浅間日記

2014年06月26日(木) 万国旗の下で国歌を歌え

サッカーワールドカップ。

よくは知らないが、
もう日本は、この先の試合に進むことができないのらしい。



日本国内にいた選手たちは、世界を制覇しそうな勢いに見えた。
現実とは別に、そのようにデザインされていたのだろう。

この国の大本営発表体質は変わっていないのだなあと再確認。




世界の中での日本の正確な評価を知ったならば、
日本人はもっと、日本人の得意分野と不得意な分野がわかるのに、
おらが村が一番だべと突っ張るから、その機会をみすみす放棄している。


歌うのなら、万国旗の下で国歌を歌え。


2013年06月26日(水) 出来すぎた話
2010年06月26日(土) 
2009年06月26日(金) 誰よりも怒り、唯一許容する
2007年06月26日(火) ゼロ・トレランス選挙
2006年06月26日(月) 
2005年06月26日(日) 梅雨
2004年06月26日(土) 美しい親子



2014年06月19日(木) 諸君の義務となるであろう

「憲法は政策の具としての戦争を放棄ししている。…しかしながら、もし国際的な無法状態が引き続き平和を脅威し、人々の生活を支配しようとするならば、この理想(戦争放棄)が止むを得ざる自己保存の法則に道をゆずらなければならぬことは当然であり…国際連合の枠内で、力を撃退するには力をもってすることが諸君の義務となるであろう」

問題1:誰の発言か。
ヒントは、コーンパイプ。

問題2:引用文献は何か。
ヒントは、そろばん。



発言者は年頭所感にこの言葉を述べ、この年の4月に帰国し、
例の有名な言葉を残して、軍務を退役している。
そして、この年の9月には、日米安保条約の調印がされている。

引用文献によると、そのように書かれている。
60年以上昔の予言、否、設定されたシナリオだ。



二村定一からエノケン、トニー谷、そして永六輔へと至る日本のボードビリアンの血脈をたどる研究の中で、予期せずこの発言を拾ったんである。



芸能文化であれ、政治であれ、
この国の明治時代以降の近現代史には、なんだかよくわかない部分がある。

自分の勉強不足を棚に上げて言うと、積極的に事実が周知されていない。
「利害関係を考慮して正史編纂中」という感じがするのである。

昭和のちょっと昔の出来事に至っては、自分から積極的に勉強しない限り、
「懐かしのアイドル」だの「懐かしのアニメ」みたいなものでごまかされている。

正確な歴史的事実を知らなければ、正確な未来は組み立てられない。
ものごとの「起」「承」「転」を曖昧にして、
「結」の最適解はこれだ!と言われても、判断不能、できないのである。

集団的自衛権を為政者ではなく国民が正面から考察するのが難しいのは、
こうした根の深い問題があるせいだ、と思っている。

2013年06月19日(水) 居直りのすすめ
2007年06月19日(火) 
2006年06月19日(月) 3浪生の受験日前
2005年06月19日(日) 高密度な労働投下
2004年06月19日(土) 草刈り多国籍軍



2014年06月12日(木)

埼玉はサッカー文化圏で仕事。

今回は、車と新幹線を移動手段にチョイスした。

帰路はすっかり夜道であるが、これが気持ち良い。
こんな夜半に女の一人運転が珍しいのか、それとも暇なのか、
有料道路の係員は、どちらへ向かうのか、気をつけてと、
釣銭をわたしながら話題を引っ張る。


稲光に浮き上がる山へ向かって、国道を走る走る。
トンネルの向こうは、ざんぶりと降っているに違いない。

皆、雷に怯えないで眠ったかな、と思案しながら、
闇夜にぽっかりと開いたオレンジ色のトンネルに飛び込んでいく。

2007年06月12日(火) 親福子福 その2
2006年06月12日(月) 産地直送・源泉掛け流し
2005年06月12日(日) 



2014年06月04日(水) 製造か誕生か

出張ラッシュが一段落し、自宅。

明日も明後日も移動がない喜びをかみしめつつ、
数日前の忘れられない新聞記事について、書いておこうと思う。

それは、非配偶者間体外受精によって生まれてくる子の自己の出自を知る権利、に関するものだった。

当事者が成人し、言葉をもち、自己の出自を知る権利について、
社会に訴える時代になったのである。

「自分が精子というモノからではなく、人格をもった人間から生まれたということを確信したい」

当事者の方のこの発言は、私にはとても衝撃的なものとして、
ずっと胸に突き刺さっている。



「自分が精子というモノからではなく、人格をもった人間から生まれたということを確信したい」

決して、とおり過ぎてはいけない言葉だ。
これは、ハンナ・アーレント風に言えば、
「これまで人類が経験したことのない絶望と悲しみ」なのだ。

人為による不自然な生命剥奪行為は、殺害である。
件の言葉の発言者は、人為による不自然な生を受けた。

双方のどこに違いがあるというのか。

私にはうまく説明できない。

生まれてきたんだからいいだろう?
それはとても乱暴な議論だ。


科学技術の進歩は本当に人を幸せにするのだろうか。

何かをもたらしているとしたら、それは何か。
何かを奪っているとしたら、それは何か。

人間の幸福と利益は同じものなのか。

彼らはおそらく、今まで私たちが真面目に取り組んでこなかったそのことを
一生をかけて真剣に考えるために、この世に生を受けたのだ。

そう思いたい。

2010年06月04日(金) シーオーツー
2007年06月04日(月) 強制托卵の未来
2004年06月04日(金) 善意のベクトル



2014年06月03日(火)

一緒に連れてきたYと、ゆっくりと家に戻る。

難儀な気質のこの長男は、油断すると勝手に傷ついたり悲しんだりしている。
だからこうして、時々連れ出して点検しなければいけない。

この子の本当の幸いは何だろうか。

チョコレートやテレビやおもちゃを無性に喜ぶが、
それが、本当に求めているものではないのは分かっている。

そして、この子には、この子が本当に求めているものをあげなければ、
何もあげていないのと同じ、ということも分かっている。

2006年06月03日(土) 眼つぶし信号
2004年06月03日(木) 誰かのせいにしたい



2014年06月02日(月) 地域の古老を誰が努めるか

葉山。

CSR−企業の社会的責任−として、
気もちよく誠意あるIさんと仕事。

仕事といっても、山の中を一日中歩き回るのだから、
ハイキングとほとんど相違ない。
大企業の人とビジネスだというのに、のんびりしている。

一緒に鳥の声を聴き、風を感じ、上り坂では汗を流す。
昼時になれば、腰かけて握り飯をほおばる。

地元のおじいさんが、親しげに声をかけていく。



「市民と企業が一体となった」、という言い回しを、
実はもう先から、疑わしく思っている。

市民と企業は一体になれない。
背負っているものが根本的に違う。

市民や市民からなる地域のコミュニティは、
「そのコミュニティに存在する以上逃れられない責任」を、
地縁血縁、あるいは個人として背負っている。
「自分は担当を外れました」ということはできないんである。

そうだから、こうした地縁血縁、あるいは個人的な親しみを感じる間柄だけに許された親密なコミュニティへ企業の「担当者」が入ってくることに、
私は違和感を感じるのだ。

どんなに親しげな風にされたって、
他のメンバーと同様にすることはできない。

CSR推進担当者は地域の古老になれないし、なってはいけない。
もっというと、そうならないように未来を創るのが企業の本当の役割だ。



企業が本気で地域貢献をするのだったらば、
社員のそれぞれの地域活動を認めればいいのだ。

部下がPTAの会長を引き受けたら、町内会の会長を引き受けたら、
マンションの管理組合の役を引き受けたら、
それを業績評価に反映するぐらいのキップのよさをみたいものだ。

企業名が入った看板を下げて、団体行動でこれ見よがしに何かするのは
もう卒業する頃だ。



Iさんと友達になれたら、楽しいだろうなと思う。
きっと気があうだろう。馬鹿話も楽しいだろう。

でも残念ながらIさんとは友達になれない。
別のかたちで関わりをもたない限り。

西日のあたる駅前で挨拶をかわしながら、
それでも来年また会えることを期待して、帰路につく。

2011年06月02日(木) 東関東大震災 菅内閣不信任決議が否決
2006年06月02日(金) 棄権せよ その2
2005年06月02日(木) 
2004年06月02日(水) 罪


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