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2021年04月17日(土)
飴屋法水 × 山川冬樹 × くるみ『キス』

BUoYフェスティバル <芸術と抵抗>のプロローグ #2 飴屋法水 × 山川冬樹 × くるみ『キス』@BUoY


初日。水都の記憶を暗渠へ押し込めた東京。荒川と隅田川の間に位置する北千住、海抜−3mの場所にある、浮標と同じ発音を持つ会場。そこで起こることは空気を分け合う(奪い合う)ことで、それはつまり命を分け合う(奪い合う)こと。そして今、分け合っているその空気にすらひとの命を奪う力を持つウイルスが潜んでいるかもしれない。飴屋さんと山川さん、ふたりの信頼関係がないと出来ないキス。それを見ているくるみさんも、ふたりへの強い信頼を持っている。

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来るのは二度目のBUoY、あの独特の「気」は相変わらず。入場すると、まず目についたのは人工呼吸器。『Pneumonia』『ASYMMETRIA』に登場した「ピューちゃん」だ。咄嗟に横町(慶子)さん! ピューちゃんだよ! と心のなかで叫ぶ。生身の肺(『Pneumonia』と同じなら豚の肺=フワ)を繋がれたピューちゃんは、肺に空気を送り乍らせっせと動きまわっている。いやー、ここで会えるとは。

次に目に入ったのは、会場を斜めに横断するように張られている紐にマスクを干しているひとりの女性。マスクを袋から出し、たらいに浸して絞り、等間隔に干すという動作を繰り返している。彼女の邪魔にならないように、どこで観ようか……としばしうろうろ、会場をぐるりと囲んでいるパイプ椅子から自分の席を選ぶ。元銭湯のこの場所は、あちこちにマンホールがある。蓋は開けられており、入場者が転落しないように三角コーンでガードされている。用心し乍ら歩く。スピーカーから近い位置、壁面に映写されている映像が見やすい位置。スペースの中央にドデカい柱があるので、どこから観てもどこかが死角になる。作品の全貌を目にすることは出来ない。ひとりの人間がひとつながりの時間で、全てを把握することは出来ないという前提にまず襟を正す。

腰を落ち着け、改めてマスクを干す女性を眺める……くるみさんじゃないか。めちゃ大人になってる! とたじろぐ。生まれる前から(一方的にだが)知っていて、その成長を定期的に目にしていたが、出演者として観るのは久しぶりだ。それにしても数年でこんなに大きくなるのか、そうだよなあ、こどもってそういうものだよな。コロスケさんのように腕と脚が長い。身長もこれからもっと伸びるだろう……そんな身体的な外見だけでなく、とにかくその落ちつきぶりに驚いた。淡々とした一連の動作にはひけらかしもなく、観客への目くばせもない。

立ち見客を入れるということで開演が遅れている間、壁面の映像を眺める。黒髪でふくよかな飴屋さんが菌プロレスをしている。あーこれ、テクノクラートの……どこでやったやつだっけ? 本編で飴屋さんが言及して思い出す、メキシコだった。ということは、『スワン666』とも無縁ではなかったということか、と今更乍ら思い至る。耳をすませば、大人の男性とこどもの言葉遊びが聴こえてくる。こちらもどっかで……帰宅後『The Voice-Over』で使われていた音声だと判る。山川千秋さんと幼い冬樹さんの声だ。

マンホールのガードが外される。入口付近に設置されている山川さんのブースに立てられていたメガホンスピーカーから、飴屋さんの声がする。上演にあたっての諸注意と、だいたいの上演時間。この時点では「70分くらい」だった。直後、マスクを干した紐がプツリと切れる。ハッとするように動作を止めるくるみさん。開演の合図だ。壁面スクリーンに飴屋さんの顔が浮かぶ上がる。暗視カメラで撮ったような色彩。飴屋さんは水面から顔を出している。こもった声、ポコポコという水音。えっこれライヴ? 飴屋さんどこにいるの? 話を聴いているうちに、どうやらマンホールの下のどこかにいるようだと判ってくる。ここで初めて、自分たちがいる床下が水で満たされていることに気づく。思わず首を伸ばして、目の前のマンホールを覗き込む。水面が見える。身体がこわばるのが分かる。

ずぶ濡れで水から上がってきた飴屋さんと山川さん(山川さんに至ってはピーター・マーフィーよろしく逆さ吊りで登場だ)、ずっと陸にいるくるみさんの対話が始まる。海からやってきたウイルス、そのウイルスにより亡くなったひとの数(進行形)、東京の河川が地下に埋められていく歴史、会場の立地と海抜。魚類から哺乳類への進化。ファーストキスの思い出。「今、ここ」を、居合わせたひとたちと分かち合う。

海から陸へと上がった生物は人間になり、やがて呼吸するようになる。空気を吸う、吐く。空気は有限で、いつかはなくなるとして、ではそのとき人間はどうなる? 魚から進化した人間は、水から上がる必要があったのだろうか。猿は人間に進化しなくてよかったのでは? 人間はこの地球上に必要な種なのだろうか……。しかし、人間は想像することが出来る。「大きな客船」というモチーフが登場すれば、ダイヤモンドプリンセス、セウォル、タイタニックと瞬時に複数の悲劇を思い起こすことが出来る。多くのひとが亡くなった、という共通項から起こる感情は、恐怖か、教訓か、悼みか、怒りか。噂が大好き、争うことが大好きな人間が、少なくなっていく空気をどう分け合っていくのか。想像から「次」へ行けるかもしれない。その可能性を感じさせるのはくるみさんの存在だ。

くるみさんの佇まい、声の力が素晴らしかった。ひとつひとつの姿勢がとても綺麗。起こっていることをまっすぐ見る。低めの声でボソリと喋る、その声が広い空間に通る。池田野歩さん(『4.48サイコシス』にも参加していたそうだ)によるマイキング=音響も見事だった。

世界で日々ひとは生まれ死んでいるが、ウイルスの猛威は激しく速い。100年前のインフルエンザ禍では欧州人口の1/3が失われた。今回のコロナ禍でどれだけの死者が出たか、また今後もどれだけ増えていくか。毎日ニュースで発表されている「本日の死者数」に、数字以上の何を感じとっているか、いないか。死に対する感覚が麻痺していたことをまざまざと思いしらされる。死者を悼む気持ちを届ける場所は、方法は。あらゆる国で何人死んだか、「私は知らない」というリフレインは祈りか、「おまじない」か。

そして、生きるために自分の身体が何をするかを、飴屋さんと山川さんは見せることにした。ひとつのエアダクトホースで繋がれたガスマスクを被ったふたりは、ホースで綱引きを始める。綱引きというと牧歌的だが、実際目の前で繰り広げられる行為は殴り合いのように激しい。倒れ込んだふたりはマスクを外しキスをする。激烈な、噛みつき合うようなキス。絡み合ったふたりは床を転げまわる。空気の分け合いと奪い合い。命の分け合いと奪い合い。

やがて「ふたりはあちこちにあるマンホールを蓋で閉じ乍ら移動している」ことに気づいて感嘆のため息が漏れる。よくそんな段取り守れるな、と思える程の格闘なのだ。手探りであの鉄製の蓋を引きずっている。場合によっては指を潰しかねない。自分の席の近くにもマンホールがあり、当然ふたりは床を這い乍らこちらにやってくる。その間にもキスは続く。見守り乍ら、ごくごく自然に死なないでくれ、生きてくれ、と祈る。

たまたまだが、直前迄この本を読んでいた。文中のあるくだりを思い出す。「最初、乗客たちはさすがに悲鳴をあげて酸素マスクを奪い合った。やがて機内は沈着さをとり戻して、乗客同士の助け合い、励まし合いが始まった」。種の保存のためでなく、本能でもなく、ひとはそういうことが出来る。ベタないい方をすればそれは愛情じゃないのか。

最後のマンホールへ。ふたりは沈んでいく。隠された水から現れ、隠された水へと還ったふたりは、人類という器に留まるのか、あるいは魚類へと戻ろうとしているのか。彼らが消えた穴をスペースの奥から見下ろしていたくるみさんがすっと退場する。鮮烈な美しさとあっけなさを残した去り際だった。水に還る古い(失礼)身体を尻目に、その先へ進む若い身体。有限の空気を吸ってこれから生きていく身体だ。

静まりかえった場内に、終演のアナウンスが響く。目に、耳に多くの死者が灼きつけられた思いだった。出演者は、皆黒い服を着ていた。あれは喪服だったのだろうか。

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今これをやるか、今やるならこれしかない、か。飴屋さんも山川さんも後者をとる。空間に、時間に身を任せる。身体がもつか心配だが、結果どうなるかはこちらの想像など及ばぬ次元にある。無事最終日を迎えてほしいとひたすら祈る。しかし祈りは「おまじない」で、当人にも死者にもきっと届かない。

それにしても……こうやって観ていると、「今、ここ」であり乍ら、これ迄の飴屋さんと山川さんの活動(再びベタないい方をすれば生きざま)からすれば、今回の作品は至極自然な流れだとも感じる。菌にプロレスをさせた飴屋さんの『丸いジャングル』は1997年(ついこのあいだ迄『平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ) 1989-2019』に当時の様子が出展されていた)、献血ならぬ献息を募り、肺と人工呼吸器の関係を歌に託した山川さんの『Pneumonia』は2010年の作品だ。

終始緊張感に満ちた時間だったが、ふっと気持ちが和らぐ瞬間もあった。飴屋さんは映画『奇跡の人』の吹替の話なんぞをして笑わせる。「日本語吹替では『うおお、お、みずうう!』っていったの。ウオーターだからうおお、ていってんのに、うおおからいきなりみずって、ねえ」。「パ」の声を売り渡している山川さんは「葉っぱ」を「はっぴゃ」、「ラッパ」を「らっぴゃ」と発音し、その都度くるみさんに聞き返される。対話の途中で突然「訂正しまーす、やっぱ70分じゃないや、上演時間変わりまーす、90分超えまーす!」とキレ気味に叫ぶ飴屋さん。ヒューヒューとくるみさんを冷やかす大人げない山川さん。生きることは苦しく、滑稽で楽しい。身体の機能が停止する迄それは続く。

会場を出る。自分が立っている道の下には水が流れている。大きく息を吸った。

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・EPAD 飴屋法水インタビュー 『創作のコアにあるのは、“半分半分”という目線』┃ステージナタリー
「その場限りで消えてしまう有限性こそ、演劇の宿命だと思ってきましたから。(中略)また劇作家というより演出家だと思っているので、戯曲もほぼないですしね。」
「たとえ数が少なくとも興味を持った人が、いつでも観ることができるのはすごく大事だと思うんです。」
「時間を経た目が、過去に出会う回路ができる、(中略)他人の手を借りながら、こうして有限を超えることがありえるということ、これもまた人間の証なんでしょうね。」

・EPADポータルサイト
・Japan Digital Theatre Archives
2月に開設された「Japan Digital Theatre Archives」「EPAD」は、舞台芸術をデジタルアーカイヴ化するプロジェクト。飴屋さんの作品はそのときその場に居合わせた者の記憶に深く刻まれるが、形として残すことが難しいものが多い。過去の活動は『2minus』(後述)くらいしかまとめられたものがなかったので、こうして未来の誰かが作品に触れる場を設けることはとても重要なことだと思っている


2002年に出版された『2minus 第1号/特集:飴屋法水 Ameya! Style』(サイトはここに残っています)。この本、製本が甘かったようで買って数日後には表紙から本文が外れた(笑)んだけど、今でもだいじに持っている。ミルキィ・イソベさんのデザイン大好き


・大倉なな『おぼろげに花』
作中語られていた絵画。終演後退場するとき、出口付近に飾られているのに気がついた


・北千住の名物「大橋眼科」。近代病院建築の豪華絢爛さを間近で堪能せよ!┃Deepランド
初めてBUoYに行ったとき、道を間違え通りかかった病院。あまりにも目をひく外観だったので印象に残っていた。今月になって閉院したと知り、今度はちゃんと調べて行った。建物、保存されるといいなあ

・てか前回BUoYに行ったときの道順、確かオフィシャルの地図と案内に従ったんだけど、最短距離だったのだろうそのルートがめちゃめちゃひっそりしててひと気もなかったんですよね……周辺に住んでるひとしか通らないんじゃないかみたいな。観たのが『スワン666』だったということもあって、なんだか怖い印象も持ってしまっていた。今回はちょっと周辺を調べて時間に余裕を持って出かけたので、喫茶店ハシゴなど出来ました。なんだよいいお店いっぱいあるじゃん! すまんかった! ちょっと遠回りになるけど商店街を抜けてBUoYに行くと楽しいよ!


ピューちゃんがいるよ。横町さんのアカウント、ずっと残っていてほしい