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2021年06月20日(日)
『犬は歌わない』

『犬は歌わない』@シアターイメージフォーラム シアター2


ライカ、ベルカとストレルカの話かなーと思い観に行きました。ロシアの宇宙開発もの大好きなのです。

貴重な記録映像と、現代のロシアに生きる野良犬たち(猿と亀もちょっと)の映像。こうつくるか! という新鮮な驚きがありました。「犬たちは宇宙に行って、地球をどう眺めたのかしら☆」なんてニンゲンの想像なぞアホかー! という話でもあった。歌わず語らない犬に、人間にとって都合のよい物語を押し付けることはしない。とはいえこれをドキュメンタリーという括りにするのも躊躇われます。野良犬を保護しましょう、とか命を大切に、といった啓蒙などはないのです。ただただ生きるその姿を追う、誠実な映像作品。

地球軌道を周回した最初の動物、犬のライカ。その魂は地球に帰還し、今もモスクワをさまよっている……というナレーション。場面は宇宙から路上へ。宇宙開発に犬を連れて行くこともなくなったロシアで、彼らはどうしているか。水たまりの水を舐め、ゴミを漁り、気まぐれな人間から餌をもらい、猫を襲う。身体は傷だらけ、トリミングされない毛はところどころダンゴになっている。

ロシアでは今でもこんなに野良犬がウロウロしてるんだーというのにちょっとビックリ。余談ですがウチの田舎(昭和当時)、野犬が群れでいた。追いかけられて泣きながら逃げたことも一度や二度ではない。小学校に群れが迷い込むことも。「教室の窓を全て閉めてください!」という校内放送が流れ、窓際の生徒が窓を閉めます。近所の養豚場から豚が逃げてきたこともありました。窓越しに皆で見物した…連れ帰られる豚の鳴き声思い出せる……。閑話休題。そんなウチの田舎でも流石に今は野犬はいないようです。思えば野良犬を見なくなったっての、いつくらいからかなあ。などとちょっと懐かしい思いで観ました。

そもそもライカは野良犬で、捕まえてこられて宇宙犬になった。なんで野良犬を起用したかというと、野性を備えた生命力があるからという何それってな根拠に基づくものですが、要はあとくされがない存在だったからなのだと思われます。宇宙に放り出すにあたり身体改造されるし(手袋もせず素手で手術しているところに時代を感じた)、元気に帰ってくる保証もない。そもそも生きて帰れるとも思えない。飼い犬を提供するひとも少なかったでしょう。実際何頭もの犬が犠牲になります。まあニンゲンも犠牲になっていますが、当時のソ連は鉄のカーテンに守られていた。ライカが宇宙を見る前に死んでいたことは、2002年に明らかになりました。

地球を初めて出た生き物、宇宙から初めて帰還した生き物。野良犬たちは一躍ヒーローとなりもてはやされますが、そんなこと犬の知ったことではありません。引退後、静かなくらしを得た元野良犬たちと、今路上でボロボロになりうろついている野良犬たちのどちらが幸せか、というのもニンゲンが思う勝手です。でも、せめて全ての犬が健康に、自分の好きに暮らせるようにと思う現代のニンゲンなのでした。

それにしてもよく撮れたなあ。ロシアの路上にいるのは野犬ではなく野良犬だからなのかも。撮影にあたり餌付けなどはしていないようですが、人間に対し警戒心や敵意がないように見える。朝から晩迄、晴れの日も雨の日も、低く構えたカメラと集音マイクでひたすら犬を追う。絶妙な距離感です。いやはや、辛抱の賜物。後述メイキング映像も興味深く見ました。音楽もよかった。

公開前、鑑賞にあたっての警告文が出ました。生体実験の映像だろうなと覚悟はしてたんだけど、振り返ってみれば猫を襲うところのことだったんだな……カメラを覗く人間は、犬をとめることも猫を助けることもしない。飼われていない動物たちの厳しい世界を見つめます。でも「そこ迄やるなら喰えよ、ちゃんと!」って思いませんでしたか…私は思った……。犬は獲物の息の根を止めますが、食べる場面がなかったのです。食べ(られ)ないというところが、狼ほど強い牙を持つ訳でもなく、ときどき気まぐれな人間にごはんをもらえる「野良犬」なのかなと思いました。

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・映画『犬は歌わない』予告編


・映画『犬は歌わない』メイキング映像


・野良犬の視点から、ソ連の宇宙開発計画と宇宙犬ライカを描き出す「犬は歌わない」監督インタビュー┃映画.com
監督はエルザ・クレムザー、レビン・ペーターのふたり。
「犬が出てくる長編映画を見ると、犬が撮影に集中しているように見えますよね。彼らがカメラを意識して振る舞っているように思えますよね。私たちとしては、犬がカメラに集中しないことをずっと願っていました。」
「(記録映像等の資料は)何年か後に破棄されてしまう可能性を感じたので、すべてコピーしました。作中でも使用しましたが、同時にこの資料を未来のために保存したいと思っています。」

・“スプートニク犬”の真相、45年目に明らかに┃スペースサイト!
旧ソ連の宇宙開発については毎回このサイトにお世話になっております。頼れる老舗

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イメージフォーラムの近所なので寄ってみたら。なんかなー



2021年06月19日(土)
『虹む街』

『虹む街』@KAAT神奈川芸術劇場 中スタジオ


NOHANTとユ・アインのコラボブランド『newkidz nohant』をちょっと思い出したり。これウマいデザインだよなあ。あと最近ではFoo Figters × 楯の川酒造の『半宵』とかね。読める読める(ニッコリ)。稲田美智子による美術です。ネオンの質感も素敵、照明はKAATの(おなじみ!)大石真一郎さん。自動音声の筈なのに命が宿っているようなコインランドリー、占いゲーム、ホットスナックの販売機。薄く聴こえる雨音と、佐藤こうじさんの音響も繊細。

初めて入った中スタジオは、歌舞伎座っぽい間口の広さ。二層になっている装置の上方は、前方の席からは見えませんでした。おそらくどこから見ても死角はある。そもそもひとの生活は見せるようには出来ていない。同時に全てを知ることは出来ない。お互いがお互いに開いた部分のみで、協力し、助け合い、深入りせずに生きている。そのことに苛立ったり、安心したり。

ここ数年のタニノクロウさんは、公演が行われる(=劇場がある)場所に長期滞在し、その地に暮らす人々とクリエイションを行っています。呑み屋に通い、お店のひとや常連客と仲良くなり、それを作品に活かす。出演者も地元のひとから募る。今作も神奈川県民との創作が予定されていましたが、コロナ禍により出演者オーディションが困難となってしまいました。今回はフィールドワークとシナリオハンティング、オンラインでのインタヴューとともに、座組み全員で横浜の街歩きツアー(後述の安藤さんのインタヴュー参照)も行ったそうです。出演者はタニノ演出を熟知している演者を中心に、多国籍なメンツが揃いました。

そこで気付くのは自分の偏見。例えば観劇後に読んだ当日パンフレットで、アンジェラを演じたのが小澤りかさんという名前だと知る。「え、フィリピン人だと思ってた=日本人だったんだ」と思う。その背景には「日本人だけどフィリピン人の演技がうまいなあ」「日本人だけどちょっと日本語の発音が独特だったなあ」「日本で暮らしてどのくらいなのかな?」という、舞台上のアンジェラから受けた印象がある。ご本人のtwitterプロフィールには「フィリピン × 日本 マルチ役者を目指します」。名前とは何ぞや、演じるとは何ぞや、そして演技を見る自分の思い込みとは何ぞや。

コインランドリーにやってきたひとびとは、同じ洗濯機に洗濯物をどんどん足していく。入れ替えるのではなく、運転途中の洗濯機に途中から放り込んでいくのだ。「洗剤足りるのか」「今すすぎなんじゃないのか」というツッコミもあれど、場の雰囲気から感じとるのは利用者のこだわらなさと、経済的な事情。移民、出稼ぎ労働者、難民認定の難しさなど、根深い問題が浮き彫りになってくる。

彼らは互いに励ましの声をかけ、自分の持っているものを与えようとし、笑顔を交わし、それぞれの国のソウルミュージックを唄う。そこに行政の力は届かない。綺麗事だと笑うひとも、何もわかってないと怒るひともいるだろう。『アメリカン・ユートピア』を観たばかりということもあって、“エイジアン・ユートピア”に思いを馳せる。コインランドリーというサロン(今思えばこれ、イキウメの金輪町における理容店だな)を失った街の住人はどこに行くのだろう。都市再開発と過疎の問題も顔を出す。2017年の『ダークマスター』には中国人の地上げ屋が登場したが、2021年の日本で何が起こっている? タニノさんの視線の先を考える。


終演後のセット開放で見つけてほろり。言葉少なな登場人物に代わり、雄弁な美術。

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・『虹む街』で刺激される視覚と聴覚〜タニノクロウ、作品世界を語る〜┃SPICE
――『虹む街』には出演者としても加わることに驚きました。その理由は……。
「いやあ、なぜですかねえ(笑)。そのほうがいいかなと思っただけなんです。今回、ここ最近やらなかったことをやろうということですね。もともと出演したいなんて思ったこともないんですけど。」
あー、出演すること自体初めてだったのか! あの場所に暮らす=生きてみたくなったのかな

・安藤玉恵、『虹む街』を語る〜鬼才タニノクロウ作品に15年ぶりの出演┃SPICE
ちなみに『切断』では、劇中使用する紙芝居の絵をタニノさんが描いていました(微笑)

・そうそう、『ダークマスター 』のマスター揃い踏みってところに密かに燃えました(萌えではなく)。マメ山田さんも出ればよかったのに! と無責任な観客は思った(笑)

・蘭妖子さん姿勢良くて格好いい! 観ていて背筋が伸びる


蘭さんは蜷川作品にもよく出ていたな。朝倉さんのつくる下町の風景、大好きだった



2021年06月12日(土)
イキウメ『外の道』

イキウメ『外の道』@シアタートラム


あのーなんていえばいいかな、普段のイキウメを逆から観た気分。

イキウメの作品から受ける印象って、いつもだと「あなたの足下には死体が埋まっています」「え、怖い!」「でも考えてみてくださいよ、日本列島が出来て何年経ってると思います? 三億年ですよ?(えへへわかんなかったので検索しました)そして日本という国では一年間に何人くらいの死者が出ると思いますか? ちなみに昨年は138万4544人だそうですよ?(はい、これもわからなかったので調べました)人口の違いはあれど、軽〜く計算しても3億年×100万人として……死体が埋まっていない場所を探す方が難しくないですか?」「あ、怖くない!」という感じなのです。私は。

それが今回は、「世の中の仕組みはとても便利」「うん、助かる!」「でも、それってよく考えると奇跡的じゃないですか? なんでこんな複雑なシステムが日々滞りなく機能しているんですか? 破綻しない方がおかしいでしょう」「……怖い!」という感じでした。あーでもこういう面もあるか、イキウメって。

普段あたりまえだと思っていること。宅配便が届くこと。行政文書の内容は間違いないこと。「家族だから」という言葉。ちょっとしたタイミングで、その仕組みがズレてしまったら? 某案件の文書が改竄されていたり、はたまた開示された文書が海苔弁のように黒塗りだらけだったりというニュースを前に、果たして信用出来るものとは何か考え込む今、こんな芝居を観てしまったらたまったものではありません。ひとは、ひとを信じることで生きている。信じられるひとを探し、出会い、コミュニティが生まれる。

今作の登場人物は「信じてくれる」相手を見つけ共闘を組みますが、その闘いは徹底した個人主義のもとに行われます。ひとりで立つ。ひとりで立ち向かう。そこに非常に勇気付けられたのでした。これをパンクといわずして何という。ただ、それは社会での死を意味します。まあ正直肉体の死をも意味するかもしれません。しかし、その先にあるのは果たして「死」のみだろうか? いや、それが「死」だとして、それは怖いものなのだろうか? そんなこと迄感じさせてくれる舞台でした。

それにしても池谷のぶえと安井順平……すごい(語彙)。膨大な台詞量を聴かせる声、語りの妙味。そして何より会話がべらぼうに巧い。もともとイキウメ作品の台詞って言葉遣いに性別を感じさせないのですが(これは意識的だと思う。同様に、今回苗字が違う兄弟が登場していることも、「それが特別なことではない=そこに疑問を抱かなくてよい」世界を描いているのだと捉えました)、それがいつにも増して効果的なうえ、リアルに聴こえた。これは結構驚きで、池谷さん以前と池谷さん以後で歴史が分けられそうな程。観客に向けた台詞として聴けると同時に、それこそ喫茶店の隣の席で聴いているかのような自然さなのです。なんてリアル、そしてなんて格好いい。「どうよ、誤配の方は」とか声に出していいたい日本語だわ。対する安井さんは「理路整然と罵詈雑言」のキャッチコピーズバリの話芸を持つ方。所謂論文発表的な言葉遣いなのに、日常会話の延長として聴ける。このふたりがタッグを組めばそりゃ最強。こちらの喜怒哀楽すらコントロールされているようにすら感じました。通る声とはこういうことか。完全暗転が活きるシアタートラム(ここ、ホント真っ暗になるよね)で、あの暗闇を保たせるだけの声を持つふたりです。ドップリ堪能、耳も幸せ。

声といえば大窪人衛も、おとなな座敷童子のような風情がより印象的。気味が悪いのに不憫かわいい(ほめてる)。彼が最後に口にした言葉には一瞬震撼、直後哀切。盛隆二の声も包容力があってよかった。書類を社会の基準として生きてきた(それは正しいことなのだ)人物の困惑が滲み出る人物描写、とても切なかった。あと森下創なー! マジおっかねーなー! 聴きたくないのに聴いちゃう声というか。不可思議な世界への案内人はこういう声をしているのだろうと思わせる。もはや人じゃないかも。あの、さとり(妖怪の)とか思い出しますよね……(ほめてる)。

そして今放送中のドラマで「仙台土産に博多名物を買ってくる」人物を演じていた浜田信也。それがあて書きと思えてしまう(微笑)ズレ具合が、イキウメではやはり恐ろしいものとして映る。あの黒々とした瞳で「家族だから!」なんていわれた日には池谷さんじゃなくても「いやああああああ!」て叫びたくもなりますよ。だんだん本人と役柄の境目がわからなくなってきていますね。でも、ドラマだと天然?(もしくは面白いと思ってやってる?) と思えるのに、舞台だとやべーこのひとマジこえーと感じてしまうの、演劇の醍醐味なのでしょうかねえ。ホラーにおける演出、奥が深い。

こんな一癖も二癖もあるメンバーと相対する薬丸翔、豊田エリー、清水緑らも堂々としたものでした。なんかイキウメって、公演に若手を呼んだらちゃんとお土産を持たせる(その後の仕事に役立てるものがちゃんと得られる)印象があって好感が持てます。それには勿論当人のやる気あってのことですが。

昨年の公演はコロナ禍で中止。ワーク・イン・プログレスを公開し、かなり改定されたものが今作です。転んでもタダでは起きないイキウメン。「金輪町」のディテールもますます微細になり、今後も楽しみです。

この日ウチには宅配便がふたつ届きました。無事届いて感謝感謝、「無」が届かなくて安堵安堵。ん? 安堵でいいのか?

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ちょっと気になるのは池谷さんのご体調。twitterを見る限り、不眠に悩まされているようです。絶好調(と、観客には見える)なお仕事ぶりとは裏腹に、ままにならぬは自身の身体。同世代なのでわかるわかる、と大丈夫大丈夫? が入り混じる思い。どうか無事でいてくださいね、眠剤と酒は合わせちゃ絶対ダメ!



2021年06月06日(日)
『アメリカン・ユートピア』

『アメリカン・ユートピア』@WHITE CINE QUINTO


泣きすぎて頭が痛い……視界がぼやけて見逃したとこも結構ありそうなのですぐまた観たいよー。バーンの心意気に感動したってのは確かだけどそれは観終わったあとの後付けで、実際のところなんでこんなに泣いてんだろって自分でもわからんかった……。曲がよいとかライヴに行きたいとかマスクとりたいとか声あげたいとか、いろんな要因があったのかもしれないが。まあそうした! 様々な鬱屈が! これを観ている間は霧散していた!

2019年にブロードウェイで上演された『American Utopia』をパッケージ。ニューヨーク・ハドソン劇場での公演を撮影し、映像ならではの演出を加え、一本の作品に仕上げたもののようです。本国ではHBO配信のみの公開だったそうだけど、最初のMCでバーンが「家を出て、劇場に来てくれて有難う」っていうのね。これがまた胸に沁みた。劇場(映画館)で観ることが出来てよかった……GW明けの初日が緊急事態宣言のため延期になり、配信になっちゃうかも? 劇場で観られなくなるかも? とヤキモキしていたのです。


『songs of david byrne and brian eno』ツアーは2009年に来日公演も行われている。手前味噌だがリンクを張ったこの感想、ライヴの雰囲気ごと伝えるいい感想になってると思いますよ。衣裳はホワイトからグレーになり、チュチュは履かなくなった(これはちょっと残念・笑)。バンド編成はほぼ同じだが、よりアクティヴに、よりアグレッシヴに。楽器は全てワイアレス。マーチングバンドのようにフォーメーションを組み、振り付けられたダンスを踊る。思えば「Burning Down the House」のドラムサウンドってマーチング用のマルチタムの音に合ってますよね。アフロビートを叩き出す多彩なパーカッションも魅力的。何もないステージを囲むのはキラキラ光るシルバーチェーン。このステージは安全、この劇場は安全とでもいうように、演者は裸足で自由に動きまわり、観客は歓声をあげ立ち上がって踊る。拍手し、合唱する。

『songs of〜』では「演奏してて楽しいし、お客さんが大喜びしてくれるから」と、イーノと関係ない曲も演奏していた(微笑)バーンですが(ちなみにこのとき「Born Under Punches」は「難しいんだけど練習して出来るようになってきたから今度やってみようと思うんだ〜」といってた。セットリストに入っていてニッコリですよ!)、今作でもそのサービス精神は発揮されています。ステージで演奏されるのは、2018年のソロ作『AMERICAN UTOPIA』からのナンバー、TALKING HEADS時代の曲、ソロやコラボで発表した曲。そしてプロテストソング。上演に際し、『AMERICAN UTOPIA ON BROADWAY (ORIGINAL CAST RECORDING LIVE)』もリリースされています。

曲名を見ただけで物語が聴こえてきそう。ステージに立つ人物はときに間違いを犯し、ダラダラして、テレビを観て、政治のことなど気にかけないでいる。オープンになれない自分、皮肉屋の自分を顧み、変えられないことと変えられることを問う。ひとと会うことはたいへんだけど楽しい。コミュニケーションの必要性を語り、自身のルーツを語り、移民で成り立つアメリカをより理想的なものにするべく投票に行こうと呼びかける(上演された2019年は大統領選挙の前年)。真摯な言葉にはユーモアとエレガンスを。

象徴的な場面はいくつもあるが、特に印象に残ったのは「Everybody's Coming to My House」。この曲を発表したとき、バーンは「望まぬ来訪者が家に居座っており、帰ってほしいなと思っている」ものとして唄っていた。ところが、デトロイト・スクール・オブ・アーツの生徒たちが合唱曲としてこの曲を唄ったヴァージョンを聴いたとき、「彼らは『皆ウチにおいでよ、この家は誰にでも開かれている』と唄っているように感じた」。自分ひとりの考えが及ばないものを他者は見せてくれる。

映像制作にあたり、バーンの前にもうひとりの「他者」が現れる。スパイク・リーのカメラ(撮影監督はエレン・クラス)は、観客の目が届かない場所を捉える。プレイヤーが目の前にいるかのような視点、客席からは決して見られない天上からの視点。多様性を謳う出演陣にはエイジアンが不在だが、カメラは客席にその姿を見る。「Hell You Talmbout」ではレイシズムの犠牲となったひとびとの肖像を新たに加え、強いメッセージをレイアウトする。2019年から2020年、この一年で次々表面化した問題と、更新されていくことの多さ、早さに光明を見た気持ちになる。パーカッションがバシバシ通るサウンドプロダクションも素晴らしかったです。爆音上映でも観たいよ〜(スケジュールがなかなか合わない)。

他者を拒絶せず、その言葉に耳を傾け、コミュニケーションを諦めない。ユートピアへの道は遠い。それでもマーチングバンドはパレードを続ける。ステージから客席へ降り、劇場を出て自転車に乗り、街へ出る。ひとと出会おう。一生に一度の、どこへでも行ける道を走ろう。ユートピアはあなたから、私たちから始まるのだ。

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SET LIST

01. Here (from American Utopia)
02. I Know Sometimes a Man Is Wrong (from Rei Momo)
03. Don't Worry About the Government (from Talking Heads: 77)
04. Lazy (from Muzikizum by X-Press 2)
05. This Must Be the Place (Naive Melody) (from Speaking in Tongues)
06. I Zimbra (from Fear of Music)
07. Slippery People (from Speaking in Tongues)
08. I Should Watch TV (from Love This Giant)
09. Everybody's Coming to My House (from American Utopia)
10. Once in a Lifetime (from Remain in Light)
11. Glass, Concrete & Stone (from Grown Backwards)
12. Toe Jam (from I Think We're Gonna Need a Bigger Boat by The Brighton Port Authority)
13. Born Under Punches (The Heat Goes On) (from Remain in Light)
14. I Dance Like This (from American Utopia)
15. Bullet (from American Utopia)
16. Every Day Is a Miracle (from American Utopia)
17. Blind (from Naked)
18. Burning Down the House (from Speaking in Tongues)
19. Hell You Talmbout (from The Electric Lady by Janelle Monáe)
20. One Fine Day (from Everything That Happens Will Happen Today)
21. Road to Nowhere (from Little Creatures)
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22. Everybody's Coming to My House: Detroit (End Credits)

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それにしても、昨日の野田さんも今日のバーンも「かつての自分の言動を振り返り、検証し、責任を持つ。過去を変えることは出来ないが、意識を変えることは出来る」と若い世代に伝えようとしている。自分たちの世代だけが逃げ切れればいいと思っていない大人がいることで若者は希望が持てる。字幕監修はピーター・バラカンでした。

余談ですがワタシのメルアドってTALKING HEADS(とパール兄弟)が由来なのでした。ずっと憧れの大人です。こういう年長さんがいると自分たちもへたっていられない、まだ大丈夫だと思える。いいときにいいものを観られた。観ることが出来てよかった。

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・『アメリカン・ユートピア』予告編(日本語版)


・David Byrne's American Utopia (2020): Official Trailer


・See Detroit Teens Perform David Byrne Song in New Video┃Rolling Stone
デトロイト・スクール・オブ・アーツの生徒たちが唄ったヴァージョンの動画が観られます

・デイヴィッド・バーンが語る『アメリカン・ユートピア』、トーキング・ヘッズと人生哲学┃Rolling Stone Japan
「よし、ならこいつは自分で引っ張り出してやることにしよう。大袈裟にするつもりはないが、でも自分から口に出すことで、自分の問題として受け止めるんだ。そしてみんなにも、僕が成長し、変わったことがわかってもらえるはずだと願おう」

・デヴィッド・バーンが歌い、踊り、語る 『アメリカン・ユートピア』┃CINRA.NET
「撮影中、スパイクは観客席で天を仰いでジョナサン(・デミ)に『うまくいってるかな? どう思う?』って問いかけてた」

・スチャダラパーが語る「アメリカン・ユートピア」、デイヴィッド・バーン&スパイク・リーという2人の鬼才が作り上げた劇的ライブ映画┃音楽ナタリー
変わり種で面白かった記事。共通言語がわんさか出てくる(笑)
当方マーチングバンド(パーカッション)経験者ですが、ここでも語られてる「バミリがない」のは確かにすごい。上からのショットでもフォーメーション崩れてなかったもんね。そしてあの重いシンバルを軽々扱う女性プレイヤーもすごい。景気いい音!
あとドラムにしてもキーボードにしても、あれを装着したまま動きまわるのすごいたいへんだと思います。チームメイトは骨盤傷めて腰痛になってたもんなあ……。今では身体への負担が少ないホルダーがあるのかもしれないが
(20210626追記:リピートで確認。端的にいうとバミリはあったのだが逆に「これだけ!?」という少なさだったのでやっぱりすごいな……肩についているセンサーは、動きまわるプレイヤーを照明が追えるようにするためのものとのこと。パンフレットにピーター・バラカンが書いていました)

・それにしても前日ほぼ満員の劇場、本日50%入場の映画館。どうして映画館は100%入れちゃダメなのか全くわからん

(20210628追記)
・映画『アメリカン・ユートピア』──デイヴィッド・バーン×スパイク・リー! 分断と差別の時代に「見えないつながり」を問いかける大傑作┃GQ Japan
「そこには、この街で見かける人々や生活用品、木々や動物などが散りばめられている。まるで『生活する』ことと、社会的、政治的な意見を持つことは矛盾しないと伝えているようだ」
頷きまくるレヴューをご紹介。そうだったー(というかリピートする迄忘れていた。やっぱり泣きすぎていろんな箇所を取りこぼしている)、舞台幕の絵の作者はマイラ・カルマンだ。振り返ってみると、あの幕に描かれる世界は本当に美しく、舞台の、世界の理想を伝えるものだった

・そうそう、リピートして気づいたことがひとつ。ひとりだけフットカバーをしているひとがいる。実はそういうところにも好感を持った。足に怪我をしているのかもしれないし、演奏にあたっての滑り止め(踏ん張らないと安定しないとか)なのかもしれない。「全員裸足というコンセプト」は、決して強制されていない。隊列を組み行進するプレイヤーたちは、振付を与えられたうえで、自分の意志のもとに動いているのだ

(20210730追記)
・(ブロードウェイの)オーディエンスは実際、どれくらい盛り上がった? あの「冒頭のイラスト」は一体なに? 映画だけでは伝わらないあれやこれ┃HILLS LIFE
デイヴィッド・バーンとマイラ・カルマンの長年のコラボレーションについてはこちら。この記事ブロードウェイ上演時の様子も詳しく書いてあっていいなー


で、デイヴィッド・バーンとマイラ・カルマンによる書籍が出ていると知り、取り寄せました。絵本体裁、シンプルなテキスト。マイラは『Remain in Light』や『Naked』のアートワークを手がけたティボール・カルマンのパートナー。バーンとは長年の盟友でもあります

・で、今になって知ったのですが、ワタシが長年愛用して既に三代目のMoMAのスカイアンブレラ、ティボール・カルマンの作品だったのね! ってかTibor Kalmanって見ても同一人物とは思いもしなかった(なんでや)……ウヒーなんか繋がった感じで感動している…今更だけど……

折り畳み傘の紹介文にだけ「トーキング・ヘッズのアルバムカバー」って書いてある。何故



2021年06月05日(土)
NODA・MAP『フェイクスピア』

NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場 プレイハウス


私が観た日は白石さん、何も問題なかったです。いつもの白石さんだった、よかった。カンパニー皆無事で千秋楽を迎えられますように。しかし何より命が大事。何かが起こったときのリカバリが滞りなく行われますように。

『エッグ』のときは、「事前情報がない方がいいとは思うが、モチーフとなったものごとの背景を肌感覚で知っているひとと、全く知らない(ピンとこない)ひとでは受ける印象が違うのではないか」と思った。しかし今回は、そうした予備知識をものともしない力があった。それだけ引用された「コトバの一群」(とパンフレットで呼ばれている)が強烈なものだからかも知れないが、あのとき受けた緊張感や恐怖感、深く苦しい悲しみは間違いなく劇場で起こったことだった。演劇はその時間、その場限りの現実を作り出すものなのだと改めて思い知った。それを何ヶ月も続けるカンパニーの強さと繊細さに敬意を抱く。

言葉は文字にしろ、音声にしろ、記録されることで記憶を繋ぐことが出来る。それは時間を超え、場所を超えて届けられる。神話、伝説、事故で命を落としたひとびとを悼む。届けられた言葉により、ひとは生きていける。高橋一生の声、白石加代子の声は死者の言葉を生者の肉体を通して甦らせ、橋爪功の声は遺された者の言葉を代弁する。彼らの声なくして、この作品は成り立たないと思わせるだけの強さ。演出に関しては、ブレヒト幕による場面転換の多さを少し煩わしく感じた。扱っているテキストがあまりにも重いため、そういうちょっとしたノイズに過敏になる。

ここから先はネタバレしています。未見の方はご注意を。

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『エッグ』のとき、野田さんはパンフの冒頭に「知った気になっている過去」について書いていた。過去はどんどん遠くなる。そうはさせない、忘れてはいけない。ギリシャ神話やシェイクスピアの作品は今でも世界中で読まれ、上演され続け、その言葉が日常生活に紛れ込んでいる。プロメテウスがわからなくてもパンドラの匣は知っている。シェイクスピアに詳しくなくても「ロミオとジュリエット」は知っている。サン=テグジュペリの『星の王子さま』にしてもそうだ。ふとしたことが「知った気になっている過去」を、より深く知ろうとするスイッチとなる。野田さんの作品もそれを目指しているのかもしれない。それは野心というより、使命感のようなものだ。

言葉を疑い続けるという野田さんは、今回「世界一の劇作家」シェイクスピアと、かつての「コトバの一群」を「ダッセ」と嘲笑するフェイクスピアを演じる。かつて「言葉を軽くした」といわれた劇作家は、言葉の印象が時代によって変わること、しかしその言葉の持つ芯は変わらないことを見せてくれる。こんなにストレートな言葉を野田さんが使うことにしたのは、今この世界を覆っている疫禍、それに伴う断絶がきっかけだとは思う。あの「コトバの一群」を引用するのは今で、あのまっすぐな言葉にまっすぐな意味が得られるのも今だと判断した。そんな不謹慎といわれかねないことに手を出せるのは自分だけだという自負もあるだろう。

言葉を残して死んでいったもの。残せず死んでしまったものの思い。アンサンブルによる烏がコトバたちを運んでいく。ブラックボックスはパンドラの匣に見立てられる。そこに残っていたものは「希望」なのだ。

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ここからは個人的なこと。前述の白石さんが不調だったという情報は、先週SNSから入ってきた。心配であちこち見てまわっているうちに、「CVR」という単語が目に入った。『CVR チャーリー・ビクター・ロミオ』のことだ。観逃しているが、上演当時話題になったのでこの作品のことは知っていた。ということは、飛行機事故で残されたボイスレコーダーの言葉が用いられるのかと思い至る。では、どの事故が? 野田さんは過去『二万七千光年の旅』でウルグアイ空軍機571便遭難事故をモチーフにしている。

開演してすぐに、「どの事故」かが判明する。「18時56分」、「あたま下げろ」「あったま下げろ」。日本航空123便墜落事故だ。能舞台を模した装置には、飛行機の圧力隔壁を思わせるプレートが折りたたまれている。「これはダメかもわからんね」「どーんといこうや」「がんばれがんばれ」。物語が進み、その断片はますます増える。『カノン』で須藤理彩が演じた猫のような気持ちになる。行ってはダメだ。お父さん、息子を残してあの飛行機に乗ってはダメだ。そんな思いが届く筈もない。

四月に上演された『キス』の頁にも書いたが、丁度『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』を読んだばかりだった。帰宅後パンフレットを読むと、まさに同じ書籍が参考文献として記されていた。鳥肌が立つ。そもそも、飴屋法水と山川冬樹は『グランギニョル未来』でこの事故のことを取り上げている。そして自分は、何故かこの事故のことがずっと忘れられず、関連書籍を見つける度に読んでいる。『朝日新聞の24時』はbooklogのフォロワーさんの読書履歴で知り、今年に入って古本で取り寄せた。偶然とはいえ、ちょっと因縁めいたものを感じて考え込んでしまった。

この『朝日新聞の24時』に掲載されているボイスレコーダーの記録は、元の音声も、テキストに起こしたものも、広く一般に開示される以前からweb上にあった。今もある。リンクは張らないでおくが、興味のある方は探してみてほしい。これをフェイクと呼べるか? ふと、この記事を思い出す。「新型コロナ禍で、世界を回って、見て、聞くこと自体が貴重なことになった。それは同時に、行って、見て、確かめることができにくくなることを意味している。こうした時代はフェイクには弱い」。言葉を運んでくれる方々に敬意を。

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・ひとつ確認したいこと。今回の客入れの音楽(作曲家、歌手等)って、全員故人でしたか? ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。自分が気づいたのはカート・コバーン、ルー・リード、レイ・ハラカミ、大瀧詠一の4人でしたが、皆そうだったのかなって……単なる興味ですが意図的なのかどうか気になりました

・たまたまなのかも知れない。NODA・MAPの客入れは懐メロも多いので、亡くなっているひとが多くなっても不思議はない。しかし、ハラカミくんの「Owari No Kisetsu」(細野晴臣「終りの季節」のカヴァー)が流れたことが引っかかった。他のアーティストは過去の公演でも流れていた気がする

(20210616追記)
・ハラカミくん−細野さんもだけど、「夢で逢えたら」も吉田美奈子の方ではなく、大瀧詠一がセルフカバーしたもの(彼の死後2014年に発表されたもの。ちなみにこのver.のストリーミングが開始されたのは今年の4月24日)を使ってたから、やっぱり何か意図的なものを感じる

・意図的だとしたら、やはりこの作品は死者がかつて生み出したもの(歌詞にしても、曲にしても)への敬意を意識したものなのだと思う

・それをいったら、初日が5月24日だったのも偶然なのだろうか。123便の乗員乗客は524人だった

・それにしても、シェイクスピアの登場シーンが相当ふざけててしばらく笑いが止まらなかったですね……。音楽、踊り、ひとを小馬鹿にした笑顔。何あれ。野田さんってつくづくナトキンに似てるわ

・って、検索したらピーターラビットシリーズが青空文庫にあってびっくりした……(のでリンクを張った)。2014年に著作権が切れてパブリックドメインになったんですね。時代を感じた