FILL-CREATIVE [フィルクリエイティヴ]掌編創作物

   
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CREATIVE特選品
★作者お気に入り
そよそよ よそ着
ティアーズ・ランゲージ
眠らない、朝の旋律
一緒にいよう
海岸線の空の向こう
夜行歩行
逃げた文鳥
幸福のウサギ人間
僕は待ち人
乾杯の美酒
大切なもの
夏の娘
カフェ・スト−リ−
カフェ・モカな日々
占い師と娘と女と
フォアモーメントオブムーン
初 出:LOVER'S BRAIN(8) 砂の名前


 その次のSANAのステージの日も、俺は店に行けなかった。例のプロジェクトの調整に追われ、終電近くまで世話しなく厄介ごとに追われていた。
もちろん、絵の具を買いにいく時間もなかったが、SANAとは何回かメールでのやりとりが続いた。SANAの話題は、取り留めがなく、一貫性のないものばかりだった。昼に入ったリストランテで見た地中海の壁画の話。三日月の夜に擦り寄られた迷い猫の話。気まぐれに買ったガ−ベラの花束を水溜まりに落としてしまった話。その日に感じたことをそのまま綴っているようなそれらに、時に興味深く驚いてふざけて、返信を送った。ある時、砂名の名前の由来が書かれたメールをが来た。SANAのルーツを感じて、深まってゆく感覚にさらに浸るものだった。

『砂の名前とは、南の島の光る砂のこと。父と母が初めて訪れたその灼熱の場所で、二人は将来を誓いあったの。やしの木の揺れる音、打ち寄せる波の音、熱帯の気候に漂う潮の匂い、それらに包まれた満点に輝く星空の砂浜。母は父に抱かれて絶頂を迎えた。まだ、陽の温かさが残る砂を握りしめて、母は幸福を味わった。愛に満ち、私が宿ったのだと教えてくれた。目をつむれば今も、その時の感覚は鮮明に蘇ってくるのだと言って。女ってそういう想い出はずっと忘れないものだから、忘れないために砂名と名付けたのだって。そのロマンチックな話を聞いて、自分の感性は命の火が灯った瞬間からもう授かっていたものなんだって実感した。私は熱帯の星空の下、砂の温もりの中で生まれた子どもなのよ。』


 週末、ようやく仕事もひと段落つき俺は時間をつくれた。でもSANAにも誰にも告げず、その余暇をただひたすら絵を描き続ける時間にあてた。描きながらSANAを感じて過した。止まらない衝動はもう、寝る間も食べる間もたばこを吸う間も無くすほど、没頭するがままに描き続けた。それでも仕上げるまでにはまだ相当の時間がかかり、仕事が始まった平日に戻っても創作のボルテージは下がらなかった。残業などいそいそと終わらせ即座に家に帰り、描きなぐっては夜が更けていく日が幾日か続いた。
なんだか絵を描き上げられなければ、もうSANAには会えないような緊迫に迫られているようでもあった。一種の神がかり的な時間だったのかもしれない。

 木曜の夜にはやっと、あとわずかに仕上げを残すまでにこぎつけるに至った。奇しくも翌日はSANAのステージの日。用意されたそのお膳立てに、俺たちはただ自分らの感性を委ねればいいように、運命はやはりいたずらに決定づけられていたのだろうか。

 だが、そこまで出来上がってからはずっと、そのまま仕上がり直前の絵を見つめるだけに時を重ねた。あとほんの数カ所に筆を入れれば全くの完成だったのに、そのわずかの力を注ぐ勢いを溜めて、安易に沸き立たたせないようにした。一筆も進行させぬままにまんじりともせず朝を迎えた。

 結局のところその日は仕事も休んだ。どうしても最後の息吹を吹き込むために、その期が熟すまで、待ちたかった。俺ははじめて店を訪れて以来、SANAの歌を聴いていない。今日こそは完成を間に合わせ、もう一度SANAの精魂の歌に浸って高揚を得たかった。
ふつふつと最後の時を待ち、ゆっくりと、除々に沸騰点まで高まる神経を感じて、集中力は高まっていく。最後の瞬間をスポーツに例えるならば、マラソンランナーのラストスパートをかけたトラックランような感覚に近いのかもしれない。苦しいというよりも、もう既に気持ちは達成へと向かってゆく最後の全力疾走。

 いつの間にか、窓からさす西日は長い影を落として部屋を茜色に染めていた。その一筆を描くべく時間を告げるように。俺は、最後の絵の具を溶かし始める。



収納場所:2001年11月13日(火)


 
 
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