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2011年09月17日(土)
― 宮澤賢治/夢の島から ―『わたくしという現象』『じ め ん』

― 宮澤賢治/夢の島から ―『わたくしという現象』『じ め ん』@都立夢の島公園内 多目的コロシアム

フェスティバル/トーキョー(F/T11)開幕作品、ロメオ・カステルッチと飴屋法水作品の二本立て。

新木場から夢の島公園へと歩く。普段新木場に来たとき向かうスタジオコーストとは反対方向、初めて通る道だ。ひとが徐々に増えていく。1000人を越える観客たちがこの作品のために集まっている。今回のオープニングは規模が大きい。その1000人を越える観客が共に体験する作品世界も、スケールがデカい。

事前にアナウンスされたことは、雨天決行荒天延期または中止。演出の都合上、観客が場内を移動し乍ら観劇する。演出の都合上、出来るだけ両手が自由になる荷物で来場してほしい。客席はなく地面に座って観るのでそれに留意した格好で。敷物は入場時に配布する。

入場時配られたその“敷物”は、ビニールで出来た大きな白い旗だった。係員の案内に従ってコロシアムへ入る。中央には椅子が並べられている。なんだ、客席があるじゃないか。しかしそこへは誘導されず、コロシアムの外周を歩かされる。デモのイメージが重なる。何に対するデモかは、今現在の日本の状況から考えると大概ひとつの答えに辿り着く。葬列のイメージもある。これはロメオの演出?飴屋さんの演出?既に観客は作品に参加している。途中隣を歩いていた男のひとから「このままずっと歩くだけで(上演)終わっちゃったりしませんかね…」と声を掛けられる。「有り得ますね」と言ってお互い笑う。一周程したところで、この辺りに座ってくださいと言われる。旗を敷物代わりにして座る。この敷物は、地面の水分や泥を遮るだけのものではなく、目に見えないものに触れないようにとのコンセプトもあるだろう。

いつの間にかコロシアム中央の椅子にはひとりの男の子が座っている。小山田米呂くんだろう。飴屋さんが近付いてきて、彼をビニールのようなもので包み込み、離れていく。入場時からずっとコロシアムを取り囲んだスピーカーからノイズが流れていて、神経に障る。落ち着かない。

そうこうするうちノイズが大きくなり、男の子が座っている以外の椅子が動き出した。最初はひとつふたつ椅子が倒れ、何?と思う間もなくずるずる、ずるずる、と次々椅子が流されていく。実際にはどこかから引っ張って椅子の並びを崩していっているのだろうが、流されていくように見えるのだ。深読みしてもしょうがない、これは素直に見るしかない。津波のイメージだ。数百脚はあっただろう密集した椅子の集落が少しずつ、しかし確実に壊滅していく。観客のエリアは海側になる。流されていく椅子を見送る。ひたすら、ただただ見送る。男の子だけが中央に残る。グレゴリオ聖歌だろうか?荘厳なチャントが場を満たす。

椅子が流されていった森の奥から煙が上がっている。否応なく津波後の火災を連想する。そこから大人たちが現れる。男の子は、大人たちの方へと歩み寄って行く。大人たちは男の子を迎え、彼を包んでいたビニールをとき、身体を緑に染め、最終的には青い姿に変える。風が吹き、空の雲がどんどん流されていき、自然光がみるみる姿を変える。男の子は大人たちとともに森へと消える。ひとすじのレーザー光が夜空へと伸びていく。

20分の転換休憩。

演出家ふたりがお互いの作品に出演すると発表されていたので、この前半がカステルッチの作品だろうと思う。しかし、それにしても飴屋さんの作るものと非常に似通っているところが感じられ、しばらく判断がつかなかった。飴屋さんならこの選曲はないだろう、飴屋さんだとレーザーは使わないだろう。しかし手法が違えどとても通じるところがある。音響にしてもそうなのだ。スピーカーの配置の仕方、あのノイズ、音の鳴り。

後半、前半にも出てきた男の子がシャベルを持ち現れる。穴を掘る。自分の墓穴を掘ると言う。墓標となる枝を挿し、猿のマスクを被せる。あ、猿の惑星だ。マイロ、コーネリアス。名前の由来、生まれた年。彼は先生として現れた女性と対峙し、自分のことを話す。女性は英語で応える。最近の飴屋作品には欠かせない村田麗薫さんの鈴を転がすような声が、それを日本語に訳し、観客に伝える。戦争について話す男性の声が流れる。限界だった、戦争を終わらせなければならなかった、と言ったようなこと。これは誰へのインタヴューなのだろう?

反対側のエリアでは飴屋さんが穴を掘っている。彼らの間を縫うように、こどもたちがガムランの楽器を演奏し乍ら行進する。飴屋さんはやがて、自分の父親の話を始める。彼の職業、彼の記憶。飴屋さんの苗字の本名を作品上で初めて聴いた。

猿たちがモノリスらしき巨大な板を運び込む。飴屋さんとカステルッチは日本とイタリアの葬儀について会話する。土葬、火葬、ミイラ。骨が奏でる音について。日本の墓は地中にあるが、イタリアは地上にある、等々。原子爆弾のモチーフが姿を見せる。モノリスに映し出される天気図に、大陸はあるが日本列島がない。米呂くんが淡々と話す。夢の島の由来。2011年、僕は10歳。2021年、僕は20歳。……50歳になったとき、日本はもうないと。椹木野衣氏から飴屋さんへ宛てられたメッセージが朗読され、それが何故ガムラン音楽なのか、に繋がる。熱帯の生命力。飴屋さんがモノリスに呑み込まれる。こどもたちは行進する。ちいさな足がじめんに立ち、じめんを踏み進んでいく。

宮澤賢治の作品から、カステルッチと飴屋さんが現在へと映し出した世界は、死のイメージで充満していた。それは自然の必然なのだ。ひとも、土地も、全ての命はいつか終わる。しかし自分が死んでも、こどもたちはこれから成長して歳をとっていくのだ。それは続いていく。未来へ繋げていかなければならないものがある。生き残った者は死者を弔い、未来へ生きるひとびとへ祈る。無事で、無事で。

終演後公演クレジットが記載されたリーフレットをもらう。両作品のサウンドデザインはzAkさんだった。カステルッチと飴屋さん、そしてzAkさんの、現在を聴く耳と言うものの繋がりがこう鳴るんだと恐ろしくもあった。

自然と共演すると、それがどんなものであれすごいものになる。酷い目に遭わされることもあると言うことだ。安定感は皆無。抗うことなく波に乗れば、今夜のような体験が出来る。この波に乗ることが出来る演出家はそう多くない。結果的には、まるでこの作品のために用意されたかのような不安定で絶妙な天気になった。穏やかではない、風が適度に強い、雲が多い空。しかし雨は降らない。夜空に浮かぶ星も見え、灰色の雲が流れるスピードが速く、バッタが飛びまわり、鳥の声が聴こえてくる。初日の金曜日は、公演後の夜中に土砂降りになった。

カステルッチと飴屋さんなら、例え雨天になったとしてもすごいものを見せてくれただろうと、今なら思える。しかし雨天になると出演者スタッフともに負担が恐ろしく増すので、この二日間の天気がもって本当によかった。制作も勇気がいったと思います。F/Tはいつもチャレンジングなものを見せてくれる。今回の野外3演目は全て観る予定、まだまだ楽しみは続きます。