Sail ho!
Tohko HAYAMA
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Sail ho!:映画「マスター&コマンダー」と海洋冒険小説の海外情報日記
中間報告:「終戦のローレライ」
【未読注意】今回は物語の展開に関するねたバレはありません。ただしこれを読むと、ある程度の先入観をもたれる可能性はあります。各人のご判断で先におすすみください。
先週からやっと、福井晴敏「終戦のローレライ」を読み始めました。今やっと半分(�挟�読了)まで来たところです。 読み終わったら映画に行こうと…大幅に世間さまに遅れているのは承知、でも現状これが精一杯のペースなので。
本当は小説を最後まで読み終わってから感想をまとめようと思っていたのですが、それだと何やら大変な量になりそうで、とりあえず現時点で考えていることを一回まとめておこうかと思いました。 この本、何というか、本を閉じて考えてしまうことが多くてね、ぜんぜん読み進まないのですよ。 1巻で通常の海洋小説1冊分という厚さもですが、これまで親しんできた海外の海洋小説と引き比べていろいろ考えこんでしまいまして。
私は、いわゆる戦記シュミレーション小説というものを全く読まないので、日本人作家による第二次大戦を舞台にした海洋小説を読むのはこれが初めてです。 吉田満「戦艦大和ノ最期」を初めとする記録文学は学校の課題として読みましたし、アリステア・マクリーン「シンガポール脱出」(ハヤカワ文庫NV)などの英国側から見た日本軍がらみの海洋小説は手にしたことがあるのですが。 同じ第二次大戦ものでもスパイ小説の場合(佐々木譲作品など)は、欧米人作家による翻訳ものとの間にあまり大差は無いように思われます。が、海洋小説の場合は、読み慣れた英国作品とこれとはかなり肌合いが違って、1ページ繰るたびに「あぁここが違う、あそこが違う」と考えて、手が止まってしまうんです。
艦内のみならず、陸上の司令部にも視点となる多数の主人公格がいて、物語が進行していく、というスタイルは、ダグラス・リーマンの海洋小説ではおなじみですし、敵方の視点はパトリック・ロビンソンの現代もの(角川文庫「ニミッツ・クラス」など)にも見られます。 しかし、これほどはっきり敵の顔が見えてしまう海洋小説というのは初めてでした。 パトリック・ロビンソンの描く敵方は、あくまでステレオ・タイプの悪役テロリストで、人間臭さはありません。 ところが「終戦のローレライ」に登場する敵艦のアメリカ人たちは、実に人間臭く、どこにでもいそうな良いキャラクターなのです(《ボーンフィッシュ》のチーフがいいですよね)。
これはある意味で読者にとって辛いことです。 敵味方とも共感できる良いキャラクターたちが、実は殺し合いをしていて、互いの良さを知らぬままに、一方は他方の命を確実に奪っていく。 読者は何もできぬまま、目の前で繰り広げられる殺し合いを見続けるしかない。
でも、少なくとも私にとっては、こういう体験は初めてのことではありません。むかし…高校生の時に、TVを見ていて同じような経験をしたことが…。 作者福井氏自身も、その影響を認める「機動戦士ガンダム」(1979年)です。 でも実はこれ、小説としてはかなり特異な描き方ではないでしょうか。
また今さら何言ってるんだ!…とおっしゃいますか? そうですね、私は昨年12月まで海洋小説とガンダムの関係に気づかなかった人ですものね。 もう一つお断りしておきますと、私は昔のガンダムと今のガンダム(SEED)は見ているのですが、間が抜けているので、ローレライの映画をご覧になった方が必ず言及される「エヴァンゲリオン」を見ておりません…ので、何か抜けている観点があるかもしれませんがご容赦ください。
さて話戻って、私が考えこんでしまったのは、日本の特殊性でした。 私はハリウッドに多い、勧善懲悪の戦争映画にどうしても抵抗がありました。マクリーンやヒギンズなど英国人小説家の手による複雑な価値観を内包した原作小説が、白黒のはっきりしたハリウッド映画になってしまうことが許せなかった。 そういう私の価値観は、ひょっとして十代にガンダムなどを見て育ってきてしまったことに影響されているのでしょうか? これはガンダムに限らず、考えてみれば70年代当時の日本の子供むけ番組は複雑な価値観のものが多かったように思います(キカイダーとか)。 でもそれは、当時の番組制作者たちの世代に「単純な勧善懲悪は良くない」という共通認識があったから、私たちが子供だった70年代はまだ戦争の記憶が色濃く残っていた時代だったからなのでしょう。 それが、このような作品を生み出す日本の特殊性だと。
またこれは、英国の原作小説の複雑な価値観と、映画化されたハリウッド作品の白黒はっきりした価値観との違いでもありますね。 社会に深く浸透した戦争の傷跡のようなもの。 アメリカでは、実際に戦場に出た兵役経験者しか戦争の記憶がありませんが、ヨーロッパやアジア(中国、韓国、東南アジア、南太平洋を含めて)には殆どの国民に記憶があり、どの家庭でも両親、祖父母など身近な誰かに多かれ少なかれ戦争体験がある。
もっとも同じ悲惨な経験があると言っても、まず攻め込まれ防戦に立ち上がって戦い続け最終的には戦勝国となった英国と、戦いを仕掛け最終的に敗戦国となった日本には決定的な違いがあります。 「終戦のローレライ」を読んでいて気づいた第二の点はこれに関係するものと思われます。
ローレライの主人公たちは、みな深い悩みの中にいます。若い折笠から艦長の絹見まで、誰もが自分の生きる意味、戦う意味について深く悩んでいる。 これは当時としては当たり前のことだったろうと思います。「聞けわだつみの声」には多くの悩みの声が残されており、吉田満も大和の士官次室で激論があったと記しています。 でも、だとすると、逆に英国の海洋小説が不思議に思えるのですね。 英国人たちも「戦争の中、人間はなぜここまで残酷になれるのか?」「人々の心がここまで荒れてしまった世界は、たとえ戦争が終わったとして果たして元に戻るのか?」といった事については深く悩んでいるのですが、戦いの意味や生きる目的については彼らには比較的迷いがない。 以前にご紹介したレイナーやモンセラットを挙げるまでもなく、英国海洋小説作家は実際の従軍経験をもつ方が多いですから、実状は描かれた通りだと考えてよいでしょう。
これはたぶん、ダグラス・リーマンの海洋小説で読んだと思うのですが(どの作品かはっきり思い出せません。ごめんなさい)、主人公の海軍士官が恋人の婦人部隊隊員に言うセリフにこんな内容のものがありました。 「僕たちは自分たちの生まれる時代を選べない。だからこの時代に生まれてしまった以上、今できる精一杯のことをして生きていくしかないんだ」 否応なく攻め込まれた側の国としては、そうやって生きていくしかなかったのでしょう。 だから彼らの迷いは少ないのだと思います。 同じ英国人作家の手による第二次大戦小説でも、ドイツ人が主人公になると途端に深く悩み出すことから考えて、そこがやはり仕掛けて失敗して犠牲を出して終わった国と、攻め込まれて犠牲を出しながらも撃退した国の違いなのだろうと。
私は「戦争を知らない子供たち」という唄が流行したフォーク世代より一つ下の世代になるのですが、この世代でも小説を書けば福井氏のような形になり、アニメを作ればやはり主人公たちが戦うことに苦悩し、勧善懲悪の戦争映画は居心地が悪いと感じる。 60年という時間がたっても社会の傷跡は残る。中国や韓国でデモ騒ぎが起きるのも無理ないことなのかもしれないと思う今日このごろです。若い人たちはそのように教育された…と言っても、やはり火の無いところには煙は立たない。消せぬ火種は社会の底に残っているのだから。
ドイツとポーランドがやっているように、日本も隣国と「共通教科書」を作る話し合いを持てればいいのに。
2005年04月16日(土)
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