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2013年07月17日(水)
林修先生、「キラキラネーム」を語る。

『いつやるか? 今でしょ!』(林修著/宝島社)より。

(『東進ハイスクール』のカリスマ講師・林修さんが2012年に書かれた本の一部です)

【ずいぶん前に。高校の先生と現代文の指導について話していたときのことです。生徒の成績表を見ながら、あれこれ話していたのですが、そのとき妙なことに気づきました。
 上位の生徒は「明子」、「良子」、「宏美」など普通に読める名前が圧倒的で、特に「子」がつく名前が多いのです。一方、下位になればなるほど「これなんと読むんですか?」と聞かなければならないような「難読」名が増えるのです。かなりの数のクラスがありましたが、すべてそうでした。
「こういう難しい名前の生徒の親は、クレームも多いんですよ」
 高校の先生は、そうもおっしゃっていました。僕は、これは単なる偶然ではないと思っています。
 親は自分の子どもが立派な人間になることを願って名前をつけます。あくまでも究極の目的は子どもが素晴らしい人間に成長することであって、名前はその過程において、なくてはならないものではありますが、1つの「道具」であることも事実なのです。
 人の名前を読み間違えることは失礼なことです。しかし、「普通」に読めないような名前は、やはり読めないのです。そういう名前をつけられた子どもは、誤読されて嫌な思いをする、あるいは、いちいち説明しなければならない煩わしさを一生抱えて生きていくことになるのです。だから「本質」がわかっている親は、「普通」の名前をつけるのです。だから「本質」がわかっている親は、「普通」の名前をつけるのです。こだわるべきは名前ではなく、その子のあり方そのものなんです。
 全員名前に「子」がつく、優秀な4姉妹のお母さんと偶然お話ししたとき、
「谷崎潤一郎の『細雪』みたいですね」
 と言ったところ、
「すぐに女の子だってわかるからいいでしょう?」
 と、そのお母さんはにこやかに答えられました。その4人がすべて、単に成績が優秀というだけでなく、きちんとしつけられた「お嬢さん」であったことは、偶然ではないのです。「本質」をしっかり理解されたお母さんが、そしてご家族が、愛情を込めて育てられた、必然の結果だったのです。】

〜〜〜〜〜〜〜

 長年、「優秀な生徒」(そしてたぶん、そうでない生徒)に接し続けてきた林先生の「命名論」。
 キラキラネーム(ネットスラングでは『DQNネーム』とも呼ばれます)については、批判の声が多い一方で、僕が子どもの頃である30年前と比べると、やっぱり増えているし、その「難読度」も上がっているように思われます。
 小児科の救急外来を受診する患者さんの名前をみると「この子、なんて読むんだ?」と悩むことも少なくありません。
 もちろん、ここで紹介している林先生の話も僕の印象も「統計学的に確認した」わけではないのですけど。

 自分が子どものときのことを思い返してみると、名前を読み間違えられたり、女の子と思われたりするというのは、けっこう嫌なものではありました。
 「次、○○!」
「先生、それ××って読むんです……」
「そうか、ごめんごめん……」
こういうやりとりって、相手に悪気がなくても(あるいは、悪気がないだけに)、ボディブローのようにじわじわ効いてくるんですよね。
初対面の人に名前を呼ばれるたびに、ちょっと「警戒」してしまうし。
 名前を間違われるのはイヤだし、それを相手に指摘する際に流れる、ちょっと気まずい空気もつらい。
 とはいえ、子供心には「普通すぎる名前もイヤ」だったりするのですけど。


 親は、つい自分の思い入れをこめて、「特別な名前」をつけたくなるけれども、子供にとっての「利便性」を考えると、「キラキラネーム」はデメリットが大きいのです。
 思い入れを捨てて、「記号」として考えれば「ありきたりな名前」のほうが、面倒なことは少なくなります。
 そもそも、「キラキラネーム」は「ちょっと心配な家庭環境に置かれていることのサイン」だと見なされがちですし。

 林先生は、大学院をやめるときに東大の総長が「彼がやめるのは日本の損失だ」と言ったという超優秀な予備校での同僚と、こんな話をしたことがあるそうです。

【「単なる分類語なんだから、林一番、二番、三番で十分だよ」
 僕がそう言うと彼は、
「それさえ必要ないなぁ。僕はA328でかまいませんよ」】

 「そんな特別な人間にはなれない」からこそ、名前にこだわってしまう、こだわらずにはいられないのかもしれませんが……