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2006年02月27日(月) 恋愛事情、いまむかし

仲の良い同僚五人で飲みに行った席で、ある女性社員の話になった。
年の頃は二十代半ば、とてもスタイルがよくてオシャレで、同性の目にも素敵な人である。ただの一度もスカートを履いてきたことがなく、なにかポリシーがあるのだろうかと気になってしかたがないのだが、私たち派遣社員とは話す機会がほとんどないため、彼女のプライベートは謎に包まれているのだ。
誰かが言った。
「やっぱり彼氏おるんかな」
どうかなあと首をひねるメンバーに、私は即座に「いるよお」と答えた。

「なんでわかるん?」
「だって、左手の薬指に指輪してるもん」

私はそういうところにぱっと目が行くのだ。社内の男性を結婚指輪をしている人としていない人に分けろと言われても、たぶん満点取ることができる。
「チェック鋭いなあ。ぜんぜん気づかんかったわ」
と感心され、ちょっぴり得意な気分になっていたら。うちのひとりが異議を唱えた。
「指輪してたって彼氏おるとは限らんやん」
と彼女。
「なんで?左の薬指に自分で買った指輪はせんやろ」
「そんなことない。私もしてたことあるし、友達も自分で買ったやつ普通につけてるで」
「えっ、そうなん!」

彼女は二十四歳、私とは十年のタイムラグがある。いまの彼女と同じ年の頃を思い出してみる。
当時すでに「左手の薬指の指輪=既婚者の証」という図式は成り立たなかった。けれども、「夫、もしくは恋人ありの証」とみなすことはできた。あの頃、もし恋人もいないのにそこに指輪をしていたら、美人な女性であれば「男除けかな」と思ってもらえたかもしれないが、そうでなければ「見栄張っちゃって……」という目で周囲から見られたのではないだろうか。

が、彼女曰く、「いまどき、左手の薬指は恋人用だなんてこだわらないんじゃないの?指輪のデザインで一番似合う指につけると思うよ」とのこと。
私はすっかり驚いた。かつて、左手の薬指は私にとって特別な指だった。指輪は大好きだからだいたいの彼氏からもらったけれど、つけるのはいつも右手の薬指。左手につけるのはやっぱりエンゲージリング、それまでその薬指は“バージン”にしておこうと思っていたのだ。
友人の間では恋人からもらったものを左手につけるのが流行っていたが、私のように「その日までとっておこう」とする女の子もまだたくさんいた。少なくとも、「指がむくんで、右手にしていたのがきつくなったから」なんて理由でその指を使用したりはしなかったように思う。

そして私は、そうだったのか!と膝を打った。
熱愛報道をされた芸能人が「彼とはいいお友達です」と交際を否定しながら、左手の薬指をキラキラさせていることがある。私はそれを見るたび、「誤解を招くようなもん、つけてるからよ」と突っ込みを入れていたのだが、なるほど、あの指輪には深い意味はなかったのね。
ということは、「荒川選手も村主選手も安藤選手も、みんな恋人いるんだなあ」と思っていたけれど、そうとは限らないわけか。
思わずつぶやく。
「時代は変わるんだなあ……」

そうしたら、ふと思い出した。以前、「セックスしたことのない相手と結婚するなんてとんでもない、おそろしい」と書いたら、ある女性から「二十五年前、私が結婚した頃は婚前交渉はタブーでした」というメールをいただいたことを。
十数年前の私の大学時代にはすでに「婚前交渉」という言葉は死語と化していたし、女性のバージニティを尊ぶ風潮もほぼ絶滅していた。しかし、私よりひと回り上の人たちが二十代だった頃にはまだ存在していたのだ。
いまや結婚前のセックスが当たり前どころか、付き合う前にやっちゃうのもアリ、なご時世である。そして、新婚カップルの四組に一組が“おめでた婚”という事実。
「十年やそこいらでこれほどまでに価値観が変わるのか」
と感慨に浸ってしまった。


林真理子さんのエッセイに、「最近の子は独立したキスの思い出を持っていないらしい」という文章があった。キスをしたらそのまま最後までいってしまうためである。
あら、私なんて完全独立型だから、思い出に残るキスTOP3を挙げることができるわよ、となぜか胸をそらす私。

私の中学、高校時代には、セックスに至る過程にはA・B・Cの三段階が存在していた(若い人は近くにいる三十代に「恋のABCってなんですか?」と訊きましょう)。だからあの頃は、昨日はデートだったという女の子に「ね、ね、どこまでいったの?」と質問することができた。
けれど、バラ売りなしの三点セットになっているということは、いまの人には「やったのか、やってないのか」と訊かなくてはならないのかしらん。
ああ、身も蓋もない。時代は変わる……。


2006年02月24日(金) 夫婦で共通の趣味を持つということ

今月初めからスイスでスキーをしていた義母から、帰国を知らせるメールが届いた。
「お父さんと大滑走してきました。とても楽しかったです。お土産話を期待しててね」

昨春、娘が結婚式を挙げた直後に同居していた姑が亡くなった。子育てと介護から解放され、一気に身軽になった義母はこの一年、まさに“第二の青春”という感じで義父と国内、海外を飛び回っているのだ。
長患いした舅を看取ったら、次は姑が倒れた。十数年に及ぶ介護を一身に引き受けてきた義母の苦労がどれほどのものだったかは、離れて暮らす私にも想像できる。だから、義母には「これからはうんと楽しんでね」と言いたい気持ちでいっぱいだ。
イタリアにも寄ってきたというから、きっとおいしいものも食べてきたのだろう。読みながら顔がほころんだ。

* * * * *

が、その後ふと考えた。
「二十年、三十年後、私は夫にこういう楽しみを与えてあげられるのだろうか」

義父母は学生時代にスキー場のアルバイトで知り合った仲だから、どちらもスキーが大好き。冬になると介護の合い間を縫って滑りに行っていた。
雪が溶けたら、今度はゴルフ。元旦以外の休日はスキーをしているかゴルフをしているかという義父に付き合って、義母もかなりの腕前だ。昨夏はゴルファーの憧れの地、セントアンドリュースのオールドコースの予約が取れたと言って、スコットランドまで出かけて行った。
私はそういう話を、いつもうらやましく思いながら聞く。私と夫はそういった「ふたりで一緒に楽しめるもの」を持っていないからだ。

……というより、私が夫の趣味についていけない、といったほうが正しい。
彼もやはりスキーが好きだ。競技スキーの選手だった両親に二歳からスキーブーツを履かされ、鍛えられた人だから、並みの「上手」とはわけが違う。スキーは数えるほどしかしたことのない私と海外にヘリスキー(ヘリコプターで雪山のてっぺんまで運んでもらって一気に滑り下りてくる)をしに行くような人が一緒に滑ることはもちろんできない。
「じゃあ教えてもらえばいいじゃない」と言われそうだが、人になにかを教えるというのはものすごく根気のいるしんどい作業である。それがわかっているからこちらは気を遣うし、せっかく来たのだから存分に滑らせてあげたいという思いもある。
それで以前スキー学校に入ったことがあるのだけれど、一日や二日の特訓では当然のことながら「焼け石に水」だった。
別のゲレンデで滑るのであれば、それはカップルで混浴のない温泉に行くのと同じようなもの。「私と行っても楽しめないだろう」と遠慮していたら、いつしかふたりで行かなくなっていた。

他にも彼にはバイクやマラソンなどの趣味があるが、これらも私には手ごわい。
行きつけのバイク屋やサーキットに行ったことがあるが、そこはやはり男の世界。人見知りしない私といえども、どこにいたらいいのかわからない居心地の悪さがあった。
彼が千歳マラソンを走ったときは私も十キロの部に出た。同じコースを走ることができたらお互いにもっと楽しいだろうが、私にはフルなんて無理だもの。
「しかたないじゃないか」
夫にはすまなく思いつつも、私はそう開き直っていた。
それに、私にとって共通の趣味とは「あるに越したことはない」程度の認識のため、夫婦にとって深刻なハンディになりうるとは思わなかったのだ。

それでも、夫に「うちには共通の趣味がないからなあ」と言われると傷ついた。
彼が誰かとスキーやバイクのレースに行き、「向こうは奥さんも来てたよ」と話すのを聞くたび、むっとしたり落ち込んだり。夫が“ひとり参加”をかなり残念に思っているのだということを知るのは、わりと本気でつらかった。
共通の趣味がなければ夫婦を楽しめないなんてことはないのはわかっている。けれども、なにかひとつ一緒にできることがあれば生活が一段と楽しくなるというのも間違いない。
「なんにもできない奥さんを選んで失敗したね」
そんな卑屈なことを考えたりもした。
だけどやっぱり、私は「しかたないじゃないか」と思っていた。


けれど、このあいだショックを受けた。
夫が国内のマラソン大会に出るときによく一緒に参加する知り合いがいる。最近再婚し、新しい奥さんに会ったら、「十二月に沖縄で夫婦でフルマラソンを走ってきたわ」と言う。
もともと走るのが好きな女性だったのだろうと思っていたら、マラソンを始めたのはここ数年の話だというから驚いてしまった。だって彼女は四十を過ぎているのだ。
「走ったことなんかなかったんだけど、あの人はマラソンが好きでしょう。だったら私も自分にできる範囲で付き合おうと思って」

頭をがつんとやられたような気がした。フルマラソンが“できる範囲”のことかどうかは別にして、私にはこういう殊勝さが足りないのだなと思った。
義父母のように偶然趣味が同じだったら非常にラッキーであるが、そうでない場合は相手のそれを理解しようとすることもきっととても大切なことなのだ、夫婦を楽しむために。
「子育て」は趣味ではないが、最大の共同作業である。子どもが巣立ってしまったらとたんに夫婦で話すことがなくなった、なんて話を聞くことを思うと、夫婦のあいだに共通の楽しみがあるとないとでは小さくない差が存在しても不思議はない。

自分が付き合えないのだから、と夫が休日にひとりで、あるいは友人と出かけて家を空けるのを不満に思わないようにしてきた。
けれど、彼が私に求めていたのはそういうことではなく、ましてや自分と同じレベルで滑ったり走ったりできることでもなく。ただ、「一緒にしようよという気持ち」だったのではないか。
そういうことを初めてまじめに考えた。

この冬はもう終わってしまうけれど、来シーズンは苦手意識や「私なんかと行っても……」という遠慮はちょっと横に置いて、ひさしぶりに一緒に滑りに行ってみようか。
七歳の義弟の子どもより下手くそだと言われた私だけれど、教えてくれるかしら。


2006年02月22日(水) 読んで泣き、書いて泣き……

初めましての方からいただいたメールの冒頭に、「いつも納得したり、共感したり、泣いてしまったりしながら読んでいます」という一文を見つけた。
自分の書いたものを読み、うんうんと頷いてもらえるのはうれしいし心強い。が、涙してくれた人がいると知ると、私はさらにじいんとくる。「泣きながら読みました」と言われることは年に何度かあるが、そういう日の日記はたいていキーボードを濡らしながら書いたものである。
その涙が私の気持ちにシンクロしてのことなのか、自身の経験を思い出してのことなのかはわからないけれど、感情移入してもらえるというのは本当に光栄なことだ。

誰かの文章を読みながら思わず泣いてしまうことは私にもある。つい最近もある女性の日記を読んだ後、しばらく涙が止まらなかった。
入院中のお父上の容態が悪いとあるのを読んだときからずっと気にかかっていた。なにか言葉を……と何度も思ったけれど、どう声をかけたらいいのかわからなかった。亡くなったと知ったとき、彼女の気持ちを想像して、そして一番つらいときにひとこともかけてあげられなかったことが悔やまれて、涙をぽたぽたやりながらメールを書いたのだった。

先日は読売新聞紙上で発表されていた「心に残る医療」体験記コンクールの入賞作品のうちの一編に泣かされた。
ひらがなだけで書かれた小学一年生の男の子の文章である。中にこんなくだりがあった。

 おかあさんは、たいいんしてからも、ちゅうしゃをしに、なんかいもびょういんにいきました。いっしょにおふろにはいってるとき、ちゅうしゃしたところのてが、くろくなっていたので、
 「いたい?」ときくと、
 「だいじょうぶ」とわらってくれました。ぼくはすこし、あんしんしました。
 そのうちに、おかあさんのかみのけが、どんどんぬけてしまいました。かみをあらったとき、ごっそりぬけたくろいかたまりをみて、びっくりしました。でも、おかあさんがかわいそうだったので、みていないふりをしました。おかあさんは、ないていました。ぼくもなみだがでてきたので、いそいでおふろにかおをつっこみました。
(読売新聞 2006年2月3日掲載 第24回「心に残る医療」体験記コンクール 小学生の部最優秀賞「おんがえし」より一部抜粋)


髪が抜けたお母さんを見てはいけないと思う、涙を気づかれまいとする……。そのけなげな機転に胸が締めつけられた。
「たった七歳の子にこんな知恵があるのか!」
愕然としたが、すぐにああ、そうだったと頷いた。よみがえってきたのは幼稚園のときの記憶。
お向かいのナオコちゃんがヒヨコを飼い始めた。うらやましくてうらやましくて毎日見に行っていたら、一晩だけ預からせてもらえることになった。その夜は遅くまで、私は玄関に置いたダンボールの中で元気に動き回るヒヨコを眺めていた。
そして翌朝、いつもより早起きして箱の中をのぞいたら……。ヒヨコは二羽とも冷たくなっていた。
私がわんわん泣いているところにナオコちゃんがヒヨコを迎えに来た。しゃくりあげながら「ごめんね、ごめんね」と繰り返す私にナオコちゃんは何と言ったか。三十年経ったいまもはっきり覚えている。

「なんとなくそんな気がしてたの。昨日チーとピーが天国に行く夢を見たから」

ひとつ違いだったから、ナオコちゃんは幼稚園の年長か小学一年生だったはず。それなのにとっさにそんなふうに言い、私をまったく責めなかったのだ。


何年か前に勤めていた会社には社内の人間だけがアクセスできるサイトがあった。「サービスとは何か」を考えるためのコンテンツの中にこんな投稿があった。

ファミリーレストランでアルバイトをしていた頃の話です。週に三、四回お越しになる、とても仲のいい老夫婦がいらっしゃいました。
注文するとき、おばあちゃんはいつも「おじいさんのお味噌汁は薄めにしてください」と私たちに頼みます。いいご夫婦だなあとほほえましく思っていたのですが、ふっつりと顔を見せなくなってしまいました。
心配していたら、ひさしぶりにおじいちゃんが来店されました。ずいぶん痩せておられ、それに今日はおひとり。どうしたんだろうと思ったら……胸に大きなおばあちゃんの写真を抱えていました。
おじいちゃんはいつもの席に座り、向かいにおばあちゃんの写真を置くと、カレイの煮つけ膳を二人分注文されました。そしていつものように話しかけながら、自分のには箸をつけないでおばあちゃんの口元にごはんやおかずを運んでいました。
おばあちゃんの写真はごはん粒がついて汚れていました。楽しそうに、でも顔をくしゃくしゃにして涙を流しながらおばあちゃんにごはんを食べさせているおじいちゃんを見て、私は必死で涙を堪えました。
近くのテーブルのお客様から「気持ち悪いからなんとかして」と言われましたが、おじいちゃんには言えませんでした。そのお客様にはお詫びして別の席に移っていただきました。
おじいちゃんのお味噌汁はいつもの通り、厨房の人にお願いして薄めのものをお出ししました。


私は仕事中に読んだことを激しく後悔した。
涙もろいと本当に困るのよね……。


2006年02月20日(月) 友が友でなくなるとき

実家の居間のテーブルに見慣れない雑誌を見つけた。
「『ゆうゆう』?読んだことないなあ」
と手に取るとそれもそのはず、「五十代以上の女性のこれからを応援する」がテーマの月刊誌であった。
しかしぱらぱらやってみたところ、私の愛読誌『婦人公論』と趣きが似ている。半世紀生きてきた人をターゲットにしているだけあって著名人のインタビュー記事や読者の手記には重みがあるし、私には二十年早いはずなのにどういうわけか、取り上げられているトピックが私の関心事とかなりかぶっているのである。

「今度からこれ、捨てないで取っておいて。帰ってきたときに読むから」
「それはいいけど、あんたがそれを面白いと感じるっていうのはどうなのよ……」
母に複雑な顔をされてしまった。


さて、私が読んだ号の中に「同性の友人との付き合いについて考える」という特集があった。
「老後は長く、夫だけでは心許ない。五十代以降の人生に友人はなくてはならない存在です」
というわけで、友人といい関係を保ち続けるための十か条が書いてある。
たとえば、「お金の貸し借りはしない」「詮索せず、依存しすぎず」「互いに高め合える存在になる」といったことであるが、「何年もお金を返してもらえず、付き合いをやめた」「立ち入り過ぎたため、相手が離れていってしまった」などの読者の失敗談を読みながら、私にもいくつか思い浮かべる“心得”がある。

ひとつは、「秘密を守る」ということ。
悩みの相談や打ち明け話を他言しないのは友人として当然のルールだと思うのだが、ぺらっとしゃべってしまう人がいるのだ。
大学一回生のとき、私は同じサークルの男性と付き合いはじめたことを同期のごく一部にしか話していなかった。照れくさいから隠そうとしたのではなく、彼が会長という立場にある間は公私混同という目で見られぬようにと考えてのことだったのだが、打ち上げの席でいともあっさりばらされた。
先輩も後輩も入り混じったテーブルで何かの拍子に彼の名が挙がったときに、友人が「○○さんのことなら小町ちゃんに訊かなきゃ。ねーえ?」と冗談めかして言ったのだ。「えっ、なにそれ、どういうこと」とたちまちみなに追求され、もはやごまかすことはできなかった。
まだ人には話さないでって言ったのに!と後で文句を言ったら、彼女は「めでたいことなんだから、いいじゃない」とまったく悪びれない。それ以後、私は彼女に広まっても支障のない話しかしないようになった。そして、彼女が「ぜったい内緒よ」と前置きして誰かから聞いた“ここだけの話”をみなの前で披露するたび、私の中で彼女は遠くなっていった。
残念なことだけれど、ものすごく気は合うのに「おしゃべり」という一点のために全面的な信頼を置くことができず、友人になりきれない人というのはときどきいる。

もうひとつは、「友人という関係を“利用”しない」ということだ。
学生時代の友人からアムウェイのセミナーに参加してほしいと熱心に口説かれた時期がある。ふつうの会話をしていても、いつも途中からそちらの方向に話を持って行かれてしまう。一緒にいると楽しい女性だったけれど、会社に電話をかけてこられたときはさすがに距離を置こうと思った。
「聖教新聞を取って」とかなりしつこく同僚に頼まれたこともあるが、こういうことをされると縁を切るまでには至らなくても確実に失望する。表面上はこれまでと変わらぬ素振りで接しても、「そういうつもりで私と仲良くなったのだろうか」「こじれたときは関係を失っても惜しくないと思っていたのね」という思いを拭うことができず、無邪気さを取り戻すことはできない。

しかし、“友人を利用しない”には「勧誘をするな」以外にもうひとつ意味がある。「愚痴を聞かせるだけの相手にしない」ということだ。
聞く側は最初の何回かは親身になって慰めたり励ましたり、「それは大変だね」と相槌を打ったりすることができるが、頻繁かつ延々と続くそれには次第にうんざりしてくる。
「私は彼女の愚痴のはきだめなのか?」
彼女からの電話やメールにどきっとするようになってしまったら、友人とはもう呼べない。


だまされた、恋人をとられた、といった派手な“裏切り”がなくても、培ってきたものが壊れてしまうことはあるのだ。
親友と違い、友人というのは生活の変化とともに移り変わったり自然淘汰されたりするものではあるが、こういう失敗で誰かを失うということだけはすまい……。

「結婚式の招待状の返事を返してくれない子がいる」とやきもきしている同僚の隣りで、そんなことを考えた。


2006年02月17日(金) 願いは、叶えよ

「いまの関係が壊れてしまうくらいなら、このままでいい。そりゃあ切ないよ、切ないけど、もし告白してうまいこといかんかったら……」
お茶を飲みながら、延々ループする友人の話を聞く。
彼女は目下、同僚の男性に片思い中。足掛け二年になるというのに一向に進展がない……どころか、「帰りがけにエレベーターで一緒になりそうになって、緊張のあまり素通りしてトイレに入ってしまった」なんて中学生みたいなことを言っている。
「彼女おるんかなあ、やっぱりおるよなあ、おらんわけないよなあ」
「え、それもチェックしてないのっ?」
「そんな立ち入ったこと聞かれへんやん。それにおったらショックやし」
「あのねえ……」
彼女の話が客観的であるなら、そんな素敵な男の人に恋人がいないほうが不思議。でも、いたってめげることなんてないじゃないか、奥さんじゃないんだから遠慮しなきゃならないわけでなし。選ぶのは彼なんだからさ。
「そりゃそうかもしれんけど……」
ともごもご言う彼女は、これまで一度も自分から好きだと言ったことがないという。
そういえば大学時代もそうだった。自信がないだの時期尚早だのと言っているうちに、相手が彼女をつくったり卒業してしまったりしていたっけ。
そういうのは私はだめ。進歩もない、見込みもないという宙ぶらりん状態で長くいるのがとても苦手だ。わりと早い段階で「だめならだめでしかたがない。とにかく白か黒かはっきりさせたい」と思うほう。
だから誰かを好きになって三割可能性があったら、勝負する。そう決心するに至るまでには悩んだり葛藤したりもするけれど、最終的には「待ってたってチャンスは降ってこない。自力でなんとかするしかないのよ!」とこぶしを握りしめるのだ。
人生初の告白は中学二年のバレンタインデー。学校の帰りにバレーボール部の男の子の家にチョコレートを届けに行ったのだ。
恐る恐るチャイムを鳴らすと、ハーイと優しそうなお母さんが出てきた。「○○君はいますか」とかなんとか、私は言ったのだろう。そのときのお母さんの「あら、まあ」という表情をよく覚えている。
そして、玄関に駆けつけた彼の弟に「にいちゃん、にいちゃーん、女の子来てるでえー」と近所中に聞こえそうな声で叫ばれた恥ずかしさを思い出したら、たいていのことは怖くない気がする私である。
以来二十年、片思いの恋を成就させるための最大の努力は「気持ちを伝えること」だと思ってきた。
実際私には、もし自分から言っていなかったらそういうふうにはなっていなかっただろうと思われる男性が何人かいる。好意を寄せられていることを知って初めてその人の存在に気づく、意識するようになるというのはよくあることだ。同じタイミングで惹かれ合い、気がつけば互いにかえがえのない存在になっていた……なんて恋の始まりは、現実にはそうは転がっていない。

振り返れば、恋をしたときの情熱というか行動力というかにはわれながらあきれるほどのものがあった。
私が大学を選んだ経緯を話したら、たいていの人がひえーとのけぞる。好きだった人を追いかけたのだ。
相手はクラスの男の子や部活の先輩といった現実の知り合いではない。高校三年のときある視聴者参加番組を見ていて、それに出てきた男性にひと目惚れしたのだ。いや、天啓を感じたといったほうが近い。
「私、この人に会いに行かなきゃ……!」
わかっているのは名前ととある大学の学生であるということだけ。私はすぐさま手紙を書き、住所がわからなかったので大学の学部事務室宛に送った。そして彼と正攻法で出会うため、推薦で決まっていた地元の大学を蹴り、親の反対を押し切ってその大学に入ったのだ。
いろいろと計算外のことがあり、“再会”を果たすまでに二年かかった。感無量で言葉が出ない私に彼は言った。
「気づいてるか?いまこの瞬間があるんはラッキーやったからやない、おまえがつくりだしたんやで。ここまでよう会いに来てくれた」
それを聞いて、私は初めて気づいたのだ。自分の願いを叶えられるのは自分だけなのだ、というものすごく当たり前のことに。
すべての出会いに「理由」がある。願いは叶うものではなく、叶えるもの------それを知るために、私は彼に出会ったのだと思っている。

そんな私だから、友人の話を聞いていると歯がゆくてしかたがない。厳しいことのひとつふたつ言ってしまう。
「そうやってぐずぐずしてるうちに、転勤でどっか行ったり結婚したりしちゃうんじゃない?」
「私の経験では、やっての後悔よりやらずの後悔のほうが確実に大きいよ」
それでも彼女がアクションを起こすことはむずかしいようだ。
私のように好きになったら言わずにおれないというのと同じに、待っても無駄だとわかっていても自分からは言えないというのもいかんともしがたいその人の性格なんだよなあ。


2006年02月15日(水) ひとりぼっちになる恐怖

週末、友人と会った際に、先日日記に書いた話(八日付「家族じゃないか」)をしたら、彼女が神妙な顔で「私も同じことがあったわ」と話してくれた。
数年前、実家のそばに住む伯母から会社に電話が入り、「あんたのお母さん、今日手術やから、帰ってきてやって」と言われた。頭の中の腫瘍を取り除く大きな手術だと聞かされ、びっくり仰天した彼女はすぐにスーパー雷鳥に飛び乗った。
そのときは「助かりますように」と祈るだけで、なぜ父母は前もって知らせてくれなかったのかということまで頭が回らなかったそうだ。

さて、手術は成功、三ヶ月後に無事退院することができたが、彼女はそのとき初めて親がいなくなった後のことについて考えたという。
「それでときどき不安でたまらんくなることあるねん」
いまは仕事や恋愛に失敗して立ち直れないような事態が起きても、いざとなれば実家に戻ればいいわ、と故郷を保険のように考えているところがある。しかし、親が死んだらそれができなくなる。それどころか、ひとりっ子で従姉妹たちとの付き合いもほとんどなく、独身の自分はひとりぼっちになってしまう------と思ったら、どうしたらいいのかわからなくなるらしい。
これを聞いて思い出したのが、最近マンションを買った年上の友人の言葉。よくそんなお金があったね、と感心する私に彼女は言った。
「もしこのまま結婚できなかったとしたら、私には夫もない、子どももない、生き甲斐にできる仕事もない。親が死んだら自分には確かなものがなにもなくなるんだって思ったら、すごく怖くなって。それならせめて家くらい持っていなくちゃって」

その話をしたら、目の前の友人はしみじみと言った。
「あんたは結婚してるからいいよなあ……」
しかし、即座に「いや、そんなことはない」と答える私。
そりゃあ順調にいけば、「夫」が残る。が、もし結婚生活が破綻するようなことがあったら、私は一瞬で彼女と同じ位置に……いや、もっと後方に投げ出されることになるのだ。なぜなら、彼女は大学を卒業してから正社員で仕事をしているけれど、私はいま明日をも知れぬ派遣社員の身の上だもの。
そのときは私のほうがもっと“ないないづくし”になってしまうのである。

「でもそうは言っても、現実には離婚なんてことにはならないんだしさ」
と彼女は言うが、そんなことはわからない。まわりを見渡せば、離婚経験のある人はいくらでもいるじゃないか。
実際、この五年半を振り返れば、「結婚生活」という名のちゃぶ台を引っくり返したい衝動に駆られたことが何度かあった。後半の人生をリセットしてしまいたいと本気で思い、実家に戻って暮らすとしたらどんなふうになるだろうかと想像した。
たまたまこれまでは「届け出用紙取りに行くの面倒くさいなあ」とか「あ、派遣の契約、更新したばかりだ」とか思っているうちに自分の中で立ち消えになったけれども、この先区役所の近所に引越すようなことがあったら……。

というのはまあ冗談にしても、「うちに限ってそれはない」と言いきれるほど、私はいまいる場所を揺ぎないものにはできていない。
親がいなくなったときの痛手、「なにもなくなってしまう」リスクの大きさは私もあなたも同じ、というのは彼女に調子を合わせて言ったことではない。


連絡をせずに父の見舞いに行ったら、母は帰った後だった。思春期に派手な反抗期があったわけではないけれど、ふたりでゆっくり話すなんて二十年ぶりくらいかもしれない。
父は「この話をしたことは母さんには内緒やぞ」と念を押してから、父と母が最近自分たちのお墓をどうしようかと話し合っていることを教えてくれた。次男である父は新しいお墓を建てなくてはならないのだ。
「永代供養墓」というのを知っているか、と父は言った。身内に代わり、永代にわたってお寺が管理と供養をしてくれるお墓だという。独身の人やお墓を継ぐ子どもがいない夫婦などが利用するもので、他の人と合同で納骨堂に納骨されるらしい。

「ふたりとも嫁に行って、とくにおまえはずっと関西におれるかわからんやろう。そうなったらお墓の面倒みるっていうのは大変なことや。それやったら個人のお墓を建てずにそういう方法もあるなあって母さんとは話してるんや」

帰り道、すまなくて涙が出た。
ふたりも子どもがいて、ふたりも子どもを育てて、それなのにどうして私の両親はそんな思いをしなくてはならないのか。そんな殺生な話があるものか。

……それに。
いつかは親はいなくなり、帰れる家もなくなる。それはしかたがない。
でも、お墓だけは娘に残してください。
そのときいよいよ自分にはなにもない、なんて想像しただけで恐ろしい。


2006年02月13日(月) 社交辞令と大人の付き合い

休憩室でお昼を食べていたら、仲良しの同僚が「ちょっと聞いてよお」とやってきた。結婚式の二次会の招待状を送ったら、来てくれると思っていた人から続々と欠席の返事が届いたという。
彼女はテニススクールに通っており、その仲間に結婚することを報告したところ、うちのひとりに「二次会にはもちろん私たちも招待してくれるんでしょ?」と言われた。毎回練習の後はみなでお茶をして帰るとはいうものの、二次会に誘うほどの仲ではないと思っていたので、彼女は驚いた。が、ほかのメンバーも「○○さんのだんなさんになる人、見てみたい」「私も行きたい」と言いだし、思いがけず座が盛り上がったため、急遽二次会の招待者リストに五人を追加した。
しかし蓋を開けてみたら、全員が「欠席」に丸をつけてきたのである。
「私、日にちだってちゃんと伝えてたんよ。行きたいから招待状送ってっていうあれは社交辞令やったん?信じられへんわ」

招待状が届いたときのテニス仲間の反応を、私は容易に想像することができる。
「○○さんの二次会の返事、もう出した?」
「あ、それねえ、その日別の予定入っちゃって」
「実は私も。約束あったのすっかり忘れてて」
「えっ、あんたたち行かんの?私、どうしようかなあ……」
「じゃあ私もやめとく。だって行ってもしゃべる人おらんし」
まあ、こんなところだろう。彼女たちの「行きたい」が口からでまかせだったとまでは言えなくても、思いつきレベルの発言だったことは間違いない。

社交辞令を真に受けて失敗したことは、私も何度もある。
職場で配られた台湾土産を何人かで食べながら、
「台湾っていっぺん行ってみたいんよね」
「私も。食べ物おいしそうだしね」
「じゃあ行こうか、みんなで」
という展開になった。スケジュールの話まで出たので、私は嬉々としてガイドブックを買った。
が、次の日、本気にしたのは私だけだったことが判明。一年前、夫と台湾に行ったときに長いこと本棚の肥やしにしていたその『るるぶ台湾』を持って行ったら、載っている店は潰れているわ、地下鉄が開通して地図は参考にならないわ、でまったく使いものにならなかった。
こんなこともあった。結婚してまもない頃、夫の実家にお歳暮を贈ろうとしたところ、「そんなのいいわよ」と義母。親子の間で中元、歳暮のやりとりはしないという友人が周囲に何人かいたこともあり、私は「それもそうか。お金のない息子夫婦からそんなのもらっても、かえって気を遣うよね」と納得し、本当になにもしなかった。
そうしたら、しばらくして夫の実家から宅配便が届いた。熨斗に「歳暮」と書いてある。私は百貨店に駆け込んだ。
この年になっても、どれが社交辞令でどれがそうでないのかを見分けるのはむずかしい。


しかし、では「社交辞令なんかこの世からなくなってしまえ!」かというと、そういうわけではない。
ある程度の年齢になると気の合う人とだけ付き合うということができなくなるから、無用の衝突を避けるために“大人げ”や“融通”というものが必要になる場面も出てくるものだ。
「社交辞令は大嫌い。だから、私も本心でないことは人には言わない」
というのは一見、裏表のない信頼できる人のような気がするが、実際に近くにいたら、かなり子どもっぽい人という印象を受けるのではないかと思う。

たとえばデートの誘いを断るとき、「その気になれないので、ごめんなさい」とは言わない。やはり「仕事が忙しくて、時間が取れないの。ごめんね」と言うだろう。「嘘も方便」という言葉があるが、この遠回しな表現は相手を傷つけることなく、相手に恥をかかせることなく、しかしNOを察してもらいたい……という思いからきている。
言われたほうは「本当に忙しいのか、それとも断る口実か」と迷うことだろうが、相手との距離、返事の中に今後につながる言葉があるかないかといった点から判断しなくてはならない。だから、断る側は「ぜひまた誘ってください」なんて相手を期待させるようなことを言い添えてはならない。
「俺は社交辞令は苦手なんだ。はっきり断ってくれ」と言いたくなる気持ちはわからないではないが、相手に言いにくいことを最後まで言わせることなく意図を察する、それも心遣いというもの。
やんわりと、しかしちゃんと断りの意思を伝えることができる、あるいは断りのメッセージであることを読み取ることができる、それが大人ではないだろうか。

引越ししましたハガキに「近くにおいでの際はぜひお立ち寄りください」という一文を入れる。気が進まなくて披露宴に欠席の返事を出すとき、「当日は同僚の結婚式と重なってしまい、出席できず残念です」と書き添える。誰かに会えば、「いつもお世話になっております」と頭を下げる。
こういう社交辞令は、円滑、円満な人付き合いをするのに必要な“ノリ”であると思う。
「京のぶぶ漬け」伝説のように笑顔で意図と正反対のことを言われると、真意を測りかねて困ってしまうし、いかにも口先だけの誘いには辟易する。
しかし、人がいついかなる場面でも頑なに本音しか口にしないようになったら、人間関係はずいぶんぎすぎすぱさぱさしたものになるのではないだろうか。


2006年02月10日(金) 昔の恋人に「結婚しましたハガキ」を送る心理

「あんたが結婚しようがしまいが、興味ないっつうの」
友人がぷりぷりしている。
今年の正月、彼女の元に昔付き合っていた男性から結婚報告を兼ねた年賀状が届いた。六年間も音信不通だったのに突然「結婚しました」と連絡がきたものだから、ハァ?という気持ちになったらしい。そこに添えられていたコメントも面白くなかった。
「『君も早くいい人を見つけてね』やって。これって馬鹿にしてない?大きなお世話やわ」

まあまあとなだめつつ、気分を害すのも無理ないかあ……と考える。彼にそんなつもりはなかったかもしれないけれど、不用意な言葉ではある。
彼女がいまも独身だということを共通の知人から聞いて知っていたのだろう。が、素敵な恋人がいて最高にハッピーな日々を送っているかもしれないし、もしかしたら婚約中かもしれない。仕事が面白くて、結婚はまだいいわと思っていることだってありうる。しかし、彼はそういう可能性をまるで思い浮かべなかったらしい。

* * * * *

ところで、かつての恋人に「結婚しましたハガキ」を送ろうとする人の気持ちが私にはよくわからない。
いまも友人や同僚として付き合いが続いているということなら話は別だが、接点はとうに失われている。なのにどうしてわざわざ?
人生の一時期を共に過ごしたといっても別れて以来連絡を取っていないのであれば、ほとんど「他人」に戻っている。すっかり新しい生活を送っている相手になんのために知らせるのだろう。

私が付き合っていた男性からそれを受け取ったことは一度もないが、もしあったならがっかりするのは避けられなかっただろうな。
「あなたには結婚してほしくなかった……」という話ではない。
私はいつも別れた人とは連絡を断つ。こちらからは電話もメールもしないし、同窓会以外の場で再会することもない。だから、別れた日から一度も話していない、会っていないという人のほうが多い。そんな私のところにハガキが送られてくるとしたら、かなり不自然なことなのだ。
ふうんとつぶやいた後、私はそれが自分の元に舞い込んだ理由を考えるだろう。
たとえば、私と彼がきっぱり切れておらず微妙な関係であり続けていたなら、彼はそれを送ることによって「もう終わりにしよう」を暗に伝えようとした……ということも考えられる。けれど私の場合、その線はない。
となると、「私にまで連絡してくるなんてよっぽどうれしかったんだなあ」、ちょっぴりシニカルな言い方をすれば「舞い上がっちゃったのね」ということになりそうだ。付き合っていた女に妻の写真(結婚式のケーキカットのシーンが定番)を披露するセンスもちょっとなあ……。
“がっかり”とはそういう意味だ。

結婚しましたハガキを送ることに比べたら、結婚が決まったことを報告したくなる気持ちのほうがまだ理解しやすい。実際、式の前に連絡を取って伝えたという話はよく聞く。『北の国から』のれいちゃんも式の前夜、純に電話をしていたっけ。
私のところにもメールが届いたことがあるが、突然なんなのよ?と鼻白むようなことはなかった。そうか、結婚するんだ……としみじみとなり、しばらく当時のことを思い出した。
その後また何年かして再び彼からメールが届いたので、どうしてあのとき私にそれを伝えようと思ったのか訊いてみた。
「会いたかってん」
と彼は言った。
それ以上は訊かなかったけれど想像するに、家庭を持つことの責任やプレッシャーが迫ってくる中で、人生でもっとも自由でお気楽だった大学時代のことが心によみがえったのではないだろうか。その時間を一緒に過ごした私と最後にもう一度会うことで、気ままな独身生活も終わりだといよいよ自覚しようとしたのかもしれない。センチメンタルな気持ちもきっとあっただろう。
こういう感情に動かされ、つい連絡をしてしまったという話なら、私もシンパシーを感じることができる。


ひとりは離婚し、ひとりは父親になり、ひとりは結婚が決まっている。ほかの男性の現在はまったく知らない。
でも、それで十分。風の便りに消息を聞けば「どうしているだろう、元気にしているかな」と束の間思い出す……そのくらいがちょうどいい。
もう、過ぎたことだもの。


2006年02月08日(水) 家族じゃないか

日記に父を登場させたことはほとんどないが、母のことはときどき書く。
この年になっても私は母の前ではまったく子どもで、母に追いついたと思えることがなにひとつない。
当然だ。いまの私と同じ年のとき、母はすでに小学六年生と四年生の姉妹の親をしていたのだ。いつまでも自分のためだけに生きている私とは違う。いつも明るく働き者で親として娘の手本であろうとする母を、私は心から尊敬している。

その母を強い口調で責めてしまった。
正月に帰省したとき、ひょんなことから父が近いうちにある手術をするかもしれないことがわかった。病気のこと自体知らなかったので驚いて母に確認すると、
「おおげさな話ではないんよ、お医者さんにも手術はしてもしなくてもかまわないって言われてるし。でもいまの状態では不便だから、する方向では考えてるけど」
ということだった。そのため私はこのひと月、何度となく「することに決めたら教えてね」と頼んでいた。
が、その件についてのメールの返事が一向に来ないので昨夜電話をしたところ、入院は明日からだと言うではないか。手術は翌日、退院はその一週間後。

「ええっ、明日!?決まってたんなら、なんでもっと早く教えてくれんかったん!」
「だって心配かけるだけでしょう。手伝ってもらうようなこともないし、見舞いに来てもらうほど長く入院するわけじゃないし、退院してからでいいかなと思って」
「そういう問題じゃないやろっ。そりゃあ離れてて役に立てることはないかもしれんけど、だからって結果を報告したらそれでいいって話とちゃうやん。心配かけたくないって言うけど、それは思いやりとは違うと思う!」

こんな調子で言い返すなんてここ十年なかった。母はひどく驚き、慌てていたようだった。
電話を切った後、情けなくて涙が出てきた。大層な病気ではないから済んでから話せばいいと考えたのだということはわかっている。よかれと思ってのことだというのも理解している。
でも、あまりにも水くさいじゃないか……。
一年前、「友達親子」というテキストの中で私はこう書いた。

(義母は)義妹の前で涙し、愚痴をこぼし、弱い部分を遠慮なく見せる。娘に甘え、頼っているのだ。私の母は体調を崩しても心配をかけまいと私や妹には知らせようとしないが、そういう水くささがない。それは娘の立場では少々うらやましい。

手術が簡単とか難しいとか、手が必要とかそうでないとか、そんなことは関係ない。こういうときに「知らせておかなきゃ」と思い思われる関係で、私はありたい。だって私たちは家族じゃないか!
一緒に住んでいないからといって、「そうそう、あの話だけど無事終わったからね」では寂しすぎる。
余計な心配をかけたくないというのはわかるが、その方向での気遣いはちっともありがたくない。娘にとってそれは“余計”なことでなどないのだから。そのことは立場を置き換えたらわかるはず。

実家のそばに住む妹にもやはり知らされていなかった。
「昼間家行ったときもなんも言ってなかった。いつもそう、こないだだって……」
と言いながら、しくしく泣きだした。
少し前に母が帯状疱疹にかかったとき、私はたまたま「今週末、実家帰るね」と電話をかけた。そうしたら都合が悪いようなことをもごもご言うので理由をしつこく訊いたところ、やっと教えてくれたのだ。もしそれ以外の用件の電話だったなら、話してくれてはいなかっただろう。
そういうことではないとわかっていても、「私はそんなに頼りにならない娘なのか」と卑屈なことを考えてしまう。

* * * * *

電話を切ってしばらくして、父からメールが届いた。
「心配をかけまいとしてしたことが、すまんかった」
メールはいつも母からなのに、パソコンが得意でない父が送ってきたということは母は相当落ち込んでいるのだろう。
夫も私に肝心のことを話さない、事後報告の人である。誰も彼もどうしてこうなの?家族ってなんなんだろうと思ったら、悲しくなってつい言いすぎてしまった。
今日謝らなきゃ……。


2006年02月06日(月) 歯を見れば、知性がわかる

仲良しの同僚はちょっと怖いような犬歯をしている。先の尖ったそれが左右とも大胆に歯列から飛び出しているのだ。
食事中に誤って下唇を噛んでしまうことは誰でもやるが、彼女の場合は「歯が突き刺さる」。さらに驚くべきは、大口を開けて笑うと上唇がその八重歯に引っかかり、自然には下りてこないということだ。手で「よっこらせ」と(言うかどうかは知らないが)下ろさなくてはならないらしい。
「上げたり下ろしたり面倒やから、いっそ上げっぱなしにしとこカナ」
「シャッターじゃあるまいしっ」
突っ込みを入れながら、ふと思う。こんな冗談で笑えるのは日本くらいのものではないだろうか。

私の母は歯の管理にはとてもうるさかった。小さい頃から「歯は財産だから大事にしなさい」と何度言われたか知れないが、ことあるごとに聞かされたのが「アメリカ人は歯をとても大事にする」という話。
風邪を引いて病院に行ってもまず口の中を見られ、歯が悪いと「先に歯医者に行きなさい」と帰されるだとか、歯並びの悪い生徒がいると、他の生徒の親から「学校の品位が下がる」と苦情が入るだとか。
こういった話には多少誇張があったろう。しかし大人になったいま、「母は正しかった」とつくづく思う。

大阪四季劇場のそばを歩いていて『マンマ・ミーア!』のポスターを見かけるたび、私はヒロインのすばらしい歯並びに釘付けになる。
アメリカ人にとって口元は育ちや教養の表れ。歯並びが整っていなかったり歯が健康でなかったりすると、教育レベルが低い、自己管理ができないとみなされるため、肥満している人と同様に就職や結婚に不利なのだという。
だから、あちらの子どもは矯正するのが当たり前。故ケネディ大統領夫人ジャクリーンの両親は彼女が子どもの頃に離婚したが、父親が支払うことになった養育費の中には「歯列矯正費」の項目があった……というのは有名な話である。かの国の人たちがいかに歯を美しく健康に保つことに高い意識を持っているかがうかがえる。

このあたり、日本とはかなり違う。よほどガタガタした歯並びをしていない限り、私たちは自分のそれも他人のそれもほとんど気にしない。
最近はどうかわからないが、私が十代の頃は八重歯は「かわいい」とさえ言われていたのだ。松田聖子、河合奈保子、芳本美代子、中山美穂といったアイドルが堂々と八重歯を見せていたし、実際、当時はそれが彼女たちのチャームポイントだった(「石野真子」を思い浮かべたあなた、私の一世代上ですね)。
整った歯並びを身だしなみのひとつと考えるアメリカ人にはとうてい理解できない感覚だろう。あちらでは八重歯は「ドラキュラの歯」と呼ばれ嫌われるだけでなく、歯並びの悪さ、すなわち歯が本来あるべき位置にないことはさまざまな弊害を引き起こす元になるとして、ひとつの病気とみなされているというのだから。
日本人は先進国の中でもっとも歯並びの悪い国民だと言われている。女性がよくやる、笑うときに口元を手で覆う仕草が外国人の目にどのように映っているのかということは……想像したくない。

* * * * *

日本には「歯並びの悪い人は育ちが悪く、教養や自己管理能力に欠ける」という社会通念はないから、この国では「口元を見れば、家庭がわかる」は通用しない。
けれども、「口の中を見れば、知性がわかる」とは言えるのではないだろうか。自分の歯をどう保ってきたか、つまり治療痕の多い少ないでその人の頭のよさが測れる、と私は思う。
八重歯やすきっ歯は不可抗力だし、それに無関心だった親の責任でもあるが、虫歯は本人の管理不行き届きの結果だ。もともと歯が弱くどんなに気をつけてもだめ、という人もいないわけではないだろうが、この世に存在する虫歯の大半は歯をぞんざいに扱ってきたがゆえにできたものと思われる。
年下の友人に一度も虫歯になったことがないという女性がいるが、私はこういう人を尊敬する。大切にすべきものをきちんと理解していて、手入れを怠らなかったということだから。痛みが我慢できなくなるまで歯医者に行くのを先延ばしにする人とどちらが賢いかは比べるまでもない。

先日、「世の中には抜歯が苦手な歯医者さんが少なくなくて、横倒し状態で歯茎に埋もれている親知らずを抜いてほしいとお願いしても、いつも暗に断られてしまう」と日記に書いたところ、友人が「僕が抜いてあげようか」と言ってくれた。彼は某歯科医院の院長先生なのだ。
「親知らずは年がいくほど抜きにくくなるし、時間的、体力的なことを考えてもいまのうちに抜いておいたほうがいいよ」
と言われ、やっぱりなんとかしなくっちゃ……とこぶしを握りしめた私。それなのに、そのありがたい申し出を断ってしまった。
「いますぐ抜かなくてもいいと思いますよ」「まあ、しばらく様子を見ましょう」と言う先生ばかりだ、とこぼしていたくせにどうしてって?
あんぐり口を開けたヘンな顔なんか見せられないワ!というのももちろんあるが、それだけではない。
私は歯並びは文句なしだが、虫歯のほうは母にあれほど言われたにもかかわらず人並みに作ってしまった。「治療痕=不始末の結果=だらしなさ」である。友人にそれを晒すなんてマヌケ面を披露する以上の恥ではないか!
だから、もしこれが捻挫だ、骨折だという話であったなら、私はためらいなく診てもらっていたはずである。

……というような種明かしをするのも恥ずかしく、「ひえええ、む、無理無理!ぜったい無理!」とあたふたと断ったのだけれど、実はこういう理由だったのでした。ちゃんちゃん。


2006年02月03日(金) 日記だからってあてにはならない

旅行の計画を立てるため、友人とネットカフェに行ったときのこと。
電車の乗り継ぎや観光ルートの下調べを済ませ、さあ出ようかとなったとき、「あ、メールチェックしてもいい?」と友人。もちろんと答えると、彼女は「mixi」の画面を開いた。
えー!と声をあげる私。彼女の自宅にはパソコンがない。携帯メールだと長い文章を送れないため、「いい加減、パソコン買ってよお」と言い続けてきたのであるが、答えはいつも「どうせすぐ埃をかぶったただの箱になる」。そのくらいネットに興味のなかった彼女がどうしてmixiを?
そんな私の心をよそに、「これ知ってる?会社で流行ってて最近やりはじめてんけど、けっこうはまるわ」と彼女。仕事中にメールや日記を書いていると言うではないか。

しかし、驚いたのはそれだけではない。
「そうそう、○○さんとか△△君とかもやってんねんで」
と言って彼女が開いたのは、私たちが大学時代に所属していたある団体のコミュニティ(mixi内サークルとでも呼ぶべき、特定の趣味や関心を持つ人たちの集まり)。
登録者が五十人以上いる。mixi歴は一年になるが、私はそんなコミュニティがあることを、ましてやそんなにたくさんのOBがmixiをしていることなど想像もしていなかった。
みんな当時のあだ名でやっているから、誰が誰だかすぐにわかる。おおよそそんなことをしそうにない人たちがせっせと日記を更新しているのを見て、ひっくり返りそうになった。
書き手が読み手を選ぶことができるmixi日記と開かれた場所にあるweb日記は同じものではないとはいえ、「パソコンで日記を書き、webで公開する」という行為はここまで普及していたんだなあ……。

* * * * *

そういえば、最近は芸能人だけでなくスポーツ選手も政治家も作家も社長も、みんな日記を書いている。「えっ、こんな人まで!」と驚くことも少なくなく、私など「猫も杓子も」という言葉を聞くと思わず「ブログ」とつぶやいてしまうくらいだ。
ブログの隆盛を実感するのはそれだけではない。
若者が犯罪を犯すと、容疑者が開いていたサイトがテレビで取り上げられることがとても多いのだ。タリウムで母親を殺害しようとした女子高生やスクープ欲しさに放火をして回っていたNHKの記者、一番最近見たのは京大のアメフト部員による集団レイプ事件の容疑者の日記。
「自動車教習所の適性検査で、『体は大人だが、精神は子どものまま』という人格を否定されるような結果が出ましたw」
というような文章が紹介されていたっけ。

ワイドショーのコメンテーターがそういうものから容疑者の性格を語ったり動機を推察したりしているのを見ながら、ふと思う。
もし私がよからぬことをしでかし逮捕されるようなことがあったら、この日記からも文章が抜き出され、「この人は自己顕示欲がかなり強いですね」「はっきりものを言うタイプですから、私生活でもトラブルが云々……」なんてことを言われたりするのだろうか。
ううむ、それはちょっと困るよなあ。こういう場面で登場する昔の同級生の記憶や近所の評判も相当いい加減なものだと思うけれど、“日記”だって同じくらいあてにならない、と私は思う。

日記書きさんとメールのやりとりをしたり実際に会ったりすると、文章から想像していたのとかなり違っていた、ということはめずらしくない。
たいていは日記の中のその人よりも地味だ。イメージより実物のほうが豪快だ、という人にはいまのところお目にかかったことがない。
そこまでギャップが大きくない場合でも、書き手は多かれ少なかれ「自分をこう見せたい」というものは持っていて、その部分をクローズアップ、あるいはデフォルメし、“見え方”をコントロールしているだろうと想像する。男性日記書きさんには「非モテ」を売りにしている人がとても多いが、もしそれがすべて真実だったら世の中は三枚目だらけになってしまう。現に、本当は恋人がいるのだが、キャラクター上いない風を装っている男性を何人か知っている。
以前、私は二百五十人の方にご参加いただいて自分のイメージ調査をしたことがあるのだけれど、「気が強い」「しっかりしている」「さばさば」「意志が強い」といったコメントでメールボックスがあふれ返った(参考)。
しかし実際は、初めましてのメールに返信すると「もっと怖い人かと思ってたけど、とってもフレンドリーだったのでびっくりしました」としょっちゅう言われるし、個人的な付き合いのある人たちは先に挙げた印象がきわめて偏ったものであることを(ついでに、結果ほど美人でないこともね……えぇえぇ)知ってくれている。

それに私の日記に限って言えば、日付だってかなり適当だ。
ここ数ヶ月で起きたことは「先日」「最近」「このあいだ」で済ませるし、出来事を自分の中ですっかり消化してから書くことが多いため、「昨日」という記述がない限り、たとえば悲観的なことが書かれてあるからといってその前日に私の身になにかが起こった、というわけではない。
そういったことを考え合わせると、本人が自身について語っているからといって、必ずしもそこにある姿が本物で、内容が正確であるとは言えない。
「日記という個人的なものをどうして他人に見せたがるんでしょう」なんて首を傾げるワイドショーの司会者やコメンテーターはそういうことを想像もしないから、したり顔でああだこうだと人物像を分析するわけだけれど。

もし自分の文章でそんなことをされたら。
「とてもこんなことをするような人間には思えませんけどねえ」くらい言ってほしいものだが、あまり期待できんな……。
人様に迷惑をかけることはあっても、悪いことだけはしないで生きていこうっと。


2006年02月01日(水) 「ミンチカツ」と「メンツカツ」の差は思いのほか大きい

「パパッ、そんなことしちゃダメでしょ!」
洗濯物を干していたら、隣家のベランダから女の子の声が聞こえてきた。いったいなにをしたのだろう、ご主人が「だってリサ、パパだってさあ……」と小学生の娘相手に言い訳をしているのが可笑しい。

ところで、このおしゃまな女の子の話し声は普段からよく耳にしているのだけれど、私はいつも感慨を覚える。
完璧な関東弁だからだ。
五年半前、私がこのマンションに越してきたときにはすでに隣の一家は住んでいたから、彼女は物心ついたときから家の外では関西弁にさらされてきたはず。にもかかわらず、言葉遣いにも発音にもそのかけらさえ見られない。
ずっと関東弁で生きてきたパパとママが転勤でやってきた土地の言葉に染まらないのはわかる。しかし、なんでも貪欲に吸収する時期にある子どもが学校の先生やクラスメイト、近所の大人の“しゃべり”の影響を受けずにいることには驚かずにいられない。
「関西弁は品がない。女の子だから標準語を話させよう」という家庭方針でもあるのだろうか。

* * * * *

昨日の読売新聞の投書欄に方言に関するちょっぴり切ない文章が載っていた。
投稿主は夫の転勤で関東から関西に越してきた主婦。娘は新しい幼稚園で楽しくやってくれているとばかり思っていたが、実は言葉の壁のせいで孤立し、毎日一人遊びをしていたらしい……という内容だ。
担任の先生は生粋の関西人。たとえば、
「みんなに『よせて』って言って仲間に入れてもらい」
「○○ちゃん、おもちゃをなおしてきてね」
と言うのだけれど、関東生まれの女の子には意味がわからない。
「止(よ)して」と言ってどうして仲間に入れてもらえるんだろう?「直せ」と言われてもおもちゃなんか修理できない……。
年長になるときに投稿主の女性が担任から受け取ったコメントには、「いくら言ってもおもちゃを片付けない」と書かれてあったそうだ。

言葉の意味を把握することにおいては、関西人にとっての関東弁より関東人にとっての関西弁のほうが手ごわいと思われる。標準語はテレビで始終流れているから、上京した大阪人が相手がなにを言っているのかわからなくて苦労するという場面はそうないだろう。
付き合った人の中に東京出身の男性がいたが、耳慣れない言い回しが多いのと早口でまくしたてるように話すのとで、こちらに来て半年間は人の話が半分しか理解できなかったそうだ。知り合ったばかりのクラスメイトに「自分、どこの出身?」と話しかけられ「俺が知るわけないだろう!」と心の中で突っ込んだとか、「ゴミほっといて」と言うから放っておいたら後から文句を言われたとかいう話を笑い転げながら聞いたっけ(「自分=アンタ」「ほる=捨てる」、念のため)。

が、その数年後、私自身もカルチャーショックを受けることになった。
惣菜メーカーの企画部にいたときのこと。新商品の発売前日に全国の販売店にプライスカードを送付したところ、「こんなのじゃ売れない、すぐに作り直してくれ!」と関東の百貨店からクレーム電話の嵐。

「どういうことですか」
「こっちでは『ミンチカツ』なんて言わないよっ。『メンチカツ』に決まってるだろ!」
「な、なんですか、そのメンチって……」
「こっちではそう言うんだよ!」
「そちらでは挽き肉のことを“メンチ”って言うんですか?ハンバーグは“合挽きメンチ”で作るんですか?」
「いや、それはミンチ」
「じゃあミンチのカツがどうしてメンチカツになるんですかっ」
「それを言うなら、関西ではマクドシェイクって言うのか?朝マクドって言うのか?」

関東の人がなんと言おうと、関西人にとって「メンチ」は切るものであって(メンチを切る=眼を飛ばす)、カツにするものではないのだ。
しかし、このとき作り直さなくてはならなかったのはミンチカツだけではなかった。ヘレカツのプライスカードも「ヒレカツ」に差し替えなくてはならなかったのである。


ここまで書いて、ポンと手を打つ私。
平日は出張に出かけている夫が週末に帰ってくると、家の中はたちまち子どもが散らかした後のようになる。それを私は彼が横着なせいだとばかり思っていたが、実はそうではなかったのではないか。
「読んだ本はなおして」
「いらんもんはほかして」
ではなく、
「読んだ本は片付けて」
「いらないものは捨てて」
という言い方に変えれば、夫(横浜出身)はテキパキと動いてくれるのではないだろうか。
そうよ、これまでは言葉が通じていなかったのよ、だからに違いない。
……であればどれだけいいか。

そうそう。
前回の「ナンパについての一考察」に、「関西人はナンパをするとき、『茶しばかへん?』と言うと聞きましたが、本当ですか」というメールをいただいたが、いまどきそんなセリフで誘うのはいちびり(おふざけ者)だけ。
道頓堀のひっかけ橋(ナンパのメッカ)に一日立っていても聞けないんじゃないかしらん。