2008年10月12日(日)  鎌倉で語り明かす

三連休の二日目。仕事を夕方で切り上げ、由比ケ浜の海沿いのレストランで、先に鎌倉のセピー君のセカンドハウスに遊びに行っていたダンナと娘のたまと合流する。テーブルを囲んだのは、セピー君と、はじめましてのお母様の志雅子さんと、来月に挙式を控えたテスン君とユキコさん。前々からやりましょうと言っていた婚約祝いの会を、わたしたちが鎌倉に泊まる日に合わせて急遽開催することになった。

テスン君とユキコさんは翌日に式の打ち合わせがあるため、今夜中に東京に帰ることに。夕食が終わって、もう一杯だけ飲みましょうとなり、海沿いの道をぶらぶら歩いてセピー君のセカンドハウスへ。一杯が二杯になり三杯になり、「終電で帰るか泊まるか」の時間になり、結局二人は泊まることに。これまでに何度も繰り返されている歴史。このメンバーが集まると、話が尽きない。テスン君のお兄さんとセピー君とダンナが学生時代に同じ寮に住んでいたという縁で、共通の知人友人も多い。元首相から「あなたとは違うんです」発言を引き出した記者のD君もその一人。去年わが家で集まったときもD君は皆を質問攻めにしていた、なんて思い出話で盛り上がる。

今宵は志雅子さんという強力なスパイスも加わり、いつも以上にテーブルが熱くなった。イラン人との国際結婚をユーモラスに綴った著書『『そこは、イラン―私が愛してやまない国』』を読ませていただいて以来、会える日を楽しみにしていた志雅子さんは、着ているものといい物腰といい、どこか日本人離れした雰囲気。年齢も不詳で、オバサンじみたところがまるでなく、チャーミングな女性だった。

傑作だったのは、ウンチをしたかもしれないたまのおむつに鼻を近づけ、わたしとダンナが「チョスったかな?」「チョスったかも」と話していたときのこと。「チョス」はウンチの愛称「ウンチョス」をさらに略したわが家語なのだけど、「チョスはペルシャ語で、とても臭いおならという意味です」と志雅子さんが言い、一同大爆笑。「ペルシャ語と日本語は結構つながっているんですよ。チャランポランは、ペルシャ語でも、チャラン(グ)ポラン(グ)、地面はザメンと言います」と志雅子さん。

テスン君は漫画の編集者だけど、これまで仕事の話をしたことがなかった。今夜、どういう流れからか、「いつでも企画を求めている」という話になり、「こんな話があるんだけど」とあたためている企画を話すと、「それ面白いじゃないですか」と乗って来て、「僕だったら、ラストはもっと身につまされる形にしますね」とアイデアも飛び出し、テスン君の勢いは止まらなくなった。わたしもうれしくなって打ち返し、突如始まった一騎打ちブレストをセピー君たちは面白がって眺めていた。他にどんな企画があったっけなと思いめぐらせ、「どんな企画が欲しい?」と聞いたところ、テスン君は急に熱が冷めたような顔つきになり、「相手の要望を聞いて企画出してちゃダメですよ。どうしてもこれがやりたいんだ、これを形にしたいんだ。そういうものじゃなきゃ、こっちも乗れません」。まったく、その通り。お酒より何よりしびれる言葉だった。

要所要所に古今東西の名言を引用し、会話に知的な彩りを添えてくれるセピー君が、「タゴールの詩にこんなのがあってね」。この妻と子さえいなければ自分は神になれたのに、と思って家を出た男を神がつかまえて、「なぜあなたは、あなたのそばにいる神を捨てたのか」と問う、そんな内容。幸せは自分のすぐそばにあるのに、それに気づけないことが不幸なことだとわたしは常々思っているので、「わたしが考えていることと同じ!」と反応したら、「タゴールと肩を並べるなんて、図々しいにもほどがある」とダンナは呆れ顔。彼は目の前の神に気づいていない。

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