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2018年11月25日(日)
『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』

『ボーダーライン:ソルジャーズ・デイ』@新宿ピカデリー シアター6


最初に思ったのは会社員って〜、フリーランスって〜ということでしたよ…いや、会社員というか……組織に属する人間といえばいいか……。

『ボーダーライン』から二年、続編が出来ました。脚本はテイラー・シェリダンが続投。監督はドゥニ・ヴィルヌーヴからステファノ・ソッリマへ、音楽は故ヨハン・ヨハンソンからヒドゥル・グドナドッティルに。グドナドッティルは古くからヨハンソンの制作パートナーを務めていたそうで(múmのチェリストの方だったのね!)、あの不穏な音響を引き継ぎシリーズのイメージをより強固なものにしていました。メインテーマは前作のヨハンソン曲から。エンドロールに献辞も流れました。これからもっといろんな作品が聴けると思っていたのに、未だ信じられない。

今回は最初っからベニシオ・デル・トロ演じるアレハンドロがシカリオ=殺し屋だというのは明解なので、サスペンスの要素は減り、アクション増し増し、情も増し。アレハンドロとジョシュ・ブローリン演じるCIA工作員・マットのバディ感も増し、アレハンドロの変装=コスプレも色々と見られるという、なんというか、すごいエンタメ度が……正直おら戸惑うばかりだったぞ。紫がかった色彩が美しかった(撮影監督:ロジャー・ディーキンス)前作からメキシコの砂埃で黄色っぽい映像になり、同じシリーズで同じ脚本家でも、撮影と演出で作品の色はガラリと変わるものだなあと感心もする。SNSで話題になった「デルトロ撃ち」も命中しない感がすごくてな…いや、格好いいけどな……途中からはエンタメとして楽しんで観てました。麻薬や人身売買ビジネスといった社会問題をどう見せるかというさじ加減って難しいものだな。

しかし、エンタメによって多くのひとの目にふれ、問題が周知されるのは意義あることかなとも思ったり。『ウインド・リバー』もそうだったけど、シェリダンはこうした「身近で起こっていることなのに知らない、あるいは知ろうとしないひとが多い」アメリカの問題を常に観察しているのかもしれない。その分演出には細心の注意が必要にも思う。観る側もいろいろとジレンマがあります。

情が増すということはアレハンドロとマットに人間性が戻ってきているということでもある。それはこの世界では命とりにもなりかねないのだが、心のどこかでホッとしているところもあります。少女との交流を通し、アレハンドロは自分の娘に起きたことを追体験する。アレハンドロと少女を救うべく、マットはある手段を選ぶ。そのことをアレハンドロは知らないまま今作は終わるので、これはもう次作を待たない訳にはいかないでしょうが! と鼻息も荒くなります。冒頭の感想に戻れば、アレハンドロはフリーランスなのでああして見捨てられることも覚悟の上だし、マットも組織に属する人間としてギリギリの判断を下したので、それはいいんだよ。そういうものなんだよ。ただ、連絡が途絶えたあとのことをお互い知らないわけですよ。マットは新しいシカリオを雇うし、アレハンドロは新しいシカリオを育てるでしょう? ふたりがまた会うのは必然だよね〜。そのとき違う立場になっているふたりはどうするのかしら〜(血の涙)。

聞けばシェリダンには三部作の構想があるとのこと。シェリダン作品ということでいえば、『ボーダーライン』では隙が多く、結果的には保護される存在であった女性が『ウインド・リバー』では自立し成長する人物として描かれている。今回アレハンドロと行動を共にした少女がその後どう成長するか見てみたい気もする。そして人物は違うが、前作では父の死に為す術もなく日常に埋もれていった少年が、今作ではシカリオの前に鬼っ子として登場する。彼の姿は、前作の少年の未来ともいえる。いやほんと、このままでは終われないでしょ〜! あの子と! アレハンドロが! きっと父子のような関係になって地獄の道行きですよ、ヒー! 

麻薬王の娘である少女と、カルテルの一員となりつつある少年、かつて家族を失ったシカリオ。擬似家族ともいえる彼らはどんな道を歩むのか? はやくも次作が待ち遠しい。作れ! 作ってくれ! いや作ってくださいお願いします。今度はシェリダン自身が監督するのが観てみたいな〜、『ウインド・リバー』の演出見事だったもの。



2018年11月23日(金)
Jun Miyake『Lost Memory Theatre』The Concert

Jun Miyake『Lost Memory Theatre』The Concert@KAAT 神奈川芸術劇場 ホール


(へんな位置に「:」が入ってますがご勘弁を)

初演のパンフをすぐにとりだせるところに置いているくらい好きな作品。今年頭だったか、それとももう昨年のことか、この公演のスケジュールが発表になってから首を長くして待っていた。その間、江波さんが亡くなった。『豊饒の海』から『テラ』の流れで、生まれかわりについて考える。そして今日は、故人とともに失われる記憶のことを思う。ひとが死ぬのは、そのひとについて誰も語らなくなったとき。そのひとの記憶を持つひとがいなくなるとき。そんな失われた記憶たちの棲む劇場が帰ってきた。待ってた。

入場すると視界いっぱいに現れたのは巨大な書庫。書棚も、そこに収められた書籍も真っ白だったので『Defiled ―ディファイルド』を思い出す。このステージアートは中越司によるものだろうか? なんて思う。プログラムには「空間構成:白井晃、美術協力:木津潤平」とある。三宅さんの話によると「この前に行われた公演のセットをとっておいてくれた」んだそう。ああ、『華氏451度』のものか! 行けなかったんだよ〜、残念。それはともかくこのセット、記憶の書庫としてのイメージも備えていてぴったりでした。壁いっぱいに拡がる白の背景は、プロジェクション・マッピング(映像協力:宮永亮)のスクリーンとしての機能も果たす。これが圧巻。照明は大石真一郎らKAATの腕利きたち。この劇場でしか観られないこの劇場! ややこしい! 「『Lost Memory Theatre』がこの劇場で上演されてから、我々はふたりの仲間を失いました。今日のコンサートは、宮本大路さんと江波杏子さんに捧げたい」。背景に江波さんの姿が映し出されたときには思わず落涙。

「皆さんの緊張が伝わってきて……」。最初のMC、三宅さんが苦笑とともにぽつり。確かに出演者より観客の方が硬くなっていたように感じました。なんだか拍手すら硬かったですもんね(笑)。『Lost Memory Theatre』という舞台作品を経てのコンサートですから、「静かに鑑賞しなければ」という気負いが聴く側にあったのかもしれません。そんな構えを解いたのがリサ。三人の歌い手を擁するこのオーケストラは、曲ごとにメインヴォーカルが入れ替わる。自分が唄う曲になり、センターマイクに立ったリサは「ハロー、」と挨拶。パラリと拍手が起こるとギョッとしたように肩をすくめる。まるで「あ、ひと、いたのね?」とでもいうような表情。大きなホールや洞窟で「あ!」と叫んでそのエコーを楽しむいたずらっ子のようなその挙動に、客席からは笑いが起こる。彼女は自分が唄う番になる度、そうして観客に手を差し伸べていた。演奏の熱にうかされるように、ホールもあたたまってくる。三宅さんも中盤には「大丈夫ですか、皆さん、ついてきてますか」というMCに。

<Set 1>は昨年秋にリリースされたシリーズ完結作『Lost Memory Theatre - act3 -』からのナンバーを中心に、<Set 2>では慣れ親しんだ楽曲を交えたベスト選曲。四年前と大きく違うのは、ブルガリア・コスミック・ヴォイセズの合流(二年前の公演には参加していた)。PA(フィリップ・アヴリル、zAk)の妙もあり、三人なのに十人分くらいの声の層。またこの方たち、とても楽しそうに唄うのです。カラフルな民族衣装もかわいらしく、聴き入るこっちもすっかり笑顔。コンダクターのヴァーニャも歌に加わった、エフェクトなしのトラディショナル曲も素晴らしかった。ライヴで聴けるなんて最高の贅沢。二年前のリオ五輪閉会式、フラッグハンドオーバーセレモニーで披露された「君が代」もおそらく彼女たちが唄っているのですが、いつかコンサートで聴けるかしら。難しいかしら。

終盤は一部のひとが積極的に歓声をあげたり指笛を飛ばしたりして、すっかりくだけた雰囲気に。このスモールオーケストラには猥雑な妖しさがよく似合う。四半世紀前に初めて観たときは、熱帯に突如現れたグランドキャバレーのハウスバンドを連想した。会場が青山のCAYだったこと、21時開演の公演だった影響も大きい。村上“ポンタ”秀一、小林靖宏(coba)、窪田晴男らが演奏するバンドで、福岡ユタカ、中島花代、原マスミらがヴォーカルをとった。宮本さんはこの頃からマルチプレイヤーで、パーカッションもこなしていた。彼らはCAYに棲んでいて、ここに足を運ばなければ逢うことが出来ない……そんなイメージも記憶として残っている。

宮本さんとともに三宅さんのキャリアには欠かせない存在である(前述のCAY、『常夏乃憂ヒ』メンバーでもあった)伊丹さん。宮本さんからマルチリードパートを引き継ぎ八面六臂の活躍を見せたアンディ。シャイな様子と深い歌声のギャップに驚かされるブルーノ。美しくも不穏なハーモニーを響かせる金子飛鳥率いるカルテット。遮音用アクリル板の向こうから、ボサノバ、カリプソ、アフロキューバンと、優雅にビートを刻み続けたルイス。そして日本語を交えた歌唱とポエトリー・リーディングで幻の郷愁を誘う勝沼さんの声。エキゾティックでエロティックなモンドミュージックは、スタイルをそのままに旅と出会いを経て、今や風格すら備える。本編を締めくくるナンバー、「Petal」には恒例の演出がある。曲が進むにつれ音数が減り、演奏を終えたプレイヤーがひとりひとりステージから去っていく。最後に残るのはベースとフェンダーローズ。三宅さんのバンドでバカボンのベースが聴けたのも嬉しかったです。

アンコール、記憶の住人が再び揃う。弦楽四重奏のピチカート。わあっと歓声があがる。『Pina/ピナ・バウシュ 踊り続けるいのち』では「Lillies Of The Valley」として知られている「Alviverde」だ。失われた記憶を宿す劇場の住人たちは、各々違う時間を歩む。いつかまた、今夜の記憶を持つこの劇場が現れますよう、記憶のなかの住人と逢うことが出来ますよう。

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セットリスト

<Set 1>
01. Undulation
02. Alta Maré
03. Deciduous
04. Pontual
05. Outlier
06. Etume
07. Bre Petrunko 12
08. Easturn
09. Easy To Let Go
10. Tres LIVE
11. the here and after
12. merry widow KAAT edit
13. flutter
14. Coronation
15. Le voyageur solitaire LISA

<Set 2>
01. Assimétrica / Older Charms
02. the world i know
03. abshana
04. White Rose
05. red shadow
06. Olhos Escuros
07. Exibida
08. colors
09. zed fate
10. Sednato Djore
11. STILL LIFE
12. Frozen Tide LIVE_single
13. All names
14. A Lua pela grade
15. A distant road
16. est-ce que tu plus me voir?
17. Petal

encore
01. A Wish Away
02. Alviverde

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三宅純(flh, fender rhodes, p)

Lisa Papineau(vo)

Cosmic Voices:
Vanya Moneva(conductor)
Anna Natskova(vo)
Veselina Kurtiyan(vo)
Diana Teneva(vo)

Bruno Capinan(vo))
勝沼恭子(vo)
伊丹雅博(g, oud, mandolin)
バカボン鈴木(b)
Ze Luis Nascimento(per)
Andy Bevan(multi reeds:fl, afl, ss, as, bs, bcl)

金子飛鳥(vln)
吉田篤貴(vln)
志賀恵子(vla)
多井智紀(vc)

Philippe Avril(PA)
zAk(PA)

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・原田和典のBloggin' BLUE NOTE TOKYO┃BLUE NOTE TOKYO
BLUE NOTE公演のレポート。こちらも行きたかったなあ

(20181130追記)
・【三宅 純】大作の“完結”から1年「今はニュートラルな状態を楽しもうかなと思っています」│ARBAN
・「本来こうありたいという姿に」三宅純がKAATで特別な一夜│ぴあ
・【インタビュー】三宅純│ローチケ
インタヴューいろいろ。ボヘミアン? コスモポリタン?



2018年11月17日(土)
Festival/Tokyo まちなかパフォーマンスシリーズ『テラ』

Festival/Tokyo まちなかパフォーマンスシリーズ『テラ』@西巣鴨 西方寺

『豊饒の海』から輪廻転生、仏教の世界へ。こういう数珠つなぎ好きなんですよね、呼んだわけではないのに自分の興味が一点に集まる。構成・演出は坂田ゆかり、出演は稲継美保と田中教順(田中さんは音楽、演奏も)。

テラにまつわるあれやこれ。三好十郎「詩劇『水仙と木魚』── ―少女の歌える──」ほかを原案に、落語的ひとり芝居、法話、木魚コールアンドレスポンス等楽しく真摯に死生観を探る75分。西巣鴨に何故寺が多いのかという話題から、区画整理の産物としての寺、ご近所さんとしての寺、コミュニティの場としての墓バー(行ってみたい!)と枝葉が拡がっていく。稲継さんの語り口が見事、劇場とは違う空間でのパフォーマンス環境に構えていた観客の緊張をあっという間に解いた。『グッド・デス・バイブレーション考』の演技にも嘆息したものだが、またも驚嘆。物腰は柔らかいが芯にドライな感触があるのは、ひとり芝居の公演を重ねることから生まれた強さなのかななどと思う。声色、言いまわしは正に落語のそれで、話に聴き入ってしまう。身体の弱かった幼少期、幼なじみの男の子。ロミオとジュリエットよろしく両家は対立するお寺さん。しばし芝居だということを忘れ、そうか、ちいさい頃の彼女はずっと家で寝ていたのだな、などと思ってしまう。

それを加速させたのは田中さんの介入。そもそもこの作品、田中さんが観られるというのでチケットをとったのだが、ここ迄ガッツリ作品の内容に彼のパーソナルな部分が結びつくとは予想外だった。幕開けも、幕切れも彼から。入場、演奏、トーク(後述のインタヴューで坂田さん曰く「ドラム漫談」(笑))、演奏、退場。ひとしきり話し続けた稲継さんが「じゃ、ちょっと行ってくるわね」と場を去るのは衣裳替え等の実務的な必要あってのものだが、その間隙は田中さんの独壇場。彼も話術(こんなに弁舌滑らかな方だったのか!)と演奏であっという間に観客の懐に入ってくる。そこで語られたのは、彼がお寺さんの子だったこと。当初から素敵な名前だなとは思っていたが、そうだったのか……妙に納得。そこから、後継ぎとして期待されていたこども時代、そんな自分が何故こうして音楽に携わっているのかといったかなりつっこんだこと迄開陳。その知識と体験を活かした田中訳「南無阿弥陀仏」、「塾長まじパねえ」は大ウケでした。

彼を観たのはdCprGとしてのラストステージ以来で、その退き際はかなりデリケートなことだったように感じたので気にはなっていた。そんな彼が、こうして過去(育った環境から得た知識と感性)を養分として現在(リズムアディクテッドなミュージシャン)を生きている様子に触れられたことはうれしかった。人生は繋がっている。

「じゃ、ちょっと行ってくるわね」。稲継さんは何度もそう挨拶し、その度に違う衣裳とキャラクターで帰ってくる。やがてこれは生まれかわりだな、と思えてくる。次は身体の自由が利くようになっている、次は女王様のような威厳を備えている。身体をいくつも乗り換えていくように。幼馴染としての田中さんはそれを見守り、応えていく。稲継さんによる「四誓偈」現代語訳と、西方寺の住職による読経も聴けました。理想は全国の寺で、その特性や地域との繋がりを都度とりいれ創りかえ乍らの、行脚スタイルでの公演。その遊行僧として選ばれたのが稲継さんと田中さんだったということすら、必然だったのではと思えてくる。それこそ何世代も前の頃から。

クライマックスは田中さんによるリズムにのせた煩悩108のアンケート。全員に配られていた木魚を叩いて答えます(笑)。死後どこに入りたいですか、実家の墓? 伴侶の墓? 樹木葬、それとも散骨? ひとを裏切られたことがありますか、裏切ったことはありますか……結構際どい質問もあったのにぶっちゃけちゃったなー。 田中さんのリードがまた絶妙で(「抱きたいリズム」がモットーなだけあるわ。セクシーだわ)、つい正直に答えてしまった。まあ当方喪中なんでねえ、いろいろ思うところありましたよ。演劇はセラピー、とはよくいったものだ。心の温泉旅行のよう。いいタイミングでこの公演に遭えたなあ。

「じゃ、ちょっと行ってきます」。田中さんが出ていった。終演とともに観客もそれぞれの先へ行ってきますとばらばらに。またどこかで逢えるでしょう。

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・坂田ゆかりが『F/T』で見せる、お寺や信仰と現代人との距離┃CINRA.NET
「見えない次元にあるものに触れることができる場所や時間を一時的に生み出すのが演劇だと思っている」
「パフォーマーはいずれ死んでしまう。建築や美術であれば物として残すことができるんですが、演劇は『いつか死ぬ』ものによって構成されている。そのあり方が、逆説的に死んだ先の未来についての思考を浮かび上がらせるというか……」
「盆踊りは、死んだ人の記憶を再生するメディアとも言える。演劇に限らず舞踊などの身体表現には、そういった儀礼的な性質が宿っています」


『わたしのすがた』(12)はもう八年も前のこと。にしすがも創造舎がなくなってからはなかなかこの辺に来る機会がなかったものなあ、また来たときもあるといいな



2018年11月16日(金)
『豊饒の海』

『豊饒の海』@紀伊國屋サザンシアター

しみじみよかった。思えばこの作品の舞台化って、最初に観たのはモーリス・ベジャールの『M』だったな。二日前に『ボヘミアン・ラプソディ』を観たし、なんだか繋がっていくなあ。三島由紀夫もベジャールもフレディ・マーキュリーも、11月に亡くなった。これから立て続けに命日がやってくる。そういえばジョルジュ・ドンも11月に亡くなったんだったよ。

三島の遺作となった四部作を舞台化。脚本はてがみ座の長田育恵、演出はイギリスからマックス・ウェブスター。高校生のときに四部作を読んだが〜、読んではいたが〜、読んだだけだったんだな……全然頭に定着しなかった模様。読解力には今も不安しかないが、時間と人生経験を積んだ分(積めてるのか?)多少は感じとれるところもあったのではと思う。思いたい。そして、今回の舞台はその交通整理にうってつけでもあった。素直に「生まれかわり」について考えることが出来た。たとえば、遺灰がナノレベルの粒子となって別のものに再構成される、という解釈だったら? それが三つの黒子として現れたとしたら?「それも心々ですさかい」。

三島の美意識というものは、外国からすると随分魅力的に映るものらしい。それが視覚的なもので表現されるとき、やはり東洋の美と結びつく。その美は現代の日本とは多少距離があるものだが、それを日本に住まう者が観て、改めて自国の美点に気付くこともある。桜、割腹、日の丸、文楽。演者が人形と人形遣いの両方を担い、ときには黒衣になる。サイモン・マクバーニー演出の『春琴 Shun-kin』もそうだったな……これも外国人演出家(彼もイギリスからだ)が谷崎潤一郎の作品をモチーフに創作した舞台だ。人形を生身の人間が演じる場合、肉体をオブジェクトと見立て、その操作を他者に委ねることになる。役者は演出家と観客の目を通して、どんなものにでもなれる。三島の記憶を持つ人物、笈田ヨシは『豊饒の海』と『春琴』のどちらにも出演している。繁邦という人物を容れるにはうってつけだ。

原作翻案をカナダのセルジュ・ラモットが手掛けた、宮本亜門演出の『金閣寺』(初演再演。そういえば亜門さんはオペラ『金閣寺』の演出もしているな、こちらはどうなんだろう。リンクはストレートプレイ作品です)とヴィジュアルの成り立ちが似通って感じたのは、両方のステージングに小野寺修二が携わっていたからかな。肉体を機能的に使い、水のような所作を見せる。

ちょっとだけ気になったところは、黒子の大きさと位置。いっそのこと描かなくてもよかったように思う。演劇の強みで黒子について口にしたり表情を変えるだけで、観客には黒子があるのだと伝わるのだから。

個人的には「奔馬」パート、最も三島自身を投影しているといわれる勲役を透徹な声と所作で見せた宮沢氷魚、「暁の寺」「天人五衰」パートで幼女にも老婆にも響くこの声はまさに慶子のもの! と感じさせてくれた神野三鈴にグッときました。あとやっぱり、ときを経て首藤康之が三島作品に出ているところ、しかも演じたのが記憶を担う繁邦役だというところがね……東出昌大は舞台に登場しただけではっとする、目を惹くプロポーション。『春琴』のことを思い出していたので、盲目で嗜虐性を持つ春琴を演じる上杉柊平を観てみたいなんてことも思った。

ラストシーン、時間を超え集う死者たちは、絵画のような美しい構図。『M』の幕切れもこのような構図だった。繁邦が一生(いや、彼はその後も当分生きるのだが。ひょっとすると今も……)をかけて見たのは夢か、幻か。あるいは彼の記憶と執念こそが、清顕をどの時代にも甦らせたのではないか。脇腹に三つの黒子を持つ清顕の生まれかわりは今どこにいるのだろう。出演者は複数の役を演じることで、どの時間にも生きている。役者は自らの肉体をもって時間を超える。

今回の舞台のおかげでこの大作のしっぽをやっとつかめたような気分。再読しよう、今ならもうちょっと迫れる気がする。繁邦の執念ともいえる思いが見せた、半世紀以上をかけた物語に再び挑戦してみよう。そしてこの作品が書かれてから48年、現代の清顕は、どこにどんな姿で現れるかを考えてみるのも楽しかろう。それも心々。

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いんやまじでおいしかった、マドレーヌでこんな食感のも初めて食べた

・よだん。劇中「貴様」呼びがデフォルトだったので、序盤は脳裏にノブと大悟がチラチラ浮かんでしまうというと想定外のことに苦しんだ。まさかやる側も同時期あのCMが大量に流れていることは予想出来なかったでしょうよ。恐ろしいことですよ



2018年11月14日(水)
『ボヘミアン・ラプソディ』

『ボヘミアン・ラプソディ』@新宿ピカデリー シアター2

うおおおおおい、ライブヴエイドどころか最初っからずっと泣いてた…泣きつかれた……。本編の最初ではなく、20世紀フォックスのあのファンファーレのとこからもう泣いてた(ネタバレになるので後述)。しかもさエンドロールの最後にかかる曲でモーリス・ベジャールのこと迄思い出してまた泣いた。へとへと。そういえば、フレディ・マーキュリーもベジャールも11月に亡くなったのだった。


そんでYouTube観ますよね。そうそう、最初のイントロのミスタッチ。フレディが贈るキス。ペプシの紙コップ。ステージ前のカメラマンピット、イントレに座って観ている二人組……あっ、ちょっと違う、と思ったのはフレディの腹まわり(笑)。ちょっとよ、ちょっと! そして、実際の中継映像は殆どがフレディのみを捉えていることに気付く。つまり、他の三人──ブライアン・メイ、ジョン・ディーコン、ロジャー・テイラー──の表情は、「映画」のものだということ。こうだったと思う三人と、こうあってほしいと願うファンの思いが掬いとられていたのだ。これは素晴らしい「再現」、とまた泣いて、翌朝まぶたパンパン。メガネとったのび太みたいになってた。


そんでこれも観ちゃう。1992年。アクセル〜。

ライヴエイド中継を観ている世代です。憶えているのはデヴィッド・ボウイとクイーン、それとフィル・コリンズのステージ。そして日本の中継スタジオ。フジテレビの逸見アナウンサーと南こうせつが進行だったよねー。Wikipediaによると中継は一部だったそう。となるとクイーンとボウイがタイミングよく中継されたこと、それを観ることが出来たのって運がよかったというか……寝てしまって観ていないところもあったもの。

ついでにいうと、クイーンが活躍した70〜80年代の日本は、比較的洋楽がくらしと身近だったように思う。娯楽やメディアの選択肢、それらへアクセスする方法が今より少なかった分、「みんなが知ってる歌」というものが多かった。こども向けテレビ番組やCMで洋楽のヒット曲が多数起用されていたし、なんたってこのライヴエイドが地上波で十数時間中継されていた。おかげで宮崎の片田舎に住んでいた中学生もこのイヴェントを観ることが出来た。もひとつついでに、クイーン、エアロスミスとともに「ハードロック御三家」と呼ばれていたKISSの「メンバーのすっぴんを見たひとは死ぬ」なんて噂が小学校に迄流れて(本当です。繰り返すが宮崎の片田舎によ!)恐れられていた時代ですわ。これのおかげで今でもちょっと怖いもんな、KISS。

前置きが長いよ! QueenのLIVE AIDが見事に再現されている、というのが観に行く決め手でした。クイーンの誕生、崩壊、再生という伝記ものではあるけれど、その終焉迄は描かれていない。そういう意味ではバンドの青春時代を切りとったものだといえます。史実とは違うところも多い。『タクシー運転手』でのあれこれを思い出しました。こちらの場合は運転手の人物像が多少戯画化されており、映画公開後に彼の家族が「父は高級ホテル所属の運転手で英語が堪能だった。ひとの仕事を奪ったりするようなことは決してなかった」とコメントを出していた。『ボヘミアン〜』の場合、フレディのパーソナルマネジャーだったポールの描写がかなり辛辣。これもメンバーやファンが「こうあってほしい」と思った結果なのかもしれないが。よりドラマティックに、よりエモーショナルに。鑑賞後に原典を探して作品世界とその歴史をより深く知るもよし、フィクションのファンタジーを大切にして、事実に目を向けなくてもよし。映画館を出たあとは、あなた次第。映画の業みたいなものも感じたのでした。

しかしこうした釈然としない気持ちは、ラスト20分のライヴエイド再現で消し飛ばされてしまう。それ程あのシーンは素晴らしい。高揚、興奮、狂気と歓喜。当時を知っているひとも、知らないひとも、映像を通じてあの場を体験出来る。音楽の力、映像の力。再現に献身する演者も素晴らしかった。てかさグウィリム・リー(ブライアン役)の似っぷりすごくなかった?! なんかもーわけがわからなくなって、映画のあとクイーンの映像観てて、このブライアン(本人)誰かに似てるなー、あ、ブライアン(映画の)だったー。とか思う有様であった。逆だ。ブライアンの! あの! 聡明さと思慮深さが滲み出てる感じというかさ……。他の三人も同様。見てくれだけではなく、その人物の性格が映し出されているようだった。

観客の年齢層は高めではあるけど、若いひとも結構いて、一緒に泣いたり笑ったり。ライヴエイドのシーンはもうちょっとあんた大丈夫? と自分でもひく程涙がとまらないし、油断すると嗚咽が出そうな程だったし、でも周りも揃って泣いてるしではたから見ればかなり異様な光景だったでしょう。音楽の、映画の力よの〜。余韻のなかあちこちからグズグズ聴こえる状態で退場していたら、後ろにいた若い女の子が「なんなのあのポールってやつ?! ムカつく!」と憤っていて、周囲のひと(私も)が思わずふふっと笑っていた。こういうのも映画館での楽しさですね。ほろり。

あちこちに感じられた作り手の「思い」──「願い」と言い換えてもいい──から伝わってきたのは赦し。ひとはやりなおせる、壊れた関係が修復することもある。そして時間は流れるという浮世の習い。ロバート・メイプルソープ、キース・へリング、ジョルジュ・ドン、ルドルフ・ヌレエフ……治療法がなく恐れられていたAIDSという病は、多くの才能を奪っていった。感染経路から多くの偏見や差別が生まれた。時間はそれらを和らげた(なくしたとはまだいえない。いえるときが来るといい)。発症を抑える抗HIV薬も開発されている。多くの聴衆を魅了し乍ら、常にボヘミアンだったフレディは生涯を通じて闘い続けた。ときにぶつかり乍らも彼に寄り添ったひとびと──実際の家族、バンドメンバー、ソウルメイトとなった友人たち──は、その死後も彼を愛し続ける。クイーンが生んだ数々の名曲は、世代を越えて愛され続ける。

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・フレディが愛したねこたちも多数登場。皆とてもかわいい! のでねこ好きも観るといい〜!

・【ネタバレなし】映画『ボヘミアン・ラプソディ』を100倍楽しむためのトリビア・エピソードまとめ┃togetter
延々読んじゃう。集合知の楽しさよ〜

(20181123追記)
・映画『ボヘミアン・ラプソディ』から振り返る、まじさん(@mazy_3)氏による当時のAIDSに対する風潮の記憶┃togetter
もうひとつ、よいまとめがあったので。当時を知らない若いひとたちに知ってほしいことでもある。『フィラデルフィア』はトム・ハンクスの演技も素晴らしいし、おすすめです。
ちなみにこのまとめでは触れられていませんが、注射針の使いまわしにより多くのヘロイン使用者も感染しました。それもあってアンソニー・キーディスとかは定期的に検診を受けていた。日本でもACによる啓発CMが頻繁に流れていました

・コラム:映画翻訳の現場から 第47回「流浪の自由人の狂詩曲」
今作の字幕を手掛けた風間綾平さんによる解説。そういえば字幕監修は増田勇一さんでしたね

・Queenハイレゾ配信記念インタビュー 『ミュージック・ライフ』元編集長 東郷かおる子さんが語る、Queenとの出会いと編集者人生┃mora
はやくからクイーンに注目し、取材してきた東郷さんが語るバンドと日本との蜜月

・『ボヘミアン・ラプソディ』 オリジナル・サウンドトラック┃UNIVERSAL MUSIC JAPAN
ファンファーレの話。従来のオーケストラのよるものではなく、ロックヴァージョンだったんですよ! 知らないで行ったからふいうちにも程が! で、帰宅後調べたら演奏はブライアン・メイとロジャー・テイラー、録りおろし! だったという……また泣く。というわけで初リリースの音源も収録、クイーンの新譜といってもいい? サントラですよ。よよよ〜



2018年11月10日(土)
さいたまネクスト・シアター『第三世代』

世界最前線の演劇 2[ドイツ/イスラエル]さいたまネクスト・シアター 『第三世代』@彩の国さいたま芸術劇場 NINAGAWA STUDIO(大稽古場)

ネクストシアターの面々がぼちぼち揃ったよ〜。外部や関連公演で観ていたひとも、お久しぶりのひとも。劇団公演をホームで観られてうれしいことです。『ジハード』に続く、『世界最前線の演劇』シリーズ。『紛争地域から生まれた演劇』に連なるシリーズでもあります。

2009年、ベルリンで初演。WW2当事者の孫世代(第三世代)であるドイツ人、イスラエル人、パレスチナ人が本人の名で本人の背景を用いて劇作し、観客の多数がドイツ人という環境で上演された作品。ドイツ語、英語、アラビア語が飛び交い、ドイツ人はアラビア語が解らずイスラエル人はドイツ語が解らない。ドイツ人のなかには東ドイツ出身の者がおり、パレスチナ人はイスラエル在住であり、キリスト教信者のアラブ人もいる。作(構成)者は自身も第三世代である1976年生まれのヤエル・ロネン。イスラエルを代表する演出家で、シオニズムに否定的な人物。

社会的に意義あることだと集まった出演者たち。平行線の議論、一触即発の状況。そのうち一部の参加者にはギャラが発生していること、助成金を出したのはドイツで、イスラエル側は決して協力的ではなかったということが判明する。ワークショップを積み重ねている段階でこうしたことが露呈していったのだろう、最終的にはプロジェクト自体が破綻した状態になる。しかしロネンはそれをそのまま舞台に載せた。初演はある種ドキュメントの力を持った作品になったわけだ。

今回の上演は、それらのシーンが既に前提だ。初演のメンバーにとっては作品の本質から外れた部分である出来事を、今回はドラマとして芝居に内包しなければならない。この辺りをいかに見せていくか、という試行錯誤が窺えました。そのうえこれを日本で、日本人が、日本語のみで上演することの難しさ。演出を手掛けたTRASHMASTERSの中津留章仁は2012年のリーディングからこの作品に携わっており、日本の役者たちと創意工夫を重ねてきたようです。観乍ら考えていたことは、「これ、日本、韓国(北朝鮮)、アメリカで再構成出来るかなあ……」ということ。アフタートークでもちょっと話題になりましたが、日中韓に置き換えたらどうなるかなあという議題はあったようです。在日コリアンの存在は、イスラエルに住むパレスチナ人と通じるものがあるかも、とか。

遠くの国で起きていることを、想像力をフルに使い身近に感じようとする。そうすると、現在実際に戦闘が続いているガザ地区の住人に心を寄せるべきなのか? という自問が湧きました。しかし、告発者のパレスチナ人はガザ地区に住んでいない。イスラエル側がステレオタイプに描かれているのもいささか分が悪い。そしてふと思う、これらの問題ってアメリカの存在なしには語れないのではないだろうか? 日中韓の問題にしても同様だよな…結局割を食ってるのはその場で暮らしているひとたちになっちゃうんだよなあ……などと考えだしてしまいしょんぼりする。

とはいえ、笑えるシーンもあるのです。イスラエル人たちがホロコーストの知識を得た途端にフォークジャンボリーな歌を唄い出したり(またこれがペラペラな歌詞でニヤニヤした。ついでにいうと歌が調子っぱずれで……いかにもな下手さ加減で絶妙だった。ほめてる)、参加したいデモが多すぎてスケジュール調整に四苦八苦するドイツ人がいたり。ユーモアだいじ。だけどこれはシニカル。一歩間違うと地獄を見ますね。非常にフラジャイルな場面なので、日によってはウケないこともあるかも。客いじりもあり、この日話を振られたひとりは意見を語り、もうひとりは沈黙したままでした。どちらの反応でも滞りなく進行するのでご安心を。とはいえ、ここで芝居が中断する可能性だってある。そのとき演者はどうするかな、といった興味も湧きました。

ステージにあるのは演者が座る椅子だけ。一見ワークショップ(冒頭「この作品はワーク・イン・プログレスです」という台詞がある)だが、実際上演されているのはひとつの完成形。これを二時間見せきった演者は見事でした。進行係ともいえる自虐的なドイツ人を演じた盒怯儡、パレスチナ人の少年から老人迄演じ分けた阿部輝にはネクストの地力を見た。内田健司の引き出しの多さを観ることが出来たのもうれしかった、声を張る扇動者。周本絵梨香と井上夕貴のやりあい、佐藤蛍のサークルクラッシャーっぷり、観たかったやつ! 軽薄な手打隆盛、貴重! しろくまクヌートの名がぴったり(?!)、悠然と構える續⽊淳平! そしてヤーマン松田慎也が帰ってきたぜ〜! 客演は青年座から清瀬ひかり。ネクストのメンバーって老人の描写がめちゃめちゃ巧いんですが(ゴールドシアターのメンバーと長く時間を過ごしていること、実年齢とはかけ離れた人物を演じる機会も多いことが要因かと思われる)清瀬さんも老婆の声色が迫真で、ネクストのひとだったっけ? と思いそうになるなじみっぷりでした。それにしてもネクストのメンバーって皆美声よね、発声がよいということもある。安心して聴ける舞台の声。

「ホロコーストとナクバ(1948年パレスチナの大災禍)は違う、ゲットーとガザ、ヨルダン川西岸地区地区は違う、比べないで」という台詞。そう、比べてはいけない。イスラエル人の彼も、彼女も、幕開けで謝り続けたドイツ人の彼に「もう忘れろ」「忘れて」といったじゃないか。個人対個人の関係には対処出来る。憎しみが生まれるようなら離れればいいし、友好は育てていけばいい。しかし現在、それを許さない社会の風潮が強くなっている。「〇〇だから〇〇(個人名)は好きじゃない、つきあえない」ではなく「〇〇だから〇〇人はきらい、つきあえない」となってしまう仕組みを避けられなくなるときがきたとき、どうすればいいのだろう。その圧力に直面したとき、自分はどこ迄個人でいられるかな、と考え乍ら劇場を後にしました。今も考えている。

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・アフタートークのゲストは山本薫さん(アラブ文学・文化研究)。作品背景の解説や、シリアに留学していたときの話も。当時は和やかで楽しい時間を過ごせたけれど、今はとてもじゃないが出かけられない場所になってしまって……といっておられた。以前シリアに住んでいたヤマザキマリさんもそう書いてたなあと思い出す。中津留さんからはリーディング公演との演出の違いについてなど。例のフォークジャンボリーのシーンづくりの話がすごく面白かった……思い切りってだいじ(笑)

・さいたまネクスト・シアター×中津留章仁の「第三世代」開幕┃ステージナタリー
そうそう、国旗を模したTシャツの衣裳(紅林美帆)もよかったのよ〜ベタだけど普段でも着れそうなかわいさで。袖には「G3」のロゴも入ってました

『演劇評論家 扇田昭彦の仕事−舞台に寄り添う言葉−』┃早稲田大学演劇博物館
蜷川さんのメモリアルボックスのとなりにフライヤーが張ってあった。だよねだよね、蜷川さんご存命なら絶対観に行っただろうから、そりゃここに張るよねとほろり。近いうちに観に行かなければ