無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2005年08月14日(日) 日田屋形船と鵜飼い見物/『仮面ライダー響鬼』二十七之巻 「伝える絆」

 今日は西鉄旅行のバスハイクで、親子三人、大分日田温泉への一日旅行。

 朝になって、ふと、自宅のクーラーを消し忘れてるんじゃないかということに気が付いた。
 しげに、「クーラー、消してないかな?」と聞いたら、軽く「かもね」と答えた。
かもね、じゃねーだろ、と慌てて飛び起きる。 
 うちのクーラーも、かなりガタが来ていて、すぐに埃が詰まって水が逆流してしまう。先日は水浸しになったキーボードがイカレてしまって、買い直さなきゃならない事態になってしまったのだ。もしかしたら、もうクーラーの真下は水浸しになってるかも、と不安になって、自宅にとって返す。
 部屋に入ってみると、クーラーも電気もテレビも全部点けっぱなしである。後から出たのはしげだったので、全部しげの消し忘れなのだが、しげは「どんなに慌てて出たかが分かるね」と言ってノンシャランとしている。私が同じ失敗をすればジト目で睨めつけるくせに、他人に厳しく自分に優しいジャイアン気質は、しげのホネの髄にまで染み付いているのである。

 朝食を三人でまた「ジョイフル」で取る。
 日曜、朝の恒例、『仮面ライダー響鬼』を居間で見るが、父はさすがにこれには付き合わない。別の部屋で朝のニュース番組を一人で見ていたが、同居することになればこういうちょっとしたことですれ違いが生まれてしまうことだろう。年を取れば取るほど、頑固さだけは弥増していくだろうに、我慢できるのかなあ。

 『響鬼』は二十七之巻 「伝える絆」。
 前回より新登場の努(渋谷謙人)が、「親の反対で鬼になることをあきらめた」元鬼候補であったことが判明。名字はなんて言うんだろうか、ツトム君。ツクモとかツジサワとかツワブキとかかなとか、どうも本筋以外のことを気にしてしまうのはもうかなり病膏肓である。今のところ全話録画してるんだが、特典映像次第で改めてDVDを買うべきかどうか思案中だ。
 「鬼にならなくても明日夢は弟子」。このヒビキの台詞は効いたなあ。申し訳ない、私はまだまだ『響鬼』を甘く見ていた。全体的にトボケてるし、ベタなギャグも多いし、面白いけれど逆に言えば「軽くてお気楽」なお話で、石森章太郎のマンガが本質的に持っている暗さ、そういうものとはもう決別した『仮面ライダー』をスタッフは作るつもりなんだろうと勝手に思っていたのだが、違った。
 ストーリーは遅々として進まないが(笑)、それはじっくりと「受け継がれる魂」を描こうとする物語だったからなのだね。『五重塔』だよ、職人映画だよ、これ。そういうのを深刻に説教臭く語らせるんじゃなくて、何気ない会話の中で、さらりと言わせるところが上手いわ。
 ラストの花火のシーンもいいねえ。お子さんと一緒に見ているお父さんお母さんは、お子さんから「『たまや』って何?」と聞かれたら、ちゃんと答えてあげよう(笑)。でも、勢治郎が2週連続で出演してないのがちょっと気にかかるな。下條さん、夏休み?
 あと、先週から始まった劇場版の予告パロディ編が本編以上に(と言っちゃ悪いけど)面白い。ザンキは映画では「トウキ」って役で登場するのだね。それをアスムが「ザンキさんでしょザンキさんでしょ」と突っ込むので、ザンキがついボケてしまう。あの渋くて渋くて渋いザンキにボケキャラを演じさせるってんだから、これはもう大笑い。完全にスタッフのアイデア勝ちだね。アスム君が全然イヤミじゃないのもいいんだよなあ。
 それから、これはお知らせですが、8月24日(水)の『愛のエプロン』に細川茂樹さんが出演するそうです。さすがのヒビキもインリンの超激マズ腐れ料理に果たして耐えられるかどうかミモノなので、ファンはぜひとも見ましょうね(後からこの日記読む人には意味のない告知でした)。


 『響鬼』を見終わって、いざ出かけようとしたら、父は自分の部屋で居眠りしていた。私たちがうっかり寝過ごさないようにと、前日から泊めていたくせに、自分が寝過ごしてちゃ世話はない。疲れてる上に酒が効いていたのかもしれないが、放置はできないので無理やり揺り起こす。
 「石原慎太郎がテレビに出とったけん、見ようとしたら、寝てしもうた」
 「で、石原慎太郎は何喋りよったん?」
 「寝とったけん分からん」
 即寝かい。「いつでもどこでも三秒で眠れる」のは我が家の血筋のようだ。

 バスを乗り継いで、天神の日銀前に9時半に到着。
 参加者は総勢29名とか。殆どが爺ちゃん婆ちゃんであるが、親子連れも何組か。中年の女性同士もいるが、若い男女のカップルというのは見当たらない。
 安い旅行をするにはバスハイクは結構穴だと思うんだけれど、やっぱりジジババ向きってイメージが邪魔してるのかもね。
 帰省ラッシュで、時間通りに到着できないかも、という添乗員さんのアナウンスであったが、途中の高速道路は案外スムーズに行けた。
 むしろ、最初の訪問地である「龍門の滝」に着いてからの方が、観光客が大挙して押し寄せていてバスを停める場所が全くなく、立ち往生してしまった。
 仕方なく運転手さんが橋の真ん中でバスをいったん停めて、乗客を降ろし始めたのだが、後ろに付いていた車がこれに腹を立てた。「ワレ、何しとんじゃ! ちゃんと誘導せんかい!」とサングラスをかけたあんちゃんが車を降りてきて、運転手さんに向かって怒鳴ってきた。
 私たちは、バスから降りてきてちょうどその場面に出くわしたのだが、父がいきなり「ちゃんと誘導しよるよ!」と口を差し挟んだので、一瞬、血の気が引いた。火に油を注ぐつもりかこのオヤジ、と思ったら、そう言い放った途端、そそくさとその場を離れてあっちに行ってしまったのである。って、おい。
 後に残されたバスの運転手さんとサングラスのあんちゃんは、顔と顔を五センチくらい近づけて睨みあっている。乱暴でも働くようなら止めなきゃと、私も含めて何人か乗客が様子を見ていたので、ややあってあんちゃんは舌打ちして自分の車に戻って行ったが、全く冷や汗がドッと流れたことであった。
 なんつーかね、オヤジもね、ボケかけてるとは言ってもね、こーゆートラブルの種撒いて自分ひとりだけとっとと逃げるようなマネはね、さすがにやめてほしいんだけどね。マンガだよこれじゃ。

 昼食は「龍門茶家」といういかにも鄙びたよろずや風の店の座敷で、鮎の煮付けに名物だという鴨そば。「鴨」と言いながら入っている肉はあまり鴨っぽくなく鰯っぽかったが、汁は肉の味がしたからやっぱり鴨だったのかも。ニンジンが程よく柔らかく味が滲みていて美味い。こういう田舎そばはも一つ、こんにゃくが入っていたら極上なんだが、そこが物足りなかった。
 「龍門の滝」は、日田から耶馬渓に至るまでの間に無数にある滝の一つで、ただ眺めるだけではなく、流れ落ちる途中が緩やかな棚になっていて、ウォータースライダーのように上から滑り降りることができるのが特徴である。言ってみるともう、ざっと見ても二、三百人くらいの観光客、キャンプを張った連中が滝の周囲に群がっていて、人を掻き分けていかないと川にも近づけないくらいの混雑ぶりだった。何とか水辺まで近づいて見たが、滝の近くの川の水は、普段は恐らく底まで透き通っているのだろうが、今はもう泳いでいる人たちのせいで泥まみれになっている。それでも子供たちはみんな気にせずに上からボードに乗って滑り降りてくるのだから、たとえ狭苦しくても楽しいことは楽しいのだろう。
 この近辺は、こないだ『妖怪大戦争』にも登場した「川姫」の伝説が残っているあたりのはずなのだが、これでは獲物にも事欠かないが、引きずり込む場所もありはしないという感じである。
 父が突然、「ああ!」と叫んだので、何事かと思ったら、「ここ、前にバスハイクできたことある!」。以前、秋口にやはりこのバスハイクに申し込んで、一人で来ていたというのだ。
 「あのときは紅葉の時期も過ぎとって、全然人がおらんかったとに、夏場はやっぱり人が来るとばいな」
 と、感心しているのだが、一度来ているのならそう何度も繰り返し来ることはなかったのである。やはりボケが来ているのだが、まだ「一度来たことがある」のを思い出せただけまだマシと言うべきか。
 しげは少し下流の、人がやや少ないところで靴下を脱いで水の中に入り、一人きゃあきゃあと楽しんでいる。犬を連れて川の中に入ってくる人もいて、かなり大きな犬だったのでしげは怖がって逃げた。すると今度はそっちにも犬連れの人がいて、しげはまた逃げる。周囲の人はしげの存在など気にも止めていないが、遠巻きに見ている私には犬に追われて右往左往している様子が可笑しくて、まあしげが楽しめたんだったら来てよかったかなと気を取り直す。
 けど、やたらバーベキューの匂いは臭いわ、あちこちに無造作にゴミは捨てられてるわ、決して気分はよくなかった。バスハイクも少しは状況を考えてコースを決めてほしいものである。

 次に回ったのはまた滝のあるところで「岳切(たっきり)渓谷」。
 今度はバスも入り口の駐車場に停めることができたが、添乗員さんは「時間が50分しかありません。滝までは遠いので見に行っても途中で引き返してもらわなければならないと思います」と言う。だったらそんなところをコースに選ぶなよ(涙)。
 ここも父は「前に来た。先に行っても滝しかなかぜ」と言うので、下流でまたしげがぱちゃぱちゃやって終わり。父は「あのときは紅葉の時期も過ぎとって(以下略)」。まあしげが楽しめたんなら(以下略)。私は蜘蛛の巣だらけのトイレでウ○コした。幸い腹の調子は戻っていて、下痢ではなかった。

 続いて、サッポロビール工場を見学。
 ガイドさんの案内で、ビールの製造過程を説明してもらうが、壁に描かれたイラストが明らかに浦沢直樹の模写だった。酵母の研究をしてる人がマスター・キートンなのである。どこかの業者に依頼して描かせたんだろうけれど、こういうのは問題にはならないのかね。
 ビールの試飲の時間になって、休憩所で一息つき、ようやくここで気分が落ち着いた。時間までビールを何倍飲んでもいいということなので、父はテーブルとカウンターを何度も往復する。私もせっかくだからコップに半分ほど味見をしてみたが、やはり少しも美味くない。私の舌はビールには向いていないのである。あとはお茶とジュースで渇きを満たした。
 土産コーナーで、しげにリボンシトロンのTシャツを買ってやる。恵比寿ビールのTシャツも売っていたが、これはしげの気に入らなかった。結局、今回の土産はこれだけである。

 最終目的地の日田温泉に着いたのは五時半ごろ。滞在は入浴、夕食、鵜飼い見物を含めて約三時間。
 三隈川(筑後川)沿いのホテルで、名前もそのまんま「みくまホテル」である。控え室は三階のホールで、そこで日程の説明を聞く。
 夕食は屋形船の上で鵜飼いを見物しながらということだが、そのとき灯篭を流すこともできるので、希望者は先に申し出るようにとのこと。
 父が「お母さんの分、流そうか」と言うので、「いいけど、二つ買うの?」と答えた。
 「なんで二つも要るとや」
 「……ばあちゃんは?」
 「そうか、ばあちゃんもおったな」
 そりゃいるがな。もう完全に祖母の存在が念頭になかったのである。実は昨日、迎え火をしたときも父は祖母のことを忘れていた。本当にどんどん危なっかしくなっているんだが大丈夫かなあ。大丈夫じゃないよなあ。
 荷物をいったん一階のカウンターに預けて、十階の露天風呂へ向かうが、父は着替えも全部預けてしまったので、風呂から上がって「しもうたなあ、着替え持って来とっても何もならんが」とぼやくぼやく。もう私は慣れたよ。
 総ひのきの露天風呂は六人入れば押し競饅頭になってしまうくらい狭かったが、十一階建てのホテルは周囲でも一番高く、南に耶馬渓を望む眺めはなかなかである。このくらい高いと、夏場でも風は涼しい。男湯はベランダだが、しげは一つ上の屋上でのんびり風呂に入っているはずで、もっと周囲が見渡せていることだろう。

 いったん三階の控え室に降りてしげと合流。
 しげも「リボンちゃんのTシャツ、着替えにすればよかった。服が臭い臭い」と父と似たようなことを言う。
 「からだは洗わなかったのかよ?」
 「うん。浸かっただけ」
 何のために温泉に来たんだか分かりゃしない。
 父は控え室の窓からビデオカメラで三隈川の景色をずっと撮っていて、乗客みんなが出て行くのにも全く気が付かない。「そろそろ時間だよ」とせっついて、一階のロビーに集合する。
 ホテルは直接、川岸に面しているので、屋形船には玄関からではなくてロビーの窓から降りて乗りこむ形。見ると、あっちのホテル、こっちのホテルにもずらりと屋形船が並んでいる。鵜飼い見物はこのあたり一帯のホテルが共同で企画しているもののようだ。
 舟に乗りこんで初めて「鵜飼いの舟が来るのは八時前」と聞かされる。って、まだ六時半じゃないの。いくらなんでも待ちが長すぎるんじゃないのか。
 けれどそれは杞憂であった。前に並べられた御膳の夕食が、ちょっと半端じゃないくらいに大量にあったのだ。食前酒に鮎の姿焼き、刺身にから揚げにステーキに煮付けに団子、海老に海老に海老に海老、鍋にまたしてもそば、グレープフルーツ、最初はやはり刺身のシャキシャキした食感に舌鼓を打っていたのだが、食っても食っても食いきれない。次第に食が進まなくなって、ちょうど食べ終わったころに周囲は真っ暗になり、鵜飼いの舟が次々とやってきた。
 屋形船は、川の中ほどで合体して繋がって停まっている。そこへ、下流の方から先頭に篝火を炊いた舟が一艘、また一艘と、川面を滑るようにかなり速いスピードで近づいてくる。火は見えるが、鵜が乗っているかどうかは分からない。けれど、何週か屋形船の周囲を回った後で、一艘の舟がちょうど私としげが座っている場所の真後ろにぴったりと縁をくっつけてきた。
 「があがあ」と声が聞こえる。ここまで間近なら、私にも篝火の下に群れをなして羽を広げている鵜たちの姿がよく見える。一羽一羽が意外に大きく、ちょっと羽ばたけばこちらにまで飛んで来そうだ。しげは怖がって背中を向けたままだが、それではかえって怖くなるばかりだろう、「前を向けよ」と向かせる。でも前を向いても怖がっている様子がありありだ。
 鵜飼い舟は五分ほどで縁から離れて行った。鵜飼いの実演はなく、鵜を見せに回ってきただけのようだ。多少、看板に偽りありだが、季節の関係でいつもいつも鵜飼いを見せられるものではないらしい。まあ、鵜の実物は見られたので、一応満足ではある。

 その後、母と祖母の灯篭を流す。
 母の灯篭がしばらく流れずに屋形船にくっついていたのを、船頭さんが熊手で川の流れのあるところまで押しやった。
 その様子をビデオカメラで撮りながら、父は「お母さん、なかなか帰らんなあ」と呟いた。
 「これでお盆も終わりたい」と言うので、「明日はどうするの?」と聞いたら、「明日って何や?」とキョトンとした様子。
 「灯篭流したら、明日はもう送り火はせんの?」
 「あ! 送り火があったったい!」
 もう何でもかんでも忘れるのである。そりゃ母も流れて行きにくかろう。

 帰りのバスでは。父も私もぐっすり眠ってしまったが、しげは眠られなかったそうだ。さてまた何を興奮していたものか。

2004年08月14日(土) 月に一度はお芝居に。
2003年08月14日(木) やっぱり長く書けません。/映画『SF巨大生物の島』/DVD『天才マックスの世界』
2002年08月14日(水) 魔性の女/DVD『プカドン交響楽』/『藤子不二雄論』(米沢嘉博)ほか
2001年08月14日(火) 代打日記
2000年08月14日(月) せっかくいい気分だったのに……/映画『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』ほか


2005年08月13日(土) 石井輝男監督、死去/『月館の殺人』上巻(綾辻行人・佐々木倫子)

 映画監督の石井輝男氏が、昨12日、肺がんのため死去。享年81。
 つい先月、『盲獣VS一寸法師』に主演されたリリー・フランキーさんのサイン会で、石井さんの話を伺ったばかりだった。私が「誰が何と言おうと、あれは乱歩の世界を忠実に描いた傑作だと思います」と言ったら、リリーさんは「石井監督も喜ぶと思います。あとで伝えておきます」と仰っておられたが、多分、お伝えする余裕はなかったろう。そのことを残念に思ってはいない。批判の多い映画、キネ旬ベストテンではただの一票も入らなかったが、あの映画の面白さに熱狂したファンは、きっと石井監督の傍にはたくさんいたと信じるからである。
 同じく死の直前まで乱歩に固執した映画監督に深作欣二がいるが、彼の『黒蜥蜴』を見る限り、乱歩への認識は浅薄なものだったと断定せざるを得ない。彼が映画化を模索していた『怪人二十面相』も、完成していたとしても十中八九、駄作になっていただろう。
 石井監督は『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』と『盲獣VS一寸法師』という二本の乱歩映画を残した。他の乱歩映画の大半が乱歩作品を映画のための素材としてしか扱っていないのに対し、石井作品のみが乱歩の幻魔境を深く理解し、映像化することに成功していた。乱歩の世界はとても寂しい。太宰治のような他人に媚び甘えるための「手段としての孤独」ではなく、人間が人間として生まれてきたからには逃れることのできない根源的な孤独である。乱歩小説の犯罪者たちが、犯罪という反社会的な行為を通してしか世界との接点を持つことができないのは、それが人間を二重三重に囲繞する様々な社会文化的虚飾を排したときに浮かび上がってくる最も根源的かつ究極の「孤独の解消法」だからである。
 『奇形人間』の土方巽も、『一寸法師』のリトル・フランキーも、とても寂しそうだった。二人とも既に故人である。
 映画としての破綻は問題にならない。あの破綻は、狂気と混乱と猥雑によって成立している乱歩世界を活写したことによる必然的な破綻だからである。カルト映画作家として、B級映画の雄として(このどちらの評価も私は好きになれないが)『スーパージャイアンツ』シリーズの、『網走番外地』シリーズの、『忘八武士道』ほか異常性愛路線の、『ゲンセンカン主人』『ねじ式』二作のつげ義春の理解者としての石井監督を誉めたたえる人は多い。しかし、『奇形人間』や『一寸法師』をギャグではなく乱歩の忠実な映像化作品として評価する人は少ない。乱歩がこれほど人口に膾炙していながら、真の理解者が少なく、逆に世間から拒絶すらされている現状は悲しむべきことであるが、唯一喜ぶべきことは、石井作品だけが映像化という手段でもって乱歩世界を掬い取っていたことだ。他の傑作群についてはあえて触れない。そのことだけを指摘しておきたいと思う。
 先日、チャンネルNECOで清水宏監督の『慕情』が放映されていたが、これが石井監督の助監督デビュー作だった。


 夕方、父のマンションで母の迎え火。
 五時ごろに店まで父を迎えに行く約束だったのだが、時計が四時を回ってすぐ、父から電話がある。「お前、なんでまだ家におるとや?」
 「ああ、今から出ようかなと思ってたとこだけど」
 「もう俺の方は準備ができたばい」
 「ああ、じゃあ、すぐに行くよ」
 まだ、約束の時間には早いじゃないかと文句は言わない。どうせ、約束の時間なんて忘れてるか思い違いをしているかのどっちかだ。寝こいていたしげを叩き起こして、慌てて飛び出す。
 ウチから店までは車で15分ほどなので、四時半より前に到着した。着く間もなく、椅子に座らされて散髪。
 以前は父が散髪して、洗髪と顔剃りは姉がという仕事分けだったのが、今は父が仕上げまで全部して、姉には触らせようとしない。父と姉の溝はまた少しずつ広がっているように思う。姉は店の片付けを父に任せて足早に帰って行った。
 父は「オレの頭も姉ちゃんはいっちょんしてくれんくなった」とボヤくが、多分、姉に言わせれば「お父さんの方が勝手に別の床屋に行くようになったとよ」と反発することだろう。博多弁で言えば「やおいかん」(どうにもならない)状態で、気休めでもうちょっと仲良くなんて言える感じではない。
 父はこないだから「新しく通帳を作れ」と言っている。微々たるものではあるが、残せる財産は姉にではなく私の名義の通帳に移したいというのである。それはそれで構わないのだが、本来は姉に譲るつもりだった店とか、勝手に売っぱらってその通帳にカネを入れたりしないかと、それが心配だ。私は別に姉とケンカするつもりなんかないのだが、勝手にそんなことをやられた日には、あとで関係がギクシャクするのは目に見えている。そうならないように目を光らせてなきゃならないわけだが、全く爺さんというのは余計な作業ばかり増やしてくれることである。

 店を片付ける父を待つ間、待合で「少年ジャンプ」のバックナンバーなどを浚い読みする。
 『ユート』の最終回などを見るが、全くの尻切れトンボで、ほったゆみさんの無念が偲ばれる。9月、11月に2、3巻が出で、そのときに描き下ろしで完結編が掲載されるようだが、それだけでもとても完結には至るまい。話はいいのに、マンガ家さんの絵にイマイチ花がないのがネックになったと思う。けれど、読者のレベルが“また”低くなっていて、やっぱり「キャラ人気」だけがアンケート評価の判断基準になってんだろうなあ、ジャンプは、と思うと、「サンデー」にでも移った方がほったさんにとっては活躍の場が広がるんじゃないかと、そんなふうにも思う。
 『デスノート』はどんどんセリフが上滑りになって行ってつまらなくなってるけど、まだ人気はあるのかな。ライトのとうちゃん、死んじゃったけど、こういうキャラは最後まで生かしといて、ライトの正体を知ってどう行動するかを描いた方がドラマチックになるはずなのである。作者が物語を展開させるのに倦みつつあるのではないかと、ちょっとばかし心配だ。

 五時を回ったころに、父のマンションまで移動。
 途中、本屋に寄って、マンガなどを物色。車を降りるときにやっぱり父はドアが開けられずにモタモタしてしまうので、しげが予めロックを外すようにした。細かいことをすぐ忘れるようになっているので、会わない時間をできるだけ少なくした方がいいような感じである。とは言え、平日とか覗きに行くのはちょっと難しいし、やはり散髪にかこつけて会いに行く方がいいかもしれない。
 マンションの来客用の駐車場、空いているかどうかが心配だったが、まだ時間が早かったので、余裕で駐車できた。
 迎え火は、父が焚き付けの新聞紙をうっかり全部ゴミ出ししてしまっていたので、仕方なくTVガイドを破って火を付ける。ところがマッチの火が付いてもこれがなかなか燃え広がらない。特殊なインクでも使ってるのか、燃えにくくなっているようで、ちょっと手間がかかってしまった。
 「お母さん、なかなか帰って来よらんなあ」
 父が寂しげに呟いたが、もしそうなら理由は何なんだろうね。
 父からはついでに「万葉の湯」にでも行かないかと誘われていたのだが、昨日から下痢がひどく、湯船でつい脱糞でもしたらエライことになってしまうので、それは遠慮することにする。あそこの食堂では今話題の「こどもびいる」を出しているので、行きたいことは行きたかったのであるが。
 代わりにマンションのはす向かいの「ジョイフル」で安い食事。一緒に外食するとなると、父はすぐに奢ろうとするので、こちらの方が父の財布を痛めずにすむ。「たまには高いものでいいやないか」と父は言うが、盆の時期はその「たま」が「しょっちゅう」になるので、これも父の言をそのまま鵜呑みにはできないところである。
 マンションに戻ったところで駐車場を覗いてみると、もう満杯になっていた。もし駐車できなかったら、今日は泊まらずにいったん自宅に帰ろうと考えていたので、これは父のせっかちのおかげである。
 父はもう居間に布団を用意してくれていた。昔の父ならこれも、「自分で押入れから出して勝手に寝ろ」と言うところだろうが、息子夫婦に妙に気遣いをするようになっているのである。こういうことをされる方がかえって寂しいんだがなあ。

 テレビを見ながら、横になった途端に疲れがどっと出て、先に眠る。
 多分、8時になったかならないかくらいのころで、寝が浅かったのか、2、3時間ほどで目が覚める。『エンタの神様』をやっていたが、波田陽区やレギュラーが既にあまり面白くなく、出演時間もかなり削られている。売れたのがそもそも間違いみたいな芸とも言えない芸ばかりだから、もちっとネタを磨くなり新しい切り口を考えるなりしないと、「世間の予測どおりに」早晩消えちゃうぞ。


 マンガ、綾辻行人原作・佐々木倫子漫画『月館の殺人』上巻(小学館)。
 話題のコラボレーション作品が、既連載分が一冊に達した時点ですぐの単行本化。待ち望まれてたのがよく分かる。
 連載第一回の「IKKI」の表紙を見たときには、その意外な組み合わせにちょっと驚いたものだったが、考えてみれば佐々木さんは、『動物の御医者さん』以前には『ペパミント・スパイ』や『忘却』シリーズの中で、何作もミステリーマンガを描いていたのである。『動物の御医者さん』の中でも、漆原教授が持っていた写真の女は誰かとか、日常の中で起きた「謎」を追う話がいくつかあった。
 のほほんとした作風で、真相も「な〜んだ」という落とし話に近い形の解決が図られることが多かったので、血なまぐさく理屈っぽい印象のミステリとはどうにもイメージが結びつかなかったのだが、紛れもなく佐々木さんはデビューのころから「ミステリマンガ家」であったのである。今回はまさに「原点」に戻った作品と言えるだろう。

 雁ヶ谷空海(かりがや・そらみ)は沖縄に住む17歳の女子高生。
 しかし彼女はこれまで沖縄から一歩も外に出たことがない。修学旅行に行ったこともない。彼女の母が異常なほどの「電車嫌い」で、電車に乗ることを許さなかったからである。
 そんな母が亡くなって2ヶ月、天涯孤独の身となった彼女のもとに、母方の祖父の代理人として、弁護士がやってくる。祖父は「高名な人物」で、財産相続の話をするためにも祖父は空海に会いたがっているというのだ。
 まだ見ぬ祖父に会うために、空海は北海道の地に立った。そして、「月館」行きの夜行列車「幻夜」に乗り込む。それは輸入されたあの「オリエント急行」だった。祖父への思いに心を弾ませる空海。
 しかし、一緒に乗り合わせた乗客たちは「コレクション・テツ」「撮りテツ」「乗りテツ」「時刻表テツ」「模型テツ」「鉄道考古学テツ」……みんな揃って「鉄道オタク」であった!
 そして雪に閉ざされた列車の中で新たな「オリエント急行殺人事件」の幕が上がる……。
 
 冗談みたいな設定が、既にミステリーであるが、まあ、この空海の祖父というのが相当な「鉄ちゃん」であることはまず間違いのないことだろう。空海の母が極端な鉄道嫌いになったのも、「パイロット」である空海の父と駆け落ちしたのも、娘に「空」「海」と、「陸」を外した名前を付けたのも、みんな父親への反発だと思われる。
 けれど見当が付くのはそれくらいで、肝心の「密室殺人事件」、犯人もトリックも全然分からない。いや、素直に考えれば事件の裏には祖父が仕掛け人としているんだろうとか、殺人事件に見せかけてるけど実は死んでないんじゃないかとか、いろいろ考えることはできるのだけれど、どうにも推理をする気になれないのね。あの「佐々木さんののほほんとした雰囲気」のせいで。
 つまり、殺人を描いているにもかかわらず(血まみれの死体すら出てくるというのに)、全然、血なまぐさくないし緊迫感もないのだ。登場人物もみな「佐々木ワールド」の住人で、全く犯罪者には見えない。
 殺人が起こったというのに、乗客のテツどもは自分のシュミのことにしか興味がない。小説ならこれはなかなか非人情の世界で殺伐とした空気が漂うものなのだが、これが佐々木さんの筆にかかると実に場面が和んでしまう。だいたい主人公の空海自身が、「密室」と聞いて、「ひも」を使ったトリックを想像して、そのひもにはなぜかマクラが「意味もなく」結び付けられたりしているのである。これ、『本陣殺人事件』のパロディなんだろうなあ。
 即ち、このマンガの最大のトリックは(って、まだ上巻の段階で決め付けるのも早計かもしれないが)、「佐々木さんの絵では誰も犯人に見えない」「佐々木さんの絵でミステリーを描かれても笑ってしまって犯人探しをする気になれない」というメタトリックであるのだ。これは坂口安吾の『不連続殺人事件』を江戸川乱歩が「安吾氏の文体では全ての人物が犯人にしか見えない」と評したのと正反対の効果を生んでいる。だからこそこのミステリは「マンガ」として描かれなければならなかったのではないか。
 いや、もう私はこのマンガに関してはトリックの解明とか、そういうのは放棄してひたすら佐々木さんのほほんギャグの世界に浸りたいと思う。
 「いきなりぎっくり腰」のお母さんも、「あえてセルシオに乗る」弁護士さんも、「選ばれたのだから」の乗客たちも、「ホームを表定速度60キロで走る」お婆さんも、もちろん「この中から結婚相手を選べってことなのね!」の思い込み空海ちゃんも大好きだ。読んでない人には何のことか分からないだろうが、これ全て本作のお間抜けギャグなのである。
 そして、この笑いの果てにはきっと、我々の予測を見事に凌駕した奇想な真実の解明が行われることをぜひ望みたい。

2004年08月13日(金) 博多人のワルクチ
2003年08月13日(水) でもちょっとだけ長く書きました。/『雨天順延 テレビ消灯時間5』(ナンシー関)
2002年08月13日(火) オタクの血/『アンダンテ』2・3巻(小花美穂)/『魔王ダンテ 神略編』1巻(永井豪)
2001年08月13日(月) 代打日記
2000年08月13日(日) 盆がはよ来りゃはよ戻る/『明治快女伝』(森まゆみ)


2005年08月12日(金) これだから腐女子はなあ/DVD『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』ほか

 ふと気が付いたら、この日記をかなり長いこと「お気に入り」に登録してくださっていたある方が、いつの間にか登録を取り消しておりました。
 まあ、そういうこともよくあるのですが(笑)、その方の日記を拝見すると、自分で自分を「腐女子」と言い切って恥じない人でしたので、多分、最近の私の日記の「腐女子はしょうがない」といった一連の記述にハラを立てたのが理由でしょう。『鋼の錬金術師』とか、かなりお好きなようでしたし、『妖怪大戦争』についてもトンチンカンな批判ばかりしてましたし。
 この日記をずっとお読みになっていらっしゃる方なら先刻ご承知のことでしょうが、私の腐女子さんたちに対するスタンスは殆ど容赦がないものです。しばしば「キャラ萌えだけで作品を見るな、普通のファンからはメイワクだ」なんて、存在を全否定していると取られても仕方がないようなモノイイをしてしまうので、逆にその腐女子の方が随分長いこと私の日記に付き合ってきていたということのほうがフシギではあったのです。
 実は以前にも私の日記の内容について、その方は文句を付けてきたことがあって、そのときもその文句がいかに的外れであるかを指摘し反論して黙らせたことがあるのですが、そのときはどうやらしぶしぶではあっても納得はしたようでした。けれども内心ではかなりくすぶっていたものがあったのでしょう。今度は黙って登録削除という態度に出たのだと思います。
 もちろん削除されたことを怒ってもいませんし、非難しようとも思いませんが、結局は「腐女子ってキャラ萌えだけでしか作品を見ないイタいやつ」って批判に耐え切れなかったんだなあと、そのことは残念に思います。過激な表現をあえてしていますから誤解されても仕方がないのですが、私は実は「キャラ萌え」自体は全然否定してはいません。よく読めばそのことには気付いていただけるように書いているのですが、上っ面でしか文章を読んでいない人にはそれが分からないような仕掛けになっています。少しは読解力のある人じゃないかなと思っていたので、そうでもなかったと分かって、それがいささかガッカリだったということです。

 私が常日頃非難しているのは、実は「批判に耐えることのできないオタクや腐女子の精神的な脆弱さ」のほうだと言っていいでしょう。どんな作品でも、全ての人から完全に受け入れられることなんてありえません。完璧な作品などありえないからです。ですから、他人の批評が自分の意見と違っていて、激烈に批判されることがあったとしても、それに耐える精神力を持つことは「作品を鑑賞する者に等しく求められる最低限のスキル」であるわけですが、これが理解できない人があまりにも多いのです。
 私が作品を貶したときに「そんなに腹が立つなら最初から見なきゃいいじゃないか」と文句を付ける人がいますが、こういう人はもう作品を見たり読んだりする資格を初めから放棄しているも同然です。「実際に見なきゃ批判もできるわけがない」、こんな当然のリクツも理解できないくらい、アタマの回転がニブくなってしまっているのですから。好きな作品を貶された腹立ちのあまりの悔し紛れのセリフだとしても、こういうセリフをしょっちゅう吐いているようじゃ、その人の意見はもうマトモに相手にすべきものではなくなってしまいます。
 普通、そういう「常識」は日常会話の中で培われていくものなのですが、それが全然身に付いていないということは、その人が結局は周囲の意見にまるで耳を貸さない傲慢な人間だということを証明しているんですね。「だったらお前もそうじゃないか」と馬鹿はまた墓穴を掘った反論を返してきますが、残念ながら私は殆ど自説には拘っておりません。私は自分の意見は全て『仮説』に過ぎないと思っていますので、自分の意見の根拠を翻すような意見に出会えば、いつだって素直に「ああ、そうだったのか」と自分の意見を取り下げています。実際、そういうことも日記にはよく書いているのですが、私を「自説に拘泥する意地っ張り」に仕立てたい人はそういうところはきちんと読まないんですね。昔、某作家さんとあることについて意見のやり取りをしたときにも、全然こちらの文章を読まずに一方的に自説だけを押し付けてくるので、一度思い込んだら本当に人と言うのは自分を省みられなくなるものだなあと唖然としたことがありました。
 私がそこまでの頑固者ではないということは、例えば、以前、私は『Mr.インクレディブル』についてはかなり高い評価を下していたのですが、アメコミに詳しい箱男さんの今年の7月19日付の日記にこう書いてあるのを読んで、評価がちょっとトーンダウンしたことでも充分にご説明ができると思います。

> 『Mr.インクレディブル』がやっているのは完全に『マーヴルズ』(小学館プロダクション)、『アストロシティ』(ジャイブ)以降のスーパーヒーローコミックスのアニメ版。
> なにしろこの映画、カート・ビュシークが『アストロシティ:ライフ・イン・ザ・ビッグシティ』序文でいっている「もしスーパーヒーローがそんなに強力で実用的な少年の思春期に関するメタファーであるのなら、それを使ってあなたは何か違ったこともできるはずだろう。スーパーヒーローの物語を使って少女の思春期を語ってみては? あるいは壮年期の心理的危機を? あるいは親となった大人が迎える人間としての変化を?」という発言をほとんどそのままとりいれたストーリーなのだ。

 簡単に言えば「やたら持ち上げるほどオリジナルな話じゃない」ということで、もちろんそう思って『Mr.インクレディブル』見返しても、つまんなくなることはないのですが、これまで私はこの映画を大絶賛していたのですが、少なくとも「誰も見たことがないような大傑作」だなんて口にするのは止めようと思った、という次第です。矢玉四郎さんのトンチンカンな批評には疑義を呈しますが、こういう根拠のある指摘について自らの無知不明を省みる気持ちは当然あります。
 ですから、私に文句をつける方は、もちろんいくらして下さっても自由なのですが、自分がどれだけ根拠のある発言をしているか、批判する前に少しは熟慮していただければと思うわけです。私を頑固者だと思う前に、自分が感情的になっているだけじゃないのかとちっとは考えていただきたい。そうでないと、結局作品の価値を貶めることになるのは、オタクであり腐女子である「あなた」だということになるのですから。
 再度繰り返しますが、『鋼の錬金術師』は、原作派とアニメ派が不毛な争いをしなければ、もっと世間的な作品評価は高くなったと思います。プロの評論家ですら「口を挟むのもウンザリ」なんて状況を作り上げてしまったのは大多数の腐女子の皆さん一人一人の責任です。論争には論争をするだけの基本的な素養が必要なのですが、腐女子の皆さんにそれがあまりにも欠けていたことは紛れもない事実なのです。


 「ダコタはすごい」。
 『アイ・アム・サム』をご覧になった方はご首肯いただけるだろうが、知恵遅れな父親を演じたショーン・ペンを向こうに回してのダコタ・ファニングの知性的な演技はとても7歳だとは信じられないほどで、私もしげも、この映画から彼女にすっかり参ってしまっているのである。
 何がすごいって、それはもう、表情の作り方、さりげない仕草、セリフの発声、間の取り方、抑えた中にも滲み出る豊かな感情、その全てであって、『アイ・アム・サム』を私と一緒に見てくれたら、「ホラ、ここのこの演技が彼女の心の中での葛藤を表していてね」と、いちいち全部説明してあげたいくらいなのである。誰も希望はしないだろうが。
 ところが残念なことに、『サム』以降の出演作品には映画としては結構雑なものが多い。『マイ・ボディガード』も『ハイド・アンド・シーク/暗闇のかくれんぼ』も『宇宙戦争』も、いずれも脚本に難がある。それでもとりあえずダコっち(勝手にこう呼ばせていただく)が出演していれば、印象が3割は底上げされて見えるから、やはり彼女の実力は映画にとって極めて必要不可欠な要素となっているのである。
 だからまあ、誰が何と言おうと「ダコタの出演作に駄作ナシ」と言い切っちゃっても構わないのだが、それが具体的な「数値」として証明されたような調査がニュースになっている。
 アメリカのエンターテイメント・ウィークリー誌で、ダコっちがこの4年間で出演した12本の映画で打ち出した興行成績を計算したところ、なんと6億4700万ドルを記録していて、ジュリア・ロバーツ(5億8600万ドル)やニコール・キッドマン(4億9700万ドル)など、トップ女優たちの成績を上回っていたことをしょうかいしているのだ。ウィークリー誌が彼女につけた称号が、「ハリウッドで最もパワーを持つ女性」とか。
 興行収入だけで女優の価値が計れるわけでもないし、12本全ての映画がダコっちの主演作品というわけでもないのだから、この試算はどうかというご意見はあろうが、彼女が「このようなニュースの話題になった」ということが大切なのである。既に彼女が「天才子役」ではなく「女優」になったのだという何よりの証明なのだから。日本では神木隆之介君が「天才子役」なんて騒がれているけれども、こういうおべんちゃらでしかない称号は早く取り払われた方がいいのである。神木君ものぼせ上がらなきゃいいけどな。
 人気が出てくれば、いずれバッシングも起こりそうだけれども、それに耐えて「もっといい作品」に出演してくれればいいなあと思う。今んところダコっちの最新作はディズニー・バージョン『となりのトトロ』のサツキの吹替え(メイ役は妹のエル・ファニングだ!)。ジブリ、日本版も英語吹き替え付けて再リリースしてくれ。次回作は往年の名作アニメの実写&CGリメイク『シャーロットのおくりもの』。ダコっちは豚のウィルバーの飼い主の女の子・ファーンを演じる。蜘蛛のシャーロットの声を演じるのが興行収入第二位のジュリア・ロバーツだから、これはもう、大ヒットは間違いなしの予感である。もちろん、原作の絵本が文句なしの傑作なので、別にダコっち目当てでなくても見に行く人が多ければいいなあと願っているんだけどね。


 以前買った『ゴジラDVDボックス』、買ったまま見ないのもなんだというので、休みを利用して片っ端から見ることにする。
 あまり見返す機会のない昭和ゴジラ後半を中心に、コメンタリーを楽しみながら以下の四本。たくさん見たんで、もうコメントは簡単に書く。

 『地球攻撃命令ゴジラ対ガイガン』。
 オーディオ・コメンタリーの樋口眞嗣がもう「ガイガンファン」を公言して熱く語る語る(笑)。『ファイナルウォーズ』の特撮、やりたかったろうなあ。いちいち「このカットはあの映画からの流用」「この音楽はあの映画からの流用」と指摘するのはオタク以外の人が聞いたら鬱陶しいかもしれないが、これをやってしまうのがオタクである。樋口さんの指摘にいちいち「そうそう」と頷いている私がいる。そして、メーサーの光線の当たった先にガイガンではなくガイラがいるように見えるのも「錯覚錯覚」と自分にウソをつくのもオタクの性(さが)なのである。

 『ゴジラ対メガロ』。
 コメンタリーは主役の佐々木勝彦。解説で「親子二代に渡ってゴジラ映画に出演された」と言われてたけれども、おじいちゃんの佐々木孝丸から数えて、千秋実(娘婿だけど)、勝彦さんと来るから三代だよ。自分の出演シーンに関しては「ヘタだヘタだ」を連発して、共演の林ゆたかを誉めてばかりいるが、優しい人柄が滲み出てくるコメントで、映画の内容もほのぼのして見える。映画については「メガロのダム破壊のシーンにしかお金をかけていない」当時の映画界斜陽の状況が説明されていて寂しいものがあった。佐々木さんと岸田森との交友の話も必聴。

 『ゴジラ対メカゴジラ』。
 コメンタリーは特技監督の中野昭慶。佐藤勝の音楽は伊福部マーチに比べると評価が落ちるし、佐藤勝自身も自分はゴジラ映画には向いてないと口にすることがあったが、このメカゴジラのテーマはもう痺れるほどにかっこいい。中野さんがコメントしてた通り「アクション映画」としての音楽なのだね。ゴジラ生誕20周年記念映画ということで、お金がちょっと余計に使えて、沖縄ロケもできたわけだが、中野さんのコメントによるとまだアメリカから返還されて数年、米軍基地の数も多くて、ロケハンは外国に行くような雰囲気だったそうだ。今はもちっと変わってるかな。

 『メカゴジラの逆襲』。
 コメンタリーは撮影監督の富岡素敬。こうして見ると、毎回コメンタリーの人選も随分バラエティーに飛んでることが分かるね。
 説明されるまでもなく、本多猪四郎監督久々のゴジラ映画復帰作であり、同時に遺作でもあり、平田昭彦さん最後のゴジラ映画出演作でもあり、本作でいったんゴジラシリーズが終焉を迎えたという、ファンにとっては涙なくしては見られない作品でもある。私は当時、小学校六年生、親の「いい加減で怪獣映画から卒業しなさい」のひと声でこの最終作を劇場に見に行けなかったウラミは未だに深い。こんなことで親子の絆など簡単に切れるのだから、もともと絆とか血に拘っちゃいけないとつくづく思う。

 ほかにも『VSビオランテ』『VSキングギドラ』『VSモスラ』まで見たのだが、もう細かいコメントは避ける。出来の悪いシーンが目立ちすぎて総じて不評の方が多いシリーズだが、見所も決して少なくはない。再評価が必要なのではないかな。
 コメンタリーで大森一樹が田中友幸プロデューサーについて「大人向けにしろと言ったり子供にも分かるようにと言ったり」とその朝令暮改ぶりに文句を言ってたのが印象的だった。悪名高い『ビオランテ』の沢口靖子昇天シーンは田中プロデューサーのゴリ押しだそうだから、あまり大森監督を責めないでやってくださいね。


 週末なので映画に行こうかとしげを誘うが、特に行きたいものがないというので諦める。実は『星になった少年』がかなり気になっているのだが、こういう動物モノでしかも感動モノって、しげは全然興味を惹かれないのだね。いや、私も実話が元になっているとは言え、感動の押し付けをされるのは苦手なんで、話自体には興味はないのだが、ともかく象がいっぱい出るのがいいのである。間違っても主役の男の子に惹かれてではないことを誓っておく(笑)。
 なんたって私は幼稚園のころ、動物園の象の絵を描いて市民賞かなんかを受賞したくらいに根っからの象好きなのだ。亀の次に愛していると言ってもいい。どうしてそんなに象が好きなのかと言われれば理由は簡単で、「でかいから」である。昔、しげがふざけて「象さんパンツ」を買ってきたときも、口では「ヘンなもの買って来るな」とは言ったが、内心喜んでいた。そんな私が『星になった少年』を見ないではいられない気分になっていることをぜひともご理解いただきたいのだが、いかんせん、泣く子と女房には勝てないのである。 
 ああ、もうすぐ公開が終わってしまうと言うのに、私はランディに出会えるのだろうか。


 夜、沖縄から帰ってきた東京のグータロウ君に電話。無事帰宅できたようで重畳である。
 今日、『妖怪大戦争』を見てきたというので、感想を聞いてみたのだが、家族揃って好評のようでよかったよかった。
 「『川姫』っていうのは福岡の妖怪って紹介されてるけど?」と聞かれたので、「福岡の妖怪はともかく河童だよ。北九州には河童地蔵もあるし」と答える。「川姫」というのも河童の異類の一つだろう(あとで調べてみたら、築上郡や大分、四国での名称だと分かった)。
 グータロウ君とこのお子さんたちも、これがきっかけになって民俗学的な見地に目覚めてくれると嬉しいことである。


 映画や小説の感想を書いてると、今度はマンガの感想が書けなくなる。
 更新も遅れがちになるので、かなり省略してるんだけど、かと言って読んだ本のタイトルだけを書くと、それだけでアクセスしてくる人がいるので、それもしにくいのである。また気が向いたらマンガの感想ばかりズラリと書こうかと思っているので、しばしのお待ちを。

2004年08月12日(木) またまた詐欺メール……しつこいってば。
2003年08月12日(火) もうあまり長く書けません/映画『地球へ二千万マイル』
2002年08月12日(月) ほしのローカス(笑)/『トライガン・マキシマム』7巻(内藤泰弘)/『コータローまかりとおる!L』4巻(蛭田達也)ほか
2001年08月12日(日) 代打日記
2000年08月12日(土) 地雷炸裂/『スヌーピー26 ぼくはどこへも行かない夜』(チャールズ・シュルツ)ほか


2005年08月11日(木) 夢の中の人/『ムーミンのふたつの顔』(冨原眞弓)

 福岡市文学館(赤煉瓦文化館)に、会場の予約に出向く。
 こないだ聞いたときには、受付を設置することはできないという話だったのだが、二階を全て借り切るのなら、廊下に受付を出してもよいとのこと。何分、会場が普通の劇場ではなくて「文化財」であるから、縛りはいろいろとあるのだが、それが少し緩和された感じで、少しホッとする。
 まだまだ公演を打つためには乗り越えなきゃなせない壁があれやこれやとあるのだが(特に衣装)、私がやらなきゃならないのは脚本を読んだ役者のみなさんが「これなら演じてみたいな」と思えるものを書くことである。今回は殆どが劇団外部の役者さんの客演ということになるので、プレッシャーも相当なのだな。
 私にプレッシャーなんてあるのかと驚かれる方もいらっしゃるかもしれないが、私にだって赤い血は流れているのであるよ(笑)。


 今朝方、夢を見たのだが、夢の中で私はしげとパンフレットの打ち合わせをしているのである。今度の芝居がこれまでで一番大規模なものになりそうだから(会場は小さいが)、これまで劇団に参加してきたスタッフ、キャストのプロフィールを全員紹介しようと話し合って、見本刷りができてきたのを私は見ている(あくまで夢なんで、現実にこういうパンフはまず作らない)。

 劇団を作ってそろそろ10年になろうかという、歴史だけはそれなりにあるので、関係してきたスタッフ・キャストを客演・お手伝いも含めれば30人くらいにはなる。
 なのに全然大所帯になる様子もなく、キャストを集めるのにも苦労している一番の原因は、主演女優がどんどん辞めていってしまうことにあるのだが、その大半はあえて名前は伏せるけれども関係者にはバレバレな、ある特定個人のせいだったりする。
 まあねえ、あの件とかあの件とか、我々も散々な目に合いはしたが、長い人生、いかんともしがたい運命というものもあろうから、今更何か文句を付けようなんて気は全くないし、少しも恨んだりしていないのである。
 基本的にうちの劇団、出入り自由だから、特に申し出がない限りは正式に退団ってことはない。だから彼のこともまだちゃんと劇団員だと思っている。バツが悪くて顔も見せられないんだろうが、声をかけてくれば、元気にやってるか、くらいの挨拶はする。カネの無心は断るが(笑)。
 けれども、ウワサを聞くと未だにあの件と似たような失敗ばかり繰り返しているようなのだね。いくら何でもちょっと学習能力がなさ過ぎやしないか。
 もう夢なんか見てないで汗水流してちゃんと働けってば。パソコンなんて君には要らん。

 夢の話なのにちょっと現実が混じってしまったが、パンフの中に懐かしい顔がいくつもあったので、ちょっとムカシに思いを馳せてしまったのである。
 あの娘やあの娘は、今ごろどうしているのかなあと写真を見ていきながら、その中に一人の男の子の顔を見つけて、ハッとしたところで目が覚めた。

 赤煉瓦に行った帰り道、車の中でしげに夢を見た話をした。
 「K君、今頃どうしてるかなあ」
 久しぶりにその名前を私が口にするので、しげは意外そうに眉間に皺を寄せて横目で私を見た。K君というのは劇団の創立メンバーの一人で、「P.P.Produce」の「パンプキン・パラダイス」というネーミングも彼が発案した。創立時のうちの劇団の中核をなしていたと言っていい。
 彼にはある持病があって、当人もそれが悪化する危険を感じていながら、「今のうちにやりたいことをやるんだ」と言って、本当にエネルギッシュに活動していた。どれくらいエネルギッシュだったかというと、ピースボートに乗って世界一周の旅に出ていたくらいである。
 劇団の練習に参加しているときも、エチュードをやらせれば抜群に上手く、天性の才能があると思った。贔屓目ではなく、彼がプロの役者になれば舞台であろうと映画であろうと、シリアスなドラマもコメディもこなせる個性的な俳優になれていたと思う。
 第一回公演の少し前までは元気だったのだ。けれども神様はK君にたいして時間をくれなかった(だからやっぱり神様はいないのである)。病状は悪化し、劇団活動はできなくなった。それからしばらくして、K君のご家族から連絡があって、病状がやや回復したことを伝えられはしたが、それでも劇団に戻ることは期待できない状況だった。それ以来、もう十年近くが経ってしまったが、ご家族からの連絡は途絶えている。
 「(ご家族も)よくなったら連絡するって言ってたし、何もないってことはまだよくないってことじゃないの?」
 「やっぱりそうかなあ」
 「あんた、『K君が戻って来るまでは劇団を続ける』って言ってたやん」
 「言ったかな、そんなこと」
 私の記憶ではそれを言ったのはしげだったような気がしたが、しげがそんなふうに思っているんじゃないかと思って、私が代弁したのかもしれない。
 どっちにしろ、私もしげもずっと待っているのである。
 多分、劇団のみんなでK君を知ってる人はやっぱり待っていると思うのである。
 『ゴドー』だね。
 

 このところ、アクセス解析で「日航機事故」「御巣鷹山」「川上慶子」「写真」で検索してくる通りすがりさんが結構いらっしゃって、いささかゲンナリしている。そんな写真、ここにはないぞ。つか、どうしてそんなの見たがるのだ。中にはこれに「美少女」というキーワードまでくっつけて来るやつがいるんで目的はハッキリしてるんだが。
 全く、ネットってのは人間の欲望を吸引して肥大していく妖怪みたいなもんなんだなあと、三流SFマンガみたいなことを考えてしまう。
 何か事件関係の感想を書くと、必ずと言っていいほど何らかの反応がある。時には何千件ものアクセスがあったりするので、「いや、うちはそういうサイトじゃないし」と困惑することもしばしばだ。ただの日記サイトなんだから、「感想」や「批評」はあっても、「情報」はそんなにない。誤解されて覗かれるのも本意ではないので、最近は事件関係については血なまぐさいのが連発していることもあって、書くのを控えるようにしていたのだ。
 ところが、先日からずっとワイドショーの格好のネタになっている「自殺サイト連続殺人事件」、犯人の前上博が、「快楽殺人をテーマにした江戸川乱歩の小説を中学生のころに何冊も読み、影響を受けた」と供述していることがわかって、またもやマスコミの報道の仕方に腹を立てたんで、ちょっとヒトコト言ってやりたくなったのである。
 いやね、乱歩についていろいろ言うやつがいるのはもう乱歩の生前からのことでね、正直、今更なのよ。『蜘蛛男』とか『盲獣』とかさ、今度の光文社の文庫全集版まで、「戦前に削除された部分が復活されなかった」、それくらい淫靡で風紀紊乱の罪があるってことで迫害されてきたんだからね。
 けれど文学が人間の本質を描き出すことを目的としている以上、闇の部分を見通していくことは絶対に必要なことだ。だからこそ乱歩の描いてきたエロ・グロの世界は、どんなに弾圧されても必ず蘇ってきた。この世の中に「快楽殺人の欲求」を持っていない人間なんて存在しない。そこまで行かなくても、「女の首を締めたい」欲求を持たない男なんて存在しない(そこの彼女、彼氏に「あなたは私の首を締めたいと思ったことある?」と聞いて御覧なさい。もしそこで「ないよ」と答えたらそいつは天性のウソツキだから早めに別れた方が無難ですよ)。宮澤賢治にだってマハトマ・ガンジーにだってそれはある。斉木しげるだって「みなさん、女の首を締めたいと思ったことは?」とコントの中で言っている(おいおい)。
 だから我々は乱歩を読み、自らの内なる変態性に向き合いそれを克服する必要があると言える。
 それがまあ、テレビの報道の仕方がどうかって言うと、特定の文庫本をズラッと映し出して、いかにもこれが犯罪の元凶であるかのように演出するのだよ(もちろんそんな馬鹿な報道なんかしない局もあったが)。
 我々もこれまでたくさんの事件を見てきて、事件の全体を詳細にレポートした本なども何十冊も読んできている。だから、犯人が供述する内容が実はきわめて多岐に渡っていることも、テレビや新聞で報道されるのはその中のほんの一部に過ぎないことも、充分知っているのだ。情報の取捨選択の基準となるのは、それがどれほどキャッチーか、悪く言えば扇情的な効果があるかってことに限られていて、「真実を報道する」なんてことをマスコミはこれっぽっちも考えちゃいない。
 犯人の変態性欲が乱歩の小説だけで喚起されたわけではないことは明らかである。しかし、テレビは、マスコミは、常に犯罪の原因が犯人以外のどこかにあるように演出する。いい加減で、「そういう演出こそが事件を単純化し、原因究明を阻害する原因になっている」ことに気付いたらどうなんだ、とマトモな神経の持ち主は誰もが言ってることだ。なのに、マスコミは日本で一番馬鹿な連中が集まるところだからそんな批判にはキョトンとするばかりで、今後も改善の余地はまるで見込めない。
 まあ、乱歩は今更この程度の横ヤリで消されてしまうようなヤワな作家ではない。かえってこれが宣伝になって、全集の売り上げが伸びてくれればいいくらいのものである。乱歩に興奮してまたぞろ犯罪に走るやつが出るんじゃないかと心配の方々にはこう言っておこう。そういう変態は生来のものだから、乱歩を読まなくてもやっぱり必ず犯罪に走るのである。かえって影響を受けて「早めに目覚める」から、早期発見、犠牲者が少なくてすむくらいだ。
 今回の事件で問題になるのは、既に犯人に犯罪歴があり、その性癖が早期発見されていたにもかかわらず、示談だの執行猶予だの微罪だのってことで簡単に社会復帰させた法制度の不備と、こういう変態をぶち込んどく施設を建設しない行政の怠慢と、そもそもこいつがどうしようもない変態だと知っていて放置しといた親の罪だ。なんで早いとこ首締めて殺しておかないかなあ。
 気になるのはねー、こいつ、自殺志願者を殺したわけだからうまい弁護士に当たっちゃったら殺人じゃなくて自殺幇助かなんかになっちゃってまた社会復帰したりしやしないかということなんでねー、さすがにそれはないと信じたいんだけれども、もう何が起こったっておかしかない世の中だからね、ぜひとも検察官のみなさんには頑張ってこういう変態は早めに死刑にもってってほしいのである。


 冨原眞弓『ムーミンのふたつの顔』(筑摩書房)。
 筑摩なら、いつか文庫になるだろうから、それを待ってもよかったかと思うがつい買ってしまった。ムーミンファンも長いと、ちょっとでも目新しい本が出るとつい買ってしまうのである。
 『ムーミン・コミックス』の翻訳のほか、ムーミンシリーズに深く関わった著者による「ムーミン概観」というべき本で、単に作品の紹介に留まることなく、作者のトーベ&ラルス・ヤンソンの小史も付し、世界でのムーミン受容史も可能な限り紹介しており、文化史的にムーミンをどう捉えればよいかを考察するためのよすがとして、非常にうまくまとまっていると言える。
 もちろん、一冊の本にムーミン史をまとめることなど容易なことではないので、物足りなさを覚える面はある。アニメからムーミンに入った世代としては、日本では絶大な人気を誇る「スナフキン」の造形に深く携わった監督の大隅正秋(現・おおすみ正秋。言わずと知れた『ルパン三世』第一シリーズの監督でもある)の名が全く出てこないのが残念でならない(アニメシリーズの流れを概観はしている)。引き合いに出されている『となりのトトロ』(もちろん、「トトロ」の語源となった「トロール」は、「ムーミントロール」のそれと同じものだ)の宮崎駿の名前は出しているのに。
 けれども、逆に「アニメのムーミンしか知らない」日本のファンにとっては、ムーミンが「様々なふたつの顔」を持っていることに驚かされる内容になっている。以前、日記に書いたことがあるが、アニメしか見たことがない人が小説に「ノンノン」が出てこないことに驚いたということがあるのだ(原作ではあくまで「スノークのおじょうさん」である)。
 私とて、アニメのムーミンが初体験であるから、原作小説のいくつかを読んだときにはその「暗さ」に驚いたものである。本書でも内容が詳しく紹介されている『この世のおわりにおびえるフィリフョンカ』では、神経症に罹ったとしか思えないフィリフョンカの姿が描かれ、そして驚いたことに「偶然にも」彼女の不安は的中して、突然の竜巻で彼女は全ての財産を失ってしまうのだ。しかし彼女はようやく「これで破滅の不安に襲われずにすむ」と思い、笑い出してしまう。およそ児童文学には不似合いなブラック・ユーモアで、小学生でこれを読んだときの何とも言葉にできない違和感は、未だに鮮明に脳裏に蘇ってくる。
 作者のトーベ・ヤンソンは、自らのこうした「暗い作品」に「子供向けではないのではないか」と批判が寄せられたときにこう明言している。「説得力のある児童文学とは、象徴や自己同一視や自己執着に満ちていて、幼い読者とは無縁の代物だ」と。簡単に言えば、「私は自分の好きな世界を書く。子供に媚びる気はない」ということであろう。媚びた文学はかえって子供からそっぽを向かれることもしばしばだ。この姿勢があったからこそ、ムーミンシリーズは人間の原初的な感性と感情とを、登場するさまざまな得体の知れないモノノケたちに託して象徴的に描くことが可能だったのだろうと思う。
 日本のファンで、トーベ・ヤンソンがフィンランド人であることはかろうじて知っていても、実は彼女がフィンランドの少数民族であるスウェーデン系フィンランド人であり、ムーミンシリーズが全てスウェーデン語で書かれていたという事実まで知っている人はそう多くはないだろう。そういった作者の出自と、ムーミン一家がムーミン谷に至るまで、家族離散の中で放浪の旅を続けていた事実とは決して無関係ではないと思われる。小説によって、ムーミンたちが一般的な「明るいムーミン」と「寂しく暗いムーミン」のふたつの顔を見せているのは、ヤンソン自身がいくつもの「ふたつの顔」を持っていたことに起因しているのに違いないのだ。
 ヨーロッパのムーミンと日本のムーミン、明るいムーミンと暗いムーミン、ラルス・ヤンソンのムーミンとトーベ・ヤンソンのムーミン、児童文学のムーミンとコミックスのムーミン、そして児童作家としてのヤンソンと、大人作家としてのヤンソン……。いくつもの二項対立を積み重ねながら、筆者はムーミン世界の多様性を詳述していく。
 ムーミンシリーズの開幕作品『小さなトロールと大きな洪水』が上梓されたのは1945年。今年は戦後60年というだけでなく、ムーミン生誕60年でもある。小説のムーミン、コミックスのムーミン、絵本のムーミン、ヤンソンのほかの大人向けの小説、自伝などが今でも全て読めるのは本国フィンランドを除けば、世界では日本だけである。この中のどれか一つしかムーミンを知らないという人には、本書はそのサワリだけでも触れることができるきっかけになると思う。

2004年08月11日(水) ウソツキは恋の始まり
2003年08月11日(月) 水がまた来る/『さちことねこさま』1巻(唐沢なをき)
2002年08月11日(日) 島田賢志君、元気?(読んでねえって)/DVD『∀ガンダム�供〃邯�蝶』/『キカイダー大全』(岩佐陽一編)ほか
2001年08月11日(土) 代打日記
2000年08月11日(金) 小心者は女房に内緒で寿司が食えるか?/『冥王と獣のダンス』(上遠野浩平)ほか


2005年08月10日(水) 14万ヒット御礼/DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻

 この日記も更新遅れを繰り返しながら、ついに14万ヒット。
 しょっちゅう休んでるのに、忘れもしないで覗きに来てくださる方がいらっしゃるのは自分でもフシギで仕方がないのですが、アクセス解析を見ると、しっかりブックマークして下さってたり、いつの間にかリンク張ってたりしてくださってる方もいて、いちいち挨拶はしていないけれども、心から感謝の念を抱いております。
 もちろん、常連さんでいらっしゃっても、毎度毎度これだけ好き勝手なことばかり書いてますから、お怒りの方もいらっしゃるでしょうし、ご批判したい方もたくさんいらっしゃると思います。時間と体力と気力が許す限り、誠実に対応させて頂きますので、いくらでもメールを下さって構いません。
 いや、実際に批判メールを頂いて、意見交換しているうちに、「やっとられんわ」と嫌われてそっぽ向かれちゃうこともよくあるのですが(苦笑)。たいていの人はそういうやり取りも面倒くさくて、「なんだこいつは?」と、覗きに来ることもやめるのが普通だと思います。それなのに、名も知らぬ常連さんがいつの間にか増えているのは、一応、私の駄文にもそれなりの道理があると思って頂けているということなのでしょうか(思い上がりかな)。
 なかなか信じて頂けませんが、私は私と意見が異なる人であっても、嫌いになるということがありません。つか「嫌いになる」という感情がよく分からないのです。言葉が通じなくて途方に暮れたり、トンチンカンなことを言われてムッとしたりすることはあります。けれど、それは相手を嫌いになったということではありません。
 よく日記に悲惨な犯罪事件のことを書いて、犯人のことを嗤ったり罵倒したりしてますが、こういう場合ですら私は犯人のことを憎んだり嫌ったりはしていないのです。たとえどんな極悪人の犯罪者であっても、「人間、一皮向けばみな同じホネ」ってのが持論で、仮に「死ねばいい、あんなやつ」とか言ったりしてたとしてもそれは言葉だけのことです。基本的に私の人間認識は「環境次第でどんな人間だって犯罪者になっちゃうもんだ」ってことなんですよ。まあ、「他人を嫌うことに何の意味があるか」と思ってるって言った方が正しいでしょうか。
 だもんで、仮に私が誰かから悪し様にののしられたとしても、ココロの中は愛でいっぱいですので、決して怒ったりはしません(笑)。
 つか、人から馬鹿にされて怒る人間は、もともと誰かを馬鹿にしたがってる傲慢な人間なんですけどね。怒っていいのは下らない映画を見せられたときだけで充分(笑)。 


 WOWOWで映画『映画女優』。
 劇場公開時に見たときにも、脚本は説明ばかりでセリフが皆無に等しいし、役者は森光子以外大根ばかりだし(特に吉永小百合と菅原文太が学芸会レベルである)、そのあまりの駄作ぶりに閉口してしまったものだが、久しぶりに見返してみるとやっぱりつまらなかった。つか、以前にもまして欠陥をいくらでも指摘することができる。これと『竹取物語』の二本しか市川崑作品を見たことがない人は、この監督はマイケル・ベイ以下の糞監督であると弾劾するに吝かではないだろう。……いや、この二本は市川さんがどうかしちゃった映画なんで、あまり責めないでほしい。あと『鶴』も。
 原作・脚本は『小説田中絹代』の新藤兼人なんだが、田中絹代の長い人生を松竹入社から『西鶴一代女』まで絞ったのは慧眼のように見えて実は中途半端である。これはもう、『西鶴一代女』のバックステージものとして、そこだけに物語を絞った方が散漫な印象を与えずにすんだはずである。もっともそれでも主演二人の大根ぶりは変わるわけでもなかろうから、結局はそこそこにつまんない映画にしかならなかったとは思うが。世のサユリストには悪いけど、田中絹代を吉永小百合に演じさせるってのがそもそもの間違いなんである。「映画はキャストで決まる」ってのは市川さんの持論じゃなかったのかなあ。
 ついこないだ、古川薫の『花も嵐も』を読んだばかりだったので、比較して気付いたのだが、映画では田中絹代と城戸四郎の男女関係については一切触れていない。松竹社長の城戸四郎は、単に田中絹代のよき保護者ということだけの存在ではなかったのだが、そこを描かないと、物語は表面の上澄みだけを掬い取ったような、キレイゴトの世界にしかならなくなる。徴兵忌避をして失踪した絹代の長兄の存在にも一切触れない。この兄の存在が、田中絹代の人生にどれだけ大きな影となってその道を縛ってきたか。それもこの映画は一切描かない。
 実在人物を扱っているのせいで何か差し障りがあったのかもしれないが、だったらもう田中絹代の名前を使わないで映画化した方がよかったのではないか。溝口健二、五所平之助、清水宏、城戸四郎などは名前を変えて登場しているのに、小津安二郎や鈴木伝明、大日向伝、牛原虚彦などは実名のままというアンバランスさが、この映画の居心地の悪さをそのまま象徴しているのである。随所に映画史に残る傑作のスチールやフィルムが挿入されるが、これがまた物語の流れを阻害して鬱陶しくて仕方がなかった。
 この映画だけを見て田中絹代という稀代の女優を判断されてしまうと本気で困る。こんな中身スッカラカンの伝記映画を見るよりは、オリジナルの田中絹代の映画に当たってもらいたい。日本映画専門チャンネルとかで時々放映してるから、まめにチェックしてくださいな。代表作の『愛染かつら』は今の若い人には少々辛いかもしれないけれど、感性が磨耗してなければ見所はたくさん発見できると思う。『伊豆の踊子』『お琴と佐助』あたりは文芸好きな方には必見だし、『西鶴一代女』『雨月物語』は日本映画黄金期の映画が世界に与えた影響の大きさをその画面から如実に感じ取ることができる。『サンダカン八番娼館 望郷』はもう役者の演技ってここまでの表現ができるものなのかって驚きに魂が震えるほどだ。


 小林よしのり『新ゴーマニズム宣言SPECIAL 靖國論』(幻冬舎)。
靖国神社をどう考えるかってことについての私の意見というかスタンスは特にない(笑)。誰が何を信仰しようとそりゃ当人の自由なんだから、知ったこっちゃないって言った方がいいかもしれない。私には右も左も関係ないし、カミサマとか英霊も信じてないから、基本的に靖国に対する思いは何もないのである。
 だからと言うわけではないが、靖国問題に関して私は、右とか左とかに左右されずに、比較的客観的に状況を見られているほうだと思う。つまり私は別に小林よしのり信者ではないということで(笑)。このことを先に明言しておかないと、やたら「てめえ、右だろう」と勘違いされてしまうので、面倒くさいのである。
 基本的に小林さんの靖国神社についての歴史認識と判断は普通に正しい。「靖国の存在自体がかの侵略戦争を肯定している」というアチラさんの主張が難癖に過ぎないことは、「靖国に祀られているのはペリー来航以来の英霊」という事実だけで簡単に証明できる。それなのにいつまで経ってもアチラさんが難癖を付けるのを止めないのは、アチラさんが「反日」を国家統合のためのスローガンとして利用しているからだ。
 日本人にとって神社とは宗教というよりは「習俗」なのであって、政治にも信仰にも関係なく、これを拝む。初詣をするクリスチャンがいてまるでおかしくないのは、日本においては宗教が常に習俗化される文化が存在しているからだ。「食事の前に手を合わせる」のも何かに対して拝んでいるわけではない(ご先祖様だったりお天道様だったりするが、極めて曖昧である)。
 外国人は日本人の宗教ちゃんぽん行為に首を傾げるが、こういった習慣・文化を知らなければいつまで経っても疑問は消えないだろう。お隣さんたちは自分たちが日本の文化のルーツだと信じていて、宗教観も似たようなもんだと思い込んでいるから、なおのこと理解が難しくなってしまっている。日本人の宗教観はかなりの部分で他国と隔絶しているのだ。
 だから私も、カミサマなんぞ信じちゃいないが、神社に行けば手を合わせる。靖国で手を合わせても、これは「あなたたちの無念を晴らすためにいつかあの国とかあの国とかあの国をぶっ潰してやりますから」という意味にはならない。
 しかしアチラの国については、宗教は即政治である。「英霊を祀る」行為は、復讐を誓っているとしか受け取られまいし、そして政府は国民にそう喧伝している。そうすることで、国内政治の混沌を隠蔽し、恨みつらみを国外に転化しているわけだ。
 歴史の捏造はどの国でも自国に都合よく行っていることだが、ありがたいことに、アチラさんには実に簡単に洗脳されるアタマのお弱い方がいっぱいいらっしゃって、政府のプロパガンダをいとも簡単に信じて支持してくれているのである。ちょっとネットを開けば世界各国の情報も入手できるのだから自国の情報ばかりが正しいわけではないと気付きそうなものなのだが、多分、国民の大半が文盲なのであろう。馬鹿の一つ覚えのようにしょっちゅう反日デモばかり起こして日の丸を焼いているが、暴動を起こすやつに正義があってたまるか。
 だから馬鹿にビビッて、A級戦犯の分祀だの無宗教の慰霊碑の建立だの、そんな姑息な手段で解決を図ろうとしたって、こちらが一つ要求を飲めば図に乗って別の難癖を付けてくるに決まっているのだから、結局は何の意味もないのだ。どんなに困ってるときでも、馬鹿の言うことを聞いちゃいけないってことね。
これは小林さんだけが指摘していることではなく、現実にアチラの政治状況を見ていれば誰にでも理解できる紛れもない事実であるので、ゴーマニズムに反発を覚えている人でもこの点に関しては小林さんと意見を一にしなければならないことだろう。それにアチラの人でも、特に洗脳されてない人は反日デモに参加なんかしないのである。
 ただそれでも問題がややこしくなってしまうのは、日本人の中にもやっぱりアチラさんを憎み蔑み、「いつか復讐してやるぞ」と心に誓ってる連中はいて、そういうやつらと同一視されたくないから靖国参拝を控えざるを得ない普通の人々もいっぱいいるだろうなと思うわけである。筆頭は天皇陛下(笑)。
 鑑みるに、小林さんは右に行く一歩手前で踏みとどまっていると思う。これまでの言動を見て行けば、街宣車でがなり立ててるいかれた連中と一緒にならんことははっきりしている。それをいかにも軍国主義の権化のように口汚くののしっているのは、左翼の方がよりトチ狂ってると言われても仕方のないところだ。
 確かに、小林さんは資料の読み間違いも多いし、南京大虐殺はなかった(かも知れない程度で押さえているけど)とか、全ての主張を鵜呑みにするわけにはいかなってことも分かりはするのだ。感情に流された勢いで馬鹿だの狂ってるだのテキさんをわざと挑発するようなモノイイをするのだって、あまりうまいやり方ではない。
 しかし、だからと言って、いくつかの誤謬だけを根拠に「小林よしのりの言ってることが全て間違い」だなんて断言していいわけがない。
 これまで小林さんが『ゴー宣』で俎上に乗せてきた題材はどれもこれも一筋縄ではいかない困難な問題を含んでいるものばかりで、ちょっとした話し合いであっさり解決できるなんて簡単なものは殆どなかった。薬害エイズの事件についても、オウム真理教事件についても、従軍慰安婦の件についても文字通り小林さんは体を張って取り組んでいる。これだけの事件に首を突っ込んで、とりあえずできるだけ角を立てないように冷静に対応しようったって、土台無理な話なのだ。論戦になれば結局は激しく言葉をぶつけあい「馬鹿阿呆間抜け」とののしりあわざるをえなくなる。しかし、それだけの言葉をぶつけるということは、小林さんがまさに「本気」だということの証ではないのか。
 だから読む方だって最初から「小林よしのりの言うことだから」で初めから鼻で笑ったような読み方をするもんじゃないよと思うのである。相変わらずコマ割りはヘタだし、恣意的でわざとらしい表現は多いし、習俗の問題を政治にすり替えようとする意図は見受けられて、そこんところが一番鬱陶しいのだが、少なくとも極右の人たちのように日本の軍国主義化を標榜しているわけでは決してない。そんなふうに小林さんのマンガを読み取りたがってる左の人は多いようだけれど、それも政治的かつ恣意的に過ぎる読み方である。
 ディテールに腑に落ちない部分はあっても、「靖国の存在が外圧に左右されてどうにかされてよいことではない」という基本的な主張は全面的に正しい。一時期に比べればアチラさんのデモもだいぶ沈下しているが、これはやはり国際的な批判を浴びたおかげだから、外圧に弱いのはアチラさんも同じなのである。受けに回った方が立場が弱くなるのは当然だから、小林さんの責めの姿勢はやはり貴重だと思う。
 まあ、批判したい人はもちろんして構わないんだけど、「コヴァ」なんて斜に構えたモノイイで論争を最初から回避するような態度はやめといてほしいんだけどねえ。

 
 DVD『英国戀物語 エマ』1、2巻。
 初回生産限定豪華コレクターパッケージ仕様ってやつで、黒っぽいカバー(色弱なんで色は分からん)に、英語で「Victorian Romance Emma」って華麗に書かれてるのがすげえ素敵。って、パッケージに惹かれてうっかり買っちゃったみたいだが、もちろん中身のアニメも傑作である。 
 いつの間にやら「メイド萌え」モノがアニメ界を席巻するようになって久しいが、私は多感な学生のころですら特にアンナミラーズにもハマらなかった朴念仁であるので、メイドコスとかにはまるで興味がない。アニメ見ててもフリフリ作画するの大変だろうなあとか、そんなことしか思わない(『ぷぎゅる』とかはその心配いらないから楽だな。ってあれもメイドアニメって言っていいのか)。
 ところがもうファンには一切説明は要るまいが、これはメイドさんに「ご主人様、何でもお言いつけを♪」とこぼれそうな微笑みでかしずいてもらってる主人公に感情移入してムネがドッキンドッキンバックバックしちゃうような妄想逞しいオタクのためのメイドアニメなどではないのである。もちろんそういう観点で見ることだって不可能ではないのだが、それ以前にこれはもうイギリス・ビクトリア朝・ロンドンを舞台にした世紀の大ロマンであり、近代小説が「恋愛」という、ドラマを構築するための重要な要素を獲得したのが、まさにこのビクトリア朝の身分社会を活写することから始まっていることを確認させてくれる画期的な物語であるのだ。
 浅薄な知識なのでいろいろ突っ込まれたい方はおありだろうが、『チャタレイ夫人の恋人』を生み出した土壌もここにあり、全てのハーレクイン・ロマンスの、メアリー・ウェストマコット(正体はあの人ですね)の諸作のルーツもこの時代に求めることができるという理解はそれほど外れてはいないと思う。
 私が原作マンガの『エマ』を見て、今更ながら、ああ、と嘆息したのは、小説以上に広範な守備範囲を誇り、古代ギリシャから近代ヨーロッパ、アメリカ西部劇の時代まで、ありとあらゆる時代、国を舞台に物語を展開させてきた日本のマンガシーンが、この「ビクトリア朝ロンドン」に関しては、ほとんどそのマンガ化と言えば「シャーロック・ホームズ」以外に見るべきものを生み出してこなかったよなあ、という事実である。
 この時代、風俗、これを活写するためには、単に人物のキャラクターが描けていればそれでいいという訳ではない。人々を取り巻くその風景、リージェント・ストリート、コベント・ガーデン、ハイドパーク、ピカデリー・サーカス、タワーブリッジ、ロンドン塔、セントポール大聖堂……。まあ、絵に描くのは大変だってのは分かるけれども、これらが人々の精神世界を象徴する風景としてきちんと描かれ、「機能」していてこそ、近代小説の祖としての恋愛ロマンを現代のマンガとして再生することができるのである。
 ビクトリア朝の美術については、宮崎駿の(美術の山本二三の)アニメ『名探偵ホームズ』の細かいレンガの描き込みを見たときにも舌を巻いたものだったが、原作の森薫の背景描写へのこだわりにはそれ以上の熱情がある。それをアニメはさらにグレードアップ、原作にないディテールに至るまで設定し、動かし、匂うような空気まで感じさせてくれるほどに描き出してくれた。本作の美術を担当した櫻井純子・矢野祐子両氏の仕事はまさしく「入魂」の一語に尽きる。
 ここに描かれている建物が、調度が、衣装が、流行が、ロンドンの人々を支配し拘束しているからこそ、ウィリアム坊ちゃまとエマの恋は「その世界に縛られつつも自由であろうとするエネルギー」を生み出し、ロマンの炎を燃え上がらせているのである。
 まあ、堅っくるしい言い方を避けて簡単に言っちゃえば、女性が一個の人間として「恋愛」できるようになったのは、「身分を越えた恋」を経験できるようになってからってことなんだよね。凡百のメイドアニメが一見、主人公とメイドさんとを対等に描いているように見えながら実はメイドさんが精神的には男の性奴隷となり果てている状況の中で、『エマ』は見事なほどに正統派の恋愛ロマンを蘇らせてくれたってわけ。

 1巻は、第1章「贈り物」、第2章「二つの世界」を収録。
 2巻は、第3章「告白」、第4章「ミューディース」を収録。
 美術の話ばかりしてしまったが、シリーズ構成・脚本の池田眞美子の簡潔でさりげない伏線の張り方の見事さにも感動を覚えるし、決して枚数が多いとは言えない中で、登場人物たちの微妙な表情に気を配り、ここぞというときには髪や衣服の重みまで感じさせるように動かす緻密な作画には私は拍手を惜しまない。いやまあ、スタジオぴえろだし、作画監督も田中比呂人さんをはじめ錚々たる人たちだし、当然のことではあるのだが。
 オーディオコメンタリーは監督の小林常夫さんのほか、時代考証を担当している村上リコさんに加え、なんと原作者の森薫さん自身も登場。でも画面に見入って鼻歌を歌うばかりで、全然解説をしてないのであった。それだけアニメが素晴らしいという逆証明にはなってるけどね。

2004年08月10日(火) 本名、また変わりました(T∇T)。
2003年08月10日(日) 二元論の陥穽/『魔法先生ネギま!』1巻(赤松健)/『金田一耕助ファイル6 人面瘡』(横溝正史)ほか
2002年08月10日(土) 映画ファンってどこにいるの?/DVD『∀ガンダム�機|狼絽�』/『アフター0 著者再編集版』1・2巻(岡崎二郎)ほか
2001年08月10日(金) 代打日記
2000年08月10日(木) トマトの罠/『太陽がいっぱい(リプリー)』(パトリシア・ハイスミス)ほか



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藤原敬之(ふじわら・けいし)