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2018年11月16日(金)
『豊饒の海』

『豊饒の海』@紀伊國屋サザンシアター

しみじみよかった。思えばこの作品の舞台化って、最初に観たのはモーリス・ベジャールの『M』だったな。二日前に『ボヘミアン・ラプソディ』を観たし、なんだか繋がっていくなあ。三島由紀夫もベジャールもフレディ・マーキュリーも、11月に亡くなった。これから立て続けに命日がやってくる。そういえばジョルジュ・ドンも11月に亡くなったんだったよ。

三島の遺作となった四部作を舞台化。脚本はてがみ座の長田育恵、演出はイギリスからマックス・ウェブスター。高校生のときに四部作を読んだが〜、読んではいたが〜、読んだだけだったんだな……全然頭に定着しなかった模様。読解力には今も不安しかないが、時間と人生経験を積んだ分(積めてるのか?)多少は感じとれるところもあったのではと思う。思いたい。そして、今回の舞台はその交通整理にうってつけでもあった。素直に「生まれかわり」について考えることが出来た。たとえば、遺灰がナノレベルの粒子となって別のものに再構成される、という解釈だったら? それが三つの黒子として現れたとしたら?「それも心々ですさかい」。

三島の美意識というものは、外国からすると随分魅力的に映るものらしい。それが視覚的なもので表現されるとき、やはり東洋の美と結びつく。その美は現代の日本とは多少距離があるものだが、それを日本に住まう者が観て、改めて自国の美点に気付くこともある。桜、割腹、日の丸、文楽。演者が人形と人形遣いの両方を担い、ときには黒衣になる。サイモン・マクバーニー演出の『春琴 Shun-kin』もそうだったな……これも外国人演出家(彼もイギリスからだ)が谷崎潤一郎の作品をモチーフに創作した舞台だ。人形を生身の人間が演じる場合、肉体をオブジェクトと見立て、その操作を他者に委ねることになる。役者は演出家と観客の目を通して、どんなものにでもなれる。三島の記憶を持つ人物、笈田ヨシは『豊饒の海』と『春琴』のどちらにも出演している。繁邦という人物を容れるにはうってつけだ。

原作翻案をカナダのセルジュ・ラモットが手掛けた、宮本亜門演出の『金閣寺』(初演再演。そういえば亜門さんはオペラ『金閣寺』の演出もしているな、こちらはどうなんだろう。リンクはストレートプレイ作品です)とヴィジュアルの成り立ちが似通って感じたのは、両方のステージングに小野寺修二が携わっていたからかな。肉体を機能的に使い、水のような所作を見せる。

ちょっとだけ気になったところは、黒子の大きさと位置。いっそのこと描かなくてもよかったように思う。演劇の強みで黒子について口にしたり表情を変えるだけで、観客には黒子があるのだと伝わるのだから。

個人的には「奔馬」パート、最も三島自身を投影しているといわれる勲役を透徹な声と所作で見せた宮沢氷魚、「暁の寺」「天人五衰」パートで幼女にも老婆にも響くこの声はまさに慶子のもの! と感じさせてくれた神野三鈴にグッときました。あとやっぱり、ときを経て首藤康之が三島作品に出ているところ、しかも演じたのが記憶を担う繁邦役だというところがね……東出昌大は舞台に登場しただけではっとする、目を惹くプロポーション。『春琴』のことを思い出していたので、盲目で嗜虐性を持つ春琴を演じる上杉柊平を観てみたいなんてことも思った。

ラストシーン、時間を超え集う死者たちは、絵画のような美しい構図。『M』の幕切れもこのような構図だった。繁邦が一生(いや、彼はその後も当分生きるのだが。ひょっとすると今も……)をかけて見たのは夢か、幻か。あるいは彼の記憶と執念こそが、清顕をどの時代にも甦らせたのではないか。脇腹に三つの黒子を持つ清顕の生まれかわりは今どこにいるのだろう。出演者は複数の役を演じることで、どの時間にも生きている。役者は自らの肉体をもって時間を超える。

今回の舞台のおかげでこの大作のしっぽをやっとつかめたような気分。再読しよう、今ならもうちょっと迫れる気がする。繁邦の執念ともいえる思いが見せた、半世紀以上をかけた物語に再び挑戦してみよう。そしてこの作品が書かれてから48年、現代の清顕は、どこにどんな姿で現れるかを考えてみるのも楽しかろう。それも心々。

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いんやまじでおいしかった、マドレーヌでこんな食感のも初めて食べた

・よだん。劇中「貴様」呼びがデフォルトだったので、序盤は脳裏にノブと大悟がチラチラ浮かんでしまうというと想定外のことに苦しんだ。まさかやる側も同時期あのCMが大量に流れていることは予想出来なかったでしょうよ。恐ろしいことですよ