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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
ロアリング・フォーティーズ

今週はヨットの単独無寄港世界一周航海から二人の方が無事帰還されました。
おひとりは最高齢での世界一周無寄港となる71才の斉藤実さん
もうおひとりがヨットマンとして有名な堀江謙一さんです。

斉藤さんの帰還は母港への到着のみをTVニュースで見ただけなのですが、堀江さんの航海は、昨年秋の出航からNHKの朝のニュースで特集しており、冬の初め頃にはホーン岬通過とチリ海軍との交歓が放映され、思わず出勤前の化粧の手がとまり「きゃ〜!ホーン岬!」と画面に見入ってしまいました。

堀江さんのルートは東回りの世界一周で、日本からまっすぐに南アメリカ南端のホーン岬をめざし、そこから南大西洋を東へ、喜望峰を迂回してオーストラリアの東をまわって太平洋を北上するというコースだったようで、途中、南大西洋と太平洋の一部が今回(5巻)のレパード号の航路と重複するように思います。
NHKはこの航海をかなり熱心に取材していたようなので、いずれ特集番組でも企画しているのか?
もし企画しているのであれば、レパード号が大変な辛酸をなめた南緯40度海域(ロアリング・フォーティーズ=吼える40度)の海というのを、見ることができると思うのですが…だめかしら?

英国のポーツマスとかプリマス、地中海のマルタとか、オーストラリアのグレートバリア・リーフとか、その気になれば多分カリブ海も、彼らの航海した海を陸地から眺めることは私にも出来るのですが、大海原というのはどうも…。
地中海やカリブ海は、お金を貯めて、定年退職して、暮らせる程度の年金が幸運にももらえたら(私の世代はもう…どうなるんですかねぇ?)、ひょっとしたらクルーズの1回くらい出来る可能性が全くないとはいえないかもしれませんが(…かなり弱気)、それでも南緯40度なんていうのは、普通のクルーズ船はまず行きませんから(当たり前ですって)、こういう堀江さんの航海みたいな機会に、目を皿のようにして映像を見るしかないわけです。

いやでも、今回、すごいなぁと思ったのは、堀江さんの世界一周が約250日だったこと。
マゼランのビクトリア号が3年かかったことを思うと、いかに現代のヨットが速く、また整備された海図やGPSや気象衛星などのデータを活用して効率的な航海ができるようになったか…という事実に驚かされます。


ところで、南緯40度海域といえば、今回5巻を読んでいてちょっとびっくり!だったのは、レパード号って南緯43度で氷山に出会っているんですね。
これをそのまんま北半球で考えると、北緯43度って北海道でしょう? 稚内が北緯45度なのだから、43度と言うと札幌とか根室とかあのあたり?
根室には流氷…来ましたっけ?もうちょっと北の網走には確実に来ますけど、でも、網走にだって氷山は…来ないですよ。

以前に、19世紀半ばのフランクリン探検隊の航海を再現したセドナ号の映画を見た時に(1月10日の日記)、
「ヨーロッパでは北緯70度の不凍港があるから、ヨーロッパ人はカナダの北をまわって大西洋から太平洋に抜けられると無謀にも思ったのだろうか? でも大西洋の西岸や太平洋の流氷限界はもっと緯度が低いのだから、こんなこと日本人の常識では考えられない」
というようなことを書いたのですが、なんだか南半球の常識も、北半球の常識とは違うようですね。
もっとも…ジャックの生きていた時代は現代よりは寒かった…ほぼ同時代に当たるナポレオンのロシア遠征が冬将軍に負けたのは、当時の気候が特別に寒いサイクルに入っていたからだ…という話を読んだことがありますから、現代の南緯43度に氷山があるとは限りませんが。

でもね、そうするともう一つ考えてしまうのね。
…ということは、英国海軍は19世紀の初頭に、場所によっては43度の緯度でも氷山がある…ということを知っていた、ということでしょう?
だったら、フランクリンの探検隊と軍艦2隻をカナダの北まわり航海に送り込む前に、氷に閉じこめられて全滅する可能性についてもわかっていた…ということになりませんか?
うーん。
まぁでも、マゼランのビクトリア号にして、太平洋の広さもわからずに横断したんですものね。400年後の19世紀半ばになっても、探検航海というのはそういう…わけのわからないところに行くのが常識…だったんでしょうか?


ところで、話もどりますが、5巻って「ジャックの一人称が『俺』」だっていうのが不評なのですか?
私ってば、全く不覚にも、言われるまで「俺」にぜんぜん気づかなかったんですよ。うううう。

どうも私って、基本的にそういうとこ鈍いんですよね。
ボライソー24巻騒動のようなことでもない限り、あまり気がつかない。ファンの風上にも置けない奴かもしれないんですが(でも風下を走るのは嫌です…って違う?)。
たぶん…原因の一部は、先に英語で読んでることと、私が仕事の一部で実務翻訳をやっていることにあると思うんですが。

小説を読むのは、私の場合、頭の中に自分専用の映画を作るような行為です。
なので最初に英語で読んだ時にも、それなりの映像ができあがり、脳みそHDDのどこかに録画される。
それで、しばらくしてから(今回は2年後でしたが)日本語訳が出版され、読み始めるのですが、その時に何が起こるかというと、2年前に脳みそHDDの何処かに録画されていた「マイ映画」が、日本語に刺激されて再生されてくるんです。
これが日本語の小説を読むのであれば、私は日本語から新たに「マイ映画」を作るのですが、以前に英語で一度読んでいる小説の場合は、日本語は映像の作成素材ではなくって、再生のきっかけというか触媒のようなものになります。

その場合の日本語は、たぶん「言葉」ではなくって「記号」のようなものなんです。漢字は表音文字でなくて表意文字なので、ななめ読みでも意味が通るでしょう? 別に意識してななめ読みしているわけじゃないんだけど、たぶん「マイ映画」の再生スピードが速いので、日本語を一字一句読んでいたら追いつかないんでしょうね。
ゆえに、あまり日本語にひっかかる…ということが、私の場合はありません。

それから、直訳調でわかりにくい文章があっても、単語が日本語になってますから、もとの英語構文の単語を日本語に置き換わっただけだと思って、英語感覚さらっと意味だけとってしまう。
これ、仕事上ではやってはいけないんですけどね。
実務翻訳で他の人の翻訳をチェックする仕事をしている時には、絶対に先に英語は読みません。先に英語読んでしまうと、変な日本語でもわかっちゃって、おかしいと思わなくなってしまうんですよ。
もっとも実務翻訳の場合は、間違っても「マイ映画」なんて作りませんから、こういう状態に陥る可能性は低いんですが、
小説だと、日本語より先に「マイ映画」が進行し、ストーリー展開に夢中になってしまうものだから、一種ほら、本に夢中になると電車を乗り過ごす…みたいな感じでしょうか? ストーリーに夢中でまわりが見えなくなる。


ただ今回の「俺」事件(事件なのか?)については、私は個人的にですけど、実は「ジャックって現代的には『俺』って人なんじゃない?」って思っています。
だからたぶん、映画化に際してもラッセル・クロウという男臭い俳優が選ばれたんだと。

これは別に高橋先生に限ったことではなくて、あの世代…つまり戦前・戦中派で、旧制中学・高校の残り香を知っている世代の使う「僕」とか「君」の感覚って、現代の私たちが使っている「僕」の感覚とちょっと違うのではないかと。
かなりバンカラな、今の大学生だったら当然「俺」でしょう…っていう人も、あの時代は「僕」を一人称に使うんですよね。
だからこれは、ホーンブロワーでもボライソーでも、オーブリーでも、それからやっぱり高橋先生と同世代の方が訳していらっしゃる至誠堂のラミジ等のシリーズも、若いというか戦後世代の私たちの「僕」感覚で読むとちょっと違うのかな?と。

私はアラン・リューリーのシリーズが、大森先生の、現代感覚に近い訳で出た時に、こういうのを待っていたと思ったんです。
1巻で候補生だったアランとキースが、旧制高校ではなくて、現代の高校・大学生感覚(でももうちょっと丁寧)で会話しているのが嬉しかった。
ホーンブロワーの日本でのTV放映があって、ホレイショとアーチーが吹き替えで普通に会話しているのを聴いた時も嬉しかったですよ。

まあでも、本来がこれ200年前の話なんだし、本当にそれでいいのか?と言われるとまた問題はあるかもしれないのですが、
ケストナーの「飛ぶ教室」の翻訳が最近新しくなりましたけど、「読みやすくなった」「少年らしい会話だ」という好意的な声がある反面、「あの会話はギムナジウムの会話ではない」という批判もあるそうで、そう言われてしまうと確かに、ギムナジウムには旧制中学同様の独特の雰囲気があるのかも…と思いますし。

まぁ何にせよ、翻訳ものを読む時は、いつも頭のどこかで用心して、日本語訳を絶対的な固定イメージとはしないようにした方がいいのではと思います。
同じ原作からスタートしても、かなり解釈のちがうウィリアム・ブッシュという人物が成り立つように。
英語の上下関係は日本語の敬語関係とイコールではない…ということも。

そうそう、上下関係と言えばもう一つ。これお気づきの方あると思うんですけど、
私が用心して人間関係に修正かけて見ているケースがもう一つあるんです。
アガサ・クリスティのポワロと助手のヘイスティングス大尉の関係。

日本語ではヘイスティングスは、「ポワロさん」と相手をさん付けで読んでいますが、私ある時、NHKで放映していたディビット・スーシェ(ポワロ)とヒュー・フレーザー(ヘイスティングス)のシリーズを、副音声の英語で聞いて、ちょっと愕然とした。
ヘイスティングスは英語ではポワロに「ミスター」も「サー」もつけてなかったんです。「ポワロ」って呼び捨て。
でもってヘイスティングス役のヒュー・フレーザーが、タレ目だけど結構なベテランだし(シャープ・シリーズでウェリントンン公爵を演じた俳優さんでもあります)堂々としているので、なんか二人の間の力関係の雰囲気が、ちがうんですよね。
で、主音声に戻すと、あいかわらず熊倉一雄吹替のポワロに安原義人吹替のヘイスティングスが丁寧に敬語でしゃべっているのですが、これなんか英語と雰囲気が違う…いいんだろうか?って思いました。
いぇ同じ劇団で長年一緒に仕事をしてきたこのお二人の吹替は独特の味があって、好きなことは好きなんですけど。

けれども、以来、私はこの二人については、たとえ日本語では敬語で会話が進行していても、実際はちょっと違うんじゃないの?って頭の中では修正をかけながら見ています。


2005年06月10日(金)