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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
バルト海とナポレオン戦争(1)1800-01年

9月始めに夏休みをいただいて、1週間バルト海の東部に行ってきました。フィンランドと、海を渡ってエストニアのタリンへ。
ここは、ホーンブロワーと、チャールズ・オークショットが航海した海。
そもそも、私を最初にバルト三国に誘惑したのは、C.S.フォレスターの「決戦バルト海」だったり。
物語の舞台を辿るには、ラトビアのリガに行かなければいけないのですが、仕事の関係で休みは5日が最大限だったので、今回は海からリガに入る余裕がなくて、リガと似ていると言われるタリンから、当時のバルト海を偲ぶことにしました。

18-19世紀の海洋冒険小説を、私は海洋小説と同時に歴史小説としても読んでいますが、歴史小説として読んだ時に面白いのは、やはりバルト海を舞台にした作品のように思われます。
イギリス対フランスの単純な対立構図ではなく、デンマーク、スウェーデン、ロシア、プロシアといった周辺の国々の利害が複雑に絡み、複雑な背景を背負った各国の魅力的な登場人物が絡んでくる。

実際に現地に行き、またバルト海を取り巻く周辺各国の歴史を改めて詳しく知り、その上でまた各小説を読み返してみると、今までに見えなかったことが見えてきたり、フィンランド人やエストニア人やデンマーク人の登場人物が、あの情勢の下でなぜこのような行動をとったのか、より深くわかるようになり、倍増しで小説が面白くなるような気がします。

私の手元にある海洋小説の中で、バルト海を舞台にしたものは6冊あります。
1799〜1801年を舞台にしたロバート・チャロナー「バルト海の猛き艦長」(オークショット・シリーズ)と、アレクサンダー・ケント「提督ボライソーの初陣」。
1807年の英国軍コペンハーゲン攻撃の前後を描いたアンソニー・フォレスト「バランス・オブ・デンジャー」(ジャスティス・シリーズ)と、アレクサンダー・ケント「最後の勝利者」。
1812〜1813年にかけてはC.S.フォレスター「決戦バルト海」と、パトリック・オブライアン「風雲のバルト海、要塞島攻略」。

ナポレオン戦争当初の1800年、バルト海沿岸諸国の立場は、武装中立というものでした。
フランスとバルト海の間には、ベネルクスやドイツの諸領邦国家、オーストリアがあり、直接国境を接していなかったことから、バルト海沿岸諸国にとってフランス軍に陸上から攻め込まれるという脅威は、この時点では無かったのです。
しかし、軋轢は海で発生しました。
デンマーク・ノルウェー連合王国はその恵まれた森林資源を世界中に輸出するなど海上貿易が盛んでした。
中立であるからには、当然、イギリスともフランス双方と取引をしていたわけですが、ここでイギリス海軍との衝突が起きるのです。

チャロナーの「バルト海の猛き艦長」の冒頭に、オークショット艦長のジャブリン号がデンマークの商船を臨検査察しようとするエピソードがあります。場所はデンマークからもイギリスからも遠く離れた地中海の入り口、ジプラルタル沖です。
ところが紆余曲折あって結局、このデンマーク船は査察を逃れ、イギリス海軍が苦労して封鎖していた監視の目もくぐり、ツーロン港に入港、フランスの軍需物資を陸揚げしてしまいます。

デンマークの武装中立とはつまり、中立国の船は中立の立場で、交戦中のどちらの国とも貿易が可能であり、
この中立貿易を守るために武装…すなわちデンマーク船であればデンマーク海軍の大砲に守られることもありうる、というもの。

デンマークの立場と主張は至極もっともなものでしょう。
戦争の当事者ではないのだから、他国に貿易の内容にまでどうこう言われたくはありません。
しかし冬の厳しい北海で、夏の酷暑の地中海で、あれほどの苦労をしてフランスの各港を封鎖している英国封鎖艦隊にしてみれば、このようなデンマーク船の行動はたまったものではないのもまた事実。

このような状況の中、リチャード・ボライソーの小戦隊は、デンマークに圧力をかけるために、コペンハーゲンに派遣される…というのがアレクサンダー・ケントの「提督ボライソーの初陣」です。
上官であるデイムラム提督いわく「若輩の士官ではこの事態を軽んじたことになり、かといって上の人間では相手が脅威ととるかもしれん。若手の海軍少将が適任といったところだろう。小さな戦力なら平和的な意図が通用する」
というわけなのですが、

中立か、英国との同盟か、圧力を受けデンマークは苦しい立場に立たされます。

一方、バルト海の東の雄ロシアに対し、フランスはこの時期を狙って外交攻勢をかけていました。
ロシア皇帝パーヴェル一世が名目上の騎士団長をつとめる聖ヨハネ騎士団の島マルタ島を、フランスはロシアに進呈しようと申し出るのですが、イギリス軍がちょうどこの時、この島に封鎖攻撃をかけていたのです。
この緊迫した情勢下、オークショット艦長のジャブリン号は、今はロシア領となっているエストニアの海港ナルバ駐在イギリス領事宛の密書を急送する任務を与えられ、バルト海を東に向かっていました。

「バルト海の海図は用意されているのですか?」と副長にたずねられたオークショットは、「いや、ない」と答えます。
「前世紀に描かれたスケッチは何枚かある。このスケッチにはほっぺたをふくらませた裸のキューピッドや陸上の人間にしか想像できない海獣の絵が飾られているが、我々の要求にかなうものはほとんどない」


えへん!どうだ? これがジャブリン号にはなかったナルバの海図です。ヘルシンキのスオメンリンナ要塞島の博物館にありました。
キューピッドも海獣もいません(笑)。
オークショットはかなり慎重に測深して入港していますが、この海図で見る限り、危険な浅瀬などは無いようですね。

バルト海の東奥フィンランド湾の南岸には、ハンザ同盟の昔から、ナルバ、タリン、リガと言ったある程度の自治権を有する国際的な貿易都市(海港)があり、ここには各国の商人が商館を構え、その中にはもちろんイギリス商館も数多くありました。
けれども、もしロシアがフランス側に付きイギリスに宣戦布告することになれば、今はロシア領にあるナルバのイギリス人は財産を没収、拘束されてしまいます。
万一の場合は、ナルバのイギリス人脱出に力を尽くしてくれ、とナルバのイギリス領事はオークショットに頼みます。

しかしマルタ島はイギリス軍の手に落ちました。
この地中海での事件が、ロシアのイギリスに対する態度を硬化させる引き金となります。

ケントの「提督ボライソーの初陣」では、マルタ陥落の報を伝えるフランスの急使船をボライソーが拿捕し、イギリスはデンマークに対して先手を打ったことになっていますが、ナルバでは後手にまわりました。
ロシア側の動きは速く、領事とオークショットがイギリス人たちを脱出させる前に、ジャブリン号は武装解除されオークショットは砦の一室に監禁(拘束)されてしまいます。

オークショットがこの砦を脱出し、リガ経由でコペンハーゲンに逃れることが出来たのは、エストニア人外交官の夫人であるカテリーナ・ヤコブスンと、砦の警備責任者だったロコソフスキー中佐の手引きでした。
ロシアを裏切るこの行為に、オークショットが理由を尋ねると、カテリーナは「エストニア人だから」と答えます。

18世紀初頭まではスウェーデンの下、大幅な自治を許されていたエストニア、ラトビアが、ロシアに占領されたのは18世紀半ばから後半のこと。
当初ロシアはこれらの地に地方自治を許し、西欧とのパイプを持つ現地人支配階級の一部を宮廷の要職に登用していましたが、皇帝パーヴェル一世の時代になるとこの方針は変わり、締め付けが厳しくなりました。
これに不満を持つエストニア人も多くいたのです。

コペンハーゲンに戻ったオークショットは、ハイド・パーカーとネルソンによるデンマーク艦隊への総攻撃――イギリス軍の言う1801年4月2日のコペンハーゲンの海戦――に間に合い、攻撃の一旦を担います。

これにより、ひとまずイギリスはデンマークの武装中立による弊害を取り除くことが出来たのですが、中立を武力で踏みにじられたデンマーク側には深い禍根が残り…これはその後に尾を引くことになります。

…とこのように史実を小説を平行させながら読んできますと、
物語の舞台を辿ると言ってエストニアまで行きながら、どうしてナルバに行かなかったの?と思われると思うのですが、
今、ナルバには往事を偲ぶものは殆ど残っていないのだそうです。
この街は第二次大戦時にドイツ軍に占領され、エストニア人の住民たちは強制避難させられました。
戦争末期にはソ連軍の大規模爆撃があり、かつて「バルトの真珠」と称えられた美しい街並みは焦土と化したとのこと。
戦後ソビエト連邦の一国となってからも、強制避難させられたエストニア人たちが街に戻ることは許されず、現在もロシア系住民が多く住む、ソ連時代の負の遺産を抱えた工業都市なのだそうです。

(2)1807年へつづく


2007年10月21日(日)