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2009年12月09日(水)
台湾ゆ〜らりぶ〜らり 3/4
恒春に行きたかった。台湾の最南端にある。 高校の山岳部時代に初めて天気図を書かされた。 ラジオのNHK第二放送で午後四時から始まる天気通報を聞き、天気図に書き込んで行く。石垣島から始まり、支那大陸を回り最期に富士山で終わる。海上からの定点報告の通報を聞き取り書き込み、高低気圧の位置を書き込み、等圧線をひく。習って半月経っても習得は出来なかった。それほど難しかった。 聞きながら地名の位置に鉛筆を持って行き、読み上げられる「石垣島では北東の風、風力3、天気 晴れ、気圧 1008ミリバール(現在は ヘクトパスカル、hpa)、気温 22℃」をあらかじめ記されている○に書き加えて行く。 北東を瞬時に判断してそっちの方から円に接する形で一本線を引く。そして矢羽根のごとくに、最初引いた線の右側に一番上を大きく計三本線を引いて風力を、晴れなら円の中心を通って直線を引く。晴れや雨なら問題ないが、霧?みぞれ??あられ???ひょう????なんて出て来たらもうお手上げで、あれ?どうだったかなぁと考えているうちもう次の場所に行ってしまい分けが分からなくなってしまう。 山に行ったら、もしくは行く前に天気図を書き判断する…、は理想だが、地方の低山ではまず必要ないのに何でそんな訓練をしたか。 体育会系クラブ活動で競技中に筆記試験があるなんて言うクラブは山岳・登山クラブ位なものだろう。競技中に山の知識の試験と天気図を書かされるのである。総合で判断されて順位が決まる。いくらテントの設営の仕方が旨く体力満々でもだめなんである。 国体予選など出発の駅で規定の重さに達していなければ、審査員の先生方が情け容赦なくリュックに石をほり込んで規定の重さにする。確か二十キロだったか。石を入れられたら、最期まで重さは変わらないので、部員達は工夫する。水なら飲んでる最中にこぼれる事?もある。その他、砂に水をしみ込ませたものや雑誌を濡らして入れて行き、蒸発を待つとか、猿の浅知恵でいろいろ考えた。 で、国体予選の場合、どんどん脱落して行き、(グループから遅れたもの、棄権したものはその時点で事実上、試験を待たず失格)へとへとになって山頂に着く頃には四人くらいになっていて、遅れたものを待ち、そろったら神社の境内を借りて、なんと!筆記試験が始まる。最初は知識の試験。次に天気図を録音したラジオを聞かされ、書く。 が、半日に及ぶ苦闘の末なので手が震えうまく字が書けない。下山した頃には心身よれよれで、数日肩から上に手が上がらなかった事を昨日の事のように思い出す。 話を天気図に戻す。天気図記入に漸く慣れて各地名の流れをつかんだ頃、他にもいろいろ特徴的な地名があるが、台湾の恒春を覚えた。石垣島から始まり、日本列島を桜前線のごとく這い上がり、千島列島樺太を通り、今度は沿海州に沿って南下し、朝鮮東シナ海をまたいで台北に来、恒春にくる。ここから、次はポンと支那大陸の長春に飛ぶ。本当に特徴的に右斜め上に飛ぶ。 「恒春に来れば次は右斜め上だゾ」と次ぎに来る長春を意識する。 これが天気図を書かなくなった40年後の今も頭に焼き付いて離れない。 日本と切っても切れない関係の台湾を意識するようになって改めて、印象に残っていた恒春に今回の旅で行こうと思っていた。 結局、高雄からの交通の便が悪く、どうしても先にホテルを予約していた事もあって、距離的にも一日で行って帰って来るのは難しく、また次の機会の楽しみにとって置く事にし高雄を後にした。→続く。 →2001年の今日のたん譚 ホテルの中のホテル →2002年の今日のたん譚 食べて極楽、見て地獄 -上- →2004年の今日のたん譚 すくう会から →2007年の今日のたん譚 これは事件か?
2009年12月01日(火)
台湾ゆ〜らりぶ〜らり 2/4
日本の新幹線のグリーンにあたる台湾新幹線の「商務車」は、座ると手拭き、お菓子、飲み物全部無料でついてくる。日本でグリーン車に乗る機会はまず無いので、どうなっているかは分からないが、台湾では飛行機と似た地位にある。静かに本が読めた。台湾の少数部族とアイヌの違いについて読み始めてしばらく、あっという間に台南高雄の左榮に着いてしまった。わずか二時間の新幹線搭乗だった。が,この短い間の読書で分かった事、台湾の少数部族は、直ちに引っ張ってこられるが、アイヌ人を探して引っ張って来る事は出来ないと言う事である。 二世三世ならいるかも知れないが、純然たるアイヌはいない。大和民族に溶け込んで久しい。一方台湾の昔蕃族、今、原住民ははっきりと存在(アミ族約18万人。泰雅族と湾族約8万人。花蓮県に原住民9万人、台東県7万9千人、屏東県5万6千人)し阿里山付近や高地に住んでいて訪ねて行くと会うことも出来るし独特の言語も現存しているようだ。アイヌには言語の痕跡(カタカナ表記で)は地名他に残るが、文字はなく、アイヌ語を喋る人も勿論いない。 それはさておき、昔のように何ヶ月もかけて欧州を巡っていた時は有り余る時間があったので日本の古典、方丈記や奥の細道などを読んだ。貧乏旅行だったけれど、あれに勝る旅は無かったと思っている。もう今はそんな贅沢な事やろうと思っても出来ない。 連日30℃、台南では予定を変更し宿で静養。今回気にかかったのは、留守番している生まれて数ヶ月の三毛猫の事であった。 以前、動物園に勤めている友人の娘さんが、留守の間数日置きに見に来てくれていたが、そうしょっちゅう甘えるわけにはいかない。かといってペットホテルに入れるのは逆に動物にとってストレスになる。 幸いな事に、基本的に猫は犬と違って屋根、排水溝自由自在である。 餌だけしっかり与えておけば大丈夫だと言う事が長年の経験でわかっていたが、やっぱり旅行中は心配だ。 そこで今回は、 SKYPE(スカイプ。ネット上での無料双方向テレビ電話機能)を利用し、猫の寝床となっている風呂場にカメラを取り付けコンピュータとつなぎ、餌は自動給餌器で理論上、一日数回時間設定可で、三ヶ月は生きて行ける餌が出るものと、生の餌が四回出る給餌器を置いた。電池式だったが、それだといつ切れるか分からないので改良してコンセント差し込み式に変えた。 台北のホテルからインターネットで家のスカイプを呼び出すと、自動的に開くように設定してあったので、あんまり綺麗でもない風呂場が俯瞰するように写しだされる。いるいる、くつろいでいる。こちらから音声で呼びかける事が出来るが、呼ぶと直ちに反応してスピーカのある方に行ってしまい、動きが追えない定点カメラなので、姿が消えてしまうのは失敗だった。 次の宿に着くと直ちに家のスカイプにつなぎ、常時画像をつけておく。こちらの普通の会話も向こうに聞こえているので一緒にいるのと何ら変わりがない。そのせいか旅を終えて帰った時に、別に猫の方で感極まったという感じはなかった。 手違いで、猫側の音設定を忘れたために、猫の声は聞く事が出来なかったが、猫は飼い主の声と餌さえあれば、かなりな期間の旅行が出来ると言う事が今回分かった。 問題は排泄物の処理だが、これも家で使っている酵素分解の生ごみ処理機用の土を猫のトイレに転用すれば、少しの糞なら一日二日で完全に土に戻る。処理土は一日数回混ぜなければいけないのだが、幸い猫は用を足す前後、土を頻繁に混ぜ返すからちょうど良い。 世の中便利になったもんだ。 今は、猫の基本的な調教期間なので放し飼いにはしていない。 長生き(25年くらい)して欲しいので、普通の猫の半分以下の餌、湿気のある場所での基本的寝床。悪い事をすればその日は断食。二年めは、筋肉を付けるためにドッグフードを一年間やる。 最近の研究で若い頃飢餓を経験した人や猫は長生きすると言う結論に近い結果が出ていて、先代の猫は、まさにそれで育てて22年近く生きた。死ぬ直前まで穏やかで一筋の涙を流して息を引き取った。 また、そのように生きて欲しいと思っている。先代の猫は若い間は旅行中は放ったらかしてあったが、ちゃんと風呂場を寝床とし生活していた。帰って来て再会すると半野生化して眼光鋭くなり、何だか太っていた。てんこ盛りにして行った餌を存分に食べたせいに違いなかった。→続く。 →2001年の今日のたん譚 不覚! →2003年の今日のたん譚 三味線とストラディバリウス (日本と西欧)
2009年11月20日(金)
台湾ゆ〜らりぶ〜らり 1/4
今日で台湾から帰ってもう一週間経ったなあと言ったら、家人があきれてもう十日近く経っていると言われて、初めて変な錯覚を起こしていた事に気がついた。 よく思い起こしてみると確かにそうだった。帰った次の日は殆ど眠っていて、その次の日もそうだった。その間の二日間が頭から消えていた。 それはさておき今月の五日から十一日まで台湾にいた。 今回は、インターネットでやれるものは全てやってみた。早割格安の飛行機予約、台湾新幹線の座席指定の予約、全行程中利用するホテルの予約、新幹線などの一部支払いなど全部ネット上で出来た。便利になったものだ。行く予定の所は、グーグルアースで歩いてみたりした。 夕刻、台北の駅前のホテルに予定通りついて、駅を見下ろしていると、ホテル全体がゆらりゆらりと揺れた。地上17階での初めての地震を経験した。 嫌な予感がしたのですぐ駅地下二階の新幹線乗り場にネットで予約した新幹線のチケットを手に入れるために向かった。 地下二階は先ほどの地震の影響でかごった返していた。ああ、情けない事に少しの英語仏語は出来ても、台湾語北京語は皆目出来ない。全ての自動発券機などは英語で、使用出来ませんの警告が赤く点滅していた。 列ぶにしても人が多すぎて訳が分からない。 その時、さすが台湾、こちらが日本人だと分かったのか親切にどうしたと話しかけてくれる人がいた。残念な事に日本語ではなく、英語ではあったが嬉しかった。結局列んでいる所に間違いは無く、メールで台北高速鐵道から送られて来た、領収書兼引換券ナンバーを提示したら、あっという間に、明日の高雄行きの搭乗券が手に入った。 ごった返している百数十人近くの人々は、どうやら当日券を希望して、その発券の有無、再運転を待っている人のようであった。 台湾南部は明日にはつつがなく動く事を確かめて、ホテルに戻った。この時、三年前、そして二年前西村眞悟さん(前衆議院議員)を長とする日台同盟推進訪問団にくっついて行った時にも見た、土産物屋免税店などに異変が起っていた。 土産を買う習慣は無いが、一応隈無く見ることにしている。台湾の名物、パイナップル饅頭、からすみ、干し肉、茶、ハンドバッグやブランドものの商品が必ずホテルの売り場や、免税店にある。その一角を占めて人形三・四十体が固まりとなって置いてあった。その二頭身の体形をした三人の人形共は皆むくつけき男共で全て禿げていた。かなり異様な光景である。 近寄ってみると、なんと、毛沢東孫中山(孫文)蒋介石のマンガチックな全身像。手に取らなかったので、石膏像か木製陶器製かは分からなかった。 何でこんなもん今台湾にと思ったが、すぐに、馬の政権下でこういうレベルでも着々と台湾の支那化が進んでいる事を悟った。 毛沢東のバッジなど、支那では段ボール一杯二束三文で投げ売りされているのに、何が悲しうて毛沢東の人形か。孫中山こと孫文は両国(台・支)で国父と呼ばれている、幾度も革命に失敗しては日本に逃れ、日本の同志に数え切れないくらい世話になっているにもかかわらず、「日本は銀の国、アメリカは金の国」と言ってのけた人物である。 蒋介石は台湾に逃げ込んで亡命政府を名乗り、その目は常に本土(支那)にあった。その軍隊はのちに二・二八事件を起こす。孫文はともかく、後の二人は大量虐殺をした者共の親玉である。蒋介石の嫁の宋美齢は、戦後アメリカに住み、全国行脚して日本の悪口を言って回った。姉の宋慶齢は孫文の嫁はん。 そういった人物達の人形が売れていると言う。多分観光に来た中国人が買うのだろう。 ある日の午後、いつ行っても十数分待ちの鼎泰豊(ディンタイフォン)で、小龍包を食っている時に、馬に会った。馬とは馬英久現総統だ。といっても本人ではない。目の前の壁に飲食業営業許可のサインに馬英久の名があった。多分台北市長時代、権限で出したものだろう。途端に小龍包が不味くなった。早々にごった返す店を出て、目の前の信義路を真東にある台北101タワーに向かってひたすら歩く。信義路弐段と新生南路との交差点にある大安森林公園のベンチで午後の日差しを浴びながら、公園に遊ぶ人を眺めつつ大休止。 後また大通りにでて歩く。通りの看板のあり方小汚さははどこか犬の小便臭いパリに似ている。似ていると言えば、テレビのコマーシャルを見ていると放送形態、音声もどこかフランス語のイントネーションと似て、思わずおやっと言う感じになる。 日が落ちる頃、二時間近くかけてタワーに着いた。安いので帰りはタクシーで帰ったが、降りる段になってわずかの小銭が足りなかった。そしたら、運ちゃん(日本語が台湾語にそのまま転訛、運転手の意)が、「いいよ、いいよ。まけとくよ」と言って聞かない。いや、そういうわけにも行かないよと言っても、「いいよ。いいよ。」という。両替するほどの額でもなかったので、有り難うと言って車を降りた。これがフランスなら絶対にあり得ない! 一度ミュンヘンのホテルからタクシーで早朝に空港に向けて出発し、降りる時になって小銭が無いのに気がついたがどうしようもないので、例えば600円の支払いの所、1000円札しか無いのでチップだと言って車を降りたら、二十四五才と思える運転手の兄ちゃんが、しばらくして追っかけて来た。何事かと思ったら、運転手にこのチップは多額すぎると差額を返しに来た。この時、何故か分からないが、こんな堅物、真っ正直がナチスを生むのかもしれないなと思った事があった。 この、運ちゃんとも台湾の運ちゃんはちょっと違う。日本及び日本人が好きなのだ。 これは、行く先々で毎度感じる事だった。 →続く。 →2001年の今日のたん譚 星を造る人 →2002年の今日のたん譚 キャパにはなれない。
2009年10月17日(土)
セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 2/2
→セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 1/2 …山小屋には風呂、ウォシュレットや泡のトイレが完備され、尻が洗える所も出て来た。これも、中高年登山者、若い女の子などの入門に拍車をかける。旅行社は敏感に反応して宣伝、にわか登山パーティ参加者を募る。各人バラバラ、登山行程など、全部他人任せ。昔流行った農協ツアーのごときである。高峰登山の裏側には、困難と危険が同時にある事が忘れ去られている。 今回下山時に、三十人近くの高齢登山者の群れとすれちがった。延々、登って来る。山は登り優先だから端に寄って待機、やり過ごすのがマナーとなっている。ところが流れが切れない。ちょうど真ん中辺りをやり過ごした時、ガイドと思しき人が、「まだあと十数人来ます。すいません。」といって登って行った。別に急ぐわけでもなかったので待機した。初老の女の人のどよんとした目、くもった表情、全然楽しそうではない。何でこんなつらい事をしてまで団体の流れの中にいるのだろうと不思議でしょうがなかった。 一方、年若い連中とのすれ違い様の、 「ちーっす」「有り難うございま〜す」 苦しそうな中でも、目が生き生きして喘いでいても何か楽しさが溢れていた。 思うに、先の大団体は甘い言葉にのせられ、初めてやって来た人が多かったのではないか。これでは、一旦緩急あれば遭難へと一直線につながる。簡単に遭難してしまう一端を見た気がした。 山に来ようなんて高齢者は大体金銭面で困っている人はいないだろうから、旅行社が募った団体で登るなどとケチな事をせずに、個人、又は少人数で山岳ガイドを雇えばいい。そんな金はないと言うんだったら、三千メートルは諦めて、近所のポンポコ山で我慢する。楽して(高度を)稼ぐな。ガイド代など命と他人への迷惑をかける事を考えれば、たかが知れている。 かって、横尾のテント地で、世界三大北壁を登った* 長谷川恒男が目の前のテントにいた。普段は絵描きと同じで金がないから、ガイドをしているようだった。ガイドを雇うとこういう達人に案内してもらえるかもしれない。二・三人のパーティなら、ほぼ完全に手取り足取り面倒を見てくれる。山でけちるな。先の映画の測量官達だって、地場の山をよく知った案内無しでは不可能だった。 山で山小屋の厄介になり始めたのは、ここ十年くらいでそれまではテント食料を背負って行っていた。少しの金銭的余裕と、山へ行くのが自分の中でスポーツでなくなってからは、月見をしたり、沢で行ける所まで言って、酒飲んで昼寝をする。黄昏れて来る頃、山小屋に帰る。別に頂上は目指さない。ただ、山懐にいる。それは大抵、山小屋が店じまいする晩秋の頃が多かった。 今回、面白い出会いがあった。登っている途中小屋直前の雪渓の手前で、一休みしていたら話しかけて来た中年カップルがいた。こちらと同じように、初めての人を連れてきたらしいのだが、こちらの亀ののろい的山歩きと違い、一挙に上高地涸沢と登って来たらしく、その初めての人は足を痛めていた。それで山小屋の個室の状況などを尋ねて来た。 話しの中で、その男の人は整体?の先生を東京でしているらしく、評論家の* 西尾幹二さんも生徒さんだったと聞いて、こちらは数いる評論家の中で、結構な愛読者だったから驚いた。大勢いる登山者の中でなんで、自分達を選んで話しかけて来たか。ただただ不思議であった。そんな話をしても西尾さんの事を知らなければ話は弾まなかったに違いない。 小屋を利用し始めて困った事があった。 部屋が暑すぎると言う事だった。 涸沢は七月末で夜は五度位。ところが密閉度の高い高地の山小屋の個室は、冬でも甚平で過ごす身にとっては暑くて眠れない。今回も同様で、深夜二時頃、窓を開けて真っ暗な奥穂に詰め上がる雪渓をみていた。そこで不思議なものを見た。 月はすでになく、眼下、300メートル位向こうにある涸沢ヒュッテのシルエットが薄闇の中、うすぼんやりと裸電球の弱々しい光に照らされ見えた。辺りを照らし出す程の光量はない。 そこから、何気なく山にせりあがる雪渓の上方数百メートルに目をやった。雪の斜面にぼんやりオレンジの光がともっている。 あれっ? 深夜二時である。テント地よりは随分上で、そこにテントは張れない。人が遊びに行く場所でもない。なんだろう。もう一度、涸沢ヒュッテに目をやって、再びその光った場所に目をやった時にはすでに無かった。最初にヒュッテのうすらぼんやりした電灯を見たのが残像に残って雪面に投影されたのだろうか。そう思って何度か試してみたが同じようには見えなかった。 翌朝、同じ辺りを見たが何もなかった。あれは何だったのだろう…。 ここ数年、若き山女(やまじょ…山に行く女)が増えたと新聞に書いてあったので、それとなく観察して歩いた。確かに若い女の子が、一人で来ているのをまま見かけたが、全体に若い人は少なく、どちらかというと山姥(やまんば)が多く跋扈していた。昔、老婆は山に捨てられたが、今は自分から出向き、なんと!帰還する。遭難する事を考えたらそれはそれで、めでたい…か。* セント・エルモの火…正確には、悪天候時に静電気などが尖った物体に発生させる、青白いコロナ放電による発光現象。尖ったものは無かったので球電(赤から黄色の暖色系の光を放つものが多い。自然発生したプラズマのかたまり。空中を浮遊する)の方に近いかもしれないが、浮遊はしていない。* 長谷川恒男…冬季未踏であった谷川岳一ノ倉沢滝沢第2スラブを単独初登攀。ヨーロッパアルプスの3大北壁(アイガー、グランド・ジョラス、マッターホルン)の冬期単独初登攀の成功は世界初。1991年、パキスタンの未踏峰(当時)ウルタル II峰で雪崩に巻き込まれ星野清隆と共に遭難。たん譚はかって各3大北壁の下で昼から酒飲んで酔っぱらっていた事がある。目(未)登峰 * 西尾幹二…日本のドイツ文学者、評論家。ニーチェの研究家。「新しい歴史教科書をつくる会」の初代会長
2009年10月09日(金)
セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 1/2
7月の末から八月の初め頃、北アルプス北穂高直下の涸沢小屋にいた。友人の遅い山入門の先達として同行した。この時期、涸沢から下は雪があったとしてもごくわずかで、簡易アイゼンを付けたり、山小屋の従業員が階段を切ったりするほどの残雪は無いのが普通で、小屋につくまでにアイゼンを効かせて登るなどというのはついぞ無いことだった。 この時すでに上高地界隈で行方不明者一人の捜索願が出ていた。また高齢者である。 巷、山岳ガイド地図が売られている。友人にはそれを持ってくるように言って、それで読図してもらおうと思った。が、この「大きなお世話」地図は、どこが危ないとか、鎖場だとか詳しく書き込みはあるが、実際に山の形を読んであの山がどれだとは言えない作りになっている。書き込みが多すぎて等高線が読めない。したがって、読図が出来ない山地図である事に改めて気づいた。 これを見て、初心者がわかったつもりで入山して、山行く人につられて難度を考えずに岩場に入って遭難する。最近も、奥穂高ジャンダルム辺りで動けなくなって、ヘリコプターが救出に向かったが、尾翼を岩に当て墜落、当人と四人が亡くなっている。 中年を過ぎて山入門をし夢中になる。が、感性は豊かでも体力は確実に衰えている、若い頃から山に親しんで自分を知っていれば非常事態に際して勘は働く。これは大雪山の遭難でもあったように、生死の分かれ目になる。 夜、月を見ながら小屋前デッキで友人と飲んでいると、初老が話しかけて来て、「明日は北穂高から涸沢岳、奥穂とやってここに帰って来るがどうだろう」と言うので、山歴を聞いたら初めてだと言う。こちらは心底驚いた。 例へ同行している友人が行きたいと言っても連れては行かない。はっきりいって考え無しの無謀である。やんわりと無茶ですと言って断念させた。多分こういう人が一杯いるのだろう。 登山はスポーツではない。sportは「気晴らしをする、遊ぶ、楽しむ」が元々の意味だが、さらに語源的に云うと古仏語のportare「荷を担ぐ」の否定形から、desport「荷を担わない、働かない」となって上のSportの意味となった。しかし山の基本は「荷を担ぐ」んである。苦痛を伴うものなのである。そういう意味でもスポーツではないし、現在のスポーツの大半を占める勝敗を競うものでもない。 山は昔、修験者の場であった。映画、剣岳「点の記」で西洋かぶれの* 小島烏水が日本で初めて山岳会を作り、勝手に国家大事の測量官達に対抗意識を燃やして剣岳初登頂を目指す。日本人としての目で西洋を見た最期の人と言われた夏目漱石と同様の目を持った測量官達の、 「何のためにただ頂上を目指すんだ?我々が頂を目指すのは仕事のためで、そこから仕事が始まるのだ」 という疑問の言葉は、まさに昔の日本人が持っていた山(自然)に対する感覚だった。 登山(アルピニズム)は英国発祥で、「勇気」を試され征服欲を満たす。アングロサクソンの持つ特徴とも思える。より困難でより高度な頂への挑戦。もともとは貴族の遊びだった。一方、 同じ英国の中でもウエールズ・スコットランドなどに住むケルト民族には、その土地の特徴、規則性をもった風景を楽しむと言う考え方に基づいたピクチュアレスク(Picturesque)という概念があった。もともとそれは、英国南西部に広がるウエールズに関してのガイド本にも現れ、またそれはケルト主義を表わす本でもあったようだ。 …続く。→セント・エルモの火?と山姥(やまんば) 2/2 * 小島烏水 …日本山岳協会設立者の一人。登山家、文芸批評家、浮世絵研究家、横浜商業学校卒業後、横浜正金銀行に勤務、「文庫」記者として活躍、文芸、社会、人物批評に健筆をふるった。 烏水は明治六年生まれ、漱石は慶応三年生まれ、明治(明治元年は慶応四年)と言う時代がどれほど日本の文化的側面に影響を与えたか.善かれ悪しかれ、形を変えて両者に現れていると思う。 →2007年の今日のたん譚 -これは事件か?-
先月の末から、ぽかんとして未だあいた口が塞がらず。 野分きのまたの日こそ虚しけれ 幾百万人讃えても 我がよしとおもう人のいざれば −半文等柵−
前に「応援する」で書いた西村眞悟さんの盟友、大阪八尾市議の三宅博さんも間違いなく我が国の事を考へ、北朝鮮による日本人拉致・特定失踪者問題を日本の主権に関わる事として行動する信頼出来る人である。将来、へなちょこばっかりの旧党を排し、新しい党を西村さん達とともに作り上げてもらい、強く明るく美しい堂々たる外交の出来る日本にしてもらいたいと心から思っている。
2009年07月10日(金)
気のせいか?木のせいである2/2
続き…。 しばらく枝などを払っていたが苦情は聞こへて来る。 で、切った。 有名寺院などを手がけている、造園屋に来てもらって切った。何代目かの造園屋の若頭領に切りたくないのだがと、その無念を言った。下を残したからまた生えてきますよとの言葉に少し救われた。 切って次の日から異変が起こった。 庭が妙に明るすぎる。鉢植えの山野草が萎れている。近くの木で鳥がずっと鳴いている。夕方の部屋の温度が温暖期(…化ではないゾ)に入っているとはいえ、異常に高い。それまで午後には縁側から畳に木漏れ日が写り、木のざわめきとともに見ていて飽きなかった。 これが、一切なくなった。他にも木はあるのだが、葉摺れの音も丈もそう大きくない。十数年来無かった事である。 庭は西向きのせいもあり、真夏のような直射日光が、大きなすだれの合間をすり抜けて差し込んで来る。鑑賞どころではない。鳥が鳴いているのには思い当たる事があった。二年前小枝を払った時に一つ、今回全部切った時に,種類の違う鳥の巣一つ見つけた、其れを探しているんだろう。 たった一本の木なのだが、その存在の大きかった事に改めて驚く。 庭に出て、椅子にすわって妙に間抜けた空間、筒抜けの空を見ていて、かってない経験をした。 一般に天気予報の手段としているのは、天気図を元にした天気予報、それに高層天気図とよばれる、天気図を元にしたものがある。高層と普通の天気図の違いは、普通の天気図は、その地点の気圧を表記し同じ気圧の地点を結んだ等圧線を記述する。高層天気図は同じ気圧の高度を記述し、同じ高度を持つ地点を結んだ等高度線をも記述し、その二つを会わせたり参考にして、天気予報をするが、各地での過去の経験や伝承を元に予測する「観天望気(かんてんぼうき)」もある。電波媒体が遮断された時に行う天気予報と思えば良い。 山に入った際などには無意識に行い、天を伺う。例えば、巻雲、帚雲が出ていれば低気圧は数百キロ先で天気は安定、鰯雲などと呼ばれる雲が出れば秋の雲、太陽がぼんやり見える高層雲が出ると天気が崩れる、夏は豪快な入道雲…雷近し。などである。 その四季折々、時節の特徴ともなる雲がなんと!上記の雲が、一度にいろいろな方向に出ていた。専門家ではないので、一笑に付されるかもしれないが、あんまりにも珍しいので、ビデオに収めた。四つ短く平行に走る,地震の時に出るような雲も出ていた。ここの所、昼はともかく夜半は全然暑くなく、逆に涼しい。大きな寒冷期に向かっての一時の温暖期という説もあるが、なんとなく頷ける。 …で件の…、まだ生きている。* 青蓮院。正式には天台宗青蓮院門跡(門があった跡とちゃいまっせ、皇族他の出入りがあり、皇族と関係の深い寺を門跡[もんぜき]という。) * 大楠の木…親鸞が植えたと言う説もあるが、門塀にそって植えられているし、青蓮院は移築されて来た寺で親鸞とは年代が合わない。江戸時代仮御所として使われた事があり、粟田御所とも呼ばれた。 本尊の曼荼羅(まんだら)は光の仏である「熾盛光(しじょうこう)如来」、信長が焼き討ちし、豊臣秀吉によって曼荼羅が奉納されたとされる。 この木は,信長が火付けたのを見ていることになる。 この文章は約二週間前くらいの事で、昨日、楠の丸太ン棒の切り口の端に、見事に若葉が生えた。ル・ネサンス(新生)とはこの事だ。庭に関して今までは、* 南方熊楠方式(みなかたくまぐす ようするに放ったらかし)だったが、これからは、ちゃんと伸びすぎず大きくなりすぎないように気をつけようと思っている。* 南方熊楠…和歌山県生まれ明治の前年に生まれ、大正、昭和を生きた。幼少の頃から神童とうたわれ、驚異的な記憶力があった。10歳の時、知人の家で百科事典を読んでそらんじ、自宅に帰って正確に転写した。全150巻を5年間で写し終えた。博物学者、生物学者(とくに菌類学)、民俗学者。菌類学者 ロンドン大英博物館勤務中に人種差別が発端で暴力事件が有名。 民俗学者の柳田国男と論争。 後に、隣に霊がいるとか、奇異な言動から世間から遠ざけられて行く。庭は粘菌を研究するため放ったらかした状態であった。 ちなみに名前の「楠」はその神木クスノキにちなんでの命名といわれている。 天皇陛下が固有人名をあげて和歌にした事は有名。 雨にけぶる 神島を見て 紀伊の国の 生みし南方熊楠を思ふ 昭和天皇 御製
2009年07月07日(火)
気のせいか?木のせいである。1/2
六月下旬、わけあって、庭の10メートル位ある楠の木を地上一メートルを残して切った。大きな木が好きで、何十年か前、京都に居を移し来た時に、真っ先に行ったのが京都東山にある知恩院のすぐ北にある* 青蓮院で、四脚門左右にある* 大楠の木に夜中、抱きつきに行った。 山で言えば、かってエベレスト登頂を目指す理由を聞かれて、ジョージ・H・L・マロリーは、そこに山があるから(Because it is there.)と答えたが、たん譚は、そこに木があるからだと答える。大きな木の横に居ると何時間でもいられる。多分前世は木だったかもしれない。今のように立ち入り禁止が無かった頃に、屋久島の縄文杉の下で結婚式を挙げる事を真剣に考えていた事もあった。お釈迦さんもキリストさんもいない昔からずっと立ち続けて世を眺めている縄文杉の前でこれからやって行く誓いを立てたかった。ある意味現木神?だと思っている。 にもかかわらず、なぜ切らねばなら無かったかと言うと、隣近所の苦情である。となりにも木が植わっている。うちだけではない。どうも、じぶんちの落葉は許せるが、隣の家の木の葉、枝は許せないらしい。で、訴えられたのが二年くらい前。裁判所に行くと、調停員が男女二人いた。京都の名士が担当している。ところがこの男の人の方が家人と知り合いで、偶然とはいえ驚いた。これは裁判員制度でもきっと起こる。考えてみたら、宝くじの一等何億円は必ずあたる人が居ると言う事は、誰かは確率小ながら必ず遭遇すると言う事だ。 その人は言った、もう高齢(訴えた爺)で老い先短い、だから、ここは一つ折れて(木だけに…)切ったらどうかね。 普通考えると、よそから飛んで来た木の葉が庭にたまったら掃き寄せて燃せばいい。そこに自他の区別は無い。万事其れでよしと思っていたが、世の中はわからない、嫌だと言う人もいる。自分ちの葉っぱと他家の葉っぱを違う物と見なして、気に入らないと言う。 結局和解と言う事でこちらが折れた。 隣人と言っても、碁盤で言うと□の下辺(各辺には数件の家が列んである)の真ん中位にうちの家があり、□のやはり左辺真ん中あたりに隣人宅があって、坂にあることもあって、漢字の田の十の交差した所にお互いの庭が、高さ1.7m位の段差を持って接している。 同町内と言っても距離は離れているので、1年に一度隣人の姿を見るか見ないかの存在である。 …続く。
千羽の鳩より、一人の西村眞悟 鳩の特徴。 一見平和の象徴(古代ギリシャ・ローマ時代から、鳩とオリーブは無垢と平和の象徴と考えられていたし、旧約、創世記8・1〜12 ノアが放った鳩が陸がある事を知らせ帰って来た時にオリーブの葉を加えて箱船に帰って来た平和の使者)としてのイメージがあるがとんでもない。動物は腹が一杯になるとそれ以上は食べないが、鳩は吐きながらも食べる。動物たちは普通仲間同士のケンカでは致命傷を与えないが、鳩はとことん殺し合うまでケンカする。貧欲でどう猛なんである。はとぽっぽなんて言ってる場合では無い。 そこで…。某辞典より ハトの被害を防ぐために 1.エサを与えない(既に鳩だけの家ではない家に100億円くらいある)
栄養状態がよいハトはどこでも繁殖します。このため、エサやりなどの習慣がある地域では、個体数が急激に増加してしまいます。
2.巣作りしやすい環境を与えない
・死角が出来てしまうような物を撤去
・死角になる場所を塞ぐ
・常に清潔な状態を維持する
・フンが残っていると飛来しやすくなる
・徹底して追い払う。 ハトの駆除方法 ドバトは鳥獣保護法で保護されているため、捕獲・生殺与奪(政治家としての)・卵や雛のいる巣(党)の撤去などは都道府県国民の選挙が必要です。 そのため、侵入防止・飛来防止することが重要です。 1.侵入防止用のネットで遮断する(日本は日本人だけの物ではないと公言。既に被害が進行している場合は勿論、あらゆる場面で効果的) 2.鳩が留まれないように足場になる場所にハトよけマット・テグスなどを付ける(糞害(憤慨)防止に最適) 3.忌避剤を散布・塗布する 悪い事ばかり言っても何だから良い事も書く。 昔、鳩も伝令で役に立ち、フランス料理で、南仏の赤ワイン、シャトーテレグラフとはいい相性でとても美味しくいただける。 伊東(静岡県伊東市伊東温泉)方面でもありがたがられている 警戒せねばならない事。 外国人参政権や、地方分権、中国人大量移民、世界中見渡しても厄介な国が周辺にある事への無関心。国家意識の欠乏(国の主権を国際機関にゆだねる、)、国防への頓珍漢、友愛(愛にもいろいろある。インドでは生まれたすぐの我が子の片足を切り落とす例が多くあった。片輪者は、インドでは施しを受け、生涯食うに困らない。究極の慈愛、愛と言う意味も一元的にしか捉えていないから、こういう愛の形など想像もできないだろう。)という偽善。女性天皇論者 以上、鳩ぽっぽの基本。日本国滅亡。言わずと知れたこれの対極を行くのが西村眞悟。 西村さんの選挙区以外(近畿比例区は、大阪、京都、兵庫、奈良、和歌山、滋賀の2府4県)では本人の名を書くと無効になる。「改革クラブ」と書くと本人の票 になる。もしこの政治家が落ちるようであれば、もう投票には行かないと決めている。