無責任賛歌
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藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年08月28日(土) 夏の終わりの小さな花火

 こないだ満杯の女性客で見損ねていた『誰も知らない』、今日こそは見ようと、鴉丸嬢を誘って、朝の第1回目を狙って、開場の30分前にシネリーブル博多駅の前に並ぶ。でも既にシャッターの前には、学生らしき3人組、何人かの女性客などが陣取っていたのであった。徹夜組まではいなかったと思うけれど、それにしてもみんな熱心なことである。いくらカンヌで有名になったからと言って、それがヒットに直結するものでもないから、これはやはり作品の持っている力、役者たちの魅力に負うところが大きいのだろうな、と想像する。
 開場と同時に客が雪崩れこんでいき、開演10分前には満席、パイプ椅子が出されるほどの盛況。しげ、「この映画館がこんなに満杯になったの初めて見た」と感嘆。確かに小さな映画館で、収容人数は150人ほどだろうが、それにしても平日休日を問わずいつ来ても満杯というのはやはり大ヒットである。シネ・リーブルのように、いかにもオタク御用達といった感じのミニシアターはぜひ存続していってほしいので、こういうヒットが時々はあってくれないと困る。多少の混雑はガマンしようというもの。
 映画はリアルな描写を重ねながらも全体としては一篇のファンタジー。親に見捨てられた子供が自活していた、という現実の事件を元にしてはいるけれども、それを理想的に見えるほどに描いている。なんだこれ、「ユートピアだな」と思って、後でパンフを見てみら、監督自身、そう書いていた。なんだか川原泉の『夢だっていいじゃない』を連想したことである。
 しげと鴉丸嬢は、見終わって二人で「もうちょっと波瀾があったほうがなあ」とか言ってたが、つまりそれは「もう、一人二人死んでたら」ということである。なかなか派手好みなことであるが(そう表現していいものかどうか疑問はあるが)、これはタイトル通り「誰も知らない」物語だから、事件そのものは殆ど必要としていない話なのだ。逆にもっとドラマ的な要素は排除してもいいくらいのもので、こういう「静かな映画」もたまにはいいものだと思う。でも、そういうことを言うと、しげから「アンタ、ホントにお坊ちゃんだね」と言われてしまうのである(~_~;)。
 「やっぱ、ガスの集金人が来たら声を潜めるのは基本だよね」とか二人で頷きあってるけど、子供のころ、どういう生活してきたのかね、君たちは。

 映画のあと、「ダイソー」で芝居の小道具を買い込む。これのためにここ何ヶ月か、メンバーでチビチビと貯金をしてきていたのだが、まあまあおカネが溜まっていたので、かなりな数の小道具が買えた。うちの劇団、一応、毎月劇団費を回収することになってはいるのだけれど、実際には殆ど支払われたためしがない。練習に参加したときに、「ジュース一杯飲んだつもりになって」貯金箱に百円入れる、という形式に変えたら、ちゃんとおカネが溜まるようになったのである。払った金額に個人差はあったと思うが、こちらの方が劇団運営としてはスムーズにいった結果になったわけで、つくづく「強制」ということがキライな連中が集まっているのだな、と感心するやら苦笑するやら。

 一旦、帰宅、荷物を部屋に運びこむ。夜、其ノ他君の仕事が終わるのを待って、「夏の思い出(^o^)」に花火をする予定なので、それまでは時間潰し。私は疲れて仮眠を取るが(つか、買ったばかりのDVD『ケロロ軍曹』第1巻見てたら落ちた)、しげと鴉丸嬢はパソコン使ってなにかパコパコやってたようだ。
 夕方から其ノ他君を誘いにご自宅へ。ちょうどお食事と風呂の最中だったので、しばらく本屋などを回って時間潰し。それでもまだ時間が余っていたので、しげに「どうする? コンビニにでも行くか?」と聞くと、「玄関で待ってた方がいい!」と怒って反駁される。なにも怒らんでもいいじゃないか、と口喧嘩になるのを見て、鴉丸嬢が喜ぶこと。「藤原夫婦って、どんな小さなことでも決着つけないと気がすまないのね。私なんかすぐ流すけど」と言われてしまったが、私だって、ほかの人間相手でこんなに口論になることは滅多にないのである。今回も私は単に「どうやって待つ?」と聞いただけなのに、しげが「自分が待つのがイヤで退屈なものだから、あっちこっち引きずりまわしたいのだろう」と勝手に思いこんだのである。「他人は自分のことを思いやってはくれない」という被害妄想でしか人を見られないというのは根本的に性格が歪んでいるからで、そういう心の病気をこそ、治してほしいんだけどねえ。


 10時を回って、其ノ他君と合流。最初は皿山公園で花火をする予定だったのだが、実際にそこに行ってみると、車がワンサカ並んでいて、中ではカップルがただ今ナニの真っ最中(私の視力では全然見えないのだが、みんな「ホラホラあそこ、サカッてるサカッてる」と指を差すので、どうやらそうだったらしい)。さすがにその側でドンパチやらかす勇気はないので、仕方なくもっと山上の、人気のないところまで行く。以前、しげと二人で星を見に来た小さな公園である。
 しげの花火の好みはスモークとかヘビ花火とか地味なもの、鴉丸嬢は線香花火がメイン、ということで、ムチャクチャ地味である。私と其ノ他君は専ら飛行機とかドラゴンとかを飛ばしているので、花火にも男女で好みの違いと言うか、二極分化があるのだと理解する。しかし、夜中にスモーク焚いたり光らないヘビ花火をやったりして、しげは何が面白いのだろうか、その思考回路がよく分からないのである。実際、煙いだけで、鴉丸嬢はノド痛めちゃったし、もうちょっとTPOを考えてほしいのである。
 けれど、満月とまでは行かないが、十三夜(くらい)の月で、足元が見えないほどではなく、以前来た時のように真っ暗でもなく、ほどよい明るさの中で花火ができたのはよかった。
 帰宅したのが12時を過ぎていたので、日記もさほど書けず。最近は休日になってもなんだかんだでコンテンツを書く時間もなかなか取れないのだが、そのうちドカッと書くつもりなので、数少ない読者のみなさまがたにはご容赦頂きたい。


 なんかまあ、また三面記事からのマヌケなニュース。
 今朝、松山市安城寺町で、家の車庫に止めた乗用車から出火、木造2階建て150平方メートルが全焼した。これだけなら別によくある火事なのだけれど、出火原因というのがおおマヌケなのである。
 車内にいたのは、その家の二男で22歳の無色のAさん(まあ凶悪犯罪者ってわけでもないから仮名にしとこう)。Aさんは車内で仮眠していたのだけれど、目が覚めてみると、ブンブンと蚊が飛んでいる。寝惚けた頭で殺虫剤をまいたAさん、その直後にあろうことか煙草を吸おうとライターに火を付けた。
 結果は当然、大爆発である。本人は軽い火傷ですんだそうだけれど、引火した火が、家まで燃やしつくしちゃったというわけ。
 ……あ〜、科学的知識がないと言うか、「火のあるところで殺虫剤は撒いちゃいけない(手順は逆になってるけど、同じことだね)」って常識自体、この人、持ってなかったのかねえ。火の回りが早かったせいもあるのかもしれないけれど、このマヌケぶりだと、何が起こったのかも理解できずに、消火活動もロクにできなかったんじゃなかろうか。
 この人にだって、「ガスは引火するものだ」という知識がなかったわけじゃないだろう。ただ、「知識」ってのは、往々にして「知識」のレベルに留まって、現実への応用が効かないことがしばしばである。アタマのよさってのは知識の多寡じゃなくて、その個々の知識の関連性を見抜き、現実に応用できるかどうかって点にかかってるんだけど、それができる人って案外少ないんだよねえ。日本ってクニは、下手に知識があるとかガクレキがあるとか、そんなのがステイタスとして成り立っちゃってる社会だから、世の中「馬鹿ばっか」であることに気づきにくくなってるんだよねえ。
 思うんだけど、それって、やっぱり学校での「理科の授業のつまらなさ」にも大きな原因があるんじゃなかろうか。いや、理科の授業自体は教師がよっぽどヘタクソでない限り、基本的にとても楽しいものなのである。けれどその楽しさを感じられない人がやたら増えてきてはしないか。科学の楽しさというのは、この世の一見でたらめでてんでんばらばらに見える現象に、ある一定の法則が存在していることを発見する興奮にあるんじゃないかと思う。つまりまさしく「ユリイカ!」って感得する瞬間なんだけど、そういうものを「感じられない」人って、会話しててわかるんだよねえ。で、気が付くと周囲の人間がみんな「そんな人たち」になっているのである。悲しいことに、「自分には知識がある」と思ってる人にかえってそんな人が多い。だから知識があるだけじゃ全然アタマがいいことにはならないんだってば。トリビアで言えば、3へぇくらいの知識ばかりやたら持ってる人なんだね(^o^)。
 「知識」が「好奇心」を喚起するためには、やはりそこに我々の魂に訴えかける「何か」が介在しなければならないのである。我々は今や、雷がただの放電現象であることを知っている。これを昔は雲の上に鬼や雷獣がいるのだと説明していた。もちろんそれは正しくはないのだけれど、雲の上にいる「あるもの」への思いを馳せ、雷がなればヘソを隠すような「生活習慣」まで作りあげていた。知識が我々の人生に密着していたのだ。それに対して、雷を放電現象、と説明することは確かに科学的には正しいし、それを教えることも当然のことではあるのだけれど、実はその「雲の上」への我々の「思い」まで消してしまっているのだ。正しいことを教える、だけでは実は知識の伝授は叶わない。陳腐な言い方になって恐縮だが、心を忘れた科学には幸せ求める「夢」がない。神秘を排除した科学は、実は至極つまらないものなのである。
 空はどうして青いのか、雪はどうして白いのか、月はどうして満ち欠けするのか、星はどうして瞬いているのか、虹はどうして七色なのか、リンゴはなぜ落ちるのか……。親が子に、それを「科学的に」説明することは可能だろう。でもそれで終わってしまっては、知識は決して我々の生きる糧とはならない。何ならそこで正しい知識を教えなくったって構わない。お空があんなに青いの、にペンキ屋さんがいるとウソついたっていいのだ。ちょっと理科の知識かじってる小学生なら、「空が青く見えるのは、波長の短い光が大気中で屈折して拡散しているからでしょ?」くらいのことはサラッと言う。でもそこで、「じゃあたかがその散乱現象でどうしてあそこまで澄んだ色が出せるの?」と問い返したとき、その子どもが本当に「アタマのいい」子なら、自然がどれほど“科学的な奇跡”を生んでいるのか、過去の人々もまた、その「美しさ」を説明するための“科学的精神”を持っていたのだということに気づくのである。
 ……火事の話がなんか教育の話にシフトしてしまったが、「親や教師の教育が悪い」ってとこの何がどう「悪い」のか、ヒトコトで言っちゃえば、「夢」を説得力を持って語ってないとこなのよ。パチンコやって、子供を車中に置き去りにする馬鹿親と、この殺虫剤引火男と、根底で共通してるとこがあると思うんだけどね。


 イギリスの新聞「ガーディアン」紙が、国内外の著名な科学者56人に対してインタビューを行い、「SF映画TOP10」を発表した。以下はそのリスト。

1.『ブレードランナー』("Blade Runner",1982年)
2.『2001年宇宙の旅』("2001: A Space Odyssey",1968年)
3.『スター・ウォーズ』("Star Wars",1977年)、『スター・ウォーズ 帝国の逆襲』("Star Wars: Episode V - The Empire Strikes Back",1980年)
4.『エイリアン』("Alien",1979年)
5.『惑星ソラリス』("Solaris",1972年)
6.『ターミネーター』("Terminator",1984年)、「ターミネーター2」("Terminator 2: Judgment Day",1991年)
7.『地球の静止する日』("The Day the Earth Stood Still",1951年)
8.『宇宙戦争』("War of the Worlds",1953年)
9.『マトリックス』("The Matrix",1999年)
10.『未知との遭遇』("Close Encounters of the Third Kind",1977年)

 別に「科学者」という枠を設けなくても、至極妥当な結果が出てる印象があるねえ。文系の人に聞いたって似たような結果になるだろうし、私がベストテン作っても、多少順位が入れ変わって、2、3の作品が入れ替わるだけで、同様のものになっちゃうと思う。8、9、10位を落として、『決死圏SOS宇宙船』『博士の異常な愛情』『ゴジラ』あたりを入れるかな。次点は『猿の惑星』か『スター・トレック』ってとこか。でもこれも「絶対」じゃない。
 SF映画と言っても幅は広いし、ファンタジーとの境界線も曖昧である。『2001年』のようなハードSFと、『スター・ウォーズ』のような限りなくファンタジーに近いものとを同列に論じることは、そもそもムチャなことである(『ガンダム』はSFか否かで論争が起こることはしばしばでも、『スター・ウォーズ』でそれが起こりにくいのは、監督本人が「SFじゃない」発言をしているせいもあるんだろう)。「SFコメディ」とジャンルを区切ったら、M.ナイト・シャマラン監督作品やジェリー・ブラッカイマー製作作品も上位にランキングされるかもしれない。
 それに、「ベストテン」について言えることは、調査人数が増えれば増えるほど最大公約数的な(極端な話、見ている映画が10本しかなくて、しかも有名どころしか知らない人間は、それしか選べない)結果にしかならないから、対象者を絞ったところで、明確な差異はでないことが多いのである。いろんな意味で「ベストテン」と「作品評価」とはあまり直結させない方がいいと思うのだが、今回の場合も「科学者が勧めているから素晴らしいSF映画なんだ」というようには考えない方がいいのではないか。
 いや、もちろん『ブレードランナー』にSF映画としての価値がないと言いたいわけじゃないので、勘違いはなさらないよう。あれを1位に推すことには反対は一切ございません。


 映画監督の山本迪夫(やまもと・みちお)氏が、23日に肝臓がんのため死去、享年71。
 言わずと知れた『血を吸う』シリーズの監督さんであるが、怪獣もの以外で私が最初に劇場で見た映画が山本監督の『血を吸う』シリーズだった。
 いやもう、不気味に佇む洋館、そこに誘いこまれる少女の幻想的な映像、なにより故・岸田森のクリストファー・リーに比肩する凶悪な吸血鬼像、全く、小学生の私に強烈なトラウマを与えてくれた映画であった。西洋基盤の、本来日本映画に移植することは不可能に近い吸血鬼映画を、怪談映画のフォーマットも利用しつつ見事に換骨奪胎してみせた山本監督の力量は、もっと評価されてしかるべきだったと思う。「B級映画」の監督というレッテルを貼られて久しいが、そういう区分けが結果的に監督を単純にランク分けしてしまい、個々の演出の妙をキチンと評価できなくなってしまっている弊害は結構ある。トンデモ演出を「B級」と呼称するなら、キューブリックにもクロサワにも結構B級なとこあるんだから、あまり短絡的なジャンル分けはしてほしくないんだよなあ。
 確かに、今の若い観客が『血を吸う』シリーズを見て、「怖がる」かどうかは保証の限りではない。かえって「笑われてしまう」面もあるとは思うのだが、『血を吸う』シリーズは、一見、日本的な土着の怨念といったものを排除しているように見えて、実は根底にそういうものはしっかり内包されており、それをより普遍的な西洋風の意匠で映像化してみせた、画期的なシリーズだったと思うのである。
 監督の死をきっかけに再評価を、というのは悲しいことではあるのだが、岸田森がらみでのみ語られることの多かった『血を吸う』シリーズは、もっと多方面からの再評価がされていい映画であったと思うし(例えば近年の和製ホラーとの関連についてとか)、またされなければいけないと思う。

2003年08月28日(木) 謎の暗号?(^_^;)/DVD『アパートの鍵貸します』/映画『英雄 HERO』
2001年08月28日(火) クリエイターの条件/映画『ハムナプトラ2 黄金のピラミッド』ほか
2000年08月28日(月) 完治には1週間以上かかりそうです/ドラマ『百年の物語』ほか



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