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2018年09月29日(土)
『BED』

『BED』@JR与野本町駅(西口)周辺



『世界ゴールド祭 2018』、二本目の『BED』は、2016年初演以来各地で上演されてきた路上パフォーマンス。孤立高齢者や障害者といった社会から疎外されるコミュニティに向けた活動を行うデービッド・スレイターの作品。

「街なかに突然ベッドが出現したら、ひとはどういう反応をするだろう?」という内容で、チケットや入場料金なしで参加出来る。作品を観にやってきたひとだけではなく、その場に出くわしたひとも観客だ。その情報量にあまり差をつけないようにしたいのだろう、事前アナウンスは必要最小限に留めてある。上演場所は与野本町駅西口付近、開演時間は12時。集合場所の指定もない。そのうえこの日は台風が接近中で、公演の有無は当日11時にwebで発表という。確認してから出発したら間に合わないし、与野本町駅付近にはファミマくらいしかフリーWi-Fi飛ばしてるところがない。携帯不携帯タブレット携帯の身には厳しい環境です(笑)。まあそういうのも面白いか、西口付近といえば遊歩道がある。さい芸に向かう途中、季節の花々を眺め乍ら歩くのが楽しいんだよね。あの辺りだろう。外が無理ならさい芸のどっかだろう。とりあえず行ってみて、ベッドを見つけたら近づこうかな〜くらいのノリで早めに出発。

雨はまだしとしとというところ。さい芸に行きなれてるひとならご存知、VIE DE FRANCEでお昼を食べ乍ら遊歩道を眺める。何もない、誰もいない。うーんこりゃさい芸で上演かな? と思いつつ劇場方面へ歩いていくと、高架下に何やらひとだかり。バン、ベッド、おじいちゃんとおばあちゃん。あっ、これだ。準備中か? 観客らしきひとたちもいたので一緒になって遠巻きに眺める。雨天用に装備したのだろう、パラソル付きのベッドが二台。布団はビニールシートで覆われている。作品の性質上、出来る限り野外、それも街なかで上演したいのだろう。準備は万端だ。天気は悪くなる一方。パラソルだけでは雨を防ぎきれなかったようで、15時の回は設営したテントの下で上演されたそうだ。

開演時間を過ぎた。スタッフがキャスター付のベッドの一台をガラガラと押していく。あっ、ここでやるんじゃないのねとついていく。もう一台のベッドがついてくる様子がない。丁度改札を出たところのバス停付近にベッドが停まる。あっという間にひとだかりが出来ると同時に、電車から降りてきたひと、乗りにきたひとたちが訝しげな顔で通り過ぎる。ベッドを固定したスタッフは無言で場を離れる。……これ、もうはじまってる? 隣のひとに「開演…したんですかね……」と訊かれ「ど、どうなんでしょう」と応える。どうする? としばし戸惑っているところに救世主が現れました。観客のひとり、KUNIOの杉原邦生が「いいんだよね?」「面白いね」といいつつベッドに近づき、演者に話しかけたのです。挨拶からはじめ、自然な声のかけ方。サクラではなくホントに観に来ていたと思われますが、スタンドプレーのいやらしさは全くない。場の空気がほぐれ、ベッドに近寄るひとが増えました。いやー助かった、他の回はどう進行したんでしょうね。

ここにいた演者はゴールドシアターの最年長、盒鏡供6デ録景垢鯑匹鵑世蝓挨拶したり、小銭を渡しておにぎりを買ってこさせたり。指名されたおつかいのひとも気が利いていて、駅前で配っていた試飲用のお茶ももらってきてくれました。「いやー、せっかく配ってたから。丁度よかった」。どっと笑いが起こる。場の空気が柔らかくなりました。そのうち移動していく観客がいたのでついていってみる。そういえば開演前に見かけたもうひとつのベッドはどこに行ったのだろう。と思っていると遊歩道の中程にいたいた、田村律子。赤いハンドバッグをとってくれませんか、といわれ渡してあげる。パスポートや写真をとりだしては愛おしそうに見つめたり撫でたり。旅、家族の思い出が微笑みとともに語られる。静かに聴き入る。少しの寂しさとともに柔らかい時間が流れる。

サイゼリヤ付近にもひとだかり。あっ、三台目。渡邉杏奴がベッドの下に潜り込んでいる。しばらくすると出てきて編み物をはじめる。規則正しく動くかぎ針。赤ちゃん用の靴下にも見えるが……声をかけられると布団に潜り込んでしまう。厳しい表情、完全に閉じている。どうしよう? そっとしておいた方がいいのかな。他の場所とは違う緊張感が流れる。傍らには辻邦生の『背教者ユリアヌス』。移動してきた杉原さんが「クリスチャンなんですか?」「何をつくっているんですか?」と間をおき乍ら少しずつ訊ねると、何かを呟きはじめた。とても小さな声、雨音にかき消されて聴きとれない。杉原さんをはじめ皆が彼女の言葉を知りたくて耳を寄せる。だめだ、聴こえない。しかしそれ以降、彼女から外界を拒否する空気が緩んだ、ように感じる。渡邉さんは勿論そういう「役」を演じているのだが。

三台のベッドを巡り乍ら考える。コミュニケーションをとれない状態に陥った人物と対峙したとき、自分はどうしていただろう。それが関係を断ち切れない相手だった場合、どうやってその時間を過ごすか? 高齢者を日々ケアする『よみちにひはくれない』の作者菅原直樹は、その存在を否定しないことだと話していた。見えないものが見えたり、いないひとと話したり。第三者には妄想となる、当事者の世界を肯定すること。それはまさしく演劇なのだと。

時間が経つにつれ、集まったひとびとの間に労わりや慈しみのような感情が生まれてくる様子がみてとれた。頼まれたり指図されずとも、自然と演者に布団をかけてあげたりビニールシートから雨を払ったりするひとが増える。それに伴い観客同士のコミュニケーションも増える。観に来ていたゴールドの役者さんと「雨、次の回はどうなるんでしょうねえ」「外でやるそうですよ、さい芸ではやらないって」なんて素で話す。どこからが演技かの境目はない。今ここにいる皆が演劇を体感している。

盒兇気鵑里發箸悄L欧辰討い襪茲Δ世、近寄るとパチリと瞼を開いた。目が合う。こんにちは、あちらから話しかけてくれる。こんにちは。「寒くないですか」と声をかけると「寒い。台風だよ、やんなっちゃうよ」といいつつ楽しそう。観客に開きまくっているので、「役」の人物と話しているのか、盒兇気麕椰佑範辰靴討い襪里、判断に迷う。初対面だが、こちらは一方的に盒兇気鵑離廛蹈侫ールを知っているのだ。考えてみれば、もう12年もゴールドの公演を観ている。どうしたものかと距離を測っていると、盒兇気鵑「この歳になってこんなことさせられるとはね」などといいだす。「いつ迄やれるか……」「もうすぐお迎えだ」。何いってるんですか、そんなことないですよ。そう声をかけるとスタッフがやってきた。終演のようだ、ベッドは運ばれていった。

盒兇気鵑慮斥佞聾演についてのことだったのか、自身の人生についてのことだったのか。今でも考えている。

先週上演された『よみちにひはくれない』では、観客は「公演中」のフラッグサインを持ったスタッフに誘導されていた。今作のスタッフは、その気配を極力消そうとしていた。注意して見ると「あ、このひとはそうだな」と思えるひとはいる。トラブルが起きたら即対応出来るような状態で控えつつも、風景にとけこむような存在に徹していた。取材/資料用の映像を撮影するクルーがいたのは少しの安心(保険?)。鑑賞者に立ち入らず、演者と周囲の環境に配慮する。素晴らしい仕事ぶりでした。

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この黒い傘のひと、実は私なのだった……アルクマが写っている(笑)

・パフォーマンスアーティスト、マリーナ・アブラモヴィッチの悪名高き代表作《リズム0》(1974)│イミシン
「この作品は、自分に好都合な状況下で人は、他人をいとも簡単に傷つけることができることを明らかにし、反撃、防御しない人を非人間的に扱うことが、いかに簡単であるかを示しました。ステージさえ提供されれば、大部分の『正常な』人間は、暴力的になる可能性があるのです」。
スタッフがいたとはいえ、『BED』の演者たちも「観客に何をされるか判らない」環境で一時間を過ごす。恐怖心はあっただろう。ロンドンで上演されたときは警察を呼ばれたり騒ぎになったりしたそうだ。
人間の善性を信じる、信じたい作品でもある

・『背教者ユリアヌス』を見つけた杉原さん、「俺の名前の由来だ(笑)」。辻邦生は9月24日生まれでくにおと名付けられたそうなので、辻氏にあやかってなのか語呂合わせ的な意味でなのかは不明。ちなみに杉原さんの誕生日は9月28日ですって(お祝いで大好きなディズニーランド行ったってツイートしてて微笑ましかった)

・『BED』も『よみちにひはくれない 』も、蜷川さんが観たらさぞ喜んだろうなあ。いや、悔しがるかな。俺もやりたい! って



2018年09月22日(土)
『よみちにひはくれない 』浦和バージョン

『よみちにひはくれない』浦和バージョン@さいたま市(浦和)市街地


いやー刺された(笑)。公園のシーンで役者さんの周りに沢山飛んでるのが見えて、あー演じる側は刺されても演技が終わる迄移動出来ないねえ…と思ってる間に自分が刺されてた。上演中だから変に動いたりして場に影響与えたくないから搔くに搔けないし〜。移動中あちこちから「刺された……」「痒い……」という囁き声がしてました(笑)。そういうのも含めて楽しかった。

高齢者による舞台づくりに蜷川幸雄と取り組んできたさいたま芸術劇場が、国際フェスティバル『世界ゴールド祭 2018』をスタートさせました。まずは初日のこれ。あと一本観る予定です。

この手の作品をつれまわし演劇と勝手に名付けていましたが、今作は「徘徊演劇」と銘打たれています。俳優・介護福祉士の菅原直樹がひとりの高齢者とともに立ちあげた劇団、OiBokkeShiの代表作。彼らが拠点とする岡山の街での初演から、場を浦和に移しての改定上演です。徘徊者は各回30名弱(チケット前売分20名+誘導スタッフ、関係者。菅原さんも同行)。小雨ならそのまま上演、荒天の場合は会館内で別バージョンを上演とのことだったので、当日9時の発表を遠足気分でドキドキ待つ。念のためレインコート持参で出掛けました。浦和に着いた頃にはすっかり晴天、日差しも強くなんてこったい。チケットとったときは残暑厳しいだろうから暑さ対策しなきゃと思ってたのに、ここ数日の秋空に油断した……上演中は日傘も差せませんから帽子持参をお勧めします(公演はもう終わっているので、またの上演があるときの参考にということで)。

集合場所の埼玉会館ロビーで受付を済ませ、諸注意メモと首からさげる「徘徊中」パスを受けとる。スタッフの方が「4000歩くらい歩きます」「暑くなるので必要な方は飲みものの準備を」「途中コンビニに寄ったりはしませんので(笑)買うなら今のうちに」等いろいろお話ししててくださる。開演時間になると「まだいらっしゃらない方がいますにで3分待ちます」。追いつけなくなる限界が3分ということですね。「案内人」の女性が諸注意とともに挨拶、導入を語り始める。深い、芯のある声にはっとして目をやる。ネクストシアターの堀杏子だ。出演者のチェックはしていなかったので、これから誰が出てくるかというのも楽しみのひとつ。ガイドに従いロビーを出て、浦和の街なかへ。さあ、出発です。

「主人公の神崎くんが、故郷である浦和へ二十年ぶりに帰ってくるところから物語は始まります。彼の到着を待ちましょう」。「神崎くん」を待つ。通りの向こうからネクストの手打隆盛が歩いてくるのが見える。古典や翻訳ものを意識的に上演する集団だったネクストのなかでも、演技巧者の手打さんは年長者の役を演じることが多かった。現代劇で年相応の役を演じる彼を観るのは、おそらく初めてだ。ほぼノーメイクの普段着で、口語体で話す様子を新鮮な気持ちで観る。彼の前に現れたのは、ゴールドシアターの遠山陽一。五月の公演でも印象的だった、あのひとなつこい笑顔で手打さんへ歩み寄る。

帰郷した神崎くんは、幼いころ世話になった「じいちゃん」を見かけ声をかける。じいちゃんは、認知症を患い徘徊を繰り返している妻が、目を離した隙にまたいなくなってしまったと話す。神崎くんは「ばあちゃん」を探し、かつての住まい、遊んだ公園、よしみの店を訪問するうち、故郷とそこに暮らすひとびとの現在を知ることになるのだが……。

神崎くんの後を追って歩く。神崎くんと別れ、先回りの道を行く。お寺の奥に猫が一匹。あ、と思っていると、その先の路地裏にもう二匹。人間たちがぞろぞろと入り込んできたので、大慌てで隠れ場所を探している。お邪魔しますね。案内人は観客を誘導し乍ら、この二十年で変わった浦和の街並みについて、この地を離れる迄の神崎くんについて教えてくれる。街と神崎くんを慈しむような優しい語り口。彼女はただの案内人なのだろうか? 語り手らしくひっそりとした気配だが、どうにも気にかかる。なんとも美しい姿なのだ。顔の造作だけでなく、表情も、声のトーンも。以前はだんご屋さんだったという雑貨店へ着く。ゴールドの田内一子がすらりと店内から出てきて迎えてくれる。あはは、田内さん、地元で本当にこんなお店を開いていそうな馴染みっぷり。流石だ。靴を脱いであがらせて頂く。とても急な階段(昔の家にはよくあった!)をのぼると、畳敷きに座布団が敷いてある。

現実と虚構(妄想)、あるいは此岸と彼岸の谷間にいることに、観客が気付く瞬間が二度ある。神崎くんの同級生である女性が既に故人であると明かされたとき、時計店の「先輩」がばあちゃんについて話すときだ。ここで観客は、案内人がその同級生なのではないかとハッとする。神崎くんの背後を歩く黄色いシャツを着た老婦人が「ばあちゃん」ではなかったときの不安が、先輩の言葉で確実なものとなる。

初演では、青年と老人の他は街の住人に自分の役割を演じてもらう(菅原さん曰く「自分の役を自分で演じるのだから、その道のプロ」)という構成だったそうだ。今回登場した「案内人」、つまりその街のガイドであると同時に、観客を演劇の世界へといざなうガイドの役割も果たした彼女の存在はとても大きなものだった。そして、不在である「ばあちゃん」もだいじな登場人物だった。神崎くんは案内人と、じいちゃんはばあちゃんと、街を通して対話する。思い出の地を巡ることで妄想の世界にいる老者を探しだし、記憶を辿ることで死者と会うことが出来る。タイトルにもなっている「よみちにひはくれない」をじいちゃんが口にするとき、神崎くんと同様に観客は少し力を抜いて微笑む。街を徘徊しているのは自分たち。とっくに日は暮れている、だからゆっくりしていこう。焦らず、急がず。シャッターの内側から聴く祭囃子とじいちゃんの歌声は、深く心に沁み入りました。

演劇はそのとき、その場だけのもの。この作品がいろんな街で上演されていけばいいなと妄想する。この公演に気付くことが出来てよかった、観る機会を逃すことがなくよかった。消えていく場所と時間を追いかける観劇は旅に似ている。

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・メガネのパリミキ店内に入る場面もありました。勿論営業中。ネクストの堀源起演じる店長と、ホントの店長の会話(おそらく堀さんがアドリブで話を振っている)が面白くて、クスクス笑い乍ら出た。菅原さん曰く「店長、だんだん演技するようになってきた」。偶然居合わせたお客さんもいて、事前に説明は受けていたようだけど上演中は明らかに緊張感が漂っておりました(笑)

・ちなみに前の回では、アパート階上で神崎くんが「ばーちゃーん」と大声を出すシーンの目の前で電柱を工事中だったそうです……観客は通りから神崎くんを見あげる形だったけど、彼の目の前には電柱にのぼっていた工事のひとがいたと(笑)それも観たかった……

・当日パンフレットには案内人・堀さんによる『今日神崎くんが歩いた道』イラストマップが。かわいい。あの子が愛した故郷だね

・ネクストのメンバーによる現代劇、これからも観ていきたいな。ホントに魅力的な集団だから

・観客のなかには来週上演の『BED』の作・演出を手掛けるデービッド・スレイターの姿も。同行の通訳さんがリアルタイムで英語に訳して台詞を伝えていました。こういうのも楽しかったな

・上演後、菅原さんと公演制作(さい芸)松野創さんによるアフタートークも。いや実際すっごい大変だっただろうな……実際に演技の場になる家だけでなく、近隣住人にもちゃんと内容を伝えておかないといけないし。街の住人に敬意を持ち、コミュニケーションをしっかりとらなければならないという話が聞けてよかった。高齢者に台詞を憶えさせるのではなく、彼らが何度も話す内容を台詞にすればいいという話には目からウロコ。成程!

・さいたまゴールド・シアターの面々が浦和で“徘徊”「よみちにひはくれない」開幕│ステージナタリー

・『世界ゴールド祭2018』は、世界のゴールド世代が集い、高齢社会にクリエイティブな潮流を巻き起こすべく開催される舞台芸術の国際フェスティバル│SPICE

・〈世界ゴールド祭〉ノゾエ征爾×菅原直樹が、演劇をやることで高齢者から生まれ出る強烈パワーを語る。│SPICE
「お年寄りは認知症を患ったり障害を持ったりして、どんどん役を奪われていくんです。これまでの人生ではサラリーマン役だったり、クリーニング屋さん役だったり、あるいはお父さんお母さん役だったり、それぞれ役割を持って生きてきた。やっぱり生きている限り人は役割を持ちたいんじゃないかと思うんです。」
「そのときに演劇に出会うことで、これまでやってきた役にも、やれなかった役にも挑戦できる。それは大きな楽しみになるんじゃないでしょうか。と同時にその人にできる役割を見つけてあげることがいいケアにもなる。」



2018年09月14日(金)
DÉ DÉ MOUSE “be yourself” release oneman tour

DÉ DÉ MOUSE “be yourself” release oneman tour@TSUTAYA O-EAST

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Key, Track operate:DÉ DÉ MOUSE
G;観音(Sawagi)
B:雲丹亀卓人(Sawagi)
Drs:山本晃紀(LITE)
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『be yourself』リリパ。うええええハッピーでアッパーで楽しくてずっと笑ってた〜。twitterで「今年はいっぱい素晴らしいライブにありつけているけど、『楽しさ』においては、今日のデデさんが今年一番かもしれない」と書いてる方がいて激しく頷きました。

映像化の企画(後述)が事前発表されており、ステージ演出もかなり力が入ったもの。80年代のディスコ〜90年代の違法レイヴ会場に、ハッピーなダンスミュージックをノンストップで演奏するバンドがいる──そんなコンセプトに基づき彩られた空間へと入場すると、左右のスクリーンにはネオンを模したウェルカム看板、DJ yourself(ライヴ後デデくん本人だと発表されてたけど、まあ、ねえ?(微笑))によるゴキゲンな音楽が迎えてくれる。ダイナーとロフトのイメージがしっくりくる、赤基調の内装が洒脱といかがわしさを匂わせるO-EASTという会場選択も、この演出を最大限に活かすものだったように思います。なんか丁度いいんだよね。閉鎖的ではないけど広過ぎるということもない。あとトイレのドアの下部分がかなり空いてるところもヘルシーとヤバさが相俟って好きなところ(笑)。初めてクラブを訪れた子が、ちょっと怖いけどこのなかに入ればワクワクするような音楽が待っている! とちいさな勇気を出して一歩踏み込むのにうってつけのハコ。で、入ってみたら全然怖くなくて楽しくてたいへん、みたいな。そんな時代が自分にもあったわと勝手に懐かしく思ったりもしましたよ。

さてステージ。センターには電飾ビッシリのデデくんのコックピット……というよりお立ち台だな、デデくんの音楽で誰よりも踊るのはデデくんだからね! 上手側に山本さんのドラムセット、下手側に観音さんと雲丹亀さん。サポートメンバーは白シャツに黒パンツで統一、デデくんは黒Tシャツにブルージーンズ。ラフなところがまた、踊るぞ! という意気込みを感じさせます。レーザーは七台だったかな。昨年のUNITではキャパオーバーじゃね? というくらいのレーザー使いで、当たったら死ぬくらいの危機感(笑顔で)がありました。スリリングで非常に面白かったんですが、ハコのつくりがちょっと変則的(なんかあそこスクエアプッシャーのマークみたいな形よね)なので効果が行き届かないケースもあったように思ったのです。今回のO-EASTでは、UNITでは観ることが出来なかったシンメトリーな照明が鮮烈。跳びはねるデデくんの髪が、指先がレーザーの光に触れると、反射して七色の光になって飛び散る。デデくんの自身がプリズムになってる! これは本人意図して動いてないと思うんだけどドラマティックでたまらんもんがありました。ここ、映像に残っててほしい!

観音さんと雲丹亀さんはニコニコ笑顔で演奏している。対して山本さんは昨年のフジで見られたような笑顔がなくシリアスな表情。ド真ん前だったのでよく見えたのだが、LITEとセッティングが全く違う。恐らく昨年のフジとも違う。スネアが二台あり、ハイハットとバスドラ用のツインペダルが並列に配置されている。スネアの一台はカンカン響くくらいの高音、もう一台はザラリとした肌ざわりの低音にチューニングされており、曲によって使い分けている。16を刻むときは高め、タムとセットで鳴らすときは低め。ときには一曲のなかで併用するときもあり、そうなると椅子の位置や座る姿勢も変え乍らの演奏になる。LITEはMCでも言われていたようにロック的なアプロ ーチではあるけれど、マスでダンサブルなナンバーも多い。それでもこの日の演奏は、これ迄と全く違うアプローチのものだというのが素人目にも分かる。セッティングだけでなくリズム感も全然違う。人力のドラムでダンスミュージックをやる難しさについてしょっちゅう話し合ってる、開拓しがいがあるし今後も追求していきたい、(山本さんを)先駆者として育てたい的なことをデデくんが話していましたが、それにうんうん頷いていた山本さん。リズムやカウントを呟いたり、メロディを唄い乍ら叩いていた彼の表情が、ライヴが終わりに近づくにつれ少しずつ柔らかくなっていく。手応えがあったのだろうなとつられて笑顔になりました。

彼のためのアルバムみたいになってしまった! ライヴではとにかくロングトーン出さないで、ナイル・ロジャースばりに刻んでって伝えた! といわれた観音さんはキレッキレのカッティングを繰り出し続け、「don’t stop the dance」「lonely if」辺りは生では無理だろうから……とハケるプランでリハスタに入ったらバッキバキにアシッド弾き倒したんでそのままステージにいっぱなしにしよう、ってことになった(笑)という雲丹亀さんのベース。架空のハコバンがクラウドを踊らせ続ける。「昨年はこのバンドで中国ツアーもやって、いっつもダンスミュージックをバンドでやるにはって話してるし、すごくいいバンドになってきてると思う」とのことでしたが、確かにライヴのたびにストロング度が上がってる。観るたびこのバンドの未来が楽しみになる。

デデくんのエモさも頼もしい。ハイテンションで気がよくて、ダンスミュージックが大好き。誰よりも今を楽しんでいて、でもフロアを置いてけぼりにすることなく、「ほら、こんなに楽しいんだよ!」とシェアすることを常に心掛けている。こんな人物が鳴らす音楽を笑顔で聴かない手はない。『be yourself』からは全曲演奏、最後の曲との言葉に「ええー(、もう終わり)?!」という声があがると「短く感じたってことはよかったってことだよね?」と返す。本編最後に(待たせたねー!)タイトルナンバー「be yourself」が鳴り響いたフロアの多幸感、思い出すだけで今でも鳥肌。アンコールは「久しぶりに来たひとでも知ってる曲」と「dancing horse on my notes」。\DJ!/のサンプリングヴォイスに誘われ、踊り倒してガクガクの脚がまた動きだす。楽しい時間が終わってしまう名残惜しさと、素敵な時間が過ごせた感謝とで半泣きです。またね、またね、また会おね。

過去、現在、未来。DÉ DÉ MOUSEはいつでもきっと楽しい音楽を用意してる。ダイナーに飛び込むかはあなた次第。

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・DÉ DÉ MOUSE 渋谷O-EASTワンマンライブ 初映像化プロジェクト│CAMPFIRE
あと約十日、目標額迄あとちょっと。作品として残したい意気込みがひしと感じられ、観客からしてもこの夜がパッケージ化されればどんなにいいかと思わせられた素晴らしい内容だったので実現してほしい。来られなかったひとにも観てもらいたいな
(20180919追記:19日に目標額達成しました〜めでたい! クラウドファンディングは引き続き行われ、最終日迄に集まった金額により内容のグレードが決まるとのことですのでまだまだ集まっていいのよ〜)

・おもろかった(だいたいおもろいが)MC
- ディスコリバイバルがくるんだよってずっといってるのに誰もやらないから自分でやる!
- チョッパーベースがくるんだよって以下同
- 今回のアートワークを手掛けたTOKIYA SAKBAさんとはとあるひとのパーティで会って、「ファンです」っていってくれたので「じゃあ描いて!」ってすぐいったの!
- あの女子高生は遠藤大介さんです! あの頭蓋骨も遠藤大介さんです!(言い方)
- セーラー服はヘンな意味じゃなくて青春の象徴なの!
- この女子高生にDÉ DÉ MOUSE二代目を襲名させて僕はもう裏方になるってどうだろ、セーラー服の女の子のDJ、すごい人気出そうだし売れそうだしってなことをマネジャーにいったら「へぇ、好きにすればいんじゃないすかー(吐き捨てるような口調で)」っていわれた
- 物販Tシャツ、LFOを意識(これな)してつくったんだけど仕上がってみたらロッテリアのロゴみたいになった

・INTERVIEW : DÉ DÉ MOUSEが演出する“夕暮れ時のディスコ感”│OTOTOY
「あの女子高生は僕」というアートワークのコンセプトについてライヴ中のMCで詳しく話してくれていて、「インタヴューとかで話すと長くなるしヘンにとられちゃうし」ともいっていた。この記事ではその辺りしっかり茶化さず書いてくれている。毎回作品に対する企画意図や思い入れについて、言葉で伝えることを厭わないデデくんの姿勢には敬意を抱く。
あと今回やたら「オーバー40のひとたちが〜」と言ってましたがご本人も今年不惑を迎えたんですね。それでいてあの瑞々しさ(容姿も感性も)…見習いたい……


件のリハ。こりゃ生でやっちまおうってなるわな、最高



2018年09月12日(水)
『1987、ある闘いの真実』

『1987、ある闘いの真実』@シネマート新宿 スクリーン1

原題は『1987』、英題は『1987:When the Day Comes』。2017年、チャン・ジュナン監督作品。『タクシー運転手』で描かれた「光州事件」から7年。市民への弾圧は続き、拷問による取り調べ中ひとりの学生が死亡する。簡単に隠蔽出来ることだと体制側は思っていたが……。韓国の大統領選挙が国民による直接選挙制へと移行する布石となった「6月民主抗争」の影で奮闘した、勇気ある人々の物語。

たった31年(本国公開時は30年)前。当時をしっかり憶えているお年頃なので(まずオートリバースって単語に反応したよね)「よくこの翌年にソウルオリンピックを開催出来たな…」とその躍進に驚く。バレーボールが好きなので近代〜現代歴はスポーツイヴェントを軸に記憶が引っ張り出されます。ちなみに前年ソウルで開催されたアジア大会のことも憶えてるわ、熊田康徳選手がユニバのエースから全日本のエースになれるかどうかって正念場だった頃ですよ! 同年の世界選手権でボロ負けしてな! ……それはともかく、全斗煥の名前もリアルタイムで報道見てたしなあ。まだご存命なのよね……(関連記事:『全斗煥氏、アルツハイマー病と診断 光州事件の公判欠席』2018年8月29日│朝日新聞デジタル)。

と、いうくらい、80年代はまだそんなに遠い昔のことという実感がない。しかし韓国では、この過去が歴史になったともいえるのだ。朴槿恵政権を無血デモにより追放したばかりだからこそ、こうしたエンタテイメント(なのだ、見事に)作品を公開出来た。つまり、前政権が続いていたらこの作品は公開も完成も叶わなかったかもしれず、次の機会が訪れる迄この出来事は歴史にはならなかった。十年前公開の『星から来た男』では名前を出さず(出せず?)「禿頭の男」と呼んでいた人物……全斗煥についてこう描写する時代が来たのだなあとも思う。

法を遵守する検事、事実を伝えるべく取材を続ける記者。幾日の拒絶と迷いの末、伝令役の“鳩”を引き受ける大学生。彼らはただただ、「間違っている」ことに目を背けることをしなかった、出来なかった。それがどれ程困難なことか。ひとりひとりのちいさな勇気の積み重ねに、今の韓国があることを映画は描く。この映画に出演した役者たちも、そうした勇気の持ち主だ。今作がエンタテイメントたる所以は、迫力ある演出、丁寧な再現映像によるものだけではない。勇気を持って出演した演者たちのユーモアも利いている。「われわれが過去から受けつぐべきものはペーソスで、未来に目指すべきはユーモア」という星新一の言葉を思い出した。

意識せずしてこの闘いの口火を切り、職を失い乍らものらりくらりと「俺の大本営発表(これ、日本ならではの字幕だけど皮肉が効いててよかったなー)」を記者に託し、終盤これまたのらりくらりと現れる、ハ・ジョンウ演じる検事がこのひとならではの軽妙な魅力。『タクシー運転手』でも活躍した“市井の人”の愛嬌を今作でも振りまいてくれた看守役のユ・ヘジン(無事の帰宅を心から願ったよ!)、圧力に屈しない記者を演じたイ・ヒジュンのしたたかさ、そして終始汗、埃、紫煙でベタベタしていた画面に爽やかな風を吹き込んだキム・テリ。赤いコート、ウォークマン、キュートな顔立ちに検問の男たちが見惚れてしまうシーン、痛快だった。そんな彼女が目にするデモの光景が、前半と後半でまるで違う印象になる演出もいい。カン・ドンウォンの名前はあれど宣美に全く出てこず(なんとパンフにも写真は載ってない徹底ぶり)不思議に思っていたが、観て納得。拷問死した大学生と、ドンウォン演じたもうひとりの大学生がいたことが、市民の心を動かす結果になったのだ。

そしてキム・ユンソク。時代に翻弄された体制側の人物。とにかく悪役なのだが、赤狩りに異様な執念を見せる原因を語る場面は胸を衝かれた。作品への献身溢れるヒールっぷりでした。あんまり怖くて憎らしいから精神が逃避したか、途中からわあ〜ユンソクさんて左利きなのね、わっ蹴りも左脚で入れるのねとか妙なところに注視してしまった。

群像劇のため視点も多く、散漫な印象を受けるところもある。しかし『タクシー運転手』がそうであったように、当時その場にいてなんらかの行動を起こしたひとの大半は行方不明、あるいは素性不明だろう。その数、どれくらい? 決して少なくはない筈だ。そう思うと、映画がひとりの人物だけを追わなかったことも納得出来る。そして、現代の平和(というには混乱が続いているが)はそうしたひとたちの思いが結実したものなのだと気づく。まだまだ未来は捨てたもんじゃないと希望が持てる。

ふと思い出したのは『飛龍伝』とその作者つかこうへいのこと。デモに参加していた樺美智子さんが亡くなったのは1960年のこと。1990年に出版された『娘に語る祖国』は当時読んでいるが、韓国現代史にちょっと詳しくなってきた今読むと新たな発見があるかもしれないな。

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・1987│輝国山人の韓国映画
いつもお世話になっております、公式よりも作品情報に詳しいページ。韓国映画のIMDb!

・「韓国のタブー」を映画化 カン・ドンウォンは自ら「出たい」〜「1987、ある闘いの真実」│朝日新聞GLOBE+
映画が完成する迄の困難な道のり。非常に読み応えある内容ですが、「カン・ドンウォン(37)」の文字に衝撃を受ける。悩ましげな妖精かと思うようなあの大学生、37歳だったのかキェー

・新宿名物タイガーマスクさんと同じ回の鑑賞でした。泣いておられた。『キル・ビル Vol.1』の初日もそうだったんだけど(あと何だったかな、4〜5回はある。映画好きなのですよね)タイガーさんと一緒に映画観てるーと思うとなんとなくアガる