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2021年06月05日(土)
NODA・MAP『フェイクスピア』

NODA・MAP『フェイクスピア』@東京芸術劇場 プレイハウス


私が観た日は白石さん、何も問題なかったです。いつもの白石さんだった、よかった。カンパニー皆無事で千秋楽を迎えられますように。しかし何より命が大事。何かが起こったときのリカバリが滞りなく行われますように。

『エッグ』のときは、「事前情報がない方がいいとは思うが、モチーフとなったものごとの背景を肌感覚で知っているひとと、全く知らない(ピンとこない)ひとでは受ける印象が違うのではないか」と思った。しかし今回は、そうした予備知識をものともしない力があった。それだけ引用された「コトバの一群」(とパンフレットで呼ばれている)が強烈なものだからかも知れないが、あのとき受けた緊張感や恐怖感、深く苦しい悲しみは間違いなく劇場で起こったことだった。演劇はその時間、その場限りの現実を作り出すものなのだと改めて思い知った。それを何ヶ月も続けるカンパニーの強さと繊細さに敬意を抱く。

言葉は文字にしろ、音声にしろ、記録されることで記憶を繋ぐことが出来る。それは時間を超え、場所を超えて届けられる。神話、伝説、事故で命を落としたひとびとを悼む。届けられた言葉により、ひとは生きていける。高橋一生の声、白石加代子の声は死者の言葉を生者の肉体を通して甦らせ、橋爪功の声は遺された者の言葉を代弁する。彼らの声なくして、この作品は成り立たないと思わせるだけの強さ。演出に関しては、ブレヒト幕による場面転換の多さを少し煩わしく感じた。扱っているテキストがあまりにも重いため、そういうちょっとしたノイズに過敏になる。

ここから先はネタバレしています。未見の方はご注意を。

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『エッグ』のとき、野田さんはパンフの冒頭に「知った気になっている過去」について書いていた。過去はどんどん遠くなる。そうはさせない、忘れてはいけない。ギリシャ神話やシェイクスピアの作品は今でも世界中で読まれ、上演され続け、その言葉が日常生活に紛れ込んでいる。プロメテウスがわからなくてもパンドラの匣は知っている。シェイクスピアに詳しくなくても「ロミオとジュリエット」は知っている。サン=テグジュペリの『星の王子さま』にしてもそうだ。ふとしたことが「知った気になっている過去」を、より深く知ろうとするスイッチとなる。野田さんの作品もそれを目指しているのかもしれない。それは野心というより、使命感のようなものだ。

言葉を疑い続けるという野田さんは、今回「世界一の劇作家」シェイクスピアと、かつての「コトバの一群」を「ダッセ」と嘲笑するフェイクスピアを演じる。かつて「言葉を軽くした」といわれた劇作家は、言葉の印象が時代によって変わること、しかしその言葉の持つ芯は変わらないことを見せてくれる。こんなにストレートな言葉を野田さんが使うことにしたのは、今この世界を覆っている疫禍、それに伴う断絶がきっかけだとは思う。あの「コトバの一群」を引用するのは今で、あのまっすぐな言葉にまっすぐな意味が得られるのも今だと判断した。そんな不謹慎といわれかねないことに手を出せるのは自分だけだという自負もあるだろう。

言葉を残して死んでいったもの。残せず死んでしまったものの思い。アンサンブルによる烏がコトバたちを運んでいく。ブラックボックスはパンドラの匣に見立てられる。そこに残っていたものは「希望」なのだ。

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ここからは個人的なこと。前述の白石さんが不調だったという情報は、先週SNSから入ってきた。心配であちこち見てまわっているうちに、「CVR」という単語が目に入った。『CVR チャーリー・ビクター・ロミオ』のことだ。観逃しているが、上演当時話題になったのでこの作品のことは知っていた。ということは、飛行機事故で残されたボイスレコーダーの言葉が用いられるのかと思い至る。では、どの事故が? 野田さんは過去『二万七千光年の旅』でウルグアイ空軍機571便遭難事故をモチーフにしている。

開演してすぐに、「どの事故」かが判明する。「18時56分」、「あたま下げろ」「あったま下げろ」。日本航空123便墜落事故だ。能舞台を模した装置には、飛行機の圧力隔壁を思わせるプレートが折りたたまれている。「これはダメかもわからんね」「どーんといこうや」「がんばれがんばれ」。物語が進み、その断片はますます増える。『カノン』で須藤理彩が演じた猫のような気持ちになる。行ってはダメだ。お父さん、息子を残してあの飛行機に乗ってはダメだ。そんな思いが届く筈もない。

四月に上演された『キス』の頁にも書いたが、丁度『日航ジャンボ機墜落―朝日新聞の24時』を読んだばかりだった。帰宅後パンフレットを読むと、まさに同じ書籍が参考文献として記されていた。鳥肌が立つ。そもそも、飴屋法水と山川冬樹は『グランギニョル未来』でこの事故のことを取り上げている。そして自分は、何故かこの事故のことがずっと忘れられず、関連書籍を見つける度に読んでいる。『朝日新聞の24時』はbooklogのフォロワーさんの読書履歴で知り、今年に入って古本で取り寄せた。偶然とはいえ、ちょっと因縁めいたものを感じて考え込んでしまった。

この『朝日新聞の24時』に掲載されているボイスレコーダーの記録は、元の音声も、テキストに起こしたものも、広く一般に開示される以前からweb上にあった。今もある。リンクは張らないでおくが、興味のある方は探してみてほしい。これをフェイクと呼べるか? ふと、この記事を思い出す。「新型コロナ禍で、世界を回って、見て、聞くこと自体が貴重なことになった。それは同時に、行って、見て、確かめることができにくくなることを意味している。こうした時代はフェイクには弱い」。言葉を運んでくれる方々に敬意を。

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・ひとつ確認したいこと。今回の客入れの音楽(作曲家、歌手等)って、全員故人でしたか? ご存知の方いらっしゃいましたら教えてください。自分が気づいたのはカート・コバーン、ルー・リード、レイ・ハラカミ、大瀧詠一の4人でしたが、皆そうだったのかなって……単なる興味ですが意図的なのかどうか気になりました

・たまたまなのかも知れない。NODA・MAPの客入れは懐メロも多いので、亡くなっているひとが多くなっても不思議はない。しかし、ハラカミくんの「Owari No Kisetsu」(細野晴臣「終りの季節」のカヴァー)が流れたことが引っかかった。他のアーティストは過去の公演でも流れていた気がする

(20210616追記)
・ハラカミくん−細野さんもだけど、「夢で逢えたら」も吉田美奈子の方ではなく、大瀧詠一がセルフカバーしたもの(彼の死後2014年に発表されたもの。ちなみにこのver.のストリーミングが開始されたのは今年の4月24日)を使ってたから、やっぱり何か意図的なものを感じる

・意図的だとしたら、やはりこの作品は死者がかつて生み出したもの(歌詞にしても、曲にしても)への敬意を意識したものなのだと思う

・それをいったら、初日が5月24日だったのも偶然なのだろうか。123便の乗員乗客は524人だった

・それにしても、シェイクスピアの登場シーンが相当ふざけててしばらく笑いが止まらなかったですね……。音楽、踊り、ひとを小馬鹿にした笑顔。何あれ。野田さんってつくづくナトキンに似てるわ

・って、検索したらピーターラビットシリーズが青空文庫にあってびっくりした……(のでリンクを張った)。2014年に著作権が切れてパブリックドメインになったんですね。時代を感じた