浅間日記

2007年06月30日(土) アブダカタブラ

思う存分仕事に没頭した翌日の、気分の良い休日。
Aとパンケーキの朝ごはん。

ラジオから、何か素敵な音楽が流れてくる。
何の楽器かよくわからないが、アルパのようなもの。

ニューシネマパラダイスのアルフレドみたいに、
ちょっとした細工を楽しむことにする。

安物のポケットラジオを3つかき集めてきて、周波数を合わせて、
台所のこちらの隅、あちらの隅におくと、あら不思議。
しょぼい音響が変化した。

Aは音の変化に目を丸くする。
横歩きしながら、あっちへこっちへ、耳を寄せている。

それにしても何の楽器か、不思議な音色である。
楽器博物館に行けば、きっとあるねとAが言う。
もちろんある、と私が答える。

2006年06月30日(金) 果肉か仁か
2004年06月30日(水) 流通の話



2007年06月28日(木) 自覚教育の日

身体のメンテナンス講座のようなものへの誘いを断れずに参加。

平日の昼間からこんなことしている場合じゃないのに!
というしがらみに引きずられる日々である。
もちろん、すべての責任は自分にある。



身体が疲れていたら、クリエイティブな仕事はできませんよと、
その道の専門家に諭される。

仲間からは、仕事をもっているのは大変なことだと、
ねぎらいの言葉をかけられる。

すべて指摘の通りであり、ありがたい思いやりである。

善良な友へ失礼のないよう、ふてくされた自分を制御することに最大限に注意を払いながら、
今日ここへ来てしまった自分はまったく間違っていたと再び思う。



仕事の疲れは、どんなケアを施そうとも、どんな親切を受けようとも、
仕事を終わらせなければ開放されない。

プレッシャーをストレスにしないためには、
粛々と工程をすすめるよりほかないのである。

このことを今日ほど自覚した日はないだろう。
そして、一つのプロジェクトが動いているうちは、他の雑事へ逃避せず自分のワークに邁進すべしと自戒できたのだから、
まあ無駄な日ではなかったかもしれない。

2004年06月28日(月) 



2007年06月27日(水) 兎を追う男

一昨日のこと。

今日のお土産は生きものだぞ、と息巻いてHが帰宅。
どかどかと、仕事中の二階へ上がってくる。

みると、茶色い小さな野うさぎの赤ん坊が、
籠の中でじっとうずくまっている。
雨で親とはぐれたところを、Hに捕獲されたのらしい。

野生動物はやたらと連れてきてはいけない。
それに、責任もって飼育できないのなら、山へ返してくるように。

関心のないそぶりでそう告げると、
喜んでくれると思ったのにと、肩を落として階下へ。

私は時々、Hにそういう気の重いことを言わなくてはならない。
子どもに説くようなことを、子どもに説くように。

動物園のウサギ担当の人へ相談したらやはり野に帰すのがよいと言われ、
翌日には元の場所へもどしてやった。
そしてようやく、私の悪人扱いは解除されたのだった。


小さな茶色のウサギが、可愛くないはずがない。
発見した瞬間に、私とAに見せてやろうと思いついたHの気持ちも嬉しい。
でも野生動物は、決して愛玩してはいけないのだ。

未練たっぷりのAは泣きそうでいたけれど。

2006年06月27日(火) 
2005年06月27日(月) 睡眠の話
2004年06月27日(日) berry berry and berry



2007年06月26日(火) ゼロ・トレランス選挙

共同通信社が行った、全国電話世論調査。
参院選での有権者の動向などを探るために実施した。
以下、その結果である。

参院選で重視する問題(二つまで回答)は「年金」が63・4%と、「教育」の23・4%など他の回答に比べ、突出して高くなった。年金記録不備問題への政府の対応に、有権者が強い不満を抱いていることが浮き彫りになった。「憲法改正」「格差」は18・0%、「政治とカネ」は16・9%だった。



本当に、選挙民にとって「年金」が「憲法改正」より重要な問題なのだろうか。
私は、そうは思わない。

大切な財産を馬鹿みたいなミスでとられる事態は大変腹立たしいが、
これはもう、投票にあたって「政策A」と「政策B」を比較するようなものではない。
誠意ある後始末ができるかできないか。それだけである。

そして、金ですんでいるうちはまだましなんである。
自分や家族の生命や自由や尊厳を、あの忌々しい年金のように、
杜撰に無責任に扱われたくなければ、自分はどこの誰と契約するべきか、よく考えることだ。

国家は国民に対して、真に何を保障することができるのか。
参院選では、そのコンペティションをこそ繰り広げてもらいたい。

2006年06月26日(月) 
2005年06月26日(日) 梅雨
2004年06月26日(土) 美しい親子



2007年06月25日(月) 怒れるみみずくは友情をもたない

子ども向けの芝居に連れて行く。

恐ろしく孤独なみみずくが人の良い蛙を捕らえたが、仲良くなって食べるのをやめた、という話。

私は話し半ばでなんだか嫌になってしまい、
そして、それが嫌である理由について考えるのも嫌になってしまい、
仕方がないから、ひたすら「TOEIC試験の結果と今後の対策」について考えることに決めて、
もうほとんど下を向いていた。



しかしやはり、ここでは考えを整理しておかねばならない。

私が嫌だったことのひとつは、動物の生態の安っぽい擬人化だと思う。
みみずくは蛙を捕食する。そうしなければ生きていかれないからだ。
そして子どもは、その偽りの無い真実を、ちゃんと理解する力がある。

もう一つ嫌だったことは、この脚本の考える「救済」に力がないこと。
残念ながらそれは30年前のものであり、現代の子ども達に適用できない。



かつて、イラクで人質にとられた青年が殺されるという、痛ましい出来事が起きた時、その時の映像が流出して騒ぎになった。
首を切られるという衝撃的な映像を、小学生でも簡単に目にすることができた。

怒れるみみずくは、にわか作りの友情などで恩赦されるものではないという現実を、
今の時代の子どもはもう知っている。ただ口にしないだけだ。



子どもというのは未来そのものである。
だから、大人が「子どもによいものを」と思うのならば、
未来への可能性について、全知全能を働かせて考えるべきだ。

このひどい現実の中で、
どういう方向から物事をとらえれば、前向きに生きていける可能性があるのか。

大人の集団が、考える難しさや苦しさを放棄し手軽な楽しさを追いかけている−自分のために−感じが、きっと私は嫌だったのだ。

「真心が心を溶かしあうことがある」ということを子どもに教えるならば、
家でヴァルトビューネのDVDでも見ていた方がよほどいい。

2006年06月25日(日) 未遂事件
2004年06月25日(金) メニューに食べたいものがない食堂



2007年06月23日(土)

初夏の八百屋は、注目に値する。

梅、枇杷、杏、さくらんぼう。
季節が限定された、地味だが味わい深い果実が並ぶ。
今が春でなく夏でもない、淡いシーズンであることを教えてくれる。

大粒でよく熟した梅を2kg、ジュース用の青いのを2kgほど仕入れる。

若いのにいまどき梅漬けなんて感心だねと、親父さんが世辞を言う。
奥さんそろそろ漬けないとだめだよと、おかみさんは的確な情報提供。
なにしろ、いい梅が市場に出回る時期は一瞬なんである。

夜更けに塩漬けを終えて、一安心。

2006年06月23日(金) ラッキーのめぐらせ方
2005年06月23日(木) 分水嶺
2004年06月23日(水) 疲弊



2007年06月19日(火)

数日前の、夜半のこと。

Hと、凍傷治療で有名なK医師の本についての話題から、
いつしかクライマーの四方山話へ。

素人目にみると、クライマーには三種類ある。

一つ目は、今も登り続けているクライマー、
二つ目は、山をやめたクライマー、
そして三つ目は、遭難で死んでしまったクライマーである。



Sさんというクライマーがいて、彼は三番目である。
会ったこともなかったけれど、私は彼の書く静かな文章が気に入って、
どんな人だろうと思っているうちに、岩から落ちて死んでしまった。

技術も高く、先鋭的なことをやっていた人だったから、
生きていたら何していただろうね、とHに問うと、
投げやりに、まあ、死んでいただろうね、と無情なことを言う。

生きていたら山をやめるはずもなく、
山を続けていたらいずれ死んでいただろう。

山を続けていたらいずれ死ぬような人が山を続けるのは、
家族にとっては−おそらく気がつかないだろうが−つらいだろうと思う。

2006年06月19日(月) 3浪生の受験日前
2005年06月19日(日) 高密度な労働投下
2004年06月19日(土) 草刈り多国籍軍



2007年06月17日(日)

湖の近くでピクニック。
夕闇を待って花火。

大勢の大人。
大勢の子ども。

日差しにやられたのと、多くの人と真剣に向き合いすぎたので、
少々疲れてしまった。

普通の軽い人付き合い、というのが、
私はどうもよく分からなくなっている。

来週末は、懸案になっていた梅でも漬けて静かに過ごしたい、と思いながら就寝。

2006年06月17日(土) 人生最後のワーク
2004年06月17日(木) 珍プレー好プレー



2007年06月14日(木) 君臨すれども統治せず 日本版

車の修理工場で、若い男性と事務的会話。

私が「かまいませんか」とたずね、彼が「よろしいですよ」と応える。
そんなやりとりを数回続けた。

それは「よろしい」+「です」+「よ」というふうに
完全に分析されて私の頭に入ってきて、
終盤の私はおそらく、頼むから他の店員と替えてくれという顔をしていたと思う。



言葉の使い方には、寛容な態度をみせる方だ。

寛容というよりも、そもそも言葉というものは、
誰もが自由自在に使いこなせるものではないと思っている。
だから、教育の対象となっている。

言葉は社会や人の心を映す生き物−化け物といってもいい−だ。
それに無防備でいれば、性根が丸出しになってしまう。

言葉を律するということは、自分を律することと同じである。




そうした認識の上で、件の修理工場の一件について思う。

「よろしい」という認証や許可の立場をとるキーワードを立場をわきまえずに使うということは、
言葉を知らないというよりも、他者に対して優位に立ちたいという心を抑えられないからではないか。

優位に立ちたいという心には、「よろしいですよ」という言葉はあつらえたようにぴったりとし、自分に心地良い。
だから、知らず知らずのうち、無防備に使っているのだと思う。

そういう訳で、言葉遣いそのものよりも、その丸出しにされた性根の方が、私には辟易するんである。
そんなに馴れ馴れしく性根をぶつけてこないでくれ、と思う。



その性根についても、しつこく書く。

自分をとりまく人との関係で、常に自分は優位でありたい。
よい、とか、だめだと、他人に言い、
認証と許可を与える権限をもった立場になりたい。

もっと言うと、過ちはすべて誰かのせいにし、自分は何も責任を持つことなくそうしたい。


子どもじみた君臨願望である。

2005年06月14日(火) 玉石NPO
2004年06月14日(月) 三菱ブランドの夏大根



2007年06月13日(水) 29 39 ver.1.2

PCがダウンし、脳も血液も内臓も入れ替える。
サポートセンターに電話すると親切な中国系の男性が対応してくれ、
難なく完了することができた。

数々の複雑な設定、蓄積されたデータ、大切にしていた便り。
まだ何を失ったのかさえわからない。
「被害の全容は明らかになっていません」というところだ。



こんなことしている場合じゃないんだけれど、という用向き。
冗談じゃないよ!と鼻息あらく出かけたけれど、
用向きを済ませた後は、やはりこれも必要なことであり、
こうして呼びつけてくれた人に感謝する思いで帰路につく。

短い人生で仕事をもちながら自己実現しようと思ったら、
少しずつ色々やっていくしかないのかもしれない。

2006年06月13日(火) 人生最後のアジテーション
2004年06月13日(日) テレビ市場開放



2007年06月12日(火) 親福子福 その2

養老孟司さんが「『親になる』を考える会」の設立を発表したというニュース。
「『少子化とは“少親化”のこと』という視点から、親になることの重要性を広く訴える考え」、と書いてある。

養老さんがどのような取り組みをするのか、期待している。
ベビーブームのような、子どもを増やすだけの薄っぺらいムーブメントにはしないでほしいと思う。



『親になる』を考えるためには、
『親にならない』を隣において考えなければいけない。


親になることは素晴らしいことだと思っている。
でもそのことは、
リプロダクティブ・ライツ/ヘルス−女性の性と生殖に関する自己決定権−
をおざなりにしてよいということではない。

むしろ、不可分であるとさえ思っている。



親になることは、既定事項ではない。国民の義務でも何でもない。
親になることは、万人にとって正解でもない。
そして、必ず子を授かるというものでもない。

それは、自分で選んで決めることだ。
産めばよいというものではない。



ひとたび人の親になることを自分で決意するのなら、
それがどんなかたちであれ−子を授かっても授からなくても−、人生の意味は深みを増す。

喜びはよりいっそう喜びとなり、悲しみはより深い絶望になる。
怒りは、それを許すために今までよりもずっと忍耐を必要とする。

そんな、因果の荒波をどうにかこうにか乗り越えてゆく時には、
「自分は親になることを選択し、決意した」という忘れがたい記憶が、
唯一の支えになるのだ。

2006年06月12日(月) 産地直送・源泉掛け流し
2005年06月12日(日) 



2007年06月10日(日) 争点以前

年金ラプソディとでも言いたくなるような日々。

笑い事ではない。むしろ腹立たしくある。

しかし、私は思う。

この問題は直ちに解決すべきものであって、
決して次回の選挙の争点などではない。

原因はきわめて単純-というよりもお粗末-なのであり、
選挙で論争するような話ではないのである。

私は、そう思っている。




本当に必要な選択肢と、それに伴う将来は何か。

選挙前というのは、有権者がもっとも思慮深くならなければいけない時である。
候補者以上に、緊張するべきだと思う。

2005年06月10日(金) 時代の相場感
2004年06月10日(木) ヨン様か寅さんか



2007年06月07日(木) 曼荼羅と混沌

既に恒例となった立山行脚。

地獄と極楽が描かれた曼荼羅図は、Aにはどうにも怖いらしい。

曼荼羅の中の地獄は、極楽よりも圧倒的に現実的であり、
しかもバラエティに富んでいる。
舌を抜かれ、血の池を泳ぎ、針の山を登る。
常に監視の鬼がいて、痛めつけられる。

この様に比べれば、極楽はオマケのようにさえ見える。
リアルに描けるということは、実際にリアルなことだったのではないか、
つまり当時の現実世界が多分に反映されているのではないか、と想像する。



曼荼羅図のなかには現世での行いを審判する場所があって、
Aに、ここで地獄に行くのか極楽に行くのか決まるんだよ、と説明する。

ややあってAは、周囲にはばかるように小さな声で、
のうりだいじんはどっちへ行ったのか、と尋ねる。

まったく、ちいさい人というのは、
胸にかかえた混沌をこんな風に突然アウトプットするから、こわいのだ。

農林水産大臣が極楽へ行ったのか地獄へいったのか、
それは、お母さんにもわからないよと応える。

2004年06月07日(月) 生きていくことを妨げるメディアというもの



2007年06月06日(水)

祖母の古い茶箪笥が届く。

小さな可愛い引き出しが沢山あって、おまけに飾り棚もついている。
特別上等の物ではないけれど、代えがたい品である。

引き出しを乾拭きすると、祖母の家の匂いがした。

Aが興味深々なので、贅沢な玩具箱として譲ることにした。
親が口を出さない空間が嬉しいのか、張り切って収納方針を考えている。
一人暮らしを始めた大学生みたいである。


かくして、祖母が保険証やガーゼのハンカチや塗り薬をしまっていた茶箪笥は、
今や、ビーズやらシールやら意味不明の紙片などが、所狭しと収まっている。

2006年06月06日(火) 観光地ビフォアフター
2005年06月06日(月) 旅に民謡
2004年06月06日(日) 



2007年06月04日(月) 強制托卵の未来

紙面というのは、掲載された記事の内容を越えて、何かを伝えることができる。
編集作業を通し事実と事実の重ね合わせによって、
推察される別の事実や可能性を示唆する。

例えば、印象深かったので覚えているのだけれど、
地下鉄サリン事件の時、事件が掲載された場所のすぐ脇に、
オウム真理教の記事−サリン事件とは全く関係のない−が
掲載されていた。
それは明らかに、事件との関係を記事を隣り合わせるという方法で示唆していた。


そして、今朝のこの記事も、私はそういう風に読み取ったのである。

新聞の科学面にある「チャボの卵からライチョウ誕生」という見出しの記事と、
その隣にある「功罪ある科学 伝えることも重要」という見出しの、
米沢富美子慶応大学名誉教授によるエッセイ記事の組み合わせである。



「チャボの卵からライチョウ誕生」というのはある研究の紹介記事で、
その内容はこういうことである。

ライチョウの卵から始原生殖細胞とよばれる特定の細胞を取り出してチャボの卵に移植する。
始原生殖細胞というのは、精子や卵子を作る細胞に分化する前の細胞だそうである。

チャボは、ライチョウとチャボの二つの遺伝子をもった「キメラ」として成長し、チャボとしての卵とライチョウとしての卵を産む。
そして、オスのライチョウの精子と掛け合わせた場合、ライチョウとしての卵だけが成長するのである。

この研究は、国立環境研究所の生物資源研究室というところで、
絶滅危惧種であるライチョウの繁殖、遺伝子多様性や個体数の維持を目的として行われている。



次に、米沢氏の記事は、こうである。

氏は、科学というのは役に立つものである一方、弊害になることもある、と指摘している。

科学の功だけでなく罪についても正しく伝えるのは科学者の仕事であるが、
科学者というのは、未知の問題を解明したいという好奇心
−それは重要なモチベーションであるとしても−が先行するものであるから、

市民へと仲介するような、高い使命感をもって科学報道にあたるジャーナリストの貢献は大きいと述べている。

併せて、昨年設けられた「科学ジャーナリスト賞」についても紹介している。



そういうわけで私は、この紙面編集から、
始原生殖細胞に関する技術について強い警告が発せられていると、
そう思わざるを得ないのである。

ただの直感であるが、編集が示唆するメッセージとは、
そもそも直感で受信する以外方法がないのである。

カッコーは自分の卵をよその鳥に育てさせるけれど、
こんな強制的な托卵までして絶滅危惧種を残すことには、
もはや生物多様性を維持することへの道すじを見失っていると強く思う。

ヒトも含む生物種や個体の概念をめちゃくちゃにする技術へ応用・発展する危険性があると、そんな気がしている。

2004年06月04日(金) 善意のベクトル


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