初日 最新 目次 MAIL HOME


活字中毒R。
じっぽ
MAIL
HOME

My追加

2004年01月31日(土)
「日本人である」という共同幻想

「ゲーム批評・2004年1月号」の記事「偉大なる『正史』あってこそのガンダムゲーム」より。

【文明史を語る上で、18世紀以後の最大の謎と言われていることがある。なぜ、誰もが「自分は何々人である」と考えるようになったのかということだ。過去のその何々人として、固有の歴史が存在すると考えるようになり。さらには、何々人として国家のために死ぬ、もしくは大量虐殺ができるようになったのかということだ。
 ある意味で国家や何々人であるというのはフィクションである。しかし、誰もがそれを存在すると信じるようになることによって、実際に存在するようになる。
 われわれは自分が日本人であり、他の人とそれを共有して信じられることで、日本人になることができる。】

〜〜〜〜〜〜〜

 引越しが多かった僕にとって、甲子園の高校野球というのは、不思議な違和感があるイベントでした。○○県代表と××県代表の対戦に、大人たちが「地元意識」を丸出しにして、一生懸命応援していたからです。
 ここ!という地元を持たなかった僕には、なんだか理解不能な光景でした。自分の身内でもあるまいし、って。
 その人たちが、オリンピックになると、宿敵同士だった他県の人と肩を組んで、今度は「日本代表」を応援するのです。
 なんだかそういうのって、矛盾しているような気がして仕方ありませんでした。

 最近「日本人とは何か?」というアイデンティティが各地で語られています。それは、不穏な世界情勢の中で、「日本という国は、どこへ向かえばいいのか?」という問いかけであるようで、実は「自分はどうすればいいのだろう?」という個人的な不安感そのものなのかもしれません。
 とりあえず、「日本人」というグループに入ってさえいれば、なんとなく安心な気もしますし。

 司馬遼太郎さんの記述によると、実際に「日本人」という概念が完成したのは明治維新以後で(それを言い始めたのは坂本竜馬だ、という説もあるそうです)、それまでは「薩摩藩」とか「長州藩」とかいうような、「藩」というのが日本という国に住む人々の共同体でした。戦国時代などは、隣の藩同士で、ずっと戦争していたり、というようなこともありましたし、「日本」という概念は、そんなに新しいものではないのです。

 アメリカという国に行くと、「アメリカ人」というのは本当にいるのだろうか?という気がしてきます。肌の色、体格、言葉、傍からみると、全く異質の人々が、みんな「アメリカ人」なのです。
 アメリカは歴史が新しい国で、今でも北部と南部は違う、なんていう人もいるみたいですが、その一方で、彼らは「自分たちはアメリカ人である」という強烈な意識に支えられています。
 むしろ、「自分たちはアメリカ人である」という共通した意識こそが、アメリカという国そのものなのではないか、と思えてくるほどです。
 逆に、その「アメリカ人」という形のない共同幻想こそが、なんとかアメリカという国を存立させているのかもしれません。

 日本人は、なんのかんの言っても長い歴史の中で、お互いに外見も言葉も近い存在なわけで、そういう意味では「日本人である」という共同幻想を必要としないのかな、などと、僕は考えてもみるのです。
 しかし、歴史の流れは、「日本人であることを再認識せよ」と僕たちに迫ってきます。
 そして、「日本人としての誇り」の行き着く先は「他者との競争」や「排斥」の可能性もあるはずで。

 アメリカ軍の兵士の中には、軍務に服するとグリーンカード(永住許可証)が取りやすくなるから、という目的を持った人もいるわけですから、日本人に対してだけ、一概に「アメリカの若者は血を流している!」なんて「愛国心」なんてものを煽り立てるのは良いとも思えないんですが。

 「日本人」というのは、ひとつの「概念」でしかありません。その共通幻想を抱くことによって、自分の命を捨てたり、他者を虐殺したりするというのは、考えてみれば妄想に踊らされているのと同じことです。でも、世界中で、そういうことが当たり前に起こっているのです。
 「仲間が欲しい」「自分の基盤が欲しい」というのは、よくわかるのですが、それでいて「無神論者」なんて「科学の子」を自称するのは、矛盾しているのではないかなあ、と。
 「日本人」を語れるほどの「日本人」なんて、ほんとうはどこにもいないかもしれないのに。

 もし宇宙人が攻めてきたら、「我々はみんな地球人だ!」とか言い出すような予感がするんですけどね。

 
 



2004年01月30日(金)
キムタクの「危険なファンサービス」と「偏った報道」

日刊スポーツの記事より。

【SMAP木村拓哉(31)主演のフジテレビ系ドラマ「プライド」(月曜午後9時)収録の休憩中、木村がアイスホッケーのパックをファンサービスで客席に打ち込みエキストラの20代女性にケガを負わせた事故で、29日夕までに、同局に約100件の問い合わせなどが視聴者から寄せられた。事故は20日に起こったが、同局がニュースとして取り上げなかったことを疑問視する意見が多かった。女性からは「木村さんはファンを喜ばせようとやっただけ」と同情意見もあった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 本当に、最近のテレビ局の偏った報道にあきれ返ります…
 と言いたいところなのですが、僕はこの事件、そんなに大げさにしなくてもいいんじゃないかなあ、とも思うのです。別にキムタクファンじゃありませんけど。
 この「事故」というのは、人気ドラマ「プライド」のロケ中の休憩時間に、キムタクがファンサービスとして、パック(アイスホッケーのボールみたいなもの)を客席にポーン、ポーン、という感じで打ち込んでいたときに起こったということです。
 野球の試合前の練習中に、選手がファンサービスとしてスタンドにボールを投げ入れるようなものだと考えればいいのでしょう。おそらく、キムタクもそんなイメージでこれをやっていたんでしょうし。
 でも、勢いが強すぎたのかそれとも人が密集していて受け(あるいは避け)きれなかったのか、そのパックは観客のひとりの女性の顔に当たってしまったのです。
 結局、女性は歯が折れて、現在も治療中なのだとか。歯は人間にとって大事な器官ですから、とんだ被害を受けた、ということになるのでしょう。

 この事故の原因としては、なんといっても「パックの威力」というものに対するキムタクおよび制作側の油断にあるわけですし、素人がそんなファンサービスをやっては危ないということだと思うのですが、その行為自体には、全然悪意を感じないんですよね、僕は。今度同じことをやったらバカだと思いますが、今回の事故に関しては、反省は必要にせよ、そこまで大きな問題にすべきことなのかな、と。

 それを言うなら「野球選手は危ないからスタンドにボールを投げ入れるな」とかいう話にもなりますよね。彼らはプロだから、うまく力を調節できるにしろ、野球の試合中にファールボールが当たってケガする人だっているのですから。
 同じようなロケ中の事故としては、最近では「西部警察」のものがありました。あの事故は安全管理に問題あり、ということで、当該番組も放映されていませんし、刑事責任も問われました。しかし、あの事件のときもちょっと思ったのですが、迫力のあるシーンを観ようとして現場にいた観客が、多少のリスクを背負うのは、仕方ない面もあるような気がするのです。
 そういう意味では、「普通のドラマのロケで歯が折れた」というほうが、「割に合わない」印象もあるのかな。

 「フジテレビがこのニュースを放映しなかった」といってクレームをつけた人がいたようですが、僕は「そんなことよりもっと、報道すべきニュースがあるんじゃないの?」とも思うのです。
 「キムタク」とか「人気ドラマ」とか「フジテレビ」とか、いわゆる「権力」の自浄作用のなさに失望する気持ちはわからなくはないですが、それでも、こういう「悪意のない事故」と「恣意的な偏向報道」とは区別する必要があるのではないでしょうか?
 むしろ、他の局がこのくらいの事故を大々的に報道することのほうが、ある意味「偏っている」と言えなくもない。「人気ドラマだし、社会的影響が…」とか言われそうだけど。

 それにしても、「安全性」と「臨場感」というのは、相反するもの。F1レースの観客席が強化ガラスでサーキットと完全に遮断されていたり、野球のスタジアムで、客席の前に巨大な網が張り巡らされていたりしたら、やっぱり興ざめなのです。

 とりあえず今回は、「普通の事故」。もう一度同じことを知っていてやったら「犯罪」ですけどね。



2004年01月29日(木)
「カッコいい女性」を演じるために、いちばん大変だったこと。

映画「シカゴ」の脚本の文庫版より。

【心が浮き立つ体験は、同時に厳しい試練でもあった。学校か新兵訓練所のように、毎週毎週、猛練習が繰り返されたのだから。何が一番大変だったかという質問に、ゼルウィガーはこう答えている。
「胸を張って、階段の上から高いハイヒールで下りていくことよ。たまんないわ。見掛けよりずっと難しいのよ」】

〜〜〜〜〜〜〜

 昨年のアカデミー作品賞を受賞した「シカゴ」(ロブ・マーシャル監督)ですが、この映画のメインキャストである3人(レニー・ゼルウィガー、キャサリン・ゼダ・ジョーンズ、リチャード・ギア)のうち、主人公ロキシーを演じたレニー・ゼルウィガーは、他の2人に比べて舞台経験が乏しかったため、撮影には苦労が多かったようです。
 それでも、ハードなトレーニングで、映画の中では素晴らしい演技を見せているのですが。
 これは、レニー・ゼルウィガーの述懐なのですが、僕は、これを読んで「もっと大変なこともあっただろうに、そんな普通のこと?」と思ってしまいました。
 ダンスとかのほうが難しかったんじゃないの?なんて。

 しかし、考えてみれば、神社などで手すりが無い、急な階段を降りるというのは、けっこう怖いものです。どうしても足元が気になりますよね。それに、僕はハイヒールは履いたことがありませんが、あの構造上どう考えても前のめりになりそうな体勢だと、下りの階段を降りるのは、かなり怖いのではないでしょうか。
 ミュージカル・スターの役ですから、当然、客席に笑顔をふりまきながら、颯爽と降りないといけないでしょうし。
 「怖い」というイメージは、なかなか払拭できないものだと思うのです。ダンスなどは、練習で上達していく余地があるとしても。

 そういうふうに考えると、街で自然にハイヒールで歩いている女性たちは、かなりのトレーニングを積んでいる、ということなんですよね。必ずしも愛想をふりまいていなくてもいいとしても、坂道もあれば、いろんな障害物だってあるでしょうし。

 自然に、かつカッコよく魅せる、というのは、周りからのイメージ以上に本人にとっては大変なことなんでしょうね、きっと。こういうのは、履いたことが無い人間には、わからない世界だなあ、とあらためて感じました。
 とはいえ、「ハイヒールなんて履いて、頑張ってるねえ」なんて同情されても嬉しくないだろうけど。



2004年01月28日(水)
「カメキック」が私の恋のツボ!

「週刊プレイボーイ・2003年7月30日号」の記事「宮藤官九郎のビガパン!」(宮藤さんと女性芸能人との対談)より。

(この回は、「スケバン刑事」で一世を風靡した、浅香唯さんとの対談)

【宮藤:ヘンだよ。芸能人とは付き合わないし、両思いになると「いやじゃー」って引いちゃう女とどうやって付き合えるわけ?どうして落ちるわけ?
 浅香:彼がビデオカメラ持ってて、貸してって言ったら家に届けてくれたの。
 宮藤:おお!そこで押し倒されたと。(あるいは逆)
 浅香:違う。私、その時、ファミコンやってたの。『スーパーマリオ』。
 宮藤:はは〜ん。ゲーマーなんだ。
 浅香:そしたら「増やしてあげようか」って言われて。
 宮藤:ああ、マリオをね。
 浅香:カメキックで100アップしてくれて。それで恋心が芽生えたの。
 宮藤:はあぁ〜!?
 浅香:そこが私の恋のツボだったんです。
 宮藤:わっかんねえよ!】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読まれている若い方はご存知ないかもしれませんが、ファミコンの超大ヒットゲーム「スーパーマリオブラザース」には、「無限増殖技」という有名なウラ技があったのです。
 「ウラ技」とは言ってもそんなに面倒なものではなくて、階段から降りてくるカメ(ノコノコ)を階段の途中で蹴りとばし、それを弾んだマリオが何度も何度も蹴り続けるというだけの技で、これをやるとマリオの数がほとんど無限に増やせたのです。
 当時は、中学生でもみんな知ってたテクニックなのに(中学生だから知ってたのかもしれませんが)。
 この記事を読んで、「あんな技でよかったら、オレがいくらでもマリオ増やしてあげたのに!」と嘆いた人も多かったんじゃないかなあ。

 ゲーマーというのは、とかく「モテナイ人種」の上位にランクされがちなのですが、こんなこともあるんですねえ。まあ、現在では「ゲームをやる人」への抵抗感は、ほとんどないのかもしれないにしても。

 ちなみにこのエピソードは、浅香さんが19歳のときのことで、結局15年くらい付き合っていたこの男性と、一昨年に結婚されたとのことですよ。

 世間にはいろんな「恋のツボ」というのがあるのだなあ、なんて、僕はこれを読んであらためて考えてしまいました。もちろん、その人のカッコいい姿(スポーツや仕事で活躍したり、一生懸命やっている面)がツボ、ということが多いのだと思うのですが、意外と「仕事に失敗して泣いていたところ」とか「食べ物を美味しそうに食べる様子」とかがツボだった、という話もよく耳にするのです。「いい相手を見つけるには、自分を磨かなきゃ!」とか言うけれど、必ずしもそうでもないのかなあ、なんて悩んでみたり。

 こうして考えると、「ゲームが上手い」というのもひとつの特技なのかもしれません。意外とツボな人は多かったり…しないかな。
 しかし、ゲーマーという人種は、「カメキック」でせっかくマリオを増やして女の子にポイントアップしたにもかかわらず、それから2時間以上他人の家でコントローラーを握り締めて放さず、呆れられたりしがちなのですよね、困ったことに…



2004年01月27日(火)
「うそは泥棒の始まり」

読売新聞の記事より。

【福田官房長官は27日午前の記者会見で、民主党の古賀潤一郎衆院議員の学歴問題について、「過失なのか、うそをついたのか。うそは泥棒の始まり(というが)、簡単に考えていいのか。あとは本人の判断だ」と述べた。

 また、古賀氏が議員報酬を受け取らない意向を示していることについても、「いろいろな発想をするが、上塗りの様になって、格好悪いだけだ」と、批判した。 】

〜〜〜〜〜〜〜

 まあ、ウソに決まっているんですけどね。
 自分が卒業したかどうかなんて他人任せにしているわけもないし。
 でも、この官房長官の言葉は、いくらライバルの党の議員の失態に対する言葉とはいえ、あまりに下品なのではないかなあ、と思うのです。

 「うそは泥棒の始まり」
 この言葉を耳にしたことがない人はいないでしょうし、親や先生から面と向かって言われたことがある人も多いのではないでしょうか?
 でも、この言葉を浴びせられて、不快になりこそすれ、「人生の役に立った」と思う人は少ないような気がします。
 それは、この言葉自体が「うそをつくような奴は、どんどん悪いことをやっていくはずだ」という負の推測に基づいているから、だと思うのです。
 「信じてくれてないんだな」というのが、ヒシヒシと伝わってくるんだよなあ、この言葉。

 「ウソをつく」というような「些細な悪事」が「もっと大きな犯罪」への入口である、ということは理解できます。それはまた、人間の真理でもあるんでしょう。
 ただ、政治をやる人間というのが、むやみやたらとこういう疑心暗鬼の発想を口にするのはどうなのかな、とも感じます。
 一国民としては、将来、ちょっとした罪でも「泥棒の始まり」とかいって罰せられるのではないか、なんて危惧してしまったり。
 だいたい、この人たちは、「自分の仲間のウソにはものすごく寛容で、敵のウソに対しては、ものすごく狭量」なんだよなあ。もし自民党の議員が起こした問題だったら、官房長官もこんなことは言わなかったはずで。

 僕は、古賀潤一郎議員の往生際の悪さにはあきれているのですが、「学歴」なんて白黒ハッキリしたところに対する詐称で彼を叩いている人たちが、自分の「公約」とかに対して、ウソをつきまくっているのには、なんだかとても情けなくなります。
 公約って、「ペパーダイン大学卒」とかいう学歴より、よっぽど大事なことのはずなのに。

 いやまあ確かに、得意の絶頂だった古賀議員が苦し紛れのウソをつきまくっているのは、滑稽で面白いですよ。でも、同じ国会議員としては、マスコミ経由で彼を笑いものにする前に、むしろ自ら襟を正す、いい機会だと思うのですが。

 医療ミスの報道を観て、「あいつらバカだなあ」という医者と「自分も気をつけなきゃなあ」という医者、どちらが信頼できますか?



2004年01月26日(月)
それでも、「愛することができない」人たち

読売新聞の記事より。

【22日付の英大衆紙「デイリー・ミラー」は、世界的な理論物理学者のケンブリッジ大教授、スティーブン・ホーキング博士(62)が、妻(53)から繰り返し暴行を受けていると報じた。
 博士は難病のため車イス生活を送っているが、博士の世話をしていた看護師が暴行を目撃したという。
 同紙によると、95年に再婚した妻は、博士の手首を車いすにぶつけて骨折させたり、ヒゲそりの際に首にケガさせるなど、暴行を繰り返しているという。
 同紙は19日付で博士が多数の傷を受けており警察が捜査していると報じたが、博士は20日、「事実無根」との声明を出していた。】

参考リンク:「身体機能の障害に対する私の経験」(ホーキング博士のホームページより)

〜〜〜〜〜〜〜

 イギリスの大学に在学中のこちらの方の1月22日の日記「学歴詐称とDV」に「去年、噂は聞いていた」という記載がありますから、ひょっとしたら「公然の秘密」みたいなものだったのかもしれません。
 上記参考リンクを読んでいただきたいのですが、スティーブン・ホーキング博士は、ALS(amyotrophic lateral sclerosis:筋萎縮性側索硬化症)という難病を患っておられるにもかかわらず、世界的な理論物理学者として活躍されており、「ホーキング、宇宙を語る」という本は、大ベストセラーになりました。もっとも、僕にはこの本の内容は高度すぎて、全く理解できなかった記憶があるのですが。それでも当時の僕には、ホーキング博士が、車椅子に座って首を傾けたまま、車椅子に備え付けのコンピューターで外界とコミュニケーションをとる姿には、大きなインパクトがあったのです。

 だから、僕はこのニュースを聞いて、なんだかとても憂鬱な気分になってしまいました。あの偉大なホーキング博士が、身内から虐待されていたなんて…
 もちろん、完全に事の真偽が判明したわけではありませんが、ホーキング博士が、あえて口をつぐんだり、否定の声明を出していることを考えると、かえって真実味があるような気もするのです。

 ただ、現実の「人間・ホーキング博士」の生活を考えると、奥さんも大変だろうなあ、とも思うのです。ホーキング博士は、自分の体を自分で動かすことはほとんどできませんから、すべての行動に介助が必要です。そして、専門の看護チームがついてはいるものの、やはり彼の妻には負担が大きかったはずで、いくら夫婦とはいえ「介護疲れ」が無かったといえば嘘になるでしょうし。
 「たとえ虐待されていたとしても、頼れるのは妻だけ」という状況であれば、ホーキング博士としても妻を告発するわけにはいかないでしょうし。「どんなに酷い目にあわされても、失いたくない人間関係」というのは存在するのです。
 ホーキング博士は、献身的な介護をされていた前の奥さんとアッサリ離婚して、現在の奥さんと再婚されました。今回のことは「報い」と考える人もいるかもしれません。

 「妻を失うくらいなら、虐待されていたほうがマシ」という人間関係は、あまりに悲惨なものではありますが、それもまた、悲しい現実なのでしょう。年齢的にも状況的にも「じゃあ次の奥さん」という気持ちにはなれないでしょうし。

 昨日テレビなどで話題になった、「食事をもらえなかった、体重24kgの15歳の子供」の話についても、「逃げたらいいのに」というような意見をあちこちで耳にしました。でも、現実問題として、15歳の子供に、そんな客観的な判断ができたのかどうかは疑問です。「親(=生きる手段)を失ってしまうこと」と「虐待されること」を天秤にかけて、「逃げようと思っても逃げられなかった」というのは、やむをえない気がします。
 「どうして行政は介入しなかったんだ!」と言われても、行政が介入することで少年が幸せになれたかと言われれば、それも甚だ疑問です。

 虐待しなければいい、というのは、まさしく「正論」です。
 でも、ホーキング博士の今の奥さんは、虐待しようと思って結婚したわけではないでしょうし、自分の子供を虐待しようと思って産む親だっていないはずです。
 でも、DV(ドメスティック・バイオレンス)は無くならない。
 それでも、博士は妻を、子供は親を頼るしかない。

 理想と現実の間には、悲しいほどのギャップがあります。
 「世界的な頭脳を献身的に介護する妻」と「常に身の回りの世話をしなければならず、自分の時間が持てない生活」
 「子供と仲良く、友達みたいな親子」と「言うことを聞かない、かわいくない子供」
 たぶんそういうのは、DVの現場にだけ存在するものではないはずで。

 僕は、「なんて妻だ!」「なんて親だ!」と感じると同時に、「でも、現実問題として『それでも愛することができない人たち』は、いったいどうすればいいんだろう?」とも考えてしまうのです。



2004年01月25日(日)
「さびしさは鳴る。」

「蹴りたい背中」(綿矢りさ著・河出書房新社)より。

【さびしさは鳴る。耳が痛くなるほど高く澄んだ鈴の音で鳴り響いて、胸を締めつけるから、せめて周りには聞こえないように、私はプリントを指で千切る。細長く、細長く。紙を裂く耳障りな音は、孤独の音を消してくれる。気怠げに見せてくれたりするしね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 19歳の芥川賞作家・綿矢りささんの受賞作の冒頭の部分です。僕がなぜか、この冒頭部分が気になって仕方がなかったんですよね。
 「さびしさは、鳴る」
 「さびしさ」というのは感情であって、見えたり聞こえたりするものではないはずです。だから「鳴る」というのはあくまでも「文学的な表現」なのですが。
 でもね、僕はこの「鳴るさびしさ」っていうのは、今の中高生(あるいは多くの大人たち)の共通項ではないかなあ、とも思うのです。
 具体的なイメージとしては、そう「携帯電話が鳴る音」。

 街のさまざまな場所で、僕たちは携帯電話で誰かと話したりメールを送ったりしていますし、他人がそうしている光景も頻繁に見かけます。
 「あんなに電話(もしくはメール)ばっかりやって、話すことがあるんだろうか?なんて感じることはないですか?

 もともと電話が苦手な僕などは、電話一本かけるのにもけっこう勇気と覚悟が要りますし、携帯が鳴るのは1日1回くらいのものです。全然かかってこない日もけっこうありますしね。
 でも、同じ職場の同僚の中には、しょっちゅう電話が鳴る人もいます。
 そんなとき僕は、「自分は友達が少ない人間なのかなあ…」なんて、少しだけ不安になります。
 誰かに携帯メールを送るときも、本当に用事があるときだけではなくて、「そろそろ何か送らないと、この人と疎遠になってしまうかもしれない」なんてプレッシャーにかられて、のことがけっこうありますし。
 逆に、そういうメールでのやりとりだけで、一応、その相手と「繋がっているような感じ」が得られるというのは、ある意味ラクなのかもしれませんけどね。

 僕のような携帯電話が苦手な人間でさえも、外出の際に携帯を持っていないと、なんとなく落ち着かないくらいですから、いまや携帯は生活必需品のひとつです。
 たぶん、実際は、携帯電話のユーザーのすべてが、本当に緊急の連絡の必要性があって持っている、というわけではないのでしょうが、一種の精神安定剤のようなものなのかも。

 たいした用事でもなさそうなのにしょっちゅう電話をかけたり、電話がかかってきている人を見るたびに、僕は、「この人は、さびしがりやなんだろうなあ…」なんて思います。
 その反面、自分から電話をかけることは滅多にないのに、自分の電話がほとんど鳴らないことを妙にさびしく感じる僕もいるのです。


 「さびしさは鳴る。」
 それはたぶん、携帯電話の音?
 この最初の一文に、僕はそんなことをイメージしてみるのです。

 そして今日も、さびしさは鳴る。
 



2004年01月24日(土)
「クリミアの天使」ナイチンゲールの本当の業績

「超・偉人伝〜カリスマたちは激しいのがお好き」(福田和也著・新潮文庫)より。

(看護師の地位向上と看護学の発展に貢献したナイチンゲールについて)

【ナイチンゲールの一番大きな業績は、看護に統計を持ち込んだこと。
 当時、イギリス陸軍の記録制度は混乱していた、というよりほとんどなおざりだった。例えば、死者の場合でも、軍医と、当番将校、それに直接埋葬に当たった担当者それぞれの記録がくいちがっているのは当たり前だった。しかも死因がほとんどはっきりしていない。
 そこでナイチンゲールがはじめにやったことは、一人一人の患者の病歴と、特に死因を綿密に記録すること。

(中略)

 そうしてみると驚くべきことがわかった。実は死者の比率は戦死1に対して病死7だったわけ。この時近代戦の医療にはじめて統計学が使われたんだね。日本では軍医だった森鷗外が統計をはじめて導入した。
 だから(クリミア戦争での)セバストポリ要塞攻撃による大量の戦死というのも伝説で、実は病院こそが死者を多く生んでいたわけ。軽い怪我を負った兵士が入院したために疫病にかかって死ぬなんていうケースが非常に多いことがわかった。
 ここから、ナイチンゲールの活躍がはじまる。怪我人と伝染病患者を隔離することからはじまって、炊事設備を改めて食事と食器を衛生的にすること、ベッドの消毒や病衣の洗濯から、上下水道の設備までも実施した。

(中略)

 その甲斐があって、病院の死亡率は、劇的に低下した。当初、収容者の44%が死んでいたのを、2%にまで引き下げた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ああ、なんだか僕のイメージの「白衣の天使」の代名詞・ナイチンゲールさんとは、かなり違うイメージなのですが。
 「上流階級の女性がハイソな生活を捨てて戦場で看護にたずさわった」というのが、ナイチンゲールの凄いところなのですが、その一方で、当時の偉い人たちと交流があったからこそ、このような衛生環境の整備に影響力を行使することができた、という一面もあるようなのです。
 まあ、確かにどんなにひとりの看護師が献身的な看護をしても、世の中はそんなに簡単には変わらないのでしょう、きっと。

 評価されたのは、ナイチンゲール自身の現場での看護というより、戦場における公衆衛生学の導入、ということなのです。実際は看護師は、教会や修道院から派遣されていて、そんなに人手不足ということではなかったようですし。

 それにしても、この話を聞いて思うのは、やっぱり現場で患者さんのために身を粉にして働いた看護師よりも、統計学の導入によって看護(というより「衛生学」でしょうね)を変えたナイチンゲールのほうが、歴史的には偉人として名を残しているのだよなあ、ということです。
 確かに、彼女の研究の成果で、死ななくてよくなった兵士の数は、圧倒的に増えているのですし、本当に彼女の功績は偉大です。
 ただ、きっとその時代には、戦場で献身的な看護をしていた看護師たちもたくさんいたのだろうなあ、なんて思うと、そんな看護の姿のイメージまでナイチンゲールのトレードマークになってしまっているのは、ちょっとかわいそうな気もしますね。

 いつの世も、結局世界を動かしているのは、現場で働いている人ではなくて、密室で数字を計算している人なのかな、なんて考えてみたり。



2004年01月23日(金)
「学歴コンプレックス」からの卒業

毎日新聞の記事より。

【民主党の古賀潤一郎衆院議員(45)=福岡2区=の学歴詐称問題は23日、本人が米ペパーダイン大学から直接「卒業の事実はない」と確認したことで、疑惑発覚時に報道陣に語った自らの「進退問題」が焦点になった。昨年11月の総選挙で敗れた自民党の山崎拓氏(67)周辺は「これで議員辞職は必至になった」と勢いづき、民主党側は「本人が卒業したと思いこむ理由があったはずだ」と最後の望みをつなぐ。古賀氏は大学で事実確認後、報道陣に姿を見せずに立ち去った。】

〜〜〜〜〜〜〜

 だいたい、どうしてそんなことを確認するために、アメリカまで行く必要があったのか?なんて思うのですが。ひょっとしたら、なんとかして「卒業した」というようにしてもらえないかと、一生懸命工作していたのかもしれません。
 しかし、普通の社会人であれば、自分の出身大学と卒業したかどうかなんて、まさか忘れるはずもなく。本当に「忘れた」というレベルの記憶力であれば、国会議員としての適性には巨大な疑問符がつくでしょう。

 ただ、批判を受けるのも承知で、僕はこんなことも考えてみるのです。
 もし古賀議員が、学歴詐称疑惑が発覚した最初のときに「すみません、僕は大学を卒業できなかったのがコンプレックスで、中退ではイメージが悪くなるという強迫観念にかられて、詐称してしまいました」と告白していたら、僕自身は彼に同情してしまったのではないか、と。

 「学歴は大事」確かにそうでしょう。どこでどんな勉強をしてきたか、何に興味を持って生きてきたのか、というのは非常に大事な情報です。
 でも、そういう報道がメディアで流され、UCLAと比べると、CSULAはレベルが低い、なんて話が出てくると、僕はもう、CSULAの学生のような気分になって仕方がないのです。

 その一方で、「学歴なんて関係ないのに」という声もよく耳にします。確かに選挙に出るには、学歴は関係ありません。でも、日本で実際に議員として政治に関わっている人たちの多くは、いわゆる「有名大学」を出ているのです。それが表舞台に出てこなくても、「学閥」というのは、どこの世界にもあるわけで。
 そんなの関係ない、という人も多いでしょうし、今の日本では、かなり実力主義が台頭しているように見えます。
 でも、もしあなたがある会社の社長だとして、他が全く同じ能力の入社試験受験者が二人いて、ひとりは自分の大学の後輩、もうひとりは全く関係ない大学であれば、どちらを選ぶでしょうか?
 「人脈」というのが能力のひとつであるのは、厳然とした事実なのです。

 今回の選挙結果は、「ペパーダイン大学卒業」なんて経歴が嘘でも、とくに変わりはないと思います。それを知った人も「ペパーダイン大学?何それ?」という程度の印象しかないのではないでしょうか。残念ながら、海外の大学で一般的な日本人に「凄いなあ!」と思わせる大学名なんて、ハーバード、ケンブリッジ、オックスフォードくらいのものでしょう?
 古賀議員が「詐称」してしまったのには、たぶん彼の見栄っ張りな性格と学歴コンプレックスがあったんだろうなあ、と思うと、僕は少し彼に同情してしまうのです。そういうのって、僕にもありますから。

 彼が嘘に嘘を重ねて、どんどん自分を苦しい立場に追い詰めていくのも、なんだかとても身につまされます。傍から見たら、見苦しいだけなのに。人間性というのは、「嘘をつくこと」ではなくて、「嘘をついた後の態度」にむしろ現れるものなのかもしれません。
 古賀議員の信用は「彼が学歴詐称をしたこと」よりも、むしろその後の「往生際の悪い、嘘に嘘を重ねるような態度」で、より大きく失墜したような気がするのです。

 そして、「学歴」っていうのは、まだまだバカにできないなあ、とあらためて考えさせられました。
 というより、むしろ最近の「お受験」などをみていると、一時期よりかえって影響力は増してきている気もします。

 でも、今回の事件で、僕はひとつだけ救われた気がします。
 それは、ペパーダイン大学の対応。
 彼らは、「卒業の事実の有無、卒業資格の有無というのは、学生の人生にとって、非常に大切なことだから、慎重に慎重を重ねて調べた」と答えていました。僕はその言葉を聞いて、彼らの「人間を育てる場所」としての誇りに胸を打たれたのです。
 おそらく、この降って湧いたようなトラブルに「巻き込まれた」最大の被害者は、何の落ち度もないのに詳細な調査を余儀なくされた彼らだと思います。いやまあ、それが仕事だ、と言われれば、その通りなんですけどね。

 もちろん、「学歴」だけが正義ではありません。いい大学を出ても、人生うまくいかない人もたくさんいますし。
 ただ、「勉強したこと」の証でもあるわけですから、嘘をついてはいけない、とは思います。「いい大学」に入るには、みんな相応の努力をしているわけですし。

 本当は、「大学名」だけじゃなくて、「そこで何をやったか」が問われるようにならないのですが。
 早稲田に入っても「スーパーフリー」じゃあ…

 しかし、こんなふうに簡単に「学歴詐称」ができてしまうっていうのは、普通に生きている限り、誰がどこの大学出身者かなんて、教えられないかぎりわからないってことでもありますよね。
 



2004年01月22日(木)
もうひとつの「指輪」の魔力

『九州ウォーカー・2004・3号』の記事「おすぎが語る『ロード・オブ・ザ・リング』舞台裏の裏!」より。

【その期待のパート2「二つの塔」は、パリがお披露目の地だった。「ここも段取りが悪くてねえ(笑)。会場入りするイライジャ(・ウッド、主人公フロド役)とはレッド・カーペットの上で少し話せたんだけど、彼はちょっとナーバスになってたみたい。1作目では無邪気でかわいかったのに、『僕はもう大人なんだから子供扱いしてほしくない』って、お酒は飲むはタバコは吸うは丸坊主になってるわ。自分はフロドだけじゃないんだぞっていう意識がすごく強かったのね。主演作が映画史に残る大ヒットに化けちゃったんだもの。プレッシャーがあったのは当然よね」】

〜〜〜〜〜〜〜

参考リンク:『イライジャ・ウッドのファンページ』

 完結編である「王の帰還」が、もうすぐ日本でも公開される「ロード・オブ・ザ・リング」の主人公(のひとり、と言った方が良いのかもしれませんが)フロド役のイライジャ・ウッドについての、おすぎさんの思い出話です。
 上記参考リンクにもありますが、実は、イライジャさんはもともと子役出身で芸歴も結構長いみたいです。年齢も現在22歳(もうすぐ誕生日で23歳)ですから、立派な「大人」なんですよね。
 僕たちはどうしてもフロドのイメージで彼を見てしまいますから、正直、もうそんな年なの?とちょっと意外ではあるのですが。
 
 役者にとっては、当たり役というのは嬉しいものなのでしょうが、それがあまりに当たりすぎて、みんなに役柄=本人、と思われるのって、かなり辛いことみたいですね。
 「僕はもう大人なんだから子供扱いしてほしくない」という発言は、裏を返せばプライベートでもフロドのイメージで扱われることが多くて、20歳過ぎの若者にとっては、すごく辛かったということなのでしょう。
 そこで、酒やタバコで「大人」をアピールしてみたり。
 役者としても、「スター・ウォーズ」のルーク役のイメージが強すぎて、その後活躍の場がなくなってしまったマーク・ハミルさんの例もあることですし。
 みんなルークは覚えていても、あの役者さんの名前は忘れてしまっているのでは?
 ハン・ソロ=ハリソン・フォードは、すぐに出てくると思うのですが。

 若くして「当たりすぎの役」を得てしまった役者というのは、その役のイメージが強すぎて、その後難しいところがありそうです。
 「ホーム・アローン」の大ヒットで一躍人気者になったマコーレ・カルキン君なんか、その後出演料を巡って家族はバラバラ、本人はあの若さでアルコール中毒にドラッグ中毒と、波乱の後半生(というには、あまりに若すぎますが)を送っていますし。

 映画は完結しても、フロドはまだ、もうひとつの「指輪」の魔力に支配されつつあるのかもしれませんね。



2004年01月21日(水)
先生が教えてくれなかったこと。

毎日新聞の記事「教育の森」の中のコラム「学校と私」での漫画家・柴門ふみさんのインタビュー「ユニークな担任との出会い」より。

【高3の担任だった男性の先生はとてもユニークな人でした。化学が担当で、授業でいきなり自分の手に硫酸を塗って「ほら黄色くなっただろう。これがキサントプロテイン反応だ」と説明して、あわてて手を洗いに行くんですよ。また男子に「卒業する時に、性病に絶対うつらない方法を教えてやる」って約束したりね。
 でも先生は、卒業も近い2月に学校で倒れて急死してしまいます。お葬式ではみんなで泣きました。慕っていましたから。同窓会を開くと今でも必ず「絶対うつらない方法ってなんだったんだろうね」という話が出ます。】

〜〜〜〜〜〜〜

 どうしてこういうふうに、「聞けなかった言葉」というのは、ずっと記憶に残ったり、ものすごく気になり続けたりするんででょうか?
 僕の予測では、たぶん、この先生の「性病に絶対うつらない方法」というのは、「セックスしないことだ」とか、そういう単純かつバカバカしいものだったんじゃないかなあ。
 本当にその「答え」を聞けていたら「先生、なんだよそれ〜」とみんな拍子抜けしてしまうような。
 でも、そういうのって、周りのみんなも本当はわかっているはずなのです。
 それでも、いや、それだからこそ、その「答え」を本人の口から聞けなかったのが心残りなんだろうなあ、なんて僕は思います。
 本当は「性病に絶対うつらない方法」なんて、どうでもいいことで(どうでもよくはないか…)。

 この世界にはきっと「その人が早逝してしまったために、よけいに忘れられなくなってしまうこと」というのが、たくさんあるのではないでしょうか?
 尾崎豊の曲やセナの走り、夏目雅子さんの三蔵法師、アンディ・フグのかかと落とし…
 「失われた人」の「失われた言葉」というのは、ひどく人間を感傷的にさせるものです。でも、それは「失われたもの」のはずなのに、ずっと他人の心に残っていく。
 たぶん、「バカバカしいオチのある話」だったんだろうけど、感傷的な記憶とともに。

 亡くなられた先生も、こうして生徒に覚えていてもらえるのは、先生冥利に尽きるのかもしれません。
 それとも、天国で「どうせだったら、もっとマシなことを覚えていてくれよ」と苦笑されているのかな。
  
 



2004年01月20日(火)
「オマージュ」と「パクリ」の分岐点。

日刊スポーツの記事より。

【昨年のNHK大河ドラマ「武蔵 MUSASHI」の一部が故黒沢明監督の映画「七人の侍」の盗作だとして、著作権を相続した長男の久雄さんらがNHKなどに約1億5000万円の損害賠償などを求めた訴訟の第1回口頭弁論が20日、東京地裁(三村量一裁判長)で開かれた。

 NHK側は「著作権侵害はなく、監督の名誉を傷つけてもいない」と請求の棄却を求める答弁書を提出。全面的に争う姿勢を示した。

 黒沢さん側は訴状で「武蔵」の第1回は基本的なストーリーや11のシーンが「七人の侍」に酷似している、と主張している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕も「武蔵」の第1回を観ましたが、確かに「七人の侍」に内容が酷似しているのはまちがいないところです。しかしながら、実際に観た感想としては、「大河ドラマがこんなに堂々と『パクる』くらいなんだから、やっぱり『七人の侍』というのは、歴史的名画なんだなあ」という印象でしかなくて。
 逆に、あれだけ堂々とやられると、かえって清々しいくらいで。

 それにしても、「パクリ」と「オマージュ」「影響を受けている」の違いというのは非常に難しいところがありますよね。

 例えば、超有名ゲーム「ドラゴンクエスト」というゲームの「敵を倒して経験値を稼いで主人公がレベルアップしていき、最後に敵の大ボスを倒す」というシステムは、いまや「ロールプレイングゲーム」と呼ばれるジャンルのスタンダードです。「ドラクエ風のRPG」は、飽きるほど発売されています。
 しかしながら、その「ドラゴンクエスト」は、「ウルティマ」「ウィザードリー」というアメリカの有名ゲームの影響を色濃く受けており、さらにそれらのゲームは、「ダンジョンズ&ドラゴンズ」というボードゲーム(一般的には、プレイヤーと司会者の会話で進められていくので、「テーブルトークRPG」と呼ばれています)の影響を受けているのです。
 すべては歴史の積み重ねの上にあって、本当の「オリジナル」というのは、果たして存在するのどうか。

 そういえば、昨年大ヒットしたドラマ「僕の生きる道」だって、黒澤監督の名画「生きる」に強く影響を受けているわけですから、「パクリ」と言えなくもない。

 今回の例は、「あまりにも類似しすぎている」ということなのかもしれませんが、実際「七人の侍」というのは、いまや時代劇のゴールデン・スタンダードであり、ある意味、模倣されつくしてもいるのです。それはまた「偉大な作品」の宿命。それに、「七人の侍」のストーリーや設定だって、それ以前の映画の影響を少なからず受けているわけで。
 「どこまでがオリジナルか?」というのは、考えれば考えるほど難しい話です。
 
 正直、「少々パクられたくらいでは、『七人の侍』の価値は揺るがないんだから、いちいち目くじら立てなくてもいいんじゃないかなあ、などとも思うのですが。
 
 あの手塚治虫さんは、ディズニーが自分の作品とあまりに設定が似た映画を出したとき、周囲の人に訴えることをすすめられましたが、次のように答えたそうです。
 「自分だってディズニーの映画には大きな影響を受けてきたのだから、まあ、しょうがないよ」
 真似されるのもまた、名作の証明、なのかもしれません。まあ、やりすぎると「武蔵」のように、かえって視聴者をしらけさせてしまうだけですけど。

 黒澤監督本人が生きておられたら、いったいどのように思われたでしょうね…
 



2004年01月19日(月)
「スチュワーデス物語」から「エースをねらえ!」へ

サンケイスポーツの記事より。

【歌手で女優の上戸彩(18)が新年早々から好スタートを切り、女優としての大飛躍を予感させている。

 今年最初の大きな仕事となった15日スタートのテレビ朝日系主演ドラマ「エースをねらえ!」(木曜後9・0)が、初回視聴率13.7%を記録。好発進を切った。

 女優としての活躍ぶりが評価され、「エランドール新人賞」「ゴールデンアロー映画新人賞」「日本映画批評家新人賞」を受賞し、まず3冠を達成。2月20日に開かれる「日本アカデミー賞」では、新人俳優賞と主演女優賞の候補にあがった。同賞でWノミネートされるのは史上初。2冠奪取となれば計5冠となる。

 また、今夏公開予定の映画「インストール」(片岡K監督)は、先頃発表された芥川賞を最年少で受賞した綿矢りささん(19)の処女小説が原作。芥川効果で映画に対する注目度もアップすることは必至なだけに、強い“追い風”となりそうだ。昨年は「あずみ」で映画に初主演するなど、女優として、つぼみを開いた上戸。今年は大輪の花を咲かせるかもしれない。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このドラマ「エースをねらえ!」は、有名マンガの実写ドラマ化なわけですが、いろいろ話題になっているみたいですね。
 まあ、どっちかというと「イロモノ的な話題」ではあるのですが。
 「キャプテン翼」を実写ドラマ化したら「少林サッカー」になってしまった、という感じでしょうか。
 しかし、おそらくこの「エースをねらえ!」は、かなり狙ってやっているんじゃないかなあ、という気もするのです。
 「非現実的な若い女の子と先生のドラマ」といえば、僕の世代的には「スチュワーデス物語」なわけですが、あのドラマが放映されていたときには、けっこうみんな「あんなのありえない!」とか「あんな堀ちえみみたいなやつはいない!」とか、そのリアリズムについて真剣に文句を言う人が多かったような記憶があります。
 まあ、文句を言いながら、手袋を口でくわえて脱いだりしていましたけど。

 でも、今回の「エースをねらえ!」は、もともとがマンガだということもありますが、「演出がショボイ」とか「いくらなんでも、テニス部員にしては下手すぎ」とか言う声はあるものの「リアルじゃない」なんて文句を言う人はほとんどいないみたいです。
 作る側も「狙っている」し、見る側も「なんだこれ!」とかブツブツ言いながら、ブツブツ言うことに楽しみを見出している、という感じ。
 そういう意味では、僕たちがテレビ番組に求めるものというのは、時代の流れとともにどんどん変わってきているのかもしれませんね。
 上戸さんの本音としては、一生懸命演じていた「高校教師」や「ひと夏のパパへ」(特に後者は、視聴率3%で有名になってしまいましたし)はみんな観てくれず、むしろコントみたいな「エースをねらえ!」のほうが視聴率が良い、というのは、内心納得できないかもしれないなあ、なんていう気もするんですが。
 「女優としての大飛躍」とは、ちょっと言いがたいかな…



2004年01月18日(日)
「参加する人間」と「観察する人間」

「濃い人々〜いとしの作中人物たち」(群ようこ著・講談社文庫)より。

【周りの既婚者を見ても、順風満帆できた夫婦はほとんどいない。山あり谷ありどころか、谷ばかりという夫婦もいるが、お互いにぶつぶつと文句をいいながらも別れずにいる。
「私だったらとっくに別れちゃうのに」
 といつも考える。人のお金で生活したいと考えるようになってから、どうして自分は結婚する気にならなかったのかと自己分析してみると、私は「参加する人間ではなく、観察する人間」だからだ。興味がある事柄には積極的に参加するが、そうでないことには鼻もひっかけない。結婚は男女が造り上げていくものだ。そういう気力が私には全くない。世間体もどうでもいい。女だから結婚しなければとか、子供を持たなければなどとも思わない。そんなことよりも他人の慰謝料の話にものすごく関心を持ち、どのような夫で、どんな生活をしていて、どういう理由で離婚に至ったかを、あれこれ考えるほうが楽しい。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これを読んで、思わず「僕もそうだなあ…」と頷いてしまいました。
 確かに、人間には大きく分けて「参加する人間」と「観察する人間」との二つのタイプがあるのかもしれません。
 僕はスポーツ一般は大の苦手なのですが、観るのは結構好きです。格闘技も自分が誰かと殴りあうのはまっぴらごめんですが、他人どうしが殴り合いで「どちらが強いか」を決めるのは嫌いじゃありません。
 スポーツとかだととくに「観てるだけじゃ、面白くないんじゃない?自分でやってみたら?」というように勧めてくれる人がいるものですが、運動神経が鈍い人間としては、自分でやるのはストレスが溜まるばかり。

 同じように、世の中の「ニュースが好きな人」が「政治的な活動をしている人」と一致しているとは限りませんし、「恋愛小説が好きな人」が、現実の恋愛に対して積極的とは限らない。
 もちろん、スポーツを観ていて自分ではじめる人もいるでしょうし、小説を読んで、小説家になろうと自分で書き始める人もいます。
 ただ、「観察すること」のほうが好きな人、観察するだけで満足してしまうタイプの人もいる、というのは、動かせない事実なのではないでしょうか。

 僕もこうやって、世界の状況とか自分で考えたことについて、とりとめもなく書いているのですが、その一方で、選挙の投票にはあまり積極的に行きませんし、戦争反対デモに参加したこともありません。
 「言行の一致」という観点からいえば、恥ずかしいことこの上ないんですが、たぶん、僕も「観察する人」なのだと思います。現実に参加するのは苦手でも、現実にツッコミを入れるのが大好きな。
 とはいえ、僕はまだ、群さんのように「世間体なんてどうでもいい」とまでは悟りきれず、こうして毎日「参加している」わけですが。

 ところで、僕は最近、この人が羨ましいなあ、と思う人がいます。
 それは、日本ハムに入団した新庄選手で、彼は、何も考えていないようで、やることが絵になるタイプ。天真爛漫でマイペースです。
 僕もああいうふうに、行動的な人間になりたいなあ、なんて同世代の男として憧れます。自分には無いものを持っている、陽気なムードメーカー。
 彼は、典型的な「参加する人」なんでしょう。

 しかし、なかなか真似できるものじゃないんですよね、現実には。
 新庄選手は「新庄のように生きよう」なんて思ったこともないでしょうし、そんなふうに意識してしまうこと自体が、「観察する人」の限界なのかもしれません。

 まあ、僕も含めて、多くの人は「参加する人間」である自分と「観察する人間」である自分の微妙なバランスをとりながら、日常生活を送っているのです、きっと。


  



2004年01月17日(土)
「来年咲く花」

「天狗の落とし文」(筒井康隆著・新潮社)より。

【「この花は来年咲きます」
 花屋の店頭で、裸女を思わせる風変わりな植物の鉢植えを見つけ、主人からそう聞かされてさっそく買った。どんな花が咲くのだろうと楽しみにしていたのだが、翌年は咲かなかった。来年咲くのだろうと思っていたが、その翌年も咲かなかった。おれはやっと気がついた。これは常に「来年咲く花」なのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これは常に「来年咲く花」。
 この話を聞いて、どう思われたでしょうか?
 この花屋の主人は酷いやつだ、と感じる人もいたのではないかなあ。
 でも、僕はなんだか、この花にとても惹かれてしまったのです。
 おそらく、この花の「正体」に気がつく前の主人公と同じように。
 「来年咲くはずの花」には、行く前の旅行や読み始める前の本のような、「想像する楽しみ」がたくさんつまっています。
 その状態なら、誰もが心の中で「理想の花」を咲かせることができるはず。
 現実にもし「来年」どんなに綺麗な花が咲いたとしても、それはたぶん、僕が「咲くと思っていた花」の美しさにはかなわないと思うのです。

 「世界に一つだけの花」ではありませんが、「可能性」というのは美しいものだと思います。同じ「貧乏でカップラーメンばっかり食べている生活」でも、夢を追っている若者の場合は、なんとなく明るくて、独居老人の場合は、強い哀調が感じられるのは、このためなのでしょう。
 もっとも、「可能性」というのは、年齢だけに左右されるものではありませんが。
 
 それにしても、この世には「来年咲くはずの花」が、どんなに多いことか。僕自身も、自分のことを「来年咲く花」だと思い込みながら、結局、まだその花を見ることができていないような気がします。

 夢とか希望とか可能性というのは、人間を満たしてくれます。
 でも、その一方で、その「来年咲く花」の想像ばかりしていてもいいのかな、という気もするのです。
 傍目からみたら、もう枯れきっているのに「これから花が咲く」と思っている人は、けっこう多いのではないでしょうか?
 それはそれで、ひとつの「幸せ」なのかもしれないけれど。



2004年01月16日(金)
もう一度、「代理出産」について。

毎日新聞の記事より。

【米国人女性に代理出産を依頼し、昨年11月に双子の男児が誕生したタレントの向井亜紀さん(39)と元格闘家の高田延彦さん(41)夫妻が15日、東京都内で会見した。日本では代理出産は実施されておらず、国が検討中の生殖補助医療法案でも禁止の方向だが、向井さんは「子供をつくる夢をどうしてもあきらめられなかった。あきらめずによかった」と喜びを表した。高田さんは「子供たちには日本人と米国人のお母さんがいることを語りかけながら育てたい」と話した。

 向井さんは00年、妊娠中に子宮がんが見つかった。出産をあきらめて子宮を摘出した後、夫妻の精子と卵子を体外受精した受精卵を別の女性に移植して出産してもらう代理出産を目指し、3度目の挑戦で成功した。

 代理出産した女性には謝礼として約200万円払った。医療機関へはこれから費用を支払うが、請求書が届いていないので金額は不明という。

 夫妻は米国で高田さんを父親、向井さんを母親とする出生証明書を受けており、近く区役所に出生届を出す。

 代理出産については、法務省が昨年11月、米国での代理出産で子供をもうけた50代夫婦からの出生届を不受理にした。夫婦は子供を自分たちの子として届けたが、法務省は「子供を産んだ女性が法律上の母親になる」と判断した。

 向井さんは「私を母親とする出生届が認められなければ、子供を産んでくれた米国人女性との間で養子縁組したい」と話している。高田さんは「目の前にある二つの命が大切で国籍問題にはこだわらない」と語った。】


参考リンク:「いい遺伝子」と代理母出産(「活字中毒。」2002年3月7日)

〜〜〜〜〜〜〜

 向井さんと高田さんの「代理母出産」については、以前にここで書いたことがあります(上記リンク参照。ああ、僕もあの頃は若かった。まあ、2年も前の話なので、誰も覚えていないかもしれないけれど。
 僕自身には、今のところ「自分の子供が欲しい」という切実な願望がないのですが、あれだけ嬉しそうに会見している夫婦の姿をみていると、「よかったねえ」なんて素直に祝福したい気持ちになるのも事実です。
 彼ら夫婦は子供ができて幸せ、代理母になった女性もお金がもらえて幸せ(かどうかはわかりませんが、200万円というのは、結構安い気もしますね。その他にいろいろな経費もかかるのかもしれないけど)。それで、何か文句があるの?と言われたら、2年前同様、「まあ、赤の他人がとやかくいうことじゃないし」としか答えようがありません。国籍についても、「日本国籍にしてあげても、別にいいんじゃない?」というくらいの印象ですし。

 それでも、なんとなく心に引っかかるものがあるのも事実なんですよね。「代理母」というものに対して、違和感を感じてしまう面はあるのです。
 ひとつは、「代理母」という存在。お金と引き換えに他人の子供である命を産み出す「道具」となる人間がいるというのには、正直、あまり良いイメージが湧きません。妊娠というのは母体にとってもそれなりにリスクを負う行為であって、お金のために自分の体を売るのか?などとも考えてしまうのです。「代理母」という制度が成立する裏には、日本人が海外で臓器移植を行うのと同じように「経済的な格差」が存在するのは否めないところです。
 もし、アメリカ以外の日本より貧しい国で安い費用で代理母による妊娠が可能になれば、おそらく、日本人の夫婦は、もっと「代理母」を利用するようになるのではないでしょうか?
 生身の人間を「代理母」とする以上、どんなにキレイ事にしようとしても、「金で母体を買う行為」ではあるのです。そして、お金や社会的な名声がある人ほど、そのチャンスに恵まれる可能性は高い。
 向井さんが「同じような境遇にある人に勇気を与えられれば」と言うたびに、画面の向こうでは、
「いいよなあ、お金持ちは…」と呟く「同じような境遇の人」がいるような気がしてならないのです。
 もちろん、向井さんと高田さんは、不正行為で自分のお金や名声、人脈を得たわけではありませんから、「頑張っている人に、それなりの見返りがある」という意味では、くじ引きのような「悪平等」よりは、はるかに正しいのかもしれませんが。
 でも、「人間って、やっぱり平等じゃないよなあ」なんて考えてしまうのも事実で。

 その一方で、もし自分の家族に臓器移植が必要になった場合、僕はどうするか?とも思うのです。それしか方法がなければ、「日本人が金をばらまいて臓器を買っている」なんて非難されるとしても、非合法的な方法だとしても、移植を受けさせようとするのではないか、と。

 「命」というものを自然の流れにおいて考えれば、「普通にセックスして子供ができないのは仕方がない」し、「臓器移植までして生き延びようとするのは不自然」なのかもしれません。
 でも、その個体それぞれの意志としては、「子供が欲しい」「生きたい」というのは、「自然なこと」なのです。
 そういう「個体としての欲求」と「人類の一員としての一般論」というのが、ずっとずっとせめぎあいながら、人類は進歩してきたわけで。

 「代理母は人類にとって正しいのか?」おそらく、多くの正常な生殖能力を持っている人間にとっては、「不自然」なんですよね、きっと。
 僕も、天然モノじゃない、養殖された魚みたいな感じがどうしてもしてしまいます。不躾で申し訳ないのだけれど。

 結論としては、2年前と同じように、「子供が欲しい夫婦と代理母をやってくれる人と技術があれば、あとは本人たちしだい」ということになってしまうのですが…

 「産まれて死ぬことだけは、すべての人間にとって平等」というのは、よく使われる言葉なのですが、生まれてすぐに飢餓で亡くなってしまう子供や水道料金も払えないような経済状態なのに作られてしまう「大家族スペシャル」の子供たちがいる一方で、「他人のお腹を借りてまで産まれることを望まれる子供」がいる、というのは、「命の平等」という観念のウソを僕の前に突きつけているような気がするのです。
 「命の平等」というのは、多くの場合「富める者の自己弁護」なのかな、なんて。
 これは、優秀な遺伝子を残すための、自然の淘汰なのでしょうか?
 ひょっとしたらそんなに遠くない未来に、富める国の夫婦がが貧しい国の若い女性のお腹でどんどん子供を作り、貧しい国の人々はどんどん減っていく、なんてことになっていくのでは…
 いままで「自然の摂理」でコントロールされていた「個体としての欲求」が、医学や科学の進歩によって「人間の理性による自主規制」なしでは、暴走してしまう時代、それが現代なのではないでしょうか。

 それにしても高田さん、最近、プロレス界の暴露本を出して自分や仲間の過去を貶めたり、「PRIDE」のリングの上で「出てこい!ポークアンドチキーン!」なんて狂言回しをやっているあなたの姿は、正直観ていて恥ずかしいです。
 代理出産の費用がよっぽどかかったのかもしれないけど、いくらなんでも、ねえ…



2004年01月15日(木)
「ヤッたかヤッてないか?」なんて、たいした問題じゃない!

日刊スポーツの記事より。

【歌手マルシア(34)俳優大鶴義丹(35)夫妻の離婚騒動で、大鶴と一夜を共にしてマルシアに目撃された女性が「女性セブン」のインタビューに応じた。10月に都内の大鶴の自宅に泊まったことは認めたが「100%、誓ってヤッてないです」と男女関係は否定した。自宅で女性は大鶴から借りた短パンをはいており、マルシアはカメラ付き携帯で彼女の写真を撮ったという。
 15日発売の「女性セブン」によると、この女性は航空会社の客室乗務員Aさん(26)。170センチ近い長身でスタイル抜群、黒い瞳が印象的な美人だという。
 Aさんによると、大鶴とは昨年夏ごろ、友人の紹介で知り合った。同10月に都内にある大鶴の自宅で行われたホームパーティーに参加。大鶴の知人が大勢集まったが、「家が遠い」ということで彼女1人だけ泊まった。大鶴は酔いつぶれており、寝た部屋は別々だったとい
う。男女関係については「絶対、100%、誓ってヤッていないです。ヤルなんてありえない」と否定した。
 翌日昼すぎに起きて顔を洗おうとした時、ちょうど帰宅したマルシアと鉢合わせになった。「服がくしゃくしゃになるのが嫌なので」と大鶴に借りたTシャツと短パン姿だったという。マルシアと大鶴が激しい言い合いになり、マルシアはカメラ付き携帯電話でAさんを撮影した。
 マルシアは会見で、この浮気現場の目撃したことで、長女弥安ちゃん(6)を連れて家を飛び出したと説明した。一方で同誌は、マルシアが携帯電話の履歴をチェックしてAさんの存在を知り、大鶴と大げんか。ホームパーティーの数日前に家を出ており、その日はたまたま荷物を取りに戻ったとしている。Aさんは「私はもう(マルシアに)たたかれると思って、言われるままにしていました。申し訳ないって思います」と話している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「100%、誓ってヤッてない!」というのは、なかなか凄いです。いかにも「女性セブン」だなあ、なんて妙な感心をしてしまいます。まあ、本人が本当にそんなに下品な言葉を使ったのかどうかは別として。

 「瓜田に靴を入れず、李下に冠を正さず」という、有名なことわざがあります。これは、「畑に入りこんでいる人や果樹園で手を頭の上にかざしているような人は、作物泥棒と思われても仕方ない、という例えで、要するに「むやみに誤解を招くようなことはしないほうがいい」という意味なのですが。
 客観的にみて、このシチュエーションで、「100%ヤッてない!」なんて言われても、ちょっと信じ難いものではあるでしょうね。「99%そういう関係なんじゃない?」というくらいが一般的な反応かと。
 だって、いくら仲の良い友達でも、短パンは貸さないと思います。それとも、芸能界ではそのくらいが普通なんでしょうか?

 しかし、このインタビュー記事から推測すると、大鶴さんとマルシアさんの離婚危機というのは、今回の「浮気」だけが原因ではないんじゃないかなあ、という気もするのです。
 マルシアさんの「携帯電話の履歴を調べて」なんていうのは、何もやってないにしても自分のパートナーにされたら嫌なことですし、「たまたま荷物をとりに家に帰った」というのも本当かなあ、なんて思います。そんな都合のいいタイミングで、荷物というのは取りにいくものなんでしょうか?
 まあ、ものすごく頻回に「そういう行為」が行われていたら、そんな「偶然」もあったのかもしれないけど。

 それにしても、この女性は「ヤッたかヤッてないか」に拘っているような印象を受けるのですが、もし僕がマルシアさんの立場だったら、パートナーが自分がいないときに異性を連れ込んでいる、という段階でアウトです。そういう状況だったら、普通「勢いでヤッてても仕方がない」わけですし、実際の行為が行われていないとしても、そういう無防備な状態になってしまうことが既に「実質的な浮気」なのではないでしょうか?

 たぶん、この女性にとっては、「ヤッたかヤッてないか」というのが、「浮気かどうかの分かれ目」なのでしょう。でも、そういう分岐点は、人それぞれです。
 「酔っ払ってトモダチの男の家で服借りて寝るくらいはセーフ」というのは、あまりに一般常識からかけ離れているんじゃないかなあ?
 それとも、現代の「ボーダーライン」って、そんなものなんですか?

 僕個人としては「相手が男友達でも、食事くらいならいいよ」と口では言いつつ、奥歯をギリギリと磨り減らず、まあ、そんなもんです。

 三田さんの息子さんもお好きだったようですが、怖いよなあ、ホームパーティって。



2004年01月14日(水)
「恥ずかしい初デート」の裏側で。

「阿川佐和子のガハハのハ〜この人に会いたい3」(阿川佐和子著・文春文庫)より抜粋。

(本上まなみさんとの対談の一部)

【本上:中学校の頃、友達経由で初めて「付き合いたい」って言って来た子がいて、それまで普通だったのに、いきなり意識して「好きかも」と思っちゃって、付き合うことにしたんですけど、お互いに緊張して怖いぐらい黙りっぱなし(笑)。

 阿川:デートしたの?

 本上:はい。映画観に行きました。

 阿川:何の?

 本上:恥ずかしくて言えない(笑)。

 阿川:『エマニュエル夫人』?(笑)

 本上:違いますよぉ、『バットマン』。私は全然面白くなかったんです。それでも、映画は黙って観てればいいから、まだいいんですけど。帰りにとぼとぼ歩いて、喫茶店に入って向かい合わせに座っても座りっぱなし。

 阿川:つらそう……(笑)。

 本上:で、またとぼとぼ歩いておもちゃ屋さんの前に来たら、「ちょっと待ってて」って言って、大きな包みを抱えて戻って来て、「これ、あげるよ」って。

 阿川:きゃあ〜、愛のプレゼント!

 本上:真っ赤になって「ありがとう」って言ったけど、開けてみたらヘンな犬のぬいぐるみで、全然可愛くないの(笑)。

 阿川:これ読んだら、傷つくよ、彼。

 本上:それが、半年に一回ぐらい黙ったままのデートをして、二年ぐらい付き合って、卒業と同時にそれっきりになったんですけど、大学生になってから再会して……。

 阿川:焼けぼっくいに火がついたの?

 本上:全然。「あの頃、ヘンだったよねえ〜」って話で盛り上がって(笑)。今では何でも喋れる、すごい仲良しの友達になったんです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 もう年上の雑誌編集者と御結婚されてしまった本上まなみさんですが、これは、結婚される前、2000年9月14日発売の『週刊文春』に掲載されたものです。
 この本上さんの初デートの話、僕は、読んでいてなんだか微笑ましくなってしまいました。ああ、なんかそんな感じなんだよなあ、というか、なんだか、その現場にタイムマシンで行って、「それじゃダメだよ!」って相手の男の子に教えてあげたいというか…
 まあ、これが当時のスタンダードだったのか、本上さんたちがちょっと特殊だったのかはわかりませんが、ちょっと田舎の中学生なんて、こんな感じですよね、きっと(というか、僕自身は中学時代にそんな経験ないもんだから、よくわかりません、本当は)。

 でも、大人になって昔の部活の知り合いや後輩に再会したときって、「そういえば、あのとき、○○君に告白されてて大変だったんですよ〜」とか、「先輩が彼女のこと好きだったの、バレバレでしたよ!」とか言われて、けっこう意外な思いをしたり、ショックを受けたりすることってないですか?
 そういう「昔の謎解き」って、同窓会のときにすごく盛り上がる話題ではあるんですよね、実際のところ。
 笑いながら、内心微妙に傷ついたりしていることもありますが。
 ほんと若い頃って、後から思い出すと恥ずかしいことばかり。

 でも、そういう「恥ずかしい時代」を一緒に過ごした人というのは、たぶん、一生の宝物なのだと思います。「お互いの恥ずかしい場面をたくさん知りあっているというのは、なんだか「戦友」みたいなもので。
 高校・大学時代の友達が、社会人になってからの友達とちょっと異質な存在なのは、きっとそれが、「恥ずかしい時代」だからなのでしょう。

 ところで、僕は昔の知り合いの(ちょっと好きだった)女の子と会うときに、痛切に感じることがあるのです。
 「今の自分と当時の彼女だったら、きっといろんなことが上手くいっていたのになあ」って。
 われながら、未練がましいとは思うのですけど。



2004年01月13日(火)
「安全・安心」と「コストパフォーマンス」のあいだに

【BSE(牛海綿状脳症)の発生に伴う米国産牛肉の輸入禁止をめぐり、12日のNHKの報道番組で吉野家ディー・アンド・シーの安部修仁社長と亀井善之農相が、「安全・安心」と「需給の安定」を巡り“舌戦”を展開した。

 牛肉を全面的に米国産に頼ってきた安部社長は、政府が輸入再開に全頭検査か同等の安全対策が必要としていることについて「科学的な『安全』の根拠を超えた『安心』の基準は情緒的で、いたずらに輸入がストップして豪州産牛肉などの(価格)高騰を招く」と政府に再考を求めた。輸入再開の条件をめぐって米国が「全頭検査は科学的根拠がない」として難色を示しているのに同調した形だ。

 この後番組に登場した亀井農相は、日本では昨年に全頭検査の結果、従来は安全だとされていた1歳11カ月と1歳9カ月の若い牛の感染が確認されたことなどを挙げ、全頭検査が必要だとの考えを譲らなかった。国内外の関係者を巻き込んだ論争はまだ続きそうだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 たぶん、この番組を観た人は、「自分の会社(吉野家)のために、国民の安全性をないがしろにする吉野家社長、というイメージを持ったのではないでしょうか。
 僕もその番組そのものは観ていませんが、この記事を読んでそんな印象を受けましたし。

 そして、僕がこの話を読んでもうひとつ思い出したのが「がん検診」の話なのです。「癌の種類によっては、あまり検診の意味がない」という話を耳にされたことはないでしょうか?
 それは、簡単にまとめてしまうと、費用対効果というか、「検診を行って早期発見を行うことによる治療効果や社会的メリット(治った人が長く働ける分とか、手術の範囲が狭くなることによる治療コストの軽減など)が、その検診を全国的に行うための費用よりも小さい」ということなのです(あんまり簡単じゃなかったですね、ごめん)。

 今回のアメリカ産牛肉の輸入問題にしても、アメリカ側だって、本心としては「全頭検査をしたほうがいい」というのは認識しているのだと思います。ただ、それにかかるコストを考えると、「絶対的ではないが、かなり安全性の高い検査」というので代用しようということなのでしょう。こういう検査というのは、ある程度の精度を超えると、急激に飛躍的にコストが上がってしまうことが多いわけですから。
 場合によっては、99.0%を99.9%にするために、費用が10倍くらいになることだってあるのです。
 こういうのがアメリカ的な「コスト意識」で、「多少リスクが上がっても、それが微々たるものならある程度のところで妥協して、コストパフォーマンスを重視する」という発想なのでしょう。

 しかし、考えようによっては「どうせ100%は望めない」のであれば、どこかで妥協点を見出さなくてはいけないのも確か。「肉の値段が今の10倍になっても、全頭検査をするのか、それとも、アメリカ側の言う「統計学的に安全な検査」で妥協するのか、というのは、非常に難しい問題だと思います。

 結局、「安心の感覚」なんて、確かに情緒的なものなんですよね。
 「ここまでやれば安全だろう」っていう。
 ただ、僕自身は、医療経済学的には「ムダ」であるがん検診で、早期癌が発見されて助かった人などをみているだけに、「コストに見合わない検査は無意味だ」とは言い切れない気がするのです。
 アメリカは、「対費用効果が得られないような検査をするくらいなら、多少リスクが上がっても仕方がない」という国なんでしょうし、それが国の政策として「悪いこと」なのかどうかは、なんともいえないところもあるのです。
 僕はやっぱり、少々高くても安全なほうがいいですけど、ものすごく値段が高くなったらどうか?と問われると、やっぱり考え込んでしまいます。
 おそらく、「牛肉そのものを食べない」という選択肢に落ち着きそうですが、他の食べ物だって安全とは限らないし。

 しかし、アメリカ側も日本に輸出したいのであれば、自分たちのコスト意識を押し付けるのではなく、日本人の「情緒的な安全感覚」に配慮してくれてもいいのになあ、とも思うのです。やっぱり、早期癌が見つかって生き延びた人は、「検診受けて良かった」と言われるわけですし。それにアメリカは、自国では禁止されている農薬を使った果物を日本に輸出してきたこともありますしねえ…

 「絶対に安全な食べ物」なんて、この世には存在しないのだろうけど。



2004年01月12日(月)
行き過ぎた注射訓練?

読売新聞の記事より。

【茨城県ひたちなか市消防本部の救急救命士9人が、医師の指導を受けずに、互いの腕に注射する訓練を繰り返していたことが12日、分かった。
 同本部は「薬液を使っていないので違法ではないが、医師の指導を受けないで注射針を刺したことは問題」として、すでに9人を厳重注意にしている。

 同本部の説明によると、9人は24―45歳の救急救命士で、1997年から昨年10月ごろまでの間、複数回にわたり、仲間同士で静脈に留置針と呼ばれる注射針を刺す訓練を行っていた。回数が最も多い救急救命士で、5―6回行っていたという。

 救急救命士は、医師の指示を受け、搬送中の患者に心臓の循環機能を促進させる薬などを注射することが多い。しかし、救急救命士法では、医師の指示がなければ医療行為を行ってはならないと定められている。

 同本部の川上隆幸次長(56)は「生身の人間に注射する機会が少ないので、その不安を取り除くために仲間内で訓練したのではないか。今後は訓練の機会を増やすよう、提携関係の病院に協力を要請した」と話している。】

〜〜〜〜〜〜〜

 これってやっぱり、「行き過ぎた訓練」なんでしょうか?
 いや、「全く経験がない」人たちが集まって練習しあっていたのならともかく、それぞれ救急救命士になる前に訓練を受けているはずなのでは…
 普通に考えると、「どうやって練習するか?」と考えると、いちばん妥当な方法は、こうやってお互いの腕で注射の練習をすることだと思うのですが。
 確かにサーフロー針と呼ばれる留置用の針を刺すのは、普通の採血用の針を刺すのとはまた違った感覚があり、慣れないとけっこう難しいものです。そして、救命士がその行為をやらなければならない状況というのは、患者さんの容態も切迫していて「注射もやりにくいし、失敗が許されない」という状況。
 医者や看護師でも人間に注射針を刺すのには練習が必要ですから、僕は彼らがそういうふうに練習することって、当然なんじゃないかなあ。
 いきなり患者さんや搬送中の人で練習するわけにもいかないし、かといって、しょっちゅう病院で練習するわけにもいかないですよね。
 医者が頻繁に出向いて、お互いにやればいい、と思われるかもしれませんが、ああいう仕事は、やり方を教えたら、あとは「経験の問題」なんですよね。もちろん、個人差はあるでしょうけど。

 実際の本部の対応が、そんなに厳重なものではないところからみても、そんなに「悪いこと」というイメージは、当事者たちもあんまり無いんじゃないでしょうか?
 人間に針を刺すというのは、刺す側だって怖いんですよ。
 絶対いつでもやれるような簡単なことだったら、誰も痛い思いをして練習しないって…

 でも、これってどうして問題になったんでしょう?
 ものすごく下手な人が、とんでもない注射をしたのかな…
 



2004年01月11日(日)
「ヒマだなあ」と感じられなくなった人間たち

「ファミ通」(2004.1/23号・エンターブレイン)の浜村弘一さんのコラム「浜村通信」より。

【4人集まって『マリオカート』を必死でプレイしている子供たち。レース中は必死で画面に見入っている。しかし、誰かが勝って、その順位とポイントを表示するデモ画面になると、急にてんで、勝手なことを始める。ゲームボーイで『ポケモン』を進めたり、コロコロコミックを読みふけったり。でも、それでいてしっかりレース中の感想を述べあっているのだ。「ゴール直前で赤甲羅発射したの誰だよ?むかつくー」やがて画面からレース開始を知らせるファンファーレ。子供たちはおのおの興味の対象を床に放りだし、コントローラーを握り、スタートダッシュのためにAボタンを連打し始める。ゲーム中、ずっとこのサイクルを繰り返している。なにもこれが特別なことではない。いつものように日常のゲームスタイルをくり返しているのだ。ゲームを遊びながら、合間にマンガを読み、友達との会話も楽しむ。一度に多くの情報を並行して処理しているのだ。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このあと浜村さんは自分のことを振り返ってみて、子供だけのことではなく、「ネットワークゲームをやりながらチャットをしたり、メールの返事を書いている自分」に気がつくのですが、この話、僕も自分で心当たりがあったので、すごく印象に残りました。
 「トイレで新聞を読む」なんていうのはさておき、人間の情報処理能力というのは、この情報過多の社会に適応するために、飛躍的に上昇しているのではないか、なんて思ったり。
 僕自身は、もともとの性格もあるのですが、最近は「ヒマだなあ。やることないなあ」なんて感じたことがないような気がします。
 「やらなきゃいけないことはあるんだけど、今はやりたくないなあ…」と思うことは結構あるんですけどね。
 確かに、ゲームにしても、「何十時間もかかる、超大作RPG」よりも、短時間にできるパズルゲームや「ダービースタリオン」のような育成ゲームを選びがちです。
 そして、僕も高校や大学のときに「ダビスタ」をやりながら、ずっと本を読んでたんですよね、そういえば。まさにBGMのように。
 それでいて、ゲームの肝心な場面は見逃すことはなかったような気がします。
 ただ、その方法だと、情報誌やエッセイを読むことは可能でも、ストーリーをしっかり追わなければならないタイプの小説を読むのは、確かに厳しかったような。

 今は携帯電話のiモードなどもできて、僕はちょっとした時間についつい携帯をカチャカチャやりたくて仕方がなくなるのです。道を歩きながらとか、電車の中でとか。
 ああいうものが無い時代は、本でも読むか、手持ちがなければ中吊り広告でも眺めながら考え事でもするしかなかったのに。

 最近「自分が手持ち無沙汰であることに耐えられない」というのを実感することが多いのです。30過ぎると、自分に何かをインプットしていくために残された時間がどんどん減っていくような気がしますし。
 「何もしない」ということに、非常にストレスを感じるのです。
 でも、実際にやることはネットを徘徊したり、地域情報誌で行くはずのない店の情報を仕入れたり、なんてこと。

 僕が子供の頃は、夜というのは本当に「何もすることがない時間」でした。テレビの放送時間が終わってしまえば、本を読むか、せいぜい深夜放送を聴くくらいのもので。
 でも、そんな暗くて何もない世界で、いろんなことを考えたような気もするのです。もちろん、「死んだらどうなるんだろう?」とか、あまり気持ちのいいことではないことが多かったのですが。

 でも、現代では、テレビがなければビデオを観ればいいし、ゲームだってあります。さらに、ネットは不夜城です。
 これだけやることがあれば、たぶん「何もすることがなくて自分で考える時間」というのは、どんどん減っていくのではないでしょうか?
 そして、本質的ではない、うわべだけの知識が、どんどんインストールされていく。
 「映画は映画館で観たほうがいい」というのは、単に画面の大きさや音のよさだけではなくて、「映画に集中できる(せざるをえない)環境」という要素も大きいのです。家でビデオ観てたら、電話がかかってきたり、一時停止してコーヒー注ぎに行ったりしてしまいますし。

 どんなに情報処理能力が増しても、人間の「情報欲」というのにはキリがないものだなあ、とつくづく思います。ほんと、ネット上の知識の大部分は、「生きていくためには全く必要がない知識」なのに。
 
 「人間のようなコンピューター」ができるより、「人間がコンピューターになってしまう」ほうが意外と早いかもしれませんね。

 それとも、これが「ニュータイプ」なの?
 



2004年01月10日(土)
「本質的にロマンチックな仕事」

「もし僕らのことばがウイスキーであったなら」(村上春樹著・新潮文庫)より。

(村上さんを案内した、スコットランド・アイラ島のウイスキー蒸溜所のマネージャー、ジム・マッキュエンさんの言葉)

【「ウイスキー造りを僕が好きなのは、それが本質的にロマンチックな仕事だからだ」とジムは言う。「僕が今こうして作っているウイスキーが世の中に出ていくとき、あるいは僕はもうこの世にはいないかもしれない。しかしそれは僕が造ったものなんだ。そういうのって素敵なことだと思わないか?」】

〜〜〜〜〜〜〜

 何かを創造する仕事の魅力というのは、この言葉に尽きるのではないかな、などと僕は考えてみるのです。
 今のところ、人間は「死」という宿命を背負っています。「死んだら何もなくなってしまうんだから怖くないよ」という人もいうけれど、それは「死」というものが身近なところにない状況でのこと。
 そう、「何もなくなってしまう状態」「『何もない』ということすら感じられなくなってしまう状態」というのが、死の恐怖であるわけですし。
 それに、病気や外傷による苦痛、老いなど、「死んでいくというプロセスへの恐怖」というのもあるでしょうし。

 結局、人間というのは、自分が永遠に生きられないのなら、せめて自分の形見をこの世界に遺していきたいのかな、という気がします。
 それは人によっては自分の遺伝子を分けた子供でしょうし、人によっては芸術作品や研究の成果でしょうし、人によっては手記やお金かもしれません。
 「人間には2度の『死』がある。1度目は肉体的な死、2度目は、その人のことが忘れ去られるという死だ」という有名な言葉があります。
 2度目の死を少しでも先延ばしにしたい、というのは、どんなに満足な人生を送った人でも(むしろ、そういう人のほうが、かもしれませんね)避けがたい欲求なのでしょう。

 WEB日記なんて、まさにそういう「形見」みたいなものなのかな、なんて思うことがあります。
 相手は特定の誰かではないし(これはあくまでも僕の場合ですが)、ジム・マッキュエンが遺そうとしているウイスキーのように、こうして書いているものの中のカケラだけでも、この世界に遺して、誰かに伝えたいというささやかなる希望。

 実際は、そんな堅苦しい話じゃなくて、飲んで(読んで)もらって、「美味しかった!」と一言いってもらえれば、それで充分。

 しかし、あらためて考えると、こうして書いたものを顔も知らない誰かがどこかで読んで、心を少しでも動かしてくれるとしたら、それはやっぱり「ロマンチック」なことですね…



2004年01月09日(金)
「はとバス」成人式に素直に感動できますか?

共同通信の記事より。

【仕事のため故郷の成人式に出席できない地方出身のバスガイドらを対象に「はとバス」は9日、東京都大田区の本社で一足早く成人式を開いた。
 式には、北海道から鹿児島県までの16都道県出身の新成人23人が、いつもの制服ではなく色とりどりの晴れ着姿で出席。華やかな雰囲気の中、記念撮影やくす玉割りをした後、明治神宮へ参拝に出掛けた。
 全員が入社2年目。新人時代は皇居や東京タワーを巡る都内の半日観光でさえ苦労したが、今は鎌倉や房総半島まで担当エリアも広がった。
 青森県深浦町出身の藤田妙子さん(20)は「着物姿の写真を感謝の気持ちを込めて、いなかの両親に送りたい」と笑顔。熊本県鏡町出身の岩崎真里奈さん(20)は「まだ勉強不足ですが、一人前のガイド目指して頑張ります」と話していた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 うーん、まあ「いい話」ではあるんでしょうけど、僕はこれを読んで、「わざわざみんな集めて晴れ着を着てもらって成人式もどきをやるくらいなら、成人式の日に休ませてあげたらどうなんだろう?と思いました。
 もちろん、成人の日(最近では式典が行われる日は自治体によって違うようですが)は、連休にもなりますし、かきいれどきですから、休ませるわけにはいかないという事情もあるんでしょうけど。
 でも、彼女たちがみんな地元の成人式に行ったら、もうやっていけないくらいしか、はとバスのスタッフは少ないのかな…最近では、どこも人手に余裕ないですしね。

 僕は成人式には行かなかったのですが、成人式の楽しみっていうのは、女性にとっては「晴れ着を着る楽しみ」もあるでしょうが、「昔からの知り合いに会える楽しみ」というのもあると思うのです。そういう意味では、この半分宣伝のような成人式は、嬉しさも半分、といったところではないでしょうか?
 今の日本だったら、よほどの田舎や離島でもないかぎり、1泊2日あれば帰ることは可能だと思われますし。
 まあ、こういう「本当は帰れるんだけど帰らないでがんばる」みたいなことが美徳とされるのは今に始まったことではないんですけどね。
 「母の死に目に会わないで舞台を務めた芸能人」とか、「妻の手術の日にチームのために投げたエース」とか。

 僕は、普通に休暇を与えて成人式に行かせたり、公演を休んで病床についていたって良いと思うのだけど。
 そういう「本当はやればできること」をしないで我慢するのをかえって美談にしてしまうのは、何か違うような気がしてなりません。

 本当は、このガイドさんたちの多くは、正月に地元で成人式に出てたりするんじゃないかなあ。
 まあ、晴れ着姿は何度見てもいいものではありますが。



2004年01月08日(木)
「芥川賞」は若い女性作家に有利なのか?

共同通信の記事より。

【第130回芥川賞・直木賞(日本文学振興会主催)の候補作が8日、発表された。
 芥川賞候補5人のうち綿矢りささんは19歳、島本理生さん、金原ひとみさんは20歳と、異例の若い顔触れになった。この3人の女性から受賞者が出れば、史上最年少となる。選考委員会は15日夕、東京・築地で開かれる。
 両賞の候補作は次の通り。
 【芥川賞】絲山秋子「海の仙人」(新潮12月号)▽金原ひとみ「蛇にピアス」(すばる11月号)▽島本理生「生まれる森」(群像10月号)▽中村航「ぐるぐるまわるすべり台」(文学界12月号)▽綿矢りさ「蹴りたい背中」(文芸秋号)
 【直木賞】江国香織「号泣する準備はできていた」(新潮社)▽京極夏彦「後巷説百物語」(角川書店)▽朱川湊人「都市伝説セピア」(文芸春秋)▽馳星周「生誕祭」(文芸春秋)▽姫野カオルコ「ツ、イ、ラ、ク」(角川書店)】

<参考リンク>
・芥川賞受賞者一覧(文藝春秋)

・直木賞受賞者一覧(文藝春秋)

・芥川賞・直木賞の重み(YOMIURI BOOKSTAND)

〜〜〜〜〜〜〜

 僕は綿矢りささんや島本理生さんの作品の熱心な読者ではないので(というか、彼女たちの作品の装丁は、ある意味僕のような30男を拒否しているような気持ちにすらなるので、ほとんど手に取ったこともないです、すみません)、個々の作品についての論評はできないのですが、それにしても、これはある意味異様な現象ではあると思います。
 5人のうち3人が20歳以下の女性、というのは、ちょっと偏っているなあ、と思わざるをえません。
 まあ、彼女たちが(ビジュアル面も含めて)稀有な才能を持った作家であることはまちがいないでしょうし、「若すぎる」というのも、上記参考リンクを見ていただければわかるように、芥川賞は「新しい才能を発掘する場」ですから、否定材料にはならないのだろうけど。受賞者も多種多様で、直木賞に比べたら「話題性・将来性重視」の傾向はあるようです。
 村上龍さんのように、受賞したあともコンスタントに活躍して(という基準が、「売れている」というようにしか評価しようがない面もあるにせよ)いらっしゃる方もいれば、今となっては、「この人誰だったっけ…」というような方もけっこう多いのです。

 おそらくこういう「若年化」の背景には、ネットの普及などで、比較的若い時期から「他人の自分の文章を公開する機会」が与えられるようになったという面も大きいのでしょう。それまでは、学校の文芸サークルなどで仲間内で批評しあうくらいだったのが、多くの人の目にさらされる可能性を得たわけですから。もっとも、「ネット上に書きさえすれば、たくさんの人が見てくれる」というのも幻想なんですけどね。

綿矢さんや島本さんがサイトをやっていたか、なんてことは、寡聞にして僕は知らないのですが、少なくとも書く人間の裾野が広がっていることは事実なのでしょう。

 ただ、ひとりの文学愛好者として寂しく思うのは、彼女たちの作品の多くは若者向けであり、「小説の世界に読者を引きこむ力」ではなく、「そうそう、こんな感じ、あるある」というような、「読者を共感させる力」に偏っているような印象を受けることです。
 このままでは「物語世界」を書こうとする人はいなくなってしまうのではないか、なんて僕は危惧しているのです(もっとも、新人作家は自分で資料集めなどをやらねばならず、必然的に「私小説しか書けない」面もありそう)。

 「そういうのは誰も読まないし、売れないんだからどうしようもない」なんて声が、どこからか聞こえてきそうなのですが。ネット上の個人サイトと同じで「女の子の考えていることを覗き見するような感覚」というのは、やっぱり魅力的でしょうしね。

 まさか、出版業界的には、「若くてかわいい女の子じゃないと、職業作家としてデビューさせられない」というような状況で、実は今回のノミネートが特殊なんじゃなくて、もともと新人作家の半分以上が若い女の子だったりして…



2004年01月07日(水)
吉野家は、どうして「カレー丼」を選んだのか?

毎日新聞の記事より。

【吉野家ディー・アンド・シーは6日、全国の「吉野家」のうち数十店舗で、牛丼の代替メニューになる「カレー丼」の販売を始めた。BSE問題による米国産牛肉の輸入禁止に伴い、在庫が2月10日ごろになくなる見通しのため、その時期を少しでも先に延ばすための措置。12日までに全国980店すべてで販売を始める。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この「吉野家カレー丼」の話題、けっこう夕方のニュースで流れていましたね。街の人の声としては、「味はまあまあだけど、専門店のほうが美味しい」とか「400円というのは、ちょっと高い」というのがありました。ちなみに、実際に食べてみたレポーターの感想は、「甘くて食べやすい」だったのですが、それってカレーに対する褒め言葉としては、ちょっと違うような…
 「やっぱり吉野家は牛丼」だと僕も思うのですが、実際、どうしてカレー丼なのかちょっと疑問ではありますよね。「すき屋」の真似をしたわけでもないでしょうが。都会では「鮭いくら丼」とか「焼鳥丼(これは前にもありましたが)」なんてのも売り出されているみたいですけど。
 カレーなんてどこにでもあるから(ましてや、「すき屋」にもありますし)、個性を出すためには親子丼(これも「なか卯」があるけど)やカツ丼でも良さそうな気もするんですけどねえ。

 ただ、これが吉野家の弱味ともいえる部分で、あれだけの店舗があっても、実際に調理ができるスタッフはほとんどいなくて、スタッフの多くは各地でまとめて下ごしらえされた牛肉を各店舗で仕上げをするくらいのもの。つまり、「新メニュー」とはいっても、あまり技術を要するものは出せないと考えられます。
 吉野屋のスタッフは、ごはんの分量や牛丼の盛り付け方については厳しいトレーニングを受けているのですが、いきなり他の料理を作れるわけもなく。
 「カレー丼」なら、拠点でまとめて生産して各店舗に配送し、店では「基本的には盛り付けるだけ」ですから、素人のスタッフでも対応できる、というところなのでしょう。親子丼とかカツ丼となると、卵の火の通し加減なんて、けっこう難しそうだし。

 それにしても、やっぱり吉野家のカレーは、最初はもの珍しさで売れるかもしれませんが、あまり長い間カレー丼で勝負するのは厳しそう。
 「すき屋」でもカレー食べてる人って少なくないですか?
 そりゃ「専門店のカレーのほうが美味しい」でしょうし。
 まあ、これについては、吉野家は専門店と比較すると「早い」「安い」というメリットがありますから、「専門店のほうが美味しくて当たり前(というか、味で負けるような専門店では厳しい)」のはずだけど。

 しかし、カレーっていうのは本当に懐の深い食べ物ですよねえ。家庭料理の定番であるのはもちろん、学食で金がないときにお世話になることもあれば、ご馳走としてヨソイキのメニューになることもありますし。
 なんとか牛丼が復活するまで、吉野家が潰れないように支えていただきたいものです。
 個人的には、当面は値段が高くなっても国産牛でいいんじゃないか、なんて思うんですけど。
 「牛丼ひとすじ、80年〜」ってCMが、なんだか懐かしい。
 とはいえ、生き残るためなら、なりふり構ってはいられないよね、やっぱり。



2004年01月06日(火)
究極に不幸な生き物・ハクビシン

共同通信の記事より。

【新型肺炎(SARS)の感染源が野生動物ハクビシンである可能性が強まったため、中国広東省政府はハクビシンの集中撲滅作戦に乗り出し、初日の5日だけで2000匹以上を収容した。
 新華社電によると、中国共産党広東省委員会は5日、全市民を動員して感染源を絶つよう緊急指示を出し、張徳江・同委員会書記は10日までに省内のすべてのハクビシンを殺すよう呼び掛けた。
 5日は省内でハクビシンを飼う41業者を摘発して合計2030匹を収容する一方、他省からの流入を防ぐため主要道路の8カ所に臨時検査所を設け、積み荷のチェックを始めた。
 省内で最大の野生動物市場として知られる広州市の新源市場では、初日から100人以上の係員が検査を嫌がる業者をくまなく調べ上げ、2時間余りの検査でハクビシン85匹を発見、収容した。
 業者の1人は「湖南省から1匹500元(約6500円)で入手したが最近売れ行きがよくなかった」と話したという。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ハクビシンというのは、こんな生き物です。

 広東省には、約1万匹のハクビシンが流通しており、政府はこれらを「撲滅」する予定とのことです。
 こういう話を耳にするたび、人間にとっての「環境保護」というのは何なのだろう?と僕は思うのです。
 都合のいいときだけかわいがって、都合が悪くなれば「処分」かよ、なんて。

 新型肺炎(SARS)に感染した中国広東省広州市の男性(32)から検出されたコロナウイルスが、野生動物ハクビシンから検出された新型肺炎ウイルスと遺伝子の塩基配列がほぼ同じであることが5日分かったことから、今回の処分となったらしいのですが、ハクビシンにとってはいい迷惑ですね、まったく。
 ちなみに、世界保健機構(WHO)は、ハクビシンが感染源になったという見方について「100%そうだとはまだ断定できない」とコメントしています。
 まあ、SARSが蔓延するのを防ぐためには、「疑わしい芽は潰す」というのは、けっして間違ってはいないのかもしれないけれど。
 
 それでも、人間にとっての「環境保護」というのは、あくまでも「人間に都合のいい環境の維持」であることがほとんどです。
 僕だって、森林浴は気持ちいいとは思う一方で、蛇に遭遇するのは嫌だし。
 だったら、あんまり偉そうに「環境保護」なんて訴えても仕方ないような気もしますね。
 人間が死滅したって、自然は「生きている」のだから。

 というようなことを考えていたら、こんなコラムを見つけました。
さすが中国というか…食べてるんですね、ハクビシン。
 う〜ん、ハクビシンにとっては、結局食われるんだったら、同じようなものなのかな。
 撲滅されるか、食われるか…なんて不幸な2者択一なんだ…哀れハクビシン。
 それにしても、恐るべし、中国。四つ足のものは机以外は食べる、なんて言いますからねえ。
 ハクビシンを愛玩動物だと思いこんでいた僕は、まだまだ視野が狭いようです。



2004年01月05日(月)
存在の耐えられない、ブリトニー・スピアーズの「瞬間夫」

毎日新聞の記事より。

【AP通信などによると、米国の人気ポップス歌手ブリトニー・スピアーズさん(22)が3日、ラスベガスで幼なじみと結婚式を挙げたが、その日のうちに婚姻無効の申請書を作成したことが分かり、「結婚」の真意は何だったのかと米メディアを騒がせている。

  ブリトニーさんは3日午前5時半ごろ、野球帽と破れたジーパン姿で幼なじみのジェーソン・アレキサンダーさん(22)とともにラスベガスの教会をリムジンで訪問。運転手のエスコートで式を挙げた。

 しかし同日午後になって2人は弁護士らの立ち会いのもと、婚姻無効の申請書を作成。当初結婚を報じていたピープル誌(電子版)も、ブリトニーさんが結婚は行き過ぎた冗談だったと語っているとする関係者の話を伝えた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ブリトニーさん、ご冗談もほどほどに、という感じではありますが、いつの間にやらこの人もアメリカを代表する「お騒がせアーティスト」になってしまいましたねえ。やっぱり、芸能界での生活というのは、人間の「プッツン化」を進行させるのでしょうか?

 2人が結婚式を挙げたラスベガスという街は、アメリカでも最も結婚に対する規制が緩い街といわれていて、その気になれば、24時間開いている教会で簡単に「ドライブスルー結婚」ができるらしいのです(去年の夏に現地で聞いた話ですから、今でも同じだと思います)。もちろん、正式な婚姻のためには「結婚証明書」というのを役所で貰ってこなければならないのですが、その手続きも簡単なのだとか。さすが、ギャンブルの都、という感じです。結婚なんて、人生最大のギャンブルのひとつでしょうし。

 そういった背景もあって、今回の「ブリトニー結婚ごっこ」が起こったわけなのですが、僕は男ですから、このブリトニーの「瞬間夫」のことをつい考えてしまうのです。ほとんど妄想なのですけど。
 「瞬間夫」のジェーソンさんは、ブリトニーさんの幼なじみだそうですが、ひょっとして、彼は昔からブリトニーさんのことが好きで、芸能界で大スターになって、遠い存在になってしまった幼なじみに、酔った勢いでも(一説によると、大晦日のパーティで、ブリトニーさんは泥酔していたらしいです)、「結婚しよう」と言われて、ものすごく嬉しかったんじゃないかなあ、なんて。
 同窓会で初恋の人に「結婚しよう」って言われたような心境、とでも申しましょうか。まあ、それで本当に結婚してしまうかどうかは別として。
 結果として彼の夢は破れてしまったわけですが、「一瞬だけでもブリトニーの夫になれたこと」は、彼にとっては幸せなことだったのかもしれません。
 考えようによっては、今のブリトニーさんと正式な結婚生活を送るのは、あまり「いい思い出」になりそうもない気もしますし。

 しかし、これって、悪用しようと思えば、莫大な慰謝料とか取れそうですよね。幼なじみだから、そんなことしないでほしいとは思うけど。



2004年01月04日(日)
仕事にゆくたびに、毎回毎回うそをつく。

「できるかなV3」(西原理恵子著・扶桑社)より。

(「約束」というタイトルのマンガから。)

【仕事でいろんな国にゆく。いろんな人にあう。
 カンボジアで体中に傷のある小さな少年は、チョコをあげると急に乞食から子供の顔になって、仲良しになれた。
 毎日ホテルの前にいて、「今日帰るんだよ」と言うと
「今度いつくるの?またあえる?」と聞く。
 私は「うん、またくるからね」と約束する。

 でも、もう一生あえない。

 仕事にゆくたびに、毎回毎回うそをつく。】

〜〜〜〜〜〜〜

 西原さんのような「おそらくは永遠の別れ」というようなものではないにしろ、新しい年の始めに、僕は年賀状を読みながら、人間というのは嘘つきだよなあ、なんて切なくなることがあるのです。
 それはもちろん、悪気がある嘘ではなく、人間の美点ですらあると思うのですが。
 僕自身、最近会っていない旧い友人への年賀状に、「今度一緒に飲みましょう」なんて言葉を書きながら、「去年も、一昨年も同じことを書いていたよなあ」と自分でも思ってしまうのです。
 一年間全く会っていないような人への年賀状なんて、近況報告と「今年もよろしくお願いします」くらいで終わらざるをえない、なんてことは、客観的には理解できているはずなのに。
 だからと言って、「どうせ会わないとは思うけど」なんて正直に書くのが正しい、とも思えません。
 とはいえ、「会いたい」という気持ちがあるのは事実だけど、「どうせ会わないんだろうな」という予測が立ってしまうのも事実なわけで。
 家族の写真とメッセージが印刷された年賀状をいただくたびに、「こういうのはラクでいいよなあ」なんて思ってもみるのです。宛名書きだけでいいわけですし。
 人生に派手なイベントもない30男の年賀状なんて、何も書くことないもんなあ。

 でも、「また今年も同じこと書いてるよ」なんて思いながら、そんなに悪い気持ちはしないですしね。とりあえず、自分と同じように、無事でいてくれればそれでいいかな、などという気もしますし。
 そういう「ゆるやかな繋がり」というのも悪くない。
 年に一度だけでも「そういえば、今年もあいつと飲めなかったな」なんて思い出すのも大事なことなのかもしれません。
 常日頃密に接している人なんて、両手くらいで足りるだろうし。

 医者をやっていると「仕事のうそ」は避けられないことがあります。
 末期の癌の患者さんに「先生、私の病気は治りますか?」と問われた際に、いきなり「ほとんどムリですね」なんて言えるわけもない。
 「良くなるように、一緒に頑張りましょうね」と言いながら、罪の意識を心の置くの隠し金庫にしまって、柔らかい笑顔をつくり、次の患者さんの部屋に行くのです。
 ときどき、そういう「罪の意識」は、僕の心の金庫から溢れ出しそうになって、心をガタガタと揺らすのです。
 僕も生きるためにこの仕事をやっているのですが、ときどき、「生きていく」というのは悲しいことだな、と思います。
 



2004年01月02日(金)
「活字中毒R。」・2003年総集編<後編>

新年早々昨年を振り返るのもなんですが、2003年後半の総集編です。

(11)7月2日 パッケージすら開けないのも、人生。

 相変わらず、僕の人生には開けられないままのパッケージが増えてます。2004年の課題です。


(12)7月13日 「美味しそうに食べる才能」が生んだ悲喜劇。

 「欲しいのに遠慮している」ばかりとは限らないんですよね。勧めるものほどほどに。


(13)8月3日 かわいそうな鶴。

 「2ちゃねらー」たちの活躍で、焼けた数をはるかに上回る鶴が平和公園に贈られました。同じエネルギーなら、争いよりは平和のために使いたいものです。根本的に、人間の「何かをやる力」は、どちらにも転んでしまう可能性あるのだけど。


(14)8月11日 もしも、そこに「終わり」があるのなら。

 「さようならドラえもん」みたいなものです。あれは泣けます。


(15)9月18日 ハドソン高橋名人が語る、「裏技」のルーツ。

 こんなふうに、「結果オーライ」だったミスって、けっこうたくさんあるんでしょうね。ファミコンのロードランナーはほとんどサギでしたが。


(16)9月28日 オトコの深層心理を浮き彫りにする、戦慄の心理ゲーム!

 僕は「ゆ」でした。温かそうだったから。


(17)10月18日 どうして個人サイトは「三日坊主」になるのか?

 期待しすぎなければ、けっこう楽しいのですけど。「何もないのが当たり前」くらいの心構えで。


(18)10月23日 「中学生の作文みたいな文章を書く」人気作家

 世の中にはいろんな偶然があるものです。僕はこの話、自分でもけっこう好きなんですよ。新井さんならではの逸話(?)ですが。


(19)11月6日 「ボイジャー」が想い出させてくれたこと。

 いつから宇宙のことを考えなくなってしまったのだろう、なんて。


(20)12月11日 「彼をイラクに行かせないで」

 この人たちの「彼」は、イラクに行くのでしょうか?

1月4日から通常更新の予定。
本年も「活字中毒R。」をよろしくお願いいたします。
御意見・御感想などいただけると励みになります。

「いやしのつえ」のほうも、どうぞよろしくお願いします。