無責任賛歌
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記




ホームページ |プロフィール |掲示板「トーキング・ヘッド」 |メール
|藤原敬之(ふじわら・けいし)

↑エンピツ投票ボタン(押すとコメントが変わります)
My追加


2005年08月29日(月) これが多分最後の高峰秀子インタビュー/『COMIC新現実』vol.6(大塚英志プロデュース)

 綾辻行人原作・佐々木倫子作画『月館の殺人』にすっかりハマッてしまったしげ、第2部が掲載されている『月刊IKKI』10月号を買いたいと言うので、博多駅の「GAMERS」で待ち合わせ。
 マンガ雑誌は買い始めたらキリがないので、できるだけ買わないようにしている。週刊誌なんか、すぐに山と溜まっちゃうし。それでもちょっと珍しい雑誌が創刊されるとつい手に取って衝動買いしてしまうのだが、これがもう実に簡単に潰れるのだね。文字通りの「三号雑誌」。ここ何年かでも、『スパロボ大戦コミック』とか『ドラゴンHG』とか『トラマガ』とか『伝説マガジン』とか『手塚治虫マガジン』とか、タイトル聞いただけで(笑)が出るよねえ。もちろん、最初から続きそうにないと覚悟して買ってはいるんだけれど、本当に続かないのはやっぱり悲しい。連載が尻切れトンボのまま、どこかに行っちゃうのは特にね。伊藤伸平『楽勝!ハイパードール』、もう私が生きているうちに続きは読めないかもしれない(涙)。
 『IKKI』も連載のラインナップを見るとすごく厳しそうなのである。『月館』が看板で、それに吉崎せいむ『金魚屋古書店』や鬼頭莫宏『ぼくらの』あたりが二番手というのはそりゃあもうオタクしか読まねえよというラインナップだ。私もしげも大好きなマンガなんだが、一般受けはしないやなあ。せめて、『月館』が完結するまでは続いてほしいものなんだけれど、ギリギリって感じかなあ。

 で、その『月館の殺人』の第7回なのだけれど、上巻で謎だった部分がかなり解明されてはいるが、やっぱり佐々木さんの絵柄だとまだまだ裏があるように思えて、なかなか納得ができないのである。
 何が凄いって、殺人事件が起きたにもかかわらず鉄道アイテムに狂喜するテッちゃん連中が少しもエゴイストに見えないのだ。ヒロインの空海が避難しても、その非難の方がおとぼけに見えてしまうのである。
 いや、そもそも起きている殺人事件自体かウソっぽくて仕方がない。今回、またまた殺人事件が起きるのだが、多分、読者の大半が「こいつら、絶対死んでないよな」と思っているのではなかろうか。だから逆に、「本当に被害者が死んでいた(ヘンな日本語だが仕方がない)」という結末になったとしたら、そちらの方が凄い逆転どんでん返しの意外なトリックになるかもしれない。
 でもそんなミステリー的な面白さなんかどうでもいい気分にさせてしまうのが、佐々木マンガの真骨頂なので、今回も「どのへんに龍を感じたんだろう」とかの描き文字セリフに笑っていればいいと思うのである。


 近所に「東那珂食堂」という店が新しくオープンしていたので、夕食はそこで。 例の馬鹿高値な開店寿司屋の「大河ずし」のチェーン店なのだが、こちらはおかずを安く提供するセルフサービスの店。
 ご飯、とろろ、豚肉の卵とじ、サーモンの刺身、イカ天、コロッケ、これだけ取ってきてちょうど千円。まあ、良心的な値段である。
 しげは、できたての玉子焼きに、やっぱりサーモンの刺身、サバの味噌煮を取ってきたが、身をうまく毟れずに、殆ど半分以上を残してしまっていた。「あとあげる」と言うので遠慮なく貰う。本当は私に毟って食べさせてもらいたかったのかもしれないが、そういうコスイ策略には乗ってやらないのである。 
 以前、3号バイパス沿いに「めしや」という店があったのだが、ここはそこと同じセルフサービスでおかずを選べる方式だった。客は好きなだけおかずが取れるから便利なように見えるが、人気のないメニューはかなり残飯になってしまう。コストの面ではちょっと厳しいのがシロウト目にも分かり、案の定、「めしや」も数年で潰れた。こういう形式は私は好きなので、潰れないでほしいんだけどねえ。


 帰宅して、『ブラック・ジャック』『名探偵コナン』の流れで『キスイヤ!』まで見ていたら、しげが突然「マクドナルド行きたい!」と叫んだ。
 もう晩飯は食っているので、またハンバーガーを押し込むのは食いすぎではあるのだが、こういう「いきなり」はいつものしげの情緒不安定である。食わなきゃ心が落ち着かないのである。
 自分で自分を落ち着かせる力がないのだから、これは食わせてやるしか仕方がないのだ。閉店まであと一時間しかなかったので、すっ飛んで近所のマクドナルドへ。
 しげはお目当ての目玉焼き入りの何とかいうバーガーをチーズ抜きにしてもらって食べた。これで満足かと思ったら、まだ幾分心が満たされていない様子である。私が無口で相手をしてやらないでいるせいだろうが、こっちも丈夫なカラダじゃないんだから、平日からそうそう体力は使ってられないのである。夜中に一緒に外に出かけるだけで付き合いとしては充分なのだと思ってもらいたい。思ってもらわなければ困る。
  

 大塚英志プロデュース『COMIC新現実』vol.6(角川書店)。
 吾妻ひでおの現在を追いかけるのが半分以上の目的で買い続けてたのが、予定通り全六感で完結。最後の特集はあすなひろしだ。初期作品に加え、なんと未発表の遺稿『山頭火』の絵コンテを紹介している。一部ペンすら入っているその絵は、流麗さで知られたあすな氏のまさに円熟した美しさをた漂わせており、マンガ界は本当に屈指の逸材をなくしてしまったのだと痛感してしまう。
 『新現実』は、忘れ去られようとしているマンガ家、忘れ去られかけているマンガの歴史を積極的に取り上げた。口では「マンガファン」を名乗りながら、かがみ♫あきらやあすなひろしの名も絵も知らぬような馬鹿が(若いやつらならばともかく、四十代でもそうだ!)蔓延している現在、『新現実』はよく頑張ったと思う。また、すぐに歴史の彼方に消えてしまうだろうが。
 吾妻ひでおの『うつうつひでお日記』は次回以降、『コンプエース』に移籍するそうである。多分、そっちまでは買わないだろうな。相変わらずSFやマンガの批評は寸鉄人を刺す鋭さで舌を巻く。失踪したり自殺未遂したりしないでマンガ描いてほしい。切に。
 『デスノート』について吾妻さんが、「心理劇として面白い。小畑の絵はうまいが一ノ関圭のような自在さはない」と語っている。かなりマンガを読みこんでいる人でないと、このセリフはとても理解できないだろう。一見、小畑健を貶しているように見えるが、少なくとも「天才・一ノ関圭と比較しうるマンガ家」と評価しているのである。小畑さんは吾妻さんのこの批評を真剣に受け止めて、マンガ家として精進すべきだ。しなければならない。これはそれくらい貴重な言葉なのである。


 『キネマ旬報』9月上旬号。
 表紙の「高峰秀子独占インタビュー」の文字に驚いた。
 マジで心臓がバクバク音を立てて、気が遠くなるかと思った。映画界から完全に引退したあの高峰秀子である。成瀬巳喜男、木下恵介など日本映画を代表する名匠と組んで数々の名作を残してきたにもかかわらず、両監督亡きあと、あっさりと引退してしまった、あの高峰秀子である。
 日本映画は高峰秀子に見切りを付けられてしまった。今は全ての取材を一切断って隠棲しているはずの彼女がどうして取材に応じたのか。
 「仕掛人」は、『高峰秀子の捨てられない荷物』の著者で、高峰秀子を唯一「かあちゃん」と呼ぶことのできる「家族」の斎藤明美さんであった。彼女もまた、初めは世間の取材構成から高峰秀子を守る立場にいた。しかし、成瀬巳喜男の生誕百年に際して、あまりにも高峰秀子の存在が軽んじられていることに憤った。そして嫌がる高峰秀子をくどきかつ恫喝して、恐らくはこれが本当に最後になるだろう、インタビューの約束を取り付けたのである。
 高峰秀子の口調は簡潔で一切の無駄がない。短い言葉は時として冷徹にすら聞こえ、誤解を生むこともあろう。しかしそんな誤解を少しも彼女は恐れていないのだ。どうでもいいと思っているのだ。
 「ああ、成瀬さん死んだか。じゃ、私もこれで女優おしまい」
 聞きようによっては、成瀬監督が亡くなったおかげで嫌だった女優をやめられると喜んでいるようにすら取れる言葉である。もちろんそんなことはなくて、成瀬監督がいたからこそ、高峰秀子は女優を続けてきたのだ。
 病床の成瀬監督が、高峰秀子に「あれも撮らなくちゃね」と言い残して死んだ。「あれ」とは、成瀬監督が撮りたがっていた、「白バックの映画」である。役者の演技だけを見せるための映画だ。その主演に高峰秀子を使いたがっていたのだ。
 こういう監督と出会っていて、それでその監督ともう二度と出会えなくなれば、「女優おしまい」にもなるだろう。それ以上、高峯秀子の心理を詮索する必要はない。
 高峰秀子は森雅之が映画界から離れて行った理由についても語る。『浮雲』は高峰秀子の代表作として、日本(いや、世界でも)映画史上に残る名作の一つとしても高い評価を受けた。しかし、森雅之には殆ど何の賞ももたらさなかったのだ。成瀬監督も高峰秀子も、森雅之がいたからこそ『浮雲』は成功していたと確信していたのに。
 森雅之は映画出演を減らして行き、舞台に移って行く。そういう役者が多いことが、日本映画界の役者に対する扱い方のいい加減さを証明していると思う。

 斎藤さんが、「高峰秀子に語らせたい」と思った気持ち、悔しさは、切ないくらいに伝わってくる。しかし、斎藤さんの悔しさを受け止められる人間がこの現代にどれだけいるだろうか。
 現代人はかつて日本を築き上げてきた人々に対する敬意も愛情も全て失ってしまっている。そんな現代に高峰秀子が自ら関わっていくことなどありえないではないか。高峰秀子に「(日本映画史に)興味ない」などと言わせるようにしてしまったのはどこの誰か。
 「映画ファン」と名乗りながら、日に一本の映画も見ない、「あなたたち」である。

2004年08月29日(日) なんか居たたまれない一日でした。
2003年08月29日(金) 戦慄の3時間/舞台『放浪記』/『新暗行御史』第六巻(尹仁完原作・梁慶一)
2001年08月29日(水) 腹立ち日記/映画『お笑い三人組』ほか
2000年08月29日(火) 後始末は大変そうだな/『ルパン三世総集編』第6集ほか


2005年08月28日(日) みんな仕事が面倒くさいんだね/『トンデモUFO入門』(山本弘+皆神龍太郎+志水一夫)

 休日だが出張。
 詳しいことは書けないが、出張先の連中の杜撰かつ失礼な対応にちょっとハラを立てる。なんつーかねー、うちの業界、ともかく何か失敗してもちゃんと謝らないやつ、多いんだわ。「謝ったら負け」って感覚が染みついてるんだろうけれども、明らかに自分に非がある場合でも、「すみません」とは決して言わない。四十も五十も過ぎたいい大人のくせして、必ず何やら言い訳して、笑って誤魔化そうとしたり、自分以外の誰かに責任転嫁しようとするのである。顔は老けてても精神年齢は十五、六ってやつがゴロゴロしているのだ。これでよく○○○○でございって顔してられるな、とむかっ腹が立って仕方がないのだが、ここで喧嘩をするわけにもいかないから、ぐっと我慢をしているのである。
 人と関われば関わるだけストレスが溜まるんじゃまた胃に穴が空いてしまう。職場ではできるだけ無口でいたいもんだよ。 

 
 マンションの改修工事が先日から始まっている。
 「ベランダにある邪魔なものを捨ててください」とお達しがあったので、ぶっ壊れたベッドとかテーブルとかハンガー掛けとか、普通に粗大ゴミで出したらオカネが取られるものを、ここを先途と出しまくった。しかしベランダにはまだ大モノが残っていて、これまで録画してきたビデオをぶちこんだロッカーが二つ、ドデンと居座っているのである。
 こいつは捨てるわけには行かないが、カと言って工事が終わるまでいったん部屋の中に入れておくというわけにはいかない。部屋の中はもう、足の踏み場を確保するのが精一杯という状況になっているのだ。入れられるものなら最初からベランダに置いといたりはしないのである。
  業者から電話連絡があったので、「一時的に横にどけて、工事を行うわけにはいきませんか」と頼む。
 「部屋の中には入れられないんですか」
 「ちょっと無理です。部屋の中、満杯なんですよ」
 「ですが、そうしていただかないと工事ができないんですが」
 「できればそうしてます。できないからお願いしてるんですが」
 「どこかに倉庫を借りてそこに持って行くというわけには」
 「持って行くには部屋を通さないといけないじゃないですか。その部屋を通せないんですよ」
 「そこをなんとか」
 「何ともなりません。第一、倉庫を借りるお金がありません」
 「困りましたねえ」
 「ホント、困るんですよ」
 「まあ、何とか考えてみます」
 何とか善処してほしいと政治家みたいなことを言って、電話を置いたのだが、本当に何とかしてくれるんかいな。


 『仮面ライダー響鬼』二十九之巻 「輝く少年」。
 下條さん復活。三週連続の欠勤はやっぱり夏休みだったのだろうな。プールサイドの下條さんも見てみたかった気がするが。
前回に引き続いての、ヒビキと明日夢君とのキャンプ編後半。
 明日夢君が崖から滑り落ちて軽い怪我、そのあと雨にも降られて、テントにもぐりこみ、ヒビキから「濡れただろ」とタオルを渡されてはにかむ。「ぼくのせいでこんなことに」「失うものもあれば得るものもあるさ」。……そして夜の帳が二人を包んで……。
 なんですかね、このムーディーなやりとりは(笑)。全く、ヤオイ腐女子がとても嬉しくなるようなシチュエーションであるが、狙ってきたのかなあ。タイトルがまたいかにもソレらしいしね。平成仮面ライダーシリーズは本来の特撮ファン以外にもいろんなところにファンを開拓して来ているけれども、ショタまで取り込んでくるとは思ってなかったね。いや、最初のころは明日夢君がショタの対象になるとは全然思ってなかったんだけれども(一応、高校生だし)、このところのいじらしさ可愛らしさは、ちょっとキケンではないかという気がするのだ。
 考えてみれば、「師匠と弟子」って関係、弟子は何らかの「通過儀礼」を必ず受けることになるんだよね。当然そこでも何かおいしいシチュエーションが生まれる可能性はあるわけで……。別に私はそんなもの期待してはいないのだが、その昔、ヨーダ×ルークだったかルーク×ヨーダってパロディマンガもどこかで見たことあるし(高信太郎だったような)、ヒビキと明日夢君の濃密な夜を想像して眠れない思いをする腐女子さんたちも増えるのかもしれない。
 まあ、自分でそういうパロディマンガを描いてみてもいいのだけれど、私のコドモマンガっぽい絵柄だと、別の意味でいやらしくなっちゃうからなあ。つか、描きながらサブイボ出ちゃうわい。誰か描かんか。


 山本弘+皆神龍太郎+志水一夫(と学会)『トンデモUFO入門』(洋泉社)。
 もう何年か前のことになるが、私が山本弘さんのことを嫌っているとデマを飛ばした人がいて、ちょいと迷惑を蒙ったことがある。その人がどうしてそう思い込んだのか、理由はよく分からないのだが、どうやら私と別の人を間違えたらしかった。
 山本さんのことが嫌いだったら、こんなに本が出るたびに追いかけて買ったりはしないのだけれども、いくら説明を繰り返しても、いったん思い込んだら一切自説を曲げようとしない人だったので、こりゃもうしようがないな、とこちらから縁を切ることにした。そしたらその人、今度は「自分の方から縁を切ってやった」と正反対のことを吹聴して回るようになったのである。
 全く、ウソをつくことに何の罪悪感も持たない人間というものはいるものだなあと思ったものだが、それ以上に関わりあいになりたいとは思わなかったので、その件はそのまま放置した。
 私が嫌なのは、その人もそうなのだが、内心では山本さんのことを馬鹿にしているくせに、いかにも私は信奉者でござい、ってなフリをして、おべんちゃらを使いまくっている腰巾着や茶坊主のほうである。山本さんもそういう連中が鬱陶しくはないかと思うけれど、付き合い長いと簡単に縁は切れないんだろうね。

 それはそれとして、肝心の本の内容について。
 20年ほど前までは、青少年の未知への憧れを掻き立てていたものの、今や世間の誰も振り向こうとしない「UFO」について、ひとたびこの人たちに語らせたら他の追随を許さないというお三方が結集し、大いに放談しまくったのが本書である。
 本来は京極夏彦ほかの『妖怪馬鹿』に倣って『UFO馬鹿』とタイトルを付けたかったそうだが、あまりに真似するのもなんだと無難な題に落ち着いたそうである。私はどっちかというと、往年の『オモロ大放談』を連想した。
 しかし、本書でも語られていることだが、もはや今時の若い人たちは、UFOについての初歩的な知識も知らないのである。まあ、我々の世代でも、「UFO=空飛ぶ円盤」と思い込んでるやつは結構多かったからな。
 三人のお喋りをそのまま採録しているために、軽く読み飛ばされてしまいかねないのだが、これには「UFOをいかに楽しむか」というスタンスが明確に示されている。
 ともかく盲目的に「UFO=宇宙人の乗り物」と断定しないこと、捏造されたデータに踊らされないこと、人はなぜ簡単に偽情報に騙されてしまうのか、その心理的背景にまで思いを致すこと、検証の末になおやはり正体の分からないものがある場合にはそれはやはり研究の対象として価値あるものだと認めること、トンデモな目撃証言などもただ馬鹿にするのではなくてフォークロアの一つとして楽しむこと――などである。
 要するに研究心と遊び心を両立させて、妄信だけはしないようにってことだね。だから、ケネス・アーノルド事件にしろマンテル事件にしろベティ・ヒル事件にしろロズウェル事件にしろ、検証の末にある程度真実が見えるようになった事件について、「なーんだ、ロマンがなくなっちゃった」なんて思わないことである。
 「人間は間違うものだ」あるいは「人間は幻を見たがるものだ」という「人間認識と深い愛」があれば、UFOも幽霊も超能力もいかがわしい詐欺と決め付けずに微笑ましく見ることができる。
 私も子供のころ、近所の神社にノストラダムスの大予言かなんかにかぶれた連中がやって来て布教を始めたので、面白半分に(母親が「面白そうだから行って来んね」と勧めたのである)出かけたところ、いろいろ呪文を唱えられて催眠術にかけられたようになって、オジギさせられてしまった。だからと言って、カミサマがいるとか超能力があるとか信じるようにはならないのである。何かそのときも「行いを正しくしていればUFOさんが世紀末に救いに来てくれる」とか言ってたな。あの人たちは今はどこでどうしているのやら。
 映画『宇宙戦争』を見れば分かる通り、今、宇宙からの侵略をリアルに描こうとすれば、「宇宙から飛来する円盤」すら登場させられなくなってしまうのである。しかし、UFOがその時代におけるフォークロアとして生まれてきていることを考えれば、そういう方向での「リアル」を追求することは見当違いであるということが容易に理解できるであろう。UFOが今後も「生き残っていく」のであれば、それはやはり「現代の寓話」として機能していくはずなのである。
 悲観的な味方をすれば、もはや現代は「UFOを必要としていない」のかもしれない。本書はタイトルに「入門」と謳っているが、実は「総括」としての意味を持つのかもしれない。しかし、だとすればそれはそれとして社会の自然な変遷であると言えるだろう。妖怪や妖精が廃れたように、UFOもまた廃れたのである。まだしも「幽霊」の方が我々に必要なフォークロアとして生き残っているくらいのものだ。
 しかし、UFOそのものは廃れても、我々は常に「謎」を抱えて生きている。正体不明な「UFO的なもの」はこれからも形を変えて現れてくることは間違いない。そのときにはまた、トンデモなファンタジーを生み出す人々が騒動を起こすことであろうが、そういうときには笑って楽しむ余裕を持ちたいものだと思う。

2004年08月28日(土) 夏の終わりの小さな花火
2003年08月28日(木) 謎の暗号?(^_^;)/DVD『アパートの鍵貸します』/映画『英雄 HERO』
2001年08月28日(火) クリエイターの条件/映画『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』ほか
2000年08月28日(月) 完治には1週間以上かかりそうです/ドラマ『百年の物語』ほか


2005年08月27日(土) ボンカレークラシック/映画『キャンドルシュー セント・エドモンドの秘宝』

 『ウルトラマンマックス』第九話「龍の恋人」(伝説怪龍ナツノメリュウ登場)。
 伝説怪獣の復活という、定番中の定番を扱ってるってのに、どうしてこうも「穴」が生まれちゃうかな。
 田舎に観光ホテルを建設するために、土地開発を行い、龍の祠を壊してしまったことが伝説怪獣を蘇らせてしまったというのは設定としてはあまりに古臭い。古臭くても普通に脚本を書いて演出すればそこそこの出来になるはずなのだが、やっぱりトホホな描写が散見してしまうのである。
 開発推進派の村長の息子が、客寄せのためにハリボテの龍まで作って演出したりするのだが、だったら祠も壊さずに見世物にしちまえばいいのである。ホテルとかで祠をそのまま中に移したりしてるとこ、結構あるぞ。このあたりの流れがもうムリヤリ。
 で、DUSHでそのハリボテの龍の映像を解析して、「動きがツクリモノです」って言うんだけど、だったらあとで出てくる本物のナツノメリュウも作りもんだと解析されちゃうと思うが。もっともこれはどうにも解決のしようがない瑕だけれどもね。
 これまた定番で「謎の少女」が現れて「龍は悪くないわ!」とか言っちゃうのだが、祠一つ壊されただけで怒り狂って村を焼け野原にしちゃうような怪獣なら、充分悪玉だと思うがな。そもそもこの龍が「村の守り神」だと証明する描写が一切ないから、少女の主張に説得力が生まれないのである。
 ご都合主義的な展開が多すぎるが、それは脚本家にディテールを積み重ねて行く実力がないせいである。もっと厳しいことを言えば人間をきちんと描こうとする意志に欠けているせいである。例えば、ラストで少女の母がペンダントの中の写真をカイトに見せるシーンの不自然さだ。どこの世界にいきなり死んだ自分の娘を「ほれ見ろ」とばかりに見せる親がおるかい。キテるんか、こいつは、としか思われないぞ。これはカイトの方から、「よかったら、写真を見せてくれませんか?」と聞くのが自然だろう。
 そろそろちゃんとした脚本家、監督でエピソードを綴ってくれないと、また客離れを起こすんじゃないかと思う。


 報道を追いかけるようにして書いてきた駒大苫小牧高校の暴力事件、高野連の処分は予想通り殆ど「無罪放免」に近いものだった。
 審議会では、加害者である部長が「一定期間の謹慎」、報告の遅れた野球部については「警告」という結果が上申され、続く臨時運営委員会では、「指導者の行為の責任を選手に負わせるのは適当でない」という理由で、優勝を取り消さないことも決定された。
 温情判決、というよりは、「これしかできなかった」というのが正直なところで、こんな「隠蔽工作」が行われるとは高野連にとっては全くの想定外だったのである。だから、それを処分する規約ももともと存在していない。問題の「脅迫」を行った教頭については、高野連は何の手出しもできていない。これは高野連にとっては「苦渋の判決」だったのであって、「妥当な処分」と判断するのは大間違いなのである。
 いくら高野連が「不祥事があった場合には早期報告を」と喚起しても、「生徒に関わらない限り、学校側の暴力、隠蔽は『警告』で終わり」という前例ができてしまったのである。教員が生徒にどんな暴力を振るってもバレなきゃオッケー、バレてもたいした罪にもならないということになってしまった。これで喜んでいられないのは「生徒」の方なんだが、全国の野球部員たちはそこに気付いてるのかね。
 優勝取り消しまではしないにしても、もうちょっと厳しい処分ができなかったものかと悔やまれる結果である。あとは全国の野球部と学校が、それぞれの「良心」に従って、問題が生じれば報告するようになることに期待するしかないけど、難しいよな。今回の事件は、「バレなきゃいい」の発想がもう全国の学校関係者に蔓延してしまっていて、どうにもメスの入れようがない状態になっていることが確認されただけだ。事件の再発を防ぐ方法は、「正直に言えば罪一等を減ずる」「バレたときは罪をムチャクチャ重くする」しかないのだが、その方法はハッキリと断たれてしまった。今後も、こういう事件は続くだろうし、うまく「隠しおおせる」学校もあることだろう。
 せめてなあ、北海道教育庁が校長、教頭の降格くらいはしてくれることを期待するしかないけどさあ、もうここで結末が付いたって世間は判断しているだろうから、彼らの責任が追求されることもなく、ウヤムヤになっちゃうんじゃないかなあ。単純に「よかったよかった」なんてことは言えないのである。


 「ボンカレー」と言えば、私たちの世代は女優の松山容子さん(『めくらのお市』)の写真のパッケージが印象深い。つか、松山さんが「動いている」CMだって見てたんだからなあ。もう40年くらい昔だよ。今の二重丸だかなんだかの味気のないやつは、まるでボンカレーってイメージじゃないのだ。
 松山さんは昭和50年代になると半引退状態になってしまったので、クイズ番組などで「あの『ボンカレー』の写真の女の人は誰?」なんて問題がよく出されていたものだったが、たとえ時代が移り変わっても、一度刷り込まれたイメージは、やはりその商品の財産なのだから、せめて裏側に残すとか、何か措置を取ってほしかったものである。
 今度、「ボンカレークラシック」が新商品として売り出されることになったそうだが、久しぶりに「人」がパッケージに起用されることになったそうである。松山容子に代わって松坂慶子ってのは「松」繋がりなのかなあ、だったら松田聖子とか松たか子とか松島トモ子って可能性もあったのかなあ、松田聖子だと食ってるこっちが取って食われそうだし、松たか子はまだ若くて奥さん風じゃないし、松島トモ子は写真見ただけでコワくなるし、松坂慶子は妥当なところかなあ、とか下らんことを考えた。
 でも「クラシック」と名づけるなら、やっぱり松山さんの写真を使って、「この人誰?」と若いお客さんの首を傾げさせるくらいの茶目っ気はあってもよかったんじゃないかなと思うのである。


 CSディズニーチャンネルで映画『キャンドルシュー セント・エドモンドの秘宝』。
 隠れた名作というものは実際にはあまり隠れていなくて好事家の間では有名だったりするものだが、これはもう、知る人ぞ知る、知らない人は全く知らないという傑作なのである。
 かく言う私も、まだWOWOWがJSBであった十数年前、日本未公開のこの映画が『セント・エドモンドの秘宝』のタイトルで初放映されたとき、原作者の「マイケル・イネス」の名前を見て、ぶっ飛んだ記憶がある。なんとこれ、『ハムレット復讐せよ』の名探偵アプルビイ警部シリーズで有名なイネスの、“唯一の”映画化作品だったのだ。
 本国イギリスでは50冊以上の著作があるイネスだが、わが国に紹介されているのはせいぜい5、6冊、通なミステリファンの間でも、イネスファンってのはあまり聞いたことがない。かく言う私も白状すれば『ハムレット』を読んだのは三十代になってからだ。
 そういう関係で、この映画の原作である『Christmas at Candleshoe』 も未訳である。だから「唯一の」映画化作品だって言うのに! 

 LAのダウンタウンに住む不良娘ケイシー・ブラウン(ジョディ・フォスター)を訪ねて、いかにも怪しげな詐欺師・バンデージ(レオ・マッカーン)がやって来る。バンデージは、ケイシーをはるばるイギリスの片田舎にまで連れて行った。そこには行方不明になった孫娘を待ち続けるセント・エドモンド夫人(ヘレン・ヘイズ)が“キャンドルシュー”と呼ばれる屋敷に住んでいた。バンデージはケイシーをその孫娘に仕立て上げ、屋敷のどこかに隠されているという財宝を捜し出そうというのだった。
 屋敷には執事プライオリ(デヴィッド・ニーヴン)の他に、夫人が引き取った孤児たち4人、、クルーニー、ピーター、アンナ、ボビーがいる。得意のハッタリで自分をホンモノの娘と思い込ませたケイシーは、金貨の謎を追って捜索を始めるが、ひょんなことからこの屋敷が極度の財政難に陥っている事を知ってしまう……。
 
 この原作を映像化するためにディズニーが集めたキャストがものすごい名優揃いである。
 まず主役のケイシーを演じるのがティーン・エイジャーだったころのジョディ・フォスター。もちろん、『タクシー・ドライバー』『ダウンタウン物語』などで、天才子役なんて言葉ではとても括りきれない名演を披露していたあとの出演である。フォスターは少女時代の一時期、激太りしていたこともあったのだが、15歳だったこのころには幾分スッキリしてきていて、かなりアクションもこなして(吹き替えかもしれないが)小生意気なケイシーを好演している。
 脇を固めるのは、『ピンクの豹』『007/カジノ・ロワイヤル』『名探偵登場』のデヴィッド・ニーブンに、『追想』『探偵スヌープ姉妹』『ミス・マープル』のヘレン・ヘイズ。ラッフルズやファントムを演じた「怪盗俳優」のニーブンと、「お婆ちゃん探偵」が持ち役のヘイズが共演、という図式が面白い。
 「イギリス風味」を出すのに、ニーブンは必要不可欠なキャストである。「執事」はいかにもな役だが、キャンドルシューがジリ貧なのをヘイズに気付かれまいと、“既に辞めさせてしまった”運転手、庭師、更にはヘイズの友人の「大佐」までを変装して演じる。まるでアレック・ギネスか片岡千恵蔵だが、ニーブンはいかにも楽しそうだ。もちろん「見りゃ一発で同一人物って分かっちゃうじゃん」であるのだが、そこは言いっこなし。馬に乗れないのにムリヤリ乗せられて、茂みの向こうで落馬して、馬だけが走って出て来るというギャグは『七人の侍』のパクリだけれども、まあこれも許しちゃおう。
 ヘイズは『追想』で演じた皇太后をセルフ・パロディにしたような役どころ。フォスターが「アナスタシア」に当たるわけだね。ニーブンとの大広間でのダンスシーンも『追想』を髣髴とさせるが、ファミリー映画だと思ってこの映画を見に来たオトナのお客さんへのこれはサービスだろう。ここで、ヘイズが実はニーブンの一人四役にちゃんと気づいていたことも明かされる。本映画中、一番「粋」なシーンだ。尺が短いのは仕方がないが、このあたりはもっと情感を込めて撮影して欲しかった。
 そして、愛しのレオ・マッカーン! 『怪獣ウラン』の、『ピーター・セラーズのマ☆ウ☆ス』の、『新シャーロック・ホームズ/おかしな弟の大冒険』の、そして何よりも『プリズナー��.6』最多出演「��.2」役の、あのマッカーンである。その大兵肥満の体をゆすって笑う、強欲だけれどもやっぱりどこか抜けてるところのある悪役ぶりは、マッカーンの独擅場である。この人が出てくるだけで映画のランクが一つ上がるように見えてしまうから不思議だ。ニーブンとの「傘対斧」の対決に続く、フェンシング対決、槍対決と“意味もなく”エスカレートしていくおかしさは、実際に映画を見て確かめていただくほかはない。
 悲しいことに、ニーブンもヘイズもマッカーンも既に鬼籍の人である。

 お話自体はジュブナイルであるために、ミステリとしての骨格は弱く、案外あっさりと財宝が見つかったりして、物足りなさを感じはするのだが、これはまあイギリス風の人を食ったファルスとしての味わいを楽しむのが主眼だろう。
 そのあたりの「イギリスらしさ」は随所に現れていて、何より、フォスターが最後まで「ニセモノ」のままなのがいい。普通のディズニー映画のセオリーに従えば、最後は「実はニセモノと思わせといてホンモノの孫」ってご都合主義で終わらせてしまいかねなかったところである。
 ラストで「本物の孫が見つかったらどうする?」というフォスターの問いかけに、ヘイズが「ここにいるわ」と答えるのが実にいい幕切れである。これは原作にもあったセリフなのだろうか。
 ミステリファンでイネス原作の映画があったことを知らず、ディズニーファンでこんな実写映画があったことを知らず、ジョディ・フォスターファンで彼女にこんな少女時代があったことを知らないといった、いろんな意味で知られていないことがもったいない映画である。

2004年08月27日(金) 『ガンダム・ジ・オリジン』は正しい!
2003年08月27日(水) つらいことばかりでもないと思うけど/『江戸川乱歩全集第10巻 大暗室』(江戸川乱歩)/『人生とはなんだ 旅と恋編』(藤臣柊子)
2001年08月27日(月) ノンマルトの後裔/映画『ウルトラマンコスモス ファーストコンタクト』ほか
2000年08月27日(日) 自動車とはケンカしないように


2005年08月26日(金) 優勝旗はどこで振られるか/『舞シールド21』(安永航一郎)

 またまた駒大苫小牧高校野球部長の暴力問題の続報。
 全く、一日一日、新しい展開を見せてくれることだね。
 学校と被害者の主張が食い違い、一時は泥沼化するかと思われていたのだが、今日になって学校側が改めて被害者である部員と父親に謝罪したことで、和解が成立した模様である。
 ネットでは事情もよく分からない段階から「お前らのせいで優勝が取り消されたらどうするつもりだ、いや、それが目的なんだろう」と勝手な決め付けで被害者を批判するようなことを書いていたやつもやたらいたようであるが、学校が初めから誠意ある態度を取ってさえいればたいした問題にもならなかったはずなので、そんなのが根拠のない憶測にすぎないことは、当初から気付いてなきゃおかしいのである。実際、被害者の父親は、「優勝取り消しなどにはしないでほしい」と明言している。
 私がフシギで仕方がないのは、日ごろは常識もあり、冷静な判断力を持ち合わせている人であっても、スポーツに絡む問題になるとてんでマトモな判断ができなくなってしまうことだ。野球もサッカーもラグビーも、やってる最中、応援してる最中は、脳内ドーパミンが出まくりだろうから、麻薬とまるで変わらんのだよなあと、イカレた方々を見るにつけ、嘆息を禁じえないのである。
 これでようやく学校側もこれまでの経緯を報告書にまとめられるようになり、高野連も審議会を開けるようになったわけである。同情論が蔓延している現状では、処分も軽くなりそうな気はするが、これだけ悪質な隠蔽工作を行った学校を実質無罪放免したりしちゃ、今後に禍根を残すことになろう。それを覚悟で世論に負けるようなら、もう高校野球から「教育」の概念は消えると断定していい。
 まあ、そんなもんは既に日本中どこを探しても見当たらなくなってるから、テキトーに放置しとけば? って意見にも一理はあるんだけれどもね。


 朝っつーか深夜、しげが急に「カラオケ行きたい」と言い出す。
 しげの「落ち着かない病」がまた始まった感じだが、私が「薬を飲み過ぎるな」と何度も言うので、禁断症状を抑えるために、別のストレス解消法を模索し始めたようである。
 こちらもそう体調はよくはなかったが、一人で夜間徘徊させるよりはマシだったので付き会うことにする。しげは私に「ブルーハーツ」も歌ってほしがっているようだった。
 さすがに徹夜は死んでしまうので、2時間だけの熱唱。耳でチラチラ聞いただけの記憶しかないから、『リンダリンダ』も『終わらない歌』も『TRAIN TRAIN』もみんなどこか音程が外れる。でも歌っても改めて思ったが、ブルーハーツは本当にどの曲もメロディーラインがよく似ている。何度か練習してみれば、確かに三日でそれなりのボーカルをこなせそうだ。
 ほかにもうろ覚えのアニソンを何曲か歌ったりして2時間終了。しげも気がすんだらしく、帰宅したらすぐに眠ってしまった。ただ安眠するためにしょっちゅうカラオケにも行ってられないので、何かほかにもいい手段を考えてほしいものである。


 夜、テレビで森田宏幸監督の『猫の恩返し』が地上波初放送。
 冒頭に「秘蔵映像」紹介、とあったので、何をやるのかな、もしかしたらジブリ美術館でしか上映していなかったアニメを放送してくれるのかな、とちょっと期待して見てみたのだが、流れたのは『そらいろのたね』『なんだろう』『On Your Mark』の三本だった。別にアニメファンには秘蔵でも何でもない映像である。でも、ナビゲーターの石川梨華と田中れいなは三本とも初見だったようで、「私、『なんだろう』の正面って初めて見たあ」とか「(『On Your Mark』の)この二人って、チャゲさんと飛鳥さんですかあ?」とか言っている。こういうオタク色に全く染まっていない初々しい姿を見ると、自らがすっかりヨゴレてしまったことを実感してしまうね。
 オタクはすぐに「一般人は知らないだろうけれども」と前置きして自分を特化させたがるが、知識があったって、それを運用する素養がなきゃ、そりゃただのウンチク垂れの知ったかぶりだ。いわゆる「サロンの馬鹿」というやつである。そこんとこに気付かないオタクや腐女子がやたら他人には興味のないオタ話を延々と披露して、自分だけ悦に入っているのだが、そういうやつがオタクの中でも一番「イタい」のである。みんな自戒しようね。
 久しぶりに若人あきらさん(笑)の顔を見たが、もう郷ひろみのモノマネは無理っぽい感じである。もちろんご本人もやる気はなかろうが、私は昔の芸風の方に親しみを覚えているので、がしゅういんなんたらという今の芸名にはどうしても違和感を覚えてしまうのである。カルシファーの声は若人さんの芸の一つに過ぎないのに、それだけに芸風が固定されてしまっているような印象があってね。横山千佐は声を変える前の方がよかったとか、そんな感覚だろうかね。

 映画の方はDVDも買っているし、今見返さなくてもいいのだが、放送されているとつい見入ってしまう。
 劇場で見たときにも、私はよくぞこれだけ正統的な「漫画映画」を作ってくれたものだと感動を覚えたくらいだったのだが、世評はあまり芳しくなかった。
 今回、この映画を初めて見た人は、「こんなに面白いのに?」と驚くことだろうが、ともかく「宮崎駿信者」が一番ハバを利かせていたころのことで、どうしても宮崎作品と比較をして、貶さなきゃ気がすまないといった雰囲気だったのである。
 「少女マンガだ」なんて批評はいったい何の文句を付けたいんだか訳が分からない。まさにこれは少女マンガの映画化だと言うのに。
フシアナ批評の最たるものは「宮崎駿のモノマネだ」というやつで、宮崎駿が『風の谷のナウシカ』以降捨て去ってしまった「古き良き漫画映画」の世界を、森田監督は見事に復活させてくれていたのである。
 作画面で言えば、ハルの背骨が今イチしっかりしていなくて、首の座りもよくない、ちょっとトシヨリ臭く見える演技の作画、これは宮崎作品のヒロインにはついぞなかったものである。こういうキャラクターは全然宮崎監督向きじゃないよね。
 『キネマ旬報』で、ヒョーロンカと称する連中は、森田監督の快挙を完全に無視し、その年のベストテンではただの一票も入らなかったと記憶する。批評家によって視点が違っているとは言え、興行収入一位を記録した映画がここまで無視されるというのは異例のことだ。何らかの偏見があったことは確実で、この愚挙は歴史上の汚点であると言っていい。
キネ旬子飼いのヒョーロンカどもは、映画の本質が何一つ見えていないのに「映画評論家」の看板だけは堂々と掲げているのだから、こういう羊頭狗肉のヤカラには天誅を下してやるのが妥当だろう。誰か簀巻きにして川ん中に叩っこんでやってくれ。

 再度見返した『猫の恩返し』は、スタジオジブリは今後、この路線の映画を作っていかなければ未来はないと感じさせるものであった。ジブリには実はディズニーのミッキー・マウスのように、そのアニメスタジオを代表し、「使い回しの利く」キャラクターがまだ生まれてはいない。「トトロ」は、短編での続編は作られているが、もともと世界が一作で完結しており、長編での続編は作りにくいだろう。何より、宮崎駿以外の監督にキャラクターを任せようがない。それは他の作品においても同様である。
 しかし、「バロン」は使い回しの利くキャラクターである。もともと『耳をすませば』の月島雫が書いた物語の登場キャラクターではないか。雫が、本当に童話作家になれたのなら、「バロンの物語」は、これからも「書かれ続けなければならない」はずなのである。「しばしのお別れ」のはずが、もう随分長く間が空いていないか。


 沖縄体液軍人会(安永航一郎)『そらからこぼれたすごい汁』『舞シールド21(おとな用)』。
 同人誌の感想書くのはこの日記じゃ初めてかな。しげが「とらのあな潜入」を嫌がんなきゃ、もっと早くにアレとかコレとか感想書けたとは思うけど。
 作者名義は「沖縄体液軍人会」で安永さんの名前はどこにもないが、ご本人だということはもう広く知れ渡っておられるので、書いても問題はないのだろう。前者は『カレイドスター』の、後者は『舞−HiME』のエロパロ本。と言っても安永さんまんまの絵柄で、オリジナルに似せる気は毛頭ないようだから、誰が誰だか、説明されなきゃよく分かんない。一応、『カレイド』も『舞』も見てるから設定が全然分かんないというところまではいかないが。
 『そらから』はカレイドステージを追い出された、そら・ミア・アンナが生活のためにエンコーする話。女衒役はミアである(ハマってるなあ)。みんないいとこに筋肉付いてそうだから商売は繁盛しそうだね。と言ってもこちらの方は一般向けなので、近いとこまでしか描かれてません。って近いとこってどこだよ。
 イボったりパクられたりロゼッタを騙してロリペド野郎に売り飛ばしたり、極悪非道の限りを尽くして、オチが「いま新たなステージの“膜”が開く」ってんだから安永さんの人を食ったギャグ魂は全然衰えてないのである。私はナニの最中にもギャグを飛ばすアンナの芸人魂に拍手を送りたい(笑)。
 念のため言っときますけど、これはマンガなんだから、世の中の健全な坊ちゃん嬢ちゃんはマンガのマネして本当にエンコーなんてしちゃダメですよ。でもって、そこの「ロリペド」とかの単語検索で覗きに来やがった変態糞野郎、出会い系にアクセスしてじょしこーせーを呼び出したりするようなことしてんじゃねえぞ。
 『舞』の方は、舞衣と楯が、「死ぬまでに一発やろう」という話。おとな剥け……いや、「おとな向け」なので、14ページ中、9ページはやってます。体位はまあ普通で、前から後ろからで三パターンくらい。そんなに複雑なものはなくてちょっと物足りないが、高校生があんまりテクニシャンでも不自然だしな(笑)。でも楯君、最初は「鬼畜ド変態プレイ」をやってみたかったらしいぞ。口で言うほどにはできんと思うが、一応、厨房の時に「剣道休んで一通りすましてた」とか。純情な楯君ファンの女の子は悲鳴を上げそうな設定だが、いまどきの台湾バナナよりぶっとい神経の腐女子にはこの程度のエロは全然平気か。
 どうして全ページやってないんだようと仰る向きには、「それがプロの矜持というものだ」とご説明しておきましょうか。やっぱりちゃんとマンガになってるかどうか、でもって余計なゴタク並べずにちゃんとエロになってるかどうか、それがこのページ数のバランスに表れてますですよ。
 エロは絵もともかく擬音も重要だと思う。ぐちょぐちょぬぷぬぷはありふれているが、今回、「ぬちっ」てのが個人的にはなかなかいいなと思うのであった。

2004年08月26日(木) 確かに人間、みんな「夢」は見てるけどね。
2003年08月26日(火) サヨナラの季節/『のだめカンタービレ』3〜6巻(二ノ宮知子)/『ホントの話』(呉智英)
2001年08月26日(日) アノ娘にもツバがついていたのね/DVD『2001年宇宙の旅 スペシャルエディションBOX』
2000年08月26日(土) 森の木陰でドンジャラ補遺/『金髪の草原』(大島弓子)


2005年08月25日(木) トラノアナ潜入記/舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』

 朝からしげは風邪気味、私も下痢気味で二人揃ってダウンである。
 しげは「子ども文化コミュニティー」の裏方アルバイトをする予定だったのだが、急遽断りの電話を入れて休んだ。
 そのまま休んでいたかったのだが、舞台のチケットを買っているのでそうもいかない。
 鴉丸嬢を迎えに行って、天神に向かう。

 もともと今日の芝居は細川嬢を誘っていたのだが、都合が悪くなったので、チケットを鴉丸嬢に譲ったのだ。最初は鴉丸嬢、「お金が払えないから、ほかの人に譲っていいよ」と断ったらしい。そうしたら細川嬢、「お金要らないから黙って受け取れ!」と怒ったのだそうな。
 鴉丸嬢は「怒られちゃったあ」と笑っていたが、これは細川嬢の「いいお芝居はちゃんと見て、自分のマンガの参考にしなさい」という気持ちの表れだろう。こういう衷心は遠慮せずにちゃんと受け止めるもんだよ、鴉丸さん(受け止めてないわけではないだろうが)。

 芝居が始まるまで、少し時間があったので、鴉丸嬢が「まだ行ったことがない」という「とらのあな」を覗くことにする。知らない人はいないと思うが、ここは闇のプロレスラーの養成所である。うそ。
 鴉丸嬢のような、アチラ方面に濃い方が「とらのあな」に足を踏み入れたことがないというのはちょっとフシギではあったのだが、つい最近まで、天神に出店があることを知らなかったのだそうな。ネット販売ではもう完売してしまっている同人誌を探したいというので、こちらも付きあうことにする。
 実は私も何度かしげに「入ってみないか?」と誘っていたのだが、何しろ表が実にいかがわしいから、怖くて入ろうとしなかったのである。
 「だって外から中が見えないんだもん」
 「あれは、中にいる人を安心させるために見えなくしてるの!」
 鴉丸嬢にそう説得されて、ようやくしげも禁断の地に足を踏み入れることになったのであった。
 まあ、入ってみれば普通のエロな同人誌ショップである(笑)。
 BLコーナーにいかにもな腐女子がタムロしているほかは、中にいるのは見るからに電車男ファッションなオタクの群れである。ところが鴉丸嬢はエロなら何でもオールマイティーだから、密集している電車男たちの間にもスイスイ平気で入っていくのである。
 そうなると、電車男たちにとっては、自分の妄想の世界に浸っている最中に、いきなりナマのエルメスが出現したようなもので、ヒビッて引くこと引くこと。うーん、やっぱり修行の足りないやつらが多いんだなあ。鴉丸嬢、目的のブツを発見したようで、欣喜雀躍。早速、会員カードも作っていた。
 しげが「あんたもこういうの買うの?」と聞いてきたので、「お前と会う前は結構買ってたよ。あさりよしとおさんのとか、毛羽毛現さんのとか、プロの人のだけだけど」と答える。しげはなんだかフクザツな表情をしているが、つまりは私がここにいる電車男君たちと同類であることに対して、違和感を感じているのであろう。ったって、私は紛うことなきオタクですがな。
 探し回ってみると、今は亡き(死んでないけど)安永航一郎さんの「沖縄体液軍人会」の同人誌が2冊あったので、両方とも購入する。さすが地元だ、揃いがイイわ。
 安永さんは出版社とトラブル起こしまくって、『超感覚ANALマン』も『火星人刑事』も続きが出ない状況になっているので、新作はもう同人誌でしか読めない。度胸のある出版者が安永さんを引き取ってくれると嬉しいんだけどなあ。太田出版あたりがドンと一発やってくれないもんかね。
 安永本が入手できたおかげで、しげはウキウキである。ついさっきまで「入りきらん(=入れない)」と言っていたのが、「また今度来よう」に変わってしまった。また鴉丸嬢と予定が合えば出向くことになるだろう。


 福岡市民会館で、劇団うりんこによる舞台『弟の戦争 GULF(ガルフ)』。
 原作はロバート・ウェストールの児童文学、脚本・演出は鐘下辰男氏。
 いやもう、何というか感無量、押し付けがましく説教臭い「反戦」作品ばかり作っている映画人、演劇人は、鐘下さんの爪の垢でも煎じて飲めと言いたくなるくらいの傑作だった。

 主人公のトムには、子供のころ、「フィギス」という名の想像上の友達を作って遊んでいた。彼が三歳のときに、弟・アンディーが生まれる。ところがトムは、弟のことを「フィギス」と呼び、自分の前では常に「フィギス」として振る舞うように強要する。
 アンディーは優しい子で、兄のトムの言うことは何でも聞いた。しかしそのうち、トムはアンディーに奇妙な能力が備わっていることに気付く。精神感応。彼には人の心を読み取り、遠く離れた外国の人々と交信することさえできたのだ。見たこともない呪術師の名前を言い当てる。飢えた難民の子どもの写真を見て「助けてやって」と叫ぶ。建築家の父も、市会議員の母親も、そんなアンディーを少しばかり持て余し気味であったが、トムはアンディーがだんだんと「深み」にはまっていくのを面白がって見ていた。
 しかし、そうしているうちにトムが15歳、アンディーが12歳になったとき、弟は「あちら側」に行ったきりになってしまった。彼はアラビア語しか話さなくなった。自分の名は「ラティーフ」だと言った。そして、彼は戦場の塹壕の中にいた。現実世界でも、海の向こうで戦争は始まっていた……。

 圧倒されたのはまず舞台装置である。
 演劇の成否は、まず舞台美術が単なる置物ではなく「演劇」を志向しているかどうかに懸かっていると言ってもいいが、これは最上の舞台と言ってもいい。
 建築中のビルの鉄骨、これが中央を取り巻く壁のように組み立てられ、移動し、あるときはこれが家に、あるときは病院に、あるときは戦場に見立てられる。
 工事の騒音は戦場の爆音にシンクロし、ラグビーの試合は戦場の戦いに見立てられる。しかしそれはただの見立てではない。科学が兵器を作りだし、闘争心が諍いを生んだ事実を象徴する演劇的寓意である。
 演出の鐘下さんの主張はこうである。「知識としての戦争を理解するためのドラマではなく、経験として戦争を実感していくドラマ」、それを作り出すこと。そのためには、舞台上に二つの「機能」を持ったものを配置することが必要だった。
 一つはもちろん、アンディーでありフィギスでありラティーフである「弟」である。
 トムのいる世界は平和なこの国である。戦争の陰はどこにも見えない。テレビからは始終戦争の映像が流れてくるが(実際に舞台には無数のテレビが置かれている)、スイッチを消せば、戦争は目の前から消えてなくなる。戦争はいつだって他人事で、対岸の火事で、よその国で誰が何人死のうと関係なんかない。そうほざいて仮に誰かの叱責を買ったとしても、少しも痛痒を感じはしない。我々は、もう長いこと、戦争を自覚せずにすむ世界に住んでいるのだ。
 「戦争をなくしてくれよ!」と糾弾された母は、文字通りテレビのスイッチを切るという行動に出る。そしてこうも言うのだ。「私たちに何ができるって言うの?」。
 まさしくその通りだ。誰にも戦争を止めることなどできない。政治家にも、学者にも、軍人にも、もちろん庶民にも。我々が戦争を知らずに来られたのは、そして、海の向こうの人たちが戦争に巻き込まれてしまったのは、ただ生まれた国が違っていたという「運」の問題でしかないのだ。
 怖いのはこれからだ。目の前の弟が、現実に戦争を体験していても、誰も彼を救うことはできない。彼は、精神感応という能力を持ってしまったばかりに(そしてそれをおもちゃにした兄のせいで)、現実の戦争を体験することになってしまった。けれども、もしその能力が「兄である自分の方に発動していたら」?
 もっと端的に言えば、アンディーの存在は、もし、自分が「あの国に生まれていたら?」という問いかけを観客一人一人に問いかけているのである。知恵も、勇気も、努力も、何の役にも立たない。人間の営為が全て否定される世界に生まれるも生まれないも、それは全て「運」なのである。こんな「不公平」があるだろうか?
 そしてもう一つの戦争を実感するための「機能」、それが檻のような鉄骨の装置である。
 平和な世界では戦争はファンタジーでしかない。しかしそのファンタジーが容易に現実の戦争に反転し、シンクロすることを、この装置は見事に表現している。ここでも「運」の問題が浮上してくる。工事現場のドリルを握る手が、運が悪ければ戦場で銃を持つ腕に変わっていたかもしれないのだ。ラグビーボールを握る手が、手榴弾を握る手になっていたかもしれないのだ。しかし、もしもそうなっていたとしても、私たちにはその運命を帰る力などないのだ。こんな「不公平」があるだろうか?

 そして、この戦争の悲惨を回避する唯一の手段を、この物語は極めて冷静に示してくれる。キレイゴトだけの反戦映画『ハウル何たら』のように、電話一本で終わるようなアホな解決方法ではない。極めて実効性の高い、現実的な解答である。
 それは狂うことである。
 それ以外に方法があるか?
 それ以外に戦場にいても戦わず、敵を殺さずにいる方法があるか?
 自らが死ぬのでなければ、戦争の残虐、戦争の悲惨から脱出する方法はないのだ。運命に逆らう方法はそれしかないのだ。世界が既に狂っているのだから、我々個人は更に狂うことでしか、正常にはなれないのだ。
 「あれから何が変わったか。弟は変わらない。弟はずっとあのままだ。変わったのは僕たちだ。父はラグビーを止めた。母は仕事を辞めた。そして僕は……」。
 しかし、現実の我々は、今のこの「ファンタジーとしての平和」にいつまでもしがみついているだろう。スポーツという擬似戦争に狂喜し、政治という擬似社会を構築する方法論に期待し、実はそれが「ファンタジーとしての戦争」を夢見る行為であることに気付きもせずに日々を過ごすことだろう。
 だから政治とスポーツを嬉々として語るような既知外連中は鬱陶しいんである。

 芝居を見終わったあと、鐘下辰男さんとの懇談会などもあったのだが、そこまで鴉丸嬢を付き合わせるのは申し訳なかったので、そそくさと会場を後にする。
 鴉丸嬢、「事前に何も筋とか知らなかったから、面白かった」との感想。
 確かに、映画にしろ演劇にしろ、先入観がない方が虚心坦懐に作品を見ることができるし、楽しいに違いないのだが、これだけたくさんのモノが溢れている状況では、完全に情報をシャットアウトもできない。ちょっとした粗筋とか、そういうものを参考にして、「この映画を見よう」とか選択の基準にするしか仕方がないのである。まあ、事前情報を仕入れていても、それに振り回されない冷静さを培うことが大切だろうなと思うのである。
 事前情報がなさ過ぎるのも良し悪しだというのは、時には大きな勘違いをしてしまうこともあるからだ。
 鴉丸嬢、「途中まで、外国の話じゃなくて日本の話だと思ってた」と言ってたが、貰ったパンフの表紙くらいは見ておこうよ。作者、外国人だぞ。それに、冒頭からトムとかアンディーとか、名前が出てたんだがなあ。それとも鴉丸嬢のご近所には「トム山田」とか「アンディー吉田」とか、そんな人の方が多いのだろうか。


 箱崎の「ゆめタウン」の中華な店で、三人で食事。
 どうやって作ってるんだかよく分からないが、「黒いチャーハン」があったので注文してみる。見た目は本当に黒かったが、味は普通のチャーハン。別に外れではなかったからいいんだけれども、ものすごい味を想像していたので、美味いのに拍子抜けであった。

 食事をしながら、例の天神にできた「メイドカフェ」の話を鴉丸さんにしてみる。「バイト募集してるみたいだけど、やってみたい?」(もちろん冗談で聞いてみたので、其ノ他君、怒らないでね)。
 年齢制限は18歳から25歳までだよ、と言うと、「年がギリギリだから」と首を横に振った。隣からしげが「若く見えるから大丈夫」と茶々を入れる。
 「高校のころは年上に見られてたんだけどね。最近は『大学生?』とか言われるよお」
 「いいなあ、私なんか最近全然、歳を聞かれない。メイドは無理かな?」
 確かにしげは見た目年齢不肖なところがあるが、20代に見られたいというのはいくら何でもおこがましいというものであろう。
 「メイドカフェは女性が入っても『ご主人様』と言ってくれるのだろうか?」と鴉丸嬢は気にしていたが、男性専科とは謳ってなかったように思うから、大丈夫なのではなかろうか。もっとも、本当に入る気があるかどうかは疑問だけれども。

 東京のグータロウ君からしげと私の携帯にメールが来ていたので見てみると、先日お送りした「こどもびいる」が届いたとの知らせだった。
 「こどもびいる」の正体は、昔からある「ガラナ」とか「アップルタイザー」ってやつなのだが、コップに注ぐと黄金色で泡が立ち、ビールのように見える。
 そこに着目した福岡の「下町屋」という店が、数年前にラベルを貼り替えて売り出したら、これが爆発的にヒットした。福岡では、レストランのメニューに入れているところもあるが、去年あたりからはデパートなどでギフト用に売られているものも見かけるようになっている。そこから全国区に人気が広がっていったものらしい。
 『はなまるマーケット』や『やじうまプラス』でも紹介されたというので、ご存知の方もいらっしゃるかもしれない。東京でも何軒か、売ってる店があるようなのだが、グータロウ君のうちの近所ではまだあまり見かけないようなので、話のタネにお送りしてみることにしたのである。
 取り扱い店に頼んだのは日曜日だったから、ちょっと届くのが遅れた感じだが、台風の影響か何かだろうか。随分喜んでいただけたようで、みんなで飲んでいる写真まで添付している。しげのとこに送ってきた写真はお子さんがビンをラッパ飲みしてる姿で、ちょいと行儀は悪いけれども「こんなに大人ぶってるよー」ということか(笑)。これがきっかけになって、うっかりホンモノのビールに興味を持ったりたしないでほしいものだが。
 「こどもびいる」を一番楽しめるのはやはり小学生のお子さんがいる家庭だろうなあと思っていたのはドンピシャだったようで、嬉しいことである。。
 ネットでも注文できるようなので、ご興味のある方は、「こどもびいる」で検索してみてください。
 
 
 鴉丸嬢をお宅に送り届けて、帰宅は11時。
 ちょっと遅かったが、しげが「こどもびいる」の反応が聞きたいと言うので、東京のグータロウ君のうちに電話を掛ける。
 口調で受けていただいた様子が分かって、こちらも嬉しい。
 お子さんが「ラッパ飲み」していたのは、ちゃんとコップに注いで飲んだ後、ふざけて空ビンを口にしただけなので、躾が行き届いていないわけではないよ、とのこと。猿股失敬。あとはお子さんがたが学校で「こないだビール飲んだよ」とか誤解されるようなことを言わないように気をつけてもらえばよいかと思う。
 でもってまた劇団の話、芝居の話などを少々。
 今日の芝居、鴉丸嬢も面白がっていた話をすると、「マンガの参考になればいいねえ」との言葉。グータロウ君も鴉丸嬢がプロを目指しているのは知っているから、これは叱咤激励の言葉である。鴉丸さん、ホントにね、いろんな人から期待されてるんだからね、根性入れて頑張りなさいよ。
 また長話になりそうな感じだったのだが、あちらの背後で何やら音がした。「ちょっとごめんね、今日はこれで」と挨拶もそこそこに電話を切ることになってしまった。どうやら緊急事態が起こった様子である。台風も東京を直撃のようだし、先日から彼の日記でも何度か書かれていたので、何が起こったのか、事態の中身は見当が付く。ヒトの不幸を喜ぶようで恐縮なのだが、先日、メールでも「『ふるやのもり』に取り憑かれてるのかい?」と書いて送っていたのである。でも「妖怪屋敷」に住むなんて滅多にできる経験ではないし。ほかにも「家鳴り」とか「吹っ消し婆あ」とか「網切り」とかいるんじゃないか(笑)。

 蛇足ではあるが、「ふるやのもり」の昔話について、ご存知のない方へ、だいたいの筋を解説しよう(確か昔、テレビアニメ『日本むかしばなし』でも紹介されたことがあったと記憶している)。今回は特別に「博多弁バージョン」である(笑)。

 ある嵐の夜、村外れの農家に、泥棒が忍び込んだ。そこには爺さんと婆さんが寝ていたが、寝物語にこんなことをお喋りしている。
 「なあ爺さん、こげなえずか夜に泥棒の来よったら、どげんするとね」
 「何ね婆さん、泥棒やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」
 天井裏に潜んでいた泥棒は、泥棒よりも恐ろしい「ふるやのもり」とは何なのだろうと驚く。
 そこに今度は狼がやってきて、爺さんと婆さんを食ってしまおうとする。
 「なあ爺さん、こげなえずか夜に狼の来よったら、どげんするとね」
 「何ね婆さん、狼やら『ふるやのもり』に比べたら、なんちゃなかよ」
 土間に上がりこんでいた狼は、狼よりも恐ろしい「ふるやのもり」とはどんな化け物だと驚く。
 嵐は激しくなり、稲光がピカッと光って、篠突く雨がザアッと音を立てて茅葺屋根に降り注いだ。
 爺さんと婆さんは、「ああ、『ふるやのもり』が来よったばい!」と叫ぶ。
 「ふるやのもり」がどこに来たのかと慌てた泥棒は、梁から狼の背中に落ちる。
 「ふるやのもり」が襲ってきたのかと慌てた狼は、飛び上がって外に逃げ出す。
 狼はしがみついた泥棒を振り払おうと嵐の中を必死に走るが、泥棒も振り落とされたら襲われると思って必死にしがみつく。一晩中走り回るうちに、泥棒もついに力尽きて狼から転げ落ち、狼もそのままフラフラとどこかへ行ってしまった。
 次の日の朝、泥棒は仲間の泥棒たちにこう言った。 
 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」
 次の日の朝、狼は仲間の狼たちにこう言った。
 「よう聞いときい、あの農家にはうっかり近づいたらいかんばい。『ふるやのもり』っちゅうて、もうえらい化け物の出よるけんね」
 そのころ爺さんと婆さんは、雨漏りですっかりびしょ濡れになった家中の畳を汗だくになって表に出していた。
 「ああ、これやけん、『古家の漏り』はえずかとよ」

 いくつか、結末が違うバージョンもあるようだが、基本形はこんな感じである。

2004年08月25日(水) 美人プラス1
2003年08月25日(月) 世代の違いってことじゃないと思うけど/『ASTRO BOY 鉄腕アトム』1巻(手塚治虫原作・姫川明)
2001年08月25日(土) 夢は宇宙/『なつのロケット』(あさりよしとお)ほか
2000年08月25日(金) 唐沢本の感想書けなかったけど面白いぞ/『垂里冴子のお見合いと推理』(山口雅也)ほか



↑エンピツ投票ボタン
日記の表紙へ|昨日の日記|明日の日記

☆劇団メンバー日記リンク☆


藤原敬之(ふじわら・けいし)