風紋 もくじ / この前 / この後
そういえば、5月って31日まで存在したんだなぁ…と思った。そして、5月が今日でもう終わりであることを、今日はじめて実感した。5月に自分に何ができたかって…何も意味のあることはできなかったような気がする。茫然として、途方にくれてばかりだった。あぁ、大切な人に会うこともできたけれど。それは嬉しかった。 以下は一部「そよ風」の記述と重なるけれど。今日は1日中、身体がだるくて、ぼーっとしていた。掃除も、論文の整理も、研究計画も、原稿執筆も、書類書きも、仕事の準備もできないまま。疲労が蓄積しているのか、身体がだるくてだるくて仕方がない。 眠れば夢ばかり見ている。昼に見た夢は、高校時代の友達に携帯で電話かメールをしようと思ったのに、番号orアドレスを間違えて全然届かなくて連絡が取れないという夢を見た(そもそも彼女の携帯の番号は実際は知らない)。連絡を取った目的は、小型飛行機か気球に乗るためだったように思う。乗るための準備までしていた(実際はもちろん乗れない)。 今朝方は、ダイエー(スーパーマーケットの方)に関係した夢を見ていた。買い物をしていたのかな。あと、たまたま見かけた、「はてなアンテナ」の登録日記数が、前回見たよりも格段に増していたという夢(私は「はてなアンテナ」を実際には使っていないし、夢に出てきたものも自分のアンテナではなかったような気がする)。 しなければならないことはたくさんあるけれど、何もかも忘れて、ひとまず今夜は眠ってしまおうかと思う。ご挨拶したい人やところ(その中にはこの日記をお読みの方もいるし、そうでない方もいるのだけれど)もたくさんあるのだけれど、少しだけ時間を下さい。 実は、今になって頭がやっとクリアになってきつつあるのだけれど、今日はやっぱり眠ります。 夏になると、アイスコーヒーが飲みたくなる。きらきらと光るグラスに、やっぱりきらきらと光る氷と真っ黒な液体が入っているのは、ちょっと大人びていて恰好いい(実際は私はミルクを入れることが多いので茶色になるけれど)。そんな洒落た雰囲気が好きで、夏はよくアイスコーヒーを飲みに喫茶店に立ち寄る。今年は、紅茶のリーフもいくつかあるので、アイスティー作りにも挑戦してみたい。そう言えば、新しい紅茶を買いに行きたいのに、なかなか行く時間と体力がないままでいる。 昨日(5月30日)の日記も書きました。
良い方向に向かってきた、という感じも、少し得ることのできた日。 今、低空飛行の状態だからといって、ずっとそのまま低空飛行しっぱなしというわけではないから、と言われた。いつか上がって行くときもあるから、と。びっくりした。嬉しくて思わず泣きそうになった(寸前で止めた)。今、すごく悪い状態であるのは自分でもわかっていた。ずっとこのままで、ずっと希望などないだろうし、絶対抜け出せないに違いないと無意識のうちに思っていた。そうは言っても、実際はもしかするとずっと抜け出せなくて低空飛行しっぱなしなのかもしれないけれど。それならそれでもかまわない。希望がなくても、死にはしない。 ただ、ずっと研究をやっていくつもりなのだったら、今後のためにも、規則正しい生活をした方がいいとも言われた。夜はきちんと寝て、朝にきちんと起きるようにした方がいいと。考えてみたら、この状態になる前から、夜は2時や3時(場合によっては4時前後)に寝るのは当たり前だったし、朝に起きるのが遅くて、結局1日に2食しか取らない日も多かったな…と。それでも何とかやっていっていたけれど…。 ふと、2月〜3月に考えていたことを思い出す。4月になったらやってみたいと思っていたことが、たくさんあったなぁと。あんな研究もしてみたかったし、こんな研究もしてみたかったなぁ。あの分野に関する知識も、もう少し論文を集めて深めたかったなぁ。いろいろ希望を持って考えていたなぁ…と。それなのに、何がどうしてこんな状態になってしまったのかと悲しくなった。何にもしたくなくなって、する気も起こらなくて、でもしなければならないという圧力(と私には感じられるところのもの)があって、それに苦しめられているような状態。それは単なる甘えなのだろうけれど。今からでも何かできるかな…と思う。それは、当初考えていたものとは多少形は変わってしまうかもしれない。迂回することになってしまうかもしれない。あんまりスマートな形にはならないだろう。けれど、今の私なりに、できることが、何かあるだろうか。したい。1つでもいいから。 “流れに流されるのでなく、自分で流れを作っていく姿勢を持ちなさい”と言われたことがある。今の私の場合、流れをつくるどころか、溺れかけているような気がする。せめて私の人生の主人公は私でありたいと思う。 夜、電車に乗って、周りを見回すと、携帯電話で喋っている中年の男性が2人ほど、携帯の画面を見つめている男性・女性が3人ほど居た(たぶんメールを交換している)。もし、この世に携帯電話がなかったとしたら、今この瞬間に私が見ている風景は、どんな風景になっているのだろうと思った。想像できなかった。 携帯電話は、とても便利で、暖かくて、優しくて、でも少し寂しいツールだと思った。あるいは、とても安心できるけれど、とても不安なツールだ、とも言えるか…。
結局、身体的にも精神的にも大丈夫だと言える状態ではなかったけれど、仕事には行く。電車の中でずっと「帰りたい。もう休みたい。何だかお腹が痛いような気がする。こんなのでこれから私は生きていけるのかなぁ。こんなにやる気がなくてどうしよう」と、死ぬ思いだった。
弱音ばかりでごめんなさい、こんな私でごめんなさい、と思いながら、ごまかしても仕方がないので、正直に近況を。「そよ風」には、ちょこちょこ書いていたけれど。 明日聴こうと思う音楽 (1)「バレエ音楽『ラ・ペリ』より ファンファーレ」:デュカス作曲 (Paul Dukas : "La Peri" - Fanfare) (2)「ロサンゼルスオリンピック ファンファーレとテーマ」:ジョン・ウィリアムス作曲 (John Williams : Olympic Fanfare and Theme 〜Commissioned By The 1984 Los Angeles Olympic Organizing Committee〜) 明日は仕事でどうしても出かけないといけないので。ファンファーレを聞くと何となく元気が出るから。どちらもとても好きなファンファーレです。一度聴いてみて下さい。私は演奏したことはないのですが。
一言だけ。 私、苦しいとか疲れたとかつらいとか、そういう気持ちを素直に受容できないのが悪いのか、とふと思う。そういう気持ちを感じてしまう自分を駄目な奴だと思って否定するのがいけないのか、と。 何か不思議な力に押されるように、本をたくさん買ったり注文したりする。注文の方はまだお金を払わなくていいので、今のところはそれほど買ったという実感はないのだけれど、よく考えるとよく買っている。
風の強い日。風の音を聞き、右に左に揺れる木々を見ながら、少しわくわくしたり、少し不安な気分になったりした。 朝日新聞2003年5月25日付け「中高生のためのブックサーフィン」中の「読書日記」(三浦しをんさん執筆)の文末を引用。 「『蟹の横歩き』と岡崎版『うたかたの日々』には共通する「気分」がある。それは、乾いた絶望感。どんなにあがいても、すべては意味もなく失われてしまうということ。そしてその後も、世界は淡々と続いていくということ。 その非情さに耐えるためには、日常から小さな喜びを集めて生きるしかないのだろうけれど、それすらも見失われがちな今、この二作品は満を持して生み出された。たぶん、確固たる過去も未来も提示されないまま、寄る辺なく漂う若い人たちのために。」 『蟹の横歩き』も、『うたかたの日々』も読んだことはないのだけれど、この言葉が印象に残ったので。 今、聴いている音楽:「ハンガリー狂詩曲第2番」(フランソワ=ジュリアン・ブラン指揮/パリ・ギャルド・レピュブリケーヌ吹奏楽団) 聴いているのは吹奏楽に編曲されたもの。これが一番馴染みがある演奏。この曲も1度演奏したことがあるけれど、難しいうえに、当時の自分自身の状態があまりよくなくて、本番に出るのやめると我儘を言ってしまったり(なんて奴だ…)、周りに怒られたり迷惑をかけたり。好きな曲なのだけれど、当時の思い出があまりに強すぎて、気持ちが引き締まるというか…。 あの時と同じことを繰り返すまいと思っているのに、私は今も全然成長していないんじゃないか、同じことを繰り返しているのではないかと思う。他人に迷惑ばかりかけて。自分自身をコントロールできないで。 「そよ風」に、写真を追加した。あまりうまく撮れていないけれど。花の綺麗な季節なので、本当はもっとたくさん花を撮りたかったのだけれど、今日は風が強くてあまり出歩くことができなかったので、そのあたりにあった雑貨類も撮ってみた。写真を楽しむくらいの余裕は生まれてきたのかなと思う。 明日からまた平日だから、早く寝ないと。
昨日、結局眠ったのは割と遅かったのに、そんなに遅くない時間に起きる。何を思ったか、午前中に洗濯、台所の掃除、自分の部屋の掃除、洗面台の掃除と、普段しないような家事までしてしまう(決していつもはこんなに働き者ではない)。でも、布団を干そうかなと思って布団を階下まで運んだものの、布団止めばさみ(?)がなく、探しているうちに洗面台の掃除をする気になって洗面台の掃除を始めてしまったので、結局、布団は干さずじまい。何のために階下まで持って下りたんだか…。 自分が、今どんな状態なのか、そもそも自分はどんな人間なのか、どんな人間だったのか、自分でもさっぱりわからなくなっている今日この頃。そのあたりのことは、案外、自分でなくて、自分の周りの人の方がよくわかっているのかもしれない。それは、自分の靴紐が解けているのには自分では気付きにくいのと同じようなものなのかもしれない。何か、私は肝心なものを見失っているような気がして仕方がない。 私は、自分で自分の状態を言葉にするのを避けているようなところがある。自分で自分の状態を言葉にすることによって、それが固定化してしまうのが怖いからだ。あと、それを言い訳に使ってしまいそうな狡い自分が許せないというところがある。例えば、私は人見知りが強くて、初対面の人の前ではかなり緊張してうまく話せないのだが(それはこの日記にも度々書いたけれど)、そう述べてしまうと、自分に対して「人見知りが強いから、多少初対面の人に失礼に見えても仕方がない」と言い訳をしてしまいそうで、それは狡いと思う。同様に「人前で話すのが苦手(従ってプレゼンテーションも苦手)」と言ってしまうと(それも事実なのだが)、「苦手だから多少まずくても仕方がない」と言い訳をしてしまいそうで、そんな自分がとても嫌だなと思う。 要は、そういう自分であるということを把握したうえで、そういう特性をもった自分として、どのように生きていくか・生きたいのか、そういう自分なりに何かできることはないのか、何ができるのか、ということなんだろうと思うけれど。最近は、自分にはもう何にもできない…と思ったりもし、できそうなことさえしたくない(というかする気力がない)。そう思うことは良くないなと思ったり。 最近、私は日記で、元気がない調子が悪い…と何度も書いているけれど、それも私は私自身に対して狡いなと思っていて、要するに頑張りたくない言い訳をしたいだけなんじゃないの?、元気がないというのも自分の思い込みではないの?と、後ろめたく思っている。そう考えると、自分の状態を他人にきちんと説明できない。あまり親しくない人だと「うーん、少し不調かな。でも大丈夫です」と言う。ある程度親しい人になると「もうほんとに酷くて…」とは言うものの、おいおいそんなに酷いか?と思うと、自分でもよくわからないのだ。 本当に正直なところを書くと、そんな感じ。私自身は、今の自分の状態を、本当に苦しいしつらいと思っているけれど、四六時中そう思っているわけではないし、時々は笑ってもいる。仕事もできるときはできる。ただ、落ち込み出すと際限なく落ち込んで止まらないだけだ(「だけ」か?)。 私はいったいどうなるのだろう。どうしたいのだろう。 また、「なく」が「泣く」と変換された。自分でもいい加減にしたい。 今日、聴いたCD:「COWBOY BEBOP O.S.T.1」(こちら) 「カウボーイ・ビバップ」というアニメの最初のサントラ盤…らしいのだけれど、私はアニメ自体については実はよく知らない(最後の数回だけは見た。フェイという登場人物が私は割と好きで、でも最後はフェイを哀しいと思った…が、この解釈が合っているかどうかわからない)。が、この音楽はかなり好き。最初の音を聴いただけで、おおっと思った。 1曲目の「Tank!」(オープニングテーマかな)が一番好きで、何回続けて聴いても飽きない(3分30秒の曲だから、5回続けて聴いても17分30秒。10回続けて聴いても35分)。とにかく、すごく恰好いい。他の曲も好きで、8曲目の「Waltz for zizi」の果てしない優しさや、9曲目の「Piano Black」の切ない切迫感も好きだなぁと思う。 このCDを聴くたびに、こういう場面でサックスやトランペットを恰好よく演奏できたらいいなぁ…と思う。サックスもトランペットも吹けないけれど。 今、突然に「ハンガリー狂詩曲第2番」(リスト)を聴きたくなったが、それはまた後日。この日記で音楽についてよく書いてきたので、今まで、どの音楽を取り上げてきたのかよくわからなくなった。もしかしたら2回書いている曲もあるかも…。 「あなたが居なければ生きていけない」と、はっきりと思うことは…あるともないとも言えないけれど…(この場では秘密にしておきたいだけかも)、でも実際、自分でも気付かないところで、周りの人にすごく支えられているのだと、大袈裟に言えば生きるためのエネルギーを得ているのだと、最近思った。それは、直接何かをしてくれたとか、何かを与えてくれたということをしてくれなくても、ただそこに居るだけで、そして私が「その人が居る」ということを感じるだけで、それで十分なのだと思った。 一方で、「あなたが居なければ生きていけない」というような私であってはいけないとも思うけれど、誰かに依存しなくても、しっかり自分で生きていかなければならないと思うけれど、きっと、居なくなれば、日々泣き暮らすだけでは済まないだろうと思うし、本当に生きていけなくなるかもしれないと思った。 というわけで、いろいろな人に、いろいろとありがとうございます。そして、ごめんなさい。 5月20日の日記に、やや追記。
週末になったので、日記を書きたいと思ったのだが、全身から力が抜けていくような疲労を感じていて、書くことができないです。
今日は、変なことを書くかもしれない。 「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と思うことと、それを言葉にすることと、その言葉を誰かに向かって発することと、そんなことを思ってはいけないと思う気持ちがあること…について、ぐるぐると考えていた。 この続きを書きかけたのだけれど、今はどうしても続きが書けないので、また後日にする。 (↓「後日」(5月24日)に追記した部分) あまりうまく言えないけれど、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と言葉にして誰かに伝える時、必ずしも相手に「そんなことないよ。あなたは大切なんだよ」と言ってもらうことを望んでいるだけではないように思う(もちろん、多少はそう望んでいると思う)。しかし、だからと言って、「そうだね。あなたは居ても居なくても同じだし、あなたの存在には何の価値もないね」とはっきりと言われてしまうと、物凄い衝撃を受けて二度と立ち直れなくなってしまうように思う。 それは、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」というのが、ある面では真実で、でも、ある面では真実ではないからなのかなと思う。人が1人いなくなっても、朝になれば太陽はいつもと変わらず昇るし、夜になれば月がいつもと変わらず現れるだろう。私は3度の食事の時間になればいつもと変わらずお腹が減るだろうし、食べることもできるだろう、夜になれば眠くなるだろうし、時には周りに合わせて笑うこともあるだろう。けれど、大事な人がいなくなることは、私にとっては言葉にできないくらいの衝撃だろうし、何年経ってもその人のことを話すたびに泣くだろう。全部推測形で書いたけれど、これは私の実体験でもある。 なのになぜ、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と誰かに言いたくて仕方がなくなることがあるのかしらと思う。それは、誰かに答えを求めているからではないような気がする。何か言って欲しいわけでもないような気がする。ただ、そういう気持ちには行き場がないから、自分の中で抱えておくには苦しすぎるから、ただ黙って受け止めて欲しいだけなのかもしれないと思う。 実際に、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と感じる時は、どうしようもないくらいにつらいというか…つらいというより、寒い。もしくは机の下に潜って小さく身をこごめていたい気分である。…最近、私自身がよくそう思うからなんだけれど。 ただ、「私なんて居ても居なくても同じなんだ」もしくは「私の存在には何の価値もないんだ」と思うこと自体が甘えであり、許されることでないのかもしれないと思う。その気持ちを黙って受け止めて欲しいと思うのも私のわがままであり、ただ甘えているだけなのかもしれないと思う。 それが真実なのか真実でないのかはともかくとして、とにかく今は、ありがたいことに私の命は続いている。だったら、居ても居なくても同じであったとしても、私の存在に何の価値もなかったとしても、ただひたすらに生きていかなければならないし、そうするしかないのだろう。 BGM:「エルサレム賛歌」(アルフレッド・リード作曲.アルフレッド・リード指揮/東京佼成ウィンドオーケストラ) 私はこの曲を演奏する機会に3度も恵まれた(担当していた楽器は3回とも同じだが、所属団体は3回とも違った)。それぞれにそれぞれの思い出があって、その時々の記憶が甦ってくるような気がする。回を重ねるに従って上手に演奏できるようになった…と思いたいけれど、どうなんだろう。2回目に演奏した時の記憶が自分にとって一番鮮明で、でも思い出したくないくらいつらかったことのあった時期で、…だから何なんだ、私。 この曲を聴くと、最後に“昇華する”という印象を受ける。何が何に昇華するのかよくわからないけれど。 最後まで書いて、書いたり消したりして、改めて、私は何をやってるんだろうと思った。弱音ばっかり吐いて。全然しっかりできなくて。言い訳ばっかりして逃げてばかりで。しっかりしなければ。
今日、書いておきたいと思ったこと。 今日、聴いた音楽と、聴こうと思った理由 (1)「コンサートマーチ“テイクオフ”」(作曲:建部知弘/補作:藤田玄播) 大学に居て作業をしている時に、何の脈絡もなく、心の中にこの曲のメロディーが流れてきて、久しぶりに聴いてみようと思ったから。 (2)「カーニバルのマーチ」(作曲:杉本幸一/補作:小長谷宗一) (1)の曲を思い出した時に、自然に思い出されて、久しぶりに聴いてみようと思ったから。 (3)「コーラル・ブルー 〜沖縄民謡「谷茶前」による交響的印象〜」(作曲:真島俊夫) (2)の曲を聴こうと思って音源を捜していた時にこの曲の音源も見つけて、この曲が似合う季節になってきたので、久しぶりに聴いてみようと思ったから。 (4)「Awayday」(作曲:Adam Gorb) (1)〜(3)とは全然関係ない理由で突然聴きたくなり、しかも、今日ならこの曲を聴ける気分だと思ったから。 どの曲も大好きです。 近況報告 ぶっ倒れるんじゃないかという感じの疲労感を抱えたまま大学に行き、実際研究室に着くなり、ぐでっと倒れこんでしまい、でも17時頃からとても元気になり、いろいろなことをした(それでも事務的なことしかしていない)。今は(「今、この瞬間は」という意味においてですが)、割と元気です。たぶん大丈夫。大丈夫でないと困る。 脱力したこと さっき「なんのみゃくらくもなく」と打ち込んで変換したら「何の脈絡も泣く」と変換され、最近自分が、かなり頻繁に「泣く」と入力しているんだと実感したこと。
緑の鮮やかな季節になってまいりました。もう5月も半ばを過ぎてしまったのですね。いかがお過ごしでしょうか。 あまり楽しくないことばかり書いてしまったので、少しだけ楽しいことも最後に書き添えておきます。最近嬉しかったことは、花が綺麗な季節になってきたことです。それと、ここ数日は月がとても綺麗であること。最近お気に入りの食べ物は、プリンです。あまり甘くないのが好きですが、スーパーマーケットで売っているごく普通のプリンも、それはそれで好きだったりします。 昨日、久しぶりに、Bill Evans Quintetの「Interplay」を聴いていました。1曲目の「You and the night and the music」(あなたと夜と音楽と)の恰好よさもかなり好きですが、6曲目の「Wrap your troubles in dreams」がかなり好きです。この曲の邦題が「苦しみを夢に隠して」と名付けられているのが、何だか泣けてきて、実際に曲を聴いてみると、本当に苦しみを夢に隠しているように思われるので、また泣けます。決して暗い曲ではなく、むしろ明るい曲調なのに、少し寂しげで、でも寂しいだけではなくて、泣けます。 というか、私が日記を「です・ます調」で書くのは珍しいことのような気がしました。今日は、お手紙を書くような気持ちで書いたので。
もともと、手帳に予定や覚えておくべきことを細々と書く性格ではなかったのだけれど、最近はさすがにいろいろと覚えておかなければならないことも増えたから、ここ2〜3年くらいは手帳によく書き込みをしていた。図書館の本の返却期限、何日の何時にどこそこへ行かねばならないという約束、研究会の予定、いついつまでに提出しなければならない文書あるいは書類…などなど。しかし、最近、“これ手帳に書いておいた方がいいよね”ということもなぜか書く気が起こらない。「○月下旬までに論文を仕上げる」「○月上旬までに調査計画を立てる」と頭ではわかっているものの、そこに向かっていく気力が湧かない。というか、5月6月のカレンダーを見ていても、何だかすごく他人事のように感じて、距離感を感じるというか、どうでもいいような気がするくせに焦りばっかり募っているというか。 「あれ」からx年経ったのだけれど、「あれからx年」ということを覚えている人が私の他に何人いるのだろうかと思うと寂しい気分になると同時に、自分が果たして覚えていてもいいのかという気持ちにもなって申し訳なくもなる。自分自身も思い出すと胸が裂けるような悲しみを覚えるから。でも「あれ」が何かは、ここではちょっとだけ内緒。そして、xの値がいくつであるかも、内緒。 覚えているうちに,覚えておきたい記事(いつまでリンクが有効かわからないけれど) *こちら(14歳携帯の「遺書」 残った未送信メール) 本当に本当にこの女の子は苦しかったんだろうなと。でも生きていてほしかった。生きる意味なんて私にだってわからないけれど、「生きていたらそのうちいいことがきっとある」とも言えないけれど、でも生きていて欲しかった。知らない子だけれど。「死にたいという気持ちは救って欲しいという願望の現れ」というのが、そうなんだろうな、と思った。それ以上のことは、私にはうまく言えないけれど。 *こちら(とっておきの場所 震災の傷忘れぬように 神戸大アカデミア館のバルコニー ) 「街を見渡す場所に立つと、犠牲になった6400人を超える人から問いかけられている気がする。「私たちのこと、忘れていませんか」と。」というのが心に残った。私も問い掛けられているのかもしれない。問いかけに気がついていないのかもしれない。たまには、のんびりとしないと、忘れたくなかったことや忘れてはいけないことを忘れてしまうような気がする。私はそれが怖くてならない。自分が忘れてしまう存在であるということが。
ろくでもない日記しか書けない(もともとそうだったけれど、最近は特に)。いっそ書かない方がいいのではないかとも思う。けれど結局忘れられたくなくて、寂しくて、何かを伝えたくて、気がついて欲しくて、だから書いている。(書いているだけではなくて、いくつかの日記を読ませて頂いています。この場をお借りして、ありがとうございます) そういえば楽団の練習だった…と、夜遅くになってから思い出した。こんな感じで練習日を忘れていたことはなかった。ちゃんと届を出して休団すべきかどうか結論が出せないままずるずるきている。今は日常がかなり苦しいので、練習どころではないとも思うが、逆に練習に参加した方が自分を取り戻せるかもしれないとも思う。もう何年も、音楽を演奏することは自分の芯にあったから。演奏会のたびに、私の帰る場所はここだと思うから。 今はもう二度と会えない遠い場所に行ってしまった友人が、以前に私の演奏会を聴きにきてくれた時に差し入れにつけてくれたカードを見つけた。 「まだこれからもステージにのるチャンスがあること、私にはうらやましいです。忙しくなるだろうけど、こんな感動味わえるチャンス大事にしてね」 猛烈に申し訳なくなる。大事にできてなくてごめんね。こんな私でごめんね。 今、聴いている音楽。混声合唱組曲「方舟」(大岡信作詩/木下牧子作曲) 合唱をはじめた年にやった曲なので、ところどころで「ここで○○さんがこんな指示をしてたなぁ」とか「ここでこんなブレスを取っておかないといけなかったなぁ」というのが自然に思い出される。聴いていてある箇所でふっと腹筋に力が入ったり、喉の奥が広がる気分を味わったり、口が勝手に開いていたり。楽譜への書き込みも、今から見ると、あぁ1年目の書き込みだなと思ったりする。 当時はあまり歌詞の意味を考えて歌うということをしていなくて、ただ目当ての音に対して音程とリズムを外さないように声を発するということしか考えてなかったなと今になって思う。「ゆふべのかいちょうはうみをすべり」と、本当に何の気なしに歌っていた(というより「レソソソ ソソラーラー ラララララファーソー」(←アルトのパート)と音程をなぞっていた)のだけれど、後で詩を読んで「かいちょう」が「諧調」だったんだと気付き、それを知ろうともせず歌っていた自分を恥ずかしく思ったりもしていた。 今、聴きなおすと、1の「水底吹笛」の うっすらともれてくるひにいのろうよ がらすざいくのゆめでもいい あたえてくれと うしなったむすうののぞみのはかなさが とげられたわずかなのぞみのむなしさが あすののぞみもむなしかろうと ふえにひそんでうたっているが という箇所が、胸をぎゅうと掴まれたような気分になる。 しかし ひめますのまあるいひとみをみつめながら ひとときのみどりのゆめをすなにうつし ひょうひょうとふえをふこうよ くちびるをさあおにぬらしふえをふこうよ と、この曲は終わる。のぞみがはかなくてむなしいものであると知っていても、それでもふえをふこうよ、と終わっているところに希望を感じる。 しかし、4の「方舟」も好き。5拍子に慣れるのに時間はかかったが。 余談だけれど、この楽譜の裏表紙に、私は「逃げも捨てもしない」と走り書きをしていた。確かに私の字なのだが、いつどういう経緯で何に対してこんな走り書きをしたのか、今では全く覚えていない。
日記書きたい。書きたいけれど、まともなことを書くだけの力が出ない。
朝、とても激しい雨が降っていた。世界がいつもとは少し違って見えた。お昼からは少し寒かった。昨日はあんなに暑かったのに。 今日は、日記を書くことが(しかも、Web日記という形で書くことが)、いいことなのかどうかわからない。それは、自分にとっていいことなのかどうかわからないということも少しはあるけれど、主には、こんなものを公開の場に書いて、自分ではない誰かに読んで頂いてもいいのかどうかわからないということだ。“書いてもいいのかどうかわからない”ということは、“書かない方が良いのではないのかと思って躊躇している”ということでもあるのだけれど。書き手の私がそう思いながら書いているということを踏まえて、それでももし読んで下さるという方がいらっしゃるなら。どうか読んで下さい。読んで頂ければ嬉しい。 何と言えばいいのか。もうつらくて苦しくてならなくて。昨日も少し書いたのだけれど、何がどうなっているのか自分でも混乱している。だから、弱音を吐こうにも、どのように弱音を吐いていいのかわからない。相談しようにも、どのように相談すればいいのかわからないし、助けを求めようにも、どのように助けを求めればいいのかわからない。それでも、さすがに今週に入ってからかなり状態が悪いので、少しずつ同僚や先輩に話を聞いていただいてはいるけれど。公的な場(大学とか)に行っても平静を装えなくなってきて、ぼろぼろの状態を何となく周りに感づかれるようになってきた。そうなってしまうなら、大学に行かない方がいいような気もする(…し、実際最近は行くこと自体がかなりつらい。朝も起きられなくなってきて、金曜の授業も2週連続で休んでいる(この分だと明日も無理か?))。 今日は泣きそうな気分で出かけ、仕事先で派手に泣き(一応、公的な場では耐えたけれど、控室近くで爆発してしまった。ついていてくれた同僚(であり友人であり先輩)に感謝…)、泣きながら帰ってきた。帰ってきてからとにかく休もうと思ったけれど、涙が止まらないわ頭痛は治まらないわ吐き気はするわで、全然休めずにいる。それでも今は少し落ち着いているからこうして日記を書いている。なぜ涙が出るのかわからない。悲しいのか苦しいのかつらいのか。わからないけれど、涙が止まらない。他の人の前で泣くのもつらいし恥ずかしいけれど、1人で泣くのはもっと苦しい。 もう限界だ、もう頑張れないと思いながら、それでももう少し頑張ってみようと思ってここまできた。ただ、この状態が少なくとももう1ヶ月は続いている。さすがに焦るし、それより何より苦しい。気力も体力も限界寸前に来ているような気がする。 頑張っても頑張っても事態が改善される兆しがない。それは私の頑張りが足りないのだと思う。その点は私がもう少ししっかりする必要がある。ただ、事態を改善するために頑張ろうとする力さえ最近はなくなってきたのも事実である。そんな自分をだめだとも思う。だめなのだけれど、どうしようもない…。 あきらめたくない一方で、もう全部あきらめてしまいたい。逃げ出したくない一方で、もう全部投げ捨てて逃げ出してしまいたい。それでも、あきらめたくないし逃げ出したくない。虫の息でも倒れっぱなしでも死にたくない。 私は、この場所を、愚痴を吐き出すだけの場にはしたくないし、弱音を吐き出すだけの場にもしたくない。それは矜持(というか単なる意地か?)ということもあるし、何より、自分でない人もここの記述を読む以上、愚痴や弱音を読ませてしまうのは失礼であると思う。私の弱音を読まされても、読んでいる側にはどうしようもないというところはあるだろうと思う。だから、最近の日記は、書いていて本当にごめんなさいと思う。ただ、思いっ切り思うように愚痴や弱音を吐き出してみて、私は私自身を見つめ直すことができると思うし、そうして初めて見えてくるもの・明らかになってくることがあるように思う。何が明らかになってくるのか、今の私にはわからないのだけれど。…開き直りか? もっとも、それを自分の中だけで溜め込んでおくことができずに、こういう 私だけが苦しいのだとは思っていない。そう書くつもりもない。苦しい人はたくさんいるのだろうし、私などよりも苦しい思いをしておられる方もたくさんおられるのだろう。それでもみんな生きている。だから私も頑張らなくてはいけないと思う。思うのだけれど、なぜか、もう何もかもが悲しくて悲しくてならなくて。 怠けたいとか楽をしたいということではなくて、でも、少し休みたい。少しでいいから楽になりたい。そして、もう少ししっかりしたい。強くなりたい。「頑張ります」とは言えないのだけれど、思うのはそんなところ。 最近、気分の振れが激しくて自分でもコントロールできないので(もともと感情の起伏が激しい方ではあるのだけれど…って、他人と比較することはできないので本当のところはわからないですが…)、そういう時にはなるべく日記を書かないようにしようと思うけれど、「そよ風」の方にはそれがダイレクトに出てしまうかもしれない。 何か具体的に助けてくれということではなくて。ただ、時々、読んでいただければ。それだけで嬉しいし、何とか生きていく力(というと大袈裟に思われるかもしれませんが)を保てそうな気がします(で、ちょこっと、読んでるよーと知らせて下さっても嬉しいです)。結局、読んで欲しいから書いているのだなということを明らかにするようで、何だか恥ずかしいですが。
何がどうしてどうなったんだか自分でもさっぱりわからないくらい、調子が悪いです。体調も良くなくて、朝はなかなか起き上がれないし、頭痛と倦怠感に悩まされています。…大したことはない、気のせいだと自分に言い聞かせていますが、それでも、泣きながら出かけ、泣きそうな気分で1日を過ごし、泣きながら帰ってくる日も少なくありません。
今日はゆっくりとしようと思い、冬服の洗濯をしたり、冬の布団や毛布を干したりしていた。春が来て欲しくないずっと冬のままでいい…と、1ヶ月ほど前にこの場でさんざ喚いた私だけれど、こうして少しずつ、冬に「ひとまずさようなら。また来年ね」と挨拶をしていたような気がする。でも夏服をまだ出していない。 このお休みは、思いっきり休んで、思いっきりへたれることができればいいと思っていたので、その他には敢えて目標は立てていなかった。実際、思う存分休み(昨日今日は昼間から寝っぱなしだったし)、思う存分へたれたので、まぁいいかとは思っている(もうちょっとへたれてもよかったのかも)。 しかし、明日から頑張りますとは書けないような気がしていて。むしろ少し(かなり?)ブルーな気分と同時に綱渡りをしているような気分で、大丈夫かな私は、と思っている。こんなことをここに書くのは良くないと思うのだけれど。 連休の終わりにあたって、何の決意も抱負も述べることができないのって、私は駄目だなと自分で思うのだけれど。それもそれでひとつのあり方なのかもしれないとは思う。 泣きながらでも生きてください、という言葉をどこかで見かけた(私に直接言われた言葉ではない)。心に残った。泣きながらでも生きていていいんだな、生きていけるかなと思った。
とある方と、晩御飯を食べた。 出典を忘れてしまったのだけれど。人は二度死ぬというのを聞いたことがある。一度目はその人の肉体が死んだとき。二度目はその人が残された人から忘れ去られてしまったときであると。 私は、彼女のことを覚えていてもいいの?と、時々思う。もしかすると、忘れ去ってしまった方がいいのかもしれないと思うことがある。忘れようと努力した方がいいのかもしれないと思うこともある。けれど、どうしても忘れられない。それでもいいのかもしれないと思い始めたのはごく最近のことだけれど、今でも、忘れるべきなのかもしれないと思う気持ちは強い。 絶対に忘れないよと誓うことは、私にはできないように思う。それは覚えておく自信がないということではなく、忘れないでいようとしていいのかどうかわからないという意味において。でも、ある部分は忘れ、ある部分は忘れられないまま抱えて、一緒に生きているという気がする。ただ、何があっても私は私で生き続けるからねと、そのことは誓っている。 でも、生きて私の周りに居る人のことも、私は忘れない。忘れられないし、忘れたくない。いつもどこかで気にかけている。今、私があなたを大切に思っているのは確かだから、それが何か意味のあるものになりうるのかどうか私にはわからないけれど、ただただ、死なないで下さいと思っている。 今日書いたことは、どちらもかなり自分にとっては重要なことで、でも、此処が公開の場であるということもあって、私にはここに書きたくても書けないことがあるから、微妙にある部分は隠し、ある部分は明かしながら、けれど、事実としては書けないことがあっても、その気持ちや感じたことは書いておきたかった(そして読んで欲しかった)から、読んでいる方にとっては話が見えないところがあるかもしれません。ごめんなさい。
いろいろなものを見て、いろいろなものを味わい、いろいろなことを感じ、いろいろなことをお話して、いろいろなことを考えた日。 日記が飛び飛びになっていた(これからも、そうなることがあるかもしれない)けれど、日記を書かなかった間も、それなりに何とかやっていた。時々は、きゃらきゃらとよく笑ってもいた。だが、正直言って、連休が明けた後、自分がどうなっていくのかがかなり心配。師とも姉とも慕う人も、大丈夫かなぁ(私のことを)と思う…とおっしゃっていた。だからと言ってどうにかなるものでもなく。ただ、無茶はしないようにしますと言えるだけ。 今書いているのは5月3日の日記であるけれど、実は、現在は正確には5月4日の午前1時過ぎである。1年に1度めぐってくるこの日。大切なものはしっかりと握って絶対に手離してはだめだと。不器用でも伝えたいことは「後から」ではなくて「今」伝えなければだめだと。そう思った。それでも、身を切られるような後悔と不安が押し寄せる。ごめん。ごめんね。
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