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2015年01月31日(土)
『ハムレット』

ニナガワ×シェイクスピア レジェンド 第二弾『ハムレット』@彩の国さいたま芸術劇場 大ホール

言葉、言葉、言葉。戯曲の世界を舞台上に載せるのには演出家の解釈が要る。舞台上から言葉を伝えるには演者の存在が要る。さまざまな解釈を得、さまざまな役者を通し、現在と照らし合わされ、何度でも上演される作品。それに取り憑かれ、劇場へと足を運ぶ観客。そこにはそれぞれの歴史がある。生まれた土壌とは無縁の国へ伝えられた作品の歴史、その言葉を自国の言葉に置き換える翻訳家個人の歴史、それを舞台化する演出家個人の歴史、演じる役者の歴史、そしてそれを観る観客の個人史。だからこそ、作品から受ける印象は個人によって変わり、それら幾通りの思いをも受け止める作品には強度がある。

言葉、言葉、言葉。熱演のあまり時折声が濁る藤原竜也は、しかしそれらを感情の発露、登場人物の人生の速度として伝えようとする。平幹二朗は“禊”で老いた身体を晒し、この懺悔は天に届かないと自嘲する。たかお鷹、大門伍朗、山谷初男の白眉とも言える台詞まわし。横田栄司の、目撃者であり証人たる思慮深い毅然。「男は皆やりたいだけ」と、貞淑な少女が本性を表したかのような台詞をさらりと唄う満島ひかり。彼女は、ゴンザーゴ殺しの芝居が王の怒りで中断したあとのだんまりで、ハムレットをちらりと見ただけで退場していく。一方ハムレットはオフィーリアを見向きもせず、そのまま玉座を打ち倒しに向かう。ホレイシオはハムレットを追う。オフィーリアの思いは誰にあったのだろう?

言葉としての台詞、その台詞が内包する背景。それらが日本語に翻訳され、日本仕様の美術を施された舞台で発せられる。長屋、劇中劇の定式幕と附け打ち、雛壇、そして流れる声明。美術や音楽は海外公演を意識してのことだと思うが、冒頭の字幕で説明されていたとおり『ハムレット』が日本に伝わってきてからの歴史を観客に認識させる装置としての意味もある。次々と引き戸を開け放つハムレットの動作に独特のリズムが生まれる。声明はレクイエムとして響く。クローディアスが身を預ける井戸、ガートルードの寝室の蚊帳のフォルム。その国に暮らしてきたひとたちの生活が示される。雛壇は渡辺謙主演版(当時NHKで放映されたこれが、思えば自分にとって蜷川演出初体験だ。『Wの悲劇』は別として・笑)等過去の演出でも起用されていたし、長屋は朝倉摂の遺作だ。この辺りは、演出家個人の思い入れもあるかも知れない。しかしその個人史が現在にぶつかったとき、物語の新たな側面が見えてくる。既にここにはいない朝倉摂、彼女の作品を現在の舞台として観ることができる。回顧ではなく再提示、集大成としての演出は、秋の『NINAGAWAマクベス』にも繋がっていくだろう。

蜷川演出には、さまざまなフォーティンブラスの解釈がある。征服者としての、何事にも全力を尽くす、父を失った王子。ノルウェー軍は愚連隊のイメージとして伝聞されるが、ハムレットがフォーティンブラスのことを「うら若き儚げな王子」と言い表す台詞もある。今回の解釈はこの言葉にあると感じた。パンフレットに載っていた稽古中の写真では、フォーティンブラスは武人の扮装で馬に乗っている。ここからさまざまな試行錯誤があり、今回の姿になったのだろう。彼が何故あの姿で戦場に現れたのか、ハムレットの死の場面に立ち会ったのか。死にゆく(死んだ)ハムレットの視点だと考えればいいように思う。理想の次世代の王、自分がなし得なかったことを実行出来る、憧憬の対象としての幻影を抱える「うら若き儚げな王子」。ハムレットの目にフォーティンブラスはこう映ったのだ、と考える。「何度やっても、やりきった感じがしない」。演出家がこう言う『ハムレット』の多面性は、やはりただひとつの解釈では伝えきれない。だから何度も演出する。蜷川演出の『ハムレット』は、今回でVer.8だ。

ただひとつの解釈なんてものはない。それは神と言う存在についても同じだ。何を信じるか、信じるものが違う他者をどう受け容れるか。現在観たからこそ強く感じたのはこれだ。作品が抱えるさまざまな姿、それらが解釈によってどんなふうに姿を変えるか。長い時間をかけて、この演出家に教えてもらった。その演出家のもとで育った井上尊晶、中越司。彼らがいれば大丈夫だと思えた。そして長年ともに仕事をしてきた井上正弘の音響。吉井澄雄、沢田祐二の系譜にある服部基の証明。衣装の前田文子。栗原直樹による、ハムレットとレアティーズのフェンシングシーンも素晴らしかった。彼らの存在は、劇場へ出掛ける迄の不安を取り払ってくれていた。今、この演出、このスタッフ、この出演者で、今の自分がこの作品を観られたことを嬉しく思う。

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その他。

・個人的にはホレイシオの「負けるんじゃないですか、この試合」と言う台詞がだいっっっっっすきで、それを横田さんで再び聴けて嬉しかった!
・「スポンジ」が今回聴き取れなかった。あったっけ……「スポンジくん」は萬斎さん仕様なのでともかく
・河合さんの訳はいろいろと楽しい。「奇ッ怪な!」「どっこい!」「ガッテン」「やっこさん」辺り。しかしポローニアスのあの台詞のリズム、本当に素晴らしい
・ポローニアスと言えば「やられた〜!」の台詞がなかったのは個人的にはよかったです

・ロズギルかわいかった
・ネクストシアターの面々もいい仕事してた。三年前『ハムレット』を演じた役者たちが今劇中劇に生きている、と思える楽しさもあった
・冒頭のホレイシオとともにいる兵士たちがともに長身で、甲冑姿がすごく映えてた。松田さんは美丈夫ですよね。そしてフォーティンブラスを演じた内田さんは痩身で華奢に見えるけど、集団のなかにいると長身が際立つ。いい見栄えです

・高橋洋が演じるホレイシオをまた観たくなったな……

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・彩の国シェイクスピア・シリーズ番外編「ハムレット」:内田洋一(日本経済新聞)
劇評読んで泣くとは思わなかった。観劇予定の方は観たあと読んだ方がいいです。
「西洋演劇と日本人の間に橋をかける、その仕事の集大成」。何故日本様式の演出でこの作品を上演するのか、と言うところにも言及されている。「海外を意識」することは「日本国内を意識」することだ。この演出は、日本に生まれ暮らし、西洋文化に親しんで育った者たちから生み出されたものだ。
内田氏は2012年版の劇評も素晴らしかったので印象に残っているし、信用しているジャーナリスト

・『Hamlet』
・『HAMLET』(12
・『2012年・蒼白の少年少女たちによる「ハムレット」』(12
web上に現存する過去の自分の感想。河合さん訳と言うことでジョナサン・ケント版も置いておきます。これらを踏まえての、今回の感想です。まーそれにしても文章の青いこと(苦笑)。だからこそ、歳を経る度に同じ作品を繰り返し観て、その感想を残しておくのは楽しい

・ビストロやま|「ハムレット」上演記念特別メニュー
おまけ、こんなんやってます(笑)。あわよくばと思っていたが家出るのが遅れて無理でした……



2015年01月29日(木)
『惡』

『惡』@紀伊國屋ホール

わー、これめっけもんだった。所謂“Kid A”が社会に出たら? 犯罪を犯したらどうなる? という点を追うのかなと見せかけて、バイオSFでもあるけど家族の話。そして人間の良心の話。結末には結構驚かされた。

昨年の理研のあれこれや、それを面白おかしく騒ぎ立てるメディアの痛いところも衝いてる。人間関係がにっちもさっちもいかなくなる迄の時間をかなり圧縮している+話のスケールもかなり大きくなるので、風呂敷のたたみ方もえらいダイナミックなんだけど、セット=見立てで進められる舞台はSFと相性いいなと思った。専門用語も多くなるので、役者の実力、台詞まわしの巧さもポイントになる。高岡奏輔さん(いつの間にかまた名前表記が変わっていた)、羽場裕一さんが舞台を引っ張る。クローンとオリジナルの二役を演じ分ける高岡さんの発声、仕草には唸らされる。力を入れていない、弱々しい声が舞台後方迄するりと通る。羽場さんはとにかくヤな演技が巧い(笑)んですが、自分を頼り切るクローンや、それを飼おうとする“ママ”との暮らしのなかで徐々に変化していく心情を巧みに表現していた。陳内将さんもとにかくヤな人物(笑)。しかしそれが最後はああなるところ、不思議な説得力。

タイトルとは裏腹に(悪意の描写がガンガン出てくるんで途中かなりムカムカする)、どの人物にもその原因と、同時に消しきることの出来ない良心も描いている。悪意をもって記事を書いたライターが事件を明るみに出す。クローンを飼おうと言った女性は黙ることをやめる。作者は優しいひとなんだなと思った。この「優しい」「いい」ひと、と言うのも今作のフックで、優しい、いい、と言うのはひとを傷付ける。主体性がないとも言える。誰も愛することが出来ず、だからと言って自分を愛している訳でもない。その価値基準がそもそもない。良心の誕生は本能として備わっているものか、環境に左右されるものか? と言うところにもスポットがあたる。以下ネタバレあります。

裁判のシーンでは、クローンの存在についてさまざまな問題提起がされる。クローンに心はあるのかと言ったことから、クローンは人間なのかと言ったこと迄。容器としての肉体に魂は宿るのか。教育をそのまま吸収してきたクローンに判断力はあるのか、精神鑑定は通用するのか。クローンのオリジナルである研究員は何故ここ迄優しいのか、いいひとなのかと言う謎も最後の最後に明かされる訳だが、その理由―実は彼もクローンで、“母親”からいい子だと言われ続けて育ち、そこにしか存在価値を見出せなかった―について少し突き詰めたものを観たい欲求もあった。しかし二時間程の作品に多様な要素をここ迄詰め込み、関心を喚起したのは見事。

クローンの“親”は誰か? DNAを提供した者か、育てた者か。クローンが家族を作り、社会の一員になったとき、彼らはマイノリティとして受け入れられるのだろうか? 悪意は差別に繋がる。差別は連鎖を起こす。クローンがさらりと呟いた「戸籍がもらえるかもしれない(けど、それはさほど重要なことではない)」「バイトも見付からない。やっぱり気持ち悪いって」と言う言葉は、それをこともなげに話す本人の様子とともに胸を衝いた。善とは、悪とは何だろう。そして人間が築く幸せとは? 鑑賞後、長く長く考えさせられる作品。

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・作・演出は岡本貴也さん。初見でしたが、劇場によく行くひとはチラシ束をめくる手がとまった経験があるんじゃないでしょうか、『舞台 阪神淡路大震災。』を手掛けた方でした(宣美も)

・観劇予報:高岡奏輔主演で人間の善悪を描く問題作『惡』製作発表&公開稽古

・観劇予報:何が善で何が悪かを描き出す舞台『惡』開幕間近! 陳内将インタビュー

・おまけ。冒頭にKid Aと書いたけど、こっちのがしっくりくるかも? 敢えてフジの動画を貼る

[01] Nine Inch Nails - Copy of A (Fuji Rock Festival 2013)



2015年01月24日(土)
『成河一人会〜山猫の恩返し〜』

『成河一人会〜山猫の恩返し〜』@八幡山ワーサルシアター

昨年の一人会がとても楽しかった…と言うか素晴らしかったので、今年も参加。マチネを観ました。前回は稽古場見学の趣がありましたが、今回は劇場での公演(マネジャーさん曰く「次は武道館か? いやその前に帝国劇場か(笑)」)。内容も前回のアンケートを反映したとのこと。メインは「どんぐりと山猫」。何故この作品かと言うと、↓

・検討中「どんぐりと山猫(おはなしのくに)」NHKオンライン|Eテレ
マネジャーさんから「再放送のご要望を出してくださった方、それにご賛同のEネを押してくださった方、また、『どんぐりと山猫』を見たいと思ってくださった方、皆様への感謝を込めて、当日、演じさせていただきます」とご挨拶がありました。

さてワーサルシアター。お初です。縦横の比率はスズナリくらい、席の間隔はゆったりめ。客席数は100くらい。入場時に席を抽選。上演作品にちなんで、チケットはどんぐりでした。かわいい。袋に手をつっこんでちいさな粒をひとつ取り出します。楽しい。

地明かりのみの裸舞台。まずはマネジャーさんからご挨拶と上演中の諸注意。それでは…と下手側袖を見やる。舞台袖には楽屋が見えないように幕が張ってあったのですが、その幕と言うのが今急いで張りました! 感丸出しの養生テープベタベタ仕様で大ウケ。実はこれ、演出だったようです。マネジャーさんが「さて、開演ですよ…あれ? どうした?」と舞台袖に観客の視線を惹き付けていると、突然客席背後から通る声。歌だ! 朝鮮民謡の調べを唄い乍ら、後方から成河くんが登場です。頭にはサンモ、腰にはチャング。男寺党(ナムサダン・放浪芸の集団)の扮装です。やー、この掴みには持ってかれた。

弾き(叩き)語りの「どんぐりと山猫」。踊り乍ら演奏すると言う難易度の高さも然ること乍ら、戯曲ではない物語の地の文、登場人(動)物全員の台詞を声色変えてひとりで演じる。冒頭の、山猫から一郎に届いた「おかしなはがき」の文面のたどたどしさ。ひらがなが多かったり、語彙がおかしかったりと、目からの情報で伝わる文面のつたなさが、彼の声色で目に浮かぶよう。出発した一郎が道を訊く栗の木、笛ふきの滝、たくさんのきのこ、りす。それぞれのキャラクターがいきいきと動き出す。腕を伸ばせば枝になり、丸くなれば茸に。滝をサンモについたリボンで表現されたときには思わず嘆息。馬車別当に会い、山猫とどんぐりの裁判へ。ひとりで演じているのにどんぐりたちのがちゃがちゃわいわいっぷりと言ったら! 多彩な声と動きで、舞台に立っているのがひとりきりと言うのがなんだか信じられないくらい。しかもご本人が本当に楽しそうに演じている。裁判終わって日が暮れて、すうっと森が消えていく。一郎のちょっと寂しい気持ちが、しん、と残る。成河くんがにっこり笑って終演。おじぎ。はー、しばし呆然。そして大きな拍手。

二十分の休憩後、後半は歌とお話? のコーナーです。先程サンモで隠れていた髪はなんともいい具合のヤンキー金髪(根元は黒い)、「私服でどうも〜」。ギターを抱えるその姿はなんだかな、ながぶch(略)……なんだなんだと思っていると、先日迄収録していたドラマ(『紅雲町珈琲屋こよみ』)のための髪型だそうで。「中途半端なってことで、この根元が黒いのもわざとなんですよ」ですって。その姿で「鴨井商店の紺野で〜す」。『マッサン』のキャラクターですね(笑)。「大将(堤真一さん)は今バリで稼いでるみたいですけど(『神様はバリにいる』のことですね・笑)麦と言えば? 麦と言えばウイスキー…ではなくて……? ビールですよね〜!」という訳で? 主題歌の「麦の唄」を弾き語り。マイクなしの素の声が通る通る。高音も綺麗に響きわたる。素のとき何度も咳払いをしていたので喉の調子が悪いのかな? とちょっと心配になりましたが、演じ始めると全くクリアな声でした。

三月の『十二夜』、演出のジョン・ケアードからフェステ役を直々に指名されたと言う話は既に出ていましたが、その際唄う場面もあるので何か楽器も出来ないか、とリクエストがあったそうです。「中学からクラシックギターをやってたんですけど…『アジア温泉』でも弾きましたが。でもね、ジョンにも言われたけどひとり弾きじゃダメだって。ひとまえでやらなければ上手くならない…ひとりでやってると間違えたらそこからやりなおしたり出来ちゃうし」「もうすぐ稽古始まるんですけど、絶対言われるんだ、顔合わせのときジョンから。『ソンハはギターが弾けるんだ、ほら皆の前でやってみろ』って(笑)だから実験…と言うと今日のお客さまに失礼ですけど……吟遊詩人の感じでやりますんでひとつ」と、続けて細野晴臣「三時の子守唄」(!)を弾き語り。これはマイクを通して。地明かりをしきりに気にして「やりづらい〜」と言っていました。そりゃそうだよね。続けてレミゼの「On My Own」。

『モーツァルト!』の「Ich bin Musik(僕こそミュージック)」「Warum kannst du mich nicht lieben?(何故愛せないの)」はアカペラで。キャパ100の劇場で聴けるとは贅沢な体験です。マネジャーさん曰く「井上芳雄さんや浦井健治さんとおつきあいするようになってからいろんなお話聞かせて頂くんですが、ストプレとミュージカル、ライヴの歌では発声が全く違うそうなんです。公演に向けて、全く違う喉を作っていかなければならない。ふたつの公演の本番と稽古が重なるととてもたいへんだそうです。だからひとつの舞台で唄い方を変えてやるのはとても難しい…でもまあ、今回はね☆」。マネジャーさんいいキャラクターなんですよねー。格好いい姐御! て感じ。

〆はパックの口上。われら役者は 影法師 皆様がたの お目がもし お気に召さずば ただ夢を 見たと思って お許しを。台詞の訳の美しさが心に、身体に沁み込んでいく。言葉の美しさを響かせる、伝えるのは演者なのだなあと思う。

ちなみにどんぐりは「花屋で買ったんじゃないですよ、拾ってきたんです。文京区のどんぐりです」だって。拾ってる姿を想像するとクスッとなるね、かわいい。りすっぽいから頬袋に詰めそうだよね〜(暴言)。冗談はともかく、この日来場するひとたちのために自らお外でどんぐり拾ってくれたのかと思うと…舞台の姿を観られるだけでもう感謝なのに……。素敵な会を有難うございました!

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・宮沢賢治『どんぐりと山猫』:青空文庫
改めて読みなおしてみたら、山猫の台詞のナ行がニャ行じゃない! 演者のアイディアですねー。いやーかわいかったわ、「にゃかなおり」「にゃかましい」!

・---男寺党とは---サムルノリの源流、男寺党(ナムサダン)日本支部マンナム

・『ぼくに炎の戦車を』囲み取材&公開リハーサル|ほっとコリア
成河くんの記事ではないけど自分用メモ。ナムサダンの由縁ですね。うわーん観られてないんだよ〜無念。チャ・スンウォンさんも出ていたし貴重な演目じゃった……

・成河一人会20150124 - Togetterまとめ



2015年01月22日(木)
『王の涙 ―イ・サンの決断―』『薄氷の殺人』

『王の涙 ―イ・サンの決断―』@TOHOシネマズシャンテ スクリーン2

原題は『역린(逆鱗)』、英題は『The Fatal Encounter』。うわー面白かったで…現在に生きる者が、決してその実物を見ることの出来ない歴史劇。そのとき何があったのか、実のところは誰も知らない。記録をもとに、想像を巡らしていくしかない。その記録に想像力を掛け合わせ、新たな物語が出来上がる。記録に残らなかったひとたち、記録に書き写すことの出来ない思いを込めて。

1777年7月28日に起こった、王の寝殿近く迄刺客が押し入ったと言う李朝史上最も重大な事件“丁酉逆変”。『朝鮮王朝実録』としてユネスコ世界記録遺産に登録された程、朝鮮王朝時代の王の行動や発言は仔細にわたり記録されている。それにも関わらず、丁酉逆変の記録はごく簡潔なものしか残っていないと言う。その夜、何が起こったか。事変は誰が計画したのか、その裏で誰がどう行動したか。謎の多い史実を、想像力を駆使して描く。登場人物の人生と運命を編み込みつつ、24時間と言う時間に凝縮したところも利いている。実在した人物と、想像上の人物が同じように必死で生きる。

物語は、自分の人生を持てなかった、底辺に生きるひとたちの思いを掬いとる。記録に残されないひとたちの人生は、こうやって誰かが目撃することもあるのだと描く。彼らの運命は苛烈だ。所謂「捨て駒」だ。登場人物たちが記憶を巡らせる毎に、悲しみが像を結んでいく。決定的に最悪な瞬間を待つしかないつらさ。大人になれなかったこどもたちのことも思う。7番と220番の間にいたこどもたち…その前と後に続いたこどもたち。そしてここに女の子がいたと言うことも。考えるだけで怒りで指先が冷たくなる。

王の涙は宦官の涙であり、刺客の、その恋人の涙でもある。子を守りたい王の母の涙であり、計略を挫かれた祖母の涙でもある。自分のために涙を流した者はいない。皆が、大切な誰かを思って泣く。失われたものへの大きさ、後悔、決して戻らないものを思って泣く。就任宣言後、王がすぐにとった行動は、その記録に残らない彼らに差した光であり、王が常に胸に留めていた『中庸』の言葉に繋がっていく。「小事を軽んじず至誠を尽くせ 誠を尽くし、たゆまず歩み続ければ、この世は必ず変わる」。決して理想を見失わず、未来への希望を捨てないストーリー。今観ることが出来てよかった。

美術も衣裳も豪華絢爛。鳥瞰と仰視、スローとクイックのリズム、雨の縦線、矢の弾道の横線。画角のどれもが絵になる美しさ。時系列に進めたいところと、そこに差し込みたい回想シーンの行き来につんのめり感があったのが惜しい。アクションも素晴らしかったので、そこをもうちょっと沢山観たかったなあとも思ったり。

さてこの映画、王イ・サンのことも、それを演じたヒョンビンのことも知らなかった(いやはやヒョンビンさん素晴らしかったです…精緻な表情、静謐な佇まいに秘めたしなやかな体躯!)のに何故観に行ったかと言うと、チョ・ジョンソクとパク・ソンウンが出ていたからです。ソンウンさんは言わずと知れた?『新しき世界』のジュング、ジョンソクくんは『観相師』で観て以来気になっている役者さん。いーやー観に行ってよがっだ。ジョンソクくんめちゃいい役だった。予告を観る機会がなく、新聞広告のぬれねずみになってる写真で見ただけだったのでいったい何の役よ…と思ってたら、当代随一の刺客でしたよ! 目が! あの目が活きる! も〜なんて目が物語るひとなのでしょう。その目が伸びた髪や黒笠で時折隠れるとき、彼ウルスは何を思うのか。悲しい…運命としか言いようのないその人生を演じきっていました。登場した途端タヌキって呼ばれてたのもツボでした(笑)。アクションも格好よかった! 討ち入りのとき剣と手をぐるぐるに縛り付けるところに、もう戻れない感が出ていてここで泣いたよもう(泣)。ソンウンさんは実在の人物、近衛隊長ホン・クギョン役。体格がいいので重厚な衣裳が似合うなあ、軍人らしい立派な貫禄。

そして宦官の尚冊カプス、しかしその正体は…を演じたチョン・ジェヨン。沼界隈では有名(?)だったので顔はよく存じ上げており、やっとお仕事を観ることが出来ました。田辺誠一さんに顔立ちが似ているなあと言うのが第一印象でしたがなんでも「千の顔を持つ俳優」だそうで…ヒィ! マヤ! 常に暗殺の脅威に晒されている王が、唯一気を緩められる相手。静かに微笑む表情に、複雑な過去と王への秘めた思い、そして選んだ道への決意が現れる。ふたりが過ごす、楽しいひとときの場面がとても印象に残りました。

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その他。

・ところでふたつ気になるところがありまして、ひとつは七月下旬の話なのにあんなに息が白くなる程寒いの?(朝夕はすごく気温が下がる土地だったのかな)と言うのと、ポクピン(かわいい響きの名前だなー)への「また着替えてるの?」と言う台詞の意味。性的虐待も受けていたと考えていいのだろうか…それとも当時の風習として、違う業務の都度服を着替えていたのか?

・でもわざわざ「いつからそうなの?」と続けて訊かれるでしょう。となるとやっぱり……。つらい………

・ポクピンなー。あのあとどうなったかな……(涙)それにしても出てくる子役、皆かわいく皆めちゃ巧かった

・幼少の頃、思いあまって全裸になり実家の業務用米櫃に飛び込んで、肌に密着する米の感触に性的に興奮して泳いでいたら父親に見付かってエラい目に遭った逸話を持つ菊地成孔のファンとしては、あの米櫃に米が入っていたらどんなによかっただろうにと涙しました

・そうそうこの米櫃の件、上映前に親切な人物相関図と歴史についてのちょっとした映像コーナーがあったんです。こういうの初めて観た、これは親切だわー。助かりました

・と言えばその米櫃が割られたときの描写も素晴らしかったな…ひとが死ぬってのはこういうことだよなあと。血も排泄物も隠さず見せる。この描写があるとないでは、心への刺さり具合が全く変わる

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『薄氷の殺人』@ヒューマントラストシネマ有楽町 シアター2

原題は『白日焔火(白昼の花火)』、英題は『BLACK COAL, THIN ICE』。『王の涙』とハシゴしたもんだから、そのカット数の違いにまず瞠目しましたよね。これのカット数が多いヴァージョンて、どんなんなんだろう。全く違った印象になりそう(後述のインタヴュー参照)。

1999年、華北の6都市15箇所の石炭工場でバラバラ死体が発見される。容疑者は射殺され、真相は闇のなか。捜査途中の銃撃戦で負傷した刑事ジャンは、警備員として天下り的な職場に異動になる。2004年、新たなバラバラ殺人事件が連続して起こる。捜査を進めるうち、これらの事件と5年前の事件の接点として、ひとりの女性が浮かび上がる。ジャンは彼女を独自に追いはじめる……。

めっちゃ好きな作品でした! 好きな冬の映画。光=色の効果も好き。自然物である雪の反射光、人工物であるネオン管の発光色。女性の鼻頭、頬をほんのりと染める紅。美容室やナイトクラブのけばけばしい赤。音もよかった! サウンドトラックと、劇中で鳴る音楽と、効果音と、劇中から実際に拾った音。言葉が少ないからこそ耳を澄ましてしまう台詞。

説明が少ないところも好き、緊迫した場面に突然挿入されるすっとぼけ感も好き! 意図的に入れられている本筋とは関係ないエピソード(馬のシーンとか)や、意図的ではなかったかも知れないシーン(雪で滑ってずるっとなってしまったり)をNGにしないところとかね。そしてリズムがとてもいい。長回しのシーンが弛緩せず、緊張のまま時間が過ぎる。どの場面も目が離せない。

かの女性を「隠す」演出もいい。初めて登場したときは、掌で顔が覆い尽くされている。二度目も三度目も、顔が映らない。長い素足、漆黒の髪が目に焼き付く。顔を晒してからも、マフラーやコートの襟によって、彼女の顔は幾度も隠される。それが最後のシーンに効いてくる。衣服(彼女が仕事にしていたクリーニング業務にも繋がる)からも、男からも秘密からも、カメラからさえも解放されたかのような表情。彼女が見上げた「白昼の花火」をあげていた「酔っぱらい」は誰なのか? ひとりの人物を想像する。彼は彼女から解放されたのだろうか?

幾度も急展開する事件の真相、解決とは言えない結末。謎はいくつも残る。ひとも社会も、矛盾に満ちている。不可解なミステリ、不可解な人間。そこに惹かれる。魅力も興味も尽きない。

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・『薄氷の殺人』ディアオ・イーナン監督、中国の映画作りを語る:CINRA.NET
中国では「製作の出資を受ける際に、なるべくカットを多くしてくれと、カット数を指定してくる」んだそうです。カットが多ければ多い程商業的=ヒットすると思われているとのこと。シェー。日本公開版は長回しメインの監督にとって「望ましいほう」のヴァージョンだそうです

・『王の涙』とハシゴして…と言えば、どちらにも「洗濯をする女性」が出て来たわ。そしてどちらも、道を踏み外さないでは生きられない女性だった。世が世なら? 時代が時代なら? この国に、時代に生まれなければ? ここにもまた運命

・もっさりしてからの主人公がmotkの川崎さんになんか似てて、途中からもう「川崎さん気をつけて!」「川崎さんそんなに呑んじゃダメ!」とドキドキしていた(バカ)



2015年01月17日(土)
『近藤良平のモダンタイムス』

芸劇dance ダンスファーム『近藤良平のモダンタイムス』@東京芸術劇場 プレイハウス

近藤さんの新プロジェクトである『ダンスファーム』に、小林十市さんが出演すると言うことで喜び勇んで観に行きました。現在はフランスで指導者として活動されている十市さんが久し振りに里帰り+舞台に立つ+しかも近藤さんと踊る! 貴重な機会です。昨年帰国されているときブログやtwitterにちょこちょこワークショップらしき光景をアップしていて、非公開で何かやっているんだなあとは思っていましたが、これに関連することだったのかな。

当初発表されていた出演者は近藤さん、十市さんと篠原ともえさん、たむらぱんさん。ここにスズキ拓朗さんら7名と、一般参加の30名が加わるとのこと。たむらさんが音楽担当だろうな、篠原さんは唄うのかな? 全く内容の予想がつかず。蓋を開けてみれば、41名の出演者全員がプリンシパルでありアンサンブルでもある、観ていてとても幸せになる作品でした。祝祭空間を前に、終始笑顔で観ていた気がする。

舞台上手にパーカッションの楽器一式、下手にアップライトピアノとマイク。ウクレレを手に近藤さんが現れて、弾き語りを始めます。こんにちは、ようこそ。どんな内容か判らないでしょう、とっちらかってますよ、でもこんな立派なところでやるのですから、ちゃんとした作品です。綺麗なプレイハウス、椅子の赤が映えますね、野田さんセンスい〜い。なんで僕が出て来たかと言うと、皆をなごませるためです♪ みたいなことをぽろぽろと。やがてダンサーたちが登場、開演です。

全員にソロがあったんじゃないだろうか? ノンストップの二時間弱、緩急自在でまったく集中力が切れずに観られた。地球に生きる人類、世界と人間が向き合う風景の数々。その世界観は流石の近藤さん。遠藤豊さんディレクションによる、プレイハウスの盆を活かし三分割された環状のセット、白いそれらに映し出される映像も美しい。

一般参加のメンバー、と言っても見るからに腕に覚えありのひとたち。そしてダンスは身体表現全般のことでもある。全員しっかり踊れるひとであり乍ら歌も唄うし楽器も演奏する。叫ぶ、喋る、跳ぶ、走る。またたくまにヴィヴィッドな色彩がステージに拡がる。その色彩には衣裳も大きく貢献。コスチュームディレクションを手掛けた篠原さんのポップな手腕が発揮されていました。身体の線をはっきり見せるもの、逆にふわりと覆うもの、パーツのこまかさとおおきさ。メンバーのキャラクターを捉えている。ヘッドドレス等のアクセサリーも劇場のサイズをよく考えたのだろうなあと思えるもので、ダンサーの動きに寄り添い、身体の表情を美しく彩る。

そうそう、篠原さんてすごい踊れるひとだったんですね! 舞台で何度か観たことあったけど知らなかった。動きが綺麗なだけでなく踊るときの表情がとてもゆたかで、ついつい目が行ってしまう。MCの役まわりも担当、観客の視線と関心を掴むのが巧い。ちなみに今回最前ド真ん中の席だったので、しっかり客いじりされましたよね…うまく対応出来たか自信ないけど、とてもフレンドリーに話しかけてくださったのでがんばりましたよ……。帰宅して調べてみたら、バレエ経験者でした。確かにあれはちゃんとやってるひとの動き、身体のやわらかさ。衣裳替えも沢山あったんですが、そのうちの一着は当時の衣裳をアレンジしたものだったそうです。十市さんとふたりで踊るシーンの色気のあること! 素敵でした。

十市さんは腰が痛い等の自虐ネタから始めておりました。コンテンポラリーで観ると言うのも新鮮。女性ファンにキャーキャー言われる寸劇? や、ドラゴンボール好きなところをアピール? したダンサー対決、ファージャケットを着て近藤さんのクレジットカードでお買いもの(笑)等、あのユーモア感覚も健在。しかし終盤、『アルルの女』「ファランドール」でのソロ(「十市最期の日」と言うパートだったそう)となると表情もまとう空気もがらりと変わる。ベジャール時代を彷彿させるもので、その気迫に息を呑むばかり。また踊るのが観られて嬉しい、と強く思う。次があるかは判らない。ここ数年、十市さんの踊りは毎回が最後なのだと思う。ご自身の振付かなと思っていたら、近藤さんの振付だったとのこと。近藤さんと十市さんが一緒に踊るシーンはもう、こんなものが観られる日が来るなんてと拳を握りしめましたよね…よがっだ……十市さんのコンドルズ跳び(あれね!)が観られたのも貴重!

前述のとおり弾き語りから始めた近藤さん、その後しばらく出番がなかったので、今回は進行に専念するのかなとちょっと不安になりましたが中盤からまた出て来てガッツリ踊ってくれました。衣裳がゆったりめのツナギだったのに、四肢の動きがシャープ。振りの大きさがはっきり分かる。身体に強靭な芯を持っている。たむらさんの胸元にはフクロウ。大きなシッポのついた衣裳も相俟って、ダンスの世界に住むケモノのよう。歩き方もかわいらしく、なんだかアトムの足音がしそう。ぽつんと立っている姿も絵になる。言葉を記号的に使いリズムを生む声と演奏、そして流麗な腕の振りも魅力的。

当日パンフレットには全員の顔写真。あ、あの面白かったひとだ、あのかわいらしかったひとだ。すぐに舞台上の姿と結びつく。41人もいたのに! 演者の力量は勿論ですが、これらをまとめた近藤さんの構成力に恐れ入った次第。

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・芸劇ch『近藤良平のモダン・タイムス』東京芸術劇場
動画メッセージ



2015年01月11日(日)
『壽初春大歌舞伎』夜の部

『壽初春大歌舞伎』夜の部@歌舞伎座

『番町皿屋敷』『女暫』『黒塚』。年明けにやるにしては随分…(笑)な演目揃いですな。

『番町皿屋敷』、吉右衛門の青山播磨、芝雀の腰元お菊。
客席の集中力が半端なかった。お菊の幽霊がいちま〜いにま〜いとお皿を数えるあれですが、今回はその前、お菊が手討ちになる迄の場面。皿が割られたのは自分の心を試すためと知った播磨が、皿をお菊に数えさせ、その都度割っていく。その緊迫感と言ったら! 吉右衛門さんの抑制された怒りの表現に、観ているこちらも震え上がる。ゆったりとした振る舞いの裏に憤怒を滾らせ、播磨は皿を割る。あんなに長い時間静まり返る歌舞伎座ってこの季節なかなかない……咳払いひとつ、鼻をすする音ひとつしない。観客は息を呑み、場を見守っている。これはすごかった、演者の迫力です。その前、お菊が箱のなかの皿を何度も改める場面もかなり長かったのですが、そこでも芝雀さんによる逡巡の演技が素晴らしく、やはり客席は静寂に包まれました。演者の地力と観客の集中力がつくりあげた幸福な舞台。

『女暫』、揃い踏みの華やかさ。玉三郎の巴御前、歌六の蒲冠者範頼、錦之助の清水冠者義高、又五郎の轟坊震斎(鯰)、七之助の女鯰若菜。そして吉右衛門の舞台番辰次。
夜の部唯一楽しい(笑)演目。今回の吉右衛門さんの存在感…本当に素晴らしい。花道の玉三郎さんへ六方教えてあげるとこのかわいらしさとか、ひとつ前の演目で女を切り捨てその遺骸を井戸に捨てさせた男とは思えない……。そして存在感と言えば、七之助くんの押し引きがよかったな。ほどよい、と言う感じ。玉三郎さんとのやりとりは、楽屋裏での仲のよさを感じさせつつも、兄弟子へ尊敬の眼差しを向け、自分の役割をしっかり務めている。
そうそう、茶後見で團子くん出てたらしいんだけど三階席からは確認出来ませんでした(泣)。

『黒塚』、猿之助の岩手(鬼女)、門之助の山伏大和坊、寿猿の強力太郎吾、男女蔵の山伏讃岐坊、勘九郎の阿闍梨祐慶。
猿之助歌舞伎座初見参! いやーん楽しかった。前回観たときは四代目猿之助襲名のとき、祐慶は團十郎さんだったなと思ったり…ついこないだのことのような気がしてるのに……。舞台の実感としての流れが頭に入っていたので、落ち着いて観られたところも。あとなんだ、演じたのが寿猿さんだったせいかあんまり「強力のバカ! バーカバーカ!」と思わなかった…って、私は猿弥さんに対してどういう印象を持っているのだろう(笑)。寿猿さんの年齢もあってかあのコサックのようなおどりはなく、動きもかなり違いました。演者によって役柄の印象も変わる面白さ。
「動き」の印象は全般感じられた。演者の筋力を感じると言うか…猿之助さんも勘九郎さんも、若々しい筋力から発せられる躍動が美しい。足拍子の踏み等、芝居の“音”がとても力強い。年齢とともにそれは薄れ、年嵩の魅力が出てくるでしょうから、この音は今しか聴けないものだと思う。そしてこの演目、曲がチョー格好いいよねー! たまらん! 演奏も素晴らしかったし、眼福ならぬ耳福でございます。
祐慶を演じた勘九郎さんが美丈夫な高僧で、惚れ惚れしました。こういうストイックな役、似合いますね。と言えば月明かりで踊る岩手の愛くるしさ(老婆なのに、鬼なのに)には、猿之助さんのニンがにじみ出ている感じ。ついこちらも笑顔に。歌舞伎座でやっと、と言う思いもあったのか、「待ってました!」「大当たり!」なんて大向こうも飛んで楽しいひとときでした。可哀相な話なのに(苦笑)。

年始の歌舞伎座は客席もなんだか華やかで、すっかりいい気分。幸先いい。



2015年01月10日(土)
『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』

『ジミーとジョルジュ 心の欠片を探して』@シアター・イメージフォーラム シアター2

患者と精神科医が出会ってセッションして別れる迄。お互いがお互いにある影響を与えて終わる。淡々と、でも滋味ある豊穣なやりとり。はぐれものふたりの、心(ジョルジュの言葉を借りれば、「傷付いた魂」)のロードムービー。

1948年。第二次世界大戦から帰還後、頭痛や目眩に悩まされるブラックフット族のジミー。戦場での事故による頭蓋骨骨折からの症状かと思われたが、病院で検査や治療を受けても原因は判らず、改善のきざしもない。ジミーがインディアン(ネイティヴ・アメリカン)であることから、民族精神医学に詳しいジョルジュが呼び寄せられる。

ジミーが見る夢、幼少期の記憶は現実のシーンと地続きだ。少年時代の自分を草原から見送る現代のジミー。かつて別れた婚約者と言葉を交わす現代のジミー。次第にジョルジュに心を開き、無意識に抑圧されていた恐怖感、罪悪感を自覚していくジミーは、同時にジョルジュが隠し装っている心の奥をも開放していく。ジミーとセッションを重ね、彼のルーツを辿るごとにジョルジュは自分の過去と現実に向き合うことになる。ジミーはインディアンであり乍らアメリカのために出征した。ジョルジュはNYに住むフランス人だが、ユダヤ系であると言う出自を隠し、名前も変えている。ふたりの「約束された土地」はどこだろう?

ストーリーは終始淡々と進む。とても静かに、登場人物の心に立つちいさな波を確かに捉える。一日一時間のセッションが急に休みになり、ちょっとそわそわするジミー。ジョルジュのちいさな変化に敏感に反応する、フランスから訪ねてきた不倫相手。ジミーやジョルジュが受けたかもしれない差別や、生活に根付く習慣描写もさりげない。地雷撤去がジミーに任された理由は? 検査を遅らせた医師、預金が降ろせる時間帯を教え間違えた看護師に他意はあっただろうか? デプレシャン監督はそれらを糾弾しない。スクリーンに拡がる美しい草原は、ブラックフット族の「噂の男」が育った場所を饒舌に語る。気のいいジョルジュがときおり見せる冥い表情をカメラは確実に摑まえる。母語ではない英語で、少したどたどしく、だからこそ率直に話す彼らの声はとても優しい。

ジョルジュは「アメリカ人の、彼らへの罪を引き受ける気はない」と言う。民族精神医学から出発した分析に、最終的にふたりは「人間」を見る。ルーツも職業も、育った環境も違うふたりが心を通わせるさまを、静かに描いた美しい作品。最後の場面は対照的だ。ジミーが決意し向かった場所と、ジョルジュが向かった場所。ふたりにとって忘れ得ないであろう二十週間を経て、旅は続く。

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・パンフも公開前映画館等に置かれていたフリーペーパーも読み応えあり。こういう丁寧な落ち着いた制作、好きだなあ

・ベニシオ・デル・トロの不思議な色の瞳も堪能出来てよかったです、あのヘイゼルホント綺麗(涙)、正に瞳が物語る。『21グラム』といい『プレッジ』といいと『悲しみが乾くまで』といい、こーゆーベニーはホントすごいなー

・マチュー・アマレリックはチャームを沢山持ってるなー。どうにも気になるキャラクター。あの愛嬌はたまらないものがありますね

・『スケアクロウ』好きなひとは気に入るんじゃないかなーと思ったら、パンフでデプレシャン監督が紹介してた。あとハムレットな側面も…と思ったら台詞に出てきた(笑)

・原作はジョルジュ・ドゥヴルー『夢の分析:或る平原インディアンの精神治療記録』。日本語出版はされていないそうです、読みたい……



2015年01月07日(水)
朗読「東京」『白痴』

芸劇+トーク ――東京を読み 東京を語る。―― 朗読「東京」第三回『白痴』@東京芸術劇場 シアターイースト

昨年の『咄も剣も自然体』がとても面白かったので、今回も出掛けて行きました。シリーズ第三回、初日は川口覚×藤井美菜で坂口安吾の『白痴』を。演出は範宙遊泳の山本卓卓。企画監修、トーク聞き手は川本三郎。

舞台の下手に大きめのスクリーン。東京(確か池袋、芸劇周辺)の映像を開演前から流している。昼間の映像だったので、生中継ではない様子。中央に椅子二脚、上手には大きめのTVくらいのモニター。山本さんの演出作品は初見、当日パンフレットのプロフィールを見ると「文字・映像・光・間取り図などアナログな2次元のエレメンツを用いた“生命”や“存在”への独自のアプローチ」とある。

もとは三人称の小説。ふたりの登場人物―主人公伊沢と白痴の女性―をそれぞれ出演者ふたりが語るのだろうが、その他の描写、つまり芝居だとト書きとも言える部分はどうするのだろう? 序盤は様子見のような感じで鑑賞。登場人物たちの台詞も、伊沢の心情や情景描写も、厳密には分割されていませんでした。藤井さんが伊沢の心情を語ることもあればその逆もある。川口さんが白痴の台詞を語るとき、それは白痴本人が喋ったそのものではなく、それを聴いた伊沢の解釈が含まれているもの、と言う印象を受ける。情景は、場面によってどちらも語る。

演出家が強調したいと判断したであろうセンテンスは、前述の下手スクリーンや舞台後方の壁一面(思えばここにもスクリーンがあったのだ)に大きく映し出される。「私、痛いの、とか、今も痛むの、とか、さっきも痛かったの、とか、」の部分は、原作だと「痛い」と書かれているのを敢えて(だと思われる)「いたい」とひらがなにして映写する。リーディングは主に耳でテキストを聴く作業。直前の状況から判断して「いたい」は「痛い」と「居たい」のどちらだろう? と一瞬思う。次の「いたむ」でああ「痛」か、とは思うが、続けて「いたかった」が来てまた迷う。この解釈にレイヤーを与える演出は面白かった。上手のモニターの後ろにはカメラがあり、場面によってそこへ移動した演者の表情が映し出される。押し入れから白痴が見上げたであろう伊沢の困惑した顔、伊沢が見詰めたであろう脅える白痴の顔。ただひとりにしか見せなかった表情が、観客の前に現れる。

演者は情景描写にちょっと苦心していたようだが、独白や対話となると俄然輝き出す。「怒濤の時代に美が何物だい。芸術は無力だ!」「僕はね、仕事があるのだ。僕はね、ともかく芸人だから、命のとことんの所で自分の姿を見凝(みつ)め得るような機会には、そのとことんの所で最後の取引をしてみることを要求されているのだ。僕は逃げたいが、逃げられないのだ。この機会を逃がすわけに行かないのだ。」言葉たちがリズムが宿る。川口さんの台詞まわしに引き込まれる。それに伴い、序盤ちょっと危なっかしいと感じたト書き(便宜上。独白、対話以外の部分)も乗ってくる。四月十五日に伊沢が見た光景、白痴と逃げた道の情景描写は見事だった。一方藤井さんは白痴のおぼつかない言葉遣いをちいさく澄んだ声で、ト書きは凛とした通る声で表現。朗読と言うものの身体表現もある演出に、“白痴”の仕草を効果的に取り入れていた。

終盤、空襲のなか彷徨うふたりは下手スクリーンの裏側に移動する。スクリーンは白い幕となり、ふたりの影絵を映し出す。白痴を抱きしめる伊沢、「怖れるな。そして、俺から離れるな。」はじめはちょっと手数が多いな、と感じた演出効果が徐々にソリッドになっていき、最終的には役者の肉体と声に集約される。暗転、思わず唸る。一回きりの上演なのが勿体ない、貴重なものが観られてしあわせ。

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アフタートークおぼえがき。記憶で起こしているのでそのままではありません。セットはそのままで、椅子を二脚追加。川本さんと山本さんが入り四人で座談会…と言うか、川本さんのお話を皆で聴く感じ。

川本:皆さんお若いけれど、坂口安吾との接点ってありましたか? これ迄読んだことはあった?
藤井:初めてです。名前を知っていたくらいで……
川口:同じく初めてです。手塚(眞)さんの映画は以前観ましたが、それだけですね
山本:昨年劇団で、安吾の作品から想を得た芝居を上演しました。とても共感する部分があって。それで今回お話を頂いたとき、この『白痴』を選んだんです

川本:『白痴』には、昭和二十(1945)年四月十五日にあった蒲田の空襲(城南大空襲)の描写があります。皆さんは太平洋戦争についての話って親御さんとかから聴いたことはありますか?
川口:ないですね…映像や史料から知って、想像して考えると言う感じです
藤井:家族からはないですが、学校の授業や映画、ドラマ等で知っているくらいです
川本:皆さんご出身はどちらで? 空襲はあったところですか?
川口:鳥取です。あったと言う話は聴いたことがないです
藤井:新潟です。あったらしいですけど詳しくは知らないですね
山本:山梨です。空襲の話は聴かなかったけど、僕はおじいちゃんが海軍にいたんです。それで片目を失っていて。臨場感たっぷりに話を聴かせてもらったりしました。あとおじいちゃん、(進軍)ラッパの音色をよく口ずさんでいたので、それがとても印象に残ってます
川本:あー、おじいちゃん。そういう世代ですよねもう。僕は昭和十九年生まれで東京でね、記憶は全くないのですが五月の空襲(山手大空襲。1945年5月25日)でウチが焼けてしまったと聴きました。何もかもなくなっちゃってね

藤井:今回朗読して思ったのは、今迄ドラマや映画で観た戦争ものって、誰か大切なひとがいる、そのひとを守りたいって言うのが前面に出ているものばかりだったんです。家族や恋人等、誰かを守りたい、誰かを思って…と言う。でもこの『白痴』では、伊沢にとって白痴はただの肉体に過ぎないと思っている…伊沢も白痴もとても孤独で。それがとても印象に残って
川本:素晴らしい感想ですね! 伊沢と言う人物は若くて、
山本:あ、僕! 伊沢と同じ歳なんです!
川本:てことは……
山本:二十七です!
川本:えっ、若いですねえ!(会場からもへええと言う声)…そう、若くて健康な男性なのに、終戦の年になっても徴兵されてない。安吾がこのとき四十くらいで、『白痴』は終戦の翌年に発表されています。安吾も徴兵されていないんですね。太宰治もされてない。本人たちは何も語らなかったし、これは憶測に過ぎないと前置きしますが、彼らは家がとても裕福だったんですね。安吾は新潟、太宰は青森の有力者で。徴兵する側になんらかの感情が働いていたのではないかと思われます。兵隊にとられたひとととられてないひとってのは、戦争に対する認識にも大きな違いがあるんだと思います。安吾は大田区に住んでいて…以前大森区と蒲田区があって、一緒になったから大田区になったんですよね…安易でしょう(笑)、そして空襲にも遭っている。白痴と出会ったかは判りませんが、まあそこはフィクションだと思いますが、この作品には安吾の実体験や心情が反映されているのでしょう

川本:このシリーズ三回目なんですけど、出演者の皆さん仰るのは、朗読は芝居よりも難しいと
川口;そうなんです! 今回何箇所か噛んでしまいましたが、僕、台詞のところは全く噛んでないんですよ(笑)
藤井:ト書きと台詞があるので、自分の状態を瞬時に切り替えなくてはいけないので難しいです!
川口:芝居だと動きにも意味を込められるけど、朗読だとそれが制限されるので…とても難しいです
川本:最初は伊沢と白痴、と言う感じで聴いていたけど、だんだん情景が拡がっていきましたね

川本:『白痴』は純愛小説の側面もありますね、孤独なふたりが出会って。空襲後の場面はとても静かな、美しいとも言える描写になっている。もしかしたらふたりは既に死んでしまっているのかも…と言う解釈も有り得ますね
山本:あっ、最後に言いたいことが! 最初はもっと文字や映像の効果を入れていたんです。でも、それがなくても役者さんたちが表現してくれるなってところがあったので、どんどん効果を減らしていったんです。ホントふたりとも素晴らしくて、僕ふたりのことが好きになってしまって。そんな深く知り合いな訳でもないのに
川口:(笑)三回でしたっけ?
山本:そう、稽古の三回しか会ってないんですよね。(顔合わせ含めて?)全部で四回
藤井:嬉しいです……あっ、そう、わたしもひとつだけ言いたいことが! 豚のお尻を切り取ってってところ、豚は痛そうでもなく特別な鳴き声もたてないってあったけど、そこは違いますよね! 豚だって痛がるし、鳴き声も違うと思います! それだけは言いたかった!(笑)

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メモ。

・坂口安吾『白痴』:青空文庫
初出「新潮 第四十三巻第六号」1946(昭和21)年6月1日

・平和新聞 第31回 坂口安吾 白痴

・「表参道が燃えた日」山の手大空襲の体験記

・藤井さんは『猟奇的な2番目の彼女』に出演しているそうです。おっ、楽しみ。日本公開ありますようにー



2015年01月03日(土)
『私の生涯で最も美しい一週間』

『私の生涯で最も美しい一週間』(DVD)

ファン・ジョンミン出演作。原題は『내생애 가장 아름다운 일주일(私の生涯で最も美しい一週間)』、英題は『All For Love』。監督は『20のアイデンティティ』の「秘密と嘘」(これ面白かった!)を手掛けたミン・ギュドン。2005年作品で日本未公開(ソフトリリースもなし)なのですが、福岡市総合図書館フィルムアーカイヴに所蔵されているそうです。福岡か…と思っていたところ(笑)、運良く本国盤のデラックスエディションを入手出来ました。英語字幕で鑑賞。

六組のカップルの一週間。曜日ごとに映し出される縺れた毛糸のアイコンのように、それぞれがそれぞれにちょっとずつ関わっている。それを当人たちは知らないまま。楽しいことがあり、悲しいことがあり、週末に笑顔が訪れる。カップルは男女であったり、男同士であったり、大人の男と少女であったり。新婚だったり、恋愛に発展するのか微妙な間柄であったり、お互いを理解しあえる孤独な人物同士であったり、と関係もさまざま。豪華キャストによる多重ストーリーで、宣美を見ても『ラブ・アクチュアリー』からインスパイアされた企画なのだろうと思われますが、これがよく出来ている。オムニバス形式にはせず、登場人物たちの交差点をストーリーにさりげなく組み込んでいくテンポがよく、全く時間の長さを感じませんでした。最後がちょっと駆け足に感じたので、もっと長くてもいいくらい。

共通するのは、皆が不器用なところ。週の前半は、登場人物同士の反発と、彼らが直面する苦難が描かれます。フェミニストの精神科医とマッチョな刑事は惹かれ合っているのにすぐケンカになっちゃう。映画館のオーナーは付属施設の喫茶店主と仲良くなりたいけど、彼女を解雇しなければならない。ラブラブだけど経済的に追いつめられている夫婦。元バスケットボール選手のでっちあげドキュメンタリーを制作し、再起へとハッパをかける放送作家。精神科医の勤める病院には心に傷を負ったアイドル歌手とシスター見習い、バスケット選手の娘とされる難病の少女が入院している。精神科医の元夫はやり手の実業家。息子とうまく関係を築けず、ハウスキーパーに来てもらうことにする。

精神科医と刑事がデートに出掛けるのは映画館。バスケット選手は現在サラ金会社に勤めていて、貧乏夫婦に取り立ての電話をかけている。実業家はフラジャイルな心を持ち、薬物を常用している(恐らくその流れで精神科医と出会ったと思われる)。彼はハウスキーパーにある感情を抱き、それに困惑もしている。シスター見習いは信仰と恋愛の挟間で罪悪感に苛まれる。

週の後半は彼らが新しく踏み出す一歩を描きます。登場人物たちは言葉も交わさず、顔も知らないままの誰かにちいさな影響を与えることになります。幕切れ、彼らに浮かぶ表情は笑顔。しかしその笑顔にはさまざまな心情が込められている。生きることの愛おしさに満ちた作品でした。やー、『ゴーン・ガール』のあとに観たから「人間っていいとこもあるよネ! 生きるって素敵なことネ!」て思えてよかったわ(笑)。オードリー・ヘプバーン主演作の数々、『風と共に去りぬ』と、往年のハリウッド映画への愛と憧れが滲んだエピソードにもにっこり。映画館主が喫茶店主に思いを伝える方法には、ベタだわあと思いつつもほろりときてしまった。

アイドル歌手とシスター見習いのエピソードに、グレアム・グリーンとよしながふみ作品がモチーフかなと言うものがあってほおおとなりました。アレンジが巧いと言うか…グリーンはともかく、よしながさんの方は『西洋骨董洋菓子店』の単行本がわざわざ? 映る場面もあるから意識的ではないかなあ。気になって調べてみたら、ギュドン監督はこの作品の三年後『アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜』映画化を手掛けていたので、縁があったのかも(後述のリンク参照)。

ちょっと気になったのが実業家とハウスキーパーの関係。ハウスキーパーは男性です。実業家がハウスキーパーに好意を持っているのは間違いないのですが、それは恋愛感情なのか? 描写がすごく微妙なんです。最初はスキンシップが濃いお国柄だからかなとは思っていたのですが、それにしては…と言うシーンが結構あって。全編通して台詞が多く、英語字幕を追いきれなかったので、会話には出ていたのかなー。特典ディスクに収録されていたカット場面には、ふたりのキスシーンがありました。監督のインタヴューも収録されていて、このシーンについての言及もあるようなんですが、特典映像には英語字幕がついておらずお手上げ(…)。恋愛感情抜きでも成立するエピソードではあるのですが、ゲイカップルは物語に組み込みづらいと判断され、何らかの変更が加えられたのだとしたら残念。ポスター等の宣美もこのふたりだけ蚊帳の外って感じになっているし、舞台挨拶や関連イヴェントにも出てないのが気になるなー。

と言えばバスケット選手と放送作家の仲も、途中から選手と娘の関係に重点が置かれる流れになっていた。エピソード同士の影響を考えてなのか、たまたまそうなったのかは判らないけれど、最終的には恋だけでない愛情のかたちを描くところに着地したのかな。そうそう、子役ふたりが鬼かわいく鬼巧くて唸りました。

ジョンミンさんはマッチョ刑事の役。『ユア・マイ・サンシャイン』『浮気な家族』ネタが盛り込まれた(ような)シーンがあってウケた。デートで観てるのは自分も出てる『甘い人生』だし、その映画館には『チャーミング・ガール』のポスター張ってあるし(笑・本編では気付かなかったけどメイキングで確認)。精神科医役のオム・ジョンファさんとは『ダンシング・クィーン』での共演が記憶に新しいところですが、いいコンビですよねえ。こういう、他出演作のモチーフが盛り込まれたり、本人が本人役(名)の作品作っちゃったりと、映画産業が盛んな国ならではなのかなと思いました。

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その他メモ。

・輝国山人の韓国映画 ミン・ギュドン 私の生涯で最も美しい一週間
データベース等。いつもお世話になっております……

・177.私の生涯で最も美しい一週間 : なめ犬のとことん韓国映画
人物相関図や各ストーリーの紹介もある素晴らしいレヴュー

・「アンティーク」のミン・ギュドン監督 インタビュー - TacoToma
『西洋骨董洋菓子店』の単行本を映した経緯について答えています。本の選別にもやはり意味があったんですね