無責任賛歌
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|藤原敬之(ふじわら・けいし)

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2004年11月22日(月) 『ハウルの動く城』動く!/夏目義徳『クロザクロ』1巻

 『ハウルの動く城』の初日、二日目の動員&興行収入が、邦画史上最高となったとか。動員は約110万5000人、興収14・8億円。洋画の最高収入『マトリックス リローデッド』の22億2000万円には及ばないが、ロングランがまず確実、リピーターも望める『ハウル』が今後さまざまな記録を塗り変えて行くであろうことは容易に想像がつく。最終的に400億円は行っちゃうんじゃないかな。既に50カ国からのオファーがあり、アメリカ公開版は『モンスターズ・インク』のピート・ドクター監督が監修を務めることになっている。公開間もないというのに既に「留まるところを知らない」雰囲気ができあがりつつある感じだ。
 でも、昨日のダイヤモンドシティでの観客の様子を見る限りではそんなにヒットしてたって印象はない。レイトショーではあったけれども、なんたって半分くらいしか席が埋まってなかったのである。もっともあそこはもともと交通アクセスがやたら悪いとこだし、なんたって場末だし、ここでのヒット状況だけで全体はとても測れはしないのだけれども(場末と言ったが、それでもおととい山口の湯田温泉で見かけた、ラーメンの金龍の上が映画館になってたうらぶれぶりよりは何十倍も立派なのである)。
 福岡近辺にお住まいのみなさま、ゆったりと『ハウル』をご覧になりたいのなら、ダイヤモンドシティのワーナーマイカル福岡ルクルにどうぞお越しを(^o^)。
 映画のヒット自体はめでたい限りなのだが、心配なのはこれからのジブリの動向である。何と言っても宮崎監督はもう63歳だ。既に次回作の準備に入っているとは言うが、1作仕上げるのにどうしても2、3年はかかる以上、あと長編映画が作れるとしても、年齢的に3、4本が限界ではなかろうか。『ハウル』の出来を見る限り、失礼ながらちょっとボケも始まってる可能性だってある。これまで同様、宮崎駿におんぶにだっこで、後進を育てていけないのならば、やがてジブリ製作の作品にだってその魅力に陰りが見えてくるのは自明の理だと思う。
 もっとも、先日、アニマックスの『広島国際アニメーションフェスティバル』の特番に出演していた高畑勲監督が、「我々は長編アニメを作ることで観客と向きあってきたが、世界各国の短編をこうして一度に見られた経験は大変おもしろかった」旨の発言をしていたから、スタジオジブリもこれから短編を製作するようになるかもしれない。これまでにも『そらいろのたね』とか、三鷹の森ジブリ美術館でしか公開してない『めいとこねこバス
』、『くじらとり』、『コロの大さんぽ』などを製作しているのだから、決して不可能ではないと思うのだが。いっそのことテレビシリーズを立ちあげてくれると嬉しいんだがなあ。
 毎週、ジブリの新作がテレビで見られるなんて、すばらしいとは思いませんか?


 休日の合間に一日だけ出勤するのもかえって疲れる感じである。
 山口行きに練習に映画と、やはりかなりカラダを酷使していたのだろう、朝目覚められずに10分ほど遅刻。しげもカラダが動かなかったので、タクシーで出勤しようとしたのだが、朝の時間帯、うちの近所のタクシー会社、たいてい車が出払っているので、なかなか捕まらなかったのだ。
 遅れてきたので、「大丈夫ですか?」と同僚がやたら心配してくれる。何しろうちの職場、60人とちょっとの小ぢんまりとした所帯だってのに、現段階で5人も病気休業者が出ているのである。ここで私まで倒れたら、仕事がどれだけ滞るか、見当もつかないのである。特にトンガリさん関係(^_^;)。
 そのトンガリさん、今日の会議でも同席はしていたものの、ずっと背中を向けたままで声をかけても返事をしようともしなかった。もう何をか言わんやであるが、もはやどうしてこの人がクビにもならずに仕事を続けられているのか、七不思議の域に入りつつあるのである。


 しげの舞台衣装やら靴やらを探しにキャナルシティへ。しげは「スポーツオーソリティー」へ直行したが、私は「福家書店」へ。しげから「何もそんなに時間を短縮しようとしなくても」と言われたが、舞台用の衣裳なら担当は鴉丸嬢だから、私は一緒にいても意味はない。「これどうかな?」と聞かれても返答のしようがないのだ。
 福家書店で本を物色しながら待っていたら、しげが青い顔をしてやってきた。かなり気分が悪そうだったので、映画を見ようかと言っていた約束はキャンセルすることにする。「仕事場にお土産を持って行く。ここんとこずっと休んでて迷惑かけてるから」と言うので、「ラ・ブーン」に回るが、しげが目当てにしていた『どこでもいっしょ』のショップが潰れてしまっていた。仕方なくNHKグッズの店に回るが、しげは「オレの好きな店がどんどんなくなっていく」とショックを受けていたようである。キャナルシティはミッフィーグッズの店もなくなってしまっていたが、ホントに繁盛しているのだろうか。

 帰宅して、「チャンネルNECO」で漫然と『気になる嫁さん』や『このこ誰の子?』、『テニス少女夢伝説』『ファイヤーマン』『ゲートキーパーズ21』など。いちいち感想書いてはいられないけれど、懐かしの大映ドラマ、どれを見ても同じに見えるにもかかわらず目が惹きつけられてしまうのはなぜなんだろう。出て来るアイドル、殆ど2線級のブス子ちゃんばかりだというのに(山口百恵は例外中の例外だったのである)。
 DVDで北野武版『座頭市』など見返しながら就寝。


 読んだ本の感想、小説もマンガもなかなか書けないが、一冊だけ。
 夏目義徳『クロザクロ』1巻(少年サンデーコミックス)。
 ベースはやっぱり『デビルマン』なのは、人間のさらに上位の存在としての「悪魔」を設定し、「食物連鎖」のネタを出してきていることからも察せられるのだが、悪魔の種子にとり憑かれた主人公が、もとのからだに戻るためにハンターの少女に正体を隠して近づくシチュエーションに新味がある。家族や知人が食料としての「肉」としてしか見えなくなっていくのもスリルがあっていい。多分その「食料」を人間から悪魔へとすりかえていくことで主人公が助かる道を探っていこうという展開になると思うのだが、さて、「救いのあるデビルマン」となりえるかどうか。『トガリ』のときよりずっと絵も上手くなってきているので、今後の期待も大。ぜひ長く続いてほしいものである。

2002年11月22日(金) 最上の味と最低の映画/映画『恋に唄えば』/『ブラックジャックによろしく』3巻(佐藤秀峰)
2001年11月22日(木) 親の死にメよりアニメ/アニメ『ナジカ電撃作戦』MISSION 007/『MISTERジパング』7巻(椎名高志)ほか
2000年11月22日(水) 今日は眠かった……イツモのことだけど/『ルパン三世カルト2001』ほか


2004年11月21日(日) さようならドラえもん/『ハウルの動く城』

 アニメ『ドラえもん』の声優が来春を機に聡入れ替えとか。
 主役五人、ということだから、大山のぶ代、小原乃梨子、野村道子、肝付兼太、たてかべ和也の諸氏が全て入れ替わる、ということなのだろう。ずいぶん思いきったことをやろうとしているが、役者さんたちの意向で行われたことではないのではないか。
 役者は、一つの役柄が定着することを嫌ってシリーズものから離れる人と、当たり役を得られたことをありがたいと思って大事にしていくタイプの人との両極に分かれる場合が多いが、『ドラえもん』の役者さんたちは、これまでの「死ぬまでやりたい」的な発言から考える限り、後者だと思われるからである。もっとも、大山さんと小原さんはプライベートでは実はすごく仲が悪いというから、対立が決定的になって、やってられなくなったという可能性もなきにしもあらずだが、これは根拠になっている話というのがアテレコのときに大山さんと小原さんの席が端と端に離されているという、なんともあやふやなものなので、所詮はウワサの域を出ないことである。
 やはり一番可能性があるのは、テレビ局か製作会社の意向だと思う。彼らの念頭には、『ルパン三世』での山田康雄→栗田貫一、『サザエさん』での高橋和枝→富永みーなといった、“役者の病気、死去による交代”を避けたいということがあったのではなかろうか。声だけの演技である声優の仕事は、顔出しの役者に比べればその「老い」があまり感じられないですむが、それにだって限界はある。10年、20年が過ぎれば、なだらかな変化ではあるが、声の張りはやはり落ちていく。気がついたときには、こりゃいくらなんでも子供の声には聞こえない、という事態に陥ってしまう。ハッキリ言ってしまえば、もう七、八年くらい前から、特に大山さんの声に「張り」が失われていた。別に『ハリスの旋風』の石田国松や『サザエさん』の初代カツオあたりまで遡ってその声を想起しなくても、『ドラえもん』の初期と今とでは、まるで別人のように「衰え」が見え(聞こえ)ているのである。
 テレビ朝日やシンエイが、『ドラえもん』を単に「昭和を代表するマンガ・アニメ」として位置付けるのでなく、永久に続けていこう(それこそドラえもんがやってきた23世紀を越えてまで)という覚悟でいるのならば、声優の交代は必須だろう。誰か一人を変えるよりは、全員、というのは賢明な判断であるとすら思える。今思い返せば、ここ数年の主題歌歌手の度重なる変更も、今回の措置の「布石」だったのではないか。
 しかし、個人的な感情でものを言うならば、藤子・F・不二雄作品は、その殆どが懐かしい昭和の風景と不可分のものである。『ドラえもん』が愛され続けることは一見、嬉しいことのように見えるかもしれないが、同時に「時代を越えて」愛され続けることがそんなにいいことなんだろうか、という疑念も生じてしまうのである。実際、『ドラえもん』以降の藤子マンガが、それ以前のものと比べると、「昭和の匂い」がかなり希薄になっていることに嘆きを覚える人も多い。これを「ノスタルジア」の一言で片付けてしまう人もいるが、それは少し違うのではないか。
 藤子さんのもう一つの代表作、『オバケのQ太郎』が二度まではともかく、三度目のリメイクに堪えられなかった理由は、正太やゴジラ、子供たちの主たる遊び場であった「空地」(「公園」すら身近ではなかった時代なのだ)が、既に現代の子供たちにとっては生活の主体ではなくなってしまっていたという事実も大きいと思われる。それに比べると、『ドラえもん』の場合、たとえ作中に登場してはいても、「空地に土管のある風景」は既に単なる背景以上の意味はなくなってしまっていたので、そういった「昭和の風景」にさほど拘らずにすむ分、まだ「延命」が可能だったと言えよう(『オバQ』にはあった子供グループどうしでの「空地の取り合い」ネタが、『ドラえもん』にはない)。
 逆に駄菓子屋や卓袱台のある風景など、原作以上に「昭和の遺物」をやたらと取り込んで映像化した映画『がんばれ! ジャイアン』の方が、現在の「ドラえもん世界」の中では奇妙に異質に見えてしまうことになった。デパートの家具売り場にもう昔風の卓袱台は売っていない。「平成の子供たち」にとって、あの映画はまるで「時代劇」のように見えていたことだろう。畳の部屋はかろうじて残っているものの、『ドラえもん』シリーズから昭和の匂いのする小道具は少しずつ、確実に排除されていっているのである。
 だが、それでも私は、いくら時代が変わっていくものだとは言え、パソコンやケータイを使うようなのび太たちを見たいとは思わない。初期にはなかったテレビゲームをのび太たちは競ってするようになった。これから先も『ドラえもん』が続いていくとすれば、いずれ作品中にそういうものはどんどん登場していくだろう。けれどそれは私にとっての『ドラえもん』では、いや、既に藤子マンガですらないのである。そこに私たちが感じていた「生活」が存在していないからである。
 パパの会社を覗きに行ったり、親子げんかの果てに家出をしたり、親子の絆を描くエピソードも多かった『オバQ』に比べ、『ドラえもん』でのパパとママはあまりにキャラクターが弱く、のび太との関わりなどないに等しい(食卓で新聞を読んでいるパパ、のび太を勉強のことで叱るママ、といったステロタイプ以外のイメージを思い浮かべられる人がどれだけいるだろうか?)。実は声優の交代は今回が初めてではなく、初代パパであった加藤正之氏が死去し、現在の中庸助氏に変わっているのだが、それがいったいいつからなのか、とっさに答えられる人がどれだけいるだろう(お二人の声質は決して似てはいないので、よく見ている人ならすぐに気がつくのだが、多分、大半の視聴者が「聞き逃していた」に違いない)。親子・家族関係そのものが変質し、希薄になってしまっている現代に、何と見事に合致していることか。
 この一事をもってしても、『ドラえもん』が巷間言われているような「生活密着型」の作品ではなく、そこから遊離しようとして作られてきた作品であることが分かる。『オバQ』は日常生活の中に「異物」が混じりこむことによって起こる騒動を描いたものであったが(つまり基本は「国際結婚もの」と同じ。ベクトルが「内側」に向いているので、開放感を与えることを目的とする映画には向かない)、『ドラえもん』は日常の存在を非日常に連れ出す作品であるのだ(ベクトルが「外側」に向いているから、映画化しやすい)。
 『ドラえもん』の「生活感覚」は、これから時代の流れによって変質していくものとして次々と設定しなおされていくのだろう。それはもはや私たちの世代が好きだった「時代を象徴する作品」としてのそれではない(まあ、それを言い出せば私は最初の富田耕生版『ドラえもん』のほうが好きで、大山のぶ代の声には未だに慣れないのだが)。今回の声優交代は、単純なリニューアル、という意味だけではなく、「昭和の切り捨て」という意味も持つことになるだろう。恐らくは今回も「イメージが変わるのはイヤ」程度のことで批判する浅薄なファンはボウフラか糞蝿のようにワラワラと涌いてくるだろうが、自分が固執しているものの意味に思いを馳せるだけの心の余裕もない彼らを見ていると、時代の断絶を感じさせる分、かえって寂しく思わないではいられないのである。
 あのね、もう君たちは“『ドラえもん』から”見放されているんだよ。オールドタイプにドラえもんとひみつ道具を共有できる資格は、もうないのさ。


 しげは朝から練習、前半はダンス中心で演出の出番はないので、私の方は朝寝。
 午前中、2週間ぶりに亀の水槽の水換え。こないだの3週間よりはましだが、やはり中がかなり臭くなっている。底に敷いている石も3ヶ月ほどで変えなきゃならんという話であるが、もう軽く3ヶ月越えてるんと違うかな。洗うだけでは持たないのである。
 そのあとすぐに、練習に行くつもりだったけれど、横になったらそのまま疲れて寝てしまった。3時を過ぎて穂稀嬢から連絡が入り、慌ててタクシーを拾い、素っ飛んで行く。
 パピオに着くと、玄関ロビーに其ノ他君と鴉丸嬢がいる。休憩中かと思っていたら、「今さあ、カトウとしげさんが大ゲンカしてて、居たたまれなくなって逃げてきたの」と言うのである。まあ取っ組み合いの喧嘩をしているとは思わないが、何ごとかと聞いてみると、要するにしげがアドリブかますんで、カトウ君がセリフのきっかけが掴めず、口論になってるらしい。
 「しげさんはさ、『ああ』とか『ええ』とか相槌打つところをね、『セリフを言うのイヤだから、態度で見て判断してくれ』って言うんだけど、カトウは『そんなのわかんないから、セリフを入れてくれ』って言うわけ。そしたらしげさんが『100パー入れればいいんだろ、そうするよっ!』て反発するもんだから、カトウが『そんなことを言いたいんじゃない』って言い合いになって……」
 ああ、またしげのヒスが原因か。
 もともと脚本にひんぱんに相槌のセリフを入れているのは、しげのリアクション能力が著しく低いからだ。これは日常生活でも私の言葉に無反応なことが多く、普通の人間に分かるようなリアクションが取れないでいるのだから、それを演技でやろうと思ったってできるものではないのである。本人はちゃんとリアクションしてるつもりでも、カラダは全く動いていず、そのことを指摘しても自分では動いてるつもりだからどう改善すればいいかわからず、キョトンとしている。つまり、ココロとカラダが乖離しているのに、その自覚ができてないのだ。
 そりゃ、表情の変化やちょっとした仕草だけでリアクションできて、しかも相手の次の演技を引き出せるだけのことができたら立派なのだが、そんなテクニックはしげにはない。セリフに気持ちを込めるだけで精一杯のくせに、「自分にはこんなこともできる」と思いあがっているのである。でなきゃ、何でその程度のことで口論になるのか、理由がわからない。
 「まあ、討論するのは基本的には悪いこっちゃないな」と言って、練習場に向かうが、あくまで「基本的に」なのであって、ヒステリックなものどうしの先が見えない討論など、やるだけ無意味だ。しげのヒステリーは、一度ドツボにハマるとセルフコントロールが全くできなくなる性質のものなので、マトモに相手をしてはただひたすら疲れるだけ、その先には不毛な荒野か砂漠が広がっているだけだ。
 場合によってはしげを一時的に追い出してアタマを冷やさせるか、練習自体、中止せねばならんかと思いながら中に入ってみると、確かにしげ、カトウ君、それにラクーンドッグさんも交えて何か言い合ってはいるが、激昂している雰囲気ではない。どうやら「山」は越えていたようである。取り合えずホッとしはしたが、それでもまだ余燼はあるようなので、打ち合わせの範囲内で会話が進んでるのなら仲裁に入るまでもないかと、こちらはこちらで小道具作りにいそしむ。
 ところがいつまで経ってもしげもカトウ君もボソボソと喋りあってるだけで、立ち稽古に入る様子がない。さすがに痺れを切らせて、「一部通しくらいはやらんのかね?」と水を向ける。そこでようやく動き始めたが、時間はもう5時。結局2シーンほどしか見られなかった(-_-;)。
 こないだ腫れ物の手術をしたばかりのカトウ君がまだ万全ではないので、動きの間が悪いのは仕方がない。それよりも鴉丸嬢が、声量はともかくしげに対して「腰が引けている」のが目立っていて、ここがちょっと困りものである。気持ちの上でしげに負けているので、それがどうしても演技に出てしまっているのだ。しげはテンパると周囲に対して意固地になるばかりか苛立ちをストレートに他人にぶつけてしまうので、気の弱い人にとっては少なからず恐怖の対象ですらあるのだが、実は全て去勢を張っているだけである。何も怖がる必要などないのだが、そんなのにも怯えてしまうところが、鴉丸嬢の気持ちの優しさがかえって裏目に出ているところだろう。
 しげには「芝居を本気でやりたいならヒステリーは絶対起こすな。起こしたらオレはその時点ですぐに抜ける」と約束し、毎回その約束が破られているのだが、つまりはしげの記憶力、学習能力は皆無なのである。今回はしげがどんなにウソをつこうが最後まで見てやろうと決心して臨んでいるので、今更抜ける気はないが、こんなバカを配役してていいものかどうか。その件については、こないだもみんなに聞いたのだが、結局しげを降ろすことに反対はなかった。だからみんなもこのしげの理不尽な言動には付き合ってもらうしかないのである。これからもっとひどくなると思うんで、どうかご覚悟を。

 解散したあと、しげと私はダイヤモンドシティへ。芝居の衣装を探したいと言うので、しげはジャスコへ、私はフタバ図書で本を物色。そのあと待ち合わせをして、ロッテリアで晩飯。二人とも卵バーガーにフライドチキンを頼んだのだが、クジが当たってエビバーガーがついてくる。飲み物が足りず、コーラにアイスティーをそれぞれ注文。腹がたぷたプになったあとで気がついたが、別にクジが当たったからって無理に食べなくなてもよかったのである。でも、一度身に着いた貧乏症はなかなか抜けるものではない。

 今日こそは『ハウルの動く城』を見ようと思ってワーナーマイカルの前で時間を待っていたら、桜雅嬢とばったり出くわす。さっき車で彼女の家まで送ったばかりだったのだが、どうしたのかと言うと「ママとケンカして家出してきちゃった」とか。何やってんだか。
 結局一緒に『ハウル』を見ることにする。私たちは既にチケットを買っていたのだが、指定席なので、桜雅嬢とは離れてしまう。私のチケットを彼女に譲って、私は桜雅嬢のチケットを貰うことにする。全国では行列も出来ているという『ハウル』だが、さすがは場末のダイヤモンドシティ、会場の半分しか席が埋まっていない。指定席にする意味がないな(^_^;)。これがキャナルシティか天神東宝だったらこうはいかなかったろう。場末だが設備はいいから、以前の粕屋東のワーナー同様、ここはいつでもゆったり座れる「穴場」になりそうだ。けどレイトショーで見ることにしたんで結局前売り券が一枚余ってしまっている。でも全国共通券を買っといたのは正解だった。休日に天神に出かけることがあったら、そちらでもう1回見る機会もあるだろう。1年間くらいはロングランしてるだろうから(^o^)。

 さて映画『ハウルの動く城』であるが、普通に面白くて普通につまんない映画であった。
 なんかそれ以外の感想が思い浮かばないが、アニメーションテクニックだけは相変わらず上手すぎるほどに上手いのだ。扉の開け閉めの何げない動きにすら「筋肉の収縮と重み」が表現できているし、浮遊シーン、飛翔シーンの「風」の表現はまさしく世界最高峰だろう。カンヌにおけるオゼッラ賞は当然だと言える。
 しかし、キャラクターの描写が適当なのはここんとこの宮崎映画の共通点で、荒地の魔女の扱いの杜撰さには呆れ返るほどだ。だいたいハウルが結局臆病者なのか凛々しいのか、ソフィーがいたから頑張れたのか庇護者として自立しているのか最後までどっちつかずなままなのはどういうわけか。いったいかっこいいんだか悪いんだか全然わからないのである。ソフィーの様々な変身も特に一本スジの通ったものではなく、このシーンはよいが、「ここで若返るのはヘンだ」というシーンもいくつかあり、「いい加減」と言わざるをえない。これは近代的なファンタジーというよりも前近代的なメルヘンに近い。要するに脚本を書かずに絵コンテから入る宮崎さんらしく、そのシーンごとでのイメージを優先したために起きた破綻なのだろう。ラストの唐突な終わり方も、「結局この話は何の話だったのよ?」と首を傾げてしまうものだ。ともかくストーリーの整合性のなさを指摘し出したらキリがないのである。
 けれどだからこそアニメーションとしての表現力は傑出しているとも言えるわけで、ストーリーがデタラメでも、「絵」や「動き」、演出の間などでとにもかくにも2時間を全く退屈させない。だから誉めようと思えばどこまでも誉めることはできるのだ。いつもながらの鬱陶しい「反戦」メッセージがないわけではないが、これもメルヘンという寓意のオブラートに包まれているためにかなり露骨であるにもかかわらず、鼻白む感じがない。しかしそうなるとこれまでの宮崎さん独特の「力技でねじ伏せる演出」も影を顰めているわけで、小林信彦が「枯れた」と感じたのもなるほど、と思えるのである。全く誉めていいんだか貶していいんだか、始末に困る出来映えだ。
 声優については、声を聞く前から非難の声が高かった木村拓也であるが(聞きもしないで文句をつけることがどれだけバカか気付いていない)、普通の声優に比べて全く遜色がなかった。声に艶はあるし、声優ブームとやらのせいでもう名前も覚えきれないほどの新人声優が輩出しているが、あんなのに比べれば数段上なのは間違いない。仮に「この声は私には受けつけられませんでした」という意見があったとしても、そんなのただのキムタク嫌いの偏見だよ、と一蹴してしまえるほどの好演である。それよりもベテラン倍賞千恵子に10代の少女の声を演じさせていることの方がよっぽど苦しかった。でもそれだって貶すほどのものではない。総体的に声優に関しては成功の部類に入ると思えるし、「どうして声優専門の役者を起用しないのだ」といった類の批判の声は、結局は難癖にしかなっていないことがこれでまた一つ証明できたと言えよう。
 ……でもね、一見、貶してるように見えるかもしれないけどね、それは宮崎駿のレベルがもともと高いからなんであって、例えば大友“ただのでぶ”克洋の『スチームボーイ』に比べればもう百倍も出来がいいんですよ。

2002年11月21日(木) 爆走��/薨去と逝去/『名探偵コナン』39巻(青山剛昌)/『一番湯のカナタ』2巻(椎名高志)
2001年11月21日(水) 乗った人より馬が丸顔/アニメ『ヒカルの碁』第7局/『カスミン』1巻(あもい潤)ほか
2000年11月21日(火) 酒飲みには常識なのかも/『入院対策雑学ノート』(ソルボンヌK子)


2004年11月20日(土) ワガママも見て見ぬふり/フィリップ・ジャンティ・カンパニー『バニッシング・ポイント』。

 『ハウルの動く城』が今日から公開。
 前作『千と千尋の神隠し』の全国336スクリーンを上回る455スクリーンでの公開は、日本映画としては『踊る大捜査線2』を抜いて最大規模とか。「宮崎駿ブランド」を信頼しての公開なんだろうけれど、これでコケたらおおごとだろうなあ。
 でも、ストーリーは破綻しまくり、キャラに命はなくて、殆ど消化不良な出来映えだった『もののけ姫』や『千と千尋の神隠し』にだって客は集まったんだから、もう「宮崎駿監督作」には出来のよしあしに関わらず、客が来るシステムになっちゃってるんだろう。
 アニメーターとしてなら『太陽の王子ホルスの大冒険』あたりから、監督としてなら『ルパン三世(第1シリーズ)』から(もっとも放映当時は名前を隠していたが)リアルタイムで付き合ってきた古いファンとしては、宮崎さんが「みんなの宮崎さん」になったからと言って、それでファンをやめてしまうような狭量な態度は取りたくないので、もちろん初日に見に行くつもりで、前売券も買い、朝から行列に並ぶつもりで準備万端整えていたのである。
 ところがやっぱりしげが全然起きて来ない(-_-;)。
 「二日連続で映画を見にいくのはキツイ」としげが言うので、昨日は映画に行くのを諦めて、早めに寝たのである。なのに、8時間が過ぎ、充分睡眠時間は足りてるだろうに、「きつい。行きたくない。寝る」とワガママこきゃあがるのである。もちろん体調がどうとかなんて理由は全部嘘っぱちに決まっていて、客がたくさん込み合っているところになんぞ行きたくない、というのがホンネだろう。
 このしげの「いきなり気が変わる」癖に私はこれまでに何百回も(誇張ではない)振り回されてきているのだが、医者にかかるようになって少しは収まってきたかなあ、と安心しかかっていたこの悪癖が、最近また目立ち始めている。病院でもあまり自分の起こしたトラブルについてきちんと説明はしてないようだし、本気で自分の病気を治す気あるのかと疑わしくもなるのだ。
 『ハウル』自体は、早めに見に行きたいことは行きたいのだけれど、別に初日の一番である必要はない(だいたい早めに行きたがるのは、パンフレットを買い損なわないためである)。姑息なウソをついたり、ワガママを押し通そうとしたり、自分の都合で他人を振り回すことに何の痛痒も感じないその卑怯な根性が腹立たしいのだ。
 しげの脳天に一発、拳骨を食らわせたくなるが、ここはぐっとガマンをする。ヘタに叱ってヒステリーを起こされたら、今晩予定している山口行き(芝居の鑑賞)まで「もう行かん」とか言い出して中止になりかねない。もう私は、しげの性格を何とかしてやりたいなんて愛情もとうの昔に尽きてしまっているし、そもそもしげにつき合う気力、体力、ともになくなってしまっている。バカ相手に不毛な会話で時間を潰すのはもうたくさんだ。
 というわけで、私もフテ寝。一応、夜まで体力が温存できるから、それはそれでいいかな、と気を取りなおすこともできるのだけれど、そう言えばしげはきっと「なんだ。だったら行かなくて正解じゃん」と自分のズルを棚に上げて自己正当化するようなことを言うに決まっているからまた腹が立つのである。お医者さん、このしげの腐れた根性、治してください(+_;)。


 結局しげが起きてきたのは3時。出かける寸前である。また14、5時間も寝腐った計算になるが、これで「忙しくてヒマがない」とか「疲れた」とか言ってるのを信用しろと言っても、まるで説得力がないのだ。
 博多駅までバス、駅弁を買って新幹線に乗りこむ。
 しげは駅弁好きのくせに、卵焼きや唐揚げなんか好きなものだけ食べて、漬け物、酢の物、サバの皮、エビ、煮豆などは食い残して、私に押しつけて来る。こういう好き嫌いを私が一番嫌うと知っていてわざとやるのだから、これはもう、私に怒れと言っているようなものだ。ふきのとうを残していたので、「野菜を残すな。食え」と言って箸でつまんで口元に押しつける。しげは「なんか付いてる」と嫌がったが、それはただの繊維。ウムを言わせず食わせる。
 しげの好き嫌いについて私が叱ると、本人はいつも必ず「食べられないわけじゃないよ」と言い訳をするのだが、食べさせないと絶対に食べないのだから、そんなのはウソである。単に嫌いなだけなのに、ウソをついてまで食べようとしないから余計に腹が立つのだが、いくら注意しても好き嫌いを治そうともせず、見え透いたウソを十年以上もつき続けているのだから、しげのこうした性格破綻はもうどうにも治りようがないのかもしれない。
 出されたものを美味しく食べられないイヤな性格の人間と同席したって、メシがうまく食べられるはずがない。私はしょっちゅう食事をしながら本を読むのだが、それは「お前と話しながらメシ食ったってうまくない」という意志表示なのである。普通の会席では私は本を読んだりしないのだ(たまにすることもあるが、それはやっぱり嫌いなやつと同席したときである)。しげが本を読んでそっぽ向いてる私に対して怒るのはお門違いである。食事しながら会話してほしけりゃ出されたものはきちんと食え。食えないなら最初から注文するな。

 新山口駅で乗り換え、山口線で湯田温泉まで。到着したのは5時過ぎ。ここから会場の広島芸術情報センターまでは3キロほど。芝居の始まる7時までは2時間弱あるので、当初はバスかタクシーを使おうと思っていたのだが、結局、歩いて行くことにする。
 温泉街だけあって、道の両端に温泉宿やホテルが立ち並んでいる。しげは公演のパンフレットに使える風景はないかとあちこち写真を撮りまくり。途中の公園で中原中也の句碑があったので、その前でしげの記念写真を撮る。「句碑だけ撮ればいいじゃん」としげは言うのだが、それじゃただの絵葉書だっつーの。記念写真の意味がないじゃん。
 あちこちに「足湯」が沸いていて、観光案内図には公衆トイレみたいにあそこここと載っている。概ねどこの足湯も畳一、二畳程度の横長のスペースに東屋風の屋根がついている。吹き抜けになっているところもあればガラス戸で仕切られているところもある。ちょうどくるぶしの上まで浸かる程度のお湯が張ってあって、ここにタダで入れる仕組みになっているのだ。
 最近、足が臭いことを気にしているしげ、早速入ってみる。開湯の由来として、その昔、怪我をした白狐が温泉に浸かってその傷を癒していたという伝説があって、どの足湯にも狐の像が祭られている。その狐の像の前でまた記念写真を一枚。残念ながらしげが像の横に並んでも「湯煙温泉と美女」という風情にはまるでならず、狐と狸の呉越同舟、といった塩梅。
 しげは熱がっていたが、私にはちょうどいい湯加減であった。観光客以外にも、ご近所さんがしょっちゅう利用しているようで、どこも入れ替わり立ち代わり、いろんな人が入っていた。十年くらい以前にここに来たことがあつたはずなのだが、そのときは足湯に入ったかどうか忘れた。時間の余裕があったので今回はゆっくりと浸かれたが、靴と靴下を脱いで入るだけだからすごく気軽でこれはなかなかいい。残念ながら夜になると今一つ風紀がよろしくない雰囲気があって、わざわざ遠方から来て楽しめる温泉地とは言いがたいのだが、近場に住んでいる人にとってはそれこそ都なんだろう。

 土産を買ったり、夜の公園でブランコに乗ったり(^_^;)して時間をつぶし、6時過ぎに会場へ。
 山口情報芸術センター、パッと見た感じは、面積だけは広いものの横長の建物が長屋かプレハブっぽくて、なんだか場末の放送局みたいである。芝居小屋としてはどうかという印象だったが、中に入ってみると、客席にかなり急な勾配が付けられていて後方座席でも舞台が見えないということはない。舞台には奥行きもあり、照明はずっと暗いままで、袖がそのまま客席に繋がっているかのように見え、狭い空間を広く見せる工夫がされている。
 今日の公演はフランスのフィリップ・ジャンティ・カンパニーによるライブ・パフォーマンス『バニッシング・ポイント』。
 待ち合いのロビーでは、スクリーンに舞台の一部を抜粋して上映していたので、携帯のカメラで何葉か撮る。歪んだ映像しか撮れなかったが、会場内は当然撮影禁止なので、これでガマンするしかないのである。
 テレビも設置してあって、そこでは昨日の『ニュース23』に出演していたフィリップ・ジャンティその人が筑紫哲也のインタビューに答えていた。「日本の文楽に影響を受けた」ことも告白。特に、筑紫哲也の「タイトルの『消失点』とは、公演を続けてきて限界に来たということでしょうか?」という質問に対して、ジャンティ氏が「人に必ずある自殺願望を想像していたのかもしれませんね」と答えていたのが印象的だった。

 この世界でも最先端、最高峰にあると思われる舞台をナマで、しかも日本で見られることの至福は、とても生半可な言葉では表現できないが、今回の芝居も変幻自在、レインコートの男女たちが、海底人が、鳥が、鳥籠の中の老人の生首が、人形の貴婦人たちが、小人が、巨人が、現れては消え、ただひとつの消失点に向けて疾走して行く。
 不条理なシチュエーションとナンセンスなギャグが交錯し、役者たちはマイムともダンスともつかぬパフォーマンスを繰り広げる。難解なようだが、それでも「演技のうねり」は観客を忘我の地平へと案内していく。紛れもなく、これまで見た全演劇のトップクラスに位置する舞台だった。

 余韻に浸りながら帰途につく。電車もバスも最終で、帰り着いたのは12時過ぎ。芝居のチケット代より、交通費の方がかかってしまったが、これだけのものが見られるのならば、そのくらいのおカネを使っても全然損した気分にはならないのだった。

2002年11月20日(水) 爆走��/反戦映画ベスト5/『スパイラルアライブ』1巻(城平京・水野英多)/『新・ゴーマニズム宣言』12巻(小林よしのり)ほか
2001年11月20日(火) オタアミに行くぞオタアミに行くぞオタアミに……/『COMAGOMA』1巻(森下裕美)/『おさんぽ大王』1巻(須藤真澄)ほか
2000年11月20日(月) 通勤だけで力を使い果たしてる日々/『薔薇の木に薔薇の花咲く』(いしかわじゅん)ほか


2004年11月19日(金) 好きに焼けるから「お好み焼き」って言うんだよ。

 今日もなんとか定時の退出。先週からずっと残業あれこれこなしてきてたんで、少しは早めに帰れる日もあるのである。

 仕事関係で資料を探さにゃならなかったので、しげに頼んで博多駅の紀伊國屋に寄ってもらう。「駐車場代がかかるからなあ、ヨドバシに停めるんじゃダメ?」というので、先にヨドバシカメラで食事をすることに。
 しげ、さんざん迷った末にようやく決めたのが、お好み焼きの店。入った途端、出会いがしらに目が合ったウェイトレスさんが、偶然、知り合いの女の子だった。お互いに「わあ」と声を上げたのがハモッてしまったのがおかしかった。数年ぶりの再会で、もちろんそこでウェイトレスをしていたことなど知りもしなかったのだが、若い女性というものはこういう久しぶりの邂逅なんてシチュエーションでは、たいてい見た目がかなり変わっているものである(要するにケバくなっている)。ところがこの子は見事なくらいに変わっていない。化粧っ気のカケラもないと言うか少しも色っぽくなっていないと言うか(^_^;)。もっとも、お好み焼き屋で化粧が濃いのも問題だろうけれど。いや、実際、お好み焼き屋のバイトが似合う感じの女の子なのよ。
 どこのお好み焼き屋でもそうだが、席には目の前に鉄板があって、そこで頼んだお好み焼きを実際に焼いて食べる仕組みである。ウェイトレスさんが「店の者が全部焼きますから」と言うので、焼き上がるまでクイモノを目の前にしていながら「おあずけ」状態にさせられているのだが、これがせっかちなしげにはガマンしきれなかった模様。「ここにはもう二度と来ない!」とブンムクレだが、お好み焼き屋というものはどこでもこういうものなので、これはしげの言いがかりというものである。つかさー、店員さんが待ちきれないんだったら、どうして自分で焼こうとしなかったかね? 困ったやっちゃ。
 ヨドバシは、レシートで2時間分、駐車場代がタダになるので、確かにオトクなようなのだが、考えてみればそこで時間を潰した分、紀伊國屋に寄っていられる時間が短縮されてしまうことになるので、結局は損をしてしまっていたのだった。ぼんやりしていたので、まんまとしげに騙されてしまった格好である。
 そのまま出て行くのももったいないので、DVD−Rを買い込む。そのあとようやく紀伊國屋に回って資料集め。ついでに本を何冊か買って、予約しといたDVDも買う。


 帰宅して、買ってきたDVDなど次々と鑑賞。
 ついに手に入れたビリー・ワイルダーボックス、『シャーロック・ホームズの冒険 特別編』、てっきり「半分にカットされた」残りのフィルムが発見されたのだろうかと期待していたのだが、残念ながらそれはごく一部で、特典映像として一部が収録されていただけであった。フィルムのない部分はスチールとスクリプトを流してお茶を濁している(しかも英語だから読めねえよ)。これではとても「完全版」とは呼べないが、それでもこれが現存する最良の状態なのである。この映画を評価しようと思えば、やはりこの「失われた部分」を想定した上でなければ語りえないだろう。
 この映画でマイクロフト・ホームズ(ホームズの兄)を演じたクリストファー・リーのインタビューが収録されているのがファンにとっては大サービス。「ホームズ兄弟両方を演じた経験があるのは私だけだ」と嘯き、「この映画で自分は転機を得た。未だに私を一つの役でしか評価しない人間はこの映画を見ろ。そして映画界から去れ」とまで言い切っている。でも、確かにドラキュラ伯爵よりもこのマイクロフト・ホームズやスカラマンガ、最近ではドゥークー伯の方がずっとクリストファー・リーの演技力は発揮されているとは思うのである。まあ、日本でも渥美清を「寅さん」でしか知らないエセ映画ファンは腐るほどいるけど、でも所詮、一般の観客にとって、映画はその程度の軽さでしか見られていないし、他の芸術に比べると価値の数段低いものだとバカにされているのだ。ああ、映画の地位向上はいったいいつの日か。

 そのあと、『トップをねらえ!』ボックスに、横山光輝追悼記念再発売の『ジャイアント・ロボ 地球が静止する日』1・2巻。それぞれ以前のDVDよりも映像、音声ともに向上しての再発売。こうなると、DVD発売の初期の頃、LDをすぐにDVDに切り替えなくてよかったかなあ、と思う。いや、両方ともLDはしっかり買っちゃったからねえ。
 『トップ』では若き日の日高のり子さん、佐久間レイさん、渕崎ゆり子さんのお姿も見られたし(みなさんアイドル離脱組だなあ(^_^;))、『ロボ』は山口勝平さん、島本須美さん、片山一良さん、山下明彦さんのコメンタリーが楽しくて、まあ買って満足なのである。……ああ、『ロボ』が千葉耕市さんの声優としての遺作だったのだなあ(>_<、)。


 『デリカテッセン』の(つか『エイリアン4』の)ジャン=ピエール・ジュネ監督が、新作“A Very Long Engagement”に対して、フランス政府が「この映画はアメリカ資本の提供を受けている。従ってフランス映画とは認められない」として補助金の交付を拒絶した件を受けて、訴訟を起こすことにしたというニュース。
 私は、フランスは映画に対して最も理解ある国で、文化的にも最先端にあると信じていた時期が長かったので、今回のこのいささか「せこい」処置に対しては落胆を覚えてしまった。それで行くなら、黒澤明の『乱』は監督もスタッフもキャストも全て日本人だが、資本だけはフランスである。あれはフランス映画ってことになるのか(実際当時はその点でモメて、いくつかの日本の映画賞では選考対象から外されもした)。映画がグローバル化している現在、こういう「合作」は数多く生まれているが、ある程度以上の率である国の人間が関わっていれば、その国の映画として見なしていいくらいの自由さがあってもいいんじゃなかろうか。『トラ!トラ!トラ!』のような映画なら、日本・海外の両方でダブル・ノミネートされたっていいと思うのである。
 ジュネ監督は、反面、誰もが「アメリカ映画」だと思っている『アレキサンダー』について、フランス政府が自国の公的資金援助を受け取っているために「フランス映画」と主張していることを皮肉って、「オリヴァー・ストーンの『アレキサンダー』はフランス映画だ。監督の母親はフランス人だし、ポスト・プロダクションもフランスで行われた。何の問題も無い。しかし、フランスで撮影し、フランスの俳優が出演した僕の作品はフランス映画じゃないと言うんだ。信じられるかい?」と語ったとか。もっともな疑問だと思うけど、結局フランス至上主義の政府が、いささか「アメリカ寄り」したと見られるジュネ監督に対して「いやがらせ」をしたってのが本当のところじゃないのかねえ。政府のやることはやっぱりなんかセコイのである。

2002年11月19日(火) 爆走�─織凜.螢▲鵐函Ε魯譽襯筺�○(^-^)o♪/『スパイラル 推理の絆』4〜7巻(城平京・水野英多)ほか
2001年11月19日(月) 「“ブラック”ユーモア」って言葉も差別表現だってさ/LD『道場寺・火宅』/『Q.E.D. 証明終了』11巻(加藤元浩)ほか
2000年11月19日(日) 約束は果たしたよ、こうたろうくん/『キッド・ピストルズの慢心』(山口雅也)ほか


2004年11月18日(木) 更新遅らせたくないのであっという間に書いた日記(^_^;)。

 会議が2連チャンで、今日も残業。
 そのうちひとつは、トンガリさんも出席した会議なのだが、こないだまでサボりまくっていたので、上からキツイ命令があって、一応出席はしていた。ところが椅子に座っているだけで一言も喋らない、身動きもしない、一時間の会議中、結局無言のまま通して、何もしなかったのである。要するに「あなたたちとは話はしたくありません」という意志表示なのだろうが、会議の内容が分かってなきゃ、今後の仕事にも支障を来すというのに、どうするつもりなのだろうか。いや、どうするつもりもなくて、またぞろミスだらけの仕事をしまくって、その尻拭いをこちらに押しつけるつもりなのか。単に何も考えてないだけの可能性も高いが。

 もう一つの会議は、予定していた時間よりも短時間で終了。それほど残業せずに済んだので、しげに連絡を入れて待ち合わせ。食事をどうするか聞いたのだが、いつもの優柔不断でなかなか決められず、また口げんかになる。映画もついでに見ようかとダイヤモンドシティに行ったのだが、結局は食事をしただけで帰宅。気が合わない時はとことん気が合わないもんだ。


 夜は、DVDをいくつか見返しながら、日記など更新しようとがんばって書く。
 『天空の城ラピュタ』を英語版で見返すが、外国を舞台にしているにもかかわらず英語のセリフがどうも画面に合っていない印象。主役のパズーの声が日本人が聞いても「からっぺた」で、しかも少年の声に全く聞こえないのが一番痛い。
 シータやドーラ、ムスカとか脇はすごくいいのになあ、と思っていたのだが、この3人、それぞれ演じているのはアンナ・パキン、クロリス・リーチマン、マーク・ハミルである。そりゃ上手いのは当たり前だわ(^_^;)。パズーだけ『最終絶叫計画』のジェームズ・ヴァン・ダー・ビークと、役者の格が下がっちゃってるのだが、その差がはっきり現れてる感じ。なんでこんなイビツなキャスティングしたのかなあ。

 そのあと『シティボーイズライブ ウルトラシオシオハイミナール』を見る。
 今思えばこれはシティボーイズと脚本演出の三木聡さんが組んだ最後の作品だった。このあと、シティボーイズのライブは、この次の『ラ・ハッスルきのこショー』まではなんとか“持った”のだが、脚本家の若返ったにもかかわらず、かつてのギャグの拡大再生産のような気の抜けたギャグと、メンバーの老化が相俟って、徐々に失速していくのである。
 初期の頃の思いきりトンガってたギャグをかましてくれていた時代が懐かしい。

2002年11月18日(月) 爆走�А人獣量瓦�も……(-_-;)/『エンジェル・ハート』5巻(北条司)
2001年11月18日(日) 休日満喫テレビ三昧/『パワーパフガールズ』第46回/『サイボーグ009』第6話ほか
2000年11月18日(土) 今年はコンサートで眠らなかったぞ/福岡シンフォニック合唱団コンサート



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藤原敬之(ふじわら・けいし)