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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
艦長室での会話

以前に指摘していました、ジャックとスティーブンの会話のフルバージョンです。
ホーン岬をまわって太平洋に入った後、ウォーリーを死なせてしまい悩むオーブリーとスティーブンの、嵐の中の艦長室での会話。
字幕に訳しきれない部分をフォローすると、もう少し事情がわかるのではないかと思います。

本日の日記は多数の方々のお力によっています。
UK版DVDからのセリフ抽出、訳語や問題点の指摘、解釈をご教示いただいたTeさん、Taさん、Hさん、Uさん、Nさん。ネイティブにしかわからない慣用句や意味について答えてくださったMr.J、Mr.Tと中継してくれた友人のY。
いろいろと本当にありがとうございました。

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J:ジャック・オーブリー、S:スティーブン・マチュリン

S:The deaths in actual battle are the easiest to bear.
  (戦闘中の死亡…と考えれば、一番受け入れやすいだろう?)
  For my own part, those who die under my knife, or from some subsequent infection...
  (僕はね、手術中や、後の化膿で怪我人が死んでしまった時には、) 
  I have to remind myself that it was the enemy that killed them, not me.
  (自分に言い聞かせることにしている。
   敵の手にかかって死んだんだ。僕のせいじゃない)
  That young man was a casualty of war.
  (あの若者も、戦争の犠牲者なんだよ)
  As you said yourself, you have to choose the lesser of two evils.
  (言ってたじゃないか。小さい方のコクゾウムシを選ばざるを得ない商売なのだと)
J:Weevils.
  (コクゾウムシか…)
  The crew will take it badly. Warley was popular.
  (水兵たちにはこたえるだろう。ウォーリーは人気者だった)
  Have they expressed any feelings on the matter to you?
  (何か君に漏らしていないか? 彼らがどう思っているか)
S:Jack, before answering, I'm compelled to ask,
  (ジャック。その質問に答える前に、僕は君に一つ尋ねなければいけないことがある)
  am I speaking with my old friend or to the ship's captain?
  (僕は今、長年の友と話をしているのか?それとも艦長とだろうか?)
  To the captain I'd say there's little I detest more than an informer.
  (もし艦長と話しているのなら、僕は胸くその悪い告げ口をしていることになるのではないかと)
J:Now you're talking like an Irishman.
  (なんだ、まるでアイルランド人のような口をきくな)
S:I am an Irishman.
  (僕はアイルランド人だよ)
J:Well, as a friend, then.
  (わかった。では友人として)
S:As a friend, I would say that I have never once doubted your abilities as a captain.
  (友人として、僕は一度たりと艦長としての君の能力に疑いをはさんだ事はないが、)
J:Speak plainly, Stephen.
  (まわりくどい言い方はよせ、スティーブン)
S:Perhaps we should have turned back weeks ago.
  (おそらく我々は、何週間も前に引き返すべきだった)
  The men... of course they would follow Lucky Jack anywhere,
  (水兵たちは…、もちろん彼らはラッキー・ジャックにどこまでもついていくだろう)
  righffully confident of victory.
  (勝利を信じてね)
  But therein lies the problem.
  (だがそこに、落とし穴がある)
  You're not accustomed to defeat.
  (君は敗北に慣れていない)
  And chasing this larger, faster ship with its long guns is beginning to smack of pride.
  (大型で俊足、射程の長い砲を装備した船を追いかけまわすのは、
   君のプライドを突つかれたからじゃないのか?)
J:It's not a question of pride. It is a question of duty.
  (プライドの問題ではない。任務だ)
S:Duty. Yes, I've heard it well spoken of.
  (なるほど、任務ね。よく言われているセリフだ)
J:Be as satiric as you like. Viewing the world through a microscope is your prerogative.
  (好きに皮肉を言うがいいさ。
   顕微鏡で見るような視点で細かく分析するのは、科学者たる君のおはこかもしれないが、)
  This is a ship of war. I will grind whatevergrist the mill requires to fulfil my duty.
  (この船は軍艦だ。私はあらゆる手を尽くして、任務を全うするのみ)
S:Whatever the cost?
  (いかなる犠牲を払おうとも?)
J:Whatever the cost.
  (いかなる犠牲を払おうとも)
S:To follow orders with no regard for cost.
  (犠牲をかえりみることなく命令を遂行すると、)
  Can you really claim there's nothing personal in this call to duty?
  (そこには一切の私情は無いと君は言い切れるか?
J:Orders are subject to the requirement of the service.
  (命令は軍務にはつきものだが)
  My orders were to follow him as far as Brazil. I exceeded my orders a long time ago.
  (私の受けた命令は、奴をブラジルまで追撃せよというものだった。
   私はとうに、命令の範囲を逸脱しているんだ)

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今回、いちばん問題になったのは、「talking like an Irishman」でした。
実はこれ、英語の慣用句にはなくて、文字通り「アイルランド人のような話し方」という意味なのです。

では「アイルランド人のような話し方」という英語は、いったいどいういうニュアンスなのか?

もっとも一般的な意味では、「直情的な」とか、「怒りっぽい」とかいう意味になるらしいのですが、それではこのケースには当てはまりません。

以下の諸説は我々の推測、および、原作を読んでいるアメリカ人に伺った解釈です。

1)アイルランド人=頑固者、石頭、馬鹿正直で細かいことを気にする。もっともらしい事を言うが、実は不合理である。
ジャックの率直な問いに対して、スティーブンはすぐに答えず、自分の立場の定義など、まず細かい段取りを気にする、やっと答え始めてもまわりくどい言い方をするなど自分のやり方にこだわる…と言った側面をさして「アイルランド的」と言うのではないか?

ジャックはスティーブンとは長い付き合いであり、多くの運命を共にしてきて、相手の生い立ちなど全く気にせず付き合ってきました。二人の間には壁などなく、同じ位置に立つ仲間である…と、ジャックは無意識に思っていたのに、突然スティーブンが他人行儀な言い方をしたので、「君はアイルランド人に戻ってしまったのか?」というようなニュアンスでこの言葉を口にしたのでは?

2)当時のアイルランドの歴史的背景
1800年まで、アイルランドはイギリスの植民地であり、アイルランド人はイギリス人の支配下にあった。仲間のことを支配者である上官に告げ口するという構図が、イギリス人とアイルランド人の関係に重なるのではないか。またアイルランド人自身がイギリス人に支配されるということをひどく嫌っていたことから、スティーブンの反発を、ジャックがアイルランド的と受け取ったのではないか?

2)は原作を読んでいるアメリカ人の推測です。彼によれば原作の他の巻で、水兵間の告発行為が問題となったことがあり、そこではアイルランド人のことが問題になっていたような記憶がある…ということなのですが。

これが原作にあるとすれば、オブライアンはどのような意味で「アイルランド人」という言葉を使ったのでしょう? また脚本段階で加えられたとしたら、脚本家のコーリー(スコットランド人)はどのような意味でこの言葉を加えたのでしょう?
現代人が持つアイルランド人のイメージが、必ずしも1805年のイングランド人であるジャック・オーブリーのイメージと重なるわけではなく──同じ英語ネイティブとは言え、現代アメリカ人の受け取るイメージには、1850年以降に新大陸に移住したアイルランド系アメリカ人のイメージもあるでしょう。

そもそも当時のアイルランド人の定義も難しいですね。1805年当時のアイルランドは、英国系国教会プロテスタント、英国系非国教会プロテスタント(ユグノー派、長老派)、英国系カトリック、ゲール系カトリックの四派に分かれており、国教会プロテスタント以外は、英国系であっても1793年までは一切の公職につけず、その後も1829年までは議員、裁判官、高級官僚、陸海軍の将官になることはできませんでした。
ここでアイルランド人と言った場合、非国教会およびカトリックは全て入るとして、英国系国教会派はどうなるのでしょう? 
現代のスポーツの世界では、イギリスに属する北アイルランドも、アイルランド扱いになることがあり、…はやり外国人には理解しきれない問題かもしれません。


ところで、今回ご紹介したこの会話の詳細は、もう一つ重要な問題を明らかにしています。
字幕では「私は既に命令を逸脱している」としか訳出することが出来なかった、ジャックの責任問題です。

映画の冒頭で明らかにされる海軍省からの命令は「アケロン号の太平洋進出を阻止せよ」でしたが、ジャックはここで、「追撃はブラジル沖までという命令だったが、私はとうにその範囲を逸脱している」とスティーブンに告白しています。
サプライズ号はブラジル沖どころかアルゼンチン沖をも通りすぎ、ホーン岬をまわって太平洋に入りかけているのです。つまりジャックは、ブラジル沖での修理とアケロン号追撃続行決めた時点で、海軍省命令を逸脱し、艦長の決断で命令の拡大解釈してしまったことになります。
ガラパゴスまで追撃してアケロン号を拿捕せよ…とまでは、命令されていないのです。(この部分は原作10巻とは異なります)

アケロン号を追い回すのは、敗北に慣れていないから、プライドが傷ついたから、艦長判断には私情が入っているのではないか?というスティーブンの洞察は、ずばり核心をついていたわけです。

海軍省からの封緘命令書は艦長宛であり、その内容を知るのは原則、艦長のみです。
副長や航海長は通常、命令内容を知らされていません。
ゆえに全ての判断責任、乗組員190余名の命は、艦長一人の決断にかかっていました。

このあたりの事情がはっきりわかると、その後のジャックの決断が少し理解しやすくなるかと。
ガラパゴスで「戦争が終わってしまう前に故郷に帰ろう」とスティーブンに告げるジャックを、不思議に思われるかもしれませんが、あの時ジャックは自分のこだわりを素直に捨て、本来の命令の範囲にたちかえろうとしたのでしょう。

スティーブンは艦長の秘密(命令逸脱)を守り、他の士官たちには漏らさなかったようなので、アケロン号の追撃を諦めガラパゴス再上陸を決めた時、副長以下は当惑していたようですが、映画を見た観客も同様に、ガラパゴス行きと帰国決断の理由を、単に艦長の気が弱くなった(またはスティーブンには甘い)だけ、と考えかねないのではないでしょうか。

命令を逸脱してガラパゴスまで行ったにもかかわらずアケロン号を阻止できませんでした…では当然、本国に帰ってから艦長の責任問題になりますし、叱責だけですむとは思われません。
その事の重大性を、艦内ではただ一人わかっていたからこそ、スティーブンはジャックのために、ガラパゴスの宝を投げ捨てた、とも言えるでしょう。


2004年04月17日(土)