初日 最新 目次 MAIL HOME


I'LL BE COMIN' BACK FOR MORE
kai
MAIL
HOME

2014年08月29日(金)
『グランギニョル未来』

『グランギニョル未来』@ヨコハマ創造都市センター(YCC)

帰宅後『墜落の夏』『死は「終り」ではない』(山川千秋氏の著書)を急ぎ再読。何故「富士山」が「国会議事堂」になったのだろう。そして思えば山川さんのお母さまは元CAだった。

椹木野衣による脚本を飴屋法水が演出する。当日パンフレットの椹木さんのテキストによると「東日本震災後、初の大規模な発表となった『じ め ん』(2011年)に始まり、『わたしのすがた』(2012年)(注:2012年と書かれているが、実際に開催されたのは2010年だ。私が観たときの感想はこちら→1回目2回目)、『いりくちでくち』(2012年)を経て、第58回岸田國士戯曲賞を受賞した『ブルーシート』(2013年)に至る劇作家としての飴屋の近年の活動を、批評家として、もういちど捉え直す必要を感じ」たとある。飴屋さんの活動は「物質とのせめぎあいのなかで身体を酷使する残酷劇であると仮定し、この芸術家が最初に主宰した劇団『東京グランギニョル』以来、一貫してグランギニョル劇であり続ける」。そして「東京グランギニョルをめぐって、しばしば話題にのぼる」「世紀末的な少年愛による退廃的な美の世界」は「創作家としての飴屋本来の資質によるものではない」。これにはピンとくる。

YCCにはどんなひとたちがやって来たのだろう。東京グランギニョル復活を期待してきたひと? “伝説”の東京グランギニョルに興味を持ったひと? 古屋兎丸版『ライチ☆光クラブ』から東京グランギニョルを知ったひと? 岸田戯曲賞を受賞した飴屋法水が、新作を上演すると言うので観にきたひと? 椹木さんが書いた脚本には、飴屋さん自身が書いた作品からの引用もあり、モチーフも多岐にわたる。そこへ日本航空123便墜落事故や足尾銅山の歴史が絡んでくる。今回の上演は単作では捉えきれない多様な検証に満ちていて、当事者以外が全体像を見渡すのは非常に難しい。

しかし、飴屋法水と言う身体、山川冬樹と言う身体を通した剥き身のグランギニョル(残酷劇)として観ることが出来る。ふたりの出会いは、お互いの創作にとって、そして人生にとってもかなりおおきなできごとだったのだろう。身体を追いつめ、そこで何が起こるかを見詰める。それが作品になる。ふたりをヤマカワ(山川)、アメタニ(雨谷?∽飴屋=アメヤ)と対立した存在で描き、山、川、雨、谷の自然のなか、ヤマカワはそこに生きる狼としてアメタニとこどもたちに吠える。日本語、英語(航空用語としての)と言った言語と動物の咆哮。現われる秩父前衛派、ササクボさんが語る、秩父で起こったとある不思議な出来事、演奏されるフォルクローレ。スピリチュアルな要素もあるが、それをスピリチュアルと言う名前で片付けることはしない。宗教と言う名前を持たない信仰、生きることの前提としてある身体。人間と言う生き物、容れ物を通し、「君は人間か?」と問う。

山川さんはなにごとにも全身全霊だ。日常を知ることはないが、作品を発表しているときの彼はいつもそうだ。距離をとって観ているのに気圧される。恐怖を感じる。消耗も相当激しいと思う。三公演と言う数に納得し、追加で一公演増えたことに不安を感じる。全ての公演が無事終わりますようにと祈る。

驚いたのは、そんな彼に対峙するくるみちゃんだ。落ち着いて彼に言葉を返す。自分が七歳のとき、こんな行動が出来ただろうか? いつもは優しく接してくれる(であろう)ともだちの山川さんが、暗闇で髪を振り乱し、もはや人間の姿ではないような形相で迫るのだ。思わず後ずさってしまいそうだ。しかし、彼女は凛とその場に立っていた。山川さんが今生きる姿に、しっかりと向き合っているように見えた。そして『教室』で明かされていたが、彼女が初めて話した言葉は「あめ」だったのだ。アメ、アメタニ、雨、谷、アメヤ。

飴屋さんの活動を網羅出来てはいないが、個人的に『グランギニョル未来』は『バ  ング  ント展』からの九年間、について思いを巡らせる作品だった。あの日のことは今でもよく憶えている。P-HOUSE迄の強い日差し、じりじりと肌が灼ける感触、セミの声。真っ白な会場と箱、箱のなかから発せられているけはい、箱の壁面をだいじそうになでるコロスケさん。まだくるみちゃんはこの世にいなかった。

『グランギニョル未来』にも登場し、アメタニはここで死んだと言われた白い箱。そこから出てきた飴屋さんは演劇活動を再開する。『転校生』(初演再演)、『3人いる!』(1回目2回目)、『4.48サイコシス』。振り返ると『転校生』の演出を依頼した方(追記:SPACの宮城聰さんだったろうか?…と自分の日記を読み返してみて、宮城さんだったと思い出す・恥。twitterでご指摘くださった@ne65wさん、有難うございます)と、Festival/Tokyo(F/T)09〜13のプログラム・ディレクターを務めた相馬千秋氏の慧眼に瞠目する。『ソコバケツノソコ』にバケツが登場し、『BLANK MUSEUM LOOKING FOR THE SHEEP day1』の「馬」から戦争を、『302号室より』から航空機事故を思い出させる。断片が繋がっていく。飴屋法水と言うひとりの人間、その家族と呼ばれる存在。この九年間で、家族は増え、そして減った。次々と起こる災害と、これから起こりうることへの不安を抱え、家族は集まり、やがては散っていく。椹木さんは、飴屋さんの個人史をひとつの作品にまとめたとも言える。これからも更新されていく個人史を。そして、彼の周りの共同体を。ほんの些細な行き違いや、事故によって瞬時に失われる共同体。一緒に過ごした時間は、記憶に留められるのみだ。

飴屋さんも山川さんもそうだが、Phewさん、zAkさんと言ったひとたちが扱う「音」は記憶への定着力がとても強い。出演者にクレジットされていた(当日知った)、ホンマタカシさんがシャッターを切る音も記憶に残る。フラッシュの光に視界が覆われ、被写体の顔が白飛びする。『バ  ング  ント展』にもあった、顔のない肖像写真。写真のなかの家族の肖像は、どこの家族か判らない。そこに自分がいるかも知れない。共同体が過ごした夏は、光とともに記憶に焼き付けられていく。

台詞そのものは聴き取り難い箇所が多く、戯曲(『新潮』2014年10月号に掲載)が待ち遠しいところ。この作品のことは、考え続けていくと思います。