FILL-CREATIVE [フィルクリエイティヴ]掌編創作物

   
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CREATIVE特選品
★作者お気に入り
そよそよ よそ着
ティアーズ・ランゲージ
眠らない、朝の旋律
一緒にいよう
海岸線の空の向こう
夜行歩行
逃げた文鳥
幸福のウサギ人間
僕は待ち人
乾杯の美酒
大切なもの
夏の娘
カフェ・スト−リ−
カフェ・モカな日々
占い師と娘と女と
フォアモーメントオブムーン
初 出:LOVER'S BRAIN(1)群青


「おまえは、バーボンが好きだろう、実にいい店があるんだ。」

 契約で派遣されてきたコンピューター技師の男が、3ケ月の契約を終えた最後の日、俺に耳打ちしてきた。

「そこで歌う女の歌もまたいい。決して上手いとはいえないが、聴いてみてくれ。いいから行けばわかるさ、おまえならな。」

 その男と俺は、やつがここに派遣されて以来、週に一度は飲みに行っていた。最初から妙に気があうところがあり、よけいな言葉を使わなくても話しが通じる、野暮が無用な相手だった。

10日程前に飲んだのが最後だった。あと一度くらいはと約束したきり互いに忙しくなって、結局、約束は果たされないままになった。それが気になっていたからだろう、やつらしい置き土産を残して別れを飾っていった。

 俺は、いい店だという言葉が気になったわけではないが、翌日には、早速その店に足を運んでいた。残業の後だったから、もう9時もまわった頃だったろうか。物静かに看板も見落としてしまいそうな程に、小さな入り口を構えてその店はあった。
 こじんまりとした小綺麗なたたずまいで、計算して最低限度の内装にこだわったと、一目で伺える店だった。だからといって、新鋭デザイナーが手掛けるような無機質な空間とは根本的に違っており、ましてや懐古趣味に走るデコラティブな家具があったわけでもない。要するに今までにあったどの店とも違う、どこにも真似できない独特の空気が出来上がっている洗練された店だった。

 上手い珈琲屋っていうのもそうだが、最近はなかなかそういう個人店には、出くわさなくなった。やつが総称して、そこがいい店だと言った理由を納得する。一緒に行った店ではいつも思うことだったが、その選択は如才なくある種才能さえ感じる程、やつの勧める店に間違いはなかったのだ。どこからみつけてくるのか、俺はその恩恵に授かりここのところは実に上手い酒にありつけていた。
 その中でもおそらく、群を抜いてこの店が違うことが、一歩踏み入れたときから俺にはわかった。店の個性も感性の成せる技ならば、そこはまさに感性の創造で仕上がったような空間だったのだ。

 俺はバーボンを味うことよりも、その店の空気に酔うことを好んだ。感覚を研ぎすませて静かに酒をすすっているだけで、恍惚とした充足感に浸れた。カウンターに腰掛けて、何時間そこにいても上等な酒をあおっているような心地よさに満足できただろう。

 彼女の歌を聴くことさえなければ、その空間だけでも人生の機微を知った気分でいられただろうにと思う。SANAと名乗る女の歌は、根底から揺るがすほどに俺の心に貼り付いた。

 群青色のドレスに身を包み、ハスキーな歌声は確かにずば抜けて上手いという歌ではなかった。しかし、技量という点で劣る何かがあったにせよ、全ては彼女の芯から訴えるその感情描写が、人の心を打つ術を表現しつくしていた。

 人の歌を聴いて涙を流すことが、もう、何年も前の過去の自分であったとを思い出し、凍てついていた心が解け出したと知った。





収納場所:2001年11月20日(火)


 
 
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