浅間日記

2004年06月26日(土) 美しい親子

エンピツ日記の水沙さんは、このところ思い悩んでいる。
友達どうしで遊びたい年頃になった息子の海渡君を、
一人でやっていいものかどうかということについてだ。
他の子について一緒に遊べるかどうか、
一人で帰ってこられるかどうか、
怪我や事故などないかどうか。

こういう心配をする理由には、
海渡君がダウン症という特徴をもっていることがある。

WEB日記の読み方というのは様々な方向があり、そのことに
特別な法則や決め事などはないのだけれど、
一つの日記を継続的に読んでいると、
一つ一つがどんなにささやかで平凡な一日の記録だったとしても
それはその人のある種の生き方や考え方に基づいて成されている、
ということが、だんだんと見えてくるように思う。

全くの偶然で目にしたこの「海渡の風景」という日記に対して、
少なくとも私はそう思っている。
平凡でありドラマティックである海渡君の生活記録には、
水沙さんのしっかりとした子どもへの眼差しが綴られている。

「海渡の風景」では、
海渡君の素敵で面白い行動や言葉が綴られている。
成長に伴う発達の記録、小学校などでの周囲の手助けへの感謝の思い、
また障害をもった子への理不尽なふるまいに対する毅然とした抗議。
そしてしばしば、「海渡はニコニコして」とか「嬉しそうに」とか、
彼の幸せそうな様子が綴られる。「海渡の風景」の中で海渡君は本当によく笑う。
海渡君は水沙さんを信頼し、子として満たされているのがよくわかる。
そのことは、読者である私をも優しい気持ちにさせてくれるのである。

生まれながらにして障害のある子どもを育てるということは、
−ここに紹介する以上、恐るおそる自分の言葉をもたねばならないのだが−
産んだ瞬間から、我が子の、あるシリアスな特徴に対峙し、
不安と困惑の中から、親として子として共に生きていく意志を
通常よりも意識的に積み重ねていく部分が、あるのではないかと思う。

上手く表現できないけれど、
親としての強さや、親子や家族の関係の豊かさは、
そうした大変な苦労の中で確実につくられているのだな、と、
この日記から思うのである。



佐世保の事件の後で、「育てやすい子」というキーワードが
週刊誌などに登場しているようだけれど、どんな人間でも秀でた部分と
足りない部分があり、その中で生きている。人間は、工業製品ではないのだ。

そして秀でた部分と足りない部分を、そっくりそのまま受け容れることが
親心である。
「育てやすい子を産みたい」というのは、親心というよりも、
より便利なものを追い求める消費者の気持ちであり、
子どもにとってはさぞつらい境遇だろうと思う。



水沙さんの日記への、言葉の追いつかない思いを
補足してくれる文献があったので引用する。
−解きかけの方程式の、解答を見てしまった気持ちである。

(野村庄吾著「乳幼児の世界 -心の発達-」(岩波新書)後書き 以下引用)

「子育てはたしかに楽しいことも多いが、それだけでないものがどうしても残

ります。赤ちゃんでも大きくなれば、本書で述べてきましたように、いつまで

も親の意のままになるペットではありません。いろいろの家庭や社会の矛盾が

そのなかに噴き出てもきます。子どもがとくに障害をもつ場合の心身ともに苦

しい育児は、他の人の想像を絶するものがあります。このような苦しみの中に

も、育児を放棄せず、あらゆる発達の可能性を追求していく親たちのたたかい

の姿があります。このような親を前にして、楽しい子育ての面だけを強調する

きにはなりません。しかし、誤解をおそれずにいいますと、そんな場合でも、

これを乗りきっていくとき、あるいは他の親では気付かないような我が子の発

達を少しでも見出したときは、普通の育児では知りえない深い人間観に根ざす

親の喜びを知るといわれます。そんな親の姿に私たちも学んでいく必要がある

と思います。」


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