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2005年02月04日(金) 「結婚しなくちゃ幸せになれない」(前編)

こんなにじっくり友人と語り合ったのはいつ以来だろう。
お開きの時間がないという幸せ。一泊二日の旅のあいだにお湯の中で、布団の中で、私たちは本当によくしゃべった。

同い年の友人は独身で、例の定義に当てはめると“負け犬”である。しかしながら、明るい彼女は「結婚したいのにできない女」をすっかり自分のキャラにしている。
「私が好きになった人ってみんなそう。『君の頑張り屋さんなところが好き』とは言ってくれても、『頑張り屋さんな君が好き』とは誰も言ってくれへん・・・」
と寂しげに目を伏せた後、ばっと顔を上げ、「でも見ててや、今年こそなんとかするし!」とよみがえる・・・というのはすでに彼女の芸となっている。
しかし、今年届いた年賀状の一枚に大きなショックを受けたらしい。

「あの子に先を越されるとは思ってなかった・・・。絶対崩れない砦だと思ってたのに・・・」

もうひと月も経つというのに、まだ愕然としている。確かに私も同じ年賀状を受け取ったとき、飛び上がるくらい驚いたが、彼女はそれどころでは済まなかったようだ。
「お正月に帰省したら、『お母さんたちはいつまでも生きててあげられへんのよ』って言われてさ。打ちひしがれてるところにこの言葉は堪えたわ。私はひとりっ子やし、親戚とも付き合いないし、親が死んだら自分はどうなるんやろうって、この年になって初めて真剣に考えた・・・」

少し前に酒井順子さんの『負け犬の遠吠え』がドラマ化されていたが、そのとき彼女がぷりぷりしながら言っていたことを思い出した。
「年収一千万であんな豪華マンションに住めて、あれのどこが“負け犬”よ。じゃあ私みたいなのはどうなるわけ?お金と仕事が確保できてたら十分やんっ」
彼女は過去に二度も会社が倒産するという憂き目に遭い、転職を余儀なくされている。この冬のボーナスもほとんどなかったそうだ。彼女がいくら仕事熱心でいい成績を収めていても、会社が十年後存在しているかどうかあやしいというのでは、将来が心許ないことに変わりはない。

私には三十代から四十代前半の未婚の友人が何人もいるが、ここ数年で三人がマンションを買った。よくそんなお金があったねえと感心する私に、まるで申し合わせたように彼女たちが言ったのはこんなことだ。
「あきらめたわけじゃないけど、結局自分はこのまま結婚しないんじゃないかって気がする。そうしたら夫もない、子どももない、仕事を生き甲斐にできるタイプでもない私には確かなものがなにもない。人生に“土台”がないことがすごく怖くなって。それならせめて家くらい持っていなくちゃって・・・」


このところ、独身の友人が将来について不安を口にするのを聞くことがとても多い。
彼女たちは「路頭に迷う」ことをものすごく恐れている。食べられなくなる、住むところがなくなるという意味ではない。精神的に、ということだ。
姉妹や友人はそれぞれの家族と生きている、親がいなくなったら自分はひとりぼっちだ、それはどういう感じなんだろう、頼りになるものがなくてもちゃんと生きていけるのだろうか・・・。
まだ漠然としているとはいうものの、誕生日を迎えるたびに足音は確実に近づいてくる、リアリティのある恐怖である。

私は原作を読んでいないが、ドラマの『負け犬の遠吠え』がつまらなかったのは、結論があまりにもありきたりだったからだ。
「結婚している、していないで人の幸せは決まらない。それは自分自身が決めるものなのだ」
そんなことは誰だってわかっている。
それでも多くの女性が「結婚すれば人生安泰」という錯覚を起こしてしまうのはなぜか。ひとりでは幸せに生きていける自信がないからだ。

幸福で充実した人生を送るには、心のよりどころとなる「なにか」が必要だ。それはなにも結婚でなくてもよいのだ。仕事でも趣味でも、「自分にはこれがある」と思えるものであればなんでも。
しかし、そういうものを持っている人がいったいどれだけいるだろう。定年まで勤められる職場ややり甲斐のある仕事、一生の趣味やライフワークをこれから見つけるのは容易ではない。
それに比べたら、「夫」を見つけられる可能性のほうがずっと高そうだ。出会いは明日空から降ってくるかもしれないのだ、期待が持てる。しかも、「家族」というのは喪失のリスクの少ない、もっとも安定感のあるよすがなのである。
そう考えると、女性が「結婚しなくちゃ幸せになれない」という呪縛から逃れられないのはまるで不思議なことではない。

「年も年だし、このあたりで手を打とうかなあ・・・」と考えている友人がいる。その話は次回