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2005年02月28日(月) 読むべきか。読まざるべきか。

ときどき読み手の方から真っ向から対立する意見が届くことがある。
といっても、私が書いたことに対して「真っ向」なのではない。Aさんから届いたメールとBさんから届いたメールが正反対の主張である場合がある、という意味だ。

私のメールボックスの中で、AさんとBさんが一騎打ちの態勢になっている。
双方の言い分に一理ある、あるいは心情的に理解できる部分があるとき、審判であるところの私はどちらかに軍配を上げることができず、モニターの前で身悶えする。
そしてその対立の構図が「男vs女」だった場合、話はさらに面白くなる。

* * * * *

私は前々回の「女の不用意」に、男と女が初めて深い関係になるタイミングについての渡辺淳一さんの説、「女性にもその気がなかったわけではないのに、なにか間が悪くそうなれなかった場合、たいていの男は二度は挑まない」にはそうだろうかと首をひねる、と書いた。
私には「二度目」が訪れなかったことはなくピンとこなかったからであるが、その部分についてA子さんからこんなメールが届いた。

「なんちゅう小心者の男やと思うのは私だけ?本気なら、一度や二度断られたってアタックすべき。そのくらいでくじけんといて!と思ってしまう」

同様のコメントはほかの女性からもちょうだいしている。私はそれらを「だよねえ、ったく意気地がないったら・・・」と相槌を打ちながら読んだ。
とそこへ、B男さんからメールが。

「二度目は行きにくいんですよ、やはり。厚顔無恥に何度も行く男というレッテルはいただきたくない。女性の気持ちに敏感な男ほど、それを断りの言葉と解釈してしまう傾向があると思います。それにしても女の人って勝手だよねえ、一方では断りと察してくれない男に『鈍い』と烙印を押し、一方では二度目を誘えないのは疑問って言うんだから(笑)」

アイタタタ・・・!
あまりに鋭い突っ込みに思わず片腹を押さえる私。ときどき読み手の方の凄まじい記憶力に驚愕することがあるが、この方もまた一年以上も前に私が書いた文章を覚えておられたのだ。
そう、私は以前、「鈍い男」というテキストを書いた。内容はタイトルそのまま、
「女性をデートに誘い、いつが空いているかと訊いても彼女が『今月はずっと忙しいの』と言うだけで代わりの日程を提案してこない場合、それはその気がないとみるべきなのだ。私の目には明らかに脈がない、あるいはとうに振られているのにいつまでも気づかないというケースも少なくない。男性はどうしてそんなに鈍いんだ」
というものである(詳しくはこちら)。

いまもこの考えに変わりはない。とはいうものの、「女の人って勝手だよねえ」には弁解の余地がない。
ある場面では「言葉の裏を読んでくれない(いい加減に気づいてよ・・・)」とため息をつき、別の場面では「言葉を額面通りに受け取って(勘ぐっちゃイヤ!)」と言う。これでは男性に「どないせえっちゅうねん!」と文句を言われてもしかたがない。
私の中では、裏を読む必要のある場合とない場合は依然として存在する。しかし、それを「状況によって判断してちょうだいね」と男性に注文するのが無理な相談であることは百も承知だ。
私はすまなさのあまり頭を垂れた。


前回の「男の不用意」に、「男性は女性のように、自分をよく見せようとせんがために妙なところで見栄を張ったりかっこつけたりすることはないのだろうか」と書いたところ、こんなメールをいただいた。
彼女と初めてのベッドイン。しかし緊張のせいか、肝心のモノが言うことを聞いてくれない。なにをどうがんばってもだめ。ついにあきらめた彼は彼女に向かって言ったそうな。
「君を大事にしたいから、今日はやめておこう」

この話で思い出したのは、十年以上も昔の学生時代のこと。
飲みすぎか、緊張か、後ろめたさか。やはり彼がなかなか臨戦態勢にならない。そうは見せまいとすればするほど、焦りがこちらに伝わってくる。
初めてだから首尾よくスマートに進めたかっただろうな、この人のことだからいいところを見せようと思っていただろうなと思ったら、私の口から思わず出た。
「やっぱり今日は・・・ごめんなさい」


「大事にしたいから」と言われた女性は“真相”に気づいていたのだろうか。私の場合は別れて何年もたってから判明した。

「あのとき俺、むちゃむちゃ焦っててん。初めてやのにかっこ悪すぎやん。ほんまどないしよかと思ったで」
「そうやったん」
「気づいてたんやろ?」

そう言って、彼は豪快に笑った。
真相がそこにあるから、言葉の裏を読むべき場面。真相がそこにあるから、読まなくていい場面。
この見極めは本当にむずかしい。男の人には・・・いや、私にだってとても無理だ。

※ 参照過去ログ 2003年11月10日付 「鈍い男」


2005年02月25日(金) 男の不用意

前回のテキストには男性からいくつかメールをいただいた。いずれも、
「部屋が汚いとか下着がいけてないとか、女性がナーバスになるほど男は気にしませんよ」
という内容で、床にバナナの皮が落ちているとか下着のゴムが消滅しているといったレベルでない限り、まったくノープロブレムなのだそうだ。「だからそんな理由で僕らを拒まないで、安心してカマン!」と口を揃える。
まあ、つまりは「男の性欲はその程度のことで萎えるほどやわじゃないのさ」という話なのだろうと思うのであるが、私たちが少しばかり気を回しすぎているというのも確かなようだ。

しかし、これに安堵する間もなく私は考える。
「じゃあ男の人はどうなんだろう?」
一般的に自分に厳しい人は他人にも厳しく、自分に甘い人は他人にも甘い。男性が女性の“不用意”に寛容だということは、やはり自分のそれもあまり気にしないということなのか。
つまり、予想外の展開に慌てたり躊躇したり涙を呑んで断念したり・・・といったことはないのだろうか。

* * * * *

JR大阪駅のショッピングモールに通じる地下道の壁に『グンゼ』の広告がある。
三メートル×三メートルくらいの巨大なカラーコルトンの中で、新庄剛志さんが黒のボクサーブリーフ一枚という姿で立っているのであるが、これが思わず足を止めて見入ってしまうくらいかっこいい。
つい最近まで、ここにはランジェリーのブランド『トゥシェ』の広告が入っていた。神田うのさんが黒のブラジャーとショーツ、ガーターベルトデザインのストッキングというセクシーな姿で道行く人を挑発するようなポーズを取っており、私は前を通るたび、
「こんなプロポーションをしていたら、私ももっとアグレッシブな女になれていたのに〜!」
と悔しくなったものだ。
しかし、男性はこの新庄選手(こちら)を見て、同じようなことを考えないものなのだろうか。

「はな子節」のはな子さんが昨日の日記で、
「少しでもスリムに見せるため、デートには“腹押さえ用”の強力ガードルを履いて行きたいけれど、もしそういう展開になったときに相手に見られたらムードぶち壊しだし、あまりにもパッツンパッツンなので下着線がばっちり残るのも恥ずかしい」
という苦悩をカミングアウトしておられたが(詳しくは「私は『不用意な女』」をどうぞ)、これには多くの女性が頷くに違いない。「特技は、ハダカです。」と言える女性はそうはいまい。
しかし、男性にはこういう自信のなさに由来する躊躇や葛藤は存在しないのだろうか。女性ほどシリアスなものでないにしても。

また、こういう可能性はどうだろう。
新庄さんは「毎日が勝負パンツ」なのだそうだが、世間一般の男性はまずそんなことはないだろう。
実を言うと、私は「男性には“勝負下着”という概念があるのだろうか」と訝っていた。しかし、「女の不用意」にいただいたメールを読んでいると、やはり男性もデートのときには下着を選んでいるようだ。
「ふだんは楽なトランクスだけど、ここぞというときは足が長くかっこよく見えそうなハイレグのブリーフにする」
なんて話を聞くと、考えることは私たちと同じなんだなあと思う。
ということは、「なんで今日こんなパンツ履いてきちまったんだ!チクショー!」という事態も起こりえるということではないか。

そしてもうひとつ、思い浮かぶことがある。が、これはあえて書くまでもないだろう。
「ああ、いまここにあれば……!」
彼女の部屋で泣く泣くブレーキを踏み込んだ、という記憶を持つ男性は少なくないに違いない。


その昔、よかったらうちでお茶をと誘ったら、男性は「えっ、いいの!?」と目を輝かせた後、じゃあ一度家に帰ってまたすぐ来るよと言った。

「えっ?私の家、すぐそこですよ」
「うん、でも」

頑なに「いったん帰る」と彼に言わしめるものが何なのかに私はとても興味が湧いたが、なんとなくそれは訊かないのがマナーのような気がした。それでもいつか訊いてみようと思っていたのだけれど、それよりも別れが先にやってきた。

「あのとき、彼は何のために家に帰ったのか」

想像がつくような、つかぬような。このときのことを思い出すと、あまずっぱい気分になる。
そして、私たちの知らないところで男性も苦悩したり後悔したりしているのかもしれないなあと微笑ましく思うのである。


2005年02月23日(水) 女の不用意(後編)

※ 前編はこちら

そしてもうひとつ、俵さんがそのチャンスを逃さざるをえないことになるとしているのが、下着の不用意だ。
どんなにムードが盛り上がって、この人とならと思っても、グンゼの白くて大きいパンツなんか履いていたらぜったいにその先はない、ということであるが、もしこれが理由で断ったことがあるという女性がいるとしたら、真剣みが足りないとしか言いようがない。不用意さのレベルで言えば、部屋をちらかしたまま出かけることの比ではない。

が、これと同じくらい理解に苦しむことを私は挙げることができる。
以前、「彼とそういう雰囲気になったはいいが、前の晩に脇の手入れをしていなかったことを思い出し、かなり迷った」という話を友人から聞かされたとき、私は机に突っ伏した。
どうしてそんなことが起こりえるのか。同性として想像するに耐えないシチュエーションである。
……なんて言ったら、「まさか、そんな。信じられないよ!」という男性の悲鳴が聞こえてきそうだ。
なんだかんだ言って男性はロマンティストだと思うので、こんなことを言うのは忍びないのだが、女性はみんなきちんとしているものと思ったら大間違いである。冬のあいだはムダ毛の処理をしないという女性もいるくらいなのだ。
先日一緒に温泉に行った友人もそうで、「彼氏ができたらちゃんとするもん」とすましているが、何を言っている。そういうことをなおざりにしているから恋人ができないんじゃないか!

話を戻そう。
その気がないわけでもない男性とのデートにおへそまで隠れるような下着を着けて、あるいはムダ毛の処理をせずに行くというのは、今日はウィンドウショッピングだからと交通費しか持たずに出かけるようなものだ。思いがけず素敵な服を見つけ、欲しくてたまらなくなるなんてことは絶対にない、と誰に言い切ることができるだろう?
林真理子さんの小説『不機嫌な果実』の中に、
「男はその時許されたと思っているが、実は十二時間前、朝、クローゼットから下着を選び出した時に、女たちは許しているのだ。」
という一文がある。私はこれに深く頷くが、そういう女性はその場になって初めて許すか許さないかを検討するのだろうか。

せっかくいい雰囲気になりながらもそうなれなかったとき、無念なのは男性だけではない。
渡辺淳一さんの「たいていの男は二度は挑まない」説にはそうだろうかと首をひねる私であるが、自分の意思以外のものに阻まれてチャンスを逃がすというリスクはあらかじめ取り除いておきたいとはやはり考える。
「持つことが、ゆとり。」という信販会社のキャッチコピーがあるけれど、その機会が訪れようが訪れまいが、応じようと思えば応じられる状態にしておく、これが安心でありゆとりなのである。

逆に考えると、情にほだされやすい女性は恋人と別れようと決めた瞬間から部屋に掃除機をかけず、脇の手入れをさぼり、当日はうんと年季の入った下着を着けて出掛けるとよいということになる。
「わかったよ。じゃあ僕に最後の思い出を……」
と彼が言うかどうかは知らないが、その夜のあなたは宇宙一貞操堅固な女になっているはずだ。


というわけで女側の不用意についてここまで書いてきたけれど、予想外の展開に慌てたり躊躇したりするのは女性に限ったことなのだろうか。
次回はそれについて考える。


2005年02月21日(月) 女の不用意(前編)

俵万智さんのエッセイの中に、渡辺淳一さんの『男というもの』を読んで書いた文章があった。
その本の中で渡辺さんは男と女が初めて深い関係になる“タイミング”について、
「女性にもその気がなかったわけではないのに、なにか間が悪くそうなれなかった場合、たいていの男は二度は挑まない」
と書いておられるらしい。その部分を読んで俵さんがふと思い出したのは、ある男性とドライブをして部屋の前まで送ってもらったときのこと。
男性は家に上がりたいと言い、俵さんも彼に強い好意を抱いていたにもかかわらず、断らざるをえなかった。

「えっと、今すごく部屋がちらかってるから、今度ね」

言い訳でもなんでもなく、本当にちらかっていたのである。
しかし、彼はそれを遠回しの断りと受け取った。“今度”はついに訪れず、俵さんは「ちゃんと掃除して出てくればよかった。もし部屋が片付いていたら、彼との関係はずいぶん違ったものになっていただろうに」と悔やんだ、という内容だ。


こういう話は友人からもちょくちょく聞くが、なんてもったいない!と思うと同時に、私は不思議でならない。
だって私にはこんなことは考えられない。部屋がちらかることがないという意味ではもちろんない。家に上げられない状態に部屋を放置したままデートに出かけるというのがありえないのだ。
俵さんは「デートの前はお風呂に入ったり服を選んだりとなにかと忙しく、掃除なんかしていられない」と言うが、私にとって部屋の片づけというのはマニキュアを塗ったり靴を磨いたりするのと同列にある、れっきとしたデート支度の項目のひとつである。

私は見栄っ張りなので、「ちらかっててごめんね」と言いながら本当にちらかった家に彼を上げることはぜったいにない。つまり、たとえその夜どんなに盛り上がったとしても、部屋がちらかっていたらその先はないということ。それは自ら“今日のリミット”を設けることとイコールだからである。

これは初めてのデートのときでもそう。今日のところはそんなふうになることはないだろう、こちらにもまだそのつもりはないし……といっても、なにが起こるかわからないのが恋愛というもの。
出会って間がなくまだ形になっていない男と女の場合、予想外の展開というのが楽しみな部分でもあるわけで、その余地が残されていないというのはかなりつまらない気がする。
だから、私は「来ることはないとは思うけど……」とつぶやきつつ部屋に掃除機をかけ、自分が飲まないため常備していないコーヒー豆を買いに走るのである。 (つづく


2005年02月18日(金) それは夕食のおかずになるか

会社の定時は二十一時。そのため、同僚たちは毎日自分より先に帰宅する夫と子どものために夕食の支度をして出勤してくる。
私の夫は月曜の朝に「行ってきます」を言ったら、「ただいま」は金曜の夜遅くになる人なので、私が夕食の作り置きをして家を出てくることはない。が、休憩時間に彼女たちが「カレー作ってきたわ」「面倒だったから、鰻の蒲焼買っといた」なんて話すのを聞くのはよその家のごはん事情を垣間見ることができて、けっこう楽しい。

さて、昨日は驚いた。うちのひとりが「今日はうちはたこ焼きよ」と言ったからだ。
ご存知の通り、関西人とたこ焼きは切っても切れない関係だ。「一家に一台たこ焼き器がある」という噂もあながちおおげさではないし、たこ焼きパーティー(通称「たこパー」)をしたことがある人も少なくないだろう。
しかし、さすがに夕食にたこ焼きという話は聞いたことがない。
「ええっ、たこ焼きを夜に食べるん!?」
「うん。おかしい?」
すると、その場にいたもうひとりも「うちも夜にたこ焼きするで。お好み焼きのときもある」と言うではないか。
「だんなさんは怒らん?なんで夜にこんなもんが出てくるんじゃー!とか」
「そんなん言われたことない」

へええ!子どもはともかく、夫からも文句が出ないとは。
関西で生まれ育って三十余年の私であるが、たこ焼きやお好み焼きというのは週末の昼ごはんであると信じて疑わなかった。「家庭が変わればそれらはれっきとした夕食の献立になるのだ」という発見は、私に小さからぬショックを与えた。
私の夫は味にはまったくうるさくないが、夕食になにが出てくるかについては無頓着ではない。なにを出したからといってちゃぶ台を引っくり返されるようなことはもちろんないが、たこ焼きとお好み焼きが夕食として可か不可かは訊くまでもない。



林真理子さんのエッセイにこんな話があった。
ある日の夕食をおでんにしたところ、夫は席に着くなりむっとした顔で、「おでんなんておかずじゃないよ、まったく。ちゃんとした家庭料理を食べさせてくれよな」。
もちろんそれはコンビニで買ってきたものではない。米のとぎ汁で大根を下茹でし、うんといい昆布でダシをとって作ったものである。北風の中、スーパーに買い物に行き、原稿を書きながら煮込んだのよ……。
林さんの目から涙がはらはらとこぼれ落ちたそうだ。

実は、私の夫もそうなのである。今夜はおでんにしようかなと言うと、あまりいい顔をしない。理由は「おでんは酒の肴。ごはんのおかずではない」というものだ。
味のしみた大根や玉子がおかずにならないなんてわけがあるだろうか。現にうちの会社の社員食堂には「おでん定食」がある。が、彼は「おでんでごはんは食べられないよ」と言い張る。
じゃあおでんの日はごはんが進んで困る私はいったいなんなの。たしかにお酒にも合うだろうが、ごはんとの相性だって悪いはずがないのである。

そしてわが家にはもうひとつ、夕食の主役を張らせてもらえないかわいそうなメニューがある。それは「コロッケ」。
これはおでんとは少々事情が異なる。ごはんとの相性うんぬんの問題でなく、それが持つ“B級グルメ”というイメージのせいだ。夫は「昼に食堂で食べるのならいいけど、晩ごはんのメインがコロッケっていうのはわびしくて嫌だ」と言うのである。
たしかに、コロッケにごちそう感はない。しかし、夜の食卓にそれが大きな顔して出てくる家庭に育った私にはまるで抵抗はなく、みじめな気分になることももちろんない。

しかしながら、夕食にコロッケが歓迎されないということについては、私は自分の分が悪いことを知っている。
フード業界の会社に勤めていた頃、サラリーマンをターゲットにした弁当の企画を担当したことがある。営業部にその品揃えを提案したところ、「コロッケ弁当はランチタイムのみの販売にしたい」と返ってきた。
「夜を弁当で済ませるということだけでもわびしさがあるのに、その上にコロッケは選ばない」
と言われ、そうだろうかと首をひねった私だが、その後届いた夕食の献立についての市場調査の結果を見て驚いた。「唐揚げやミンチカツはメインディッシュになるが、コロッケはならない」という回答が三割強存在したのである。

* * * * *


あなたの家ではどうだろう。たこ焼き、お好み焼き、おでん、コロッケ(夫はこれに加えて丼物もノーである)は夕食のメインとして承認されているだろうか。

ところで、私は夜にパンというのは抵抗があるのだが、グラタンとクリームシチューのときだけはごはんをよそいながら「なにかが間違っているのではないか」が胸をよぎる。
ごはんと牛乳、栄養満点、相性ばっちり!と開き直りたいのはやまやまだけれど、小学生の頃、給食がごはんの日は牛乳を残すクラスメイトがけっこういたことを思い出し、いつも悩む。


2005年02月16日(水) 「自分は悪くない」の精神

週刊誌で、渡辺淳一さんの「『恥ずかしがり』の文化」というタイトルのエッセイを読んだ。
その中で、渡辺さんはアメリカに四十年住んでいる日本人女性から聞いたという、こんな話を紹介していた。
その知人の女性が帰国中にレストランで食事をしていたら、テーブルのそばを通りかかった女性客が突然転んだ。ぺたんとお尻を床につけて座り込み、バッグは脇に飛んでしまっている。
周囲の客は驚いて一斉に彼女のほうを見、ウェイターは慌てて駆けつけ助け起こそうとした。しかし、彼女は「すみません」と謝りながら自分で立ち上がると、レストルームに消えた。
その様子を見て、渡辺さんの知人は「『なんてバカなことを・・・』と驚き呆れてしまった」という。

さて、みなさんにはその理由がおわかりになるだろうか。わかればアメリカ人、わからなければ日本人、ということになる、と渡辺さんは書いているけれど。

* * * * *

では、答え合わせ。
知人の女性曰く、「こういうとき、絶対すぐに起き上がってはいけない。『いたたたた・・・』と唸って、そのまま倒れているべきだ」。
ウェイターが飛んできたら、恨めしげに床を見つめながらなにか滑るものがなかったか探す。怪我はどうかと訊かれたら、痛そうに顔をしかめぶつけたところに手を当てる。
「あんなふうにはね起き、恥ずかしそうに逃げて行ったら、転んだのは自分のせいだと言っているようなものでしょう」
つまり、床に水がこぼれていたとか、つるつるに磨かれ過ぎていたとか、ハイヒールのかかとがフローリングに引っかかったとか、自分が転んだのは相手に原因にあるという態度を取るべきだ、でなければあとでどこかを傷めたことがわかったときに不利になる、というわけである。

「何事もまず、『自分は悪くない』ということをアピールする。これがアメリカ社会の生き方よ」

この言葉で思い出したことがある。
以前あるバラエティ番組で、日本人初のNFLのチアリーダーとなった三田智子さんという方が、
「渡米して間もない頃に、『肩がぶつかってもすぐにはアイムソーリーと言うな。事故を起こして、たとえ自分が悪くても謝るな』と教えられた」
と話していた。帰国してからもその“謝らない”習慣は直らず、車をぶつけたときも謝るどころか、「私は悪くないのよ」と逆ギレしてしまったという。

渡辺さんの知人が驚き呆れた理由を、私は「アメリカに長く住んでいる女性から聞いた話」という情報をヒントにかろうじて当てることができたが、日本の女性が転んだときのリアクションとしてもっとも多く見られるのは間違いなく、この「自力で起き上がり、レストルームに駆け込む」というパターンであろう。たとえ擦り傷をつくったり服を汚したりしていても、きっと彼女は薄笑いを浮かべている。
恥ずかしがり屋の日本人に店中の人の視線が集まる中、「床にへたりこんだまま、ウェイターに『いたたたた・・・』と訴える」なんてパフォーマンスができるとは思えない。
それにもしそんなことを実践したなら、周囲の客から「自分で勝手につまずいたんじゃないか。当たり屋ならぬ、転び屋か?」とうさんくさい目で見られるに違いない。


日本人はシャイで照れ屋だとよく言われるけれど、私はこれに「お人好し」を追加したい。
ありがとうと言うべきシーンで「すみません」を口にする人は驚くほど多いが、これは相手に対する感謝より「自分のために手数をかけさせて申し訳ない」という気持ちが先に立つためではないだろうか。
あるいは。受けた好意やサービスに対し「ありがとう」の一言で済ませるのには少しばかり勇気が必要なのかもしれない。電車で席を詰めてもらったとき、エレベーターから先に降ろしてもらったとき、「それを当然だと思っているような傲慢な人間だと思われやしないだろうか」というささやかな恐れが「すみません」を選ばせるのではないか。
謙虚であることが好ましいとされる国で育ってきた人がそういう思考を持ったとしても、ちっとも不思議ではない。

見当違いの要求やとんでもない責任転嫁をする人はもちろん日本にもいる。PL法(製造物責任法)施行以後、企業はこぞって製品に過保護な表示を入れるようになった。アイスクリームの包み紙に「長時間持つと手が冷たくなります」なんて書いてあって、びっくりすることもある。
それでも、相手に責任をなすりつけるということにおいては、「肥満になったのはハンバーガーの食べ過ぎに注意するよう警告しなかった企業の責任だ」と子どもたちが集団で訴訟を起こす国にはまだまだかなわないと思うのだ。


国民性を揶揄する、こんなジョークがある。お題は「注文したビールに虫が浮いていたら」。
アメリカ人は「訴えてやる!」と店を飛び出し、
イギリス人はウェイターを呼びつけ、取り替えさせる。
ドイツ人は虫を観察し、「消毒になっているから大丈夫」と飲み、
中国人はそれに気づかず飲み干す。
では、日本人は?

「飲まずに黙ってお金を置いて帰る」

おお、うまいこと言う!
・・・この中で一番情けないじゃあないか。


2005年02月14日(月) 思へば遠く来たもんだ

週末、遠方に住む妹夫婦が子どもを連れて実家に泊まりに来ていると聞いて、帰省していたひとり暮らしの友人。
彼女の姪は幼稚園に通う女の子。かわいいんだろうねと言ったら、「子どもにはかなわんわ」と苦笑する。
一緒にお風呂に入りたいと騒ぐので連れて入ったところ、夕食の席で「おばちゃんのほうがママよりおっぱい大きかったー」と“報告”されてしまったらしい。しばらく義弟の顔を見られなかったそうだ。
それでも、子どもは正直が取り得なんだからしかたがないわとなんとか気を取り直したら、今度は真顔でこう言われた。

「おばちゃんはどうして結婚しないの。ひとりで寂しくないの」

これが五歳の女の子がする質問か、と彼女は唖然としたというが、私も驚いた。その年で結婚していないと寂しいとか寂しくないとか、そういう感覚を持っているというのか。なんてませているんだ。

・・・とショックを受けてみたものの。
小さな子どもを持つ方の日記を読んでいると、「このくらいになるとこんなナマを言うようになるのか」とびっくりしたり感心したりすることがしばしばある。子どもというのは私が思っているよりもずっと早熟らしいのだ。それに、考えてみれば自分にも覚えがある。
あれは小学一年のときのこと。日直のソウマ君と放課後の教室でふたりになったとき、私は彼に言ったのだ。

「やっとふたりっきりになれたね」

私はたしかにこう言った。それ以前にソウマ君と気持ちを確かめ合ったことなどなかったと思うのだが、私はそんなに自信があったのだろうか・・・。
こんなこっぱずかしいセリフを口にしたのは、後にも先にもこのときだけだ(たぶん)。

どうして二十五年以上も昔のことを覚えているかというと、そのときの彼の顔がものすごく印象的だったからだ。「鳩が豆鉄砲を食う」という言葉を六歳の私が知っていたはずはないが、いま思えばこの表現がぴったりだ。
女の子のほうがおませだと言われるけれど、あのソウマ君の表情を思い浮かべ、私は大いに納得する。そして、この頃にはすでに自分の中に「好きな男の子に気持ちを伝える」という萌芽が存在していたことを知るのである。


友人と話していて少しばかり驚くのは、自分から好きだと言った経験はないという女性が少なくないことだ。私は堪え性がないので、気持ちを胸のうちに留めておくことができない。
初めて告白したのは中学二年のバレンタインデーだ。見事玉砕したが、懲りることなく、その後も好きになった人には気持ちを伝えてきた。過去の恋のうち半分はこちらから、である。

しかし先日、かれこれ一年近くもぐずぐずしている友人に「私たちみたいな平凡な女は自分から行かなきゃだめなのっ。待つだけ時間の無駄!」と発破をかけたところ、「わかってるけど、この年になっての失恋はつらいもんがある・・・」と返ってきて、不覚にも深く頷いてしまった。
恋愛の基礎体力がなくなったとでもいうのか、このところすっかり打たれ弱くなった感がある。ちょっとしたことが心に堪え、へこたれてしまいそうになる。なにかあったとき、立ち上がるのに時間がかかるようになった。
若い頃、タフでいられたのは「永遠」とか「絶対」とかいうものの存在を信じることができていたからだろう。あの天真爛漫な私はいったいどこへ行ってしまったのか。

こんなこと、昔は考えたことなかったなあ・・・。そう思ったら、ある詩を思い出した。

頑是ない歌

思へば遠く来たもんだ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気(ゆげ)は今いづこ

雲の間に月はゐて
それな汽笛を耳にすると
竦然(しようぜん)として身をすくめ
月はその時空にゐた

それから何年経つたことか
汽笛の湯気を茫然と
眼で追ひかなしくなつてゐた
あの頃の俺はいまいづこ

今では女房子供持ち
思へば遠く来たもんだ
此の先まだまだ何時までか
生きてゆくのであらうけど

生きてゆくのであらうけど
遠く経て来た日や夜(よる)の
あんまりこんなにこひしゆては
なんだか自信が持てないよ

さりとて生きてゆく限り
結局我(が)ン張る僕の性質(さが)
と思へばなんだか我ながら
いたはしいよなものですよ

考へてみればそれはまあ
結局我ン張るのだとして
昔恋しい時もあり そして
どうにかやつてはゆくのでせう

考へてみれば簡単だ
畢竟(ひつきやう)意志の問題だ
なんとかやるより仕方もない
やりさへすればよいのだと

思ふけれどもそれもそれ
十二の冬のあの夕べ
港の空に鳴り響いた
汽笛の湯気や今いづこ

*竦然(しょうぜん):恐れてぞっとするさま。
*畢竟(ひっきょう):つまり。結局。


(中原中也「在りし日の歌」より)


初恋から二十年。思えば遠くへ来たもんだ・・・。


2005年02月11日(金) 溺れる人

前回の日記の追記です。mixiに興味のない方、今日までご辛抱を。

「誰か私を招待してえー」と大騒ぎした甲斐あって、招待状をちょうだいすることができました。送ってくださった方、本当にありがとうございました。
で、さっそく登録。プロフィールの欄を埋めるべくモニターとにらめっこする私であるが、これがなかなか手ごわい。実生活では「私はこういう者です」と自分を誰かに紹介する機会などまるでないため、ちっとも書くことが浮かばないのだ。

そういえばうちのサイトにはプロフィールがなかったな、とふと思う。そのため、名前を間違えられることがときどきある。
このあいだ、あるサイトがリンクを張ってくれていたのだけれど、その中で私は「小春さん」になっていた。「小春」もとってもかわいいけれど、私は「小町」なんですよと言うと、その方はずいぶん慌てておられた。
初めましての方からのメールで「Komachiさん」と呼びかけられることもあるし(タイトル下の「Presented by 〜」からとっていると思われる)、プロフィールを置かないのは読み手には優しくないかもしれない。たしかに初めての日記を訪ね、書き手の年齢や居住地に興味を持ったとき、それがないとちょっぴり残念だものな。

* * * * *

ところで、昨日mixi関連のサイトをめぐっていたら、びっくりするような記事を見つけた。「mixi依存症」の二十六歳の女性を取り上げたものだ(こちら)。

「日記を書いてから五分以上レスが付かないとそわそわします。病気かもしれません」

私のまわりにも「仕事や家庭生活に支障をきたしていそうだなあ」とお見受けする日記書きさんは何人もいるが、そこまでの話は聞いたことがない。私自身、成田空港で乗り継ぎ待ちの十二時間をラウンジでネットをして潰したこともあるほどのジャンキーだけれど、こんなことはまったくない。
「日記にレスがついていないか、ページに誰かが訪問していないかが一日中気になって、会社では上司の目を盗んで何度もアクセス、旅先にもパソコンを持っていかずにいられない」
これはネットに限らず、たとえば恋愛にも言えることだが、突出したものがあるばかりに日常生活から物事の優先順位が失われてしまっている状態、すなわちなにかに溺れている姿というのは傍目にかなり痛々しい。

とは言うものの。
さすがに「五分レスがつかないと・・・」というのは極端だけれど、彼女が特別というわけでもないだろう。深夜の日記書きで目の下にくまを作ったとき、あるいは「ごはんできたよ」と声をかけても夫がチャットをなかなかやめようとしないとき、ネットほど「ほどほど」がむずかしいことはない、と私はつくづく思うのだ。
この世界を知ったのが人生の方向がある程度決まったあとのことで本当によかった。もし中高生の頃にこれに出会っていたら、帰宅部になっていたかもしれないし、勉強にも身が入らなかっただろう。大学時代だったら、恋もせず寸暇を惜しんでキーボードを叩いていたのではないか(・・・それはないか)。
ネットの中毒性を思うとき、私は「セーフ」と胸をなでおろす。


そうは言いながらも、今回は(心を入れ替えて)機能を理解し、プロフィールもちゃんと書いて、ちょっとまじめにやってみるつもりだ。
登録したばかりで検索にかけても私のページはまだ出てこないようですが、mixiのアカウントをお持ちの方は今度のぞきに来てね。


2005年02月09日(水) 私とお友達になって!

『週刊文春』で中村うさぎさんの「私のお部屋に来て!」というエッセイを読んだ。登録してまもないというmixi(ミクシィ)についての話である。
mixiをご存知だろうか。ソーシャルネットワーキングサービスのひとつで、ひとことで言うなら会員制の友達リンクサイト。会員からの紹介がなければ登録できない仕組みになっており、日記を書いたり他会員とメッセージのやりとりをしたりして人脈を広げていくのである。

さて、面白いよと友人に誘われ、入会した中村さん。が、実は内心ではバカにしていた。ネットの世界で友達を作らなくてはならないほど自分は孤独に苛まれていないし、何が悲しくて一銭にもならない文章(日記)を書かなきゃならないのよ、と。
しかし、そう言っていられたのは最初の何日かだけ。中村さんは次第に焦りはじめた。というのも、待てど暮らせど誰も部屋(ページ)にやってこないからだ。他の人の部屋を覗くと“お友達”が十人も二十人も登録されているのに、自分のところはいつまでたっても紹介してくれた友人ただ一人。
このmixiという世界で、私という存在は無いも同然なのだ……。アイデンティティの危機を感じた中村さんは奮然とキーボードを叩きはじめた。
「ネット内の小世間で認められたいというちっぽけな願望に突き動かされて、本業そっちのけで必死で日記を書いている私はバカじゃないのか、本当に」


「自分の存在をどうのこうのといったって、たかがネットの世界じゃないか」と中村さんを笑う人は多いに違いない。たしかにものすごくバカバカしい。
が、私は「こ、これは寂しい!なんか知らんけど、むちゃくちゃ孤独じゃん!」をかなり理解することができる。
年明けに私はサイトの引越しをした。調子の悪いホームページ作成ソフトをだましだまし使ってきたのだが、いよいよ限界を感じたためレンタル日記「エンピツ」のスペースを借りて書くことにしたのだ。
すると、思いがけずうれしいことがあった。何人かの日記書きさんから、「エンピツへようこそ。今日からお仲間ですね」というウェルカムメールが届いたのである。
「新参者です。どうぞよろしく」と返事を書きながら、私は「コミュニティ」という言葉を思い浮かべた。「同じ世界の住人である」ということにほのかな連帯感を抱くことがあるとしたら、そこには疎外感もまた存在するということだ。

……とこのあたりで、記憶力のすばらしい読み手の方には「他人事みたいに言ってるけど、小町さんもmixiの会員でしょ?」と言われてしまいそうだ。そう、半年ほど前に職場の同僚から招待状をもらい、mixiに登録したのである。
しかしながら、彼から日記の書き方まで伝授されたにもかかわらず、私はまもなく退会してしまった。どうしてもなじめないことがあったのだ。
それは、誰かのページにアクセスすると自分の名が先方に通知されるようになっていること。
私の訪問を知った相手はかなりの確率でこちらのページにやってくるのだが、これに慣れることができなかった。新着日記のリストから適当に飛んだまったく見ず知らずの人に「あなたのページを何時何分に見に行きました」を伝えてしまう、そのことに対する恥ずかしさと不気味さである。
私たちweb日記書きが利用しているアクセス解析は来訪者がどこの誰かまでは特定しない。mixiは未知の人と知り合い交流するための場なのだから、「自分が訪ねたことなんて知られたくないわ」と思うほうが間違っているのはわかっているが、“顔”の見えるコミュニケーションに慣れていない私はおおいに戸惑ってしまった……というわけなのだ。

* * * * *

さて、日記を書きはじめて中村さんのmixiライフはバラ色に変わったのだろうか。
「日記にはほとんどコメントがつかず、友達もたいして増えない(現在ようやく三人……トホホ)。私の文章にはそれほど魅力がないのか、と膝から崩れ落ちそうな気分の今日この頃」
なのだそうだ。
実は、アカウントを削除したことをもったいなかったなとちょっぴり後悔している私。このエッセイを読んだからというわけでもないけれど、こことはまったく違う日記を書いてみたらどうかなあ?よおーし、私のチャーミングな部分を前面に打ち出してやるー!……なんてことがちらと頭をよぎったりしているの。

同窓会で何年かぶりに会った男性に「あら、この人、こんなにいい男だったっけ?」と思うことはないだろうか。実際は彼が見違えるほど素敵に変身したわけではなく、こちらが年を重ねて彼の魅力を理解できるようになったという話なのであるが、ええと、つまりその、なにが言いたいかというとですね……。

「どなたか私を招待してえ〜!」

あれから私も少しは大人になりました。いまなら訪問履歴がどうたらと言わず、楽しめそうな気がするの……。
友達になってあげてもいいよとおっしゃる心ある方、招待状を送ってくださいませんか。下のアドレスまでどうぞよろしくお願いします。


2005年02月07日(月) 「結婚しなくちゃ幸せになれない」(後編)

こちらのつづきです。

ホームヘルパーをしている、四十歳で独身の友人がいる。
彼女が定期的に家を訪問する利用者の中に、ものすごく口うるさいおばあさんがいるらしい。食事をつくっている最中、鍋のふちから少しでも火がはみ出していると、「ガス代を無駄にできるほどうちにはお金余ってないで!」とガミガミ言うのだそうだ。

「そんなやから、こっちも時間がきたらさっさと帰ろうとするやん?けどそのおばあちゃん、私が靴を履き終わったら、いっつも言うねん」
「なんて?」
「『お菓子があるから、食べていきなさい』って・・・」

自分が帰ったら、おばあちゃんはまた家にひとりきりになる。だからできるだけ長く居させようとしているのではないかと思う、と彼女は言った。
昨春、彼女に結婚相談所に入る決心をさせたのは「いつか自分もこうなるかもしれない」という思いだった。

「で、例の男の人とはどうなってるん」
彼女に尋ねる。二ヶ月ほど前からデートを重ねている男性がおり、相談所からの新たな紹介もストップをかけている状態、でも実はいまひとつその気になれずにいる、と聞いていたのだ。

「相変わらずやわ、不満はないけどときめきもない。けど、最近はこんなもんかもしれんと思いはじめてきてん」
「こんなもん、とは?」
「考えてみたら、私も向こうも四十過ぎ。若い頃みたいなテンションの恋愛ができると思うのが間違いなんじゃないかって。贅沢言ってられる年でもないしなあ」

そこまで聞き、私はたまらず声を上げた。
「なに言うてんの、逆やろ、逆!」
あなたがいま二十九歳で、なんとしても三十までに滑り込みたいって話ならわかるよ。けど、その年になって半年や一年、事を急いてどうなるっていうの。大枚はたいて相談所に入って、手をつないでもドキドキのひとつもしないようなのと結婚するわけ?それになにより、そんな気持ちで結婚される相手の人が気の毒だわ。
と言ったら、
「いや、たぶん向こうも同じやで」
と返ってきた。

結婚をあなどってはいけない。それは見切り発車でも、してしまえばなんとかなる、という代物ではないのだ。
ルーレットで有り金すべてを賭ける一発大勝負をするとき、「もう夜も遅いし、考えるのも面倒だから、こっちでいいや」なんて決め方をするだろうか。
赤か、黒か。こればかりはホイールを回し、玉を投げ入れてみなくてはわからない。しかし、テーブルにチップを積む時点では「きっと来る!」と信じることができていなければ、すっからかんになったとき、その無念はどれほど大きなものになるだろう。

恋心を維持しつづけられる夫婦はそう多くない。たいていは一緒に暮らすうちに右肩下がり、きれいさっぱりなくなる場合だってめずらしくはない。ガソリンをタンクに半分しか入れずに長旅に出ようとしている人がいたら、あなたは忠告するはずだ。「それでは車は途中で停まってしまいますよ」と。

「何日か前の新聞の人生相談にも載ってたよ、四十代の主婦が『結婚できればいいとまじめなだけの人を夫に選んだことを後悔している、つまらない人生になってしまった』って」

その年まで待ったんじゃないの。だからこそ絶対この人、なにがなんでもこの人、と思える人を掴まなくてどうする。
たとえ賭けたのと違う色のスロットに玉が入っても、「最善を尽くしての結果なんだから」と受け入れられる選択をしてほしい。「絶対来ると思ったのになあ!」と心底悔しがることのできる選択を。

半年前、ふた回り上のバツイチの男性と結婚したいと言い出し、夫の実家に嵐を巻き起こした義妹は来月、父親も下の兄も出席しないささやかなささやかな式を挙げる。
私はなにも心配していない。彼女なら大丈夫だ。赤が出ても、黒が出ても。


2005年02月04日(金) 「結婚しなくちゃ幸せになれない」(前編)

こんなにじっくり友人と語り合ったのはいつ以来だろう。
お開きの時間がないという幸せ。一泊二日の旅のあいだにお湯の中で、布団の中で、私たちは本当によくしゃべった。

同い年の友人は独身で、例の定義に当てはめると“負け犬”である。しかしながら、明るい彼女は「結婚したいのにできない女」をすっかり自分のキャラにしている。
「私が好きになった人ってみんなそう。『君の頑張り屋さんなところが好き』とは言ってくれても、『頑張り屋さんな君が好き』とは誰も言ってくれへん・・・」
と寂しげに目を伏せた後、ばっと顔を上げ、「でも見ててや、今年こそなんとかするし!」とよみがえる・・・というのはすでに彼女の芸となっている。
しかし、今年届いた年賀状の一枚に大きなショックを受けたらしい。

「あの子に先を越されるとは思ってなかった・・・。絶対崩れない砦だと思ってたのに・・・」

もうひと月も経つというのに、まだ愕然としている。確かに私も同じ年賀状を受け取ったとき、飛び上がるくらい驚いたが、彼女はそれどころでは済まなかったようだ。
「お正月に帰省したら、『お母さんたちはいつまでも生きててあげられへんのよ』って言われてさ。打ちひしがれてるところにこの言葉は堪えたわ。私はひとりっ子やし、親戚とも付き合いないし、親が死んだら自分はどうなるんやろうって、この年になって初めて真剣に考えた・・・」

少し前に酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』がドラマ化されていたが、そのとき彼女がぷりぷりしながら言っていたことを思い出した。
「年収一千万であんな豪華マンションに住めて、あれのどこが“負け犬”よ。じゃあ私みたいなのはどうなるわけ?お金と仕事が確保できてたら十分やんっ」
彼女は過去に二度も会社が倒産するという憂き目に遭い、転職を余儀なくされている。この冬のボーナスもほとんどなかったそうだ。彼女がいくら仕事熱心でいい成績を収めていても、会社が十年後存在しているかどうかあやしいというのでは、将来が心許ないことに変わりはない。

私には三十代から四十代前半の未婚の友人が何人もいるが、ここ数年で三人がマンションを買った。よくそんなお金があったねえと感心する私に、まるで申し合わせたように彼女たちが言ったのはこんなことだ。
「あきらめたわけじゃないけど、結局自分はこのまま結婚しないんじゃないかって気がする。そうしたら夫もない、子どももない、仕事を生き甲斐にできるタイプでもない私には確かなものがなにもない。人生に“土台”がないことがすごく怖くなって。それならせめて家くらい持っていなくちゃって・・・」


このところ、独身の友人が将来について不安を口にするのを聞くことがとても多い。
彼女たちは「路頭に迷う」ことをものすごく恐れている。食べられなくなる、住むところがなくなるという意味ではない。精神的に、ということだ。
姉妹や友人はそれぞれの家族と生きている、親がいなくなったら自分はひとりぼっちだ、それはどういう感じなんだろう、頼りになるものがなくてもちゃんと生きていけるのだろうか・・・。
まだ漠然としているとはいうものの、誕生日を迎えるたびに足音は確実に近づいてくる、リアリティのある恐怖である。

私は原作を読んでいないが、ドラマの『負け犬の遠吠え』がつまらなかったのは、結論があまりにもありきたりだったからだ。
「結婚している、していないで人の幸せは決まらない。それは自分自身が決めるものなのだ」
そんなことは誰だってわかっている。
それでも多くの女性が「結婚すれば人生安泰」という錯覚を起こしてしまうのはなぜか。ひとりでは幸せに生きていける自信がないからだ。

幸福で充実した人生を送るには、心のよりどころとなる「なにか」が必要だ。それはなにも結婚でなくてもよいのだ。仕事でも趣味でも、「自分にはこれがある」と思えるものであればなんでも。
しかし、そういうものを持っている人がいったいどれだけいるだろう。定年まで勤められる職場ややり甲斐のある仕事、一生の趣味やライフワークをこれから見つけるのは容易ではない。
それに比べたら、「夫」を見つけられる可能性のほうがずっと高そうだ。出会いは明日空から降ってくるかもしれないのだ、期待が持てる。しかも、「家族」というのは喪失のリスクの少ない、もっとも安定感のあるよすがなのである。
そう考えると、女性が「結婚しなくちゃ幸せになれない」という呪縛から逃れられないのはまるで不思議なことではない。

「年も年だし、このあたりで手を打とうかなあ・・・」と考えている友人がいる。その話は次回


2005年02月02日(水) 混浴に期待するもの<女性篇>(後編)

※ 前編はこちら

女性専用の立派な内風呂があるにもかかわらず、彼女たちがあえて混浴に向かうのはどういうわけか。
「話の種に・・・ってやつじゃないの」
と友人は言うが、そうだろうか。

林真理子さんのエッセイに、仲の良い男女のグループで温泉に行き、みなで混浴の露天風呂に入ったときの話があった。
中に大胆な女性がひとりおり、岩の上に置いたビールに手を伸ばすたびに上半身をお湯から出すものだから、胸が丸見えになる。林さんはおおいに悩んだ。
「いくら無礼講の混浴といっても、ここまで見せていいものなのか。それとも、ハダカの付き合いを楽しむ場で、自分のように肩から下は絶対に見せまいと頑なになるほうがおかしいのか・・・」
翌日、男の人たちは言ったそうだ。
「お風呂の縁に腰掛けて、ヘアまでばっちり見えた」
「あのおっぱい、エステに行ったりして相当努力してるんだろうなあ。見てあげるのも功徳だと思った」

私はこういう女性を容易に想像することができる。というのも、実は私も独身時代に一度だけ、混浴を経験したことがあるからだ。
その温泉はにごり湯で、女湯から湯に浸かったまま混浴の露天風呂に移動できるつくりになっていた。女湯があまりにも小さく景色も貧相だったため、思いきって行ってみたのである。
そうしたら、やはりいたのだ、人魚のように岩に腰掛けたまま友人とおしゃべりしている女性が。
濡れたタオルが張りついて体の線があらわになっている。「そんなこと、思ってもいないワ」という風だが、彼女が気づいていないわけがない。それどころか、胸元のタオルの合わせ目の位置や脚の組み方、表情にまで艶かしく見せるべく緻密な計算がなされているはずだ。
女が「男性の視線」にどれだけ敏感か、意識しているかということは、セックスのときのことを思い浮かべればすぐにわかる。「電気を消して」は恥ずかしいから、だけじゃあない。“ウィークポイント”を隠す目的もしっかりあるのだ。

惜しげもなく胸をさらしたり岩に腰掛け脚を組んだりしている女性は、無邪気なわけでも無頓着なわけでもない。
「見られたい」
胸の谷間を強調した服を着たりミニスカートを履いたりするとき、「人の視線を集める」ということに無欲ではない。混浴での大胆な振る舞いはそれらの延長線上にあるものではないだろうか。

* * * * *

それにしても、である。バスタオルを巻いただけの姿で脱衣所から湯壷まで歩くのは、どれほど勇気がいることだろう。
「正しい混浴の入り方」をネットで調べたところ、女性が入ってくるのに気づいたら、男性はさりげなく目をそらすのがマナー(逆に女性は、男性が入ってきたら、「どうぞ」と声を掛けてあげるのが親切らしい)とあったが、女性がバスタオルを取る瞬間を見逃すまいと不躾な視線を浴びせつづける輩も少なくないようだ。

縁に腰掛け、お湯の温度を見ているような顔をしながらタイミングを窺う。細心の注意を払っても、何人かの男性には“中身”を披露してしまうことになるだろう。
しかし、そういうハプニングさえも面白がることができる度胸と遊び心のある女性でなければ、混浴を楽しむことはできないに違いない。やたら目が合う男がいたら、「絶対に見せてやらん」と意地になってしまいそうな私みたいなのがそれを満喫するのはむずかしいだろう。
また水着着用が許されている混浴もあるが、そういう女性は場をかなり白けさせるのではないだろうか。

混浴好きの人に言わせると、その魅力は「見ず知らずの人と会話が楽しめるところ」にあるらしい。
女湯でそこに居合わせた人が世間話に興じているのを私は見たことがないが、混浴となるとそんなふうになるのだろうか。私が入った露天風呂にはそんな雰囲気はまるでなかったけれど、照れ隠しが人を多弁にさせるということなのかもしれない。
しかしながら、「見えちゃうんじゃないか」なんてびくつきながら見ず知らずの男の人と話がしたいとは思わんな、と身も蓋もないことを考えてしまう私である。


前編のテキストに、ある男性から「私は混浴風呂には絶対に入りたくない」というメールが届いた。
あら、またどうして?と思ったら。女性を見てあらぬことを考えてしまい、もし体に“変化”が起こるような事態になったら恥ずかしい、情けない、ということであった。

そうか、混浴における「見られたらどうしよう」は女性の専売特許ではなかったのねえ・・・。
男性なんて見る一方なんだから得るものはあっても失うものはないじゃない、と考えていた私は認識の甘さを恥じた。
どなたか「混浴に期待するもの<男性篇>」を書いて、私に勉強させてくれないかしらん。