せらび
c'est la vie
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みぃ


2005年01月31日(月) 困難に際して一寸スピリチュアルになる

このところの懸案の課題は、努力に反して全く終わる目途が立たず、週明けに持ち越して唸りながら奮闘中。余りに進まなさ過ぎて、泣くにも泣けず、暫し呆気に取られる。


この日記のジャンルを特に決めていなかったのだけれど、今回から「静かな日常」というのにしてみた。これだけ日々愚痴を溢したり不満を吐き溜めて居る癖に、今更普通の振りをして何処が「静かな」のだと思われる読者もあるかも知れないが、それ以外に適当なジャンルが思い当たらなかったので、致し方無いのである。


ところで前から思っていた事なのだけれど、例の大規模地震と大津波の惨事を目にした日本の都市部湾岸高層住宅にお住まいの皆さんは、自分たちの身に起こりうる将来について一体どのように考えているのだろうかと、ふと思う。

確か日本の太平洋沿岸には、珊瑚礁群とかいうような自然の防波堤は無かったような気がするので、津波対策としては防波堤にテトラポットが精々といったところではないかと思うのだけれど、あの帰国する度に増殖している何やら薄気味の悪い灰色の高層ビルたちは、そういった自然災害に耐えられるのだろうか。もしや住民の皆さんは、日本の技術は最新だからなどといった神話を鵜呑みにして安心し切っていやしないだろうね、などと訝ってみる。

いや、もしそうなったら、高層ビルどころか、昔からある一戸建てだとか長屋だとかアパートだとか、そういう全てが飲み込まれてしまうのだろうから、もうそんな事になったらお仕舞いだろう。

そうなると、もう何処に住んでいようがどんな建物に住んでいようが、知ったこっちゃ無い。どんなに愛着のある物を幾つも持っていようが、はたまたいつも奇麗に家中整理整頓などしていようが、全く無関係である。

地震にしろ津波にしろ、きれいな物も汚いものも、大事な物もどうでも良い物も、一律に、一切合財さらっていってしまうものである。そういうところは、人生は極めて公平。



どうやら随分切羽詰っているらしく、昨夜眠りの途中ではっと目が覚めて、思わず彼是考え出してしまったけれど、結局のところ、人生とは自分が後悔するかしないかという事に尽きるのではないかと思う。

例えばワタシはこれまでの過去十数年間について、何だか随分人生の無駄をし尽くして来てしまったようだなどと考える事が多いけれど、それはそういう選択をした所以では全く無くて、それなりに出来る限りの努力をして、時には熟慮の余裕すらもないところを、兎に角精一杯出来る事をやって来た結果に過ぎないのである。

ただ後で思い起こして、または冥土への旅に発つ時に、自分なりに精一杯やって来たと思えないような事があれば、それは後悔となっていつまでもいつまでも悔やまれる訳で、そうなると浮かばれないで地縛霊にでもなるしか無い。

ワタシは輪廻転生をある程度信じているので、浮かばれない魂というのは次の世代でも継承されてカルマとなって、更に苦悩を強いられる羽目になるような気がするので、出来ればそういった精神上の諸問題というのは、その世代で克服し解決してから行った方が良いと思う。

だから、今世での諸問題については、出来るだけ自分の中で納得が行くように、それなりに出来る事を精一杯やるように取り計らうのが良いと思うのである。


それに、そうやって自分の中で納得が行かないで、後悔や恨み事や責め事などをふんだんに持っている人というのは、見ていて不幸せそうなのが、容貌を見てすぐ分かる。ワタシの所属団体のオフィスで秘書をしている男も、日頃から文句や八つ当たりが絶えないものだからここ数年ですっかり人相が変わってきてしまって、何やら気の毒ではある。

しかしそういうワタシもここ数年文句ばかりで、確かに恨めしい事も沢山あったし、そういう諸般の苦悩を背負っているような人相になってしまっていたらどうしようなどと、ふと思うにつれ空恐ろしくなる。

だから、結局のところは、それらをどう自分の中で処理するかという点が重要になってくるのだろう。他人が聞いて、それはおかしいとか人間が小さいとかいうような事を言うかも知れないけれど、自分の中で決着が付くのなら、それはそれで充分なのである。


無念な事は沢山あった。中には、例えば本来やる気があるから其処へやって来たはずの者たちが、実際には「ずる」に「ずる」を重ねて何とか関門を潜り抜け、平然と優等生の顔をしているのを目撃した。

あのモラルの低さには愕然として、お陰でワタシはこの業界に対する信仰のようなもの、拠り所にしていた心の支えのようなものをすっかり打ち崩されてしまったから、それがワタシの今のやる気の無さに大いに反映されている。

また時には、自分を本来以上に大きく見せたいと思う心の不安定な者たちが、自分と同程度かそれより弱そうな者を捕まえては、執拗に揚げ足取りを繰り返し、上からの評価をかっさらおうとするのも目撃した。

これは上に立つ者の資質にも問題があるけれど、どうやらそれなりに巧くいったようだから、そうするとそういう競争をする心の準備が出来ていなかったワタシなどは、正直そういう場に相応しくなかったのだろうと思う。ワタシはここへは来るべきでなかった。

そういう事の為に来たのでは無かったのだから、そもそも戦う意思が無いのは致し方無い。しかしそういうルールである以上、それに乗っ取ってやらなければいけないのだから、乗りたくなければそのゲームから外れなければならないだろう。

また、他の者にはあるのに自分には無いものを嘆いて、長らく過ごしても来た。これは相当厄介な事である。

今のところワタシは、さてはこれが無くてもワタシの資質があれば何とか人生を渡っていける程度のものであろうという風に理解して、死んだばあさんが恐らく何処かで、それを持たないワタシを守り引っ張り上げてくれるものと思う事にしている。

無いものを幾ら羨んでも手に入らないらしいと分かったから、無ければ無いでも用は足りるから手に入らないのだろうと思う。

または、ワタシにはそれが無くても自力で解決出来る力が備わっているから、神様だか仏様だかアラー様だか何様だかが、それをワタシにわざわざ与えなかったのだろうと思う訳である。


災害から課題の遅れから、すっかり厭世的になってしまっているけれど、そう言う程悲観して居る訳ではなくて、一応はこれをどうやって乗り切ろうかという事を考えているのである。煩わしい諸事を払い除けながら、さてどうしたものかと暫し悩む。


2005年01月29日(土) 星占いが諦めるなきっと上手く行くからと言ふけれど、第六感が駄目そうな気がすると囁く

ここ数日、とっくに期限の過ぎた課題を終わらせるべく、早朝から起きてあくせく作業に取り掛かっているのだけれど、こんなに必死にやっているというのに、完成に近づいているような気配すら窺えない。これをこの週末中に仕上げてしまわないとワタシの首が危ないので、既に意欲も関心も薄れて久しいお題を恨めしく思いながらも、何とか気を取り直して頑張っているところなのだけれど、それにしても一向に先へ進まないところをみると、ワタシはとことんこの課題が嫌いらしい。

とはいえ、急いでいるのである。相当不味い段階まで既に来てしまっているのだから、ここはひとつ真剣に、事を早急に進めねばならないのである。

だのにまたワタシときたら、書斎に使っている部屋がどうしても昼間太陽光が入り難くてどんどん目が悪くなっているような気がして、ついうっかり寝室と書斎の配置転換を始めてしまった。試験前だというのに部屋の掃除を始めてしまう学生と、同様の仕業である。

ワタシの住処には一寸した問題があって、こうして寝室と書斎を取替えっこするのが、半年に一遍くらいの習いになっている。

これはひょっとすると、一頃の度重なる引越しが癖になってしまった所以かとふと思う。

寝室に使っていた方の部屋は東南に向いていて、朝っぱらから午後まで燦々と日光が降り注ぐので、大変気持ちが良いし、細かい字を沢山読んだりするような作業をするのには向いている場所である。反対に書斎にしていた方の部屋は北から北東に位置していて、申し訳程度のこじんまりした窓がひとつあるきりで、非常に暗い。必然的に、いつも寒々としていて、昼間でも電気をつけないと目に悪いような部屋である。

これらの条件だけ見ると、明るい部屋を書斎にして、暗い部屋を寝室兼居間にするのが妥当なところだろう。しかし構造上、東南の部屋が出入り口から一番遠くにあるので、どうしても此処を寝室にするのが真っ当という気がする。

更に困っているのは、どちらの部屋に於いても騒音問題があるということである。

東南の部屋はこの建物の裏庭に面しているので、階下に住む大家さんが昼近くに帰宅して、翌日の何やらの商売の為の仕込みをするのに、作業しがてらラジオを大音響で聞いているのが間近に聞こえてくる。

これはワタシには理解出来ない言語の放送なので、喧しい雑音に聞こえてしまうという嫌いがある。

そして北東の部屋は、どうやら隣の部屋の住民の寝室または娯楽部屋に接しているとみえ、朝と無く夜と無く人の話し声が絶えず聞こえてくるのである。

一体どういうご商売をされている隣人なのか疑問だが、この人または人々は昼間でも家に居る事が多いらしく、テレビまたは複数の人の話し声が引っ切り無しに聞こえてくる。どうやら相当壁が薄いようで、隣の物音は殆ど筒抜けである。

若い未婚女性としては何やら想像力を掻き立てられるけれども、しかし何しろ落ち着かない。

どちらを取るか、という事で、これまでも家具の配置換えを何度かやって来たのだが、ここへ来てやはり物音より視力温存と作業の効率を優先すべきだろうという事で、この忙しい最中にまた総入れ替えをやってしまったのである。

彼方此方に擦り傷が出来たし、洗いすぎて手はがさがさだけれど、ついでに食堂にあったテーブルと作業机を入れ替えたので、広々と使えるようになって気分が良い。



それにしても、腰が痛い…


やはり本の移動が一番応えたものと思われる。

年を取った所為か、翌朝まで待たずとも、筋肉痛がひしひしと感じられるのは、無念である。

序でに当分放ったらかしで埃まみれだった各部屋を掃除しながらやったので、鼻をかみかみ、大変な思いでやっとこさ済ますと、半日も掛かっていた。


もう疲労困憊。

いやしかし、ここ数日、今やってしまうべきかこの課題を仕上げてからやるべきかとずっと思い悩んでいて、その末の決断なのだから、ワタシはこれでもうすっかり満足して、何も迷う事無く仕事に邁進出来るというものである。


しかし本日はもう日が暮れてしまった…


とりあえず今日は早めに就寝して、明朝から気を取り直して作業再開ということにする。


2005年01月25日(火) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、〆

こうして自分の身の回りの持ち物について彼是と書いてきて、ふと気付いたのだが、そういえばワタシの娯楽の品といえば、九インチのテレビデオにノートブックコンピューター、それから小さなトランジスタラジオくらいなものである。

以前は、CDとテープやラジオが聞ける中型の機械(所謂「ラジカセ」)を持っていたのだが、どの道安っぽい音には違いないし、それならばラップトップに付いているCDプレイヤーで充分だろうと思うようになったので、売っ払ってしまったのだ。

これでもその昔は、一応長いこと音楽教育も受けたし、課外活動でも楽器に触れる生活をしていたのだから、音には五月蠅い筈である。離れてから何年も経ってしまった今でも、耳だけは衰えていないだろうという事で、「違いが分かる女」などと自負している(これでコーヒーの宣伝を思い浮かべた読者の皆さんは、こんなワタシと同世代)。

しかし恐らく、バックパックで長期の旅に出掛けるようになって以来だろう。持ち物の軽量化と平行して、音にも拘らなくなった。また、折角遠くまで出掛けて来たのだから、自分のいつもの世界のだけでなく違った世界の音を、自分の耳で聞きたい、とも思うようになった。


(…とここまで書きながら、そういえばワタシったら、人生の半分は音楽の手習いを受けていたのだったと気付く。何でもそうだけれど、ひとたび始めたものを途中で止めては無駄になってしまうのだから、事を始める時はよくよく考えないといけないと、今更ながら思う。)

(そして今やっている事を途中で投げたら、またしても大きな無駄をひとつこしらえる事になるのだなと、しみじみ思う。)


まあそういう訳だから、ワタシは普段街を歩きながら音楽を聴く、という事が無い。それは実際危険でもあるし、また街の音を聞くのや知らない人と声を掛け合ったりするのが楽しみでもあるからである。

また余程の事が無い限り、部屋で音楽を掛けっ放し、というような事も無い。仕事が捗らないで苛々するからとか、いいワインを買って来たからとか、いいオトコを連れ込んだからとか、そういう何かしらの事情があれば別である。

尤も、朝はラジオを掛けて起きる事になっているので、確かに音楽も聴くのだけれど、しかしこれは起きたような起きないような、何とも中途半端な中で流れている音楽なので、何を聞いたか覚えていない事が多い。こんな事では、折角の音楽に対して、失礼というものではある。

しかしこれはひょっとすると、ここ数年のワタシの生活が余りに荒んでいた所為もあるかと思う。時々野外のクラシックや友人のジャズギグを聞きに行っていた頃もあったのに、何時の間にかワタシの暮らしはすっかり味気ない物になってしまって、そんな愉しみからも遠のいてしまったようである。



ところで此処まで書いてきて、ワタシは何故こんなに気合を入れてこんな事を書き連ねているのだろう、とふと思う。

ワタシが所有物を整理して片付けたり減らしたりしようとする時は、特に引越し前という時を除いて、人生に疲れていたり、もうこんな生活から足を洗いたいとかしがらみから解き放たれたいとかいうように、ある意味心理的に切羽詰っている事が多い。

確かにここ数日のワタシは、旅に出る事や身の回りの物を整理する事ばかり考えて居るけれど、現実にはそれどころで無くて、さっさと片付けなければならない仕事に追われている身である。こんな逃避行為に現を抜かしている場合では無いというのに、この有様である。こんな生活は何時まで続くのだろう。


しかしこうして見てくるとつくづく思うのだけれど、何でも物事に執着すると、途端にしがらみが増えていくような気がする。ワタシの場合は、切羽詰った時に、自分の過去の不安や執着が形を変えた「物たち」と決別したくなるのだろう。

つまり、それらの大元の問題である不安や執着が、まさに手の届く目の前に、歴然と在る。それを真っ向から見せ付けられて、日々それらを眺めているうちに、過去の自分の嫌なところ、情けないところなど、見るに堪えなくなるのだろう。

しがらみがまだ心地良い頃、まだそれを必要としている頃は、自分の身が引き離されるような感覚があるから、それを処分しようなどとは夢にも思わない。しかしひとたびそれが心理的にお役御免となると、つまりそのしがらみ事項に執着心が無くなると、途端に只のゴミまたは他愛も無い「抜け殻」のように見えてくるのである。


「シンプルライフ」は、その殆どが心理的成長と緊密に関わりあっていると思われる。こうして己の心の状態を振り返って見てくると、他人があれやこれやと物を溜め込んでいるのを見ても、それがその人の心の状態、不安を示す目安であるという事が良く分かる。

つまり、何処其処というブランドやメーカーの何々という品を持つか持たないかだの、どの品を幾つ持つのが良いだの、そういった表面的な問題では無く、何故それらの品が自分にとって必要なのか、何故それらをその数なりそのブランドからなり持っていたいのか、という内面の分析をしていくうち、それはそういった数々の物品による「自己武装行為」であるに過ぎないという認識に至る、という話である。

だから例えば、真面目に修行に励んでいる坊さんの所有物が途轍もなく少ないのを見ると、それだけ煩悩だとか物による自己武装だとかの必要が無い、人生に熟練し心の安定した人物という事が伺えるのである。



…尤も、今の時代には随分「生臭坊主」が増えていると見え、そんなのに彼是と説教を喰らったりした日には、不愉快極まりないものである。

ワタシはこの街で同世代のそういう生臭坊主に二人ばかし出会ったけれど、本当にお前程度の人間から説教を喰らう筋合いは無いのだよと、余程言ってやろうかと思った程である。


また話が脇道へ逸れそうなので、今日のところは是にて〆。


2005年01月24日(月) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その七

大雪の所為か回線が繋がらなかったので、週末に更新する予定がずれ込んだ。


昨日は朝四時に起きて、コーヒーを飲みながら作業をした。六時半を過ぎてそろそろ腹ごしらえを、と前日買っておいたカレーパンをひとつ食べる。食べ終わって、またコーヒーを入れに台所に立った序でにブラインドを開けたら、東の空が真っ赤っかに染まっていた。

暫し見入る。

この週末は吹雪との事なので、朝焼けが天候の崩れる予兆という説は、当たりである。それにしても、早起きは三文の徳というけれど、朝からひとつ仕事を片付け、目に沁みるような朝焼けを拝んで、ワタシは何だか気分が良い。吹雪の中出掛ける用事は無いし、今週末はずっと家で作業に勤しむ予定。ここでもう一つ、懸案の大仕事を終わらせないと、ワタシの人生上非常に不味い事になるのは必至なので、やらないわけにはいかない。自らに鞭を打ってでも、やらねばならない。


ところでワタシの住んでいる街はこの所とんと寒くなってしまったので、この話は誠に気が引けるのだけれども、しかしこの話だけしないで置く訳に行かないので、心を鬼にしてやることにする。

所有物の中の不用品と言えば、衣類はその代表格ではないだろうか。ワタシもご多分に漏れず、衣類はどっさり持っていて、時折間引くようにしているのだけれども、それでも引越しの際などには随分呆れる事がある。

初めてこの国にやって来た頃は、丁度今頃の極寒期であった。その際、スーツケースに入るだけの冬物をみっちりと詰めて来たのだけれど、しかし限りがあり、嵩張る毛製品などはやはり数が入らなかった。それで別途冬物と夏物を、それぞれ一箱ずつ郵送する事にした。そこで、箱が届くまでの間に、衣類を少し買い足す必要があったのである。

当時は大学内の寮に住み始めたのだけれど、この国の学生というのは何しろ忙しいので、そう頻繁に洗濯などしていられない。特に大きな試験が近くなったりすると、平気で半月とか一ヶ月の間洗濯物を溜める事になるので、そういう事態に備えて、大概は靴下や下着類、タオルなどの予備を数多く持っている。肌に直接当たる物は幾らあっても困らないという訳である。

それでワタシもそういう生活に習って、肌着だけは大量に持つようになった。

洗濯事情という事で言えば、この国の多くの地域では、外に洗濯物を干すという習慣が無い。それは干す場所が無いという住宅事情が大きいだろうし、場所によっては治安の問題もあろうし、また実質日照時間が少なくて洗濯物が乾かないという問題もあるだろう。

ちなみに今住んでいる地区では、偶々外に洗濯物を干す習慣のある南国からの移民が多い所為もあって、裏庭にはたはたと洗濯物が翻っている光景を良く目にする。例えばうちの大家さんなどもそうだが、そしてちなみに今日は雪が降っているのだけれどそれでもまだ干しっぱなしになっているので一寸心配だが、しかしこういった光景は、国全体として見ると甚だ例外的である。

それで殆どの人が、大きな容量の洗濯機で一気に洗って、乾燥機で一気に乾かす、という方法で洗濯を済ませている。これは庭付き一戸建てでも同様である。ワタシの住む街などでは洗濯機の設置が制限されているアパートが多いので、そういう場合はアパートの地下や近所にあるコインランドリーに行って、一度にニ三台の大型機械を使い回して同時進行でやる事になる。そうすると、何週間溜めようとも、別段不便は無い訳である。

それを想定して衣類も作られているから、それなりに随分頑丈に出来ているのだけれど、それでも乾燥機を数回掛けるうちに、Tシャツなどの薄いものは所々に穴が開いてきてしまう。尤も少々の穴では誰も気にしないので、ワタシも平気で着てしまうのだけれど、流石に穴がでかくなってくると、表に出して着るのは憚られる。

必然的にTシャツやら靴下やらパンティやらの消費の激しいものに関しては、数を幾つか着まわして、痛んできたらまた幾つかずつ買い換えて、という様なやり方になる。衣類の消耗の度合いは、日本と比べて幾分激しいと言えよう。


前置きが長くなったけれど、兎に角そういう訳で、ワタシの手持ちの衣類の数は、最初の数年間で思いの他増えてしまったのである。

この街に移って来てから知り合った二ホンジンは、一様にワタシの衣類の多さに驚いていた。それでも減らした方なのだけれど、こちらの学生生活を経験していない人には、どれだけ忙しいのか想像が付かないようである。

そうこうしているうち、漸くワタシの生活も少し落ち着いて、洗濯物の世話くらいは何とか小まめにこなせる様になって来たので、これなら衣類の数をもう少し減らしてもいいかと思うようになったのである。

ここ数年は、風呂の序でに下着も洗ってしまうようにしているから、実質的には数枚の予備があれば足りる。これでは、まるでバックパックで旅行をしている時の様なもので、手洗いが特に苦にならないのはその頃取った杵柄というものか、と苦笑してみたりもする。

そこで、細かい算段だけれども、例えばパンティは念の為一週間分を残すとしても、ブラジャーは必ずしも同数無くても良いだろうとか、靴下も一週間分が目安だが、夏と冬で厚さが違ってくるから、それぞれに一週間分程度はあった方が良いだろうか、等という事を考えている。

おズボンもまた、ジーンズなどのオールシーズン用と冬用の厚手のものが、それぞれニ三本ずつあれば良いだろうとか、スカート類は冬場は滅多に穿かないから、夏用のワンピースやサマードレス類が二三枚もあれば充分だろう、とか、またワタシは布も巻いて着てしまうから、まともなスカートやドレスは大して要らないかしら、などと彼是考えを廻らせてみる。

セーターやスウェットシャツなどは、ここ数年出来るだけ嵩張る厚手の物を避けるようにしているのだが、それでもまだ数がある。以前の日記でも述べた様に、ワタシの場合は寒さに対する幼児期以来のトラウマが抜けないようなので、これは泣き所でもある。これまでに述べたようなこの国の学生事情や寒冷地域事情等と相まって、これは中々難しいところである。

そういえば、以前住んでいた街はこの国としては極平均的な暖房事情で、屋内はどこも集中暖房システムに拠り冬でも暑い位に保たれていたのだが、今の街ではどこも室温が幾分低く保たれているような気がする。訴訟の件の際述べたような、大家の勝手で暖房を入れて貰えなかったアパートというのだけでなく、ワタシがこれまで住んだ所は、平均してどこも寒めだったように思う。

これはワタシの家運が悪かった事に加えて、この街のガス料金が他所より高い所為ではないかと推測する。

冬でも屋内が暖かくて、半袖でも過ごせてしまうような土地なら、その上に着る中間着はまあ何でも良くて、外にしっかりした防寒用コートを着れば充分である。しかし屋内も薄いシャツ一枚では寒いという状況だと、例えば綿や絹などの肌着にしっかりした毛やフリースなどの中間着が必須となり、外出時には更に厚手のセーターやダウンのコートなどを着込む事になるので、着替えにこれを幾通りか用意しようとすると、必然的に衣類が増えてしまうという訳である。

こういう事は、寒い地域に住んでいる以上はある程度止むを得ないのだが、例えば肌着を替えれば中間着は着たきり雀でもまあ良しとする、というような割り切りで全体の数を減らしていくしかないだろうと思う。それに厚い毛のセーターなどは、数が多いとその分洗うのも手間なので、やはり少数精鋭にすべきだろうと思う。

ここ近年は、心掛けてこれらの衣類を減らすようにしている。セーター類のうち、特に忌まわしい黒のものは、近頃ワタシの好みが変わってきたという事情もあって、快くお役御免にする事にした。その他、買った癖に気に入らないで結局着なくなってしまったおズボンやジャケットなどの箪笥の肥し類も、いずれ寄付へ持って行く袋へ入れてある。

お陰でクローゼットが空いてきて、目が行き届くようになったのは喜ばしいのだが、しかし今後は「気の迷い」で服を買うというような愚挙は慎まなければならないと、自分を戒めている。



ところでシンプルライフ業界の人々がよく、「旅するように暮らす」というコンセプトを提案しているけれど、そしてワタシもそれは良い考えだと半分くらいは思っているのだけれど、しかし実際問題として、少ない衣類や物を自力で運んで旅をした経験が無い人には、それをやるのは無理があるのではないかと思う。

尤も全ての人々にバックパッキングを勧めている訳ではないのだけれど、スーツケースという力の要らない入れ物では自分に痛みがないので、どれだけ不要な物を持って出掛けて来たかという事実が見え難いのである。

そうすると、例えば一週間の旅行の為に一週間分の衣類の組み合わせをそっくり持って行くとか、念の為と言って不必要なガラクタ類まで彼是と持って出掛けるというような事が出来てしまうので、自ずと荷物が増える。

恐らくそういう人々は、そもそもシンプルライフなど心掛けていないのだろうから、これは全く無意味な話であろうか。

しかしそうではなくて、荷物や人生に対する執着を一掃してシンプルに暮らしたいと思うワタシのような考えの持ち主なのだとしたら、例えば一週間の旅行の為にニ三組の上下をどうにか組み合わせてあらゆる状況に間に合わせる、というような技術が無いと、今家にある多くのガラクタの中から如何にして有意義に使いまわせる物だけを残すか、というような算段は出来ないのではないだろうかという話である。

同様に引越しも、持ち物を見直す良い機会である。何度も引越しを繰り返して、荷物が多いというのは移動の際如何に手間暇や金が掛かる事か、というのを実際に味わうと、要らぬ物は出来るだけ持たないに限ると思えるようになる。

これが例えば、企業などにお勤めで、引越しの際にはいつも会社持ちであるとか、箱詰めから荷解きから全てを業者にお任せというような事情だと、スーツケースの旅行と同様に痛みが感じられ難いので、効果は無い。


それにしても、旅行に出る度他人に彼是と土産物を買って帰る習慣というのは、そろそろ止めに出来ないものだろうか。

人を訪ねる時の手土産の習慣というのは、余所の国でも、例えばパーティーなどに呼ばれて酒を持って行くだとかいうように、無い事もないけれど、しかし旅行に出掛けて行くというのはそれ自体出費の大きい事なので、そこへ更に土産を買って来いというのは、旅人に対して酷な話ではないか。大して親しい間柄でも無い人にまで、大した物でもない物を買って行ってやるというのは、実際何処まで意義があるのか、疑問である。

しかもその為のスペースを空けて置かねばならないという頭があるから、旅人の中には、行きはスーツケースの半分しか荷物を詰めず、帰りはパンパンに膨らませてというのが出てくるのだが、この義務化した習慣が無ければ、自分が持ち帰りたい物だけ買って帰れば済む訳で、そうすると人によっては出掛ける時の入れ物は小さくても足りるというのが出てくる訳である。

まあ外国で珍しい物を沢山見つけたからと、彼是買って帰りたくなるのを止せとは言わないけれども、しかし実際現代の日本に於いて、発見出来ない世界中の逸品名品というのが果たしてあるだろうか。ワタシの友人らを見ても、偶の帰国の際に特別土産物の指定が無いところを見ると、日本で手に入らない物など殆ど無いからではないかと思われる。

または、ワタシの友人らは偶々要るものは日本で間に合っていて、特に不足を感じていないという事なのだろう。自分の身の程に合わせて過不足無く生活する、というのは、重要な事である。


兎も角ワタシの当面の目標としては、嫁入りは別として、次に他所へ引っ越す際には、思い切って今の寝具を放棄して布団生活にし、服の数も半減させ、本や書類も僅かにして、すっかり身軽になろうと思う。長年ワタシを脅かし続けたしがらみの山、これらを一掃出来れば、ワタシの人生もきっと新たに始められるに違いない。


という事で、次回はいよいよ、〆。


2005年01月21日(金) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その六

朝起きたら物凄く乾燥していて、大急ぎで寝床の脇に用意しておいたグラスの水を飲み干す。それから三四杯続けて飲むのだけれど、まだ水分が足りない気がして、顔を洗いながら水をぴたぴたとやって、スクワランオイルを付けてみる。これ程の乾燥状態は珍しい。

ラジオでも今朝の街はすっかり凍えていると言うので、髪を切りに行く計画について暫し迷う。しかしこの週末は吹雪くらしいから、だったら今日行ってしまうに限るかと思い直す。ちなみに今日の気温は最低マイナス12度、最高マイナス7度、体感気温はマイナス21度との事。大気中の水分は30から40パーセントと言うから、成る程、乾燥している訳だと納得。



さて、もう此処まで来たら、序でだから、ワタシの住まいの様子に付いてすっかり述べてしまおうと思う。細かい話になって恐縮だが、これはワタシの覚書に近い状態になってきているので、読者の皆様にはその旨ご了承頂く事にして、話を進める。


元来書斎などというものを持つような身分ではないのだけれど、ワタシの現在の住処には幸運な事に部屋数に余裕があるので、台所と寝室兼居間とは別に、書斎を設けている。大した広さではないのだけれど、此処には商売道具である本や書類の数々で一杯の本棚や箱等が並べてある。

これは、 以前にも少し述べたけれど、ワタシという人間が不釣り合いな業界に入ってしまって以来、ただ我武者羅に追い付かなくては、早く一人前にならなくては、と懸命になった結果、その職業的研究的プライドの為に彼是と取り揃える羽目になった品の数々でもある。

これは商売柄必要な範囲の量には違いないけれども、とは言えワタシ個人のこの業界に対する心情的な旬が過ぎたというか熱が冷めてしまったというか、そういう今となっては、残念ながら心をときめかせる類の物では無い。

つまり、これも「死蔵品」のうちに含めても良いのではないかと思うのである。これらは、現在のワタシの所有物の中で最も目障りな物たちである事には違いない。これは、単に見かけの嵩だけの問題ではなく、こうした心理的しがらみという点も考慮すると、非常に厄介で心の痛い代物である。


こういう事態に至ったのは誠に残念ではあるが、しかしワタシは今のところ、出来るだけ早期にこの業界から足を洗いたいと望んでいる。そしてひとたびそれが実現した暁には、まずこの書棚に幾重にも積み上げられた大量の本を、速やかに処分する所存である。

以前試みに、これらの中から一生のうち何度でも読み返したいと思うような、ワタシの人生に本当に必要な本、というのを取り出して箱に詰めてみた事がある。するとそれらはほんの十分の一以下、例のビール箱にして二箱くらいに見事に収まってしまったから、何だ結局そんなものだったのかと、我ながら一寸呆れてしまった。

そして面白い事に、自分で選んだ道だった筈なのに、この二箱の中には、業界関連のどの本も含まれていないのである。何という皮肉。そしてそれにも関わらずワタシが費やしてきた月日と金額を思うにつれ、ワタシは呆然とする。

これらの蔵書以外に、現在六箱程にぴちぴちと詰まった様々な資料のコピー類も、殆どが不要になるだろう。本当の重要書類というのは、税金関係や領収書の類のものに限られ、恐らく箱一つか二つ程度に収まるだろうと想像している。

これらの死蔵品・不用品を一切合財処分する事が出来たら、どれだけ気が晴れる事だろう。ワタシはその日を待ち望んで、その日の為に生活を進めていると言っても良いだろう。普通はもっと建設的な目標を立てるものだろうけれど、こういう風にこれとこれを終えさえすればもうこれらをすっかり処分出来るという開放感の為に事に精進するというのも、また一案である。

早くこの状況から抜け出し、本棚毎そっくり処分する心地良さを味わう日が来る事を、ワタシは心の底から祈って止まない。


次回は、この所あんまり寒いので気が引けるのだけれども、衣類についてをまとめる。


2005年01月20日(木) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その五

先日来の雪が少し解けてきたけれど、今日はどうやら一日氷点下のままで上下するらしい。もう一週間くらいすると漸く氷点上に上がるらしい、という事を週間予報で見る。ワタシときたら、殆ど引き篭もり生活中。


そういうワケで昨日、思い余って台所用品を間引く事にしたら、寄付へ出す袋を新たに追加する次第と相成る。我ながら情けない事である。

しかしこうして台所が片付いたところで、もう怖い物は無い。当座入用な物以外に、今のところ死蔵品と呼べるような物は、ワタシの住まいにはもう一切無いのである。無いに違いない。

そもそもワタシの家には、家具と呼ぶべき物が少ない。

例えば寝室には、寝具とコーヒーテーブル、それに小さなテレビとビデオがくっ付いた物(テレビデオ)くらいしか無い。

この寝具は「フトンベッド」とこの辺りでは呼ばれていて、すのこ状の木枠の上にマットレスが乗っかった物である。これは折りたたんでソファとしても使えるようになっている。バラして運べるので、引越屋には喜ばれる。

通常はこれがワタシの夜の御供であり、身体にすっかりと馴染んでまるで腐れ縁のオトコのように肌に心地良いのだけれど、しかし馴染みすぎてくたくたのマットレスが少々腰に悪い。時々ひっくり返したり向きを変えたりして、ローテイションというのをやるのだけれど、それもそろそろ限界かという気がする。

本来ベッドマットレスというものは、定期的に買い換えないと身体に悪い代物である。これは安い買い物ではないので少々難儀だけれど、腰は大事にしないと諸々都合が悪いから、背に腹は変えられない。

だから次に引越しをする際には、是非とも新しいマットレスに買い換えようという所存である。これが嫁入りなら、大手を振って新品を購入出来るであろうと期待している。もしそう都合良く事が運ばなかった暁には、薄くて軽いやつで、まるで日本の敷布団のように上げ下ろしが楽に出来るようだと、次からの引越しが楽で良いと思う。

ところで、このベッドの隣には、段ボール箱をひっくり返してサイドテーブルにしたものを置いている。単に丁度良い高さのサイドテーブルが見つからなかったからというだけの代価策であるが、意外にこれで気に入ってしまったと見えて、未だにましなのを見つけられないでいるのだから、恐らく嫁に行くまでこれで通してしまうのだろう。

その代わり、コーヒーテーブルは値段の割りにしっかりとした作りの、掘り出し物である。これはとある有名家具店の前を偶々通りかかったら、まさにセール中だったのを見つけてすぐさま購入した、折り畳み式の物である。

このコーヒーテーブルに、これまた頑丈な折り畳み椅子を載せると、丁度天井の電球交換に都合の良い高さになり、一石二鳥である。本来そういう使い方をするものでは無いのかも知れないが、しかしワタシはこういう一つで二度美味しい、といった類の物が大変好きなので、テーブルには可哀想だが大いに活用させて貰っている。

第一、一つで一つの役目しか負えない物では詰まらないし、多機能な物なら、数少ない持ち物で多くの用事が足りるのだから、全体としての持ち物の数は少なくて済む。元来がこういう性質だから、物に縛られないように常々心掛けておかねばならない。ワタシという人間は、そう人様の物欲を笑ってはいられないのである。

しかし、ワタシの持っている家具というのは、その殆ど全てが折り畳みが出来たり、分解して持ち運べたりするのだから、その辺りが幾多の引越しを潜り抜けて来たワタシならではの、一つの心がけであると言っても良いだろう。

ちなみにダンボール箱も多目的に使えるので、好きな物のひとつである。

要らない箱は、こう引越しが多いと、つい捨てずに取って置くような習慣になる。大概は潰して重ねて、サイズを揃えて、クローゼットの奥や棚の後ろ等に隠して立てかけて置いたりする。

そして次に引越しをする時には、そのまま前回入れた物を同じ箱に入れるのである。だから引越し屋に電話で依頼する時も、何が何箱あるかというような算段は、すらすらと出てくるので、都合が良い。

しかし他にも、例えば本棚が一杯で本が入りきらなくなった折には、ダンボールのビール箱、これは日本的に言うところの蜜柑箱サイズといったところだが、それを二箱重ねて補強して立てると、丁度良い簡易本棚が出来上がる。また、作り付けの棚が備えてあったアパートに住んだ時には、一段にビール箱が丁度二つずつ入るサイズだったから、そこへ衣類を入れて引き出し代わりに使ったりも出来た。

その際、下着だとか一寸隠しておきたい物を入れるのに、小さめの細長い箱が丁度三つ、大きめの縦長の箱にまるで誂えたように収まったので、それに紐で取っ手を付けて小引き出しとして利用した。これは偶然本棚の下の隙間に丁度良いサイズでもあったので、別のアパートで収納スペースに限りがあった時には、この箱を本棚の下へ持ってきて、道具類を仕舞ったりするのに重宝した。

折り畳み・分解が可能という事と、使い回す技と、それから臨機応変というのは、非常に肝心である。これは狭い日本家屋での遣り繰りに慣れた、ニホンジンならではの性質だろうかと、ふと思う。

しかし余所の国でも、老人の居る家を訪ねたりすると、特に経済的に不自由していなくとも、意外と簡素な調度品で質素な暮らし振りをしている人も居る事に気付く。

尤も、ワタシの住む国では合理性を良しとしていて、また何でも大きいのを沢山持つのを良しとする傾向があるので、現代社会ではその限りでないのが残念である。しかし物の無い時代を遣り繰りしてきた老人らの暮らし振りは、何とも慎ましいものがある。


ワタシは日本の古いもの、例えば和室にちゃぶ台を置いて夜にはそれを片付けては布団を引っ張り出してきて寝る、といったような様式や、手拭やら風呂敷やら柳行李やらの機能的エコ的な道具類等が、元来好きである。しかしこれは決して独身女に有りがちな和趣味とか、外国暮らしのホームシックとかいうようなものではなくて、寧ろ古くから伝わる良いものが好きという事ではないかと思っている。

だから、例えばフッ素加工の施されたくっ付かないフライパンなどではなく、鉄の重たいフライパンやキャセロールの方を好むし、それを使い込んだ木のスプーンやヘラで掻き回すのが好きである。近代的な設備を備えたキッチンよりは、田舎に行くと良く見かける、ストーブの上にやかんや鍋を乗っけながらパンやケーキも焼けて、また部屋も温められるというような、古めかしいながらも機能的な薪ストーブが家にあったら良いのにと思う(ワタシの街では、防災上の理由で煙突が埋められているところが多い)。これが日本なら、七輪や火鉢を置いて、餅やするめを焼くという風になるのだろう。

とは言え、こうして古い物の良さを改めて尊ぶ事が出来るのも、目先の新しさに飛びついて彼是と無駄遣いをした苦い経験があってのものだろうと思う。人は恐らく、そういう若気の至りというような経験があってこそ、物の本質が漸く見極められるようになるのだろうから、ワタシは自分の致した狼藉の数々については、まあ多めに見てやろうと思う。少なくとも、自力で運べない物はこの家の中に置いていないのだから、女の一人暮らしでのせめてもの自律という事を考えれば、良しとすべきであろう。そうしよう。

つづく。


2005年01月19日(水) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その四

うちの近所ではここ数日酷い寒さが続いていて、昨日の気温はマイナス20度に届いたそうである。風の影響を含めた体感気温では、マイナス30度を超えたとの事である。歯医者の予約も何故か潰れたし、当分食料の在庫にも余裕があるしで、またしても出掛けずにうちで作業中。非常に乾燥していて、お湯を沸かしたり、気休めに家中スプレーで水を撒いてみたりするが、日頃は何とも無いのになんとフケが出るようになってしまって、えらい事である。


ところで今日はキッチン以外のワタシの持ち物について書く予定だったのだが、その前に、この話題では自己反省も込めて自分の生活振りを見直しているのだから、ここは自分に厳しく、はっきりとバラしてしまおうではないか。

という事で、キッチンの様子をもう少しよく眺めてみる。

確かに、先日も言ったように、ワタシのキッチンのカウンター上には物が無いから、ワタシの持ち物は人並みかそれ以下であろうという自負があったりする。しかし仕舞ってある鍋釜や道具類の中には、実は最低限必要な物以外にも、そういえば買って以来数える程しか使っていないというような物も幾つか含まれる事を、ワタシは知っている。

そう、それは賊に「死蔵品」という。

以前同居人がいた頃には、全ての道具類を自分で揃えずとも、同居人の持ち物をそのまま使わせて貰ったりしたので、その点ではワタシ個人の持ち物は少なくて済んだ。だから当分の間は、その時その時で同居人が持っていないけれどもワタシが必要な物、というのを中心に揃えていれば良かったのである。

そのうち一人暮らしをするようになってから、徐々に入用な物を買い足して来たのだが、その中には実際買ったは良いが使い勝手が悪かったり、掃除がし難かったり、見てくれや材質等が気に入ったのに上手く使いこなせなかったりして、殆ど仕舞い込んだままになっている物が、幾つかある。

今思いつく限りで挙げれば、例えば「パスタ鍋」というのがある。これは網目の付いた内鍋を外鍋に入れて使うようになっていて、麺を茹でたらその内鍋を引き上げれば、湯が簡単に切れるという事で、便利な代物である。容量は八クウォートというから、四五人前のスパゲティ等を茹でるのには充分である。

実は日本で暫く一人暮らしをしていた頃にも、これを持っていた。その頃からワタシの食生活の中で麺類の占める割合は多かったから、これを重宝していた。だから、こちらでいよいよ一人暮らしとなった折には、恐らく習慣からこれを選んだのだろうと思う。

しかし実際は、日々生活に追われ、とはいえ麺は始終食べては居るのだけれども、何しろ鍋が二つ重なっているとなると、当然湯が沸くのに時間が掛かり、忙しい時には尚更苛々するのである。それに大人数の食事を作る機会も少ない一人身のワタシとしては、もっと小さいサイズの片手鍋で充分用が足りるのである。

だから気が付けば、揃いで購入した野外仕様の片手鍋ニ個セットで殆どの仕度を済ませている。例え客がニ三人来ても、これに鉄のフライパンを駆使して、どうにか都合を付けている。

他に要らぬ物といえば、木製のお玉がある。

それまでプラスチック製品、というより更に忌まわしいフッ素加工の物で済ませていたのだが、熱で一寸端っこを溶かしてしまったという事情もあり、それを機に身体と環境に優しそうな木製の洒落たやつを購入したのである。

これは中々格好の良い代物で、白木の清楚な感じがまた宜しく、例のパスタ用の大鍋の淵にちょいと引っ掛けて使うに丁度良い鉤も付いている。

しかしそもそもワタシの普段の食事で「スープレードル」を必要とするような物が出てくる事は、実際年にそう何度も無いという事に気付く。

一度大鍋でカレーを煮た時に使ったら、白木がみるみるうちに黄色く変色して、がっかりさせられた。

考えてみたら、大概は大きめのスプーンで調理をして、それをじゃっとボウルに空けて、さあ喰うぞというような勢いでもって食事をしているのである。パスタだって、フォーク一本でソースから麺から調理しているのだから、実際ワタシという人間にお玉だのトングだのといった豪勢な調理器具は果たして入用なのだろうか、という疑問も湧いてくる。誠に味気無い、独身所帯である。

その癖、実はもう一つ全然洒落ていないお玉も持っていて、実際それの方が諸々の料理に対応していて、使い勝手が良いのである。ワタシもきっと洒落た物が欲しいお年頃だったのでしょう、と暫し反省。


そういえば、何年も使い込んだまな板の他に、プラスチックのぺらぺらのまな板も持っている。これは切った後くるっと丸めてさっと注ぎ入れる事が出来て、それなりに便利ではある。しかしそれを置く台が平らでないと切り難いときていて、しかも場所を喰うので、狭いところでは使い難い。結局数回使って、以来仕舞い込んでいるのである。

あとは、人から譲り受けた大皿が幾つか、殆ど出番も無く鎮座している。これはいつかは使うかも知れないからと一応取っておいているけれど、しかし「いつか」というのは意外と訪れないものである。それに、自分の好みでない物を日常的に使うという機会も、余程の事情が無い限り起こり得ない。




…ここで暫し中断して、不用品を寄付へ出す袋詰め作業をする事にする。

つづきはまた。


2005年01月16日(日) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その三

そう人の事を散々茶化しておいて一体自分はどうなのだという声が聞こえてきそうなので、自分の事も少し述べるとする。

ワタシも人に言うほど掃除をまめにしている訳ではないのだけれど、と言うか家事の中では何しろ掃除が大嫌いなのだけれど、その分と言っていいかどうか、表に出ている物の量が少ないのではないかと思う。

幸い現在の住処では、家賃の割りに収納スペースに余裕があるので、直に使わない物はすっきり仕舞って置ける状況である。いつも使うような物で仕舞い込んでは却って都合が悪い物については、已む無く放免してあるが、それでも控えるようにしている。そうでもしないと、今の住処は一人住まいにしては広々しているものだから、気を付けないとつい要らぬ物を増やしてしまいそうになるのである。


ワタシは、どちらかと言うと、人生を一切合財背負って国を出て来てしまったので、もう帰る所は無いのだと、ここで腰を落ち着けて暮らすのだと自分に言い聞かせ、家財道具と言う程でもないけれどもまあ幾つかの家具や道具などを既に揃えてしまった。何年も暮らすうち、入り用なものは仮にあてがうより、やはりそれなりに耐久性のあるものを選んで買った方が安上がりだと思うようになり、そうこうしているうち、細々と物が増えてしまったのだ。

しかしそのうち、幸か不幸か引越しを幾度も繰り返す羽目になったので、その度に荷物の処理にうんざりするようになった。引越し代が嵩んだり友人らへの連絡を一々しなけりゃならないなどの面倒はあるけれども、自分の古くなった価値観の存在に気付く良い機会と言えば、引越しも悪くは無い。

それで国を出てから通算十回目の引越しを超えた辺りから、少しずつ不用品を減らす方向でやっている。

(こんな事を書くと、まるでサーカス団員かどさ回りの演歌歌手かと思われそうだけれど、そういう訳では無いのです。まあ心持ちは似たようなものかも知れないが、ただ拠所ない不幸な出来事が度重なった末の引越し人生というだけの事。二度の夜逃げは、流石のワタシも心苦しい次第とは承知して居るのです。)

次に引越しをする時は是非とも嫁入り時であってくれると諸々都合が良いのだが、まあそれも希望は捨てずに気持ち半分くらいを想定して、残りの半分はこれより小さくて家賃も安いところに越す可能性を想定して、家具の類は増やさない事にした。今ある道具類も、寿命が来た物から順繰りに処分して、再購入は出来るだけ後回しにして様子を見る事にした。


最近の処分品と言えば、例えばコーヒーメーカーがある。

前の街で購入して以来だからもう十年近くお世話になった物だが、ある時気付いたら水漏れを起こすようになっていた。

そもそも電化製品というのは、耐久性の面で相当怪しいように思う。あれは、何年か使ったら壊れるように出来ていて、どんなに大切に使おうとも駄目な物は駄目で、結局新たに買う羽目になる。

更に石油化学製品の中でも最も処理に困る、忌まわしいプラスチックが使われていたりすると、どうやってもその部品を修理して使うという事が素人では中々難しいので、壊れたら捨てる以外に成す術が無い。

ワタシは次に買うコーヒーメーカーはぜひ「フレンチプレス」というのにしようと決めていたのだが、生憎丁度手頃なサイズの物が近所で見当たらなかった。勿論インターネットでオーダーすれば二三日で手に入るのだけれど、ここ近年のエコロジカルな生活習慣への目覚めの所為か、それをするのが躊躇われた。

それで結局、新たなコーヒーメーカーの購入は見合わせる事にした。しかしお漏らしマシーンを使い続けるのは手間なので、そのうち紙のフィルター要らずで重宝したメッシュのフィルター部だけを残し、本体は処分することにした。

これは回収日の前の夕刻、外へ出して置いたのだが、ワタシが一寸近所に買い物に行った隙に誰かが持ち去って行ったようだから、どこかで第二の人生を歩んでくれたものと思う。尤もちびる事が知れて、また捨てられたかも知れないけれども。

実はこのメッシュフィルターはメーカー特注のそのモデル特別仕様のもので、残念ながら一部にプラスチックが使われている。しかしそうなると尚更、無闇に捨てる訳には行かない。

だからせめて駄目になるまではと、そのフィルターをカップの上に設置して、そろりそろりと湯を注いでコーヒーを入れている。使い終わったら、亀の子タワシでさっと水洗いして上げて置く。

これでやり始めたら、ものの二三日で慣れてしまったのだから、結果的に随分安上がりに治まったものである。

お陰でキッチンのカウンター上には、すっかり物が無くなった。うちには電気炊飯器だとか水切り籠といった類の物も無いから、表に出ているのは手摺にひょいと引っ掛けた皿拭き用と台拭き用の布巾くらいなものである。

次回はキッチン以外の住処の様子ついて。


2005年01月13日(木) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、そのニ

物に囚われた人々について一寸辛口の事を書いたけれど、それは実のところワタシも含めたバブル期に成長した人々には多い現象かも知れない、とふと思う。

それから、よく戦中や戦後期に生まれた世代では、物が無いのが当たり前という状態で育っているのと身の回りの親密な人や物が離れて行ってしまう辛い体験から、中々捨てられない人が多いという話を聞く。

これは正にワタシの両親などもそれに当たり、特に母が不味い事になっている。

ゴミを捨てようとして、母に止められたり怒鳴られたりした経験は、一度や二度では無い。明らかなゴミであっても、何かに使えるかも知れないなどと言っては一々溜め込んでしまうのは、これは彼女の場合世代の所為だけではなく、先に述べたような精神上の武装問題だろうと思う。

しかし逆に父などは、ワタシがちびた鉛筆を使っているのを見て、そんな貧乏臭い事をするな、新しいのが買えない訳じゃないんだから、と怒鳴りつけた事もあるから、世代問題は一概には言えないと思われる。


ところで以前からしつこく肥満と便秘症との関連について書いているけれど、そうやって体内に不用品を溜め込みがちな人は、実は自室にも同様に不用品を溜め込んでいる、という説がある。

これはワタシの友人に当てはまるのがいて、大変興味深い。以前うんこが出ない友人について書いたけれども、彼女の自宅には他所から貰ってきた中古品の数々が所狭しと置かれていて、文字通り足の踏み場に困るくらいになっている。

尤も彼女には旦那という同居人が居るので、どちらの責任かは計りかねる。

何れにせよ、直して使うと言って壊れた物を積んで置いたり、いつか練習すると言って楽器や外国語会話の道具や家電機器などを片端から貰って来てしまうので、居住スペースと所得に不釣合いな程の家財道具の中に、文字通り埋もれて寝ている。

この家は訪れる度に物が増えていたのだが、一度何だったかの事情で住処を追い出されて、急遽別の家を探さねばならなくなった折にも、どれもこれも捨て難いと言い張って、結局全ての品を半分くらいのスペースになった新居に持ち込んで、新たな同居人から早速苦情を言われたと言っていた。

余談だが、夫婦になってからも「ルームメイト募集」の部屋を探して歩かねばならないのは、傍目に見ていて辛いものがある。向こうも同居人は一人だけ入れるのを想定しているのに、そこへ夫婦で一緒に住みたいとやってくるのは、余り歓迎されないだろうと思う。


実はもう一人、幼少期からの凝り固まった便秘症で肥満気味という知人がいる。彼女の身長はワタシと同じか少し低い位で、体重は決して教えてくれないけれど、それほど太っているようには見えない。しかし服のサイズが、ワタシの着ている程度のを売っている店では発見出来ないらしいので、それはつまり相当でかいという事である。

ある時呼ばれて出掛けて行った彼女のアパートには、脱ぎ散らかした服やら靴やら本・雑誌・書類等の紙物、猫の砂やえさや毛等、色々な物がひっくり返っていた。

特に服は、サイズが微妙に変わる度、これまでのがもう着られないと言って新しいのを買ったりするから、似たようなのが沢山ある。それを毎日取っ替え引っ替えして、入らなかったものは気に入らないからそのままそこいらに放られっぱなしになる。そのうち猫がもみ合ったりして、どれが綺麗なのでどれが汚いのか、判別不可能になってしまうのである。

キッチンには使った後の汚れた食器類がシンクを埋め、開いているカウンターの上も埋め、ガスストーブの上も埋め、ダイニングテーブルの上も埋め、何しろ隙間が無い。

ゴミは既に袋から溢れ、別の袋からもまた溢れ、そしてリサイクルすべきゴミも溢れ、何時の間にやら一緒くたになっている。出掛けに一寸ゴミを出して行けばいいのに、面倒がってそのままにしているから、そのうち猫もじゃれ出して、酷い有様になってくる。

人を呼ぶ前に、少しは掃除というものをしてくれるのがマナーではないかと思うのだけれど、これも恐らく精神上の諸問題の所為でそこまで頭が回らないのだろうと想像する。

これには、ワタシは堪らなくなって思わずキッチンの汚れた食器を洗い始めてしまったのだが、しかし遊びに行く度に彼女の食器洗いをやってやる羽目になってしまったので、これではお互いの為に良くないという事で、以来訪問を辞退する事にした、という経緯がある。

明日はそういう自分の事について、つづく。


2005年01月10日(月) 生活・人生全般を簡素化する心がけ、またはシンプルライフ、その一

先日は、丸一日掛けて、コンピューターファイルのバックアップを取り直した。

これまでのやり方は、仕分けの基準が今の生活状況に合わず、しかも自分のやった事にも関わらず、入り組みすぎて却って不明瞭という印象であった。それでこの度「はっきりすっきり」をモットーにしてやってみたらば、これまでより使用するメディアの枚数が減ったので驚いた。それまでの自分が、いかに込み入った人生を自ら選んでいたのかという事を思い知らされる。


「シンプルライフ」という考え方が巷で流行ったらしいが、所有物を減らしたり合成洗剤や添加物を止めたりという様に、形から入って行くのも良いのだけれど、取り入れた新たな考え方や情報を「消化」する期間というのは相応に必要である。そしてそれは、人生経験や精神発達を通して、漸く自分の哲学として確実になって行くような気がする。

そういう生活の一つひとつの中で気付く自分の成長振りなどを感慨深く噛み締めながら、自分のやって来た様々の心がけはこれでよかったのだと一安心してみたりする。


ところでワタシにとっての「シンプルライフ」とは、人生に於ける諸般の事情を出来るだけ難しくさせない事、と言っても良いかと思う。これは文字通り簡素化、シンプリファイするという事で、極めて単純明快である。

そう、単純明快な人生を目指しているのである。

シンプルライフ、または簡素・質素な生活様式というのは、どこか禅やピューリタンらの考え方に通ずるものがある。純粋に自分の人生に最低限必要なものは何かという事を見出し、過剰な装飾、虚栄や執着を排除する作業とするならば、結局のところは全て精神修養なのだと思う。

つまり、彼是と物で武装しなくとも済むだけの、裸一貫の自分に対する自信や相応の自己評価を持つという事である。

ワタシの友人の中には、物や金に対して身離れが良いのが少なからずいる。これは「金に糸目は付けない」とか乱暴に物を買い占めたりするという意味ではなくて、彼是と無闇に欲しがらず、要る物だけを極少数持つ、というやり方に慣れているという事である。

育った家庭の経済事情は必ずしも相関関係に無いように見えるから、これは両親の教えや育ちの問題だろうと思う。彼らは成長の過程で既にコンセプトを消化し、自然と金や時間の使い道をわきまえた、身の程に合った暮らし方を実践しているようである。

しかし「シンプルライフ」を実践中と銘打っている同朋の皆さんのサイトなどを見ていると、その「消化」部の訓練をしていないのではと思われるのも多くある。

例えば、どれ程大量の物を捨てたと報告していても、結局また「これは便利な道具だから」、「雑貨・インテリアに凝っているから」などと言い訳して、余計なガラクタを買い込んでいる者。

また見栄えやイメージ、便宜性が先行して、その物質や使用法が人間や環境に対して破壊的である事に、全く配慮しない者。

結局は物に操られた生活をしていて、矛盾だらけである。

そういうのに限って、「何処其処の何々」が好きなどとしたり顔で、あるブランドやメーカーの商品を取り上げては、まるでそれを所有している事自体を誇りに思っている様な、時代錯誤的階級社会主義的自己満足振りを、恥ずかしげも無くサイトの端々に漂わせているのである。

まるで買う前から「何処其処の何々」というものを求めていたような感じ、つまりその物自体の良さよりも「何処其処」部が気に入っていたような、そしてそれを持てる自分というのに酔っているような感じがする。結局お前も物欲主義者か、と溜息が出る。


もう暫く溜息を付く事にするので、つづきは明日…


2005年01月08日(土) 幾つか短信

例のインド洋広範で起こった災害後、孤児になった子供たちが人身売買の呻きに遭っているというのを聞いたので、ユニセフに僅かばかりの献金をした。その後調べたら、他にも子供を扱う非政府組織が幾つか活動していたので、何もユニセフでなくても良かったかとも思った。何もしないよりは良いかと、自分を治める。


ここ数日その消息を気遣っていた旅行者のうちの一人が、数日振りにそのウェブサイトを更新したので、一先ずほっとした。しかしよくよく読んでみると、大災害の件については全く触れていないので、これはひょっとすると同じ国に滞在していても何が起こっているのか知らないのだろうかと不安になる。これは情報が届いていない所為なのか、それとも単なる能天気の所為なのか。余り他人をお馬鹿さん呼ばわりはしたくないけれども、これは中々微妙なところである。


天気が悪かったので、買出しを断念して残り物で夕食を作る。先日茄子とトマトを炒めてパスタソースを作ったら、意外と美味くて我ながら感激したので、この度残りの茄子でまたしてもパスタを作る事にする。真冬に茄子とトマト?と季節感の無さに些か首を傾げるものの、近所のスーパーで真夏の盛りに見たのより倍くらいに大きい茄子を発見してしまったのだから、仕方が無い。

この辺りの野菜は図体ばかりでかくて水っぽい味なのが多いが、この茄子も皮が硬くてうちの包丁では歯が立たないので、ぎざぎざのあるステーキナイフを取り出して格闘した。もう一寸地味のある野菜が喰いたいと思う。


2005年01月07日(金) 向かいの屋根の上で白猫がちんまりと甲羅干しする冬の昼下がり

以前にも書いたように、ワタシはこの自らの醜い歯並びを今こそ正さんとして、矯正歯科医に掛かっている。

其処はある大学の歯学部付属の総合クリニックなので、ゆくゆくはプロの歯科医または矯正歯科医にならんとする学生の技術訓練がその主たる目的である。勿論彼らはまだ資格が無いか若しくはあってもその後数年間義務付けられている実地見習い期間中であるので、彼らの一存で治療をするという事は許されず、専ら有資格者である大学教授らの監督の下に治療を行う手筈になっている。

矯正歯科に掛かる前にクリーニングや虫歯治療などを担当してくれた一般歯科の「学生ドクター」という人は、非常に腕が立つ上態度も良好な好人物であった。だから、矯正部門へ移ってからのそのギャップに驚きながらも、まあ気の所為かも知れないし、まだ初めだから向こうも緊張しているかも知れないし、もう少し様子を見ようではないか、などと自分に言い聞かせながらこれまで数回やり過ごしてきた。

ところが、これはワタシの気の所為などでは無く、やはり重大な問題が立ちはだかっているのではないかと思うようになり、先日予約の折にその件について話をしたらば、思いの外大事に捉えられてしまったようで一寸驚いた、という話をしようと思う。


この矯正の方の「学生ドクター」という人は、見るからに自信の無さそうな、いつもそわそわした感じの男性である。経験の無い学生がそわそわする事自体はワタシは余り気にならないのだが、こいつの場合はその自信の無さを承知しているのかいないのか、自信が無いくせに言葉遣いが生意気というか何を考えているのか良く分からないというか無骨というか無神経というか態度が悪いというか、何しろ一癖も二癖もあるのである。

わざわざ取り上げて言うと人種差別と思われるかも知れないが、しかし彼自身自己主張しているから参考までに一応述べておくけれども、彼はユダヤ系である。この国にはユダヤ系住民は沢山いるけれど、中でもいつも頭の上に小さな帽子状の布(キッパ)「ヤムルカ」を載せた「キッパー」とワタシが呼んでいる部類の、顔や体の人種的特徴以外にも更に分かりやすく自己主張している、誇り高きユダヤ人とでも言おうか。兎に角そういう人である。↑ 後日訂正

これまで数回接して来た中で気になった点を一つひとつ挙げては切が無いが、思えばどれもその自分に対する、または自分の専門家としての知識や技術に対する自信の無さ故というのが痛々しくも良く分かる。

例えば、第一回目の予約の折の出来事だが、彼の苗字は一寸変わっていて、外国人のワタシには聞き慣れないものだったので、自己紹介の際聞き直した。すると忽ち彼は一寸不機嫌そうな顔つきになって、この名前は君には発音出来ないのかと鬱陶しそうに聞いてきた。いや、まだ「出来ない」とは言っていない。ただ、相すいませんがもう一度仰って頂けますかと聞いただけである。まあ落ち着け。

ワタシは、ああこいつは随分情緒不安定な奴らしいと察知したので、質問を変える事にした。お手数ですが、一寸其処へお名前を綴って頂けますか?一度聞いても分かり難い名前は、書いて貰うと読み易いし覚え易いものである。それでワタシはその書いたのを読み上げて、これで発音は正しいですかと確認した。厄介な奴に当たってしまったものだ。

彼は物を言う時に「尻すぼみ」になる傾向がある。音楽でいうところの、「フェイドアウト」という状態である。だから、ワタシは度々、えっ?一寸聞こえませんでしたのでもう一度仰って頂けますか?と一々聞き返さなければならないので、面倒である。しかも聞き返すと、彼はまた不機嫌そうな顔をするので、まあそれはさもあらんとは思うけれども、しかしそれはお前がはっきり喋らないからいけないのだよ、嫌な顔をするのはお門違い、とワタシはその度気分を害するのである。

尻すぼみ程度ならまだ何とかなるのだが、彼の言い回しには独特の妙な「ひねり」が加えられている。ひょっとすると、自分が頭が良いという事を暗にほのめかしたいのかも知れないと勘繰ってみたりするのだが、例えば先日などは何の前触れも無く、ところで貴方の本日の時間的制約状況はいかがですか?と聞いてきた。

ワタシは、はて、ワタシの今日のスケジュールを一通り報告しなければならないのかしら?確かに急ぎの仕事が迫っていて、というか既に相当遅れていて、この後大急ぎで取り掛からなければならないのだけれど、しかしそれは彼には無関係の問題では?ならば、一体どの辺りまでワタシは暴露すればよいのかしら?

などと戸惑い、ご質問の意味を計りかねますが?と結局お茶を濁した。すると彼はじれったそうに、今日やろうとしている作業は少々時間が掛かるので、この後急ぎの用事が入っていて直に行かねばならないとかいう様な事があると困るので、一応聞いてみただけだ、などと言う。

ワタシは脱力した。じゃあ、最初からそう言えよ。お急ぎですか?の一言で充分だろう。不必要に人生を難しくするのは、お互いの為にならんと思うがの。

そしてワタシがこうして聞き返したり言っている事が理解出来ないなどと言えばまた、彼は例の不機嫌そうな顔をするのである。まるでワタシのおつむが悪いから、手が掛かって仕様が無いとでも言いたげである。


そういう次第で、我々の間には紛れも無いコミュニケーション問題または性格の不一致問題が立ちはだかっているのだが、問題はそれだけでは無く、彼の歯科医としての資質にまで及んでいる。

以前の日記にも怒りに任せて書いたけれども、歯列矯正の初めの一歩である、ミニ・輪ゴム状の物を奥歯の歯と歯の間に挟むという作業をしている時の事である。彼はワタシの歯が窮屈に込み合っていて、しかも生まれてこの方異物を歯に挟んだ経験が皆無であるという事情を聞き及んでおりながら、乱暴にそのブツを突っ込もうとして、仕舞いにワタシの歯茎から大量の血を溢れさせた。あんまり流血が酷かったので、ワタシの顔から彼のマスクや白衣(厳密には青衣)に飛び散って、何やら大儀な光景になったのである。

そこへ彼は一言、君はひょっとすると歯槽膿漏に掛かっているかも知れない、と発言した。

ワタシは既に一般歯科の方で、クリーニングその他の作業を通して数人の歯科医の皆さんから、貴方の歯茎は非常に奇麗で健康的である、全く問題は無い、等と言われ尽くして来たから、彼の発言は全く根拠の無い出鱈目である事を直に察知した。それで日記を書いた当時もすっかり激怒して、この様な患者を無闇に混乱させるような発言をする輩はプロとは呼べない、と苛々していたのである。

これには後日談があって、翌週の予約に行くと彼は、先ず初めに貴方の歯茎の様子を調べたい、と申し出た。どうぞお好きなように。彼は器具を使って歯茎の彼方此方を突っついていたが、暫くしてこう言った。

貴方にグッドニュースがあります。貴方の歯茎は問題ありません。

…ええ、そうだと思っていましたけど?

ワタシは溜息を付いた。

ワタシはこの若い訓練中の学生の「判断ミス」を咎め立てているのでは無い。歯学校付属のクリニックに来るくらいだから、そういう事もあろうとワタシも一応理解はしているのである。それよりも、ワタシは彼のふざけた言いっぷりに憤っているのである。自分の判断ミスをそうと認めたくない無責任さというか、医師として、プロフェッショナルとしてのモラルに欠けるというか、そういう事を問うているのである。

健康なワタシの歯茎から何故出血したのか。それは彼が無理をしたからである。単純明快。輪ゴムでフロスをしたら、誰だって血が出るだろう。そんな事をワタシの奥歯に強いておいて、予想外に出血したのは恰も君の歯茎が不健康だからいけないのだとでも言うような事を言って患者を脅しておいて、後から君の歯茎は問題ありませんでしたと笑って言われても、それで有らぬ疑いを掛けられたワタシの歯茎にはどう示し合わせれば良いと言うのだろうか。これまで真っ当に生きてきたワタシの歯茎に、ワタシは何と言って聞かせれば良いのだろうか。

この一件でワタシはこの若者のプロの歯科医・矯正歯科医としての能力とモラルにすっかり不信感を抱いてしまったので、この先長くて二年間もこいつとやって行かなければならないのかと思うとほとほと先が思いやられた。それならばいっその事「インヴィザライン」という方法にすれば、コンピューターで予めワタシの歯に合わせて作られた透明の枠を定期的に取り替える作業の為だけに来院すれば良い事になり、この藪医者の腕や知識に頼らないでも済むし、実質奴と接する時間も少なくて済むのだから、何とかしてプランの変更をして貰うか、さもなければ担当医を変えてもらう以外にワタシの歯を救う手立ては無かろう、という結論に達していた。

それで年末に来院した際その事を切り出してみたところ、奴は事もあろうにそれは出来ないなどと抜かしやがったので、ワタシは眉を吊り上げた。でも初めにプランを決める際、通常のブレイスでもインヴィザラインでもどちらでも有効だが、ただインヴィザラインの方が少々時間と費用が余計に掛かるだけである、と仰ったじゃないですかと言ったのだが、いやでもそれは出来ないと思う、の一点張りであった。

いや、アンタの意見を聞いているのでは無いのだから、プロであるアンタの親分の意見をさっさと聞いて来いよという心境である。

しかし偶々その日は親分がご出勤されていなかったようで、改めて出直して貰わねばならぬと言う。それで年内最後の予定で後日予約を取ったのだけれど、例の奥歯に輪ゴムを突っ込む作業中に取れてしまった銀歯を治すのに一般歯科の予約を取りに行ったところ、矯正の予約日の数日後になってしまったので、それでは作業が進まないからわざわざ無駄足は踏むまいと、ワタシは結局その予約を取り消す事にした。

それで代わりに電話で奴と話をしたのだが、何度聞いてもまだ同じ説明を繰り返す。親分には聞いてみたのかと言っても、いや聞いてないが駄目なのは駄目だと思う、などと言うのである。

これでワタシの心は決まった。言ってる事がコロコロ変わるような奴は信用ならぬ。それにこいつの態度も気に入らぬ。

一般歯科の予約の後、ワタシは同じビルの上階にある矯正部門へ出掛けて行った。窓口に座っている秘書に、担当の矯正歯科医を変更したいのですが、どういう手続きを取れば良いのでしょうと聞いた。

そ、それはどうしてと聞くので簡潔に説明したところ、秘書氏は奥へすっ飛んで行って、何やらボスに相談していた。それから戻って来ると、「ドクターG」と話をするようにと言った。その人はその学生ドクターの監督官であり、インヴィザラインを使うケースを統括している技術者でもあった。

ワタシは年が明けた初めの予約日に少し早く来て、このドクターと話をする事に決めた。


そしてその予約日。

窓口で例の秘書氏にドクターGと担当医変更の件で話がしたいのですがと言うと、ああ覚えていますよ、それでは一寸こちらへ、と列から外された。ドクターは今しがた席を外されましたが、直戻ると思いますので、少々お待ちを、との事であった。

暫く待っていると、二人連れのドクターたちが話しながら入って来た。秘書氏は、ドクターKと言う人を呼び止め、こちらは学生ドクター某に付いている患者さんですが、一寸問題があるそうでドクターGをお待ちになっているのです、とワタシを紹介した。

何故ドクターGではない人を引き止めたのだろうと不思議に思いながらも一通り挨拶を交わしていると、ドクターKは秘書氏にええと、どの学生だって?と聞き返し、あああいつね、分かった分かった、そうですか、それではお話を聞きましょうか、と振り返った。

ワタシが大雑把に説明すると、ドクターKは直に合点が行った様子で、自分はこの学生と直接の関係はないのだが、いつも彼の言い回しには独特の癖があるし妙な奴だと感じているとか、でも慣れて来た周囲の学生たちには、一風変わったユーモアのセンスがあるという様な好意的な評価を受けているようだとか、まあ一年目の学生だから仕様が無いのかも知れないが、随分落ち着かないでそわそわしている風だし、確かに君の言う様にコミュニケーション上の問題があるようだとかいったような、個人の立場からの見解をすらすらと述べてくれた。

その上で、しかし此処は教育機関でもあるので、一人の患者と長い期間関わっていく事で色々な段階に接する機会を与える場であり、その間起こりうる様々な問題を処理する能力も身に付けて貰わねばならないから、出来れば上手く乗り越えて行って貰いたいのである、という、監督官・教授としての立場からも意見を述べてくれた。

そうですか、つまり貴方は担当を替えないで貰いたいという事を仰っている訳ですね、と聞くと、いやまあ君はお金を払っている患者であるから、担当医が気に入らなければそれを替える権利は勿論あるのだろうけれども、と言葉を濁した。

これはワタシが想像していた以上に、担当の学生ドクターを変更するのは面倒らしい、という事が次第に分かってきた。

丁度其処へ、何も知らずに例の学生ドクター君が通り掛った。インヴィザラインの事について話をしていたのだとドクターKが言い、学生ドクター君はええその件に付いてはちゃんと説明したのですが、とまた同じ言い分を繰り返した。

予約の時間を少し過ぎてしまったので、一先ず作業に取り掛かろうという事になった。ワタシはドクターKにお礼を言って立ち去ろうとすると、彼は後でドクターGとも話をしておくのでご安心をと言って去って行った。中々良い人物である。

席に着いて、学生ドクター君が調子はいかがと挨拶をするので、少々決まり悪く思いつつも、いや実は担当の矯正医を替えたいという旨を話し合っていたのですと伝えた。当たり前だが、彼は忽ち穏やかで無くなり、しかし平静を装って、ふむそうか、もし替えるなら他の一年目の学生にするが良いと思う、などと痛々しいアドヴァイスまでくれたりした。

ああこういう時どう言えば相手を傷つけないで済むのだろう、でもどう言っても傷つけない言い方なんて有りはしないのでは無いかしら、などと思案しながら、もし良かったら先程ワタシが話していたドクターKとお話し合いをされてはいかがですか、と勧めてみた。すると、いやそれには及ばない、何故なら彼はこのケースに関わっていないのだから、事情を理解していないに違いないのだ、と言う。

だから、今ワタシが話して来たのだから、部外者の彼も今では事情を知っているのだよ、分からん奴だな。

そのうち彼は監督官に相談に行ってくると言って席を立った。暫くしてドクターGと一緒に現れ、ちんまりと脇へ腰掛けた。


このドクターGは非常に立派な先生であった。というのも、彼は立場上自分の生徒を庇わねばならなかったから、敵であるワタシには少々強面な(お前が聞き分けの無い事を言っているんじゃないのか?とでもいうような)言いっぷりで登場したけれども、まあ実際彼の対応は理に適っていたし、こういう先生がワタシの辛い学生生活中にもいてくれたらどれ程幸せだった事だろう、などと羨ましく思ったりもしたくらいである。

しかしドクターGは事実関係を把握していなかったので、彼の言い分は一般的で多少的外れでもあった。ワタシは性格の不一致という問題もあろうけれども、それより彼の矯正医としての資質に大いに疑問を抱いているので、ワタシは(彼の資質に頼らない)インヴィザラインにプランを変更するか、または他の人に替えて貰う以外に解決策は思い当たらないと伝えると、そこからは話が早かった。

ドクターはワタシの歯を眺めて、これならインヴィザラインでもやれない事は無い、ただ美的な問題(完璧に真っ直ぐにはならない可能性)が少々あるというだけで、出来ないケースでは無いと言う。それに学生の技術や知識に頼りきって進めていく作業では無く、まともなドクターの(つまり彼の)指導の下にやって行くのだから心配には及ばない、と強調する。だから兎に角このまま何とか上手くやっていく方向で考えてくれないかと言うので、まあ先生様にそこまで仰られてはワタシも嫌とは言い難いですしという事で、この学生と今後もやっていく事で了承した。



しかし帰宅してからよくよく考えて見るにつれ、今後二年間も拷問を受けなければならないとは随分心沈む話である、と改めて落胆した。ワタシは心理カウンセラーではないから、自分の歯医者の人格上の問題に付き合って理解を示してやらねばならないという云われは無い。これが教育現場でなく普通の開業医だったら、即刻他所へ乗り換えているところである。

しかし逆の立場を考えると、今回の一件で彼はある意味教授陣から一目置かれるところとなった訳であり、あいつは患者から問題があるから替えてくれとまで言われた奴と言うことで、周囲の学生からもそんな目で見られるのだろうし、それはそれで気の毒な事ではある。

只でさえ、何を思い悩んでの事だか知らないが、いつもそわそわと落ち着かないというのに、これで更にプレッシャーを感じてそわそわするのは間違いないだろうから、ワタシとしても何やら罪悪感を感じないでもない。これでは却ってワタシ自身も居心地が悪い。不本意ながら、恰もワタシが苛めたような格好になってはいまいか。若いオトコノコを苛めて何が楽しいのだ、と陰から叱る声が聞こえて来そうである。


どうにも合点が行かないが、何しろワタシ個人としては、赤の他人である彼の精神衛生状態には関わり合いたく無いのである。頼むから、公共の場ではそういう個人的な問題を垂れ流さないで貰いたいのである。ビジネスはビジネスとして、きっちりと分けてやって貰いたいという事である。こんな事は、わざわざ言うまでも無い事ではあるが。


2005年01月04日(火) 迎春のお喜びを申し上げます

読者の皆様、明けましてお目出とう御座います。

昨年中は、この様なワタシの独り言を呟いているだけの陰気な日記を読みにいらして下さって、誠に有難う御座います。ワタシの生活はまだ暫く変わらないと思われますので、今年もこのまま陰気にやって行きますから、その旨ご了承下さい。ご意見ご感想などがあればいつでもメールを下されば、楽しみに読ませて頂きます。



祖国での静かな正月と違い、他国では大晦日から元旦に掛けての深夜に、盛大に花火を打ち上げたり大きな電飾付き銀の玉を落っことしてみたり(大いなる資源の無駄遣い)などして祝うのが慣わしである。

余所のサイトで、新年の花火の費用を少し減らして先の災害の被災地に送ってやったら良い、というのを読んで、ああそれは何と良い考えだろうと感心しつつ、果たして例年と変わらぬ規模の各地の花火の様子をテレビで見ながら、言い知れぬ無力感のようなものに包まれつつ歳が明けた。

明けてから、回ってきたメールを読んでいたら、被災したとあるリゾート地では、瓦礫の山を片付けたりリリーフキャンプで人がごった返しているのを横目に、ビーチで寝転がって日焼けをしたりビールを飲みながら歓談する外国人旅行者がいるというので、吃驚した。リンク先の写真*の数々を見ながら、目を覆うような被災地の光景の彼是に戸惑うと同時に、またその呑気な旅行者たちの姿にも目を疑い、ああ人間というのはどうしてこうも不可解なのだろうと、新たな無力感を感じた。

*ここの写真の中にはかなりグロテスクなものが含まれているので、ご覧になる場合はご注意を。

この状況で、仮に自分のヴァケーションの日数が余っているとして、折角リゾート地がオープンしているから、それならば金も掛かっている事だし精々楽しんでから帰ろう、という具合に呑気に考えられるのだろうか。片や、逃げ遅れて水に飲み込まれたり瓦礫に押し遣られたりして命を落とした旅行者も多く居るというし、一歩間違えばそれは自分だったかも知れないというのに、それが他人事と割り切れてしまう神経は一体何なのだろう。

被災した旅行者を助けに行ってやれよ。同じ立場の外国人同士として、何かすべき事があるんじゃないのか。帰りの飛行機が飛べないというような事情があるのだとしたら、それまでの間リリーフキャンプでボランティアでもやれよ。

などと憤りながら、しかしひょっとすると現地では余り情報が届いていないのかも知れないとふと思う。直ぐ傍で起こっている災難に気付いていないのか。得てしてヴァケーション中というのは、俗世間の情報には疎くなりがちではあるから、ひょっとしてどれだけ酷い事になっているのか、理解していないのではあるまいか。

(…良い方に考え過ぎかしら。いや、でもDay 8の7枚目の写真に移っている白人男性の呑気に出っ張ったオナカが余りにも強烈で、この期に及んで更にビール飲むのかヲイ!と突っ込みたくなってしまうんだもの。)

と自問自答しているうちに、某欧州国の閣僚がヴァケーションでタイにいたのにそ知らぬ顔でヴァケーション続行というニュースが入って来た。まあ偉いさんでもこうなのだから、一般人のオジサンに真っ当な対応を期待しても無駄というものか。


昨日翌日
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