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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
イオニア海にクタリを探して(後編)…は実はアドリア海

コトルは、現在のモンテネグロに位置するアドリア海の港町です。
英語表記はKotor、イタリア語でCottaro。

実はこの町を旅行された方があって、表記について教えていただくとともに、旅行記にリンク許可をいただきました。
かおるさん>ありがとうございます。

コトルというのはこのような町です。旅行記ご参照ください。
http://tabitora.3.pro.tok2.com/tabinikki/adriatic/adriatic6.htm
かおるさんのHP「旅はとらぶる・トラバーユ」トップページはこちら
http://tabitora.3.pro.tok2.com/

コトルは、古くはローマ帝国の港町。中世においては様々な民族の支配下に置かれます。
9世紀半ばには回教徒の支配下に、1002年にはブルガリア帝国に占領され、その後セルビアに割譲。
けれども町の住民は支配者に叛旗をひるがえし、北に位置する港町ラグーサ(現在のドブロニーク)と力をあわせ、一旦は独立共和国の地位を確立しました。が、1185年にセルビア公国の支配を平和裡に受け入れ、以後商業都市として栄えました。

これはアドリア海の対岸に位置するもうひとつの商業都市ヴェネチアには脅威でした。
セルビア公国の力が衰えた14世紀末以降、庇護者を失ったコトルは、ヴェネチアの支配に屈することになります。

そのヴェネチアも1797年にナポレオンの手に落ち、カンポ・フォルミオ条約でフランスは、ヴェネチアの勢力圏をオーストリアと折半することになりました。
イオニア海のコルフ島はこの時フランス領となります。コトルはこの時点ではオーストリア側に残りましたが、1805年のプレスブルグ条約でフランスのものとなり、町にはフランス軍が駐留するようになりました。

M&C8巻だけを読んでいると、コルフ島を奪還できない英国の勢力圏は、アドリア海の入口であるイオニア海を最前線としているように思えてしまいますが、ジャックの大砲陸揚げ作戦のモデルとなったバカンティ号のホステ艦長の戦歴を読むと、英国海軍は1812年以前にもアドリア海の最深部まで艦船を派遣し、大暴れしていたことがわかります。

英国海軍の38門フリゲート艦バカンティ号の(サー)・ウィリアム・ホステ艦長は、1780年生まれ。ということはアダム・ボライソーと同い年になりますが、調べていくと似たような経歴をたどって面白い。コトル大砲陸揚げ作戦当時、ホステは32才の勅任艦長でした。
ネルソン提督と同じノーフォーク出身で、艦長時代のネルソンに候補生として仕えたことから、ホステの経歴は様々な記録に残されているようです。
もっとも有名なのは、1811年アドリア海の現在のクロアチア沖で、フリゲート4隻で7隻のフランス・ヴェネチア艦隊を撃破したリッサの海戦でしょう。

1812年、38門の新造フリゲート艦バカンティ号を与えられたホステは再び地中海に戻ります。
この時のツーロン封鎖艦隊の司令官はあのペリュー提督でした。彼の命でホステはアドリア海に派遣されることに。
アドリア海ではフリーマントル提督の艦隊がヴェネチア封鎖その他フランス軍に対して様々な破壊工作を行っていました。

翌1813年、オーストリアはフランスに宣戦布告し、これに呼応すべくアドリア海東部のクロアチア人たちも立ち上がりました。
フランス軍は追いつめられコトルとラグーサ(現ドブロニーク)の町に立てこもります。
秋10月、コトル郊外のクロアチア人が蜂起したとの報を受け、フリーマントル提督はバカンティ号とサラセン号をコトルに派遣、ホステ艦長はバカンティ号の備砲(18ポンド)砲を陸揚げし、コトルの背後の丘(高さ3,000フィートですから約100m)に据え付けます。
バカンティ号自身も沖から32ポンド砲と18ポンド砲で攻撃を開始し、1814年1月にコトルは陥落します。
これが8巻のモデルとなった実際のアドリア海での攻防です。

ジャックとサプライズ号が大砲を陸揚げした8巻のクタリと、ホステ艦長とバカンティ号が活躍した実在の町コトルとの一番の違いは、オスマン・トルコが絡んでこないところでしょうか?
オブライアンの小説の場合は、このオリエンタルな味付けが、物語の魅力ともなっているのですが。

さて、1815年のウィーン会議後、コトルはオーストリア・ハンガリー帝国の一部に、第一次大戦後にセルビア・クロアチア・スロベニア王国として独立、第二次大戦後ユーゴスラビア連邦共和国の一部となりました。
ユーゴスラビア内戦後の各共和国独立後は、モンテネグロ共和国に属します。
現在のコトル住民の民族構成は、モンテネグロ人47%、セルビア人30%、クロアチア人8%。他に少数民族としてムスリム、アルバニア人、ボスニア人など。住民の78%が東方正教会、13%がカトリックとのこと。
バカンティ号活躍の時代には多数派だったクロアチア人の比率が減っていますね。どのような事情があったのかはわかりませんが。

すぐ北に位置するクロアチアのドブロニークと異なり、調べた限りではコトルは、つい先日のユーゴスラビア内戦時、直接の戦闘には巻き込まれていないようです(確認はとれていませんが)。
が、あの当時盛んにニュースに流れたエスニック・クレンジング(民族浄化)という言葉を思い出すと、
国連という調停機能や国際世論の無かった、力だけが支配する19世紀はじめ(と言ってもM&Cの時代はたかだか200年前なのですが)、フランス、イギリス、トルコの綱引きという世界情勢の荒波に怯えながら、クタリという架空の町に暮らす人々の様子も、遠い昔の歴史ではないな…と。
一つ事あれば民族の異なる隣人が敵となる状況の背景はこういうことなのかなぁと。
クタリの町の描写を読みながら、考えこんでしまいました。

参考HPは下記の通りです。
Gunroom(ホステ艦長とバカンティ号について)
http://mat.gsia.cmu.edu/POB/JUN0802/0399.html
http://mat.gsia.cmu.edu/POB/DEC2804/1233.html

Ships of the Old Navy (HOME):BacchanteとAmphionの項参照
http://www.cronab.demon.co.uk/INTRO.HTM

Kotor
http://en.wikipedia.org/wiki/Kotor

Corfu
http://en.wikipedia.org/wiki/Corfu

ホステ艦長とバカンティ号の発音は只野さんに調べていただきました。ありがとうございます。


2006年12月24日(日)