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2004年02月29日(日)
サッカー日本代表はつらいよ

スポーツニッポンの記事より。

【サッカー日本代表の7選手がW杯アジア1次予選オマーン戦に向けて合宿を行っていた9日夜、茨城県神栖町の宿舎から無断外出した上に飲酒し、キャバクラで騒ぎを起こしていたことが分かった。一部週刊誌にも報じられ、日本サッカー協会は全員から事実確認を終え次第対応を決める。7選手はFW久保竜彦(27)=横浜=、FW大久保嘉人(21)=C大阪=らで、解任騒動が終結したばかりのジーコジャパンがまた激震に見舞われた。

 問題の夜は2月9日。カシマスタジアムで行われた7日のマレーシア戦で4―0と快勝した2日後、W杯予選オマーン戦の9日前だった。

 久保、大久保のほか、MF小笠原満男(24)=鹿島=、MF奥大介(28)=横浜=、MF山田卓也(29)=東京V=、DF茂庭照幸(22)=FC東京=、GK都築龍太(25)=浦和=の計7人が、神栖町の宿舎から無断外出した。関係者によれば、同町の焼き肉店に行ったところ閉まっていたため、キャバクラに移動し、深夜11時半ごろ宿舎に戻ったという。

 日本代表は合宿の際、外出を禁じていないが、野見山篤代表部長に届け出て許可を得ることが義務付けられている。ところが、7人は無届け。しかも、キャバクラでは酔った久保と大久保が中心となって他の客に寿司を投げつけたり、女性店員とトラブルを起こしたもようだ。

 7人中5人が11日に代表から外れたが、事件は当時まだ発覚しておらず、メンバー選考との因果関係はないもよう。

 久保のゴールで1―0と辛勝したオマーン戦後、22日にジーコ監督の解任を求めるデモが行われており、日本代表を取り巻くムードは決して良くない。27日に川渕三郎キャプテン(67)がジーコ監督と会談して騒動がひと段落したばかりだというのに、今度は選手の醜聞。ジーコジャパンがピンチに見舞われた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 もし試合終了間際の久保の決勝ゴールで辛勝したオマーン戦が、あのまま引き分けだったりしたら、これはもう大問題になっていたかもしれませんね。しかし、実際に決勝点を挙げたのは、この「ルール違反」を犯した久保選手だったわけで、結局、うやむやになってしまいそうな気もします。
 それにしても、焼肉屋が閉まっていたからといって、キャバクラにはいかないだろ!(目的があまりに違いすぎる)とか、何も無断外出した上にトラブルまで起こさなくても…とは思うんですけどね。
 確かに、サッカー日本代表に対するプレッシャーというのは相当大きいでしょうし、選手もストレスが溜まっているんでしょう。それは理解できるのです。キャバクラでのトラブルも、他の客に絡まれたりしていたのかもしれないしね。

 僕がこの記事を読んで感じたのは、この代表(候補)選手たちの愚行よりも、「ここまで、サッカー選手たちに対して僕らが一喜一憂してあげる必要があるんだろうか?」という疑問でした。
 なんというか、「まあ、勝手にやってれば」という感じ。僕はジーコ監督が代表監督として有能とは思えないのですが、「ジーコやめろ!」とか、たった70人くらいの人々がデモをやっただけで動揺していては、いつまでたってダメだろうと思うし。これだけ「サポーター」がいれば、70人くらいは「無視していい数」なんじゃないでしょうか?

 「とんでもない連中だ!」とかサッカーファンたちは選手たちに憤りを感じているんでしょうけど、僕は「まあ、こんなもんだろうなあ」という気がするんですよね、実際のところ。
 そんなにみんな、たいしたもんじゃないだろう、なんて。
 それでも、みんな、小学校や中学校では口パクの「君が代」を熱唱して、スタジアムで熱狂的に「日本代表」を応援するんですよね。「応援している自分」に酔うために。みんなが好きなのは、「サッカー」じゃなくて、「こんなにも日本代表を応援している自分」なんだよね、きっと。

 しかし、いくら酔っ払っていても「寿司を投げる人」なんて見たことないよ…オトナとして情けない。
 どんなにサッカーがうまくても、食べ物は大事にしたほうがいいですよ、人間として。



2004年02月28日(土)
『ドラえもん』の産みの親の優しい嘘

「ぼくドラえもん・01」(小学館)の記事、「レギュラー声優5人組・懐かし座談会〜25年目の再会」より。

【肝付:それから、藤本先生とお近づきになれて、いっしょに旅行に行って、旅先でいろいろ、宇宙に行く話をしたり…。
 そんなときの先生は、目が輝いておりました。そんな体験ができたってことは、いい時代に生きていたなあって感じがすごくするんです。

 それと、先生にね、一度だけ聞いたことがあるんですが、先生が『ドラえもん』を描いているときに、ネームを書きますよね。そのときの声の感じは、どうなんですか?って、聞いてみたんですよ。そうしたら、「今のみなさんのようでした」って…。

 一同:(笑)。

 肝付:ありがたいなって、思いましたね。

 小原:先生は、いつもやさしくって。ほんとに、『ドラえもん』に出演して、先生とお近づきになれたことが、最高に幸せな25年の思い出かもしれませんね。】

〜〜〜〜〜〜〜

アニメ「ドラえもん」の不動のレギュラーメンバー、
 ・大山のぶ代(ドラえもん)
 ・小原乃梨子(のび太)
 ・野村道子(しずか)
 ・肝付兼太(スネ夫)
 ・たてかべ和也(ジャイアン)
 の5人の声優さんたちが、25年間の『ドラえもん』を振り返っての座談会の一部です。
 この雑誌には声優さんたちの写真も載っているのですが、みなさんさすがにいい年に…なんて言っている僕だって、アニメ『ドラえもん』を最初に観たときは、小学校の低学年だったんだもの。

 このインタビュー、なにげないことが語られているようで、本当に、藤子・F・不二雄先生の人柄をよくあらわしているなあ、なんて思いながら僕は読んだのです。
 とくに、スネ夫役の肝付さんが、「ネームを書くときの声の感じってどうなんですか?」と尋ねたときの「今のみなさんのようでした」という答えには、この偉大な漫画家の優しさと気配りが溢れているような気がします。

 僕が『ドラえもん』のアニメの第1回で、はじめてドラえもん役の大山さんの声を聞いたときには、正直「ヘンな声」とか「何か違うなあ」と感じたものでした。僕の周りでも、そんなふうに言っていた人はけっこう多かったし。まあ、アニメや小説の映像化というのは「これは違う!」なんてファンに言われるのは宿命なのかもしれませんが。
 今となっては、大山のぶ代さんの声こそが「ドラえもんの声」なんですけどね。
 当然ながら、ファンが違和感を感じるのと同じように、演じている声優さんにも「迷い」はあると思うのです。「自分の声でいいのだろうか?」「こんな表現でいいのだろうか?」って。原作が人気作品で、子供たちに愛されていればこそなおさら。

 「今のみなさんのようでした」というのは、たぶん嘘だと思います。少なくとも、アニメ化される前に藤子・F・不二雄先生の中でイメージしていたキャラクターたちの声が、5人の声優さんたちと完璧に同じ声だった、なんてことはありえないのではないでしょうか?
 でも、藤子・F・不二雄先生は、あえて肝付さんに、そんなふうに答えられたんですよね、きっと。
「だから、安心して今のまま演じていいんですよ」という意味で。
 
 藤子・F・不二雄先生がお亡くなりになられたのは、1996年の9月23日。享年62歳でした。もう、あれから7年半になります。
 先生が亡くなられたときは、「もう、ドラえもんも終わりだなあ」なんて僕は悲しくなったのですが(いや、その年までキチンと読み続けていたわけではないけれど)、ドラえもんは、今でも元気に動き続けています。

 ひょっとしたら、ドラえもんのエネルギーは、「人間の優しさ」なのかもしれませんね。



2004年02月27日(金)
麻原彰晃の死刑判決と「オウム真理教」の風化

毎日新聞の記事より。

【地下鉄、松本両サリン、坂本堤弁護士一家殺害など13事件で殺人罪などに問われたオウム真理教(アーレフに改称)の松本智津夫(麻原彰晃)被告(48)に対し、東京地裁は27日午後、求刑通り死刑を言い渡した。小川正持(しょうじ)裁判長は、一被告の犯罪としては戦後最多の計26人の殺害、1人の逮捕監禁致死を含む全13事件について有罪を認定し、「教祖」の首謀を明確に認めた。

 教団の一連の事件では、計27人が犠牲になり、約6000人が負傷した。最後に残った松本被告への判決で、起訴された189人全員の1審が終結した。死刑の宣告は12人、無期懲役は6人(うち3人が既に確定)に上る。

 松本被告は95年5月に逮捕され、計17事件で起訴された(後に審理迅速化のため薬物密造4事件を取り消し)。96年4月から始まった公判は、検察側と弁護側が全面的に対立し、延べ500人を超す証人尋問が実施されたために、判決まで7年10カ月を費やした。この日まで257回に及んだ公判で、被告は無罪を主張した時期もあったが、昨年の被告人質問や最終陳述では沈黙したままだった。

 ◇

 松本被告の弁護団は同日夕、控訴した。】


参考リンク:「オウム真理教・事件関連年表」

〜〜〜〜〜〜〜

 「オウム真理教」の教祖であり、日本中を震撼させた一連の「オウム真理教事件」の首謀者である麻原彰晃に、今日、死刑判決が下りました。
 裁判の開始から7年10ヶ月が過ぎています。

 「オウム真理教事件」は、日本中に大きな衝撃を与えたのですが、どちらかというと興味本位の取り上げられ方が多かったような印象もありますし、僕たちの仲間内でも、不謹慎なことではありますが宴席のネタなどにも度々されていたような記憶があります。
 傍からみたら、これほど異常な事件もないわけですが、それと同時に僕を驚かせたのが、幹部たちがやたらと高学歴だったり、分別がありそうな大人だったりしたことです。
 医者の卵だった僕には、医師である林郁夫被告がやったことなどは、疑問で仕方がなくて。

 僕は、オウム真理教の脱会者のインタビュー本を読んだことがあるのですが、彼らに感じたのは「非現実感」だったのです。現実にうまく適応できなかったり、自分の無力を痛感して自信を無くしていた人々が、「カルト教団ごっこ」をやっているうちに、いつの間にかバーチャルな世界と現実が逆転して、あんな事件を起こしてしまう結果となったような。

 参考リンクに「オウム真理教の事件関連年表」を置いたのは、「ちょっとおかしい人たちが起こした異常な事件」と思われがちなこの一連の事件は、最初はどうだったのかを知っていただきたかったからです。仕事がうまくいかなくて、あれをやったりこれをやったり…「教祖」だって、別に特別の人間ではなかったのです。
 麻原彰晃という人物は、視力の障害を持っており、そのことで人生がうまくいかないというコンプレックスを持ったひとりの人間でした。それが、「オウム神仙の会」をつくったことによって、彼の周りには人があつまり、大教団が形成されていきます。
 でも、これって、考えてみれば、「オウム真理教」はこういった新興宗教のうちで、もっとも(信者・資金集めに)成功した例だというだけで、あの時代には、同じような「宗教」はたくさんあったのです。そして、今も存在しているものもたくさんあるのです。
 もちろん「宗教」=「悪」というのは偏見であって、宗教的倫理というのは、人間の生活規範であったりもするのですが。

 僕の先輩に、今でも行方がわからない人がいます。
 彼はあの事件が起こる前に、オウム信者として出家してしまいました。
 もちろん、聖人君子ではありませんが、ごくごく普通の人です。
 彼がオウムの信者になった理由は、「彼女に振られて落ちこんでいるときに、本屋で麻原彰晃の本を手に取ったこと」でした。
 僕はいまだに、自分がオウム信者にならなかったのは、自分が立派で利口な人間だったからではなくて、運がよかっただけなのではないか、なんて考えることがあるのです。
 何かにすがりたくなるときって、誰だってあるはずだと思うから。

 「オウム真理教」は、麻原彰晃という人間の幻想を多くの人間が共有することによってつくられた、オンラインゲームのようなものだと思います。
 でも、そうやって信じているうちに、彼らの幻想はどんどん肥大化してしまったのでしょう。そして、「ここから抜けたら、もう生きていけない」という恐怖。
 
 人類史上に残るナチスの非道も、今回のオウムの事件も、実際にそれを行ったのは特別な人間ではなかったと思うのです。普通の人が、自分が普通(あるいは普通以下)であることに耐えられずに創ろうとした幻想の王国。自分が「特別な人間」である社会。ヒトラーや麻原彰晃の異常性を引き出したのは、ひょっとしたら彼らに投影された信者たちの妄念なのかもしれません。
 オウム真理教はもう過去のものだ、と思われているのかもしれませんが「オウム真理教的なもの」というのは人類史上、絶えたことがないのではないでしょうか。
 僕は「社会が悪い、麻原の死刑はおかしい」なんて言うつもりは全然ありません。人間は自分がやったことに対して責任をとるべきだと思います。社会なんて、その時代に生きる人間にとっては、昔からずっと悪かったんだから。
 でも、麻原彰晃や池田小事件の宅間のような、「倫理のベクトルが根本的に違ってしまった人間」を目の当たりにすると、なんだかこの連中を死刑にしても、どうしようもないんじゃないか…なんていう無力感もあるのです。麻原彰晃なんて、このまま死刑になったら、将来的にかえって「殉教者」として崇められるようになるのでは?とか。「何かを信じたい人」というのは、僕も含めて、この世界に溢れているのだし。

 控訴によって、裁判はまだ続くのでしょう。
 サリンの後遺症に苦しんでいる人たちは、まだまだたくさんいますし、「オウム予備軍」とも言うべき新興宗教だって、僕たちの周りにたくさん存在しています。
 それでも、オウムの記憶は次第に風化していって、多くの人が「これはオウムとは違う」と思い込んで、せっせとお布施を続けている。

 麻原彰晃の死刑は、当然の判決です。
 でも、結局オウムが事件を起こした時代から、人間の心は何も進歩していない。
 ただ、そんな気持ちがして、寂しくなるばかりです。

 本当は、麻原彰晃というのは、ものすごく不幸であり、その一方でものすごく幸せな人間なのかもしれない。
 そう思うのは、僕だけですか?



2004年02月26日(木)
若村麻由美さんの「しあわせな結婚」

スポーツニッポンの記事より。

【フジテレビ「白い巨塔」などに出演中の女優・若村麻由美(37)が、昨年9月に極秘入籍していたことが25日、分かった。26日発売の「女性セブン」が報じているもの。若村は自身のホームページで入籍を報告。「“私が私らしくいること”を理解してくれるパートナーと出会えたことをしあわせに思っています」などと思いを明かしている。26日に都内で会見する予定。

 女性セブンによると、お相手は岡山県に本部がある宗教団体「釈尊会」の小野兼弘会長(51)。2人は93年ごろ知人の紹介で知り合った。若村の母親が岡山出身という関係もあり、自然に交際がスタート。昨年9月に入籍したという。若村は所属事務所に対しても「僧侶と入籍しました」と伝えただけ。都内に住む父親にも正式な結婚報告はしていないという。

 小野会長は立正大仏教学部、同大学院修士課程を修了後、79年に「釈尊会」を設立。体重100キロを超えるとみられる体格で宗教界でも知られた存在。】

〜〜〜〜〜〜〜

 この記事を見たとき、僕はちょっと悲しかったのです。若村麻由美さんといえば、今は「白い巨塔」に出演されていますが、最近では数少ない清楚な印象の女優さん、という印象がありましたし。でもまあ、37歳という年齢は、結婚するのに早すぎるということはないでしょうし、相手が「年上の僧侶」という第一報にも、「まあ、坊さんだっていろんな人がいるしねえ」とか、自分なりに結論をつけていたのですが。

 しかし、いろんなサイトや某掲示板をみると、なんだかどうも一筋縄ではいかないというかなんというか。恋愛というのはまあ、一種の信仰みたいなものではありますが、離婚裁判の渦中にある、アカデミー候補俳優の渡辺謙さん夫妻の借金などとも絡んでいる(というか、この人がお金を貸していたらしいとか、若村さんは渡辺さんの不倫相手の一人だった、なんて説もあり)とのことで、若村さん洗脳されてしまったの?なんて感じにもなってきました。
 僕は観ていませんが、会見ではインタビュアーが、結婚会見なのに渡辺謙さんの話をさんざん聞きだそうとしていた、なんて話もありますし。

 それはそれで、本人たちが幸せならいいことだし、仕方ないことでもあるんですが、相手の小野兼弘会長の写真(これ)を見て、僕はちょっと考え込んでしまったのです。
 「やっぱり金目当て?」とか。
 異相というかなんというか…まあ、けっしてモデル的なカッコよさの人ではありませんよね。
 もっとも、オウムの麻原などもそうなのですが、むしろ宗教団体の教祖みたいな「カリスマ性」を求められる人は、人並みにカッコいいより、インパクトがある顔、のほうが良いのかもしれません。やっぱり、「タダモノ」じゃやっていけない。
 それにしても、「体重100キロを超えるとみられる体格で宗教界でも知られた存在」という紹介文には、「体重で有名なの?」とかツッコミを入れてみたくもなりますが。

 しかし、考えてみれば、若村さんであればお金とルックスを兼ね備えた男性と結ばれることは難しいことではなかったはずで、「金目当て」ではなくて、おそらく何かプラスアルファがあったんでしょうけどね。

 「素直に祝福できる他人の結婚」というのは、意外と少ないのかもしれません。松嶋さんと反町さんのときは、「共演者口説きやがって」とか「ケッ、美男美女かよ」なんて思いますし、広末さんのときには、「避妊しろよ」、水野真紀さんには「政治家の妻、ねえ…」と言いたくなる。カッコいい人が相手なら「顔だけ」って言われ、カッコ悪ければ「金目当て」「洗脳」なんて言われてしまう。
 考えようによっては、「顔」なんていうのは先天的な要因が大きいのですから、「金」「権力」「性格」などに魅力を感じる女性がいてくれるのは、僕のように「見かけに恵まれない男」にとっては、「夢がある話」なのかも。

 「好きな人と結婚する」のがいちばんなんですが、同じ「好き」なら、「見かけもよくて経済的にも恵まれて」のほうがいいのは、人情ってやつで。

 逆に言えば、女性にだって「見かけを磨く」ことによって、その人なりの「幸せ」を手に入れている人はたくさんいるわけですし、容貌魁偉で資産家だからといって、一概に「金目当て」呼ばわりして憤るのもヘンな話なのかもしれません。
 「ルックス目当て」より「金目当て」というほうが世間の風当たりが強いのは、みんな内心「金のほうが大事だ」と思っているのかな、などとも考えられますし。

 このお二人の結婚によって僕が不幸になるわけでもないのですから、個人的には、周りに波紋を広げずに幸せになっていただければいいのですけどね。

 僕たちは、結婚という行為に「金」とか「ルックス」とかいう「理由」を求めたがりますが、普通の人間が結婚するのに必要なのは、本当は「理由」より「タイミング」とか「きっかけ」なのではないかなあ。

 伊藤英明さん、水野真紀さん、そして若村麻由美さん…
 現実は「白い巨塔」よりも奇なり。



2004年02月25日(水)
直木賞作家・京極夏彦の仕事

「九州ウォーカー・2004・No.5」での、第130回直木賞を受賞された京極夏彦さんのインタビュー記事より。

【「小説というのは小説家が書いただけじゃ完成しないわけです。印刷され、製本されて全国に配られ、書店さんが店頭に並べて一生懸命売ってくださり、読者が読んでくれて初めて完成する。つまり、その過程に係わったみんなのモノ。僕は書籍という商品を作るための一スタッフとして、テキスト制作に携っているだけで……」
 受賞コメントが非常に控え目でしたね、そう問いかけると第130回直木賞作家・京極夏彦は、訥訥と言い含めるように語り始めた。】

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 この謙虚なような、人を食ったようなインタビュー、まさに京極さんらしいなあ、と思いながら、僕はこの記事を読んだのです。
 僕はこの「書籍という商品」という言葉に、京極さん自身の「照れ」と、「自分は『商品』、つまり、売り物になるものを作っているんだ」、という職業作家としての自負を感じました。
 確かに、「本」というのは、作家がいなければどうにもなりませんが、作家だけがいても世に出ることはないわけで、(ここでは省かれていますが)編集者や装丁者や印刷をする人や流通の人、書店の店員さんなどのたくさんの人の力で世に出ているわけです。
 それだけ多くの人の手を経て、「想い」を背負っている、とも言えるのではないでしょうか。

 もちろん、WEB上のテキストだって、書く人だけでは世に出るものではなく、パソコンを造る人やプロバイダーの人などの力がないと、どうしようもないわけですが。

 でも、僕はまだ、本のほうに、より強い「想い」を感じているのです。
 誤解の産物である「トンデモ本」や危険な宗教団体などの「教条本」のような、読むことが必ずしもプラスにならないようなものも混じってはいるけれど、一般的には、まだまだ書籍のほうがより多くの人の手を経て選び抜かれたものなのではないかと思います。本を出すのは、今のところWEBに文章を書くよりも手間もお金もかかりますし。

 実際にいろいろ検索をしてみて思うのは、「お金になる情報」を無料でWEBに公開している人は、まだまだ少数派だということ。
 100万部売れることが確実な小説なら、ごく一部の好事家を除けば、タダでネット上で公開する人はいないでしょうし。

 まだまだ、書籍はあなどれません。やっぱり、プロの仕事は違う(場合が多い)。
 新聞社のサイトでニュースをわかったような気になっていることが僕も多いのですが、あらためて読んでみると、サイト上に無料で公開されている記事なんて、ほんの一部なのです。

 京極さんのコメントの中に「読者が読んでくれて初めて完成する」という部分があります。
 これは、「売れない小説はプロの仕事じゃない」と自戒されているのかなあ、なんて、僕は深読みしてしまうのです。

 いや、別にみんながプロになる必要はないし、アマチュアなりの楽しみ方はあるんだけど、プロとアマの間には見えないけど厚い壁があるんだなあ、なんて、この一見飄々としたインタビューで、あらためて感じてしまったのです。

 まあ、「本物のプロ」というのは、ごく一握りなのかもしれないけど。



2004年02月24日(火)
やるせない「薬害エイズ裁判」

読売新聞の記事より。

【薬害エイズ事件で業務上過失致死罪に問われた元帝京大副学長・安部英(たけし)被告(87)(1審・無罪)について、東京高裁が公判停止を決定したことを受け、薬害エイズ被害者の大学講師・川田龍平さん(28)が23日、東京・霞が関の司法記者クラブで会見し、「医師と製薬会社の癒着などが解明されないまま終わり、怒りの矛先をどこに向けていいか分からない」と戸惑いの表情を見せた。

 控訴審を傍聴していた川田さんは、「無罪を出した1審とは違う方向で審理している」と感じていたという。それだけに、「公判停止にはがっかりした。控訴審で1度も安部被告の姿を見ていないのに、心神喪失と言われても納得できないないし、悔しい」と、ぶぜんとした様子で話した。

 同高裁では、1審・有罪判決の元厚生省生物製剤課長・松村明仁被告(62)の控訴審も続いている。会見に同席した東京HIV訴訟弁護団の大井暁弁護士は、「薬害エイズは、『産・官・医』の過失が複雑に絡み合った構造薬害。検察は今後、旧厚生省の責任追及に全力を傾けてほしい」と訴えた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 このニュースを聞いて、僕も「やり場のない気持ち」になりました。
 川田さんの憤りはよくわかります。彼の仲間たちは、罪無くしてHIVに感染してしまい、命を落とされた方もいれば、現在も発症の恐怖と戦っておられる方もいらっしゃるのですから。
 でも、その一方で、「判断能力を無くしてしまった寝たきりの老人」になってしまった安倍被告を被告席に座らせて裁く、というのも、忍びない気もするのです。
 僕は仕事柄そういう高齢の方にたくさん接してきましたが(家族の方にとっては、「生きている」というのはそれだけで大事なことなんだけど)、万が一法廷に寝たきりの安倍被告が出廷して、「責任能力」を問われるようなことにでもなれば、それは「裁判」というより「さらしもの」でしかないでしょうし…

 「老い」や「死」がすべてを洗い流してしまう、というのは、人類(とくに東洋)共通の観念でもあります。中国の故事「死者に鞭打つ」というのが、「目的のためには手段を選ばないこと」、転じて、「残酷なこと」の意味で使われることが多いのは、そのひとつの現れなのではないでしょうか。これは、無実の罪で王に処刑された父親と兄の敵討ちをするために他国の将軍となった伍子胥という人が、ついに仇の王の国の都を攻略したものの、王はすでに亡くなっていたため、その墓をあばいて屍を鞭打った、という故事に基づいています。
 僕は子供の頃この話を読んだときには、「そりゃ、せめて死体にでも復讐するしか仕方ないよなあ」なんて思ったものですが。
 でも、これが「残酷なことの代名詞」であるということは、僕たちの社会常識として、「やってはいけないこと」だということなのでしょう。
 この言葉自体「そんな『死者に鞭打つような』ことをするんじゃない!」という「禁止」や「否定」の意味で使われることがほとんど100%ですし。

 その一方で、川田さんたち原告側の「寝たきりでもいいから裁いてやりたい」という気持ちもよくわかるのです。それはそうだろうな、と。「もう何もできなくなってしまった人間なんだから、そんな無茶言わなくても…」というのは、傍観者としての寛容でしょうから。

 世の中には、こういう「どうしようもなくいたたまれないこと」というのが、厳然としてあるのだなあ、とただ溜息が出るばかり。

 ただ、僕はいつも思うのですが、いろいろ証拠調べとかもあるにしても、どうして裁判というのは、みんなこんなに時間がかかるのでしょうか?
 オウム真理教の教祖だった人などは、弟子たちが次々に極刑判決を受けているのに「犯した罪があまりに多すぎるため」裁判が長引いて、結局長生きしているような感じさえするのです。
 これなら、裁くのに膨大な時間がかかるほど悪いことをすれば、何十年も裁判が続いて、死刑にならないですむんじゃないかなあ…

 僕個人の見解としては、安倍被告は医者として、人間として「有罪」だったと考えます。もちろん、彼に対して浴びせられた世間の非難は、本人にとっては「死より辛いもの」だったのかもしれませんが、僕はやっぱり、「生きている」ということは、それだけで何にも替えがたいことだと思うし。

 もちろん、裁判が停止されたからと言って、彼の罪が消えるわけでもないし、これからも医者や官僚や政治家や薬剤メーカーの良心は問われ続けるでしょう。でも、これはあまりにもいたたまれない結末なのではないでしょうか。

 たぶん、「裁判官だって、弁護士だって忙しい」っていう話になるんでしょうけどねえ…
 いっそのこと「民営化」したらもっと早くなるんじゃない?



2004年02月23日(月)
小泉さんと永瀬さんと「永遠ならざる愛」と。

スポーツニッポンの記事より。

【俳優の永瀬正敏(37)女優の小泉今日子(38)夫妻が22日、都内の区役所に離婚届を提出した。2人は95年2月22日に結婚。この日は9回目の結婚記念日だった。深夜になってそれぞれが自身のホームページで離婚に至った経緯を報告。小泉は「夫婦であるという関係が、時に私達を不自由にさせてしまった気がする。今回のことはお互いが自由に生きるための決意」と心境を明かした。

 小泉は深夜になって公式ホームページ上で「私、離婚しました。(結婚と)同じ日にそれぞれの新しい人生を生きることに決めました」とファンに報告。「心配してくれた人たちもいるかもしれない。でも決して悲しい報告と受け止めないでほしいの。9年間の結婚生活の中で私も永瀬くんもたくさんのことを学び、出会う前の私達よりも人間として確実に成長し合えたと言える自信があるから」と、永瀬と結婚したことに悔いはないことを強調した。

 2人は、93年5月にファッション雑誌の対談で知り合い、すぐに意気投合。95年2月22日にゴールインしたが、数年前からすでに不協和音が伝えられていた。小泉が東京・世田谷区の自宅マンションから引っ越し、別居生活に突入してから1年半。その結論が、結婚10年目を迎えたメモリアルデーでの終幕。斬新さと古風さが同居した、感性あふれるカップルらしい選択だ。

 結婚後は「家庭を第一」に仕事を続けてきた小泉だったが、3年前から徐々に映画、テレビ出演などが増えてきた。

 小泉は離婚の原因については「人生の中のある時期、私達は一緒に生きる必要があったと思う。その時間があったからこそ、今の私たちがいるのです。ただ、そのために家庭を築くということを忘れがちだったかもしれません。夫婦であるという関係が、時に私達を不自由にさせてしまったような気がします」と明かしている。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「斬新さと古風さが同居した、感性あふれるカップルらしい選択だ」というのは、あまりに美化しすぎな印象もありますが…
 「芸能人カップル、また離婚かよ」というような半ば当然の出来事のような印象もありますしね。
 この2人の場合、「離婚は秒読み」というような報道が再三なされていたし、周りにも「覚悟ができていた」という面もありそうですけど。
 仲が良い夫婦として知られていた2人で、公私ともに良きパートナーだったはずなのに。

 この2人の離婚理由については、おそらく公式コメントに出されているようなキレイ事ばかりではないと推察するのですが、それはそれとして、2人とも「結婚したことに後悔はしていない」とコメントされているのを読んで、僕は「結婚」って何だろう?とか考えてしまったのです。

 一般的に、結婚というのは、「永遠の愛」を誓った関係というように定義されていると思うのですが、本当に「永遠の愛」なんていうのが存在するのかな?なんて。
 僕は、「付き合って一週間で別れた」なんていうカップルを内心バカにしています。「そんなんだったら、付き合う前に考えろよ!」って。
 3年間の結婚生活で別れた夫婦に対しても同じ。
 今回の小泉さんと永瀬さんんは9年間の結婚生活を過ごされたわけですが、やっぱり「芸能人カップルなんて、こんなもんだよ。よくもった方なんじゃない?」とか思ってもいるのです。
 そして、一生を「添い遂げた」老夫婦に対しては、ひとつの理想像として、賞賛の念を禁じえないわけです。

 でもなあ、本当に「永遠の愛」なんてあるのかなあ…
 30年生きてきて、そんなことを思うことも多いのです。
 少なくとも20歳のカップルの「愛」と70歳の老夫婦の「愛」というのは、必ずしも同じものではないような気がしますし、死ぬまで添い遂げた夫婦だって、もし彼らが100年、あるいは1000年夫婦をやっていたら、いつかは「愛の終わり」が来るのではないか、とか。
 要するに、「永遠の愛」なんてのは、この世に存在しないもので、「死」と「愛の終わり」のどちらが早いか、ということだけなのではないか、なんて。

 そう考えると、2人が「9年間の結婚生活に悔いはない」と(もちろん、いいことばっかりじゃなかっただろうけど)言っているのは、確かに真実なのだと思いますし、長短にかかわらず、そういう時間を共有できたことは、けっして不幸なことではなかったんだろう、とも感じるのです。
 どうせ「永遠」なんて無いのなら、3日と1年と50年は、そんなに違いはないのかもしれない。

 ああ、でもあんまり短いと、本人たちにとってはどんなに密度が濃い時間だったとしても「何やってるの?」という気になるんだよなあ。
 長かったら長かったで、「いまさら別れなくても…」とか思うし。

 このふたりの場合、子供がいない分、話が複雑にならなかった面もあるのでしょうね。もし子供がいたら、それはそれで、また2人の関係も変わっていたかもしれないし…



2004年02月22日(日)
哀川翔さんの「教育方針」

日刊スポーツの記事「日曜日のヒーロー<402>」
(現在、100本目の主演映画「ゼブラーマン」が公開中の哀川翔さんのインタビュー記事です)

【インタビュアー:哀川家の教育方針は基本的なことだけだ。礼儀とあいさつをしっかりする、うそをつかない、人のものを取ったりしない、人を傷つけたりしない。女手一つで育ててくれた母の影響が大きい。

哀川:「うそつくなよというのも、人の物取るなよというのも、人を傷つけるなというのもお袋が言ったこと。それ以外は何でもいいって」。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕はこの記事ではじめて知ったのですが、哀川さんのお父さんは海上自衛隊のパイロットで、哀川さんが5歳の時に訓練飛行中の事故で亡くなられ、当時身重だったお母さんの代わりに、哀川さんは長男として叔父さんと一緒にお父さんの御遺体の確認をされたそうです。そのことが、彼の生き様にどのくらいの影響を与えたかなんて、他人である僕には測り知ることはできないのですが。

 この「お母さんの教育方針」というのは、本当にシンプルで要点をついていて、僕は「なるほどなあ」と思いました。高祖劉邦の法三章(人を殺す者は死、人を傷つけおよび盗する者は罪に低 (あた)る。)と同じだ、なんて。
 これを読んでから、「では、自分の子供を教育するときに、これに何か付け加えることがあるとすれば、何があるだろう?」なんて考えてみたのですが、結局思いつきませんでしたし。
 確かに、これだけのことができれば、「自立した人間」として認められるでしょうし。
 現実には、こんなシンプルな教育方針でも、完全に守れる人間なんていないのだろうけど。

 ところで、昨日年上の家庭持ちの先生たちと飲んでいて、子供の教育の話になったのです。その先生たちは、「う〜ん、お金はかかるし、生活も厳しいけど、やっぱり子供は私立にやりたいよなあ。自分たちもそうやって親に『環境』を整えてもらったし、いじめとかも少ないだろうし」と言い合っていて、未婚・子供ナシの僕は「そういうものなのか…」なんて思いながら聞いていました。
 「本当にやる気があれば、どこに行かせても一緒」なのかもしれませんが、「孟母三遷」の故事にもあるように、「できることはしてやりたい」と思うのもまた親心なのでしょう。
 僕は高校から私立だったのですが、当時はなんとなくイヤだったけど「勉強させられない環境で、自発的に勉強していただろうか?」なんて想像すると、うちの親は親なりに僕のことを考えていてくれたのかな、なんて今さらながら感謝してもいますし。

「人間として最低限必要なこと」だけでは子供のことが心配、というのも親心なんでしょうね。
 幼稚園の「お受験」なんてバカバカしいし、親の見栄の要素が大きいと思うけど、自分の子供のこととなると、また別問題なのかな…



2004年02月21日(土)
「名物に旨いものなし」

「ファミ通2004/2/27」(エンターブレイン)の記事「チャイナフーズクロスレビュー」より。

(編集者・針生セットさんが、中国・北京の屋台街で見つけた食材、セミ・サソリ・タツノオトシゴ・ヘビ・カイコを食べての感想の記事です)

【<今週のコレ食え>
 サソリ。スナック感覚でイケる。にしても通訳のヤンさんに「中国の方はけっこう食べるんですか?」と尋ねると笑いながら「中国人、こんなもの食べません」だって。店員が食べている僕を見ながら大爆笑していたのも納得。盛り上がったしね。】

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「名物に旨いものなし」
という有名な格言があるのですが、このエピソードなどは、まさにその具体例かもしれません。
 もちろん、現地の人にしかわからない味、というのも厳然として存在するのでしょうが、多くの場合において、「美味しいもの」に対する感覚には、国境を越えて近いものがあり(とまで言い切ってしまうのは極端かな)であり、本当に美味しいものは、「その場所でしか獲れない」とか「生産量が少ない」とかの制約がなければ、「地元だけの食べ物」にならずに、もっと広い地域に拡散していくはずですから。

 僕の地元にも海の浅瀬に棲む生き物の名物料理があるのですが、正直、地元の人はほとんど食べません。見かけもグロテスクで、堅くて味もしないし、美味しいとは思えない。でも、観光客には、「地元の自慢の料理」として供してみたりするわけです。それをみんな「珍しいですねえ」なんて言いながら、喜んで食べていたりするわけです。食べ始めると、思わず沈黙に包まれながら。
ほんと、「名物に旨いものなし」とはよく言ったものだなあ、と。

 昔テレビでいかりや長介さんや川口浩さんが、アフリカの部族を訪れて、地元の人の歓待を受けたのはいいものの、ヤギの生き血とか動物の生肉とかを供されていたのを思い出します。
 「これは歓待の印だから、客人は喜んで食べないといけない」とかいうナレーションとともに。
 ああいうとき、もしあそこにいるのが自分だったら、なんて想像すると、ちょっといたたまれない気持ちになっていました。僕はあれを食べられるだろうか?なんて。
 いやほんと、相手が善意であるだけに辛い状況というのもあるのですね。
 「食べ物が口に合わない」というのだけは、短期間の努力や気持ちでどうこうできるものではないですし、そういう意味では、なんでも美味しそうに食べられる才能って、けっこう羨ましい、と最近つくづく思います。

 確かに「地元の名物料理」のなかには、けっこう「地元の人は食べてない」ものって、多いですよね。
 この中国の例みたいに、旅人は地元民気分なのに、地元の人は「あんなもの食べるなんて物好きだな」と笑っていることって、よくあるんじゃないかなあ…

 世界中の人々が同じものを美味しいと思って食べているという状況も、異常だとは思うのだけど。



2004年02月20日(金)
友達や恋人を選ぶために、必要な時間の長さ

【Yahoo!投票:あなたが他人を“選考”するとき、その人を知るのに必要な時間はどれくらい?

2004年2月19日より 計32490票(2月20日21時の時点)

一目みればだいたいわかる 12% 3938 票
20分もらえればなんとか 16% 5206 票
1か月は付き合わないと… 30% 9886 票
他人なんか永遠にわからない 41% 13460 票

現在の投票結果はこちらの左下から見られます。】

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「あなたはどのくらいの時間で、他人を『選考』できますか?」
とは言っても、その「選考」する内容によって全然違ってきますよね。オリンピックの代表選手であれば、数字だけで決めるのがかえって公正な場合もあるでしょうし、政治家の業績なんて、後世の人々でないと正当な評価はできない場合もあるでしょう。
ただ、この投票については、おそらく「その人と付き合う(友達・恋人etc)」という基準で、多くの人は投票していると思います。だって、僕も含めて投票者の大部分は会社の人事担当者やオリンピックの選考委員ではないから、身近なところでの「選考」というのは、誰かと「友達になれるか?」「いい上司(部下)であるか?」「恋人として付き合いたいと思うか?」というものでしょうから。

 それを前提として、あらためてこのアンケートの結果をみるとそうでしょうか?
 まあ、一番多いのは「他人のことなんて、どんなに長く付き合ってもわからない」であるというのは、ある意味当然です。いや、現実的には、もっとたくさんの人が「他人を完全に知る」なんてことはムリだ、と認識していると思うのです。でも、社会生活を送っている人のうち4割が、友達も配偶者も恋人も(「家族」というのは、ちょっと微妙な関係なので、今回は言及しません)いないなんてことは、まずありえません。ネット投票なので、ある程度母集団に偏りができるのかもしれませんが、それにしても4割が本当に「人間関係を持たない孤独な人」というわけではないでしょう。

 ということは、多くの人は「他人のことなんてわからない」と感じながら、友人や恋人と過ごしているわけですね。わからないなりに、お互いを尊重しながら。
 そう考えると、「友達なんだから」「夫婦なんだから」理解しあえるはずだ、なんていう「常識」は、すべてのそういう関係にあてはまるものではないのかもしれません。
 どうせ相手の「真実」なんてわかりはしないということならば、いちいち詮索しないほうがいい場合だってあるはず。

 でも、その一方で、「一目で」とか「ちょっと立ち話したくらいで」と答える人も4人に1人くらいいるのです。こういう「第一印象派」というのも、けっして少数派ではありません。僕にもそういう面はありますし。
 「他人のことはわからない」なんて言いながら、けっこうみんな「自分だけは一目で『相性』を見抜く能力がある」と信じているような気もするのです。

「どうせ一生かかってもわからないのなら、第一印象で決めても同じこと」っていうのは、確かに一理あるのかもしれないんですけどね。
「他人のことなんてわからない」と感じながら、他人なしでは生きていけないというのは、本当に人間の業みたいなものであり、また、面白いところなのかな、なんて思います。

「他人を選考する」というのは、とにかく難しい。
そのうえ、なんといっても自分が「合格!」と思った相手が、自分を「合格」させてくれるかどうか、それが最大の関門であるわけですから。



2004年02月19日(木)
「年を取ることは、けっして恥ずかしいことじゃない」

日刊スポーツの記事より。

【55歳の元世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマン(米国)が、高額ファイトマネーで7年ぶりに現役復帰する。ドン・キング・プロモーターが17日(日本時間18日)、推定2000万ドル(約21億円)で契約に合意したと明かした。復帰戦は74年にザイール(現コンゴ)で元同王者ムハマド・アリ(米国)と対戦した世界戦の30周年記念試合として行われる。日時、会場、対戦相手は未定だが、フォアマンは故郷ヒューストンでの開催を希望した。

 試合は「キンシャサの奇跡」の30周年記念試合として開催される。王者フォアマンは圧倒的優位といわれながら、アリに8回KO負けした。世界中から注目された歴史的ファイトに思い入れも強く、記念興行という企画と高額報酬にやる気満々だ。97年からリングに上がっておらず、自分と同じジョージという名前を付けた息子6人に孫も体調を心配する。話題づくりと批判する声もある。しかし「若者に年を取るのは悲しいことでないと示す」と反論し、本気でトレーニングを続けている。94年に45歳10カ月の最高齢記録でWBA、IBF世界王座を奪取したフォアマンだけに話題性は抜群。】

参考リンク:「ジョージ・フォアマン殿堂入り」(怠惰な暮らし)

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 「世代間の闘い」と言われた、あのイベンダー・ホリフィールド戦から、もう13年が経つんですね。正確な年代は僕の記憶からは抜け落ちてしまっていたのですが。28歳のホリフィールドに敗れはしたものの、最後までリングの上に立ち続けた42歳のフォアマンが試合後に遺した「年を取ることはけっして恥ずかしいことじゃない」という言葉に、当時はまだ20歳前の僕は、すごく感動したことを覚えています。ああ、世の中には凄い男がいるものだ、と。
 そして、競馬の世界では岡部幸雄騎手が、1年1ヶ月のブランクを乗り越えて先日復帰しました。復帰初日のレースでも勝利をあげるなど、年齢の壁に負けずに現役で闘い続けるベテランの姿は、やっぱり僕の心を揺り動かすのです。

 その一方で、20歳の僕はこんなことも考えていました。
 「年をとってもできる」なんてことをわざわざ証明する必要があるのか?なんて。
 競馬の世界は比較的高齢でも活躍している騎手は多いですし、パワーの低下を経験で補える部分もあるのでしょうが、ボクシングに関して言えば、「42歳にもなって、あえて『自分が若者と互角に戦えること』を証明しなくてもいいんじゃない?」とも思っていたのです。
 それは「年を取ってもできる人もいる」ということであって、一般的には「若い方が有利」であることには変わりないでしょうし、そこまでして「年をとっても強い」ということに拘泥しなくても、という疑問でした。42歳にもなって、ボクシングでもないだろう、と。もっと他の、42歳の人間にふさわしい仕事で「年を取るのは恥ずかしいことじゃない」ということを証明してみせればいいのにな、と。

 僕は今、自分が30歳を超えて思います。確かにフォアマンは偉かった、と。
 人間年をとるとワガママになっていきますし、より刹那的な方向に向かいがちなもの(「今が楽しければいい」とか、そういうやつです)。その中で、厳しいトレーニングに耐えて闘ってみせたフォアマンは、凄い男だと思います。
 ただ、やっぱり「そうやって若者と闘ってみせるしか、『年を取ることの恥ずかしさ』を払拭する手立てがないこと」に、寂しさも感じるのです。
 「年をとっても(体力的・精神的に)若いこと」だけが、価値の基準でいいのだろうか?と。

 今の世の中では「年を取るのは恥ずかしい」という観念が蔓延しているような気がします。
 20歳なんてオバサンだよね、という高校生の会話を耳にして、耳を疑うこともありますし。

 たぶん大昔は、「長生きをしている人間」には「知識や経験を伝授してくれる人」という絶対的な価値があって、年寄りは大切にされていたのでしょう。人間が長生きすることが難しく、情報を記録することが困難だった時代には、存在そのものに価値があったのです。
 でも、今は、さまざまな記録媒体によって「より精製された知識の伝達」が可能となり、高齢者の数も劇的に増えましたから、年寄りの価値は、どんどん下落しているようです。
 人間が長生きできるようになったことによって、「年を取ることが恥ずかしい時代」になってしまった現代。

 ただね、僕は自分が「年をとってしまったこと」は、そんなに嫌ではないです、今のところは。
 少なくとも20歳のときに比べて自分や他人を許せるようになったし、感情の揺れも少なくなりましたし。そして、いろいろな物事を広い視点でみることができるようになったとも思っています。
 仕事をしてお金をもらえるようになったし、専門家としてできることも増えました。
 残り時間の少なさに愕然とすることが多いですし、イヤなこともたくさんありますが、それでも、人間として社会に適応できるようになって、いろんなものを責めるだけだった昔より、生きるのがラクになりました。
 階段を上がるときの息切れは、まったくもって情けない限りですが。

 「年を取ることは、けっして恥ずかしいことじゃない」
 そう、別に殴り合いをしたり、いつまでも「若さを保つこと」にとらわれなくても、「恥ずかしくない年の取り方」はできるんじゃないかなあ、きっと。
 フォアマンや岡部騎手の本当の凄さは、「力で若者に負けないこと」ではなくて、「自分の年齢を言い訳にしない生き方」だと思うのです。

 「年をとっても若いだけの人」よりも「立派な年寄り」に、僕はなりたい。



2004年02月18日(水)
じいちゃんや、ばあちゃんは、「暴力大好き世代」だったの?

「新ゴーマニズム宣言13〜砂塵に舞う大義」(小林よしのり著・小学館)に掲載されている、平成15年11月に小林さんが行った講演「よしりん説法・青年たちへ」の一部です。

【今の左翼のやつは知識のあるなし以前に、自分のじいちゃんばあちゃんに対して非常に侮蔑的で、卑劣ですよ。自分のじいちゃんばあちゃんの世代は全部侵略者で、そこだけ特別異常に暴力のみが好きな世代だったかのごとく、子供に伝えちゃうわけでしょ。それ自体が非常に卑怯な仕打ちなんだってことを、あなたがわかればいいだけですよ。それはきっと伝わっていくわけでしょう、周りの人間にも、次の世代にも。】

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 小林さんは「今の左翼のやつは」と限定されていますが、僕たち戦後教育を受けてきた人間にとっては、「太平洋戦争の時代の日本人は、みんな侵略者」で、「原爆を落とされたのも戦争を早く終わらせるために仕方がなかった」というのが「常識」だったような気がするのです。
 僕の父方の祖父は戦争に行って還ってきた人で(母方の祖父は戦争で亡くなりました)、僕は「生きて還ってくるなんてすごいなあ」なんて言いながら、内心「おじいちゃんは、悪いことをしてきたのかなあ…」と子供心に思っていたのを思い出しました。

 しかし、今になって考えると、歴史上太平洋戦争の時代にだけ、暴力的な人間が生まれる確率が高くて、あとの時代の人間は平和的な人間ばかりが生まれた、なんてことはありえないような気がします。
 「魔女裁判」とかの中世の頃に比べたら人間という種は劇的な「進化」を遂げているのかもしれませんが(僕自身は、何百年という単位では、本質はそんなに違わないだろうと思っています)、少なくとも、僕たちのおじいちゃん、おばあちゃん、ひいおじいちゃん、ひいおばあちゃんの世代だけが、全くの突然変異だった、なんてことは考えにくいことです。
 でも、僕たちはすべて、「あの頃の日本人は間違っていた」と教えられてきたのです。
 あの時代に生まれていれば、僕だって特攻隊の一員になっていたり、原爆で命を落としていたかもしれないのに。
鹿児島の知覧にある旧特攻隊基地で、隊員たちの「遺書」を読むと、彼らは愛国マシーンなんかではなくて、いろんな葛藤を持っていたこともわかります。

 たぶん、僕たちとあまり変わらない「普通の人間」が、あの時代は戦争をしていたのです。そのころは、忘れてはいけないことだし、逆に、今の僕たちだっていつのまにか戦場に送られる可能性だってあるのです。
 大事なのは、「あれは悪いことだった」と後悔だけして「当時の愚かな人々の責任」にしてしまうことではなく、「どうして普通の人間たちが殺しあうようなことになってしまったのか?」というのを考え続けていくことなのでしょう。

 100年くらいで人間の「本質」なんて変わるわけもないし、僕だって、自分の中に「好戦的なもの」を持っているのを感じることが多いんですよね。
 
 先日、街に出たら「右翼」の街宣車が大声で何か道行く人々を脅すような言葉を投げかけていました。「左翼」の人たちの中には、公衆便所の落書きで平和を訴えようとしている人もいました。
 たぶん、僕たちの御先祖様が望んだ未来って、そんなのじゃないと思うのだけどなあ。
 結局、「より良い社会をつくるため」じゃなくて、「自分の存在を誇示するため」に、犠牲になった人たちを利用しているだけじゃないの?



2004年02月17日(火)
「なんでもあり」な日本の私

読売新聞の記事より。

【日米中韓で行われた「高校生の生活と意識に関する調査」で、日本の高校生は「男は男らしく」「女は女らしく」といった性差意識が突出して低いことが16日、教育研究機関のまとめで分かった。
 近年の男女共同参画社会の推進により、日本の若者意識が影響を受けたと見られる。
 調査は、文部科学省所管の財団法人「一ツ橋文芸教育振興会」と「日本青少年研究所」が昨秋、4か国の各1000人余りの高校生を対象にアンケートをした。

 日本が特異な値を示したのは「女は女らしくすべきだ」との設問で、肯定した人が28・4%しかいなかった。同じ問いかけを米国は58・0%、中国は71・6%、韓国は47・7%が肯定した。「男は男らしく」も、日本で肯定したのは43・4%(米63・5%、中81・1%、韓54・9%)で、4か国で唯一半数を割り込んだ。
 また、「結婚前は純潔を守るべき」との設問に対する肯定も、日本は33・3%(米52・0%、中75・0%、韓73・8%)と著しく低くなっている。
 さらに、各国の高校生の規範意識を探るため、14の行動を挙げて評価を求めたところ、日本は「学校のずる休み」を「よくない」と答えたのは27・4%しかなく、「親に反抗する」(よくない=19・9%)、「先生に反抗する」(同25・1%)も、批判は他の3か国より少なかった。】

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 「『男らしさ・女らしさ』日本の高校生は意識希薄」というタイトルがつけられたこの記事なのですが、結果をみると、「まあ、こんなものだろうな」というのが僕の印象です。確かに、現在の日本では「男らしさ」「女らしさ」というのは、ヘタに口に出したら時代錯誤としてバカにされるか、非難の的になるかのどちらかですし。男女ともに中性的なものへの憧れが強いのではないかなあ、などと思ってしまいます。
 でも、このアンケート結果から僕が感じたことは、「日本の高校生は、男女差別をしない柔軟な発想を持っている」というようなことではなくて、「日本の高校生の不安定な心」だったのです。
 実は、この記事を読んでいくと、日本の高校生は、ここで紹介されている「〜すべき」「〜はよくない」という「義務」「断定」で終わる設問について、ことごとく「そうは思わない」と回答しているのです。
 いや、彼らの気持ちは、なんとなくわかります。
 今の日本というのは、本当に価値観が多様化しています。ずっと「悪いこと」とされていたこと(例えば「不登校」であったり、「中高生の売春」であったり)についても、「それは悪いことだ」と明言する人のほうがむしろ少なくて、「不登校や売春だって、やってもいいんじゃない?」というような「ものわかりのいいオトナ」が世間に溢れています。
 「無宗教」を信仰している人々は、何に対しても合理的な態度をとるのがスマートで、「それは絶対に悪いことだ」と他人に言えなくなっているのです。
 「なぜ人を殺してはいけないの?」という問いに対して、おそらく一昔前の日本人の多くは「そんなのは昔から決まっていることだ。ダメなものはダメなんだ!」と答えていたのだと思います。
 でも、最近の合理主義・懐疑主義的な社会では、「うーん、本当だねえ、よくわからないねえ…論理的な根拠はないのかもしれない…ひょっとしたら、人殺しはそんなに悪いことじゃないのかなあ…」なんて考えこむ人も多いのではないかなあ。いや、そのことについて考えること自体は、けっして悪いことではないんだけど。

 何かを「絶対に正しい」と思い込むことは、非常に危険なことです。
 でも、その一方で、「正しいことなんて、この世界には存在しない」という思い込みもまた、人間として生きていく上では非常に足元を不安定にするものなのではないでしょうか。
 大人たちは、「子供の自由」を標榜しながら、実際は「生きていくための基本的な常識を教えていく」という責務を放棄して、「なんでもありなんだよ、何も信じちゃダメだよ」と言い続けているような気もするのです。
 「完全に悪いこと」はないのかもしれない。でも、「今の世の中で人間としてやってはいけないこと」の基準というのは、いつの時代にでも必ずあるはず。
 「なんでもあり」の世の中を教えることが、「子供のための教育」なのですか?

 僕は、もしこのアンケートが「女は女らしくすべき」という内容ではなく、「女は女らしくした方がいい」という設問だったら、回答の傾向はがラッと変わっているような気がするのです。
 日本人は、「〜すべき」というような教え方を普段されていないし、そういう発想にものすごく抵抗感があるような印象があるから。
 
 だって、大学入試の国語の問題でも「絶対〜すべき」とか「必ず〜である」っていう選択肢は、必ず×だもんね。



2004年02月16日(月)
日本テレビ「サブリミナル放送」の傲慢

毎日新聞の記事より。

【日本テレビのバラエティー番組「マネーの虎」のオープニングで、1万円札の福沢諭吉の顔を一瞬挟み込んだ「サブリミナル(潜在意識下)的表現手法」の疑いがある映像を流していたことが15日、分かった。この手法は日本民間放送連盟(民放連)の放送基準で不適とされており、同局は「サブリミナルではないが、疑念を持たれるようなものはやめる」として9日放送分から削除した。

 日テレ広報部によると、挿入した時間は0.2秒(30コマ中の6コマ)で、同部は「プロデューサーは『お金を印象づけるためで、サブリミナル(効果)を狙う意図はなかった』と話している」としている。

 サブリミナル的表現手法では、89年12月に日テレ系列で放送されたアニメ番組に物語と関係ないオウム真理教(アーレフに改称)の松本智津夫(麻原彰晃)被告の顔写真などを挿入▽95年5月にTBSの「報道特集」に松本被告の顔写真などを挿入したことが社会問題となった。アニメ番組では「遊びの発想で」、報道特集では「テーマを際立たせるため」とされたが、民放連は98年にサブリミナル的表現手法に関する規定を設けた。

 サブリミナル効果

 視聴者が認知できないほど短い時間に繰り返し映像を流すこと。映像が潜在意識下に残るなど人間の体に影響があるとされている。

 この映像を見た稲増龍夫・法政大教授(メディア論)の話

 これは編集上、意図的に挿入したものだ。視聴率を上げる目的など、制作者が自らに有利な行為や感情を視聴者に誘発しようとしたわけではなく、遊び心からだと思うが、いかに弁明しようともサブリミナルに間違いない。制作者には編集技量を誇示したい気持ちがあったのかもしれない。】

参考リンク:「Mainichi INTERACTIVE余禄」(アメリカ大統領選挙でのサブリミナル騒動について)

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 日本テレビ、大丈夫なんでしょうか?
 最近ずっと視聴率トップを走っている同局ですが、先日の視聴率操作男にしてもそうですが「視聴率を稼ぐためなら、何をやってもいい」と考えている人間が多いのでは?

 「プロデューサーは『お金を印象づけるためで、サブリミナル(効果)を狙う意図はなかった』と話している」らしいのですが、その「お金を印象づける」という意図が「サブリミナル」なわけですから、詭弁にもなっていない詭弁としか言いようがありません。そりゃ、確信犯に決まってます。

 僕のサブリミナル効果に対する知識というのは結構曖昧なもので、中学生くらいのときに「映画館で上映中に『コーラを飲もう!』という観客が気がつかないような短い映像をところどころに挿入したら、売店のコーラの売れゆきが良くなった」というようなエピソードを耳にして、「そんなことがあるのか!」と驚いたのが最初でしょうか。
 大学の社会学の講義(今から15年くらい前)では、ブライアン・キイという有名なメディア学者の「メディア・セックス」という本がテキストのひとつとして取り上げられたのを記憶しています。その本の内容は、僕にとってはすごく衝撃的で、多くの広告には、サブリミナル効果を狙った性的なメッセージが挿入されていて(ウイスキーの瓶に『sex』と刻印されていたり、広告の中に性器の絵が隠されていたり)、われわれは無意識のうちに情報操作されているのだ、というものでした。
 もっとも、これは今となっては「考えすぎ」という感じで、いわゆる「トンデモ本」の範疇に入ってしまうようですが。まあ「人面魚」みたいに「そう思い込めば、なんでもそんなふうに見えてくる」という面はありますしねえ。ただ、「セックス・アピール」というのが人間にインパクトを与えるというのは、事実ではあるような気はします。
 僕たちに熱く「メディア・セックス」の内容を語ってくれた先生、今頃どうされているんだろうなあ。

 現在では「本当にサブリミナル効果というのはあるのか?」という点にも異論が多いようなんですけどね。

 しかし、それはそれとして、テレビ番組でこんなことをするのは、少なくとも視聴者にとっては何のメリットもないことです。お金のイメージ映像のサブリミナル効果で、「マネーの虎」の視聴率が上がったかどうかはともかく(今年の3月に打ち切りになるらしいですから、「劇的な効果は無かった」というのは間違いなさそうですが)、テレビを使ってこういう「実験」を試みるということ自体、視聴者をバカにした行為です。

 ところで、この文章を書いていて非常に困ったことがあったのです。
 それは「Google」で検索しても「サブリミナル(効果)」について書かれている、ある程度公正な視点でわかりやすく書かれたサイトあるいはページというのが、絶望的にまで見つからなかった、ということ。
 一見わかりやすそうに書いてあるところは、「サブリミナル効果」を謳い文句にした商品の宣伝サイトだったり、個人的な思い込みと偏見をいかにも「既成事実」であるように書いているサイトだったり。
 インターネットは便利ではあるのですが、考えて使わないと圧倒的な情報に「洗脳」されてしまう可能性もあるなあ、と痛感しました。



2004年02月15日(日)
「懐かしいファミコンソフト復刻版」を買う大人たち

毎日新聞の記事より。

【任天堂は14日、ファミコン(ファミリーコンピュータ)ブームをけん引したかつての人気ソフト「スーパーマリオブラザーズ」など10種を携帯ゲーム機「ゲームボーイアドバンス」用ソフトとして“復刻発売”した。全国のゲーム販売店やおもちゃ店で、ファンが懐かしそうに手に取った。

 復刻したのは世界で4024万本売ったスーパーマリオのほか、第1号ソフト「ドンキーコング」などで、83年7月に発売したファミコンの20周年記念商品。最近のコンピューターゲームは、凝った作りのソフトが主流だが、「昔の単純なゲームをしたい」という声に応えた。ファミコンは昨年、部品調達が困難になり製造を中止したが、似た色遣いの白い本体に赤いボタンの携帯ゲーム機も発売された。

 「渋谷TSUTAYA」(東京都渋谷区)には開店前に20人ほどが列をつくり、目黒区の会社員、ジョン・リカーディさん(28)は「子供のころに米国版で楽しんだ。懐かしいので買いに来ました」と話していた。】

〜〜〜〜〜〜〜

 ジョンさん、そんな並んでまで買わなくても…なんて僕はちょっと思いつつも、彼の気持ちもよくわかるのですが。
 僕が中学生の頃に発売されたファミコンは、それまでの「テレビゲーム」の概念を変えたものでした。綺麗なグラフィックと「音楽」になっているサウンド、そしてカセットを入れ替えるだけで遊べるいろいろなゲーム。まさにそれは「革命」だったのです。
 そして、当時学生で、お金は無かったけど時間はけっこうあった僕らゲーム好きたちは、「少しでも複雑で、長く遊べるゲーム」に価値を見出していたものでした。
 200面もあるアクションパズルゲームとか、なかなかレベルが上がらないRPGなんて、今の30歳を越えた僕にとっては、「勘弁してくれ…」とみただけでお腹いっぱいになるようなゲームたち。
 今の「派手なグラフィックと長時間のプレイ時間が当然」の時代となっては、むしろ「短時間で手軽に遊べるゲーム」が懐かしくなってしまうのです。

 今回発売されたのは、「スーパーマリオブラザース」「ゼビウス」「マッピー」「ドンキーコング」など10種類。いずれもファミコン初期の今となっては「シンプルな」ゲームたちです。「懐かしい」のはもちろんですし、ある意味ゲームの原点、「限られた機能でどういうふうに面白くみせるか」というゲームの作り手の工夫と意地が直に感じられた時代の作品。

 とはいえ、正直1本2000円は微妙な値段ではありますね。モノによっては、すぐ飽きるだろうし(ドンキーコングとか、ちょっと厳しいのではなかろうか…)

 こういうものはたぶん、僕のような大人が、子供の頃買いたくても全部は買えなかったゲームたちを文字通りの「大人買い」するためにあるのかな、とも思うのです。
 多くの大人たちは、「手に入れればそれで満足」してしまうはず。
 それは、昔買えなかったゲームたちへの甘く切ない復讐のようなもの。

 とか言いつつ、「次はオホーツクに消ゆ!」とか考えてしまうのですが、もうこれで終わりなのかなあ。



2004年02月14日(土)
哀しき小市民のイチゴショートケーキ

「損より素敵なショーはない」(パチンコ必勝本2004・3月5日号、ゲッツ板谷著)より。

【……が、損をするということは、ホントに損なことなのだろうか?

(中略)

 書店に行き、特に売れている様子はないが何故か気になった本を手にし、それを買う。そして、家に帰って読んでみると大抵ガッカリする。が、そんなことを繰り返しているうちに、あまり評判にはなっていないが、自分に合った、その後の人生を変えてくれるような一冊と出会う。
 
 誰かがケーキを買ってくる。皆、我先にとイチゴやメロンが乗った見てくれが派手なモノに手を伸ばす。で、一見何の事もないようなケーキが残る。ところが、それを食べてみると外見が地味な分、実はパティシエが最も味に自信を持っているケーキで、もの凄くウマかった。】

〜〜〜〜〜〜〜

 「あまり差がなさそうなものの中での選択基準」というのは、けっこう人それぞれですよね。
 例えば、「マクドナルドのハンバーガーと高級フランス料理のどちらかを選べ」というような状況であれば、そのときの経済状況や腹具合などで、明確に決められる場合が多いのではないでしょうか。
 でも、友人の差し入れのケーキが10種類目の前にあって、好きなのを選んでいい、という状況だったらどうでしょうか?
 あるいは、コンビニでどれか一種類弁当を買って帰ろうと思うとき、何を基準に選びますか?
 弁当コーナーに「定番モノ」と「新商品」が並んでいた場合、どちらに手が伸びるでしょうか。

 僕は基本的に優柔不断な人間なので、こういうときには、けっこう考えてしまいます。ただし、僕の場合は、積極的に、ケーキだったら地味なデザインのやつを取りますし、弁当も「定番モノ」を選ぶことが多いです。
 それこそ「またそれにするの?」って言われるくらいに。

 同じ位の値段で豪華なデザインのケーキとシンプルなショートケーキがあった場合、たぶん、豪華なケーキを選択する人のほうが多いと思うのです。
 でも、僕の場合はゲッツさんと同じように「これだけの値段がして、こんなにデザインがシンプルだということは、よっぽど味が良いに違いない」なんて思い込んでしまいますし、同じ500円の鶏唐揚げ弁当と牛焼肉弁当とでは、「同じ値段なら、肉の値段が安い分、唐揚げ弁当のほうが、美味しいか肉の質が良いに違いない」なんて、自分で判断してしまいます。
 そして、「みんな見かけに騙されちゃって…」などと、ひとりで満足しているのですよね。

 おそらく世間のロングセラーの中には、「美味しいから」という面もある一方、僕のような「派手好き、新製品好きより、ちょっと賢い選択をしているつもりの人」に支えられているものもあるんだろうなあ。
 「堅実な選択」「そんな普通のでいいの?」と周りに言われながら、本人は「これが正解なんだよ!」と内心満足しながら、イチゴショートケーキを食べているのです。
 よく考えてみれば、それしきのことでそこまで深刻に考える必要もないんですけどね。

 ああ、哀しき小市民の選択基準…

 



2004年02月13日(金)
なぜ電車内で化粧をしてはいけないの?

共同通信の記事より。

【日本民営鉄道協会(民鉄協)は18日までに、大手私鉄・地下鉄16社の利用者から集計した「駅、車内の迷惑行為」のランキングを発表した。1位は1999年のスタート以来(年1回集計で2000年は行わず)、4回連続で「携帯電話の使用」で全体の25%を占めた。
 16社の主要駅で配布している民鉄協の広報紙でアンケートを呼び掛け、約5500人が回答した。
 携帯電話使用は01、02年はいずれも30%台を占めたが、今回は前回に比べて9ポイントも下がった。民鉄協は「使用のマナーが少しずつ定着しているのではないか」としている。
 2位以下は「座席の座り方」「所構わず電車の床に座る」「電車内で騒ぐ」の順。同率5位で「乗降時のマナー」と「女性の化粧」となっている。】

参考リンク:「なぜ電車で化粧をしてはいけないんでしょうか?」(「人力検索サイト・はてな」でのQ&A

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 ちなみに、「18日」というのは、去年(2003年)の12月18日です。ちょっと旧い話題ですみません。
 実は今日、何の気なしに上記参考リンクのサイトを眺めていて、上の質問といろいろな人の回答を見て、あらためて考えてみると、確かに「なぜだろう?」という気もしなくはないんですよね。
 僕は田舎暮らしが長くて、電車通勤の経験がほとんどないので、あまり実感できないところもあるのですが。

 共同通信の記事での「電車内での迷惑行為ランキング」のなかで、「座席の座り方」「騒ぐ」「床に座る」なんていうのは、「自分自身が座るスペースが無くなったり、降りられなくなったりしるという実害がありますから、容易に理解できるのです。携帯電話も、やっぱり自分の目の前でワーワー喋られているといい感じはしないですよね。まあ、こういう携帯電話のマナーも少しずつは改善されつつあるようなのですが…携帯電話が普及し始めた最初の頃は「もしもし、今、電車の中!」とか嬉しそうに別に急ぎの用事でも無さそうなことを大声でずっと話している人、けっこういましたからねえ。

 しかしながら、「女性の化粧」というのはどうなのでしょうか?
 考えてみると、なんとなく他の「迷惑行為」とは、ちょっと毛色が違うような気がしますよね。だって、女性が化粧をしている姿というのは、携帯電話のように否応ナシに耳に飛び込んでくるようなものではないですし、「匂いがする」「粉などが飛んでくる」というのなら、「電車内でものを食べること」とあまり変わりは無いのではないかなあ、なんて。もっとも、電車内でものを食べるというのは、行楽に出かけるときなどが主ですから、そういうときと通勤電車の中では、人々の心のおおらかさが、全然違うのかもしれませんけどね。
 田舎の空いているローカル線だと、子供がバタバタ駆け回っていても、「のどかだなあ」なんて感じる人も多いのではないでしょうか?

 でも、僕もやっぱり「電車の中で化粧している人」というのは、目にすると気持ちの良いものではないですよね、正直なところ。
 ああ、忙しくて時間がないんだろうなあ、なんて思いはするのですが、あまりはっきりとした理由ももたないまま、なんとなく嫌悪感を持っていたような気がします。
 ちょっと脱線してしまいましたが、「車内での化粧」(まあ、「女性の」と限る必要もないでしょうから)は、なぜ不快だと感じる人が多いのでしょうか?
 匂いについては、確かにあまりに化粧くさい人に隣に座られると困るのですが、化粧くさい人というのは、別にリアルタイムで化粧をしていなくても、メイク済みの状態でも化粧くさいのです。だから、それが「不快感」のすべての理由ではないと思うのです。
 この「はてな」の回答の中に出てくる「外国では電車の中で化粧をするのは売春婦」とかいうのは、ちょっと違うかな、とは思うんですよね。僕はそんな知識はまったくありませんでしたが、そんなこと知らなくても、あまり気持ちの良いものではありませんでしたし。
 「公共性の欠如」というのは、確かに一理あるかもしれません。「みんなが移動する場所で、個人的な行為をやるのは恥ずかしいこと」というのは、ある種日本人の道徳観に合致しているような気もしますし。ただし、それなら「文庫本とかも読んだらダメなの?」とか「直立不動で電車に乗ってなきゃダメなのか?」という極論もあるわけですよね。そのあたりの「個」と「公」のバランス感覚というのは微妙です。
 「化粧をする」というプロセスを他人に見せるのはハシタナイ!という意見もあるようですが、考えてみれば、「そんなの本人の価値観次第」なわけですよね。電車内で化粧しているという行為自体が、本人にとっては「他人に見られたって構わない」という意思表明であるわけですし。おそらく、車内に同じ会社の人を見つけたら、あわてて化粧をやめたりとかするんじゃないかなあ。
 それでも、周りの人は、自分の感覚に照らし合わせて、「自分が電車内で化粧をしているような気になって」不快感を覚えてしまうわけです。
 ただ、僕が不快に思うのは、ひょっとしたら、「自分が『化粧している姿を見られてもいい人』に勝手にされている」という点かもしれません。昔のヨーロッパの貴族は、使用人の前では平気で裸になっていたそうです。なぜかというと、「使用人を人間とは思っていなかったから」。
 こういう「自分が風景の一部にされてしまう」というのは、意外と不快なものなのです。本当は「俺になら化粧している姿を見せてもいいのか!」なんて赤の他人に向かって腹を立ててみても、どうしようもないんですけどね。
 知り合いの女性が、「忙しくてメイクしている暇がなかった、ゴメン」と言って、車の助手席で化粧している姿、なんてのは、全然嫌な感じはしないんですけどね、僕の場合は。

 こうしていろいろ考えてみるのですが、実際のところ、「こういう理由があるから、電車内での化粧をしてはいけない!」という決定的な理由というのは、見つからないような気がするのです。
 あえて言うとすれば、「化粧をする」という行為(まあ、一種の秘め事ですね)そのものが、あまりに神秘的で、人々の心を騒がせるからなのかもしれません。
 ひょっとしたら、本質的に人間と言うのは、「他人が化粧する姿」というのに、ものすごく興味を持ちすぎる生き物なのかなあ、なんて考えてみたり。



2004年02月12日(木)
「戦争反対!」という落書きで有罪になった男

共同通信の記事より。

【イラク戦争のさなか、公園の便所の外壁に「反戦」などとスプレーで落書きし、建造物損壊罪を適用して起訴された東京都杉並区に住む書店店員の男性被告(25)に対し、東京地裁は12日、懲役1年2月、執行猶予3年(求刑懲役1年6月)の判決を言い渡した。
 木口信之裁判長は判決理由で「便所の外観を著しく損ね、被害は軽視できない。安易に違法な表現方法を採り、反省もうかがい難い」と述べた。
 公判で弁護側は「落書きで便所の使用が困難になることはなく、建造物の損壊に当たらない」と無罪を主張したが、木口裁判長は「便所を見る者に一種異様の感を抱かせ、利用への抵抗感を与えかねない」と退けた。
 「表現の自由の範囲内」との弁護側主張に対しても「便所がある公園の設置者の所有権、管理権侵害は許されず、被告にはほかの表現手段もあった」と指摘した。
 判決によると、被告は昨年4月17日午後8時半ごろ、東京都杉並区の公園の便所外壁に「反戦」「戦争反対」などと大書。直後、近所の人に見つかり、警視庁荻窪署員に突き出された。】

参考リンク:「落書き反戦救援会」

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 このニュースとリンク先のページを見て、僕が思ったのは、「こういうのって、無意味だよなあ」ということでした。
 「戦争反対」という主張そのものには僕は賛成ですけど、だからといって、公共物であるトイレに落書きで主張するようなことじゃないし(だいたい、それじゃ「用を足しにきた」人々にしかアピールできないわけですから)、自分が使うトイレにそういう落書きがしてあったら嫌だなあ、なんて思うのです。ネットでやったほうがスマートだろうに。
 もっとも、中学校や高校(予備校や大学でも、ですね)の男子トイレなんてのは落書き天国で、個室の中には「よく来たな」というようなものから、「○○ちゃん大好き!」あるいはちょっと卑猥な絵まで、たくさんの落書きがしてあったものでした。
 そういう意味では、「トイレに落書きをしたくなる」という気持ちはわからなくもないのですが…

 とはいえ、そういう主張のやり方に実効があるかと言われれば甚だ疑問と言わざるをえませんし、トイレの落書きを見て「ああ、俺も戦争反対派になろう!」なんて思う人はいませんから、実際のところは、「単なる落書きに、後からいろんな意味が付随されてしまっているだけ」というような気がします。
 裁判官が言うように「安易に違法な表現方法」で「被告には他の表現手段があった」のですし、「主張の内容の正しさ」が「主張のプロセス」を正当化するものでもありません。
 むしろ、こういうのは暴走族の「夜露死苦!」とかと同じレベルの印象しか見る人間には与えないし、逆に「正しいことを主張するためなら、みんなに迷惑をかけてもいいのかよ!」というような「戦争反対」という主張自体への嫌悪感を招きかねません。

 ただ、これで執行猶予つきとはいえ、懲役刑というのもちょっと厳しすぎるかなあ、とも思うんですよね。「たかが落書き」ですし。
 そういうふうに問題を大きくしてしまうことによって、マスコミなどから「戦争反対の闘士が、弾圧を受けた」かのような報道がされてしまっているような面もありそうです。
 一般的な暴走族が書くような内容の落書きだったら、どうだったのだろう?なんて考えてしまう面もあるわけで。おそらく、「本人が反省していなかった」とかいうのが、罪が重くなってしまった要因でもあるんでしょうけど。

 実際は「反戦を主張したことが罪」なんじゃなくて、「公共物に使用者が困るような落書きをした」ということが罪に問われているのに、「問題のすりかえ」が行われてしまうのはちょっと怖いなあ、とも思うのです。
 
 「正しいこと」を主張するというのは、勇気がいることです。しかしながら、「正しいことを主張するためなら、何をやってもいい」というのは、非常に怖い発想だと僕は感じます。
 ナチスだって、オウム真理教だって、「正しいこと」を世界に広めようとして、あのような行為に及んでしまったのですから。
 彼らのやったことは、「歴史的犯罪」ですが、逆に「歴史的犯罪」というのは、当事者が「自分は正しい」と思ってやったことばかりです。
 「自分で悪いと思いながら行う悪事」で、何万人も人は殺した例は皆無です。

 本当に、「正しいこと」ほど怖いものはないのです。少なくとも「正しいことのためなら、他人に迷惑をかけてもいい」というのは、本当の「正しさ」ではないと思います。

 しかし、そんなふうに考えていくと、何を信じていいのかわからなくなるのも、また事実なのです。
 「自分は何も信じない!」と頑なになるのも、「信じないというのを信じている」わけですし。



2004年02月11日(水)
「強いパスワード」と「拙い記憶力」の真ん中で。

「Yahoo!インターネット・ガイド3月号」(ソフトバンク)より。

(特集記事「パスワードで困らないために」より)

【パスワードの強度に絶対はないとしても、弱いとされているパスワードの欠陥を1つずつ取り除いていくことで「いまより強い」パスワードにすることは可能だ。これまでパスワードのセキュリティに無関心だったユーザーは、わずかな変更から始めてみよう。

<強いパスワードの条件>
・意味を成さない
・大文字・小文字が混在している
・記号が混在している
・可能な限り長い 】

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 ちなみに、「強いパスワード」の一例として、”i1R&Tb3B”なんてのが挙げられています。

 僕も仕事やプライベートでパソコンをいろいろな用途で使っていますが、パソコンのセキュリティというのには、いつも頭を悩まされます。この御時世ですから、アンチウイルスソフトを常駐させているのは仕方がないことなのですが、こういうレンタル日記のパスワードとか(まあ、毎日扱っていれば、そんなに忘れることもないですが)、有料サイト(アダルトだけが有料サイトではないですよ!と強く主張しておきます、一応)のパスワードなんて、けっこう忘れるものですよね。cookieに保存しておけば便利なのでしょうが、それはそれでいつの間にか保存しておいたのが消えていたり、他のパソコンから使いたいときに困ってしまいますし。

 まあ、パッケージソフトのコピー防止のプロダクトキーなんてのは、違法コピー防止の必要もあるでしょうし、入力するのは基本的に一回だけですから仕方ないかな、なんて思うのですが。
 こういう「暗証番号」や「パスワード」って、銀行のキャッシュカードやクレジットカードにはつきものなのですが、僕は困ったことに、こういう番号をど忘れしてしまうことがけっこうあるのです。
 そこまで記憶力が低下しているわけではないと自分では思いたいのですが、普段使っているのとは違うカードでお金を引き出さないといけないときとかは、非常に困ってしまいます。
 あれは、5回くらい連続で間違うと、カード自体がロックされてしまうらしいですし。

 こういう「暗証番号」って、「設定するときには、個人情報から類推できないように、ご注意下さい」なんて注意書きがつきものなのですが(要するに、誕生日とか電話番号とか、予想しやすい番号は止めるように、ということです)、現実に上記のような<強いパスワードの条件>を満たすパスワードにしている人って、どのくらいいるのでしょうか?

 本当にこれを忠実に守った「強いパスワード」って、おそらく覚えられないような(もしくは、すぐに忘れてしまって思い出しにくいような)文字列になってしまうんですよね。それで「記憶できないから」って、パソコンに「パスワード:○○」なんて紙が常に貼ってあったり、財布の中に「暗証番号」をメモした紙を入れていたりするわけです。
 それでは、かえって危ない。
 キャッシュカードの場合は、「カード+暗証番号」なのに比して、パソコン内での個人情報は「パスワード」のみで見ることができる場合が多いですから、そういう意味ではパスワードの重要性は若干異なります。
 大部分の人にとってパソコン内の個人情報より口座のお金のほうが大事なはずなので、セキュリティが「複雑で堅牢」なのは当然ですけど。

 結局、セキュリティと利便性というのは、なかなか両立するのは難しいことなんでしょうね。全ての面で「完璧なパスワード」なんていうのは、おそらく存在しないのでしょう。
 こういう「強いパスワード」は、知っていてもなかなか実行するのは難しいんだよなあ。
 やっぱり、「忘れる危険性」を一番に考えてしまうし…




2004年02月10日(火)
たかが「牛丼の販売休止」なのに、どうしてこんなに悲しいんだろう?

時事通信の記事より。

【牛丼チェーン最大手の吉野家ディー・アンド・シーは9日、牛丼の販売を11日から休止すると発表した。BSE(牛海綿状脳症、狂牛病)発生を受け米国産牛肉の輸入禁止措置が続いており、牛丼用の牛肉在庫が底を突いたため。同社は「各店舗の在庫がなくなり次第、順次販売を休止する」としているが、ほぼ全店で同日中に売り切れとなる見込み。
 牛丼チェーン各社の中では、なか卯と「すき家」を展開するゼンショーの2社が、既に同様の理由で販売中止に追い込まれているが、1899年の創業以来、牛丼一筋で最大手チェーンを築き上げた老舗の店頭からも、ついに牛丼が消える。】

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 販売休止で、逆に駆け込み需要が増しているという「吉野家」の牛丼ですが、つとうとう11日で牛肉の在庫切れ、ということになりそうです。
 「安くて旨くて早い」という牛丼は、日本国民に愛され続けている食べ物ではあるのですが、それにしても、最近の「販売休止フィーバー」は、ちょっとバカバカしいような気もしますけどね。
 僕は「男のひとり暮らしで、夕食の時間が不規則(夜遅いことが多い)、そんなにリッチじゃない」という、まさに「吉野家の客層とベストマッチしている」人間ですから、非常に良く利用させていただいています。それでも、今回の「販売休止」は、確かに食事の選択肢が1つ減るという痛手はありますが、「まあ、他のもの食べてれば、そのうち復活するだろう」と楽観している面もあるのです。
 それでも、「無期限休止」なわけですから、寂しくないと言われると嘘になってしまいますけど。

 今回の「牛丼販売休止騒動」には、マスメディアのスポンサー筋への配慮という面もあるのかもしれませんが、閉店する店や失われていく食べ物なんて、この世界に溢れているのに、「牛丼」、しかも「吉野家の牛丼」だけこんなに話題になるんだろう?という気もしなくはありません。大手チェーンですし、自然に廃れていったわけじゃなく、外的要因での「不慮の休止」であることや、僕くらいの世代の人間には「キン肉マン」とかの影響が色濃く残っているのかなあ、なんて考えてみたり。

 でも、長年「吉野家」にお世話になってきた僕には、なんとなくその理由がわかるような気がするのです。

 「あなたはどんなときに牛丼を食べますか?」と問われて、「彼女とデートのときに」とか「家族みんなでお食事に」なんて答える人の割合は、少ないのではないでしょうか。
 牛丼は「ハレの御馳走」ではないし、「みんなと楽しく食べるものではない」というのが、多くの人の牛丼との接し方だと思うのです。
 僕の住んでいた地域は田舎でしたから、吉野家ができたのは学生時代の終わり頃でした。就職して研修医になってからは、時間がないときや夜遅くなってしまったときなどに、あのオレンジの看板に引き寄せられていったものです。
 例えば、末期癌の患者さんを看取って、夜中の2時や3時に「真っ直ぐ帰るのもなんだか嫌だし、何か食べてから家に帰って寝よう」と思ったとき。
 他にそんな時簡に開いている店はファミレスくらいしかなくて、さりとて、あのファミレスの明るさは、そういうときの僕にはついていけなくて、客がほとんどいないカウンターで、ひとりで牛丼をモソモソと食べたものでした。

 「牛丼」より美味しいものはたくさんありますし、「牛丼」と同じくらい安い食べ物も、探せばいくらでも見つかるでしょう。
 でも、そんなふうに「自分と孤独や失望を共有してくれた食べ物」というのは、吉野家の営業形態の影響か、他には無いような気がするのです。
 牛丼を食べ終わってお茶を一口すすったあとに、「フーッ」という溜息とともに吐き出されたものたち。

 「牛丼」は、きっと、現代を生きる、ある種の人々を感傷的にさせる食べ物なのでしょう。
 ひょっとしたら、僕らは、「牛丼そのもの」ではなくて、「夢や希望や絶望や孤独と一緒に牛丼を食べていた、あのときの自分が失われてしまうこと」を悲しんでいるのかもしれませんね。



2004年02月09日(月)
「エイリアン vs プレデター」の悪趣味な愉しみ方

サンケイスポーツの記事より。

【伝説的2大SFキャラクターの“激突映画”「エイリアンvsプレデター」が今秋、日本で公開されることが決まった。全米では8月に公開される。極秘裏に製作が進んでいるが、“映画史上最大の対決”はスタイリッシュで激しいアクションものになりそうだ。

 究極のバトルムービーが、早ければ秋にも日本に上陸する。

 この夢の対決企画は、10年以上前からハリウッドや映画ファンの間では注目の的になっていた。1990年公開の「プレデター2」で、全く接点がないはずのエイリアンのがい骨が、なぜか飾られている場面があり、「なぜエイリアンのがい骨が?」と評判に。その頃から「エイリアンvsプレデター」製作のウワサが流れていた。

 ストーリーの詳細は不明だが、古代にプレデターとエイリアンがピラミッドで戦う儀式があり、一度は双方とも絶滅。時は流れて、現代にそのピラミッドが南極大陸で発見されたことから、全人類を巻き込んだ両者のバトルが再燃する−といった話の流れのようだ。

 人類はどうなるのか、そして、どちらが勝つのか。配給元の二十世紀フォックスは、「本格的なアクションホラーとなることは間違いありません」と太鼓判を押す。これは、曙vsサップ以上の注目の戦いとなる!】

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 「エイリアンvsプレデター」って、この映画が初耳じゃなくて、どこかで聞いたことがあるなあ、と思っていたら、もう既にゲームになっているんですね参考リンク:「エイリアンvsプレデター2(カプコン公式サイト))
 しかし、ゲームだったら、プレイヤーの腕で勝ち負けが決まるからいいものの、こういう大物同士の勝負というのは、なかなか勝ち負けがつけにくいのが世の常。負けたほうのファンからは、「負けるはずが無い!」とクレームがつくことが多いでしょうし、今後のキャラクターのイメージにも関わってきますから。
 曙vsサップのように実際に戦うわけにはいかないだろうし、まさかプロレス的に「両者リングアウトの結末」というわけにもいかないでしょうし。

 子供の頃、「東映まんがまつり」で、「対決!マジンガーZ vs グレートマジンガー」という映画を観たことがあります。そのタイトルを見たときは、「あの2大ヒーローが闘うなんて!」と期待していたのですが、実際の映画では、単に2機が協力して敵をやっつける、という内容で、ひどく失望したのを覚えています。全然「対決」してないよ…って。
 「対決!ルパン対ホームズ」なんてのもありました。これは実際に名探偵ホームズと怪盗ルパン(1世です、ちなみに)が対決するというもので、どちらが勝つか楽しみに読んだ記憶があるのですが、結局は、ルパンのトリックをホームズが見破るのですが、ルパンは華麗に逃げ去っていく、という内容。これを書いたのは「怪盗ルパン」の方の作者、モーリス・ルブランでしたから、ややルパン寄りの内容ではあったのですが、決着つかず、という感じの結末だったのです。
 まあ、それは子供なりに、「どっちかを完勝させるわけにはいかなかったんだろうなあ」なんて納得はしたのですが。

 こういう「大物同士の対決」という作品には、「ゴジラvsキングギドラ」みたいに、善悪ハッキリしているもの以外は、明確な結末はつけにくいですよね、きっと。
 今回もおそらく、「痛み分け」というような結末になりそうな予感がするのですが、それはそれで、どんな「落としどころ」に持っていくか、なんてちょっと意地の悪い愉しみ方もあるのかもしれません。
 「ジェイソンvsフレディ」より、大規模なバトルになるでしょうし。

 ゲームや現実と違って、「シナリオが決められる」というのは、難しいところもあるのかもしれないですね。ゲームや現実なら、「そういう結果になったんだから仕方がない」のですが。
 万が一、リアルワールドで、エイリアンとプレデターが戦ったりしたら、それはそれで人類にとってはいい迷惑でしょうけど。



2004年02月08日(日)
「パトカーをタクシー代わりにするなんて!」

毎日新聞の記事より。

【京都府警九条署が、大学の受験会場を間違えた女性を正しい会場までパトカーで送り届けていたことが7日、分かった。パトカーはサイレンを鳴らし赤色灯を点灯させて“緊急”走行していた。

 同署の説明では7日午前10時ごろ、京都市南区の同署山王交番に「試験会場を間違えた。何とかしてほしい」と女性が泣きながら駆け込んだ。試験は午前10時からで、女性の試験会場は京都府京田辺市の同志社大京田辺キャンパスだった。

 しかし、女性は間違えて京都市上京区の今出川キャンパスに向かっていたといい、同署は「女性の人生にかかわる緊急事態」として、桐村富男署長が口頭で許可し、特別にパトカーを出動。女性を乗せ、交番から南へ約20キロ離れた京田辺キャンパスまで送り届けたという。女性は10時25分ごろにキャンパスに到着。あと5分遅いと受験資格を失うところだった。同署は「警察として妥当な判断だった」と話している。】

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 この記事を読んで、「パトカーをタクシー代わりにするなんて!と憤る人もいるだろうし、「警察も人情があるねえ」と微笑ましく思う人もいるでしょう。
 この警察の「善意」に対する解釈は、非常に難しい。
 「自分のミスで引き起こしたことなんだから、自分で責任とらせろよ!」という意見も当然あるでしょうし、会場を間違えたり、思わぬトラブルで会場に着けなかった受験生は、彼女だけではないだろうしなあ。

 まあ、「受験」なんていうのは、終わってしまえば「あの頃はどうしてあんなことに一喜一憂していたのだろう?」なんて自分が疑問に思えてくるくらいなのですが、リアルタイムに受験生だったときは、まさにそれが「人生の一大事」だったわけですし。
 そういう意味では、「人生にかかわる緊急事態」という判断は誤ってはいないと思います。
 普通にタクシーで行っても、おそらく10時半には間に合わなかったでしょう。

 「それは警察の本来の業務とは違うだろう」とも感じますが、目の前に困っている人がいて、その人を助ける方法を自分たちが持っていれば、ナントカしてやりたいと思うのは、人間として当然のような気もしますしね。

 ただ、この件をきっかけに、「困っているから」という理由でパトカーをタクシー代わりに使う人が増えるのも困ったものです。残念なことですが、「タクシー替わりに救急車を呼ぶ酔っ払い」なんて人もいますからねえ。そして、救急車は要請を断れないことになっていますから、こういう行為が救急業務の妨げになっていることも事実ですし。

 今回の件に対しては、別にこの受験生や警察を責めたり褒めたりする必要はないと思います。この女子学生は「大事な受験日に遅刻した」というだけで、かなりのショックを受けたでしょうし、試験時間も短くなってしまったわけですから。ただし、警察としては、これは「今回限り」で、今後同様の要請(遅刻しそうだから警察に泣きつく)は受け付けない、という態度は明確にしておいたほうが良いでしょう。そうしないと、「利用」する人がたくさん出てきそうだし、「不公平感」を人々に与えてしまうのは良いことです。
 まあ、好きで受験日に遅刻する受験生なんて、いるわけないですけど。

 でもね、これは本当は、「自分の受験会場の確認・下見をしていなかった」というこの女の子の責任。受験生の人たちは、くれぐれも注意してくださいね。いや、そんなに大事な志望校なら、下見くらいしておくだろうと思うのだけどなあ。

 しかし、こういうどっちに転んでも叩かれそうな状況で、「人情」をみせた警察は、僕はけっこう好きです。年度末調整の帳尻合わせために交通取り締まりに熱心になるより、よっぽど「市民のため」になっていると思いますから。

 その前に、もっとやることがあるんじゃない?という話は、まあ置いといて。



2004年02月07日(土)
三谷幸喜と白井晃の「幸せな関係」

「面白さのツボ!三谷幸喜の全仕事」(別冊宝島936・宝島社)より。

(三谷幸喜さんについて、三谷作品に多数出演している俳優・白井晃さんのインタビューより)

【インタビュアー:三谷さんとプライベートでお会いになったりするんですか?
 白井:ないです、いっさいないです!仕事という形のなかだけでの信頼感というのかなぁ……、僕がそういっていいのかわかりませんけど、その関係だけですね。でもそれはそれで、なんか気持ちいいなあと思うんですよね。】

〜〜〜〜〜〜〜

 僕の日本人的な感性からすると、「いやあ、あんまりないですねえ」くらいで言葉を濁しておけばいいのに、「ないです、いっさいないです!」なんて「!」までつけられてしまうと、本当に白井さんはキッパリとこの言葉を口にされたんでしょうね。まあ、インタビュアーの印象も含まれているのかもしれませんが。
 白井さんは、「王様のレストラン」や「H・R」、ミュージカル「オケピ!」など、三谷作品に多数出演されていて、付き合いも長いのですから、多少なりともプライベートな付き合いもあるのではないか、なんて僕は思っていたのです。
 普通の会社(病院という職場でも)においては、やっぱり、「仕事仲間は仲が良くないといけない」というような、一種の脅迫観念みたいなものってないですか?
 「飲み会も仕事の一部」みたいな。
 確かに、そういうプライベートな(はずの)席でいろんな人と仲良くなっておくと、仕事が円滑に進んでいく面はあると思うのです。やっぱり、ちょっとした頼みごとをするのでも、面識がある人のほうが頼みやすいし、相手だってそれは同じでしょう。
 あまり馴れ馴れしくされるのも困りものですけど。

 最近「付き合い」に疲れがちの僕は、この白井さんの言葉を「羨ましいなあ」なんて思ってしまいます。こういうのは、どちらか一方だけ「仕事だけのつながり」を求めているのでは成り立たず、お互いの望む距離感というのが一致すればこそですし、もちろん、三谷さんが白井さんの実力を高く買っていればこそ。

 その一方で、三谷さん、「いっさいないです!」とまで言われると、ちょっと「オレって嫌われているんじゃないかなあ…」なんて感じるのではないかと、ちょっと心配でもあるんですけど。
 
 まあ、そんなふうについ考えてしまう僕は、今日も「付き合いの悪いヤツ」と言われることを恐れて、みんなと酒を飲んではしゃいでいるのです。
 「なんか違うよなあ」なんて思いつつ。



2004年02月06日(金)
サイト管理者とネットストーカー予備軍の「哀しき温度差」

朝日新聞の記事より。

【新潟大学工学部で、昨年暮れに起きた立てこもり事件をきっかけに、同大の学生のホームページ(HP)が消え始めている。逮捕された米国人の男子学生(23)が「HPで女子学生の写真を見て会いたかった」と動機を供述したからだ。米・シアトル市から新潟市まで約8000キロ。飛行機、車を乗り継ぎ、やってきた。ネット社会で起きた思わぬ事件に、大学はHPの掲載内容に関するルールづくりを検討し始めた。

 この女子学生は、工学部に在学していた。研究室のHPに、個人のページをつくり、自己紹介や学生生活の写真、日記、メールアドレスを掲載していた。

 事件があったのは昨年12月19日午後。この女子学生が所属する研究室に短刀を持った米国人の男子学生が立てこもって叫んだ。「彼女に会わせろ。でないと、指を切る」。教授が説得し、事務室に連れて行った後、男は逮捕された。

 男はかつて日本に住んでいたが、女子学生と面識はなかった。新潟西署の調べに、男は「昔つきあっていた女性と同じ名前を検索したら、彼女のHPを見つけた。かわいくて、ぜひ会いたいと思った」と話したという】

参考リンク:女子大生のHP見て恋心 新潟大立てこもりの米国人学生(asahi.com)

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 この事件の場合は、犯人が研究室に立てこもるという派手な結末になってしまったため、こうやって大きな話題になってしまったわけですが、実際、この手の「ネットストーカー」というのは、けっして少なくはないのだと思います。
 ただ、出会い系サイトの登録者同士が、こういうトラブルを引き起こすのは、ある程度理解できるような気がするんですよね。彼らはみんな(まあ、サクラとか援助交際とかネカマとかがいるとしても)、「出会いを求めている」わけで、そのためにリスク覚悟で自分の年齢とか職業とかをネット上に露出しているのです。お見合いに「釣書」が重要であるように、やっぱり、ある程度その人のキャラクターがわからないと、「自分に合った人との出会い」というのは難しい。
 もちろんそこにリスクがあることを、「出会い系」の登録者は、程度の差こそあれ理解できるはずで。
 それでも、メリット>デメリット、という結論で、いろんな人が、自分のプロフィールを公開しているわけです。

 しかし、いわゆる「個人サイト」の場合はどうでしょうか?
 既に顔が広く知られている有名人の個人サイトなどは別として、ごく普通の人のサイトなのに、自分や子供の顔写真が載っているサイトって、けっこうありますよね。
 僕は、そういう個人情報を公開することによるデメリットのほうを考えてしまいますし、匿名でリラックスして書けるのがネットの良いところだと思っていますので、そういう「公開したがる人々」のサイトにたいしては、物騒だなあ、と感じます。
 匿名でリアルに近いことを書くのと実名で嘘を書くのでは、前者の方が僕の身の丈に合っていますから。
 とはいえ、「ネットの匿名性」なんて、本当は儚いもので、「相手が調査会社などを使って調べれば、すぐわかってしまう程度のもの」です。辛うじて匿名性が守られているのは、そこまでして調べようとする人がいない、というだけのことなのですけど。

 個人で趣味としてホームページを公開する、というのは、一種の自己顕示欲のあらわれだということを否定できる人はいないでしょう。「誰にも見てほしくなくてサイトを作った」なんて人はいないはずです。
 それはたぶん、今回被害者になってしまった女子学生にとっても同じことで、「誰かに見てほしいから写真を載せた」のだし、「誰かと素晴らしい出会い(それは、異性に限らず、です)があるかもしれない」から、メールアドレスを公開しているのだと思うのです。
 そういうことを自分でどのくらい意識していたのかはわかりませんが…
 
 ただし、そういう「サイト管理者が望むコミュニケーション」と「来訪者が望むコミュニケーション」の間には、かなり温度差があることが多いのも事実。
 「出会い系」なら、基本的にお互いのスタンスは近いのでしょうが、個人サイトの場合には「単に自分が書いたものを誰かが読んでくれたら嬉しい(僕はそんな感じ)」という人から、「願わくば、このサイトをキッカケにして、現実の生活にメリットをもたらしたい」という人もいます。
 後者にも「ライターとしてデビューしたい」というのが目的の人もいれば、「友達が欲しい」「恋人ができればいいなあ」まで、さまざまな目的が存在しています。
 もちろん「作家デビューできて、彼女もできたらいいなあ」なんて欲張りな人もいるでしょう。

 現代では、ネットの出会いで幸せになるカップルは、ごく一般的なものになってきましたが、実際には(特に女性の場合は)、今回の事件のように、ネットストーカーにつきまとわれたり、不快な思いをすることが少なくないようです。サイトの日記は、けっこう正直に自分のことを書いてしまうことが多いですから、読んでいる側としては、親近感を感じやすいということもありますし。
 僕だってサイトを、見て、「この人はどんな人なんだろう?」なんて思うことはよくありますし、写真だって載っていれば見ることもあります。まあ、僕も含めて大部分の人は、「こんな人なんだ」とちょっと思ったあとにすぐに忘れて、また日常へ回帰するんですけどね。

 「個人サイト」とはいっても、管理者の方向性はひとつではない、ということです。
 そして、管理者の思惑と閲覧者のイメージとの間には、必ずギャップが存在するのです。
 「自分が求めること」と「相手が期待すること」は、けっして同じではありません。
 「出会い系サイト」のような、目的が限定されたものではない限り。
 いや、それでさえも「メールフレンド」から「カラダだけの関係」まで、けっこう幅があるのですから。

 「個人サイト」とはいっても、相手はパソコン上のデータじゃなくて生身の人間。
 そのことを忘れてはいけないのだと思います。

 まあ、こういう事件が起こったからといって、「大学が個人のサイトの中身まで規制すること」が正しいとも思えませんし、写真を載せることのメリットというのも、確実に存在してはいると思うのです。
 ただ、サイト管理者とサイトに来る人の間には、意外と大きな「温度差」が存在しているというのは、お互いに知っておいたほうが良いような気がします。

 僕だって、自分が福山雅治みたいなイイ男だったら、匿名でサイトなんてやってませんけどね、そりゃ。



2004年02月05日(木)
「投票で決めればいい!」って言われても…

河北新報の記事より。

【財政難に悩む青森県今別町は、職員給与削減案を全職員の投票によって選ぶことを決め、現在、2つのプランから選択する決選投票を受け付けている。「痛みを分かち合うなら、できるだけ職員の希望に沿う格好で」と決めた措置で、「当選」したプランは条例改正案として町議会に提案される予定。町総務課は「職員全員の投票で給与カットの方法を決める自治体は、ほかにないだろう」としている。

 投票の対象となっているのは(1)基本給2―5%減、ボーナスに当たる期末勤勉手当一律35%減(2)基本給3―6%減、ボーナス一律30%減―の2案。3日から投票を受け付け、5日締め切られ、6日に開票される。

 町では先月末、この2案に(3)基本給4―7%減、ボーナス一律25%減(削減額は約1億400万円)―を加えた3案で全職員115人を対象にしていったん投票を行った。しかし、過半数を獲得した案がなかったため、(3)案を除いた上位2案による決選投票に持ち込まれた。

 町は(1)案で年間約1億1300万円、(2)案で約1億900万円の支出削減につながると試算した。
 町職員組合は「投票結果を尊重し、今後の町側との交渉で細部を詰めたい。削減は反対だが、やむを得ない面もある」としている。

 町は2002年度決算で2500万円余の実質単年度赤字を計上し、経常収支比率が100%を超えるなど財政硬直化が深刻化している。昨夏ごろから、再建策を検討する中で、職員投票に削減案決定のアイデアが浮かんだという。】

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 投票で決めるなんて、民主的な自治体だなあ、なんてちょっと感心したのですが、よく内容を読んでみると、これって、わざわざ投票するようなものなの?とか考えてしまいました。
 「朝三暮四」という有名なことわざを思い浮かべたりして。
 「朝三暮四」というのは、猿回しが経済的に苦しくなって、ある朝、飼っている猿たちに「これからお前たちの餌の木の実を朝3個、夕方4個にしようと思う」と告げたら猿たちは大騒ぎ。そこで、「わかった、朝4個、夕方3個にしよう」と訂正したところ、猿たちは大喜びした、という話なのですが、まとめると「目先の利益に惑わされて、大局的な損得勘定ができないこと」という意味なのです。
 この自治体の投票内容ですが、要するに削減額はほとんど同じで、「基本給とボーナス、どちらの下げ幅をより大きくするか?」ということなんですよね。「どうだ、選ばせてやるぞ、民主的だろ?」なんて言われても、どれもあまり嬉しくない選択肢、ですよね。しかも、選択の幅が狭いし…
 一方が給与削減の替わりに労働時間が減る案、とか「給与は今までどおりで、リストラを進める案」とかだったら、「選択する意味」も大きいのでしょうが。

 そういえば、国会議員の選挙というのも、僕にとってはそんな感じのことが多いのです。「どっちも選びたくないのに、投票しないといけないの?」というような脱力感。
 この「給料削減投票」も、発案者以外は「どうでもいいよ、どうせ給料減るんだし」って雰囲気だと推察するのですが。
 「投票で決める」ということになっているけれど、実際は選択肢に幅がない、という状況は、けっこういろんなところでみられる悲劇なのです。

 ところで、僕がこのニュースで驚いたのは、(3)の削減額が最も少ない案が、まず落ちてしまったことです。考えようによっては、「いちばん給料が減らない案」なのに。おそらく、基本給が減ってしまうことに抵抗があったのでしょうけど。

 まあ、現在では、「朝三暮四」というのは、笑えない発想なのでしょうね。
 だって、朝のうちにもらっておかないと、夕方になる前に会社が潰れるかもしれないし…



2004年02月04日(水)
「トリビアの泉」の不純な動機

「トンデモ一行知識の世界」(唐沢俊一著・筑摩書房)より。

【「一行知識は、それが実生活に無用のものであればあるほど純粋におもしろい」
 よく、新聞社系の出版社や、ビジネス書系の出版社から出る雑学本がある。これらは、おしなべておもしろくない。いろいろ書き方に工夫があるものであってもである。その理由を考えているうち、こういうところから出る本は、その得た知識を、
 「何か実用に役立てようという、不純な動機がある」
 ことにあるのではないか、と気がついた。たとえば外回りの会社訪問での話題のきっかけ作りであるとか、入社試験の常識テストの参考書にする、とかいう理由で、生活のタシにしようと思って仕入れたとたん、雑学が実学となり、一行知識の持つ、無用な知識としての純粋性は失われるのである。
 雑学は、頭脳の細胞がその知識を増やしたいと欲する、その純粋な欲求のためにのみ、存在しなければならないのである。
 SF作家で化学者、そして雑学マニアでもあったアイザック・アシモフ博士は、自身ものした一行知識の本の中でこう言っている。
 「人間は、無用な知識の数が増えることで快感を感じることができる、唯一の動物である」】

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 あの「トリビアの泉」のスーパーバイザーとしても最近つとに有名な、唐沢俊一さんが書かれたものです。
 最後のアシモフの言葉は、「トリビアの泉」の番組中でも引用されていますし。
 僕も「豆知識もの」が大好きで、本屋で手にすることが多いのですが、正直、なんか面白くないなあ、というふうに感じることが多いと思っていたのです。いろんな知識が詰め込まれていて面白いはずなのに…
 でも、この唐沢さんが書かれていたものを読んで、その「面白くない」理由がわかったような気がします。
 やっぱり「何か実用に役立てようという、不純な動機」があるんですよね。せっかく時間とお金をかけて読むのだから、と。
 実際は、そういう「実生活に役に立つように、効率的に書かれたビジネス指南書」よりも、単に事実に沿ったドキュメンタリーや歴史書、フィクションのはずの小説のほうが、ある意味「生き方の参考書」になっていたりするのです。

 学問というのは、その内容が観念的になればなるほど、本人が「役に立つ」と思ってやっている人より、「面白い」と思ってやっている人のほうがいい仕事ができることが多いようです。
 「あのくらい研究に打ち込め!」なんて言われても、それを楽しいと思っている人には、やっぱりかなわない面もあるんだよなあ。
 やっている本人には「仕事」とか、そういう意識すらないんでしょうけど。

 ところで、「トリビアの泉」そのものも、最近は一般ウケしなければならないため、内容的には少し変容してきているような印象があるのです。
 映像的に面白いものや純粋な知識というより統計モノみたいなのが増えてきているし。
 それはおそらく、人気番組の宿命というやつで、唐沢さんの本来望む方向性とは違っているのかもしれませんね。
 「明日使えるムダ知識」なんていうのは、「ネタになる」という「不純な動機」が含まれているわけですから、よく考えてみると矛盾しているわけで。



2004年02月03日(火)
小泉首相、あなたは教育者としては失格です!

毎日新聞の記事より。

【小泉純一郎首相は2日、宮崎県の高校3年生が武力に頼らないイラク復興支援を求める5358人の署名を提出したことについて「よくイラクの事情を説明して、なかなか国際政治、複雑だなあという点を、先生がもっと生徒に教えるべきですね」と述べ、教育のあり方に注文をつけた。首相官邸で記者団に感想を聞かれ答えた。

 首相は「署名を読みましたか」との記者団の質問に「いや、読んでません」と述べた。さらに「読む考えは」と聞かれ「自衛隊は平和的貢献するんですよ。学校の先生も、よく生徒さんに話さないと。いい勉強になると思いますよ。この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない。なぜ、警察官が必要か、なぜ軍隊が各国で必要か」と語った。】

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 小泉首相の本音は、「もううんざり」という感じなんでしょうね。確かに、マスコミ・野党からの「イラク派遣バッシング」は激しいものがありますし、「戦争をしに行くわけじゃないんだって何回言えばわかるんだ!」と怒鳴り散らしたい気持ちなのかなあ、なんて。

 僕は小泉首相のことを「誰にでも理解できる、普通の日本語で喋ってくれる人」として、それなりに評価しているのですが、この高校生の署名に対する対応には、「オトナじゃないなあ」と感じてしまいました。
 18歳といえば、もう半分くらいは大人という年頃です。でも、そんな高校生が「イラクへの自衛隊の派遣を平和的貢献とはみなしていない(しかもそれに対して5000人以上の署名が集まっている)」という事実は、無視できないものです。
 それは、「自衛隊のイラクでの平和貢献という目的は、すべての日本国民(あるいは世界の人々)に首相が考えているようには認識されていない」ということを示しています。
 
 もちろんそこには、「大人の事情」というのもあって、アメリカへの義理立てもあるでしょうし、現在のイラクの情勢では、ある程度の極限状態下での訓練を積んでいて、技術もある自衛隊という組織が行くのがもっとも妥当という判断もあると思うのです。

 でも、高校生に対して、先生が「国際政治の複雑さ」(=「日本はアメリカへの義理があるから、仕方ないんだよ…」)とか、教えるのが正しいのでしょうか?
 ましてや、「世の中には悪い人もいるから、警察や軍隊が必要なんだ」なんて、教えるのが「望まれる教育」であるのなら、僕はそんな学校は要りません。

 理想論だと笑われるでしょうが、僕は、中学生や高校生が「日本はアメリカの言うことを聞かないとやっていけないしなあ」とか「原爆投下は、戦争終結のために仕方なかったんだ」とかいうような、「世界に対する諦め」を訳知り顔で語るような社会は、腐り果てていると思うのです。

 少なくとも、学校では「国際紛争の解決方法として、戦争はよくない」と教え続けてもらいたいし、「警察や軍隊がいらない社会を作るには、どうしたらいいか?」を子供たちに考えさせてもらいたいのです。

 「現実に妥協すること」が、生きていくために必要なことは、確かにあります。
 それは、30年以上生きてきて、紛れもない事実だと感じます。
 でも、それは、社会で生きていく過程で(悲しいことですが)自然に身につけていくという性質のもので、学校の先生が教えるべきことではないと思います。

 僕は子供の頃、「日本に自衛隊がある」というのがものすごく嫌で、情けないことだと思っていました。現在は、イラクでの「自衛隊の平和的貢献」に期待していますし、彼らが無事に日本に還ってきてくれるのを心から祈っています。
 でも、その2つの思考は、けっして矛盾したものだとは思いません。
 それは、「子供のころから、ずっと自分で考えてきた結果」だからです。

 小泉首相には自信を持ってもらいたいし、自衛隊の隊員のみなさんには「危険な中でのイラクへの平和貢献」に誇りを持ってもらいたい。

 そして、子供や先生たちには、「現状に妥協する未来」ではなくて、「警察や軍隊を必要としない世の中にするには、どうしたらいいか」を考えてもらいたいのです。

 「この世の中、善意の人間だけで成り立っているわけじゃない」
 確かに、そのくらいじゃないと政治はやっていけないのでしょうけど、その原則に基づいて子供を教育しようとする社会は、ロクなものではないですよ、きっと。



2004年02月02日(月)
「みずほ銀行」への心からのお願い

読売新聞の記事より。

【みずほ銀行は2日、期日指定定期預金など7万502口座で、計136万2953円の利息支払いが不足していたと発表した。

 担当者の入力ミスが原因で、不足額は1口座当たり最大で1890円だった。同銀は未払いの対象となった顧客に書面を送って説明するとともに、不足分を順次口座に振り込む。

 支払い不足があったのは旧富士銀行の口座で、2002年4月1日以降に預け、2003年12月7日までに解約した期日指定定期預金や期日指定定期預金を組み入れた積み立て定期預金などのうち、半年以上1年未満で解約した口座。

 みずほ銀は昨年12月に支払い不足に気が付いたとしており、「このような事態が2度と起こらぬよう再発防止に取り組む。内容を把握できていない段階で公表すると混乱を招く恐れがあったため、全容が明らかになってから公表した」と説明している。】

参考リンク:
「個人向け国債、銀行や郵貯より有利?」(Mainiti INTERACTIVE)
「Yahooファイナンス・金利情報(普通預金)」

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 この記事を読んで、「また、みずほ銀行かよ」と思われた方は多いと思います。でも、みずほ銀行に知り合いもいなければ口座もない僕にとっては、このニュースでいちばん驚いたのは、「7万502口座で、計136万2953円の利息支払いが不足」というところ。つまり、一口座あたり平均20円くらいの支払い不足、というところなのです。

 「超低金利時代」なんて言われて結構久しくなりますが、あらためてこういう数字を眼にすると、本当に銀行の利子なんて、スズメの涙みたいなものですね。
 僕が子供の頃、竹やぶで1億円拾った人がいて、大きな話題になりました。その当時、僕の周りの人々はみんな「1億円銀行に預けたら、利子で一生暮らせる」と言っていたような記憶があるのです。

 しかし、上の参考リンクの記事をみて僕は心底ガッカリしました。
 実は最初に「Yahooファイナンス」をみたのですが、その数字の普通預金の利子、0.001というのは、1=100%ということだと思い込んでしまったくらいです。それでも、年利0.1%なんて安いなあ、なんて溜息をついていたのですが、現実は、さらにその100分の1の0.001%!
 30過ぎるまでこんなことも知らなかったなんて情けない限りですが、もともとそんなに貯金もないし、資産運用なんて考えたこともなかったから、あらためて愕然としてしまいました。
 100万円を普通預金で預けても、1年間の利子は、なんと10円!一度休日にATMを利用すれば、その10倍の金額が吹っ飛ぶわけです。
 これでは、1億円拾っても「利子で遊んで暮らせる」わけがありません(ちなみに、大口の定期にしても、利子はこの10倍くらい)。まあ、そういう生活が夢があるかどうかは別として、本当に厳しいなあ、としか言いようがないなあ…

 もはや、「利子で暮らせる」なんて人は、ビル・ゲイツくらいのものなんでしょうね、きっと。
 現在では、銀行というのは「いろんな支払いの手続きを代行してくれたり、現金を持ち歩かなくてよくするための機関」でしかないのかもしれませんね。
 銀行が潰れたりするリスクを考えたら、あんまり預けると、かえって危険なのかも。

 しかし、みずほ銀行、これじゃ実際の利子よりダイレクトメールにかかる金額のほうが、はるかに高くつきそう…
 これでは「利子なんて贅沢言わないから、せめて潰れないで、頼むから…」というのが、利用者の心の叫びのような気もしますね。



2004年02月01日(日)
「近鉄バッファローズ」の神隠し

共同通信の記事より。

【プロ野球の近鉄は31日、2005年のシーズン以降に、バファローズの前に付く「近鉄」に代わるチーム名を売りだすことを決めたと発表した。球団経営は引き続き近鉄が行い、本拠地は大阪から変わらない。プロ野球の1軍が親会社以外のチーム名をつけるのは初のケースとなる。
 「命名権付きチーム協賛」という形をとり、年間の基本料は36億円程度で、契約は5年以上。また日本一なら10億円を上積みし、最下位なら10億円を差し引くなど、成績を反映させる。
 ただし、球団呼称の変更はプロ野球実行委員会の審議事項で、オーナー会議の承認を得なければいけない。今回の場合はビジネスとしての呼称変更だけに、他球団の反発は必至で、巨人の渡辺恒雄オーナーは「すべての関係条項に違反する公然たる違反行為であり、認めるわけにはいかない」とコメントした。】

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 「千と千尋の神隠し」に、名前を失ったものは、自我をも失ってしまう、という描写があるのですが、プロ野球チームにとっても「チーム名」とぃうのは、ある意味存在意義そのもののような気がします。
 「名前は近鉄じゃないけど、経営は近鉄」という状況が果たして受け入れられるか?と問われたら、正直、そこまでして球団を持ち続けなくてもいいんじゃないかなあ、と僕は思ってしまうのです。だいたい「近鉄バッファローズ」は、昨年も消費者金融の「アコム」をユニフォームのスポンサーにしたことで物議を醸していましたし。
 先日の「武富士事件」などでもわかるように、「金融業」なんていうのは、必ずしもクリーンな仕事ではないはずで。借りた人に優しく「今度返してくださいね〜」なんて言われても、困って借りているわけだから、そんなに簡単に返済する人だけではないでしょうし。
「ご利用は計画的に」なんて、計画的にご利用できるような人は、そもそも消費者金融のお世話になんかならないって…
 メディアは大広告主である消費者金融のことをあまり悪くは言えないに決まっているのですけど。

 しかし、こうした近鉄の「迷走」の裏には、「プロ野球の球団経営」というのが、あまりにお金がかかりすぎるビジネスになってしまっている、という現実もあるのです。
 僕が小学生くらいの頃(20年前くらい)は、日本人最高年俸だった王貞治選手(現ダイエー監督)ですら、年俸1億円も貰っていませんでした。でも、今は日本人選手でもメジャーリーグ帰りの佐々木投手は年俸5億円とか言われていますし、ちょっとした一流プレイヤーなら、年俸1億円を超えた選手がたくさんいるのです。
 この20年間の物価の上昇を考えたら、もとが安すぎたとはいえ、あまりに異常な急騰ぶり。
 メジャーリーグとの比較において、日本人選手は年俸が低いと言われ続けてきたのですが、現在ではメジャーリーグの各球団も、ヤンキースのような一部の金満球団を除いては、FA制度や選手会の力が強くなったことによる選手の年俸の高騰によって、経営状態が逼迫しています。
 それでも、日本人選手の年俸は天井知らずのように上がっていくという状況には、いくら「夢を売る商売」とはいえ、先行きを危惧せざるをえないのです。
 今年日本一になったダイエーの選手の契約更改をみていると、年俸2億円の城島選手が倍増の4億円とか、選手会長の松中選手は、3億円以上の高年俸を提示されているのに「評価が低い」なんて保留していますし、球団間の年俸格差というのも問題でしょう。
 「活躍したから」なんていうけど、2億円も貰っている選手は、その時点で「成績を残すのが当然」だと思うんだけどなあ。

 スポーツの大きなイベントにお金が必要なのは当然なのですが、それがあまりに巨大なものになりすぎると、いろいろな問題が生じてきます。例えばF1などのモータースポーツは、「タバコマネー」といわれるタバコメーカーのスポンサー料が大きな割合を占めていて、体に悪いタバコの広告を規制しようとしている行政側との軋轢は深まるばかりです。
 スポーツ選手であるF1ドライバーたちのなかに、肺の機能を落とすタバコの愛用者はほとんどいないというのに、広告はタバコメーカーばかり、という現実。

 これはたぶん、近鉄だけの問題ではないと思うのです。
 巨人・阪神・中日・西武などのお金のある球団は、現時点では「そんなのは原則に反する」という立場を貫いているようですが、この不況の世の中で、みんなの興味が野球以外にも広がっていく中、このまま歯止めをかけずに金をばら撒いての選手獲得競争を繰り広げていては、「金食い虫」なだけの球団経営をやる企業がなくなり、それこそ消費者金融などがオーナーになる時代もそんなに遠くはないような気がします。
 だいたい、巨人が球団経営にお金をかけられるのは、「巨人というチーム自体が読売という企業のメインコンテンツのひとつ」だからで、そういう体質のチームと企業の広告塔でしかない近鉄のようなチームとを同列に並べること自体が間違っているのです。

 こういう時代だからこそ、経営者も、選手も、そしてファンもみんな節度をもってプロ野球を支えていかないといけないのではないかなあ、と僕は思うのです。
 これは、「近鉄」という名前だけの問題ではないと思いますよ。

 その一方で、北海道に移転した日本ハムファイターズのように、生き残りをかけて企業努力をはじめているところも出てきてはいるんですけどね。