2007年08月02日(木)  ブロードウェイ・ミュージカル『ヘアスプレー』

ブロードウェイ・ミュージカル『ヘアスプレー』来日公演を観る。会場の渋谷東急bunkamuraオーチャードホールは、わたしの二本目の脚本映画『風の絨毯』を東京国際映画祭でワールドプレミア上映した思い出の場所。満席の客席には、お母さんと女の子という組み合わせが目立つ。夏休みの絵日記に今日のことを書くんだろうな。この物語の主人公は、元気いっぱいの高校生の女の子・トレイシー。彼女のパワーを受け止める肝っ玉母さんも登場する。

新聞で紹介記事を読んだときから、わたし好みのにおいがプンプンしていた。まず、「おチビでおデブでポジティブ」なヒロインが、自分の高校時代と重なった。一年のアメリカ留学で20キロの増量に成功し、150センチ足らずで60キロ余りというチビデブ体型を手に入れて帰国したとき、わたしは人生最高体重(妊娠しても記録は破られなかった!)にして、自己肯定度も人生最大に達していた。髪や肌の色の違いに比べれば体型の長い短い太い細いは誤差のようなものだったし、「あなたの肉付きって、とってもチャーミング」などと褒め上手なアメリカンのおだてにも乗り、おデブはおチビをキュートに見せるアクセサリーのようなものだと信じていた。身に余る体重と体脂肪が、過剰な自信のエネルギー源になっていた。

留学時代の実感が、「しっぽが生えたって自分は自分、しっぽは欠点じゃなくてチャームポイント」という映画『パコダテ人』につながったのだが、その発想は「人は見た目じゃない」という『ヘアスプレー』のメッセージにも通じる。ヒロインはジャックリーン・ケネディ顔負けの個性的なヘアスタイルが自慢で、誰が何と言おうと、これがいい、と信じて疑わない。そして、体型や髪型と同じように、肌の色が違ったって、みんなそれぞれいいじゃない、その違いで区別するのはおかしいじゃない、と訴える。彼女の主張の象徴のような存在感たっぷりなヘアスタイルを固めるための小道具が、タイトルにもなっている「ヘアスプレー」。身近なモチーフと人種差別というテーマの組み合わせの妙が興味深い。

わが道を行くヘアスタイルも、わたしの思い出と重なる部分があった。大学生の頃、何を思ったか「アフリカの赤ちゃんみたいにしてください」と美容院でオーダーしたら、パンチパーマとしか形容しようのない髪形にされてしまったが、「あなたらしい」「似合っている」という苦笑交じりの反応の言葉だけを鵜呑みにして、「こんな難しいヘアスタイルをモノにできるのは、わたしぐらい」だと妙な自信までつけてしまった。あの頃のわたしは今よりもずっと「自分は自分、好きなものは好き」がはっきりしていた。恥ずかしくもあり、眩しくもある。

そんなこんなで気になっていたら、招待券が2枚手に入った。観劇の友に誘ったのは、会社時代の後輩営業・ユカ。ニューヨークで歌とバレエを本格的にやっていた彼女なら喜んでくれるだろうという読みは当たり、「こないだニューヨーク行ったとき見逃しちゃって!」と飛びついてくれた。二人して体でリズムを取り、よく笑った。客席と舞台がひとつになった総立ちのカーテンコールは、もちろんノリノリで踊った。人種差別をテーマにしながらも決して重く暗くはなく、ネガティブを吹き飛ばすヒロインのポジティブパワーが強烈に伝わってくる。理不尽をひっくり返すのは理屈じゃなくて勢いなんだ、と歌とダンスの力強さに説得される。ハッピーがハッピーを呼ぶそのドライブ感が気持ちよくて、ビタミンカラーの水しぶき(スプレー)を吹き付けられたような元気と爽快感をもらった。

2002年08月02日(金)  「山の上ホテル」サプライズと「実録・福田和子」


2007年08月01日(水)  バランスがいいこと バランスを取ること

最近立て続けに読んでいる向田邦子さんのエッセイの一冊、『夜中の薔薇』に収められた「男性鑑賞法」と題した一編に「らしく、ぶらず」という言葉が出てきた。落語家の橘家二三蔵さんを紹介する中で、文楽師匠の言葉として登場するのだが、「落語家らしく、落語家ぶらず」ありなさい、ということらしい。家のつく職業同士ということで、「脚本家らしく、脚本家ぶらず」と置き換えてみると、なかなかしっくりくる。職人の腕や心意気は感じさせたいけれど、下手なプライドは持たないように気をつけたい。「らしく、ぶらず」の微妙で絶妙なさじ加減が求められる。

さらに、橘家二三蔵さんを「七分の粋と三分の野暮」と表現するくだりがあり、調理師の小田島実氏を取り上げた一編には「自信と謙虚」が同居するさまが描かれていた。足りないとなめられるけれど、過剰だと鼻につく。何事も押し引きのバランスが肝心だなあと感じる。ちょうど、少し前に紹介されて会った映像製作会社の方から「バランスのいい人」という第一印象を受けたと言われ、そんな風に見えているのか、とうれしくなった矢先だった。

ところが、今日の読売新聞の夕刊で原惠一監督のインタビューを読んで、はっとなった。「作り手であるがゆえにかかる病気」というくだりがあり、「面白くするためにみんなで知恵を絞らなくてはならないはずなのに、他のスタッフを納得させるのはどうしたらいいか、という考えになってしまう。その結果どんどん角が削れて平板になる」と語っている。自分のことを言い当てられたようで、新聞の前で背筋が伸びた。打ち合わせの席でのわたしは、テーブルを囲んでいるプロデューサーや監督を納得させることに気を取られ過ぎていないか。まず社内を説き伏せ、得意先を説得してはじめて視聴者にメッセージを届けられるという広告会社時代の「丸く納め体質」がしみついていないだろうか。120度ずつ違う方向を向いて収拾がつかなくなっているスタッフの意見を交通整理して、皆が納得するアイデアを出して喜ばれて、自分もいいことした気になる。でも、バランスを取ることが、作品にとっていいこととは限らない。誰が何と言おうとわたしはこれをやるんだ、こうしたいんだ、と突っぱねるものを持っていないと、作品は熱や勢いを失ってしまう。鬼から角が取れたら、ただの人間だ。「一人の頭のおかしいやつが突っ走って作った作品が持つ、一種の”いびつさ”」が映画の本当の魅力なんじゃないか、と語る原監督。まさにそうだと思う。

インタビューを読みながら、2002年の宮崎映画祭でお会いしたときの監督の印象を思い出していた。『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶアッパレ!戦国大合戦』をひっさげて参加されていた監督は、『パコダテ人』で映画脚本デビューしたばかりのわたしの話に、じつに楽しそうに興味を持って耳を傾けてくれた。余計な気負いを感じさせず、ただ作品を作るのが好きだというまっすぐな気持ちが響いてきた。自分の作品をしっかり愛し、人の作品にも敬意を払える、「らしく、ぶらず」の監督だった。バランスのいい人が意見のバランスを取ることより自分の意志を貫いた場合、それは暴走とは受け取られないのかもしれない。そうして生まれた作品には、でこぼこやごつごつが均さずに残され、観た人の心にも引っかかりを残す気がする。そんなにおいが感じられる原惠一監督最新作の『河童とクゥの夏休み』を観なくては。

2002年08月01日(木)  日傘


2007年07月31日(火)  マタニティオレンジ153 クッキーハウス解体イベント

ダンボールハウスとほぼ時を同じくしてわが家に現れたもうひとつの家、娘のたまの11/12才誕生日を祝って建てられたクッキーハウスは、すぐに食べてしまうのが惜しくて、しばらく冷蔵庫に落ち着くことになった。子どもの頃、冷蔵庫の中に住んでいる小人を夢想したことがあったけれど、扉を開くたびに目に入る小さなお菓子の家は、その想像が現実になったような幸せな錯覚をもたらしてくれた。

「あまり長期保存すると、『冷蔵庫の味』がついてしまうかも」と施工したみきさんに言われ、28日の土曜日に解体することに。ダンナ父立会いのもと(先約があったダンナ母は前日に見に来た)、ビデオを構え、クッキーのかけらまみれになってもいいようにオムツ一枚になったたまの前にクッキーハウスを置き、「さあ、好きに壊していいよ」と促す。箱でも電話機でも壊しにかかるのが大好きなたまだが、「ダメ」と止められれば燃えるくせに、「どうぞ」とすすめられると尻込んでしまい、なかなか手を出さない。

しばらく見守っていると、屋根をなで、庭先のたけのこの里をひとつずつ取り外していく。口に入れる前に取り上げ、皿に移す。固めのクッキーをたっぷりのアイシングで固めた家は耐震構造になっていて、ドアはなんとかもぎとったものの、屋根と壁はちょっとやそっとたたいてもびくともしない。ゴジラよろしく家を持ち上げたたまが床に落としても、ひびも入らない頑丈さ。手ごたえがないと見ると、たまは飽きてしまい、ほとんど損傷のないまま15分ほどで解体イベントは終了した。

大人が無理やり屋根を剥がし、ばらばらにした家を食べた。幸い冷蔵庫の味はまだついてなくて、ぎりぎり噛める固さのハードクッキーは、建材とは思えないおいしさ。アイシングのついていない部分をたまにも分けると、口の中でじっくり溶かして食べていた。家一軒を食べ尽くすのは歯が立たないので、ダンナ父に半分持ち帰ってもらう。家のかけらを見ながら、ダンナ母に報告してくれたことだろう。

クッキーハウスはみきさんのダンナさんのお母さんがレシピと道具を提供し、みきさんの実家がオーブンを貸し、両家のお母さんを巻き込んだ騒ぎになっていたと聞く。ちょうど8月1日で結婚一周年を迎えるお祝いのパーティで両家が集まった席で、11/12才会のことを報告したとのこと。ダンナさんのお母さんからは、「素人にしては、屋根の角度を欲張り過ぎ、もう少し鈍角にしても良かったかも」とアドバイスがあり、「次回は、もっと生地も薄く焼いて重量を減らし、もう少し角度の優しい屋根にしたいと思います!あと、冬っていうか、やっぱり暑くない時期に作るほうが良いかもですね、成形段階の生地もすぐフニャフニャしちゃうし。そしたら、きっともっとベッピンさんになるはず」とみきさん。そうすれば、壊し甲斐のある家になるかもしれない。たまがお手伝いできるようになったら楽しいだろうなあと想像する。

2000年07月31日(月)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2007年07月30日(月)  劇団ダンダンブエノ公演『砂利』

「本谷有希子さんの芝居行かない?」とシナリオご意見番のアサミちゃんに誘われて、「行く!」と即答した。アサミちゃんは共通の友人であるヤマシタさんがやっている「プチクリ」という演劇批評のフリーペーパーのレイアウトを担当していて、前号が「本谷有希子」特集で、ご本人に会ったり、「劇団、本谷有希子」公演を観に行ったり、本谷さんの小説を読んだりして、すっかりはまっているのだった。

「本谷有希子作」の他に事前情報として仕入れた「ダンダンブエノ」がタイトルたと思ったら、ダンダンブエノは劇団の名前で、お芝居のタイトルは『砂利』といった。幸せを噛み締めた頃に壊しに来ると言った昔いじめた相手からの復讐を恐れ、その人物が来たときに音でわかるよう家の周りに砂利が敷き詰められている。怯える男には身重の妻がいて、兄と居候もひとつ屋根の下に住んでいる。さらに妻の姉が訪ねてきて、家政婦代わりとなって一緒に住むようになる。兄弟、姉妹、夫婦、家族であるのに知らなかった、いや、家族であるからこそ知られたくなかった秘密の結び目が少しずつほどけて明らかになっていく過程にスリルがある。

場面転換はなく、すべての出来事は砂利に囲まれた家の中で起こる。それぞれどこか屈折している登場人物たちの会話の応酬で新事実が提示され、展開が変化していく。役者が達者でなければテンポの悪い芝居になってしまう恐れがあるけれど、最後まで張り詰めた緊張感を緩めることない出演者の呼吸はさすがだった。とくに妻の姉役の片桐はいりさんの絶妙な間の取り方とコミカルな動きには目が釘付けになった。うまいなあといつも感心させられる山西惇さんを見られたのもうれしかったし、はじめて舞台で見た坂東三津五郎さんも味があった。登場人物たちが溜めていた感情を爆発させて砂利を踏み鳴らすシーンが印象的。動かすと均衡が崩れて音を立ててしまう「砂利」は、各々の生活や感情の中にある平穏や秩序のようなものなのかもしれない。

「本谷さんがいちばん興味あるのが、憎しみという感情なんだって」とアサミちゃん。わたしがいちばん描くことが苦手な感情でもある。その部分をあぶり出す作品で勝負し、評価を獲得している本谷有希子という才能には、この人にしか描けない世界という強烈な個性を感じる。舞台作品が映画化されて公開中の『腑抜けども、悲しみの愛を見せろ』も観てみたい。

劇団ダンダンブエノ双六公演「砂利」

7月21日(土)〜31日(火) スパイラルホール

作:本谷 有希子
演出:倉持裕
音楽:ハンバートハンバート

出演
坂東三津五郎
田中美里
片桐はいり
酒井敏也
山西惇
近藤芳正

2004年07月30日(金)  虹色のピースバンド
2003年07月30日(水)  脚本家ってもうかりますか?
2002年07月30日(火)  ペットの死〜その悲しみを超えて
2001年07月30日(月)  2001年7月のおきらくレシピ


2007年07月29日(日)  マタニティオレンジ152 子守すごろく

ダンナが午後から仕事に出かけ、娘のたまと二人で過ごすことになった。平日は保育園に預けているし、休日はダンナが家にいるし、どこかに出かけたり誰かが遊びに来たりするので、たまと長時間二人きりになることはめったにない。保育園から帰宅してから寝かしつけるまでの3〜4時間の3倍もの時間、さあ何して過ごそうか……。「長いな」と感じた自分を、慣れないお留守番を頼まれて戸惑うお父さんみたいだ、と思った。保育園がはじまる前は朝から晩まで二人きりのことが日常だったのに、ひさしぶりになると、半日でも気合を入れてかからなくてはならなくなっている。

ダンナが出かけたときは昼寝をしていたたまが、2時頃起きた。寝起きはいい。物をやりとりする「どうぞ」遊びをする。昨日お邪魔したトモミさんちで覚えた「どうも」がごっちゃになっているようで、わたしの「どうぞ」に合わせて物を差し出しながらコクンとお辞儀をするのがおかしい。「どうぞ」と「どうも」をセットで言うようにし、受け取ったわたしもお辞儀をすることにした。

「どうぞ」遊びに飽きると、関心はティッシュ箱に移り、ティッシュを延々と取り出し続ける。気が済むまでやらせつつビデオに撮る。一面ティッシュだらけに。薄いひと箱にこんなに入っているのか、と日本の製紙技術の高さに恐れ入る。取り出したティッシュを後で使うために紙袋に詰めたら、それもまた取り出して喜ぶ。

夜から雨の予報が前倒しして、3時過ぎから雷を伴った大雨が降り出す。バリバリ、ガラガラ、昨日の花火よりも音が近いが、雷に負けじと「ゴロゴロバーン」と花火の物まねをして見せ、「これは、たまの好きな花火の仲間ですよ」と教えたら、あまり怖がらずに済んだ。稲妻と音が数秒差の間近の雷にはさすがに身を震わせていたけれど、わたしもびびった。

雷がおさまると、だっこから下ろし、しゃもじを与える。これも昨日トモミさんちで仕入れたネタ。プラスチックのしゃもじの丸い部分をカーブを確かめるようになめて、30分ぐらいは機嫌よく遊んでくれた。

雨が上がったので、ベビーカーで図書館へ出かけることに。大雨の後でいい風が吹いている。図書館にはじゅうたんでゴロリとなれる絵本コーナーがあるけれど、閉館ぎりぎりだったので遊んで行けず。帰りに寄ったドラッグストアで赤ちゃん麦茶と赤ちゃんせんべい「ハイハイン」を買う。はじめて買ったハイハイン、気に入ったようで、2枚入りの2袋をぺロリ。この時点で17時半。あと一時間で保育園から帰ってくる時間になる。たまが寝てくれるまでは4〜5時間。子守すごろくをしているみたいだ。寝付いてくれたら、あがり。

離乳食をあげたら激しく泣き出され、3つもどる。うっかりして、さますのを忘れていた。こりゃ熱い。舌の上で止まっているあつあつのごはんのかたまりを撤去。舌は火傷していない様子だけど、母をなじるように泣き続ける。怒りをさまそうと水風呂で遊ばせると、最初はごきげんななめで泣きじゃくっていたけれど、急に一人であそびはじめる。よし、2つすすんだ。風呂上がりに食べ頃にさめた離乳食を食べさせる。しらすのおかゆを平らげたので、おかわりで納豆とアボカドとかつおぶしのおかゆをあげる。さらに551の蓬莱の豚まんの皮をいくらでも欲しがる。右手を出して「ちょうだい」のポーズ。2センチ平方ほどの塊であげても、モグモグして上手に食べ、豚まん半個分ほどの皮が消えた。551効果で2つすすむ。

満腹になり、ダンボールハウスでしっかり遊んでぐれる。たまを疲れさせようと、わたしもハイハイして追いかけたり追いかけられたり。全身運動なので、たまより先にわたしがばてる。でも、たまも体力消耗したはず。ゴールは近いか。布団を敷くと、シーツに興奮。シーツの中に入ってかくれんぼがはじまる。家具の前に築いたバリケードのダンボールに体当たりして、歓声を上げているうちに22時。まだ寝てくれない。ふと目が覚めると24時。隣でたまがすやすや寝息を立てている。子守すごろく、いつの間にかあがっていた。たまより先にわたしがゴールしてしまったのかもしれない。たった半日でばててしまった子育て体力の低下を思い知り、これが毎日になっているお母さんたちのスタミナと気力に頭が下がる。

2004年07月29日(木)  クリエイティブ進化論 by MTV JAPAN
2002年07月29日(月)  中央線が舞台の不思議な映画『レイズライン』


2007年07月28日(土)  マタニティオレンジ151 特等席で隅田川の花火

マタニティビクスで知り合い、助産院出産仲間、貧血持ち同士、年齢が近くて出産予定日も一日違い、と何かと共通することが多くて意気投合したトモミさんから「うちのマンションからよく見えるの」と隅田川の花火のお誘いをいただき、一家でお邪魔することに。出産予定日から互いに一日ずつ遅れて出産し、8月22日生まれのたまに続いて、トモミさんは23日にミューちゃんを出産。合同の11/12才祝いもしましょうということになった。たまの1/12才の誕生日ケーキを買った近所のパティスリー・シモンでケーキを調達。「たま 1/12才」のプレートをお願いしたとき、「猫だと思われたかもな」とダンナは言った。「ミュー&たま」だとますます猫っぽい。

ベビービクスで何度か顔を合わせているものの保育園に通いはじめて以来ミューちゃんとはごぶさたのたまは、久々の再会に最初は緊張気味。場所見知りも手伝って、不安そうにわたしの足にしがみついてきた。30分ほどすると、双方から手を伸ばし、ちょっとずつ歩み寄り。キッチンで食事を用意するトモミさんを、二人並んで立入防止柵につかまって眺める後姿がなんとも微笑ましかった。髪のふわふわ具合もまるまる太った背格好もよく似ている。

キッシュ、生春巻き、ゴーヤのおひたし、アボカドの冷製スープ……とごちそうが続々食卓に並ぶ。わたしのカレー好きを知って近所のインド食材店で買ってきてくれたチャパティと本格インドカレーも加わった。わたしの箸も進むが、離乳食をいただくたまもわが家で見せる以上の食べっぷり。鯛と野菜を煮込んだおかゆ、枝豆のマッシュと豆腐をまぜたもの、さらにわたしのアボカドスープも気に入った様子。

写真が趣味というダンナ様とは初対面。貴重な母娘ショットを撮っていただく。以前、わたしの書いたプロットをトモミさんに読んでもらったときにダンナ様から丁寧で的を射た感想を頂戴したのだけれど、その話に行き着く前に話すことが尽きず、せっかく会えたのにお礼すら言いそびれてしまった。トモミさん一家とは初対面のわがダンナも食事と会話と娘二人の眺めを楽しんでいた。最近なんとなくバイバイを覚えたたまはウィスキーグラスをくゆらせるような手のひらを上にした不細工バイバイなのだが、ロイヤルファミリー風に優雅に小さく手を振るミュー嬢を見ていると、気品の差は歴然。「どうも」と言うと頭を下げたり、「ノリノリ」と言うと首を振ったり、ミューの芸達者ぶりにもびっくり。

花火がはじまると、上の階のベランダに移動。第一会場と第二会場の両方の花火を見渡せ、涼しい風も吹いて、絶好の花火鑑賞ポイント。音が近いので怖がるかと思ったけれど、たまは夜空に咲く花火の美しさに気を取られたようで、口をあんぐりさせて見入っていた。とはいえ赤ちゃんの集中力は一時間半も持たず、後半はたまもミューも寝入ってしまった。いっそう重くなった娘たちのだっこはパパたちにまかせ、トモミさんと「去年の今頃はまだおなか大きかったのよねえ」と懐かしんだり、マタニティビクス仲間のあの人この人を思い出したりした。視線の先には、トモミさんと出会ったマタニティビクス教室が入っているビルがあった。子育ての友と娘の友だちに加えて特等席での花火にまで恵まれるとは、縁とは面白くってありがたい。

2004年07月28日(水)  日本料理 白金 箒庵(そうあん)


2007年07月27日(金)  あの傑作本が傑作映画に『自虐の詩』

先日、S.D.P.(スターダストピクチャーズ)という製作会社に挨拶に行ったとき、『自虐の詩』のポスターを見つけて、「あ、これ映画になったんですね」と声を上げた。原作の業田良家の漫画を「傑作だよ」と貸してくれたのも映画プロデューサーだったが、その人からも、読んで衝撃の雷に打たれたわたしもなぜか「映画化」という言葉は出なかった。シンプルな線の四コマ漫画に描かれていない部分、各エピソードの間にある空白を読者は勝手に想像し、感動を増幅させる。それを映画という一本の流れにして見せると、原作よりも話が萎んでしまう気がした。

ところが、イサオがちゃぶ台をひっくり返す瞬間を切り取ったポスターは、わたしの思い込みまでひっくり返してしまった。ごはんが、味噌汁が、醤油が、肉が、宙を舞う。これ、劇中でも本気でやっているのだろうか。パンチパーマの阿部寛さん、鼻に大きなほくろをつけた中谷美紀さんは、美男美女であることを忘れさせるほどロクデナシ男と不幸妻にはまっている。原作を読んだときにはこの二人の顔など思い浮かびもしなかったのに、写真を一目見ると、この二人しかイメージできなくなる。これはすごい映画になっているのではないか、とポスターにぐぐっと顔を近づけたら、親しくしているプロデューサーの名前を見つけ、試写状をおねだりすることにした。

試写用パンフからもただならぬ自信と意気込みがうかがえたが、プロデューサーの植田博樹さんが書かれたプロダクションノートが読み応えがあり、作品へのまっすぐな愛情が伝わってきて、上映前にほろりとさせられてしまった。思い通りにいかなくても投げ出すわけにはいかない作品づくりは、子育てにも似ている。誰が何と言おうと、この子(作品)は自分が立派に育てて世の中に出してやるんだ、という親(製作者)の思い、成人したわが子(完成した作品)をどうだ見てくれ、という親バカの混じった誇らしさと淋しさ……。手のかかる子ほどかわいいと言うけれど、2002年に原作に出会い、本作りに二年かけた道のりの長さもまた思い入れを深くしているのだろう。

期待が膨らみきった状態で上映を拝見したが、原作の空気をうまく醸していることに何より感心する。現在と過去、イサオの話と幸江の話、細切れのエピソードの配置は飛躍や脱線をしているように見えて、それでもちゃんと物語は進んでいる。頭で考えると辻褄を合わせようとしてしまうのだが、感覚でつなげているような印象。バランスを取ろうとせず、あえて空白を埋めない。それが四コマ漫画を読む感覚を残すことに成功している。不幸をチャーミングに演じてしまう中谷さんの幸江、台詞は少ないのだけれどギロリという目が言葉以上に語っていた阿部さんのイサオはもちろん、少女時代の幸江と熊本さんのキャスティングが「よく見つけてきたなあ」と驚くほどお見事。さらに少女時代の熊本さんと大人になってからの熊本さんとのつながりは喝采もの。原作のラストを読んだときの衝撃と感動を上回るすばらしいラストシーンを見せてくれた。

脚本の関えり香さんにはNHKの会議室で一度お会いしたことがある。若手の脚本家が集められたその会に、パンツスーツとハイヒールで颯爽と現れた美しい人だった。漢字にひらがなが挟まれた字面が目につきやすく、ドラマのクレジットなどで名前を見つけると、「お、書いてるな」と一方的に刺激をもらっていた。傑作での映画脚本デビューに、嫉妬と羨望まじりの拍手を贈りたい。

2005年07月27日(水)  シナトレ2 頭の中にテープレコーダーを
2004年07月27日(火)  コメディエンヌ前原星良
2002年07月27日(土)  上野アトレ
2000年07月27日(木)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2007年07月26日(木)  エアコンの電源が入らない

エアコンの電源が入らないのに気づいたのは、冷房を入れようと思った日だから、6月の終わり頃だろうか。暖房のときは問題なく動いていたのにリモコンに反応しない。リモコンの電池を換えてもダメで、取扱説明書片手に「強制運転」のボタンを押しても作動しない。本体ごと故障したのだろうか、十年以上使っているし買い替え時なのかもしれない、などと思いつつ富士通ゼネラルのサービスセンターに電話すると、5000円で出張して見てくれるという。その場で直せるか修理に出す必要があるかは見てからの判断になるが、5000円なら見てもらおうという気になった。見るだけで1万円と言われたら尻込みしたかもしれない。オーブンレンジのときは出張費13000円と言われて買い換えた。

脚立と道具箱を持ってやる気十分の修理士さんを出迎え、「もう暑くて困るんですよー」と訴え、何とか今日直して帰ってくださいねとプレッシャーをかけてみる。エアコンのふたを開けて中を点検していた修理士さんが「ブレーカーはどこですか」と聞くので洗面所へ案内した。再びエアコンの元に舞い戻った修理士さんがリモコンを手にすると、「ピ」と懐かしい音が聞こえた。続いて「ブオーン」と寝起きのような唸りを上げてエアコンが動き出した。「ブレーカーがね、落ちてましたよ」。消費税込み5250円の領収書とともに渡された作業報告書の「症状・原因・処理」欄には「●電源入らず ●ブレーカーが落ちていた ●〃を入れる」と記載されていた。「何やっても電源が入らないんです」と電話で症状を訴えたときにサービスセンターの担当者が「ブレーカー」に気づいてくれれば出張費が浮いたのだが、あまりに基本過ぎて聞かれなかったのかもしれない。「今日からは涼しくなりますねえ」と飄々と去って行った修理士さんの仕事ぶりも涼しげで、2007年夏の清涼ネタひとついただきと思うことにする。

「コンセントはちゃんと入ってますよね?」と聞いてくれたサービスセンターも過去にあった。パソコンを打っていたら突然電源が落ちて再起動しても反応せず、真っ青になってシャープに電話したときのこと。はっとして見ると、自らの重みに負けたコンセントが床に転がっていて、問題は氷解。あのときの教訓があったので、今回もコンセントが入っていることは確認したのだけれど、ブレーカーまでは思い至らなかった。エレベーターに乗って、「いつまで経っても動かない! 故障だ!」と緊急ボタンに手を伸ばしかけたら、行き先階のボタンを押していなかったということもあった。電気回路より「故障」とすぐに思い込む思考回路に問題があるらしい。

2005年07月26日(火)  トレランス番外公演『BROKENハムレット』
2004年07月26日(月)  ヱスビー食品「カレー五人衆、名人達のカレー」
2002年07月26日(金)  映画『月のひつじ』とアポロ11号やらせ事件
2000年07月26日(水)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2007年07月25日(水)  父と娘から生まれた二つの『算法少女』

新聞の書評で知った『算法少女』を読んでみたくなったのは、「算額」が物語に登場すると書かれていたからだった。NHK-FMのFMシアターで『夢の波間』という廻船問屋の話を書いたとき、航海の安全を願って絵馬に船の絵を描いて奉納していたという史実を知って取り入れたのだが、数式などの問題を書いた「算額」と呼ばれる絵馬があることも知った。こんな難題が解けましたという報告であると同時に、あなたは解けるかなという挑発でもあり、今でいう雑誌やテレビのクイズ番組のような役割を果たしていたのかもしれないと想像は膨らみ、算額でラジオドラマが一本書けそうだと思った。

読んでみると、算額で投げかけられた問題を解く場面は冒頭だけで、身分の高い男が観音様に奉納した算額の解き間違いを、通りがかった町娘の千葉あきが指摘する。父の桃三に手ほどきを受けているあきは、ただ問題を解くのが楽しくてたまらないだけなのだが、「算法少女」の噂を聞きつけて、藩主の屋敷へ上がって家庭教師にならないかと声がかかったり、それを阻む者が出てきたり。派閥の対立や大人たちの駆け引きは落ち着きがないのだけれど、少女の学ぶことへの情熱とひたむきさは終始まっすぐでぶれがなくて堂々としている。権力も身分もなくたって、学ぶことで何者にもひるまない強さを獲得できる。そのことを証明するあきの姿がすがすがしく、読んでいて爽やかな気持ちになれた。親だったら子どもに、教師だったら生徒に読ませたくなるのがうなずける。

物語の中で、少女あきが父と力を合わせて著した和算書が登場するのだが、その名も『算法少女』。これは安永四年(1775年)に刊行された実在する本で、その史実に作者の遠藤寛子さんが想像で肉付けして生まれたのが小説版『算法少女』なのだった。研究者であったお父さんの机のそばでよく遊んでいた遠藤さんは、『算法少女』という和算書のことを幼い頃にお父さんから聞き、興味を持ったという。小説版『算法少女』もまた学ぶ情熱を持った父と娘から生まれていた。1973年に刊行され、サンケイ児童出版文化賞を受賞
するなど話題を呼んだが、売れ行きが落ちると廃刊になったという。復刊ドットコムに数学関係者らが中心となって働きかけたものの復刊には至らず、諦めかけた矢先に熱心に動いてくれる人があって、ちくま学芸文庫から復刊の運びとなったらしい。復刊までの道のりを綴るあとがきの遠藤さんの言葉もひたむきでまっすぐで自分を信じる強さがあり、作中のあきの姿と重なる。

父といえば、わたしの父イマセンも高校の数学教師だったけれど、「なんでこの問題がわからんのかわからん!」と言う父にとっては、自分の遺伝子を受け継いでいる娘に数学の素質がないことが謎のようで、父娘で数学書や数学小説を著すなどとんでもない話だった。数学教師の父と娘らしい風景で思い出すことといえば、電車の切符に印字された四桁の数字を「+−×÷分数ルート小数点何使ってもええから10にしてみい」という遊びを教えてもらった。「1234」なら「1+2+3+4」、「5678」なら「56/.(7×8)」(数字二つを二桁とみなすのもありだった)。父の発明だと勘違いしていたのだが、先日電車に乗ったら同じ遊びに興じている親子がいて、よそでもやってるのか、今もあるのか、と二度驚いた。

2005年07月25日(月)  転校青春映画『青空のゆくえ』
2003年07月25日(金)  日本雑誌広告賞
2000年07月25日(火)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)


2007年07月24日(火)  マタニティオレンジ150 自分一人の体じゃない

妊娠して、「あなた一人の体じゃない」と言われるようになったのは新鮮だった。自分の体をそんな風に考えたことは、それまでなかった。お酒を飲もうと、風邪を引こうと、自分だけで完結することだった。それが、自分の体だけではなく、自分とつながっているもう一人のことを考えなくてはならなくなった。自分をた大切にすることは、もう一人を大切にすることであり、自分を傷つけることは、もう一人を傷つけることだった。

生まれてからは母乳でつながるから、やはり自分一人の体ではない。幸い娘のたまは今のところとくにアレルギーはなく、母親のわたしは牛乳も卵も生クリームも食べられる。大好きなケーキを食べても、たまの顔にぶつぶつが出ないのをとてもありがたいことだと思っている。ところが、わたしのほうにアレルギーが出てしまった。7月の頭に左腕の肘の内側に現れた発疹がなかなか消えず、強烈な痒みを伴うので、つい掻いてしまったところ、左腕の付け根から手首まで赤くて痒いのが押し寄せた。家にある痒み止めやかぶれ止めを手当たり次第塗ったら、薬が合ってなかったのか、組み合わせが悪かったのか、ますますかぶれて水ぶくれのようになった。さらに腕の内側ばかりが外側まで赤みが広がり、右腕やおなかにも発疹が出てきた。痒みで眠れないほどで、ついに皮膚科に駆け込んだら、「多形性なんとか」というアレルギー反応(「多形滲出性紅斑」が正式名称のよう)だと診断された。見せられた症例写真より、わたしの腕のほうがひどいことになっていた。季節の変わり目などにかかりやすく、原因がわからないことが多いという。塗り薬とあわせて内服薬で治療することになった。

ここで問題。「そっか、授乳しているのね」とお医者さん(女医さんだった)。「でも、塗り薬だけだと、時間かかるわよ」と言われ、薬の服用中は授乳をあきらめることに。抗アレルギーの薬というのが、かなりきついらしく、強烈な眠気を誘う。悪寒がして体がだるくなり、自分を斜めから見下ろしているような浮ついた気分になる。鼻炎カプセルを用量の倍飲んだときのよう。この状態でたまの相手をするのがしんどかった。朦朧とした頭にたまの泣き声がわんわん響いて、ごきげんを取ろうにも気力体力が消耗していて体が思うように動かない。おっぱいが使えれば一発で泣き止ませられるのに、それが禁じ手なのが何より辛い。たまも泣き募るが、こちらも泣きたくなった。

一日二錠の抗アレルギー薬を一錠にしたけれど、それでも体は重かった。三日耐えると、肌のかぶれは目に見えて引いていった。一週間分出してもらった薬をその時点でやめ、授乳を再開。たまもうれしそうだけれど、わたしもうれしい。薬のいらない体のありがたみを噛み締める。不幸中の幸せをもうひとつ探せば、かぶれたのが顔でなくてよかった。腕なら長袖で隠せるけれど、覆面して打ち合わせには出られない。

あたためるといけないのでお風呂もお預けとなったが、おっぱいばかりか、お風呂の楽しみまでたまから奪うわけにはいかない。水風呂でも寒くない夏でよかった。水遊び感覚で、いつもより長風呂できる。とばっちりだったり、おこぼれだったり、赤ちゃんは否応なく母親の健康状態の巻き添えを食らうし、その結果もまた母親に跳ね返ってくる。「母子ともに」という言い方をよく使うけれど、体調と機嫌の良し悪しはまさに母子連動型だと痛感。

2000年07月24日(月)  10年後に掘り出したスケジュール帳より(2010/11/29)

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