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2003年12月01日(月) 三味線とストラディバリウス (日本と西欧)



 バイオリンに名器があるのに、なぜ三味線にないかというのがある。先日FMから聞こえて来た話題で非常に面白かった。三味線にないのは、棹(紫檀などで出来ている)の部分(指で押さえる所)が減ると、削って新しい面を出して使うからだそうで、要するに消耗品なのだそうである。
 三味線は、三つの部分から出来ていて、それぞれに作り手が違う。バイオリンは一人の作家が一貫して作る。

そういう事もあいまって、江戸時代からの名器はないということになる。
西洋の楽器は、平均律で演奏するけれども、三味線は音楽の流れ(これを流派と呼ぶ)によって使う音が一定しないので、ギター・バイオリンにあるフレットにあたるものがない。
 
 西洋音楽にあれば良いとされる絶対音感も、三味線には、かえって邪魔になるらしい。三味線は相手にあわせて音が決定される。
だから非常に西洋に理解されにくい。

 これを聞いていて、フランスの美術史家アンドレ・シャステルが、なにかに日本と西洋の違いについてその困惑を書いていたのを思いだした。

 西欧の文化財は、いっさい代替不可能なもので、そのまま保存しなくてはならない、しかし日本は神社仏閣などの貴重な建造物を、元々使われていたものと同じ素材を用いて、周期的に再建修復し、日本文化を理想的な状態で引き継いではいるが、わが国では考えられない…云々。

 ストラディバリも西洋絵画も、結果的に時を経て、良い音 良い味(色味において)がでているのだろうが、作った、描いた当時はそれほどではなかったかもしれない。今良いと思っているだけかも知れない。

  美術史家A・シャステルの言い分は、一面的である。たった今の価値観(文化財はいっさい代替不可能なもの、手を付けず保存)でものを言っている。
西欧中世において、絵画、現在名画と言われるものでも、目的によって上から遠慮なく他人の手で加筆が行われた。これを現在ごしごし洗い落としている。これはいいのか?

 西欧においては、オリジナリテ(個人・作家)を第一とし尊ぶ。が、日本においては、法隆寺の建立も、昔 寺社番匠、今、宮大工と呼び名は変わっても、個人名はでてこない。だからといって全然顔を出さないかと言うとそんなことはない。左甚五郎、彫像では運慶・快慶 他がいる。多面的で重層的である。

シャステルは日本を知らないというより理解できない。また意を尽くして話しても認めるだろうが理解しないだろう。話して理解出来るものとそうでないものがある。文化とはそう言うものだろう。
 
 
平均律
〔音〕一オクターブの間を一二個の半音に等分して構成した楽律。純正律に対して音程や和音が幾分不純であるが、一二種の音によってあらゆる転調を処理できる便利さのため、近世音楽発達の基となった。
 
 
 

    










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