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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
Mr.とSir──字幕に出ない呼称の話し

字幕に出ない「M&C」第2回(笑)…いちおう第3回まで予定してます。
今日はざっくばらんに、呼称のはなし。

これ、海洋小説を読み慣れていらしたり、「ホーンブロワー」をご覧になっている方はよくご存じのことなので、読み飛ばしていただいてもよいのですが。

初めてこの時代の海洋モノをご覧になった方、字幕には出てこないけど、なんだかよく「ミスター」とか「サー」とか言う言葉が聞こえていたなぁと思われませんでした?
この「ミスター」と「サー」、字幕では微妙に訳が変わっていて、「艦長」だったり、「副長」だったり「大尉」だったり「航海長」だったり。
この呼称体系、基本原則は2つです。1)階級が上の人に呼びかける時には「サー」を付ける。2)尉官以下の士官、準士官、士官候補生と航海士は「ミスタ・誰それ(名字)」と呼ばれる。
ただし同一の階級同士(ex.海尉同士、候補生同士など)の場合は、ファーストネームで呼び合うことも可です。
このミスタは、大尉などの代わりであり、現代の例えば社内活性化のために「部課長」を止めて「さん」で呼ぼう…などというのは全く(天と地ほどにも)違いますのでご注意。

そんなわけですので、ブレイクニーが「サー!サー!」と叫びながら走り回るのでして、ちなみに彼は艦長にも副長にも航海長にもマチュリン先生も「サー」と呼んでいますが、字幕の方はちゃんと「艦長」とか「先生」とかになっています。
…でもねぇ、これって間違い起きないですかねぇ? 私むかし担任の先生に用があって、職員会議中の部屋のドアを開けていつもの調子で「先生」と言ったら、その場の全員が(先生だから)振り向いた…っていう笑い話の失敗をやったことがありますが(笑)。

さて、規律に厳しい孤高の艦長の場合ですと、艦内の全ては「ミスター」と「サー」だけで片づくのですが、人間味あふれるジャック・オーブリー艦長が、いまだに海軍の規律を無意識に蹴飛ばしている軍医を乗せているサプライズ号の場合は、この原則に様々な例外があって面白い、これがもう一つの「M&C」のおたのしみ…だったりします。

まずは、大変良くTPOを心得ているジャック・オーブリー艦長、というより少年時代から何十年とこの世界で暮らしてきて規律が骨の髄まで染み通っている…と言うべきかもしれませんが、その艦長の場合です。

よく聞いていると、オーブリーは、公式の場と非公式の場、周囲に部下がいるかいないか、を上手く使いわけているようです。
オーブリーはマチュリンに4つの呼びかけを使っています。
まず正式のものは「ドクター」。これはマチュリンが内科医なのでドクターですが外科医なら「ミスター・マチュリン」になる筈のものです。公式の場、および周囲に気心の知れた部下以外の者がいる時(この「気心の知れた部下」については後述)は必ずこの呼称です。
2人きりの時、および周囲が気心の知れた部下だけの時は、ファーストネームで「スティーブン」
あと2つは「サー」と「ブラザー(きょうだい)」で、かなり異例の時に、ご本人知ってか知らずか、殺し文句として使用していました。

艦長が部下への呼びかけに「サー」を付すことはあまりありませんが、これが付くとかなり堅苦しい形式ばった雰囲気になります。
オーブリーがこれを使っているのは、例のガラパゴスに上陸するしないでマチュリンと揉めた時、「道楽には付き合えない」というセリフの原語は「We do not have time for your damned hobbies sir!」です。
これが決めセリフとなったかどうかは知りませんが、マチュリンはこれで引き下がります。

オーブリーとマチュリンは、とくに6巻以降、プライベートでは時々たがいを「brother」と呼び合っているのですが(ハヤカワ書房訳10巻ではそのまま「きょうだい」と平仮名書きで訳されています)、これが登場するのは、ネイグルのむち打ちをめぐって二人が艦長室で議論を展開するシーンの最後、「無政府主義は余所でやってくれ」というような内容の字幕の原語が「You've come to the wrong shop for anarchy, brother」となります。やはりこのセリフでこの議論はおしまいになるのでした。

今から200年前のこの時代、艦長が部下をファーストネームで呼ぶことはまれでした。が、全く無いことはありませんでした。アレクサンダー・ケントのボライソー・シリーズでは、ボライソーが本当に心を許している相手かどうかがこの呼称で区別できるので、結構重要な意味を持ってくるのですが、パトリック・オブライアンの場合はそこまではっきりとは言及されていません。
オーブリーの場合は、付き合いの長さが影響している部分があるのではと思われます。

映画「M&C」の中で、ファーストネームで呼ばれているのは4人、前述のスティーブン、一等海尉(副長)のトム・プリングス、二等海尉のウィリアム・マウアット、それに艇長のバレット・ボンデン。
原作を1巻から読まれた方はご存じと思いますが、後述の3人は、オーブリーが勅任艦長になる以前のソフィー号時代からの部下です。原作ではあともう一人、1巻からの付き合いのウィリアム・バビントンもファーストネーム仲間(笑)に入っています。

ただし、このファーストネーム使用もTPOに準じているようですね。オーブリーが副長をトムと呼ぶのは周囲に部下がいない時、それ以外の時は、通常通りミスタ・プリングスです。

ところで、原作ではボンデンはファーストネームで呼ばれることはありません。これは映画だけの呼称のようです。
映画のボンデンは一カ所「ミスタ・ボンデン」とミスタ付きで呼ばれているところがあって、これも原作とは違うところです。彼は下士官なので、通常はミスタは付かない筈なのですが。
キリックとボンデンはともにオーブリーとの付き合いが長いのですが、今回の映画では物語の進行上、キリックはともかくボンデンに関してはその付き合いの長さを表すエピソードが割愛されています。これを補うための措置なのかなぁと思ったりもしますが、実際のところはどうなのでしょう?

呼称の使い分けといえばもう一つ。ブレイクニーに対するもの。これもオーブリーは艦の内外を上手く使い分けています。
ブレイクニーは伯爵の息子なので、陸の上ではロード・ブレイクニー(ブレイクニー卿)であり、晩餐会などの席次はおそらく勅任艦長であるオーブリーより上になるのではないかと思いますが、サプライズ号の中ではオーブリーの部下の一士官候補生にすぎません。
そのようなわけで、通常ブレイクニーはミスタ・ブレイクニーと呼ばれているのですが、オーブリーは2回だけ彼を「ロード・ブレイクニー」と呼んでいます。負傷した彼を病室に訪ねるシーン。これは彼が私的にブレイクニーを見舞っていると考えられるのではないでしょうか?

このようなわけで、オーブリーは海軍の規律を重んじTPOを見事に使い分けているのですが、対するスティーブン・マチュリン…この人の場合は…時に問題が。
いや一応、わかっていることはわかっていて、きちんと「艦長(Captain)」と呼んでいる時もあるのですが、周囲に部下がいようがいまいがファーストネームの「ジャック!」が出てしまうことが多々あって。
まぁそのあたりはプリングスとマウアットがよくわかっていて、上手くフォローしているようですが(天窓の作業をしていたミスタ・ラムをさりげなく立ち去らせる…とか)。

海洋小説の魅力は多々あるのですが、ファーストネームや呼称に現れる微妙な公私のライン…というのも、面白さの一つではないかと思います。厳しい軍律と人間の情の対比が一番良くあらわれる部分でもあります。
マニアな見方ではありますが、「M&C」に限らず、規律の厳しい組織モノでは鑑賞のツボかもしれません。


2004年04月22日(木)