無責任賛歌
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| 2005年01月29日(土) |
誰の名前を書きますか/映画『僕の彼女を紹介します』ほか |
CS日本映画専門チャンネルで自作他作を含めての三谷幸喜特集。 朝からぶっ通しで見るが、それの感想を全部書いてる余裕はないので殆ど省略。見たことのある映画が多かったから、今更書くのもしんどいのである。 東宝のクレージー・キャッツシリーズ、若大将シリーズ、駅前シリーズ、社長シリーズは、もう本数がありすぎて内容も全部似ているもので、いったいどれだけ見ているのか自分でももう分からないのだけれども、『社長漫遊記』は、多分中学生か高校生のときにテレビで見ている。宴会芸で三木のり平の天草四郎が加東大介のキリストに向かって「あんたキリストさん?」と声をかけたら「イエス!」と答えるというしょーもないギャグを覚えていたのだ。けれど若戸大橋の開通時に製作された作品だったことは忘れていた。「今度若松と戸畑が合併して北九州市になるんですよ。市庁舎は戸畑にできる予定です」とか三木のり平のセリフにあったけれど、「あれ? 小倉、八幡、門司は?」と首を捻ってしまった。もしかして五市合併する以前は、分割合併の予定でもあったのかと調べてみたら、確かに合併に関してはかなり紆余曲折があったようで、若戸大橋開通時にはまだ五市合併は成立していない。 〉1962年 若戸大橋が開通。(昭和37年9月26日) 〉1963年 門司市、小倉市、戸畑市、八幡市、若松市の5市が対等合併。 してみると、この映画、北九州の歴史の1ページを偶然記録していることにもなっていたわけだ。 けど、若松で芸者にふられたモリシゲ社長が、シオシオになって博多のホテルに帰ってくるって、距離的時間的に見てムリがあるぞ。新幹線も通ってない昭和37年当時、若松・福岡間は快速に乗ったとしても乗り換えもあるし2時間はかかったはずだ。夜行に乗ったのだとしたら、もちっと早かったかもしれないけれど、それにしても遠い。なんでわざわざ博多にホテルを取るのか。それとも当時の若松にはホテルがなかったのか。……今度よしひとさんに聞いてみよう。まだ生まれてなかったろうけど。
昼からしげを誘って、公開後一ヶ月を過ぎてヒット中ではあるけれども、そろそろ終映が間近の韓国映画『僕の彼女を紹介します』をキャナルシティまで見に行く。 韓国映画をあまり見たことがないので(なぜかしげが毛嫌いするのである)、さて、どんなものだろうと思っていたら……。しげは見終わったあと「2時間が5時間のようだった」と怒り心頭に発していたが、実際、周囲でグスグス泣いてた観客がやたらいたのが信じられないくらいにみょうちくりんな映画なのであった。 こないだテレビで見た『猟奇的な彼女』がまあまあ面白かったので、今回もちょっと期待したのだが、ともかく脚本が右往左往していて締まりがないというのが見ていてツライ。ヒロインが恋人と出会い、恋人の死に直面して苦しみ、新しい恋に生きるまでを描く、という流れを描くつもりなら、それだけでストレートに描けばいいんで、その中に「怪談ばなし」を長々と持ちこむもんじゃない。 つまりどういうことかというと、恋人が死んで絶望のあまり、ヒロインは何度も自殺しようとするんだけれども、これがなぜか毎回毎回失敗するのである。薬を飲んでも医者に胃洗浄受けて助けられてしまうし、ビルから飛び降りようとしても、家出少年に絡まれて飛び降り損なう。ここなら誰もいないだろうと超高層ビルから飛び降りるのだが、突然ハトの群れが飛んで来て風船がいっぱい飛んで来て掌形のアドバルーンも飛んで来て、ヒロインを受けとめるのである。……こんなんギャグじゃないかと思って吹き出しそうになったんだけど、回りがみんな泣いてるのよ。こんなデタラメな展開でなぜ泣ける? わからーん! 実はそれは死んで「風」になった恋人がヒロインを助けていたのだが、恋人は自分が風になった証拠に、昔、自分が雑誌のページを破って作った紙飛行機をヒロインの側で飛ばしてみせるのだ。不思議なことにヒロインが紙飛行機を開いて元の紙に戻しても、なぜかまたヒロインが危難に陥ると、どこからともなく折られた紙飛行機が再び飛んで来る。……風は折り紙も折れるんかい。 恋人が死んで49日目、奇跡が起こって恋人が肉体を取り戻し、あの世に行く前に最後の抱擁をヒロインと交わすのだが、まあこれは露骨に『ゴースト ニューヨークの幻』のラストだわね。でも、アレは死んだ恋人の方がいかに自分が幽霊になってヒロインを守っていることを信じさせるかって設定だったから幽霊の存在を信じられたし、ドラマチックにもなったのだけれど、ヒロインの立場から描いちゃったら、身の回りでポルターガイスト現象が起こってるだけやんか。ヒロインは風が恋人かどうか確かめようと部屋中に風車を差しまくるのだけれど、窓を開けると突風が吹いてきて何百個という風車をいっせいに回す。……これってホラーの演出だってば。よくヒロイン、怖がらないよなあ。 ヒロインは「どうしてももう一度恋人と会ってみせる!」とタンカを切って、あえて危険な任務に就き、麻薬密売犯に撃たれて生死の境をさまよう。そのとき「恋人は実は生きていた」という夢も見ているのだが、一連のキテる行動を見ていると、風だのなんだのという現象は、全てヒロインが見ていた夢か幻だったんじゃないかとすら思えてくる。……だってハトと風船とアドバルーンが協力してヒロインを助けるなんてオバカな展開、夢以外の何でありえる? それともこういうバカな展開を「純愛の奇跡」なんて受けとめられちゃうのが日本と韓国の文化の違い? ……いや、場内で泣いてた人間もやたらいたから、日本人でもこれを楽しめちゃう人は結構いるんだよなあ。いや、私もある意味楽しんじゃいるのだが、この感覚の彼我の差はなんなの。分からん。 ラストはなんと『猟奇的な彼女』にリンクするという驚きの展開なのだが、キャストは同じでもキャラクターは違ってると思うけどなあ。 まあこれはヒロインのチョン・ジヒョンをカワイイと思える人にとっては楽しめる映画ってとこですかね。コスプレもあるし。
「大場つぐみ=ガモウひろし説」の興奮も覚めやらぬ今日この頃ですが(私だけ?)、『デスノート』関連の微笑ましいニュースが、なんと中国で。 遼寧省瀋陽市の文具店が、“名前を書くだけで相手をのろい殺せる”という触れ込みの「死亡筆記」というデスノートそっくりの商品を販売したところ、これを小中学生たちがこぞって買い求め、その光景を地元紙が報じたことで、これを規制すべきかどうかという論争が起きているのだそうな。ノートは数ページおきに「最初に死因を、後から名前を書けば相手は40秒後に死ぬ」と説明が付いているそうだから、明らかに「デスノート」のパクリなのである。 多分、日本でも似たような商売を考えついたアコギな人間はいっぱいいたんじゃないかと思うが、集英社がそんな商品の製作を認めるはずもないし、出すとしたらやっぱりウラでやるしかない。でも摘発されたときのリスクを考えたら、単価は安かろうし、ペイしそうもないや、と判断してみんな遠慮したんだろう。DVDの海賊版と同じようにはいかないのである。 その点、お隣りさんは相変わらず遠慮がないというか、底辺で生きてる人たちはおよそ考えられる限りの非道な振る舞いを平気でするのである。これを買った子供たちが、陰気な遊びに興ずることを承知の上で売ってるわけだし、そのもとになったのは中国人が日ごろ文化的に見下すことの多い日本のマンガである。日本の文化侵略を実質的に認めてることにはならんか。思想的には反日でも、商売となると親日。なんかの本で「中国人の二枚舌」のことが書かれてあったけれども、こういうバイタリティーはある意味、日本人も見習わなきゃならん面もあるのかも。実際、見習い過ぎてる人もたまにいるが。
以前、日記に書いたことがあったような気がするが、『デスノート』というマンガの怖さは、「もしも本当にデスノートが存在したとしてそれを手に入れたら、自分はそこに誰かの名前を書くだろうか」と自問自答させられることである。『デスノート』の基本アイデアは、藤子・F・不二雄の『ドラえもん/独裁者スイッチ』や『ウルトラ・スーパー・デラックスマン』『神さまごっこ』と同じで、「絶大な力を与えられたものはどうその力を行使するか?」というテーゼを、最も象徴的な形で凝縮したものだと言える。……さあ、この誘惑に勝てるかどうか、正直な話、私には自信がない。自らの正義を信じて「キ○・○○○○○」くらいの名前は書いてしまいそうになる。もちろんその瞬間に「独裁者」と化すのは私自身であるわけだが。 「いいじゃん、書いても。殺したいやつがいない人間なんていないだろ? キレイゴト言うなよ」という声も私の心の中にはあるのだが、「絶対に誰の名前も書きたくはない」と考えることは果たして本当にキレイゴトなのか。ノートが実在したとして、それが大量にばら撒かれたら、確実に人間は滅亡する。ノートが夜神月ほか、少数の人間にしか与えられていない「特価」的なものであるからこそ、あのドラマは成り立っている。だとすれば、ノートが与えられた時点で、その人は神、ないしは悪魔に等しくなったようなものだ。脆弱な精神しか持ちえない人間に、果たしてそのプレッシャーに堪えることができるのか? 嫌いなヤツだけを消し去るだけに留まらず、自暴自棄になって全人類を消し去ったのび太のようになるか、筐底の奥深くノートを仕舞いこんで封印するか焼き捨てるか、どちらかになるのが落ちではなかろうか。夜神月は、既に前者の道を歩き始めている。 自らが神となるか悪魔となるかの選択を与えられて、あえて書かない道を選ぶのは、善人ぶっているわけではない。「恐怖」からの逃走である。
もちろん、「擬似デスノート」で人が死ぬことはありえない。その事実を前提として知っているからこそ、子供たちは平気でノートを使える。中学生の一人は、「たくさんの友達がデスノートを持ってるよ。勉強に疲れた時とか、嫌いな先生の名前などを書いて遊んでるんだ」と話したという。それはまさしくただの「遊び」にすぎない。しかしおそらく、日本人の大多数がここで、忌まわしく忘れてしまいたい“あの”事件を思い出したのではなかろうか。 1986(昭和61)年2月、東京都中野区立富士見中学校2年生の鹿川裕史君(当時13)が、「葬式ごっこ」などのいじめのために首吊り自殺をしたあの事件である。事件後、教師も含めて、いじめに加担したクラスの人間たちは、「あんな『遊び』で鹿川くんが死ぬなんて、誰も想像していなかった」と口々に言っていた。「あてつけで死んだんだ」と非難する者さえいた。あの事件を聞いたときに感じた怒りと似たような感情を、今回も感じた人はいなかっただろうか。 デスノートの流行と、「葬式ごっこ」とは、「遊び」や「冗談」が人間の死に繋がる可能性を考えない、想像力が欠落している点で同根のものであるのだろうか。それとも実際にデスノートの流行で人が死んだわけではないから、これと葬式ごっこは似て非なる別のものであるのだろうか。 私は二つのものは同質のものであると考える。ただしそれはいじめの加害者やデスノートの購入者に、想像力がないからではない。彼らには逆に、悲しいほどに想像力が横溢しているとさえ言えるのである。
たとえデスノートが販売されていなくても、自分で勝手にデスノートを作って引き出しに仕舞っている子供たち、あるいは大人は、日本中にたくさんいるのではないか。 実を言うと私も、「いつか殺してやるリスト」「こいつだけは許さないリスト」なんてのを小学生のころには作っていた。ただし「作っていた」とは言っても、それは「心の中に」であって、具体的にノートに書いておいたわけではない。 別にそれを実際に書いたとして、もしも人に(具体的には親に)見られて「ウチの息子は他人をこんなに恨むような卑劣な人間なのか」と思われたらどうしよう、なんて思って怖がっていたからではない。もしも、万が一、たとえ一億分の一以下の可能性であったとしても、「その“恨み”が現実化したら」と想像すると、まさしく自分自身の「恨み」の強さに自分自身が押し殺されてしまうように感じたからである。 私は「絶対に死んでほしい」と思う人間の名前しか心のノートに書きはしなかった。だから思うのである。鹿川くんの事件の子供たちが、「まさか死ぬとは思わなかった」と口々に言っていたのは絶対にウソであると。「『まさか死ぬとは思わなかった』という言い訳が成り立つと知っていたからこそ、“本気で”鹿川くんの死を願っていた」のだ。それが「人間」というものだ。
デスノートを今買っている子供たちが、どうして心のノートに殺したいやつを書きとめるだけでガマンができないのか、そう考えてみればいい。既に彼らは「想像」から「実行」に一歩踏み込んでいる。「『これで人が本当に死ぬわけがない』という言い訳が成り立つから、“本気で”ノートに名前を書いている」のである。鹿川くんの事件は、鹿川くんが死ななければ事件になるはずがないものだった。デスノートの件だって、人死にが出なければどうということがないが、そのノートを「ほら、おまえの名前をノートに書いてやったぜ」と当人に見せつけるやからなど絶対に出て来ないと、どうして断定できるだろう。それが誰かの死に繋がらないと、どうして言いきれるだろう。「書く」という行為と「思う」という行為は決定的に違う。「読まれない」ことを前提にした文章などはありえない。書かれたものは、たとえその読者が「人間」ではなかったとしても、必ず「誰かが」読むものなのだ。「呪い」がたとえ何十億分の一であっても「実効力」を持つのはそのためである。
これも何度となく書いていることであるが、私も、この日記を公開している以上は、私の文章を読んで傷つく人間、怒る人間、あるいはショックで死ぬ人間が出る可能性を覚悟して書いている。どんなに注意を払って、人を傷つけないやさしい文章を書こうと努力しても、最終的に文章を受け取る人間は、自分の思いたいようにしかその文章を受け取らない。こちらが「遊び」や「冗談」のつもりだろうと、結果として“本当に”被害者が出てくれば、私は何らかの「処罰」を受けるか、あるいは自らの手で自分に裁断を下さざるをえなくなるのだ。それは責任を取る、ということではない。他者を傷つけた者に回復できる名誉、取れる責任などは存在しない。これも何度も言っている通り、簡単に「責任ある行動を」などと嘯く人間はこの世で最も信用ならぬ人間である。罰か死か、選択はそれしかないのだ。
だからと言って、私はノートの販売を教育上問題があるから禁止せよと言うつもりはない(いや、パクリだから、ちゃんと取り締まらなければならないのだが、それは置いといて)。中国の遼瀋晩報は、「ノートは邪悪な心を植え付ける毒薬」と批判しているというが、それは違う。人間はもともと邪悪なのだ。だからこそ「デスノート」の意味を、それを手にしたものが実感できるようにためしてあげなければならないと思う。こういう注釈をノートに書いておいたらいかがだろうか。 「このノートに名前を書いたからと言って、本当に人が死ぬわけではありません。ただし、万が一、本当に死んだ人が出たとしても、当社とこのノートには何の関係もなく、一切の責任を負いません。殺したのはあなた本人の力です」と。 インターネットの書き込みには、「そうして過剰反応するから中国には斬新な感覚が育たないのだ」などの声が続出しているそうな。別に「呪い」とか「死のノート」なんてアイデアは斬新でも何でもなかろうに(『デスノート』が面白いのは基本アイデアではなくてあくまでドラマ展開である)、そんなことも分からないから中国には斬新な感覚が育たないのであろう。 さて、改めてみなさんに問いたいが、もし『デスノート』が実在していてそれを手に入れたとしたら、あなたは本当にそこに誰かの名前を書きますか?
2004年01月29日(木) 長いようだが、前に比べりゃあっさりしてます。 2003年01月29日(水) 雪がとっても白いから/『あひるの王子さま』5巻(森永あい) 2002年01月29日(火) 休み過ぎだって自覚はあるのよ。一応。/DVD『フランケンシュタインの怪獣 サンダ対ガイラ』/『西岸良平名作集 蜃気郎�供戮曚� 2001年01月29日(月) 癒し癒され恋焦がれ。/アニメ『地球防衛企業ダイ・ガード』13巻ほか
| 2005年01月28日(金) |
映画をイデオロギーのみで見てしまうことの愚/映画『パッチギ!』 |
なんとか週末まで凌いだが、今日はしげの方がダウン。迎えに来る元気がないというので一人で帰る。あとで一緒に映画でも見るか、と誘ったが、それも断わられた。また心のバランスが崩れて夕べは一睡もできなかったそうだから、今日は昼から寝込んでしまっているのである。でも眠れなくて次の日眠り込んでるんだったら、やっぱり眠っているわけで別に不眠症ってわけじゃないと思うんだが、これって心のバランスよりからだのバランスの問題じゃないのか。
博多駅、シネリープル博多で、映画『パッチギ!』。 タイトルの「パッチギ」はハングルで「頭突き」のこと。朝鮮人にとって頭突きはなんかアイデンティティーに関わる文化なのか? よく知らんけど。
在日朝鮮人を題材として扱っているとなると、その批評はどうしても「思想」がらみで語られてしまうことが多い。Yahoo掲示板の批評、感想の中には絶賛もあれば罵倒もあるが、罵倒の殆どが「思想」がらみの発言であった。脚本だの演技だの演出だのについての批判が出て来ないあたり、通常の映画の鑑賞とは全然違った捉えられ方をしている。それはこの映画にとってはかなり不幸なことである。
正直な話、私も見る前は露骨なプロパガンダ映画になってたらどうしよう、と危惧していたのだ。実際に見てみると、確かに日本の過去の罪を糾弾する描写が若干ありはしたものの、しつこく感じるほどのものではなかった。この程度の映画を思想的に偏向している映画であるかのように非難するのは、神経過敏に過ぎまいか。映画も含めて全ての芸術活動が時代の産物である以上は、政治と全く無縁であることは不可能ではあるが、かと言って、「政治のみ」で穿った見方をしていいってものでもない。絶賛も罵倒もこの映画に関して批評している人間は、著しくその精神のバランスを崩しているように思う。 もちろん、「なんで北朝鮮の肩ばっかり持ちやがるんだ」という意見が出てくるのは理として分からなくはない。私も映画を見ていて一瞬眉を顰めたのは、ヒロイン(在日朝鮮人)が主人公(日本人)に「ふたりがいつか結婚するとして……あなた、朝鮮人になれる?」というセリフだった。聞いた瞬間だけではあるが、「相手を自分に合わせることだけ考えて、おまえは日本人になる気はないのかよ」と突っ込みたくなったわけである。けれど、現実問題として在日朝鮮人の方から日本人になることは周囲から「迎合」と見なされるので、簡単には言えないという事情も分かりはする。それにこれは、民族としてのアイデンティティの問題でもある。プロポーズされているのは自分の方なのだから、ここで「私も日本人だったらいいのに」なんてセリフを言ったとしたら、あまりにリアリティに欠けるというものだ。 「在日朝鮮人はどうして帰化しないのか?」という疑問は、短絡的というよりもパトリオティズム(自国に対する誇り)が理解できないゆえのもので、そういうセリフを口にする人は、「日本は実質アメリカの属国なんだからさっさとアメリカの州の中に入れてもらえばいいんだ」と言われても怒りもしないのだろう。いや、そう言われて腹が立つっていうんだったら、朝鮮人に対しても同様のセリフは言っちゃいかんだろう。他人の傲慢には憤っても自分の傲慢は見逃すというのでは人間としての格が低過ぎるというものである。
でもほかにも見ていて「なに言ってやがる」と思ったシーンはあった。 登場人物の一人(在日朝鮮人)が事故で死んだあと、葬式の席で遺族たちが、主人公(日本人)に強制連行の話を持ち出し、涙を流しながら「帰れ」と怒りをぶつける場面である。 この映画の時代設定は1968年、作中で語られることはないが、当時既に北朝鮮による日本人の拉致は行われ始めていた。我々観客は、当然、そのことを知った上でこの映画を見ているのだが、井筒監督、そういう観客の心理状態まで考えずにこのシーンを撮影したのではないかと訝んでしまう。 在日朝鮮人でも拉致に加担していた人間、工作員のスパイ活動に密かに協力していた人間もいたはずで、それは葬式に集まっていた人々の中にも混じっていたのではないか、どうしてもそのように感じてしまうのだ。となると、「あんたたち日本人は何も知らん」と、笹山高史が切々と「強制連行」という“過去”の日本人の非道をなじる言葉も、言葉通りに素直には受け取れない。「拉致」という“現在”の北朝鮮人の犯罪を隠蔽しようとしているかのように聞こえてしまうのだ。また、連行の問題についても全てのケースが「強制」だったとは言いきれまい(逆に全て「強制ではなかった」と断定するのも強弁に過ぎるが)。 更に言えば、確かに死んだ在日の人物は日本人との抗争の最中に命を落としたのであるが、直接の死因は不慮の事故なのであって、日本人に殺されたわけではない(だから警察も動かない)。遺族が主人公に恨みをぶつけるのはお門違いなのである。笹山高史さん、すばらしい演技を見せてくれているんだけど、見てるこちらは「いや、それ違うって」と突っ込まざるをえないのであった。
けれど、だからと言ってこの映画の「全体」が親北朝鮮に傾いているかと言うと、それもまた違うのであって、先述した「葬式の席で主人公が遺族になじられる」シーンは、実は映画の構成上では「旧世代の無理解」として描かれている。 主人公は、朝鮮学校の少女に恋をして、自分も在日朝鮮人の人たちの気持ちがわかるようになりたいと思っている。そんなときに知ったのが放送禁止歌『イムジン河』だった。主人公は南北分断の悲劇を歌った歌を、日本と朝鮮の間に生まれた深い溝を悲しむ歌として受けとめ、歌うようになる。その気持ちに打たれたからこそ、少女も、また少女の兄や仲間たちも次第に主人公に心を開いていくのだが、親たちの世代はいつまでも「過去の亡霊」に囚われたままだ。だから自分たちの主張はするが、他人の言葉は一切聞き入れようとしない。 そんな彼らに、ヒロインの少女は『イムジン河』をラジオで歌う主人公の声を聞かせる。これは、いつまでも「強制連行」に拘り、日本人に心を開こうとしない在日の人々に対する痛烈な批判である。朝鮮人自らが朝鮮人批判をするこの描写をして、「北朝鮮寄りの姿勢」とどうして言えるだろうか。 朝鮮人を批判するためには、まず朝鮮人が何を言っているのか、それを描かなければならない。だから朝鮮人の「強制連行」について在日の人々が語る描写は必須だろう。しかし、それが結果的には日本人、朝鮮人の間の溝を深める原因になっていることを井筒監督はちゃんと描いている。そこまで見なければ、この映画を見たことにはならない。“問題は旧世代の朝鮮人の偏狭さにこそあるのだ”。 これだけ明確に「朝鮮人批判」を行っている映画がなぜ正反対に受けとられてしまうのか、そんな観客・批評家を「映画をマトモに見てねえバカだから」と言いきることも可能ではあるが(先入観が眼を曇らせている可能性もあろう)、それだけでもない。そこには映画自体が持っている「ディテールの魔力」が根底にある。 『ファインディング・ニモ』が「自然を大切に」というメッセージを強く持つ映画であったのにも関わらず、公開後クマノミの乱獲が始まった、という報道を耳にした人は多かろう。観客は映画から「メッセージを受け取ろう」と思って見に行くわけではない。だから全体の構成とか物語とかテーマとか、そういうものよりも印象深い部分的な要素に強く影響を受ける。「クマノミかわいそう」よりも「クマノミかわいい」の感情の方が勝ってしまうことになる。この映画の場合も、笹野さんの名演などがあまりに際だっているので、「映画全体としての主張もそこにある」と勘違いしてしまいそうになるのだ。映画が描いていくのは殆ど「若い世代のケンカの日常」ばかりなのだが、困ったことに、若手俳優が束になっても笹野さん一人の演技に叶わないのである。かと言って、ヘタな役者にあえてこの役を振るわけにもいかない。カメラもその名演に惹き込まれて笹野さんの顔をどアップで映しだしてるからよくないんだが、笹野さんのセリフに「説得力」が生じてしまうのはいかんせんどうにもならない。ともかく映画のディテールにのみ拘って全体を顧みない批評が批評としての意味を持つか、いささか精神のバランスを崩している方はちっとは落ちついて映画を見て頂きたいとだけは言っておきたい。極端な賞賛も非難も、どちらもこの映画の本質を見誤っている点では同じなのだ。 朝鮮高校と地元の高校との抗争、というのは全国各地で起こっていた現象であって、その根底に過去の歴史が関わっていたことは否定しないが、それが全てでもない。言っちゃなんだが現実のケンカなんて、相手が朝鮮人か日本人かというのは殆ど気にしていないか、あるいはケンカを正当化するための後づけのリクツをくっつけただけで、実際には表層的かつ衝動的な「あいつ気にくわねえ」といった程度の、不良同士の低レベルなものである。この映画でも、若者同士のケンカは殆どそういう形で描かれている。だからたとえ主人公とヒロインが恋に落ちても、グループ同士の抗争が解決されるわけではない。『ロミオとジュリエット』のように、お互いが過ちを認めて最後は仲良くなりました、メデタシメデタシという安易な結末ではないのだ。井筒監督がこの映画を北朝鮮プロパガンダ映画、反日映画として作ろうとしたのなら、こんな結末には絶対にしないだろう。 「全体」としてはこの映画、お互いの間にどんな問題があろうと、恋したいものは恋をする、政治とか歴史とか知らねえよ、という能天気なまでの「青春映画」である。それをムリヤリ政治の場に引き出して批評しようというのは、八百屋に向かってなんで肉売ってねえんだと文句をつけるくらいの難癖である。 井筒監督自身は、今の日本の政治に対していろいろ不満は持っているのだろうが、少なくともそれを映画の中にストレートに出すことはしていない。映画をエンタテインメントとして構成する際に、自分の思想の修正も行っていることは明らかである。「オレたち大人は日ごろ、過去の歴史がどうの、現在の政治がどうのと言ってるけど、映画を見にきたお前ら若いヤツラはそんなん気にせんと、好きに楽しんでてええんやで」とでも言いたげなように物語は爽やかだ。井筒監督に対して何か個人的に恨みがある人は、直接、監督に会って文句をつけて頂きたいもので、個人に対する中傷と、映画の批評とを混同させないで頂きたいものである。
……とまあ、『パッチギ!』を擁護するような言い方を長々と連ねはしたが、だからと言ってこれが面白い映画だったかというと、そうでもないんのが困ったことで(^_^;)。 井筒監督は生真面目なくらいセオリー通りのホンの映画を作る人で、しかもその基本にあるのはベッタベタでコッテコテな大阪的人情喜劇である。全体的にソツはないのだが、地味で垢抜けていなくて、ケレン味や意外性の面白さは感じられない。それでも前作『ゲロッパ!』の場合は、西田敏行のジェームス・ブラウンというよくも悪くもものすごいものを見せてくれたのにひっくり返っちゃったのであるが、それ対して、今回はあまりに大人しすぎる。不良同士のケンカも何度も繰り返されると迫力が落ちる。せいぜいオダギリジョーを見ながら「坂崎幸之助」って昔はこんなことしてたのかなあ、と面白がれるくらいか。
映画館を出て、電源を切っておいた携帯を見るとしげから着信あり。 何の用事かと思ってかけてみると、か細い寂しげな声で「どこにおると?」聞いてくる。 「映画に行くって言っとったやんか」 「連絡がつかんけん、事故かと思った」 どうも寝惚けていて、映画に行く前に電話でやり取りしていたことをキレイサッパリ忘れてしまっていたらしい。連絡取った意味がないのである。 あまりに寂しそうな声を出していたので、お土産にマクドナルドのハンバーガーを買っていってやった。なんかまた期間限定でダブルたまごバーガーとかいうのが発売されていて、こないだから「たまごたまご」とうるさかったのであった。
日記を復活してほぼ一ヶ月、けれどその前の休止期間がかなり長かったので、もう読んでる人も少なくなってるんじゃないかと思っていたのだが、アクセス記録を見てみると一日百人は覗きにきていらっしゃるようで、ありがたい限りである(同一パソコンからのアクセスは再カウントされないので、ホントに百人以上の人が来られているのだ)。 と言いながらその大半はGoogle検索の通りすがりさんである。ここ一週間くらいでなんだかなあ、と思うのは、「真野裕子」でアクセスしてくる人がやたら多いことで、一日十件くらい来るのである。 でもそんなんで来られても、ご提供できる情報なんで全然ない。つかあると思って来てるのかよ。「レイクサイド」でも「役所広司」でも「薬師丸ひろ子」でも、全く1件のアクセスもないってのに、毎日毎日なぜか「真野裕子」「真野裕子」「真野裕子」である。 ……まあ、あれでしょうね、『レイクサイドマーダーケース』で被害者役を演じて、美しいヌードも披露されているから、興味を持たれた方が「眞野裕子って誰?」ってことでなんかちょっとでも情報がないかと躍起になって探されておられるのでしょうが、ご苦労様なことでありんす。 もしかしてもしかして、一億分の一か十億分の一くらいの確率で、眞野裕子さん本人が、自分の出演した映画の評判を知りたくて片っ端から調べているという可能性もないわけではないが、ない話であろう。 ……でももしホントにホントにそうだったら面白いから、メッセージを書いとこう。「眞野さーん、あなたのおっぱい、私が今までに見てきたヌードの中でも5本の指に入るほど形がよくってお美しいおっぱいでしたよー(^o^)」。 さあ、みんなも眞野さんのおっぱい拝みに『レイクサイド』見に行こう! ……あ、前回はついうっかり「真野」って書いてたけど、正確には「眞野裕子」でした。旧字体だったんですね。誠に申し訳ありません。
2004年01月28日(水) 何となくな再開。 2003年01月28日(火) 肉は飲みこめ!/『トレイル・オブ・ピンクパンサー』/『機動戦士ガンダム THE ORIGIN ランバ・ラル編 �機Ν供戞憤舵�良和)ほか 2002年01月28日(月) 多分、しょっちゅう見ている夢/『おせん』其之三(きくち正太)/『END ZONE』1巻(えんどコイチ)ほか 2001年01月28日(日) 宴のあと
| 2005年01月27日(木) |
世界の中心で「サイテー」と言える映画/ドラマ『富豪刑事』第3回「密室の富豪刑事」ほか |
一昨日の日記に一部誤りがあったので訂正。 2004年度のサイテー映画を『週刊文春』が発表したって記事だけれど、「文春ラズベリー賞」と書いたのは間違い。正式には「文春きいちご賞」。本家ラズベリー賞をもとにしてるのでとっちがえたのだね。申し訳ありませんでした。m(__;)m それから私はてっきりこれは「『週刊文春』の読者投票」によって決められると思いこんでいたのだが、「映画記者、評論家、20人の投票により決定される」とのことだった。これもどうもすみません。m(;∇;)m となると、一人一人はある程度の数の映画は見てただろうと思われるけれども、1位の『デビルマン』は当確として、2位以下については「もっとひどいのなかったか?」とちょっと首を傾げたくはなる。『セカチュー』におまえら感動したのか? 『スチームポーイ』は? 『IZO』は? 『華氏911』がないってことは「文春」はマイケル・ムーア派か? もっとも、ダントツで『デビルマン』が得票して、他作品はちょぼちょぼでこういう結果が出た、という可能性もありそうだ。八位以下の三作『2046』『キューティーハニー』『リディック』は同点8位のようだから。順位だけじゃなくて、得点数まで発表してくれるといいんだがな。 『デビルマン』の受賞理由は「出演者があまりにもダイコン」。納得だけれども、海外サイトのIMDbでの外人さんの評価を見てみると、「原作知らないで見たけど、結構おもしろかった」という意見もある。やっぱ、日本語の「ああ、オレ、デーモンになっちゃったよ」「サタンだからな」のインパクトの強さは伝わらないんだね。逆に言えば、外国映画を見る時にはある程度であろうとその国の言葉が理解できなきゃ、マットウな評価はできないということなんである。 昨日見た『メリー・ポピンズ』のメイキングで、ディック・バン・ダイクが「批評家たちからは『コックニー訛りがヘタな役者』って言われちゃったよ」と笑ってその「訛り損ねているシーン」を紹介しているのだが、改めて聞いてもどうヘタだかわかんないのであった(^_^;)。ピーター・セラーズみたいに“room”を“leum”みたいに発音してくれるとまだ全然違うって分かるんだけどね。 さて、『デビルマン』のDVDもいよいよ発売されるけれども、さすがにこれを買う勇気は私にはない。みんなで見て笑おうと思っても笑えねーもん。CSで流れるのを待って録画するよ。誰かこいつをスペシャル・エディションで買おうってツワモノはいないか?
薬がまあまあ効いてるのか、とりあえず咳と鼻水は昨日よりはマシ。 なんとか一日仕事をこなせました。
木曜ドラマ『富豪刑事』第3回「密室の富豪刑事」。 ミステリドラマについて批評する際はネタバレ厳禁が鉄則なので、どこがどうよくないのか具体的に書けない場合も多く、ホトホト苦労してしまうのだが、今回はありがたいことにハナから犯人だけはバラしてある。かと言って純粋な倒叙物でもないので、トリックまでは明かせないのだ。ちょっと遠回しな表現になるのはご勘弁頂きたい。
鋳造会社の火災で社長の宮本(中山克巳)が死んだ。焼畑署は、宮本の商売敵・江草竜男(橋本さとし)、幸男(佐藤二朗)、正男(濱本康輔)の三兄弟を犯人だと目星をつけるが、いかんせん証拠がない。富豪刑事・美和子(深田恭子)は、5年前にも江草兄弟の商売敵の社長が焼死していたことを知り、もう一度商売敵を作ってやれば、彼らは同じ手口で犯行を繰り替えすに違いないと提案する。 美和子は祖父・喜久右衛門(夏八木勲)の財産で会社を設立して、自ら社長になりすます。江草兄弟には署の刑事たちが張り付き、猿渡刑事(鈴木一真)がかつて世話になった元警官・松平(螢雪次朗)が警備員として雇われ、準備は万全に見えた。予想した通り、急成長した美和子の「ありす鋳造」に江草兄弟は押しかけてくるが、いったんは美和子を脅迫しかけていながら、部屋の間取りを見るとなぜか素直に引き下がっていく。江草兄弟は、松平の顔を見ると破顔して近づいていった……。 一方、兄弟を尾行していた布引(寺島進)、西島(載寧龍二)は、彼らが真空ポンプのようなものを隠して運び出す姿を目撃する。
これも原作付きのエピソードで、骨組はしっかりしている。ゲスト俳優も多彩で、犯人たちのほかにも、「ありす鋳造」の社員たちで佐々木勝彦、上田耕一、奥村公延と特撮映画でもお馴染みの渋い役者さんがずんどこ出て来るのだからたまらない。みなさんいい味出してるけれど、特に上田さんが入札に勝利して江草兄弟に向かって見せる微笑のかっこよさはもう最高! ストップモーションで見せてくれる演出は臭いけれども、上田さんになら許せる。オジサンが活躍するドラマは須らく傑作となるのである。……と言いたいんだけれど、全体としての印象はやっぱりつまらない。前二話と同様、刑事たちがあまりに間抜け過ぎるので、笑えるどころかシラケてしまって、結局はマイナスの効果しか生んでいない。筒井康隆のスラップスティックな味を体現できないなら、かえってシリアスに演じてくれた方がまだ見られるものになるんじゃないか。要するに、演出がコメディと一人よがりの悪ふざけとを混同しているのである。視聴者に宴会のオヤジギャグレベルの芝居しか見せられてないことに気がついてないのかねえ。 ミステリとして見た場合も、役者の演技、脚本、演出、全て雑なので、チャチさばかりが目立って仕方がない。犯人たちが「トリックがバレても俺たちが犯人だって断定する証拠はない」なんて言ってるけど、そうかあ? アレとかアレとか、物的証拠がいくらでも見つかると思うけどなあ。さらに言えば第二の「口封じ」殺人の情けなさ。あんな小学生向けの学習雑誌の推理クイズコーナーにしか出て来ないようなバカトリックをよくも堂々と使えたものだ。……つか、ホントにオレが小学生のときに考えたトリックと全くおんなじだったよ(^_^;)。つまりは誰でも思いつく幼稚なトリック(と言葉にするのも恥ずかしい)なんで、あんなのに引っかかるバカ刑事なんて、世界中探したっていねーって。 それからフカキョン、またちょっと太り出してないか。ウエストがかなり怪しくなりだしてるから、ちゃんとマネージャが付いて食品管理もしてあげろよ。
第77回米アカデミー賞の候補作が昨26日に発表されたけれど、日本未公開の作品が多いので、大賞についてはなんとも言いようがないのだが、ちょっと気になったのは、外国語映画賞と長編アニメーション賞である。 日本の『誰も知らない』と中国の『LOVERS』が洩れたのは仕方がないだろう。どちらも個々の役者の演技としては輝いてはいても、映画全体としては世界的な普遍性を持った映画ではない。ただそれは決して両作にとって汚点となることではない。『誰も』も『LOVERS』も、それぞれの国の文化風土を踏まえてこそ感銘を受ける性格を持った映画なのであって、普遍性だけが映画の価値ではないからだ。黒澤明の「映画は世界の言語だ」は理想論に過ぎない。 長編アニメーション賞での『イノセンス』のノミネートはハナから期待してはいなかった。反キリスト教的世界観に彩られたあの映画をアメリカが受け入れるはずがないのである。ノミネートされた『Mr.インクレディブル』や『シュレック2』が『イノセンス』より上かと言うと、そんなことはないのであって、両作とも悪い映画ではないが、予定調和で成り立っている点では新鮮味はない。やはり「アメリカ人好み」という特徴は如実に現れているわけで、所詮アカデミー賞はアメリカの国内賞に過ぎない。カンヌ、ベネチア、ベルリンと並び賞するのは間違ってるよなあとずっと思ってるんだが。
『ゲゲゲの鬼太郎』が堤幸彦の監督で実写映画化だって。 キャストは未定だが、松竹の久松猛朗常務は「イメージだと鬼太郎は堂本剛君、目玉親父はさすがにCG」とコメントしたとか。……鬼太郎って10歳って設定なんだけど。ハットリくんの香取慎吾って例があるから、その辺はどうでもいいのか。 もう去年までで腐るほど(で腐ってたし)マンガの実写化は見てきたし、『鬼太郎』の場合はテレビで既に二度実写化されているから、もう驚きはしない。 前二作の出来を見て知ってるだけに「またかよ止めろ」と言いたくはなるけれども、まあ何が出来ても『デビルマン』よりはマシだろうからいいや。どんどんココロが広くなってきてるなあ(^o^)。
ちなみに前二作の実写化のスタッフ・キャストは以下の通り。
1『月曜ドラマランド ゲゲゲの鬼太郎』 1985年8月5日 フジテレビ系 午後7時30分〜9時放映 ■スタッフ■ 原作 水木しげる/企画 前川和也・吉川進/脚本 山崎晴哉/撮影 瀬尾脩/美術 北郷久典/音楽 馬飼野康二/監督 小林義明/製作 東映=フジテレビ ■キャスト■ 六浦 誠(鬼太郎)/水木しげる(霊界郵便配達夫)/竹中直人(ねずみ男)/田の中勇(目玉親父の声)/赤星昇一郎(子なき爺)/由利 徹(砂かけ婆)/増岡 弘(一反木綿の声)/奏 暎花(関 京子)/石山律雄(京子の父)/木村有里(京子の母)/夏樹陽子(ぬらりひょん)/佐渡 稔 (吸血鬼エリート)/うえだ峻(あみきり)/汐路 章(おっかむろ)/高橋利通(生命接着係)/桑原たけし(ぬらりひょんの声)/西尾 徳(おっかむろ・あみきりの声)
2『妖怪奇伝 ゲゲゲの鬼太郎 魔笛エロイムエッサイム』 日本ビデオ発売 1987年7月/55分 ■スタッフ■ 原作 水木しげる/脚本 大原清秀/音楽 馬飼野康二/SFX 矢島信男/特殊造型 レインボー造型企画/監督 小林義明/製作 東映ビデオ ■キャスト■ 和田求由(鬼太郎)/加瀬悦孝(悪魔くん)/うえだ峻(ネズミ男)/若林麻由美(桜子)/汐路 章(ぬらりひょん)/不破万作(子泣きじじい)/奥村公延(砂かけ婆)/市川 勇/余貴美子/吉田 淳/水木しげる/田の中勇(目玉おやじの声)
今見ると、結構なキャストなんだよなあ。 夏樹陽子はぬらりひょんの着ぐるみを着てたわけではなくて、変身した姿が「女」だったってこと。資料によっては「女ぬらりひょん」と書かれているものもあるけれど、別にぬらりひょんにオスメスがあるわけではない。竹中直人のネズミ男は珍品だった。竹中さんなら今でもネズミ男やってくれそうな気がするから、堤監督。オファーしてみないかな。ただ、頭をムリにトンガラすのはもう止めてほしい(^_^;)。 うえだ峻さん、汐路章さんが両作ともに出演されていたのには今気付いた。うえださんのネズミ男は覚えてたんだけど。うえださん、今度の劇場版にも出演してくださらないかな。そしたら、“鬼太郎実写版俳優”の称号を勝ち取れるんだが。……別に勝ち取りたくはないかな(^_^;)。
さてまたまた来たよのスパムメール。 URLのアドレスがまたまた似ている。だから少しは「芸」見せろって。
〉絵里 〉私でもいいですか?
〉今まで我慢してたけどあなたの書き込み見てからやっぱ 〉このままじゃいけないと思ってメール書きました。 〉あまり男の人と経験してないけどいいですか? 〉それでも良ければ掲示板にきてください☆ 〉これが最初で最後のチャンスだと思って待ってます。 〉絵里 〉http://************/~bobobo/secret.php?pr=333777 〉写メ見てからでも会うの決めていいです。 〉会って後悔して欲しくないから写メと私の簡単なプロフ載せとくのでみて下さい。
「絵理」と言われてすぐに思い出すのは『軽井沢シンドローム』の。……って古いなあ。そう言えば新作はまだ続いてるんかな。チェックしてないけど。 「このままじゃいけない」というのは早見優が『零戦燃ゆ』で言ってたセリフ。……って別に懐かしネタを探したってしょうがないんだが。 えー、「あまり男の人と経験してない」女の人は、こんな“カムヒヤー”なメールを送り付けたりしません。だからも少し芸を磨きましょう。
まだコトバについての話題とか、しげの妄想日記のことについての補足とか、書こうかと思ってたことはあったけどこのへんで。口述筆記者でも雇わないと、読んだ本、見た映画、考えたこと、とても全部は書ききれないんだが、そこまで苦労してまで書く気力は持ってないので悪しからず。
2003年01月27日(月) 歴代1位?/『グランサー』1巻(長谷川裕一)/『寄生獣 完全版』1・2巻(岩明均)/『アンナさんのおまめ』1巻(鈴木由美子)ほか 2002年01月27日(日) 寝ててもDVDだけは見る(^_^;)/アニメ『コメットさん』第43回(最終回)/DVD『マジンカイザー』3巻/『キカイダー01』3巻ほか 2001年01月27日(土) 祭りの前
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藤原敬之(ふじわら・けいし)
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