風紋

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2003年04月30日(水) 扉が開く・嬉しいこといくつか / 「ユニボールシグノ・超極細」

今日になって、すいっと身体が浮いた感じがした。扉が開いた感じがしたともいうか。昨日までは、もう嫌だよ全部あきらめるよと思っていたし、それが完全に払拭されたわけではないけれど。それでも今日は、きゃらきゃらとよく笑っていた。いつもこんな安らいだ気持ちでいられればいいのに。今日、気分が安らいだのがずっと続いてくれたらいいのに。

嬉しいことがいくつか。

昨年9月(この日記を書き始めた頃)に書いていた論文が刊行された。査読付きではないので、出来には自信がない。校正が戻ってくるたびに読み返すと読めば読むほどめちゃくちゃなような気がしたので、今日、抜き刷りを受け取ったのだけれど、こっ恥ずかしくて開く気になれなかった。という事実はさておいても、自分にとって初めての公刊論文。もし興味のある方がいらっしゃれば…いらっしゃれば、…連絡を下さい…と書くほどの勇気はまだないのだけれど。

4月12日にお会いした先輩と偶然お会いした。次への扉を開けるきっかけを作ってくださる。うまくいかなくても形にならなくてもいいから、とにかく本当にやりたいことをやってごらん?と。とにかく動こうと。少し、自分の中を掘り下げてみようと思う。

この世界(に限らないのかもしれないけれど)でやっていくにあたって、やられてもやられてもへこまない倒れない…ことも必要なのかもしれないけれど、今は、やられて潰されてへこんで倒れっぱなしで虫の息でも、せめて息をすることだけはあきらめずにいようと、そんな気持ちでいる。

あとは、2〜3ヶ月抱えっぱなしの論文に一度区切りをつける。それから、数ヶ月前にやった研究をまとめにかかる。先は見えないけれど、その分、“今まで”を片付けていこうかとも。


昼下がり、文房具を買いに行って、ボールペンのコーナーでふと惹かれてしまい、ユニボールシグノの超極細(0.28mm)(三菱鉛筆ホームページの商品情報からこちら)を買った。今日買ったのは、ライトブルー・エメラルド・ブルーブラックの三色だったのだけれど、割と書きやすかったので、暖色系が欲しい。オレンジとピンクを今度買おう。


眠いよ。明日も良い日でありますように。


2003年04月29日(火) 見つめ直す考え直す / 心と身体 / 無事でいて / 「そよ風」の不調

いつも、どうもありがとうございます。


大学に行こうかとも思ったが結局外出せず。日がな1日ぼけっとして過ごした。休養したからか、ぐちゃぐちゃに縺れていた糸が少しずつ解けてきたような気がした。どうしてそんなに苦しいのか。自分はどうしたいのか。何を求めているのか。今まできちんと考えずに誤魔化してきたこと。超えられない山。

「徹子の部屋」にソニンさんが出演しているのを少しだけ見た(こちら?)。と言っても、別のことをしながら見ていたので、あまりきっちりと見ていないし、内容も詳しく覚えていないのだけれど。書き残すパワーがないので今日は書き残さないけれど。印象的なことをいくつか話していたように思う。その時、一生懸命ぎりぎりまで頑張って考えていたつもりで、これ以上何を考えればいいのだろうもう嫌だという感じだったけれども、結果的にうまくいっていなかったのは事実だということとか(一字一句を再現はできていない。多分、EE JUMPが解散になった直後あたりの話だと思う)。私も、そうかなと。頑張っているつもりではあるけれど、実際は何一つうまくいっていない。ならば、もっと頑張るか、もっと自分を見つめ直すか、あるいは視点をがらっと転換するかして、とにかく現実をもっと見据えないといけない。受け容れないといけない。そのうえで、どうすれば這い上がれるか。

元気になるためだったら何だって試してやるさ、あらゆる手段を講じてやるさ、と思うときもあるし、そう思う元気がないこともある。


自分自身について、身体を壊すまで頑張ろうと思っていても、その段階に至る前に心の方が悲鳴をあげるような気がする。今は、身体の方は申し訳ないくらい健康なのだけれど、心がどうしてもついていかない。

関係があるようなないようなことだけれど、私はお酒を飲んだ時は、意識が飛ぶまで飲みたいと思っていても、その段階に至る前に身体の方が悲鳴をあげる。心の方は至ってしっかりとしているのに、先に身体の方が潰れる。以前、少し嫌なことがあった時に、飲んで忘れようと思って流し込むようにしてお酒を飲んでいたら、身体がやられてしまって友人に介抱してもらって大変なことになってしまった。それでも意識ははっきりしていたのだけれど。

対比して考えることではないのかもしれない。それに、多分このへんのバランスはひとりひとり違っていて、どれがいいとかどれが悪いとかいう問題でもない。私はこうだというだけ。ただ、私についても、私ではない人についても、心か身体か、ましてや両方が潰れるまで負荷をかけてはいけないと思う。潰れる前に、誰が何を言おうと投げ出して逃げ出して休養を取ってください…と、私ではない人については思えても、自分についてはなかなかその勇気もないけれど。


毎年この季節は、綱渡りをしているような気分、あるいはとても薄い氷の上を歩いているような気分だとも言える。うまく言えないのだけれど。どうか、怖いことが起こりませんようにと願う。無事でいてくださいと。


「そよ風」(メモ程度のものを書くところ)を置いているヤプース!が、サーバーの増強作業中だそうで、「そよ風」が開かなくなっています。風に吹かれて飛んでったわけではないです。今日は確かに風が強かったですが。


2003年04月28日(月) 春の弱音(いつもごめんなさい) / 美味しいもの(コンビニのざるそばとか) / 椎名林檎「依存症」

毎日毎日、弱音ばかりでごめんなさい。自分自身でも情けない。嘘をついて元気に振る舞おうとしたくはないから、思い切って正直に書くけれど。

4月は新年度のはじまりということで、環境や生活のリズムが大きく変わる人が多いと思う。きっと、大変な思いをされている方も、苦しい思いをされている方も少なくはないだろう。だから、私だけが苦しいのだとは思わない。私が世界で一番苦しいのだとも思わない。でも、確かに私は苦しい。私は私で苦しい。苦しい苦しいと言っているから余計に苦しいのだという側面もあるだろうと思うので、あまり苦しいと言ってはいけないとは思うのだけれど、それでも自分の内側に抱え込んでおくことができないくらい苦しい。かと言って外に出したからと言って、何がどうなるわけでもないのだけれど。結局は自分自身で何とかするしかないと思ってはいる。

いつからこうなってしまったのか、なぜこうなってしまったのかのきっかけが自分でもわからないだけに、解決の糸口が見えなくて茫然としている。考えられる原因として、一つ目は、新しい仕事が増えたこともあって1週間の生活パターンが大きく変わったこと。二つ目は、自分自身の研究の行き詰まり。何を目指して、何を主張したくて、何を知りたくて、どのようにアプローチしていくかが自分自身で見えない(「どうでもいい」と表現しようかとも考えたが、よく考えると「どうでもいい」という状態にはなっていない。ただ、研究の話をするのがつらいとは思う)。

休学しようかという考えが浮かんだりもする。まだ頑張れるかなと思うのと、今の時点からだと現実的にはいろいろ面倒なことも多いので、多分しないけれど、休学したらどうだろうかと考えたら一気に気分が楽になったりもする。

身体は元気なので大学には毎日行っているけれど(休日は行かないことが多いが)、最近は泣き出しそうな気分と底なしの不安をずるずる引き摺って行っている。どうしてこうなんだろうと思うと情けない。研究室では割と普通にしているけれど、人に会うのも最近はつらくなってきた。

まだ4月下旬だし、慣れていないから苦しいんだとも思う。慣れれば大丈夫かなと。それを思うともう少し頑張ってみようと思う。ただ、5月6月のカレンダーを見てぞっとしている自分もいる。さっきちらっとカレンダーを見た時に、ものすごい恐怖を感じてしまった。言葉では説明できないけれど。

この先の1週間が怖くて仕方がない。確かに今週は比較的ゆっくりとすることができる。ただ、ここでゆっくりと休んでしまうと、もう起き上がれないんじゃないか…というか、起き上がろうとした時にものすごくつらいのではないか…と思うと、連休は恐怖でしかない。連休の先のことを考えると、頭を抱えて机の下にもぐってしゃがみ込みたくなる。実は毎年5月の方が調子が悪いのに、4月でこれだけ調子を崩しているのなら、5月にどうなってしまうか全然わからない。それでも生きていくしかない。

足の先から徐々に冷えきってくるような不安感。もしくは、前も後も、がらがらと崩れるような。

春は嬉しくて楽しいだけの季節ではなくて、随分つらいことも多いと思う。もしかすると、この日記を読んでくださっている方の中にも、疲れたとか苦しい方がいらっしゃるのかもしれない。私自身が、今、こんな状態でとても苦しいので、具体的に何か役に立つとか助けられるとかいうことはないのだけれど、ただ、とにかく生きていて下さいと思う。生きていて下さい。理由などないけれどそこに居て欲しい。私は生きます。


弱音だけだと申し訳ないので、関係ない話も。

最近、コンビニエンスストアのざるそば・ざるうどんに妙に惹かれている。食事として買うことも多い。割といいかなと思うのが、セブンイレブンのざるそば・ざるうどんで、「麺ほぐし用だし」というものがついている。これを麺にかけて麺をほぐしてから、食べてくださいとのこと。画期的だなーと思ったのだけれど、これが、かけてもなかなかほぐれない。多少、悔しい。

美味しいものを食べたら元気が出るんじゃないですかと、今日、同僚に言われたのだが、そもそも何を美味しいと思うのか、何を食べたいのか、あまり自分でもよくわからずにいる。もともと、食べ物に対してあまり不味いと思うことがないので。ただ、美味しいお蕎麦が食べたいとは、ちょっと思った。だからってコンビニエンスストアのざるそばって…とは思うけれど。

あとは、和菓子とか。紅茶とかコーヒーとか。紅茶は、そろそろダージリンのファーストフラッシュの季節なのかな。


椎名林檎の「依存症」を聴いている。そういえば、最近まともに音楽を聴いていなかった。

「あたしが此のまま海に沈んでも何一つ汚されることはありませぬ
其れすら知りながらあなたの相槌だけ望んでいるあたしは病気なのでしょう」


2003年04月27日(日) 空 / 花水木 / 泣いた / ペン / 生きていてください

夕方、西の空を見た。夕陽の赤と空の青と雲の白が入り乱れて、とても綺麗だった。そういえば、すごく久しぶりに空を見たような気がした。空はいつもと変わらずに、空として私の頭の上に広がっていたはずなのに。

最近、花水木が気になる。と言っても、これが花水木という名前だと知ったのはごく最近のこと。妙に気になる街路樹があって、これは葉っぱなのかしら花なのかしらと思い、調べてみて、それが花水木という名前なのだと知った。

名前など何でもいいのだが。あああああとか、いいいいいとかでもいいのかもしれない。けれど、名前を知っていないと「花水木ってきれいだね」と誰かに伝えたい時に伝えられない。それに、名前を知っていないと、別の時に別の場所で花水木に出会いたくなった時に、探せない。

先日、結局どうしても耐え切れなくなって、派手に泣いてしまった。しかも、普通は泣く場面ではないところで泣いてしまったので、居合わせた人を戸惑わせてしまい、かなりの自己嫌悪に陥った。

ゴールデンウィークがひたすら怖い。

相変わらず元気はないし、つらくて不安でどうしようもない状態なのだけれど(それが何かの言い訳になるとも思っていないので、頑張らなければならないと思うけれど)、それでも時々は笑っているし、ささやかに遊んでもいる。先日は、師とも姉とも慕う人に、絹物語という名前のペン(詳細はこちらとかこちらかな)をひとそろい貸してもらって、遊んでいた。ただ、私は字が小さいので、このペンで字を書くと、たいていの字が潰れてしまう。ちなみに、普段使っているペンはHI-TEC-Cの0.3mm(こちら)か、ユニボールシグノの極細(こちらか、こちらかな)で、シャープペンはCaplet(こちら)。

話がそれた。

自分がこんな状態で、こんなことを言えた立場ではないのかもしれないけれど、自分の知っている人の一人一人について、あの人はどうしているのかな、この人はどうしているかしらというのが気になる。連絡を取らなくても、その人は元気だと無意識のうちに信じてしまっているけれど、もしも、…………………? それは、できれば考えたくないことなのだけれど。

どうか元気でいてください…ううん、元気でなくてもいい、無理に元気であろうとしなくてもいい、ただただ生きていてください、と思います。


2003年04月24日(木) 涙 / 躑躅や葉桜や蓮華 / おずおずと、こっそり

瞼のすぐ裏で涙がいっぱいにあふれているのを、うっかり零れ落ちないように必死に気合いで止めているような状態が、今週に入ってからずっと続いている。あんまり良くないような気がする。

なにせ、瞼のすぐ裏では涙がいっぱいにたまっているもので、仕事上でうまくいかなかった時、疲れたときには、いつも以上の頻度で涙がうっかり零れそうになっている。そればかりか、思いがけず人の優しさに触れたときや、誰かが親身になって私の話を聞いてくれようとしたときに、ふっと気が抜けて、何かががたがたっと崩れて涙が零れ落ちそうな気がする。というわけで、気を抜かないようにかえって人を遠ざけているようなところがあって、ますます良くない。本当は、いっぱい話がしたいのに。自分の話をするだけで…例えば、「最近どう?」とか「元気?」と聞かれただけで、涙が零れそうになっている(でも、例えば「プリンタの調子おかしいねー」「どうしてかなー?」とか、「この書類の提出の期限っていつだったっけ?」「明後日じゃない?」というふうな会話だと、割と平気)。

今日も仕事。そしてやっぱり失敗。冗談抜きで死にそう。死にたくないけれど。帰りの電車の中で、じわっと涙がこぼれてきて、焦った。思い返してみると、夜、ベッドに入ってから寝付くまでの間に知らないうちに泣いていることも多い。

ちなみに、嬉しい時・悲しい時の涙と、怒っている時・悔しい時の涙は、味が違うそうだ(出典はこちらなど)。今の自分が流している涙(もしくは流れそうになっているのをぎりぎりのところで止めている涙)は、どっちの味がする涙なんだろう。そもそも、なぜそんなにも涙があふれそうな状態なのか、自分でよくわかっていないので、涙の味もわからない。

いっそどこかで思いっきり泣けたら楽なのかもしれないと思う。


躑躅がだいぶん咲いてきて、道路がずいぶん華やかになってきた。仕事先に向かう途中の桜は、すっかり葉桜。

電車の窓から、蓮華畑が見えた。飛び降りて蓮華畑に行きたいなと思った。

小さい時は、よく蓮華畑で遊んでいた。私は不器用だったので(今も不器用)、ちゃんと蓮華の花を編んで作る首飾りは作れなかった。どう言えばいいのかな。いくつかまとめて結んで…というのを繰り返して作る、見かけがとても豪華な首飾り。それは作ることができなかった。ただ、蓮華草の1本の茎に縦に爪ですじを入れて、そのすじから別の蓮華草を通して作る作り方の首飾りは作ることができた。説明がまどろっこしいけれど。私が作り方を知っていた方の首飾りの方が、どう見ても貧相だった。ちゃんとした首飾りを作ることのできる友達が羨ましかった。


昨日の日記も書きました。読んで欲しいような読んで欲しくないような微妙な気持ちなので、おずおずとこっそり更新しています。


2003年04月23日(水) こんな日

お昼前と夕方頃に(それぞれ別件の)発表。一昨日泊まり込んでいたのは、この発表の準備をするためだったのだ。が、気力も体力もすでに限界まで来ていて、大学に来る途中、ずっと、もう何もかも全部駄目だよと思って泣きそうになっていた(何もかも…って、何が駄目なのか自分でもわからなかったが)。

お昼前の発表が終わったときには、少し気分も良くなっていたのだけれど、とある人にとにかく休んだ方がよいと言われて、とある場所で寝かせてもらう。あまり眠れなくて、寝入りばなに泣いていたり、変な夢ばかり見ていたりしたのだけれど。

なんとか夕方に発表を済ませて、それから少し仕事を片付けて、帰った。


2003年04月22日(火) 手紙 …?

「そよ風」が、全然うまくつながらないので、こちらに。

誰が何を言おうとも、あなたは、なぁんにも焦らなくていいんだよ。そのまんまのあなたで、ゆっくり、ゆぅっくり行けばいいんだよ。止まったってかまわないんだから。死ななければ、命が続いていたら、倒れたままでも立ち止まったままでもいいんだから。だから自分を追い詰めないで。

…私が言っても、全然説得力ないか。ないな。でも。そういう私は、今日、信頼できる後輩の前で思いっきり泣き言を言ってしまい、どんどんへこんでしまって、ちょっとちょっと私ってば駄目だよと思ってしまった。上に書いたのと同じような言葉を後輩にもらって、泣けた。


結局大学に泊まり込んでしまった。正直、あっさり帰ってしまった方がよかったのか、帰らなくてよかったのか、自分でも判然としない。

用事が済んだらすぐ帰ろうと思っていたのだけれど、結局、まだ帰らずにいる。ちょこちょこと作業をしたりしていた。妙なところでハイテンションで、でも落ち込みだすと際限がない。

相当しっかりしていないと、やっていけないのかなと思ったりする。でも、今は自分にできることをするしかない。何があっても、撓みはすれど折れはしない柳のような強さが身につけばと思うけれど、折れる寸前かもしれないと思わないでもない。できるだけ折れないようにやっていきたい。

明日も(明日は)良い日でありますように。


2003年04月21日(月) メモ程度、と翌朝の

風の強い日。自転車をこいでいてもちっとも前に進まなかった。行きしなの電車の中、終着駅に着いたのにも気がつかずに眠り込んでいて、隣の人に起こしてもらった。

いろいろな用事が重なっていること、明日の朝はかなり早く家を出なければならないのに夜遅くなっても作業に目処がつかなかったことから、大学に泊まり込んでしまっている。帰らなければとは思ったのだけれど、どうしても体が動かなかった。

今、午前3時過ぎ。さすがに頭が回らなくなってきている。


さっき自分で自分の日記を開けたら、カウンタが3000だった。どこのどなたが読んで下さっているのか、存じ上げていたり存じ上げなかったりするのですが、読んで下さってありがとうございます。

「あなた」がそこにいて下さることは、私にとっては、とてもとても幸せなことなのです。


今、翌朝7時過ぎ(日付に偽りありだが)。

椅子を並べて横になりはしたのだが、それほどよく寝たという気もせず。当たり前か。背中が痛い。

外は眩しくてよい天気。

焦らなくていい。無理しようと思わずに、できることから少しずつ少しずつ。

…というか、胃の調子が変かも。少し落ち着いたら、休もうと思う。


2003年04月20日(日) 演奏会当日 / 寂しい葉桜 / クリームチーズ焼きプリン

演奏会に出てきた。

結論から言うと、多少調子が悪いながらも楽しめたと思う。ただ、不適切な行動をたくさんしてしまった。以前も似たようなことがあったけれど、人と会っても、どう会えばいいのかわからなくて表情が微妙に引き攣るような感じがしたり。人と話しても、どう話していいのかわからなくて逃げ出したい気分になったり。そんな自分が嫌で、ますます逃げ出したくなったり。

リハーサルの時に、先生が「無理やりにでも楽しもう」とおっしゃったのだけれど、そんなに無理をしなくても、本番のステージの上に上がっただけで自然と楽しめたような気がする。

2部の仕上がりが一番心配だったのだけれど。一番楽しかった。演奏していて一番楽しかったのが、4楽章の92小節目から(と言っても、どこなんだか?という感じだけれど)。さぁっと世界が広がる感じ・目の前が明るくなる感じがする。あるいは一気に飛翔する感じが。トロンボーン→ユーフォニウム・チューバ→ホルン→クラリネット→トランペット→フルート(ピッコロ)→オーボエ→サックスの順にパートごとに次々とスタンドプレイをしていく部分は、演奏していても見ていても、気分が高揚した。普段は滅多に本番でスタンドプレイなどしないので、目立つことができて嬉しかった…というのもある(かな)。たった6小節くらいだったけれど。

本番の演奏でしか得られないものがあると思う。これが本番だという期待と緊張が最大になって、そして聴いてくださる方が目の前にいらっしゃるという状況の中で生み出される音楽。その時しか得られない幸せな気持ち。上手な演奏でなかったとしても、自分たちの演奏だと愛しく思う。大好きな仲間と一緒につくりあげた演奏。今はその演奏と、その時の気持ちを思い出して、1人でにこにこしている。

昨日まで、すごく疲れた気持ちで元気がなくて、どれだけ気合をいれてもリハーサルにすら行けない気持ちだったのは嘘ではない。でも今日は、本当に楽しく演奏できた(出来が良かったか悪かったかはわからない)。ただ、これから、音楽活動を続けることが自分にとって負担に感じるのかそうでないのかはわからない(明らかに、今回の演奏会前には負担に感じていた)。そう思うと、これからどうしようと思う。けれど、今日、無事に演奏会が開催できたこと、たくさんのお客様に聴きに来て頂けたこと、そして私が演奏会に出演できたことに、今はただ感謝したいと思う。自分にとって大きな無理にならない程度に楽しみたい。続けられるなら続けたいと思う。けれどどうなるかわからない。できるだけ気持ちを強く持って続けたい。


時間的には前後するけれど、行きしなに駐車場に車を止めた時に、桜の花びらと花柄(?)がたくさん地面に落ちていた。あら、と思って上を見上げると、桜の木が、鮮やかな色の葉をいっぱいにつけていた。

ああ、桜の花も終わってしまったのねと少し寂しい気分になる。葉桜もきれい。けれどどこか寂しい。


本番前に「クリームチーズ焼きプリン」を食べたのだけれど、めちゃめちゃ甘かった。独特の味がした。美味しかったけれど、半分くらいの量でもよかった。


2003年04月19日(土) かなりの弱音(休むこと・元気のないこと・好きなこと)

休むときには、他のことを全部忘れて、休むことだけ考えてゆっくりと休んだ方がいいのだろうと思う。長い目で見れば、そうした方が効率がいいのだろう。より高いところへ、より遠いところへと到達することができるのだろう。

わかっているのに、どうしても焦ってしまって、中途半端にしか休めない私がいる。中途半端にしか休んでいないから、結局、効率も悪くなって、全然前にすすめなくて、悪循環に陥っている。

ただ、休んで事態が改善するという保証がない。今日も1日休んだ(休んだというか…一歩も外に出なかっただけで、来週の発表の準備を少しずつしたり、仕事の準備をしたりしていた)のだけれど、結局あまり元気にならなかった。こんな状態がずっと続いている。さすがに焦っている。いつまで経っても元気にならないように思う。もはやどういう状態を元気と呼ぶのかわからない。

もしかすると私はすごく元気なのかもしれない。と思うと、気の迷いで休んでしまっているのは良くないことだと思う。実際、人の前では割とけろっとしているので(それは無理して元気を装っているのでもなくて)、現実場面で私と接している人は、私が元気がないとは思っていないと思う(思ってほしいとも思わない、というか、思われたらそれはそれで大変だ)。

一方で、休んだことにすごく罪悪感を感じている。今日は、明日の演奏会のためのリハーサルがあったのだけれど、休んでしまった。体調が悪かったから休んだのか、頑張れば行けるのにさぼったのか、いまひとつ判然としない。いずれにしても、多少無理すれば行けただろうと思って、なぜ休んだのだろうと自分を責めている(なぜ…って、どうしても動けなかったからなのだけれど)。

少しずつ進んでいこうということなのだろうと思う。以前、休学を本気で考えた時に、「きついとおもうけれど、わからないなりにも進んでいかないと何も開けてこない気がする。あなたのような状況の場合は離れないでやり続けた方がベターだと思う」ということを、師とも姉とも慕う先輩に言われたことがある。それと同じようなことをごく最近も言っていただいた。歩きながら考えてもいいのだと。できるときにできることをゆっくりやっていこうということなのだと思うのだけれど。

休学を本気で考えた時というのが、2度目の留年が現実になりかけていた時で(で、現実に2度目の留年をしてしまうのだが)、その時の自分の状態と今の自分の状態がすごく似ているように思うのが不安をかきたてる。今の私は、あの時の自分の状態を失敗だったと捉えているので、今年もあの時と似たようなことを繰り返してしまうのではないかと思うと、なんとかしなければと思うのだけれど。

足掻けば足掻くほど泥沼に落ち込んでいるような気がするけれど、そんなものなのかもしれない。

ただ、何だかんだと言いながらも、私は、研究をすることも、音楽も、思いっきり広く捉えるならば生きることも好きなんだろうなと思う。というのは、昨日友人からもらったメールに「〜〜さん(私の本名)も遅くまでがんばるなあ〜体調よくないんでしょ?やっぱ好きなんだろうね〜」と書かれていたのを見て気がついたのだけれど。あ、そうか、私は研究も生きていることも好きなんだ、と思った。好きだからこだわっていたいし、だから苦しかったり悩んだりする。

もっとも、最近は悩みっぱなしのような気がする。この日記にも弱音しか書いていないと思うのは自分でも自覚していて、公の場(一応…)に書いていいんだろうか(よくないだろう)と思うと申し訳ない。ただ、この気持ちに出口が欲しかったから。

で、明日は演奏会。もう会場に辿り着ければいいやと思うことにする。今の状態で楽しんで演奏できるかどうかは自信がない。が、せめて、その時の自分自身を大切にして、その時に生み出された音楽と正面から向き合いたいと思う。

全然関係がないのだけれど、あたたかいプリンが食べたい。冷たいプリンでなくて。


2003年04月18日(金) 失敗したこと / 心惹かれる気持ちを抑えてしまうこと

今日はあまり日記を書きたくない気持ちでいる。日記を書きたくないというよりは、今日1日の自分自身を振り返ることをしたくないという気持ち。もっと言うと、今日1日の自分自身から逃げたい。記憶にとどめておきたくない。ただ、逃げてはいけないのだと自分に言い聞かせている。たまには逃げることも必要だと思う。でも、今日の私については、私は私から逃げてはいけないのだ。きちんと向き合わないといけないのだと思う。

一言で言うと、仕事先で派手に失敗してきたということ。慣れていないということも確かに理由の1つではあるが、それで言い訳はできない。自分自身の準備が不十分だったということに尽きるのだから。

好意的な評価をしてくれた人もいる。ただ、批判や失望の意見が返ってきた以上、それは、全面的に、あるいは全面的にではなくとも少なくともある部分においては失敗だったのだと思うし、批判や失望は真摯に受けとめなければならないし、言い訳もできないししたくないし、逃げることは許されないだろう。

怖がらないで、自分はこうしたい・こうするんだというのを毅然と示すことができればよかったのだ。あと、逆上すると頭が真っ白になって何も話せなくなる・話そうと思ったことが頭から抜けていくという自分の特性を認識していなかったのもよくなかった。

今日の失敗は、もうどうしようもない。批判や失望の意見に対しては、ひたすら謝るしかないし、でもそれで許されるとは思わない。今、私にできるのは、次に同じ失敗を繰り返さないようにすること。そのために工夫や努力を積み重ねていくこと。

努力、という言葉が適切なのかどうかわからないけれど、ひとまず「努力」とすると、努力してもしなくても、どうせ私はだめなままだし失敗するに決まっているという考えがどこかにある。だから努力しなくてもいいやと思ってしまう。でもそれじゃだめだ(いや、もともとだめなんだけれど、ますますだめだ)。とにかくやれるだけのことはやってみる。何が何でもやってみる。それでうまくいかなくてもいいじゃないの。「頑張ったけれど、うまくいかなかったという事態」は、確かにつらい。でも、そういう事態に陥るのを恐れていてはだめだと自分に言い聞かせる。みっともなく見えても、じたばた足掻いていくこと。

今日の失敗に対しては本当にごめんなさい。それで許されるとは思わない。これからは、できるだけのことはする。

ただ、闇雲に努力するだけではカバーしきれない部分があるのも確かだし、克服するのに時間がかかることがあるのも確かで、とりあえず、この、人見知りのきつさと緊張しぃは本気でなんとかしたいと思う。


仕事先に向かう途中、きらきら光るものがひらひら降ってきていて、何かなぁと思ったら、桜の花びらだった。今の私にとっては、桜が散ってしまうのはとても寂しく、怖いことだ。

夜は見事な月。本当にきれいなのに、何故だか悲しくてならない。

最近、月に対しても、音楽に対してもそうなのだけれど、あまりにもきれいで美しくて心惹かれるのだけれど、心惹かれてしまうと、自分の中のとても危うい部分…というか、何と言えばいいのだろう…ぎりぎりのバランスを保っている部分というか、涙腺と直結しているような部分をつついてしまうような気がして、月の美しさや音楽の美しさに心惹かれる気持ちを必死で抑えようとしているような、そんな感じ。


2003年04月15日(火) メモ程度の呟き

1限目の開始前、鳥の鳴き声を聴きながら1階と3階の間を何度も往復した。鳥の鳴き声が「苦しい、苦しい」と聞こえたのは気のせいだと思いたい。

ちまちま仕事の準備など。年次計画を提出したり。

帰りの電車の中で眠り込んで、降りるはずの駅を見事に乗り過ごしてしまい、かなり先の駅まで行ってしまって、半泣きになった。

月が美しく見える頃になっているということに何故だか今月は全然気がつかなくて、夜空を見上げると、確かにとても綺麗だったのだけれど、あまりにも綺麗で、何故だかだんだん哀しくなってきて直視できなくなってしまった。そんな日もある…のか?

思いがけず嬉しく、そしてありがたいこともいくつか。ありがとうございます。

「元気です」とか、「頑張ろうと思います」とは言えないような状態でいる。ただ、何があっても生きようと思う。丁寧にまっすぐに逃げずに生きようと思う。


2003年04月13日(日) ぐるぐる考える / 練習へ(休団を考えること) / いつ最後になってもいいように / お詫びと訂正

昨日の余韻で、自分が今まで何をしてきたか・何をしているのか・これからどうするのかを、ぐるぐると考えていた。その時その時で、その時はそうするのが最善だと思ったし、だから後悔はしていない。過去を振り返ると、なるようになってきたなぁとも思う。で、これからどこへ行こう? もしも、何でも好きなことを調べていいよと言われたら、私は何を調べたいだろう? 何を知りたいだろう? 誰に向かってメッセージを発していきたいだろう?


夜、楽団の練習に行ってきた。本番は来週。

この楽団を休団することについて、考えていた。音楽を嫌いになったわけではない。けれど練習に行くのがつらい。うまく説明できないのだけれど、いっぱいいっぱい。少し距離をおきたいと思う。ただ、ここで休団してしまうと、私はもう二度と戻る気にならないのではないかと思い、それが怖かったりもする。

そんなことを考えながら、少し遅刻して合奏に入ると、皆が奏でる楽器の音を聴いただけで泣けてきた。

ふっと、昨日先輩と話した時に「ここで研究をやめるつもりだったらこれが最後の研究になるかもしれないよ」と言われたことを思い出した。それを思い出して、“これが最後のステージになるかもしれない”と思ってみた。大学の学部生の頃は、卒業後自分がどうなるのかわからなかったから、特に3回生4回生の頃は、演奏会のたびに“これが最後のステージになるかもしれない”と思っていた。最近はそう思うこともなくなっていたのだが(当分の間は在団することが物理的には可能でありそうだったから)、久しぶりに“これが最後のステージになるかもしれない”と思った。そう思うと、寂しくなり、“今”音楽に向き合っている時間がとても大切なもののように思われた。同時に、これが本当に最後のステージになるとしたら悔いだらけだろうとも思った。この曲の楽しさや、ステージ上の高揚感を味わい尽くそうと思った。けれど頑張ろうとはあまり思えなくて、むしろ頑張るのがつらい自分がいて、どうして?と思ったのだけれど。

そんなことを考えながら「My Favorite Things」の合奏。曲間に、先生が「生きていると嫌なことっていっぱいあるよね。社会的にも、個人的にも。でも、ここは楽しい・大好きなことだけ考えて演奏してほしい。例えば、ハンバーグが好物だったらハンバーグのこととか、喉が渇いた時のサイダーとか…」とおっしゃったので、自分の楽しいこと・大好きなことを思い浮かべてみると、何だか哀しくなって涙が出そうになって、なぜ哀しくなるのだろうと思うと余計に哀しかったりした。

結局、休団届の用紙を取ってこようと思ったのに、取りそびれた。


この日記だって、いつ「これが最後の日記」になっても不思議ではない。今のところその気はないけれど。ここでやめるとしたら悔いばかり残ると思うけれど、でも、これが最後の日記になってもいいような覚悟はしておかなければいけないと思った、というか、その時その時で書く苦しみも書く楽しみも思いっきり味わっていこうと思った。


昨日、「3月5日の日記に書き足しをした」と書いたが、まるっきり嘘で、本当に書き足しをしたのは4月5日の日記です(3月5日の日記には何も手を加えていません)。うっかり3月と書いてしまいました。4月になっているのに、3月と記述しているあたり、自分のやる気のなさと新年度に向けての気合いのなさを如実に現していると思うと恥ずかしい。

昨日から「紙2001」というソフトを使って日記の下書きをしているのだけれど、今日開いてみると、それにつけた見出しも「3月12日の日記」「3月5日の日記」と書いていて、おいおいなんでだろう何を考えていたんだろうと思う。

「なんでだろう」で思い出したけれど、昼間にテレビでテツandトモの「なんでだろう」を見て以来、一日中「こんぶが海の中で 出汁が出ないのなんでだろ〜」「なんでだろう〜なんでだろう〜 なんでだなんでだろう〜」というメロディーが頭の中でぐるぐる回っていて、気がつくと「なんでだろう〜」と口走っている。


明日からまた戦わなければ。差し当たりなんとか頑張るしかない。


2003年04月12日(土) 研究会・涙・日記

久しぶりの研究会に行ってきた。2〜3ヶ月に一度開催される研究会で、いつも参加していたのだけれど、ここ数回は特に別の用事と重なったわけではないのに、行けずにいた。今回も行けないかなと思っていたけれど、昨夜になって突然“今回は行こう”と思い、行ってみた。

この研究会は、自分の原点にもなっている研究会なので、今の自分の閉塞状況(と私自身は認識しているが)を何とかすることができるかもしれない・何とかしたいと思ったから行く気になったというのもある。結果的には、研究会自体は、非常に示唆に富んだ興味深い御発表だったのだけれど、余計に落ち込んだというところはあった。

引き続いて懇親会に出席する。ここでも落ち込みモードから抜け出せず。いろいろな人のいろいろな話を聞いて、今の私は何をやっているんだろう?何をやってきたんだろう?と思い、私はこんなのではだめだし、これまでもだめだったし、これからもだめだろうというのだけはよくわかって、知らず知らずのうちに無口になっていた。

ぽけっとしていると、久しぶりにお会いする先輩が、「最近どう?」と話し掛けてきてくださった。「もう全然だめなんですよ」と、思わず弱音。「なぜ?何が」と言われたので、ぶわっと現状をお話する。

すごく焦らされているような気がする。頑張らなくてはいけないのに頑張れない。絶えず生産的なこと(論文を書いたり、次の研究計画を立てたり…)をしていないと、どんどんだめになっていくのはわかっているのに、どうしてもできない。それは自分の努力も気合も足りないからだと思うから、努力しなければならないのに。周りはどんどん論文を出していて、どんどん研究を進めていて、なのに私は。

「必要なのは気合いなのかな?」と先輩はおっしゃった。「今のあなたに必要なのは、気合いや努力ではない」と(と私は解釈した)。要するに、どこの方向に向かって進んでいくか、自分がテーマとどう関わっていくか、自分が何を大切に思うか、それが無い状態では頑張れないよ、と。逆にそれがあれば、おのずと進んでいくのだとも。そして問われた。あなたの仮説は何なの?一番おもしろいと思うことは何なの?と。問われて止まってしまったというのが、今の自分の状況を如実に現しているように思う。それは、仮説(と差し当たり呼んでおく)を否定するような出来事が最近プライベートで起こってきてめった打ちにされたというところもある。

もう、この道をあきらめた方がいいのかもしれないという話もする。「やめるなら止めないよ」と言われた時に、やっぱりやめたくないと思う。やめようかななんて他人に話すのは、やめるなと言って欲しいという気持ちがどこかにあるから。「やめるなら、次の研究が最後になるかもしれないのだから」の言葉に、一瞬ぞっとした。しかし、このままの状態を続けていると、やめざるを得なくなってしまう。

「そもそも、あなたのもとは何だったのか?」(この方向に引っ張ってきたのは何だったのか)と問われ、自分が自分をこの方向に引っ張ってきたと思うところの出来事を話す(それが何かは、ここでは書けない)。話しているうちに、そうか私にとってここが原点だったんだと思い、それに引き換え、今の私は何をやっているのだ?とやっぱり情けなくなり、かつ、その出来事に遭ったときのつらかった思い、聴いてくれる人がいる安心感…で、ぼろぼろ泣いてしまった。かなり恥ずかしく、ここは泣く場じゃないと思ったから必死にこらえたのだけれど。

そのままの形では研究にのせにくいだろうとは、先輩もおっしゃったし、自分でもそう思う。「けれど、何らかの形でそこに戻ることが、あなたには必要なのかもしれない」と先輩はおっしゃった。ただ、あなた自身がそのテーマによって切られるようなところがあるから、どこまで自分を切る覚悟ができるかとは言われた。

だからそれで私は具体的にどうしたらいいのだろうということは、まだ見えないままだ。しかし、自分がなぜここまで落ち込んでいるのか、その原因がわかっただけでも随分と楽になったところはあった。

そして、唐突に思われるかもしれないけれど、「だから私はどうしたらいいのだろう」の問いに対する答えの1つが、私にとっては「日記を書く」ということではないだろうかと思った。具体的な研究には直結しないかもしれない。けれど、私にとって日記を書くことは、研究活動や日々の生活・時間の使い方を記録し管理するということ以外の別の意味があるように思うのだ(もっとも「研究活動や日々の生活・時間の使い方」なんて、ここには書いたことがないけれど…)。自分が自分をどう見たのか、世界をどう見たのか、それをどのように感じ、どのように意味づけ、どのように言葉による記録として残そうとしているのか(しかも、他の人の目があるこの場所で)。自分を振り返って、自分が語り、そうしながら他者に目を向けること。テーマ的に、ある程度自分を賭けているようなところがあるので、自分が生きることが研究になるともいえるし、研究をすることが生きることでもあるように思う…ということを考えると。

だから、ポジティブなことばかり書けないかもしれないし、むしろネガティブなことの方が多くなるかもしれない。けれど、血を吐くような思いをしても、他者の借り物のことばであったとしても、とにかく書こうと思っている。毎日にはならないかもしれないし、短いものしか書けない日もあるかもしれないけれど。

あまり派手には書いていないし、ひっそりと書き続けていきますが、見捨てずにお付き合いいただければ幸いです。


3月5日4月5日の日記に書き足しをしました。読んで欲しいような読んで欲しくないような微妙な気持ちなので、あえてリンクははりませんが。
→追記:最初書いた時に月を間違って書きました。ごめんなさい。


2003年04月11日(金) 無い力をふりしぼって備忘録程度に

1日中大学にいたのだけれど、夜になって同僚と話などしていたら、だんだん不安と悲観的な気分が募ってきて(同僚に責任はない)、いろいろぐるぐると考えながら帰ってきて、それを何らかの形で書きとめておこうとは思ったものの、体力がぷっつり切れて、きちんと書くだけの気力が残っていない。電車の中では、いろいろなフレーズが断片的に頭の中にぽつんぽつんと浮かんでいたのだけれど、ぽつんと浮かんで、拾う間もなく消えていった感じ。

だから、かろうじて拾うことのできた断片だけ。

立ち止まらずに頑張らなければならない、立ち止まってしまえば自分の身に跳ね返ってくるだけ。結局は論文を書かないとどうしようもない。何の取り得もない私。何をしていても「こんなことをしていいのか」と思う。私自身がしっかりしていないと、潰されるのは早いだろう。もう潰れるかもしれない…とか思った瞬間で終わりかも。出口が見えない。私、あまり人に頼ってはいけないな。突破口として明日は研究会に行ってみようかな(実は休むつもりだった)。私は、なぜここで日記を書いているのだろう。道端にノートを開いて置いているようなもの。わかってほしい。わかりたい。弱音ばっかり。それじゃだめなのかな。楽団を演奏会後から休団しようかと考えていること。練習に行くのがすでにつらい。しかし休団すると復帰できないようにも思う。


躑躅のつぼみを見た。それから、私、牡丹を見に行きたい。

“はなのはなしなんてはなしにもならないわ”なんて、みはなしたりしないでください。


2003年04月10日(木) 春の花の黄色 / 桜 / 差し当たり

春の花の黄色は、ふわりとした優しい感じがすると思った。

たんぽぽ。菜の花。野芥子。

黄色は、とりたてて好きな色だというわけでもなかったのだけれど、この黄色の感じは好きだなと思った。

夏の向日葵の黄色は、また少し違った感じがする。凛とした明るい感じ。


昨年のメモを見ていると、どうやらちょうど1年前の4月10日には、ほとんど桜は散ってしまっていたようで、しかし今年はまだかろうじて咲いているので、昨年の桜がよっぽど早かったのかなと思う。

最近は、散らないで欲しいと、なんだか祈るような気持ちで桜を見ている。


今日は初めての仕事先に行って、大した仕事もないのに、初めてだというそれだけでものすごく緊張した…という話もあるのだけれど、明日は朝が早いので、差し当たりこれだけで。


2003年04月09日(水) 新年度 / 元気 / ない / 笑み / メロディー / ありがとう

元気がない、調子が悪い、やる気ない、準備できてない、不安でいっぱい…と言っても、それでも新年度が徐々にではあるが始まっている。些細なきっかけで、すごくすごく頑張ろうと思ったり、逆にもう全然駄目だよと落ち込んだり、何かと浮き沈みが激しい。テンションが上がりすぎる時と下がりすぎる時の差が大きすぎる。そのくせ、どこか緊張感は抜けているような感じ。

今年度は、自分自身の1週間の予定が、この2〜3年過ごしてきたのと少しだけ違ったものになる。この説明じゃわかりにくいな。「何曜日は何時に家を出る必要があって、何がある」というのが、これまでと少し違うものになるのだ。今週から本格的に新年度が始まって、ようやく水曜日まで動いてきたけれど、どうもリズムがつかめないような気がする。ある程度のリズムができるまで、少し苦しいかもしれないなと思う。早くリズムを作りたい。今は、何かといっぱいいっぱい。これからますますいっぱいいっぱいになるであろうことを思って、悲観的になったりする。

今週は意味もなく大学に長居している。夜遅くなればなるほど、だんだん帰る気が失せてよくない。遅い時間になってから帰ると、何故か、身体が頼りない感じになるので、もっと早く帰ったほうがいいのかもしれない。

あぁ、少し眠いな。あくびがぱこぱこ出ている。


元気はないけれど、身体は申し訳ないくらい健康(ただ、頭痛が酷いときはある)。

元気があるってどんな状態だったっけと思ったりもする。

元気がなくても生きていけるのだけれど。

今は、元気がなくても、桜がきれいだからまぁいいかと思ったりしている。


で、今日も少し遅くなったので、帰りもぼけっとしながら自転車をこいでいた。

私は、帰りしなは、引っ越してくる前の家の跡地が見えるような道を選んで帰ってくる。そういう道を帰ってきていても、今から自分が帰るべき家はそこからもう少し先にある新しい家のある場所だと、いつもはわかっている。しかし今日は、疲れていたからなのか、ほんの一瞬、今から自分が帰るべきところは前の家のあった場所であると思い、この場所に家があるかのように感じて、あぁもうすぐ自転車を止めて家に入って休めるなぁと思ってしまった。そうでないということにはすぐに気が付いたけれど、不思議な感じだったし、そうかこの場所ではないんだと思うと、寂しくもあった。

昔、可愛い絵葉書を見つけて、一瞬、これであの子にお便りを書こうとごく自然に思ったのだけれど、その直後に、どんなに頑張ってももうあの子のもとに手紙を届けることは出来ないということに気がついて、愕然としたことがある。その時の感じに似ていた。

それはもう無いのに、無いということを忘れていて、それが在ることを前提として、あれをしようこれをしようと思う。しかし、ある瞬間に「無い」ということに気が付く。そういう時に、「無い」という寂しさを最も強く感じるような気が、私はする。


意地を張って笑っていてやろうとするよりも、自然に、ふうわりとこぼれるような優しい笑みをいつもたたえていることができれば、と思う。


今日は、頭の中でずっと『遺書』(Cocco)のメロディーが流れていた。タイトルは、一瞬ぎょっとするようなものだけれど、メロディーは優しい感じがします。


いつも読んで下さっている方も、間違って此処にたどり着いた方も(という方がいらっしゃるかどうかわかりませんが)、此処に来てくださってありがとうございます。

読んでくださって、ありがとう。


2003年04月07日(月) 春 / 今夜の音楽

夜、帰ろうとして、建物の外に出た時に、あぁこの風は…と思った。うまく言葉にできないのだけれど、冬の刺すような冷たさとは違う、ぬるくて優しくて重いような風。そんな風が身体を包み込む。

あまり元気のない状態で迎えた新年度。自分自身がこんな状態であるだけに、春の明るい雰囲気が少し苦しい。一方で、名も知らぬ花を見つけてにこにこしていたり、鳥の明るい鳴き声にわくわくしている自分がいる。

桜は、昼に見るのと夜に見るのとでは随分感じが違うし、桜の名所といわれるところにあるのを見るのと、ごく普通の街中にすっと立っているのを見るのとでも随分感じが違う。

ほぼ1日頭痛に苦しめられていた。よっぽど酷かったら帰って休むのだけれど、そこまで酷くないので少し我慢すれば普通に活動できたのがかえってきつかった。しかし明日は朝早いので、もう休む。


今夜聴いた音楽(順不同)

・『エイリアンズ』 / キリンジ
・『幸福論』 / 椎名林檎
・『風紋(原典版)』 / 保科洋(作曲)


2003年04月06日(日) (頭痛のためメモ程度に、と言いつつ多少長め) アルバイト先の送別会 / Cocco「荊」

頭痛がするのでメモ程度に。

アルバイト先の送別会に出席してきた。出席すると返事はしたものの、本当に自分が送別される立場の人として認識されているのかどうか自信がない状態で行ったのだけれど、きちんと「やめる人」として認識されていて、ほっとしたような寂しいような気分だった。

実は、今もやめる覚悟はできていなくて。私は、随分、この場所(場所自体というか組織?)に依存してきたというのを改めて思い知った。アルバイターとしては大学2回生の時からお世話になっていたのだけれど、それより前に、アルバイターとしてではなく関わった時間も含めると、今までの人生のおよそ半分をこの組織と一緒に過ごしてきたから。

組織、と書くと、なんだかすごくわかりにくいな。アルバイト先は進学塾です。教える立場ではなかったですが、裏方の仕事をしていました。

ということを考えると、私はこの塾に育ててもらったようなものだなと思う。いいこと、たくさんあった。一方で、いいことばかりではなかった。嫌なこと…というか、随分きついこともあったし、わめいてぶち切れたことも、どうしてこんなことを?と思うこともあった。それを全部ひっくるめて、自分の大切な思い出だと言えるし、この塾のいいところも悪いところも、愛している。

やめる理由が、本業との両立が限界になったというのが主な理由ではあるけれど、やめた後、私はどうなってしまうだろうと不安になる。もう限界だからと思う一方で、もっと続けたかったとも思う。…というのを、お世話になった先生にお話したら、「いつかは終わりにしないといけないのだし、でも、やめてもまたいつでも遊びにきたらいいんだよ」と言ってもらえた。それで、すとんと落ち着いたような気がした。

他にも、最後に、先生方といろいろな話。昔のこと、仕事のこと、私のこれからのこと。一言一言が、心にしみた。

中学時代にお世話になった英語の先生が、5〜6年前にご病気で亡くなられていたことを初めて伺ったりもした。鼻の奥がつんとして、世界が引っくり返るような感覚に耐えながら、そうなんですか、と答えた。それ以上のことは言えなかった。死なないで欲しかった。生きていても、関わり合うことはもうなかったのかもしれないけれど、でも、生きていて欲しかった。

記念に、私は先生方からティーポットをいただいた。「やめる人のイメージに合わせて選びました」とのことだったのだけれど、ちょうどティーポットを買いたいなと思っていたところだったので、なぜ私の欲しいものがわかったのですか?と、不思議に思ったし、嬉しかった(というか、お世話になりっぱなしだったので、こんなありがたいものをいただけるとも思っていなかった。申し訳ない)。

とは言うものの、引き継ぎが完全に済んでいないので、あともうしばらくは時々通います。


前の話と全然つながりはないのだけれど。昨日・今日で、久しぶりにCoccoの「ベスト+裏ベスト+未発表曲集」を聴いていた。

このままでいい
このままで ずっと
傷が癒えてしまえば
この雨さえ
痛くもないなら

倒れていたい
飛べなくてもいい
きっと走れるだろう
この体は
生きられるはず
最後まで

(Cocco「荊」より)


2003年04月05日(土) 練習へ / きちんとした形で書けなかった。 /←(追記)書いた。

夕方から練習に行く。本番まであと2週間なので、人が揃ってきて、いろいろなメロディーの重なりを感じられるようになる。音の洪水の中に居るだけで心地よいと思う。

調子が良くないのは相変わらずで、人と会っても、どう会えばいいのかわからなくて表情が微妙に引き攣るような感じがした(そんな状態で、此処に日記を書いているのは良くないことだという気はする)。練習後に案内葉書の発送準備作業(宛名貼り、チラシの封入など)があったのだけれど、途中で抜けてきてしまった。

来週からいろいろなことが動き出すのに、どうしようとは思うけれど、動き出したら動き出したで、何とかなっているかもしれない。


この先に、少し書きかけていたのだけれど、書ききるだけのパワーがないので、止める。書けそうになったら、また書くかもしれない。ずっと書けないかもしれない。それもそれで、そういうこともあるのかもしれない。きちんと日記にして書けなくても、自分の中には存在したものだということで。書かなければ忘れていくかもしれないし、忘れないかもしれないけれど。

なんだか、いろいろごめんなさい。


(追記…4月13日。この時に書こうと思って書けなかったこと)


先週、22歳の女性が自転車に乗った女性に突然刃物で刺されて亡くなったというニュースを見た。朝のワイドショーで(いつのどこの番組かは忘れたけれど)、そのニュースが取り上げられていたのを見た。ちょうど葬儀の風景だったので、少し見ているのはつらかったのだけれど。

その番組の中で、友人だったという女性が、「えっちゃんと、これからのこととか、もっといっぱい話したかった」ということを言っていて、あぁ…と思った。私もそう思ったことがあったということを思い出した。私とおんなじだと思った。もっといっぱい、これからのこととか話したいと思っていたし、話せると思っていた。これから一緒に、いろいろなものを見たかったし、いろいろなことを知りたかったし、いろいろなことを話し合いたかったと思った。彼女が亡くなったと知った時、もうそれは不可能なのだと思い知って、なぜそう思った時にそうしなかったのかと悔やんだ。

あれから、数年の月日が流れた。彼女の他にも私にはたくさん友人がいて、いろいろ話したり遊んだり笑ったりする。けれど、時々ふっと、“これで会うのが最後となったとしても後悔のないような会い方ができているだろうか”と思うと、反省せざるを得ない。そういう会い方をしなければならないのだろうと思う。というか、したい。そんなことは考えたくもないというのも気持ちの中にあるけれど。


2003年04月04日(金) 新年度のはじまり(さらに後ろ向きな日記)

最近、春なのに、テンションの低い後ろ向きの日記しか書けていないというのは自分でもある程度はわかっていて、自分でもどうだろうと思うし、もし読んで下さっている方がいらっしゃるなら、申し訳なく思う。同時に、いつ愛想を尽かされるだろうと恐れている部分もある。

と書いていて、今日もやはり後ろ向きの日記。

………(申し訳ないので、インターバルをおいてみます)………。


私の居る環境では、実質的に今日が新年度のスタートになる。で、昼過ぎから皆で集合していろいろなことをしていたのだが。

なんというか、冗談抜きできつい1日だった。こんな感じに調子が悪かったのは久しぶりのことだった。途中で、どうしようもなくテンションが下がって、理由もなく苛々して誰とも話したくなくなって逃げ出したくなっていたのだけれど、そういうわけにもいかず。無理に平静を装おうとすると、かえって表情が引きつれてしまう。別に誰が悪いわけでもないし、誰のせいでもなくて、自分自身の問題なのだけれど。

さっき、1年前のメモを読み返していたら、昨年の同じ日も私はこんな感じだったようだった。なぜだか時々こんなふうになってしまうことがあって、自分でも何とかしたいのだけれど。

私は此処にいていいのか?と思ったり。何もかもが足りない。やる気も業績も努力も勉強量も読んだ文献の量も基本的な知識も。あるのは、ここでやめたくない、もっと研究を続けたいという気持ちだけ。気持ちに見合うだけの行動が足りない。

それでも、1年前は、絶対に何があっても負けてなるものかと思っていたけれど、今年は闘う前から負けているというか、不安ばかり。私は乗り切っていけるのか?この1年をきちんと過ごせるのか?と。

帰り際に、気のおける後輩に、「もう疲れた、駄目かもしれん、私」と、がぁぁぁっと言い置いて帰ってきてしまって、後で、なぜあんな心配させるようなことを言ってしまったのか(言うべきでなかった)と思う。いや、言った内容は嘘ではないが。その意味では、同じような内容を此処に書くべきではないのだろうとも思うのだけれど。

この1年(数年か?)、“もう駄目かもしれない”ということが時々あって、そのたびになんとかごまかして切り抜けてきた感じがするけれど、それもいつまでもつだろう。

この先に自分の身の上に起こることが、つらくて苦しいことしかないような気がして、でもあまりそういうふうに考えてはいけないのだろうとも思うと、自分がこんなに後ろ向きなのがつくづく情けない。

…なんか、春なのに、こんなので、ごめんなさい。

もっと、しなやかに強くなれればいいのにと思う。今は、多少無理をしてでも、自分のしたいこと・しなければならないことを精一杯したい、言葉だけでなくて行動に移したいと思います。が、エネルギーが切れている感じが。


関係ないのだけれど、私が日記を(一応、公開の場である此処で)書いていることに対しても、私は同じようなことを感じているような気がする。

私は此処で書いていていいのか?とはいつも思う。何もかもが足りない。文章力もないし、素敵な生活も送っていないし(それでも1日1日は、私にとってかけがえのないものではあるが。こういう日も含めてね)、大して内容のあることが書けるわけでもない。あるのは、ここでやめたくない、もっと日記を書きたいという気持ちだけ。それもいつまで続くのか、最近はよくわからなくなってきている。

日記をやめても、私の生活も、あなたの生活も、特に大きく変わることなく穏やかに流れていくであろうとは思うのだけれど。


2003年04月03日(木) 勢い余った、春の1日 / 寂しさ

美容院に行って、髪の毛を4cmほど切り、パーマをあてた。初めて行く美容院だったので、身体が強張ってうまく動かない感じがした。女性週刊誌を手渡され、その中の摂食障害についての記事を何となく読み耽ってしまった。

その後、大学に行く途中でふらふらと寄った化粧品店(厳密には化粧品店ではないのかもしれない)で、勢い余ってファンデーションと化粧下地を買う。勢い余ってという言い方はおかしいのだけれど、どう考えても、美容院に行ってやたらとテンションが上がっていたとしか思えない。買い物よりも店員のおばさんとの会話を楽しんでいた。私は人見知りがきついので、本当はこういう場で店員さんと話すのは苦手なのだけれど、この店員さんには割と抵抗なく、すっと喋ることができた。丁寧で、笑顔の優しい方だった。

その後大学に行くが、あまりにもお天気がよかったのと、天気予報で明日は晴れではないと聞いていたので、電車1と電車2の乗換駅から大学まで、お花見を兼ねてふらふらと歩くことにする(「電車1」と「電車2」に関してはこちら)。今日は一昨日とは少し違う道を通ってみる。やっぱり桜のたくさん咲いている道を選んで。一昨日よりはたくさん咲いていた。そして一昨日よりもお天気が良かったので、他にも桜を愛でている人がたくさんいた。「今年の桜は白いですね」と話しているおばさんとおじさん。絵を描いている人。写真を撮っている人。川沿いにはお弁当を広げている中学生のグループ、大学生のグループ、お母さんと子ども。昼寝をしている人。本を読んでいる若い人。車椅子のおばあさんと、車椅子のおばあさんと同じ高さにしゃがんでいるおじいさんがお弁当を食べていた。

桜。上の方に咲いているのも、少しはずれて下の方に咲いているのも、なんて綺麗なんだろう。なぜあんなに毅然と綺麗なのだろう。上を見上げると、風にのって時折ひらひらと桜の花が落ちてきていた。あるものは土の上に。あるものは川に落ちて流れていく。地面に落ちている桜の花を拾って、手のひらに載せて、しばらく眺めてみた。大切な宝物のように思われた。

この季節に、雪柳が、目の覚めるような白さで美しく咲いているということ、私は今まで知らなかった。

大学に行って、その足で教務の窓口で新年度にもらわねばならない書類をもらい、研究室に行き、ぼけっとしていると後輩が遊びに来てくれたので、散歩をしながらしばらくお話。

後輩と別れて、引き続き研究室でぼけっとしていると、突如、行きたいと思っていた展覧会が今日までであることに気がつき、一時逃亡して展覧会を見に行く。

もう一度研究室に戻り、そのまま21時過ぎまでぼけっとし、21時過ぎてから、あきらめて帰る。

勢い余っていろいろなことをしてしまった日だけれど、なぜか勢い余って本業が進むということにはならなかったのが、どうだか、と思う。少し反省。ただ、実質的には明日からいろいろなことが動き始めるので、ゆっくり時間を取れるのが今日くらいだった。私にしてはアクティブに動き回ったので、今は少し頭が痛くて、眠い。この季節になって少し暖かくなると、私は割と頭痛が出やすい。身体が疲れたと訴えているような気がする。まだまだ大丈夫と頭では思っているのだけれど。


寂しいから書くのか、書くから寂しいのか。

よくわからないけれど、今は、ただ、書きたい。


2003年04月01日(火) 歩く / 4月1日

学校への行きしな、突如、お花見を兼ねて歩いてみようと思った。

いつも大学へは、(家)→自転車→電車1→電車2→徒歩→(大学)という手段で通っている。だが、電車1と電車2の乗り換え駅から大学までは歩くのが不可能ではない距離なので、1年に1度くらい気が向いた時に、電車2に乗らずにふらふら歩くことがある。今日はそういうふうに気が向いた日だった。電車1に乗っている時に窓の外に見える桜があまりにもきれいに見えたから。週間天気予報によると、今週はお天気のよい日が少ないようだったので(今日も曇り空ではあったのだけれど)。

知り得る限りでなるべく桜の多い道を選んで歩いた。お花見というには少し早かったかもしれない。しかし、もう既にかなり咲いていたので、ゆっくりと花を愛でながら歩いた。時々立ち止まりながら。ものによっては、今から咲き始める雰囲気のものもあった。

私は桜が好きだ。もう、なんと表現していいのかわからないくらい好きだ。その割には、桜の名所と言われるところにはあまり行かないのだけれど。遠くから見るのも、近くから見るのも好きだ。見ているだけで、優しい気持ちになれるような気がする(…のは錯覚か?)。今年も咲いてくれてありがとうと思う(私のために咲いたのではないことは知っているが)。今年もこのように桜を見ることが出来てよかったと思う。

途中、川沿いの道を歩いた時に、少しだけ海の匂いがしたような気がした。あまり海には行かないので気のせいかもしれない。あるいは雨の匂いと混じったか。

桜以外の花も見た。足もとにたんぽぽ、はこべ、おおいぬのふぐり。その他、雪柳や連翹(…という名前なのかどうか少し自信がない)。雪柳の白さに目を奪われる。

途中、小さい女の子と乳母車を押したお母さんが散歩しているのに出くわした。女の子は枝垂れ柳の下で立ち止まり、手の届くところの枝を集めて掴んで、嬉しそうに笑っていた。〜〜ちゃん行くよ、と優しく声をかけるお母さん。

私は気分の浮き沈みが多少激しいようで、気分が落ち込みやすいし、一度ネガティブな方向に振れてしまうとなかなかポジティブに戻らない。ただ、今日歩きながら見たもの聞いたものは本当に美しくて、嬉しくて、なんだかにこにこしながら歩いていた。時々は、こういうふうに歩いてみようと思った。


4月1日。私の周りにも、環境が大きく変わった人も、そうでない人も。

同僚・先輩と話をしていて、とにかく失敗を恐れずに次々がんがんいくしかないねと。失敗したとか、あぁ駄目だったとか思っても、立ち止まらずに、“はい次”って、どんどん進んでいくしかないねと。それでうまくいけば儲けものみたいな感じで。

そうできないことだってあるだろうけれど。私自身、かなりののんびり屋なので、そんなの絶対無理だよと思わないでもない。ただ、私に関しては「私はのんびり屋だから」と自己規定してしまうことによって現実から逃げてるふしが、ないでもないから。できることから少しずつ。少しずつって言ってるから駄目なのかな。たまには思い切って。

時と場合によるだろうけれど。


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