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Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
3人のアイルランド人・後編〔Ireland3〕

アイルランド人にとっては全く不本意なことながら、ここ数十年のこの国をめぐるニュースで、海外にもっとも多く伝えられているのは、やはり一昔前の北アイルランドをめぐる争乱でしょう。
まだ海洋小説も冒険小説も知らなかった高校時代、私も、北アイルランド紛争というのは単純にカトリック(アイルランド)とプロテスタント(英国)の宗教対立なのだと思っていました。

アイルランドと英国の対立は単純に宗教の問題だけではなく、経済格差やその他複雑な事情が絡んでいる、という事を知ったのは大学に入ってから。
その他複雑な事情…については、ジャック・ヒギンズやパトリック・オブライアンなど娯楽アクションの形を借りた小説から得た知識も多いですね。
ヒギンズの「黒の狙撃者」(ハヤカワ文庫NV662)の中には、1798年反乱の指導者として処刑されたウルフ・トーンの話題が出てきますが、トーンは誰もが認める「アイルランドの偉大な愛国者」であるものの、実はプロテスタント。
エドワード・フィッツジェラルドを始めとする1798年反乱の指導者の多くは、実はプロテスタントなのです。

12世紀に英国から、ケルト人の国アイルランドに攻め込み支配階級となったフィッツジェラルド家などノルマン系移住者は、その後現地豪族(ケルト系)との婚姻などにより、急速に現地化していきます。
後を追って英国から入植したアングロ・サクソン系英国人もまた、次々とアイルランドに溶け込んで行きました。
危機感を感じた英国は、1367年にキルケニー法という法律を定め、英国からの入植者に対し「アイルランド語使用、姓名のゲール語使用、現地民族衣装着用」などを禁止しようとしましたが、実際に英国の支配権が及んでいたのは、ペイルと呼ばれた特別区や城壁に囲まれた町中のみでした。

今回の旅行で手に入れたディロン家の家系プレートによれば、ディロン家の先祖が英国からアイルランドに入植したのは約800年前の13世紀。
その後キルケニーなどを中心に現地に溶け込み、一族の勢力は次々と広がっていきました。
土着し繁栄したアングロ・サクソン系アイルランド人の代表的な一族です。

16世紀、宗教改革を断行し(その理由はともあれ)ローマ教皇と縁を切った英国国王ヘンリー八世は、これによりアイルランド王の称号をも手に入れ、英国法においてアイルランドは英国の従属国になりました。
この結果アイルランドに住む人々は、もとからのケルト系も、ノルマン系支配階級も、土着化した英国人(アングロ・アイリッシュ)も、等しく英国法に支配されることになり、アイルランド住人の英国への反逆行為は反乱と見なされることになりました。
その一方で、ローマ教皇庁の権威に反発するアイルランド領主の中には、英国国教会を設立したヘンリー八世にならいカトリックを捨てる動きもありました。

続くエリザベス一世からジェイムズ一世の時代、アイルランドでは時に苛烈な英国支配に対して地元豪族の反乱が相次ぎ、もっとも頑強に抵抗した北アイルランドのアルスター6州は、反乱鎮圧後に英国王の所領として没収され、ここには新たにスコットランドから多くのプロテスタントが入植しました。
これが現在に至る北アイルランド問題の始まりなのですが、この時期以降に英国からアイルランドに入植した英国人は「ニュー・イングリッシュ」と呼ばれ、ディロン家のような以前からのアングロ・サクソン系入植者(オールド・イングリッシュ)と区別されています。


というわけで、18世紀後半マチュリンやディロンが生きた時代のアイルランドには、もとからのケルト系、土着したノルマン系、初期入植者オールド・イングリッシュ、プロテスタントのニュー・イングリッシュの大まかに言えば4種類のアイルランド人がいて、ノルマン系やオールド・イングリッシュの中にはプロテスタントもいれば昔ながらのカトリックもいるという状況。
オブライアンの1巻「新鋭艦長、戦乱の海へ」(上)P.288-89にかけてのマチュリンとディロンの会話の中で、マチュリンが、
「(ディロンの)ご家族で何人かはもちろんそう(カトリック)だと思っていたが」と言っているのは、このような状況をさしているものと思われます。

また18世紀後半は、カトリックにも少しずつ社会参加の道が開かれていく過渡期でもありました。
マチュリンは当時のアイルランド最高学府、ダブリンのトリニティ・カレッジの出身ですが、この名門大学がプロテスタント以外の学生を受け入れるようになったのは、1772年のことです。
1774年以降はカトリックにも官吏や軍の士官など公職への道が開かれましたが、これにはプロテスタント並の英国への忠誠誓約が求められました。
この宣誓文の中には、厳格なカトリックには抵抗のある一文が含まれていたようで、マチュリンがディロンに「あの宣誓のために君の立場が難しくなったことは?」と尋ね、ディロンが「それは少しもない。カトリックに関する限り、俺の心は気楽だ」と返したのを受けて「それは君自身の問題だね」と答えている背景には、このあたりの事情があるようです。

と言っても18世紀はまだ、国会議員や軍の高官などの職はプロテスタントに制限されていました。
フィッツジェラルド家が議会に席を持っていたということは、このノルマン・アイリッシュの家がこの時代までにプロテスタントになっていたことを意味します。

宗教によるこの差別が完全に廃止されたのは1829年。
ウェリントン内閣がカトリック解放令を可決し、英国からは宗教による人種差別が撤廃されました。


ディロン家の家系プレートには、紋章ととにに、モットー(家訓)も記されています。
「While I have breath, I hope.」
息をしている限り、私は希望を持ち続ける。

アイルランド各地に広がり繁栄しながらも、度重なる反乱の失敗から多くの城を失い、クロムウェルのアイルランド進攻時には激しく抵抗したディロン一族。
アメリカ独立戦争時には、独立軍を支援し指揮した将軍もいたとか。
その一族の歴史を思う時、ある意味壮絶なこの家訓は、忘れられない言葉として心に残ります。

この項はアイルランドで購入した家系プレートをメインに以下の2冊を参考文献として解説を加えました。
「アイルランド史入門」シェイマス・マコール/小野修 編、明石書店
「概説イギリス史」青山吉信、今井宏 編、有斐閣選書


2006年11月05日(日)