葉書が届いて、しばらく美容院に行ってないなと思い出す。産後3か月の11月に行ったきりだ。娘のたまをベビーカーに乗せて出かける。赤ちゃんウェルカムな美容院で、前回はたまがぐずると店長さんが抱いてあやしてくれた。今日は店長さんの姿はなく、ちょうど混んでいる時間帯。30分ほど待って順番が来た頃には、たまはベビーカーの中で海老反りをはじめていた。「だっこして切ってもらっていいですか」と無理を承知で聞くと、「はい」と美容師さんはこともなげに言い、「だったらこちらを」と親子スモックなるものを取り出した。上から見ると8の字になっていて、母と子のそれぞれをくるんでくれる。前髪を切ってもらうときに脇で抱く以外は、膝の上に立たせて機嫌を取った。「すぐ済ませますからね」と美容師さんはすごい勢いでハサミを動かす。雑誌も置かれない。シャンプーは省略で、髪の切れ端を流すだけ。美容院で髪を洗ってもらうのが好きなので、もったいない気がする。次回はやっぱり預けてこようかな、と思ったり、預けられるならお茶したい映画観たい、と思ったり。

ところで、前髪を切ってもらっているときのこと。「分け目はどうしますか」と聞かれたので、「つけたら、どうなりますか」と聞いたら、「老け込みますね」と即答された。そんな心配をされたことはなかった。フケ飛びますね、と言われたほうが衝撃は小さかったと思う。老け込むにはまだ早いと思ってたけど、わたしはすでに老け込みますねの境界線上にいるのか、としみじみグサグサ来てしまった。

子育てで一気にガタが来たのもあるのだろうか。なけなしの若さやみずみずしさを、ぴちぴちの娘に吸い取られている。こういうときこそエステなんかに行くべきなんだろうなあ、と思ったので、いつもは途中で切ってしまう勧誘電話に最後までつきあった。「一度お試しいただければ、ぷるぷるのお肌を実感できます」なんて言われて激しくうなずいたものだから、戸田恵子似の張りのある声の勧誘員さんもノリノリだったのだけど、「興味ありますか」と聞かれたところで、「赤ちゃん連れでもいいですか」と聞き返したら、はじめて沈黙の間が生まれた。「迷惑ですよね。他のお客様はリラックスしに来られるわけだし」と遠慮すると、「……そうですね。どなたかに預けていらっしゃることはできますか」。美容院と同じで、預けたほうが自分もゆっくりできるのだろうけれど。「子育て中の方にこそ、体験していただきたいんですけど……」。勧誘員の立場ではどうすることもできない。そこからは「もう離乳食ですか」「夜は何時間おきに起きてますか」などと子育て相談電話のようになる。勧誘員さんは子育ての先輩らしく、聞き上手でもあった。「がんばってくださいね」と励まされて電話を切ると、エステほどではないけれど、ちょっとすっきりした気持ちになった。

2004年02月07日(土)  二人芝居『動物園物語』


2007年02月06日(火)  マタニティオレンジ73 ひろくてやわらかい床を求めて

先日初寝返りを決めた娘のたまが、今週辺りからおすわりも決まるようになった。うまく座らせると十分ぐらいは持つ。自由になった手を伸ばして、なにやら得意げだ。バランスを崩すと前やら横やらに倒れてしまうので、おすわりするときはベッドの上に置く。案外勢いがつくので、壁にも要注意だ。いつの間にかおすわりからスフィンクスのポーズになって寝返りをはじめていたりする。「キャ〜〜〜」と楽しげな悲鳴が続いているので、きげんよく遊んでいるなと安心していて、ふと目をやったら、ベッドから上半身が飛び出していた。連続寝返りで大移動したらしい。気づくのが遅かったら、頭から床に落ちるところだった。危ない危ない。慌てて抱き上げてからしばらく心臓がドキドキした。ハイハイは「気持ちだけ前進」状態が続いているけれど、フローリングの床で練習させようとしたら、いきなり転がって頭を床に打ちつけ、大泣きした。

ひろくてやわらかい床を求めて、区がやっているプレイルームを訪ねることに。登録はしていたものの利用ははじめて。お邪魔しまあすと顔を出す。同じぐらいの月齢の赤ちゃんを連れたママ同士で自然と輪になって、お名前は、とか、何か月ですか、とか言いながら、いい感じで打ち解ける。話しているうちに「あれ、母親学級でご一緒しましたよね」とお互い思い出したりする。妊娠中は顔もむくんでいるので、産後はかなり印象が変わる。内蔵していた赤ちゃんが分離独立して再会するのは、なんだか不思議で面白い。男子四人に囲まれて、紅一点のたまは元気な雄叫びを上げて、スフィンクスのポーズでごきげん。ここならマット敷いてるし、転んでも平気だよ、とお膳立てされた環境だと、なぜか転ばないのだった。

2004年02月06日(金)  ミニ同期会
2002年02月06日(水)  電車にピップエレキバン


2007年02月05日(月)  マタニティオレンジ72 出産ドキュメント

昨日のマタニティオレンジを書いて、五か月も前のことをよく覚えていることに驚いた。強烈な体験は、一瞬一瞬がストロボを焚いたように、心の印画紙に焼き付けられるのかもしれない。最近読んだ漫画家の桜沢エリカさんの妊娠出産ドキュメント『贅沢なお産』にも刺激を受けて、記憶が鮮明なうちに、あの日のことを書き留めておこうと思い立った。

予定日を一日過ぎた8月21日月曜日、生まれる気配はないけれど、家でじっと待っているのは落ち着かないので、マタニティビクスへ。ズンズンという刺激は天然の陣痛促進剤になるのだが、お盆休みで一週間レッスンが空いていた。19日が予定日のトモミさんも来ていて、「今日の刺激で陣痛が来るかも」と笑いあう。自宅まで一時間半の道のりを歩いて帰る途中、「しばらく外食もできないし」とヌーベルシノワの店でランチを取る。帰宅し、ご近所仲間のT氏に借りていた『加藤泰 映画を語る』を読み、喉が渇いたな、と台所へ立ち、オレンジにストンと包丁を入れた瞬間、バン!と破裂音。フローリングの床を見ると、足元に直径三十センチほどの白濁した水たまりができていた。

わ、破水だ、と口に出して言ったわたしは意外と冷静だった。時計を見ると、17時20分。エコー検査で「たっぷりあるわね」と助産師さんにほめられた羊水は自分の体温であたためられてあったかく、温泉湯元になった気分。と、感心している場合ではない。30週の妊婦検診で見つかったGBS(Group B Streptococcus B群溶血性レンサ球菌)が薬でも消えず、母子感染する可能性があった。羊水というバリアが取り払われると、胎児は菌に対して無防備になってしまうので、抗生物質の点滴を受けなくてはならない。助産院に電話をすると、「すごく急がなくてもいいけど、早く来なさい」と言われる。電話を切ると、オレンジを食べ、出発。陣痛でアイタタなおなかをかばいながらヘイ、タクシー!の予定が狂い、羊水を受け止める巨大紙おむつをあてて電車に乗り込む。

改札を通り過ぎたとき、下腹に痛みを感じた。「お、来たかも」。破水してから二十四時間以内に陣痛が来ないと助産院では対応できず、病院に搬送されるので、陣痛様歓迎なのだった。時間は17時50分。3つ先の駅で降りて助産院へ向かう途中に軽い痛み、3分後に初めてギューッと締めつけられるような痛みが来た。歩きながらレポート用紙をはさんだバインダーとペンを取り出し、記録開始(以下、緑字で再録)。18:09軽 12ギューッ。出産というまたとない体験をネタとして書き留めない手はない。19軽 24ギューッ 29軽。はっきり陣痛だとわかる痛みが、交互に緩急つけてやってくる。36ギューッ。腰痛い。

助産院に着き、体重を計り(56.5キロ)、採尿。出産用の前開きガウン状パジャマに着替える。45ギューッ。48ギューッ。かなり腰痛い。50注射 注射と書いたのはGBSをおさえる抗生物質の点滴のこと。入院は自分が生まれたとき以来だが、点滴も初めて。効果は6時間。それまでに生まれなければ追加で打つ。「生まれていることはまずありえないわね」と助産師さん。初産なので目標は明日のお昼と言われ、「そんなに持ちません!」と悲鳴。いやいや、大変なのはこれからよと笑われる。話している間に、55ギューッ
19:00軽 05かなり 11かなり しんどくなってきて、「痛い」を省略。
20最大 22弱め 腰骨に指をめりこませるようにするとラク 
25いたい 30いたい 34歩くがしゃがみこむいたさ
 「痛い」が漢字で書けずひらがなになる。ここで、それまでいた診察室を出て、入院室に案内された。ベッドとテーブルと洗面台のある個室。
36痛い 犬のポーズやると楽 40呼吸吐くのを意識するとラク。犬のとき腕のほうにぐっと力いれる。44 かなり痛 47 鈍痛 50 かなり痛 ベッドに移動
漢字を書けているということは比較的余裕があったのか。
52〃 56〃 59〃 「かなり痛」と書く体力がなく、簡略化。
20:01最大 03〃 06〃
10 12 14 16 20 22 25 〃を振る気力もなく、数字を記すのが精一杯。
余白にウィダーインゼリー1本と走り書きがある。それまで買ったことはなかったが、助産師さんの指名で、ダンナに買ってきてもらった。結局、液体より固体よりこれがいちばん口に入りやすく、役に立った。大好きなペルティエのパンは長期戦に備えて二千円分買い込んでもらったが、ひとつも喉を通らなかったし、バナナも半分でギブアップ。ダンナはこの頃に駆けつけたと思われる。何度「立ち会って」と頼んでも「約束できない」とはぐらかされてきたが、いざとなるとちゃんと来てくれた。
27おにぎりおかか 体力つけなきゃと無理やり食べた記憶がある。
30最大 35うんち? 実際は便意ではない。赤ちゃんが降りてきている証拠。 
37限界 38 40最大 トイレ行く いきみのがし押してもらうと楽
21:00移動
 ここで分娩室に移動。といっても分娩台はなく、和室に布団が敷かれた部屋。抱きかかえて苦痛を和らげるビーズクッションがでん、と置いてあった。
21:10フーウン これを最後に絶筆。「フーウン」というのは呼吸法。

そこから先のことは記録には残せなかったけれど、手当たり次第にシャッターを押して撮った写真のように記憶に残っている。廊下の壁、トイレの壁、本棚の上、ソファ……オリエンテーリングのポイントを回るようにあちこちに手をつきながら陣痛をやり過ごしたこと。ダンナに頭をなでられたのがすごく安心できて、ふわふわといい気持ちになったのに、次の瞬間、「触らないで!」と手を払いのけ、そんな自分を「逆毛を立てて威嚇する妊娠猫みたい」と思ったこと。ダンナがいったん仕事に戻り、助産師さんがトイレで離れた五分間が永遠のように長かったこと(病院での分娩ではぎりぎりまで放っておかれることが多いらしいが、わたしが産んだ助産院では基本的につきっきりだった)……。順不同で、時系列に並べ替えるのは難しいけれど、画像は鮮明で、そのときの音やにおいや手触りも一緒に保存されている。

極限状況に陥ると、人は正気を保つために気を紛らわせる努力をする。「笑う出産」「歌う出産」「踊る出産」「祈る出産」など様々なスタイルがあるようだが、わたしの場合は「しゃべる出産」だった。「今どうなってますか」「なんでこんな痛いんですか」「あと何時間ですか」と助産師さんを質問攻めにし、「マタニティヨガで習ったんですけど、このポーズ楽です」「ああ、いま束の間の休息です」「この呼吸法、母親学級でやりました」などと実況し、合間に「年間何人ぐらい取り上げているんですか」と取材したりした。「あなたは最後まで冷静だったわ」と後で助産師さんに言われたが、言葉を発散することで、ばらばらになりそうな気もちをつなぎとめていた気がする。

先に破水した分、クッションがなくて衝撃がもろに伝わるので、陣痛がきつかったらしいが、そのおかげでお産が早く進み、初産にしては特急スピードの四時間で「子宮口全開」と言われるステージまで来た。ここまで来たら、あとは出すだけ、の段階。その時点で23時頃だっただろうか。助産師さんも「もしかしたら日付が変わる前に生まれるかも」と言い出した。当初の見通しより12時間繰り上げとなる。ところがそこから先が難航。これで最後と思って踏ん張るのに、出そうで出ない、その状態が二時間以上続き、気力体力ともに限界。24時、二度目の点滴の後、鼻に酸素吸入のチューブが差し込まれた。

25時頃、助産師さんが応援をお願いしたベテラン助産師さんが到着。白衣に白髪、深夜に駆けつけたにも関わらず、きちんと化粧を施された顔はおしろいで白く、その中でピンクの口紅を塗った唇だけが色を放っている。ベテランの余裕と貫禄を登場の一瞬で感じさせた。「さあ、ここからが正念場だよ」。すでにさんざん正念場だったのだけど……。「もうダメです!」と弱音を吐くと、「赤ちゃんはもっと苦しい!」と激が飛ぶ。火事場の馬鹿力でいきむと、「上手、上手」と助産師さんが二人がかりで褒めてくれる。「だいぶ進んだよ」「ほら頭が見えた」「鏡で見る?」「手を伸ばしたら、頭触れるよ」。そう言われても、「そんな余裕ないです!」と叫ぶ。「痛い、痛い」「どこが?」「股!」「そりゃ股は痛いわ」と助産師さんが吹き出す。やはり直径的に無理がある、と鼻からスイカ伝説を思い出すが、ここまで来たら出すしかない。

「ヒ、フー」だった呼吸はついに「ハ、ハ、ハ、ハ、ハ!」と舌を出す犬状態に。あとはもう無我夢中。ゴールテープが見えたマラソンランナーの心境。出産の瞬間はえもいわれぬ爽快感がある、と誰かが語っていた。「十か月の宿便」は言い得て妙なのかもしれない。めったに味わえない感覚だから、それをしっかり味わおう。楽しみができると、雲間に射し込む光のように、マッシロな頭に余裕が生まれた。出産中は麻薬物質のようなものが出て、痛みに鈍くなるという話も聞くから、そのときのわたしは恍惚状態に入っていたのかもしれない。

「さあ、行きますよ」。助産師さんの声にもラストスパートの力がこもる。次の瞬間、おなかの上に確かな重みがのっかった。小さな体を震わせ、泣いている生き物、これがわが子なのだとすぐには実感が湧かない。母親学級で見せられた出産ビデオでは、無事出産のこの場面でどばっと涙が出た。自分のときは号泣するんじゃないかと思ったら、安堵感のほうが大きくて放心状態になっていた。修羅場の喧騒がしずまると、CDから流れるオーボエの穏やかな音色が部屋に満ち、なぜかフランダースの犬の最終回、教会の冷たい床で抱き合うネロとパトラッシュの姿が頭に浮かんだ。

「8月22日午前2時28分」。助産師さんが壁の時計を読み上げながら素早くメモする。上から読んでも下から読んでも822228、回文だ。このとき、産んでみてのお楽しみだった性別を知る。男の子だと勝手に思い込んでいたので、女の子だとわかってびっくり。出産の間、わたしが「たまー、がんばれー」と呼びかけていたので、産まれた途端、助産師さんも「たまちゃん、よかったねー」と呼んでくれたのだが、「名前じゃなくて、卵のたまです」と言うと、不思議な顔をされた。ダンナの手にハサミが渡され、テープカットならぬへその緒カット。健康なへその緒は太くて弾力がある。ゴムチューブのような手ごたえで、なかなか切れなかった。

やっと出産が終わったら、まだ胎盤が残っている。後産というらしい。ゴールテープを切った後にもう一周と言われるような気分。胎児に比べるとずっと小さいのだけど、モチベーションが低い分、しんどい。これが赤ちゃんの入っていた袋、胎嚢。破水のとき、ここが破れたのよ。これが胎盤。レバーみたい? などと助産師さんが丁寧にレクチャーしてくれる。胎盤を食べたという知人がいて、わさび醤油がいけると話していたが、わたしは食欲が湧かなかった。

たまはいったん診察室に連れて行かれ、身長と体重を計られる。50センチ、3238グラム。小さく産むはずだったのに、大きく産んでしまった。初めてのおっぱいを含ませながら、「3000切ってたら、もう少しラクだったんですかねえ」と言うと、「生まれるタイミングは赤ちゃんが決めるから」と助産師さん。今日出てきたい、とたまが思ったのだから、それでいい。

羊水を体じゅうにつけたままおむつだけ着けた生後一時間のたまとわたしとダンナを和室に残し、「今夜はここでゆっくり休んで」と助産師さん二人は去って行った。「産んだ直後は何ともいえないほど幸せ」と先に出産した友人たちに聞いていたが、疲れているはずなのに興奮して寝つけない。うとうとしてはすぐ覚め、隣で寝息を立てているたまを確かめて、「完璧だ」とつぶやいたり、子宮に比べたらこの部屋は宇宙ぐらい広いだろうなあと想像したりした。

2002年02月05日(火)  3つの日記がつながった


2007年02月04日(日)  マタニティオレンジ71 「鼻からスイカ」伝説

出産を終えてよく聞かれるのが、「『鼻からスイカ』ってほんと?」。直径的に無理があることのたとえだけど、スイカは大げさ、「鼻からキュウリ」ぐらいが実感に近い。キュウリにしたのは理由があって、出口の突破よりも、長さのある物が狭いトンネルを通り抜ける道中が大変なのだ。いわゆる陣痛。最初はジンジン、そのうちズンズン、ついにはガンガンと体の内側から金槌で殴られるような衝撃が10分おき、7分おき、5分おきと間隔を縮めながら襲ってくる。

痛みの新単位HANAGEが国際学会で承認されたというジョークがメールで飛び交ったのは十年ほど前だろうか。鼻毛一本抜く痛みを1HANAGEとすると、出産は一万HANAGEだったか十万HANAGEだったか。鼻毛を一万本(あるいは十万本)抜くほうがラクなのでは、と馬鹿馬鹿しい比較をするうちは余裕があった。「痛い」より「苦しい」に近い衝撃がボリュームのつまみを回すようにきつくなっていく。赤ちゃんは旋回しながら産道を下りてくる、と母親学級で教わった。産道をギリギリとこじ開けながら進む円周三十センチのスクリュードライバーを想像する。「少しでも直径を小さくするために頭蓋骨を折り畳んで出てくる」(そんなことができる胎児って何者!?)そうだから、実際の円周は三十センチもないかもしれない。でも、肩は外せないし、ワインボトルの底ぐらいはあるのだろうか。

「出産は十か月の宿便です」とカリスマ助産師の神谷先生は母親学級で言い放った。この人の言葉には一言も聞き逃せない説得力があるのだが、うちの子をウンチ呼ばわりとは、とこれにはフンガイした。先生は続けて言った。「これまで体験したことのないエネルギーがあなたに押し寄せます」。苦痛に耐えるのではなく、力を受け止める。その考えは気に入った。実際体験してみると、確かに途轍もないエネルギーだった。脳裏には、トンネルを開通させるために山に穴を空ける発破シーンが浮かぶ。陣痛のたびに体の中でダイナマイトが爆発するようで、体も気持ちもばらばらになりそうになる。脳裏を過ぎるイメージは、山肌を洗う溶岩流に、砂浜を飲み込む津波にと過激になっていく。マグマの怒りを受け止める地球ってこんな感じだろうか。

新聞で読んだバースコーディネイターのインタビューに「出産は女性の体から未来が生まれること」とあった。もう限界というとき、この言葉が自分を奮い立たせてくれた。未来を生むのだ、楽なわけないじゃないか。わたしがダンナと二人の助産師さんに励まされて何とか持ちこたえている今、おなかの中の「未来」は一人ぼっちで暗い産道を光に向かって進んでいるのだ。愚痴も言わず、弱音も吐かず。その胎児の姿をはっきりとイメージした。この子を世界に出してあげられるのは、わたしだ、と体に残っていた最後の力を振り絞った。何度も投げ出しそうになった七時間半の耐久レース。その苦しみは、生まれた瞬間の開放感と達成感と爽快感に吹き飛ばされた。ゴールテープを切った瞬間、次のレースのことを考えるマラソンランナーのように。

鼻からスイカ伝説は、「普通だったら耐えられない痛み」のたとえとしても語られる。わたしも「無痛分娩にすればよかった」と呪文のように繰り返していたけれど、わたしが体験したのは、麻酔なしで手術を受ける拷問のような痛みではなく、出口を求めて押し寄せる圧倒的なエネルギーだった。「耐えられる痛みですか」。出産を控える人にそう聞かれたら、「ラクではないけど、怖がることはありませんよ」と答えている。それを受け止める力は、ちゃんと母親には備わっているから。「命を宿す力があるということは、命を産み落とす力もあるということです」とも神谷先生は言った。

2002年02月04日(月)  福は内


2007年02月03日(土)  映画『それでもボクはやってない』と監督インタビュー

Shall we ダンス?』以来11年ぶりの周防正行監督の最新作、『それでもボクはやってない』。劇場予告を観た第一印象は社交ダンスから一転、痴漢冤罪とは地味な題材だなあというものだった。「痴漢したでしょ」と主人公の袖をつかまえる女子中学生が『風の絨毯』でさくら役だった柳生みゆちゃんだとわかり、これは観なくちゃ、となったけど、ヒットはしないだろうなあと思った。観る人を選ぶ作品だろうなと。月刊シナリオ2月号の監督インタビューで「バカヒットさせたい」という言葉があったが、バカヒットは難しいだろうなあと思った。ところが、今朝9:30からの日比谷シャンテシネは、ほぼ満席。客席は中高年が目立ち、岩波ホールのような雰囲気。バカがつくかどうかわからないけど、ヒットしている。

混雑した通勤電車で、仕事の面接に向かうフリーターの青年が痴漢の疑いをかけられて駅員室に連れて行かれ、警察に引き渡され、罪を否認していると起訴され、裁判に巻き込まれる。青年の主張は終始一貫して「ボクはやってない」。だが、話せばわかってもらえるはずと思っているうちに、どんどん抜け出せない深みにはまっていく。やったことの証明よりも、やってないことの証明のほうが難しく、無実だからと言って、無罪になるとは限らない。逮捕者の有罪率は99.9%。無罪を出すことは警察が間違いを認めることになり、逮捕した以上は有罪だと決めてかかられる。有罪行きレールに乗せられた青年を丹念に追いかけながら、作品は日本の警察や検察や裁判の抱える問題点を次々と浮かび上がらせる。

周防監督は痴漢冤罪を取材しているうちに「これを作りたいじゃなくて、作らないと駄目だ」と使命感を覚えたらしい。そして、「とにかく現実に僕が見たことを伝えたい。そのためには、どう整理していったらいいか、それしか考えなかった」という。「とにかく映画的に演出の工夫をしようとか一切なく正直に撮ろう」という姿勢で小技や小細工を排し、「それで映画がつまらなくなるんだったらしょうがない」と開き直ったそうだが、結果的には大変面白い作品になった。でも、他人事だからのん気に見物できるのであり、自分が濡れ衣をかぶる立場だったら笑い事では済まされない。

グリコ森永事件の頃、大阪では大がかりな検問が行われ、キツネ目男に似ているというだけで疑いをかけられた人が多数いた。運悪くグリコや森永の製品を持ち合わせていた人は、とくにしつこく取調べられた。「十人の真犯人を逃すとも 一人の無辜をお罰するなかれ」という言葉が映画の冒頭に出てくるが、実際には、十人の真犯人をつかまえるために、間違って逮捕されてしまう人がいて、無実の証明に失敗すれば有罪の判決を受ける羽目になる。つい最近、服役まで終えた人が後から無実だと判明したという記事を読んだ。「家族は認めている」と取調べで言われ、否認しても無駄だと諦めて自白したらしいが、すっかり人間不信になってしまったのは無理もない。つかまえる側も裁く側も使命感と責任感を持って悪を正すことに取り組んでいるわけで、好きで無実の人を有罪にしているわけではない。けれど、有罪率99.9%は結果ではなく前提になってしまっている。それでも映画だったら奇跡を起こしたくなるものだが、ラストを甘くしなかったところに真実味があり、一件落着にしなかったことで観客に宿題を持ち帰らせるという余韻を残した。上映時間143分が全然長く感じられない。寝ているダンナに娘を頼んで出かけた甲斐があった。

帰宅してから月刊シナリオのインタビューを再読。2月号なのでもう書店には並んでいないかもしれないけれど、このインタビューは職人の心意気のようなものが伝わってきて、読み応えがある。「最終的には、僕のことなんかなんにも知らない観客が見る」から、人の話を聞く。「作る前に聞いて、そこで恥かいとかないと。作る前の恥は誰も知らない」「とにかく作る前に批判にさらされて、作ってからあまり批判されたくない」という真摯な姿勢がちゃんと作品の完成度に結びついている。

月刊シナリオには脚本も掲載されている。台詞のある登場人物は全員フルネームがついていて、みゆちゃん演じる中学生は古川俊子。『パコダテ人』のまもる父ちゃん、徳井優さんは留置係の西村青児役。徳井さんは『Shall we ダンス?』にも出演していて、その撮影をわたしは間近で見ている。ストリートダンスの映画だと勝手に勘違いしてエキストラに応募し、ダンス大会の観客席を埋める観衆の一人となって、「社交ダンスだったのか……」と呆然としながら、「あ、引越しのサカイの人だ」と徳井さんを見つけて喜んでいた。そのときは自分が映画の仕事に関わることになるとは思っていなかったし、映画脚本デビュー作に目の前の俳優さんが出演するとも思っていなかった。11年(撮影は公開より前だから12年か)も経つと、いろんなことが変わる。それだけの長い歳月を空けて渾身の一本を送り出したんだなあ、とあらためて恐れ入る。

2004年02月03日(火)  東北東に向かって食らえ!
2003年02月03日(月)  納豆汁・檜風呂・山葡萄ジュース・きりたんぽ
2002年02月03日(日)  教科書


2007年02月02日(金)  マタニティオレンジ70 子連れで江戸東京博物館

友人アサミちゃんを誘い、特別展「江戸城」(3/4まで)めあてに江戸東京博物館へ。ここはわたしの好きな場所のひとつで、心惹かれる特別展があると足を運んでいる。赤ちゃん連れでも大丈夫なのかなと事前に調べたら、授乳室があり、ベビーカー貸し出しもやっているというので、安心して出かけた。

平日の昼間だから空いているだろうと思ったら、江戸城展はベビーカーが割り込む隙間を見つけるのは一苦労な混み具合。休日よりはよっぽどましなのだろうけれど、人並みが途切れた瞬間を見計らって陳列棚の前に滑り込んだり、人垣越しに背伸びして見たり。信長や家康の残した文書を見ながら、「朱印状って習ったよね」「あったよねー朱印船」などと歴史の時間を懐かしむ。昨年一緒に観た『築城せよ。』を思い出して、「映画に出てたお城の設計図もこんな感じだったねえ」とも話す。昔の人の遺した手紙や日記や作られたものや使っていたものと数百年の時を経て対面するのは、不思議な気持ち。それらのものがあるということは、たしかに人が存在したということで、人はいなくなっても、ものはたしかに存在している。半分ぐらい見たところでたまが大声で泣き出してしまった。江戸ワールドに引き込まれている人々を現実に引き戻してしまっては申し訳ない。ベビーカーからたまを引っこ抜いて抱っこにし、アサミちゃんにベビーカーを押してもらう。それでもぐずるので、残り四分の一ぐらいは駆け足で通り過ぎる。一瞬見たお菓子(もちろん和菓子)の再現サンプルが迫力満点。横長の饅頭がオムレツのように大きかったのだけど、あれは原寸なのか展示用に拡大していたのか。

おむつ替えシートではなくベビーベッドが置いてある立派な授乳室で授乳とおむつ替えをして、たまのごきげんが持ち直してから常設展へ。こちらはベビーカーで回るスペース十分だったのだけど、たまはだっこのほうが良さそうなので、ベビーカーを返却。課外授業で来ている高校生の女の子たちが「かわいいー」と寄ってくる。中国語を話す女の子のグループも近づいてきて握手攻め。名前を覚えてもらって、別な場所で再会すると「たまちゃーん」と呼びかけられる。歴史の展示物の中に赤ちゃんがいると新鮮で面白いのかもしれない。

わたしもアサミちゃんもジオラマやミニチュアで再現された昔の暮らしや町並みを見るのが好きで、「よくできてるねえ」と感心しながら見て回る。昔の出産風景なんて展示は以前来たときもあったのだろうけれど、当時は関心がなかったせいか記憶に残っていない。産婆さんの膝に新生児を立てかけるようにして沐浴したのは、へそからばい菌が入らないようにするためだとか。期間限定の「北斎展」も面白かった。北斎は時期によって名前を変えながら作品を発表していたそう。最初は挿絵画家からスタートというのは現代のイラストレーターにも通じるものがある。

赤ちゃん連れは行動の自由度が低くなるけれど、アサミちゃんにつきあってもらったおかげで、かなりじっくり見て回ることができた。ママ仲間同士だとお互い様の気安さはある代わりに全員手がふさがっているという弱点がある。手の空いている道連れがいると、ぐずったときに「荷物持ってて」や「あれ取って」を頼めるので助かるのだった。博物館へ行く前の腹ごしらえのランチも、交替でだっこしながらしっかり完食。「両国のおいしい店」を検索して見つけた『自然食レストラン 元気亭』は、雰囲気も店員さんの感じも良く、カラダにやさしいメニューが充実していて、また行きたいお店。

2005年02月02日(水)  しましま映画『レーシング・ストライプス』
2003年02月02日(日)  十文字西中学校映画祭
2002年02月02日(土)  歩くとわかること


2007年02月01日(木)  マタニティオレンジ69 女性は子どもを産むキカイ?

厚生労働大臣が口にした「女性は子どもを産む機械」という発言が問題になっている。こういう言い方は昔からあったけれど、いまや当の大臣の専売特許のようになり、多方面から非難が集中している。最初ニュース音声で「女性は子どもを産むキカイ」と聞いたとき、「機会」という漢字が頭に浮かんだ。日本語としては不自然なのだけど、「女性は子どもを産む機会」って詩的な表現だなあと思ったら、「機械」のほうだった。機械という言葉は「人間」の反対語としてとらえられることが多いし、「女性を機械呼ばわりとは!」「女性の人間性を否定している!」と猛反発を食らっている。産む前だったらわたしも反射的にそう感じたかもしれないけれど、ちょうど半年前の出産のことを思い返しながら書き留めていて、女性の体に備わっている妊娠・出産という能力は実に精巧なメカニズムだなあと思っていたところ。「女性=機械」とイコールでは結べないけれど、そういう側面はあるということを生理的に理解できる。machineというよりはvehicleに近いかなあとは思う。手元の辞書でvehicleを引くと、「媒介物、伝達の手段(方法)、表現形式」とある。

「機械」というたとえを使ったのは話をわかりやすくするため、という釈明がされている。報道では問題発言の部分ばかり抜き出されているので、どういう文脈で使われたのかつかみかねるけれど、ちょっとした温度や湿度の差を嫌う精密機器以上にそれはとてもデリケートなもので、機能させるには環境の整備やサポート体制や設備投資が必要である、という趣旨での発言かどうかは疑問だ。女性を機械にたとえたことより、「機械が減っているから、一台あたりの生産量を上げるべき」と聞こえるくだりに、わたしは引っかかりを感じる。子どもの「生産量」が減っているのは「機械」の責任ではなく、少子化は「機械」だけが頑張って解決する問題ではない。マシーンは電源を入れスイッチをONにすれば作動するけれど、大臣のたとえる「機械」は言葉ひとつでダメージを受ける繊細さを備えている。そういう意味では配慮に欠ける発言だったと言わざるをえないけれど、「機械」という言葉尻だけをとらえて騒ぎ立てても何も産み出さないと思う。この表現の何が問題なのかが議論され、問題発言が問題提起のきっかけになることが、「子どもを産む機会」を行使しやすい国へ近づく一歩にならないだろうか。そんな期待を寄せながら事の成り行きを見守っている。

2004年02月01日(日)  東海テレビ『とうちゃんはエジソン』
2002年02月01日(金)  「なつかしの20世紀」タイムスリップグリコ


2007年01月31日(水)  マタニティオレンジ68 左手に赤ちゃん右手にナン

先週の水曜日、千駄木のインド料理屋で、左手に赤ちゃん右手にナンという無理のある体勢でカレーに挑む女性客の姿があった。それはわたしなのだが、周囲のテーブルからの「なんだか大変そうだね」「待ち合わせの人が来なくて一人なのかしら」という同情やら疑惑やらの混じった視線に「はい、わかってます、無理あります」と心の中で答え、「片手でナンをちぎるのって難しい」と発見したり、そんなわたしから目をそらさず微笑みかけるインド人の店員さんの懐の広さに感激したりしながら、ぐずり寸前の娘のたまをあやしつつランチセットを平らげた。なんとかカレーを服に飛び散らさずに済んだと思ったら、爪の間に入り込んだカレーを見落としていた。その手でたまを抱っこしたものだから、ベビー服には明らかに誤解を招きそうな黄色いシミが点々……。

そこまでして食べたくなったのは、その一週間前、五反田の路上でインドカレーのランチboxを売っているおじさんに出会ったからだった。すでにランチを買い込んで友人宅へ向かうところだったのだけど、どんなカレーだろうと気になったので「いつもやってるんですか」と話しかけたら、すぐ近くのアロラ・インド料理学院のカレーなのだと言ってお店のハガキをくれた。学院ではイートインもやっている(前日までの完全予約制 平日11:00〜14:30)と言う。むかし隣の家にインド人一家が住んでいたという話をしたら、名前も聞かずに「ワタシ、その人、知ってる」とおじさん。「いやいや、三十年も昔のことだし、大阪だし」と答えたのだけど、こういうやりとりもインドっぽいなあとうれしくなった。4才で本場の味に出会ってインドカレー歴はかれこれ三十余年。出産後はスパイスで母乳の味が悪くなるという説もあり、ほどほどに控えていたのだけど、おじさんのせいでにわかにインドカレー熱がぶり返した。五反田の友人と「じゃあ今度そこ行こうよ」と約束したものの、それまで我慢できずに千駄木でフライングカレーを食したのだった。

で、今日は待ちに待ったアロラカレー当日。大人三人+赤ちゃん二人(五か月児と一か月半児)という顔ぶれで、マンションの一室にあるアロラ料理学院へ。そのリビングがイートイン会場になっていて、お店というより知り合いのおうちにお邪魔したようなアットホームな雰囲気。電話で赤ちゃん連れと伝えておいたところ、ベッド代わりのソファを用意してくれていた。部屋も貸切で、いざとなったらここで授乳できるわと思ったのだけど、たまはぐずらず、抱っこせずに最後まで転がしておけた。じっくり味わうのに十分な舌滞在時間を確保でき、フライングカレーの雪辱を果たすことができた。カレー2種類(エビとココナッツ、ほうれん草とマトン)に里芋のサブジ、揚げ物2週類、ナンとライスとデザート(いちごのマンゴーソースがけ)とチャイまでインドを満喫。これで1000円。

食事が終わる頃、学院創設者で料理研究家のレヌ・アロラさん(『美味しんぼ』24巻の『カレー勝負』の回に登場しているそう)が現れ、「主人に聞きました。大阪でインドの方の隣に住んでいたとか?」と話しかけてきた。先日のおじさんと今日も路上で会ったので、「これから食べに行きますよ」と伝えたのだが、おじさんは二週間前に会ったわたしのことをちゃんと覚えていたのだ。すごい記憶力なのか、よっぽど印象深かったのか。そのおじさんがアロラ先生のダンナさんなのだった。隣に住んでいたインド人一家の長女の結婚式に出席するためにデリーへ行ったんですよ、と話す。三日連続の披露宴に出てインド料理を食べ続けたこと、歌や踊りをお祝いに贈るインド式にならって「さくらさくら」に合わせて盆踊りといういかがわしい日本芸能を披露したことなどをアロラ先生は大喜びで聞いてくれた。「日本でインド料理を教えて三十年。このような出会いがうれしくて続けています」と言われ、カレー食べに来ただけなのに、と恐縮。「今度来るときは、今日と違うメニューにします。サモサもおいしいです」とのことなので、近いうちにサモサ目当てに再訪したいと思う。

2005年01月31日(月)  婦人公論『あなたに親友はいますか』
2003年01月31日(金)  トップのシャツ着て職場の洗濯
2002年01月31日(木)  2002年1月のおきらくレシピ


2007年01月30日(火)  作り手の手の内、胸の内。

映画のDVDの特典にある制作者のコメンタリーを聴くのが好きだ。どんな思いでこの作品を作ったか、このシーンを撮ったか、作り手の思いを共有できると、作品がいっそう面白く愛しくなる。映画や演劇のパンフレットやチラシにある制作者の言葉を読むのも、同じ理由で好きだ。

先日ひさしぶりに舞台を観に行ったとき、移動中に読む本に選んだのが、劇作家の井上ひさしさんの『演劇ノート―エッセイの小径』だった。自身が戯曲を書いた舞台について、企画の背景や作品に込めた思い入れや苦労話などをテンポのいい文章で綴っていて、エッセイとして楽しめる上に、観ていないお芝居を垣間見つつ舞台裏までのぞかせてもらっている気持ちになれる。納得のいく本が上がらなければ初日をずれこませてしまうことで知られているが、「多方面に迷惑をかけるから間に合わせなければ」と「中途半端なものを出してはお客様に申し訳ない」の間で葛藤しながら、何とかして、どうだっというものを産みだそうとあがき苦しみ、頭を抱えたり抱えられたりしながら本を仕上げていく。その過程や事情をつつみ隠さず語っていて、この人はとても正直で真っ直ぐな人なのだろう。そして、自分はこういう意図でこの作品を作ったのだけれど、それがうまくいっているかどうか、決めるのはお客様だ、という姿勢が一貫している。幕が開くたびに審判を受ける思いで幕間から客席をうかがう。以前読んだアンデルセンの自伝にも、その緊張感と覚悟が書かれていた。作品を「世に出す」のではなく「世に問う」のだ、と作り手の意識のありようをあらためて示された思いがする。

作り手の舞台裏といえば、最近読んだ石田衣良さんの『てのひらの迷路』が大変面白かった。原稿用紙十枚という掌編の連載をまとめた短編集だが、各短編をどうやって発想したか、という手の内を明かした解説がそれぞれの掌編の前に収められている。作者のルックスとも相通ずるようにスマートで都会的にまとまった作品は単品でもおいしく味わえるのだけど、メイキング部分を読んでから本編に進むと、料理長の説明を聞いてから料理をいただくときのように、興味や親近感やありがたみがトッピングされて、いっそう味わい深い。私生活を下敷きにした掌編も多く、作者の手の内だけでなく人となりもうかがえる。あとがきで紹介された亡き母の苗字、石平からペンネームの由来を知った。

2002年01月30日(水)  ボケ


2007年01月29日(月)  マタニティオレンジ67 寝返り記念日

娘のたまが一か月成長するごとに毎月バースデーケーキを用意して、ささやかな誕生会を開いている。自分自身のことを振り返っても一才の誕生会でさえ覚えていないし、親がイベントほしさにやっているようなところはあるけれど、いつか、一年分12個のバースデーケーキの写真を眺めながら、たまが覚えていない誕生会のことを聞かせたいなあと思っている。

ご近所仲間と集まる掲示板で5/12才のケーキを披露したところ、「気になっていたんだけど、毎月お誕生日あるの?」という話題になり、「考えたら誕生日って別に年1回じゃなくてもいいですね。毎月でも毎週でも、思いついたら誕生日にしてもいいくらいですね」「思いついたら誕生日!というのはいいですね」といった声が寄せられた。記念日はたくさんあっていいと思う。誰にでも間違いなく新しい一日はめぐってくるけれど、同じように繰り返される毎日の中で、ブックマークしておきたい日が見つかるのは幸せなことだ。わたしは昔からサラダ記念日並みに何でも記念日にしてしまう傾向があったけれど、誕生日を毎月祝いたくなる子育て一年目の今は、毎日を記念日に指定しそうな勢い。今日は、たまが初めて寝返りをした日。

2006年01月29日(日)  空想組曲『白い部屋の嘘つきチェリー』
2003年01月29日(水)  清水厚さんと中島博孝さん
2002年01月29日(火)  年輪

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