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2009年12月31日(木) 大晦日



 今年は蕎麦の出来が悪く、商売に障ると複数の蕎麦店主から聞いた。毎年大晦日に年越しの蕎麦を打っている。そういえば信州から送ってもらった蕎麦粉も値が少し上がっていた。今年の蕎麦は水回しがよくなかったのか、15センチくらいにしかつながら無かった。つなぎの小麦粉を入れないのが習慣となっているが蕎麦を捏ねて延ばして折り畳み、切る。ところが折り畳んだ所から切れる。久しくなかった事だ。
味には別状はなく美味しくいただいたが、こんな事はいままでなかった。初心者の頃には全くつながらない事が一度だけあって、今から思えばもったいない事だったけれど、腹を立てて捨ててしまった事があったそれ以来の事だ。

 日本もこの蕎麦のように、バラバラになってしまう予感を覚へ、ちょっと寒気がした。除夜の鐘を聞きながらスペインのCAVA、龍馬の故郷の米を*永田農法で作ったと称する酒とでそばを食べながら静かに過ごした。



*永田農法…永田照喜治(1926年 - )が創始した農法。現在の農法と違って必要最小限の水と肥料で作物を育てることが特色であり、「断食農法」、「スパルタ農法」、「緑健農法」、「ルーツ農法」などの呼び名がある。


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2009年12月22日(火) 珍痴苦林の二賢人の会話



客「寒いねぇ、外国では寒波で沢山死んでるらしいよ、うちの実家も雪が40センチ積もって年寄りは出歩けないと言ってた。」

タクシーの運転手「大丈夫、世の中温暖化で来てるから、どもない」

客「温暖化ってほんまかな?」

運転手「これからエコカーがメインに販売されるようになるから大丈夫」

客「え?何がどう大丈夫なんですか?」

運転手「あのさ、石油燃して走ってる今の車を電気車にするんやろ。その燃料の電気を作るには石油燃して発電するやろ?それから蓄電もせんと。売るスタンドも建てなあかん。俗にこれを電気スタンドいうんや。わははは。で、新しい電気自動車を作るのもエネルギーの大半は電気の力で作る、左様な事で、至る所で電機作れ電気作れで、どんどん石油燃すから、温暖化に絶対なるんよ。せやから、雪降ってそれで人死んでも、たとえ寒冷化してても温暖化来るんよ」

客「な、なるほど!?で、温暖化来たらどうなるんやろ」

運転手「そりゃ、ええでえ、ねえちゃんスカート短いままで、胸おっぴろげで年中おるわな。おまけにシベリアの永久凍土が溶けて緑の大地になったら高う売れまっせ。ええことずくめや、ハワイあたりはさしずめもう、まっぱだかになっとんちゃいまっか。南極のペンギンは涼を求めて北を目指す、言うても四方皆北や、迷う事無いから南極は便利や。」

客「ほんでもなんか悪い事起こるような気がするけど。世界規模の病気とか」

運転手「病気になって発熱して一杯死ぬやろ、焼き場でまた石油一杯燃やすなぁ、土葬の所は一杯埋めたら微生物が分解する。そしたらまた熱出る。また温暖化や、嬉しい事に世界的に人減るがな、夏でもパスの中でべたべたひっつかんでええやん。な?やっぱりええ事尽くめや。」

客「ほな、世間はなんでそないに温暖化騒いでんの?」

運転手「騒いでンの日本だけや。騒いでエコやエコや言わんと新しいもん売れへんし、作れへんやろ?エコバッグ大売れや。こういう商売の仕方をエコギな商売ちうんや。」

客「座布団一枚!…、やっていいんか?」







COP15 ↑コップ 1/5 (日本)









2009年12月15日(火) 長州出でず。



 今日、支那の招かざる客(臭・禁屁)が、突然多分、箔を付けるためだけになんと天皇陛下に会いにやってくる。「謁見」と書かなかったのは当人はそんな気持ちは微塵もなく、只々自分が次期の支那の親玉候補(と言っても共産党序列第六位)でその下準備のためだからである。

 天皇との謁見はその一ヶ月前から伺いを立てなければならないというルールがあるにもかかわらず、朝貢先で毎度おさわ(小沢)がせ男が勝手に決め(注−首相が決めたとお騒がせ男は言っているようだ−09.12.20)て、強引に宮内庁に異例の妥協をさせた。お騒がせ男はニュースで、「民主主義だろう?」とむっとしていっていた。アホか!天皇はすでに憲法が出来る前から自然に御存在し、憲法民主主義とは何の関係もない。我々が一票で選ぶのとは次元の違う存在であって、後に出来た憲法他で当てはめられるものではない。勘違いも好い加減にしたらいい。


 謁見について言えば、例えば隣の会社の部長が、我が会社の会長にあうのに一日前に打診してきて其れが通るよりも破廉恥な出来事で、これで続々と他国がそういうことなら俺も一日前にあわせてくれとごねた場合どうするのか。

 全体主義の危機を予感し、その遺書に「ご家族には申し訳なく私怨はないが、公のために行動する」と言って、当時の*社会党の浅沼稲次郎代議士を襲い死に至らしめ、逮捕後、収監され獄中、溶いた歯磨き粉で「七生報国 天皇陛下万才」と壁に書き残し自刃した山口二矢を思い出した。
今山口がいたなら起っただろう。


最後にこういう訳のわからん一党を選んだのは私達である。江戸から明治に移る時、全人口の数パーセントしか武士はいなかった。選挙制度も民主主義も無かった。長州藩の*足軽クラスが役人になってその弊害が汚職や行きすぎた西洋かぶれを作ってしまったが、日本の昔からの規範は守られていた。
小沢の「民主主義だろう!」にはそれがどうしたと返したい。「契約」を言いたいなら、日本にも昔から「契約」は有るのだ。
 
もう一度言う。現政府は「我々日本国民が選んだ」




*社会党…この事件を境にその人気は急速に衰えていき、現在は消滅。ここから新社会党が出来るが社会に与える影響力というよりも笑いものとしての大将?になっている
*足軽…士族とは区別される。
足軽は忠誠心に乏しく無秩序でしばしば暴徒化し、多くの社寺、商店等が軒を連ねる京都に跋扈し暴行・略奪をほしいままにすることもあった。
山縣 有朋などは武士を憎んで、軍隊(陸軍)にも日本刀ではなくてサーベルを選んだと言われるくらい武士を嫌っていた。



→2002年の今日のたん譚 プロヴァンスのハーブで









2009年12月12日(土) 鳩(ハット)トリック



クローンが責める。呵々。












→2004年の今日のたん譚 ついに猪出没す


→2007年の今日のたん譚 アリマキとブフネラ (2/2)

→アリマキとブフネラ (1/2)











2009年12月09日(水) 台湾ゆ〜らりぶ〜らり 3/4



 恒春に行きたかった。台湾の最南端にある。
高校の山岳部時代に初めて天気図を書かされた。 ラジオのNHK第二放送で午後四時から始まる天気通報を聞き、天気図に書き込んで行く。石垣島から始まり、支那大陸を回り最期に富士山で終わる。海上からの定点報告の通報を聞き取り書き込み、高低気圧の位置を書き込み、等圧線をひく。習って半月経っても習得は出来なかった。それほど難しかった。

 聞きながら地名の位置に鉛筆を持って行き、読み上げられる「石垣島では北東の風、風力3、天気 晴れ、気圧 1008ミリバール(現在は ヘクトパスカル、hpa)、気温 22℃」をあらかじめ記されている○に書き加えて行く。

北東を瞬時に判断してそっちの方から円に接する形で一本線を引く。そして矢羽根のごとくに、最初引いた線の右側に一番上を大きく計三本線を引いて風力を、晴れなら円の中心を通って直線を引く。晴れや雨なら問題ないが、霧?みぞれ??あられ???ひょう????なんて出て来たらもうお手上げで、あれ?どうだったかなぁと考えているうちもう次の場所に行ってしまい分けが分からなくなってしまう。

山に行ったら、もしくは行く前に天気図を書き判断する…、は理想だが、地方の低山ではまず必要ないのに何でそんな訓練をしたか。
体育会系クラブ活動で競技中に筆記試験があるなんて言うクラブは山岳・登山クラブ位なものだろう。競技中に山の知識の試験と天気図を書かされるのである。総合で判断されて順位が決まる。いくらテントの設営の仕方が旨く体力満々でもだめなんである。

 国体予選など出発の駅で規定の重さに達していなければ、審査員の先生方が情け容赦なくリュックに石をほり込んで規定の重さにする。確か二十キロだったか。石を入れられたら、最期まで重さは変わらないので、部員達は工夫する。水なら飲んでる最中にこぼれる事?もある。その他、砂に水をしみ込ませたものや雑誌を濡らして入れて行き、蒸発を待つとか、猿の浅知恵でいろいろ考えた。

で、国体予選の場合、どんどん脱落して行き、(グループから遅れたもの、棄権したものはその時点で事実上、試験を待たず失格)へとへとになって山頂に着く頃には四人くらいになっていて、遅れたものを待ち、そろったら神社の境内を借りて、なんと!筆記試験が始まる。最初は知識の試験。次に天気図を録音したラジオを聞かされ、書く。
が、半日に及ぶ苦闘の末なので手が震えうまく字が書けない。下山した頃には心身よれよれで、数日肩から上に手が上がらなかった事を昨日の事のように思い出す。

 話を天気図に戻す。天気図記入に漸く慣れて各地名の流れをつかんだ頃、他にもいろいろ特徴的な地名があるが、台湾の恒春を覚えた。石垣島から始まり、日本列島を桜前線のごとく這い上がり、千島列島樺太を通り、今度は沿海州に沿って南下し、朝鮮東シナ海をまたいで台北に来、恒春にくる。ここから、次はポンと支那大陸の長春に飛ぶ。本当に特徴的に右斜め上に飛ぶ。
「恒春に来れば次は右斜め上だゾ」と次ぎに来る長春を意識する。
これが天気図を書かなくなった40年後の今も頭に焼き付いて離れない。

日本と切っても切れない関係の台湾を意識するようになって改めて、印象に残っていた恒春に今回の旅で行こうと思っていた。
結局、高雄からの交通の便が悪く、どうしても先にホテルを予約していた事もあって、距離的にも一日で行って帰って来るのは難しく、また次の機会の楽しみにとって置く事にし高雄を後にした。



→続く。


→2001年の今日のたん譚 ホテルの中のホテル
→2002年の今日のたん譚 食べて極楽、見て地獄 -上-
→2004年の今日のたん譚 すくう会から
→2007年の今日のたん譚 これは事件か?











2009年12月01日(火) 台湾ゆ〜らりぶ〜らり 2/4



 日本の新幹線のグリーンにあたる台湾新幹線の「商務車」は、座ると手拭き、お菓子、飲み物全部無料でついてくる。日本でグリーン車に乗る機会はまず無いので、どうなっているかは分からないが、台湾では飛行機と似た地位にある。静かに本が読めた。台湾の少数部族とアイヌの違いについて読み始めてしばらく、あっという間に台南高雄の左榮に着いてしまった。わずか二時間の新幹線搭乗だった。が,この短い間の読書で分かった事、台湾の少数部族は、直ちに引っ張ってこられるが、アイヌ人を探して引っ張って来る事は出来ないと言う事である。
二世三世ならいるかも知れないが、純然たるアイヌはいない。大和民族に溶け込んで久しい。一方台湾の昔蕃族、今、原住民ははっきりと存在(アミ族約18万人。泰雅族と湾族約8万人。花蓮県に原住民9万人、台東県7万9千人、屏東県5万6千人)し阿里山付近や高地に住んでいて訪ねて行くと会うことも出来るし独特の言語も現存しているようだ。アイヌには言語の痕跡(カタカナ表記で)は地名他に残るが、文字はなく、アイヌ語を喋る人も勿論いない。

 それはさておき、昔のように何ヶ月もかけて欧州を巡っていた時は有り余る時間があったので日本の古典、方丈記や奥の細道などを読んだ。貧乏旅行だったけれど、あれに勝る旅は無かったと思っている。もう今はそんな贅沢な事やろうと思っても出来ない。

 連日30℃、台南では予定を変更し宿で静養。今回気にかかったのは、留守番している生まれて数ヶ月の三毛猫の事であった。
以前、動物園に勤めている友人の娘さんが、留守の間数日置きに見に来てくれていたが、そうしょっちゅう甘えるわけにはいかない。かといってペットホテルに入れるのは逆に動物にとってストレスになる。
幸いな事に、基本的に猫は犬と違って屋根、排水溝自由自在である。
餌だけしっかり与えておけば大丈夫だと言う事が長年の経験でわかっていたが、やっぱり旅行中は心配だ。

そこで今回は、 SKYPE(スカイプ。ネット上での無料双方向テレビ電話機能)を利用し、猫の寝床となっている風呂場にカメラを取り付けコンピュータとつなぎ、餌は自動給餌器で理論上、一日数回時間設定可で、三ヶ月は生きて行ける餌が出るものと、生の餌が四回出る給餌器を置いた。電池式だったが、それだといつ切れるか分からないので改良してコンセント差し込み式に変えた。

 台北のホテルからインターネットで家のスカイプを呼び出すと、自動的に開くように設定してあったので、あんまり綺麗でもない風呂場が俯瞰するように写しだされる。いるいる、くつろいでいる。こちらから音声で呼びかける事が出来るが、呼ぶと直ちに反応してスピーカのある方に行ってしまい、動きが追えない定点カメラなので、姿が消えてしまうのは失敗だった。

 次の宿に着くと直ちに家のスカイプにつなぎ、常時画像をつけておく。こちらの普通の会話も向こうに聞こえているので一緒にいるのと何ら変わりがない。そのせいか旅を終えて帰った時に、別に猫の方で感極まったという感じはなかった。
 手違いで、猫側の音設定を忘れたために、猫の声は聞く事が出来なかったが、猫は飼い主の声と餌さえあれば、かなりな期間の旅行が出来ると言う事が今回分かった。
問題は排泄物の処理だが、これも家で使っている酵素分解の生ごみ処理機用の土を猫のトイレに転用すれば、少しの糞なら一日二日で完全に土に戻る。処理土は一日数回混ぜなければいけないのだが、幸い猫は用を足す前後、土を頻繁に混ぜ返すからちょうど良い。
世の中便利になったもんだ。

 今は、猫の基本的な調教期間なので放し飼いにはしていない。
長生き(25年くらい)して欲しいので、普通の猫の半分以下の餌、湿気のある場所での基本的寝床。悪い事をすればその日は断食。二年めは、筋肉を付けるためにドッグフードを一年間やる。
最近の研究で若い頃飢餓を経験した人や猫は長生きすると言う結論に近い結果が出ていて、先代の猫は、まさにそれで育てて22年近く生きた。死ぬ直前まで穏やかで一筋の涙を流して息を引き取った。
また、そのように生きて欲しいと思っている。先代の猫は若い間は旅行中は放ったらかしてあったが、ちゃんと風呂場を寝床とし生活していた。帰って来て再会すると半野生化して眼光鋭くなり、何だか太っていた。てんこ盛りにして行った餌を存分に食べたせいに違いなかった。


→続く。


→2001年の今日のたん譚 不覚!


→2003年の今日のたん譚 三味線とストラディバリウス (日本と西欧)










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