2007年08月13日(月)  『絶後の記録』映画化めざして来日

2002年8月6日の日記に『絶後の記録』のことを書いた。原爆投下後、GHQの検閲を受けて最初に刊行されたこの体験記の著者である小倉豊文氏は『宮沢賢治「雨ニモマケズ手帳」研究』などの著書もある人文学者で、宮沢賢治研究が縁でダンナ父と知り合い、親交を深めていた。そんなわけで、小倉氏の「恵存」のサインの入った文庫をダンナ父にすすめられ、読んだのだった。

原爆で愛する妻に死なれた小倉氏が妻に語りかける形で、原爆投下後の日々を綴る。手記というよりラブレターであり、やさしくあたたかい言葉の中に凝縮された激しい感情に心を揺さぶられる。読み終えたとき、こんなに美しく悲しい話は知らない、と思った。強く打たれた。

なのに、当時すでに脚本家としてデビューしていたわたしは、これを映画やドラマにしたいとは思わなかった。ちらりと脳裏をよぎりもしなかった。「何かいい原作はありませんか」といろんなプロデューサーに声をかけられるようになってからも、可能性を検討することさえしなかった。書かれている真実の重みにひれ伏し、書かれている以上のものを映像で見せるだけの予算も腕もない、と逃げ腰だった。それ以上に、これを何とかして世の中の人に知らしめなくては、という使命感に欠けていた。

本を読んだとき、原爆の記憶を風化させてはならない、せめて8月には思い出す時間を持とう、と誓いを新たにしたものの、それから5年間、『絶後の記録』は閉じたままだった。再びページを開くことになったのは、この本を映画化したい、という人が現れ、小倉氏の長女である三浦和子さんがダンナ父に相談し、「映画のことなら雅子に」というわけでわたしが和子さんに代わって連絡係を務めることになったからだった。

UCLAで映画製作を学び、ロサンゼルスで映画製作に携わっているKinga Dobos(キンガ・ドボッシュ)さんという女性からの手紙を、共通の方から英語を教わったという静岡に住む岡田学而さんが日本語に訳されたものを、和子さんから預かって読んだのが6月のこと。岡田さんが添えた挨拶の冒頭には「ようやく桜の花も咲きはじめてまいりました」とあり、春をまるまる待たせてしまったことを知る。キンガさんの手紙を読んで、さらに焦った。「こんなすばらしい、熱のこもった手紙は、なかなかありません。一日も早くお返事すべきです」とすぐさま和子さんに電話した。

恩師から『絶後の記録』の英語版(Letters from the End of the World)をすすめられて読んだキンガさんは、原爆投下に翻弄されて引き裂かれた小倉さんの家族に自身の体験を重ねた。祖国ルーマニアからパスポートを持たずに逃れた両親を追って一年後にハンガリーに移り住んだのが14才のとき。この辛い経験から「苦労が人間を強くする」「自分の運命を選ぶことはできないが、もって生まれた才能や個性や度努力が非常な困難をも乗り越えさせてくれる」と悟るなかで、「いつか芸術で自分を表現していこう」と思うようになった。高校を卒業後、ロンドンで住み込み家事をしながら夜間学校で英語を学び、映画製作の夢を実現するために渡米してからは七年もの間家族と会わずに勉学に励んだ。そうして叶えた夢は、自分の興味と熱意だけで勝ち取ったものではなく、出会った多くの人たちの支えがあってこそ……。手紙は映画化権の許諾を依頼するものだったが、そのためにはまず自分を知って欲しい、という熱意がまっすぐに伝わってきて、彼女と『絶後の記録』のめぐり合わせを祝福したい気持ちになった。

和子さんから岡田さんに一報入れたのと相前後して、わたしと岡田さんも連絡を取り合うようになった。ちょうど8月の原爆の日をめざしてキンガさんが来日されるということで、キンガさんとは初対面の岡田さんが10日余りの旅程を同行するという。毎年5日に広島平和記念公園で夜を明かし、翌日の記念式典を見届けて0泊2日で東京に戻られるという和子さんとキンガさん岡田さんがまず広島で会うことになった。キンガさんが和子さんの話に耳を傾け、長い夜を共にした模様は、中國新聞でも紹介された。

そして今日、東京のわが家にキンガさんと岡田さん、和子さんとお嬢さんが集まった。ダンナ両親と仕事から戻ったダンナも加わり、大人8人と赤ちゃん一人のにぎやかな夕食。映画化については和子さんは「作品が知られるきっかけになるのはうれしいが、顔を見てからでないと」と話されていたが、広島で夜を徹して言葉を交わし、この人ならば、と安心されたよう。小倉氏も写っている戦前からの家族アルバムや疎開先につけていた日記など貴重な資料をどっさり持ち込まれた。キンガさんは熱心にメモを取りながら質問を繰り返し、和子さんのアルバムをビデオに撮り、用意した食事に手をつける暇もない忙しさだった。

「『夕凪の街 桜の国』を広島で観たときも終始ペンを走らせていたんですよ」。そう感心する岡田さんの熱心さにも、圧倒された。「こういう映画がちょうど公開中ですよ」とわたしがタイトルを伝えた作品をキンガさんが来日中に観られるように調べたり都合つけたりされたのだろう。キンガさんの手紙を訳して以来、すでに数十冊の原爆関係の本を読まれたのだという。「黙祷しながら聞いた8時15分の鐘の音は忘れられないものになりそうです」「平和公園を歩いたのは二度目ですが、小倉先生の言われた『広島ではどこを歩いても遺骨の上を歩いている』の言葉を思うと、そこは一度目とは違った場所のようでした」と仰る言葉にも重みと深みが感じられた。

岡田さんとわたしが補いあいながら通訳を務めたのだけど、岡田さんの語彙の豊かさ、訳の的確さにも感心した。わたしの英語はずいぶんさびついていて、日本語にしたら数語のことがまわりくどい表現になってしまった。「大空襲」「疎開」などという使い慣れない言葉にたじたじとなっていると、察しのいいキンガさんが「Fire attack?」「Evacuate?」と汲み取ってくれた。「被爆者って何て言うんでしょう?」と岡田さんに聞いたら、「Hibakusya?」。「ヒバクシャ」はそのままで通じてしまうんだ、と複雑な気持ちになった。

これからキンガさんが脚本を書き上げ、出資者を募っていく。実現する目処が立つまではまだ遠い道のりだし、どんな規模で作れるのか、予想もつかない。「原作に忠実でありたい」とキンガさんは繰り返していた。当時の模様を再現するには莫大な予算が必要となるが、原作を尊重する気持ちがあれば、原作に込められた思いは映像に刻まれると思う。手紙からイメージした通りの、真っ直ぐさとしなやかさ、たくましさとかわいらしさを持ち合わせた愛すべき人、キンガさん。異国での孤独に耐えて映画製作者になる夢をかなえた彼女なら、どんなに道は険しくても、惚れ込んだ原作を映画化してしまうのではないか。わたしも、岡田さんに続いて彼女の熱意に巻き込まれた一人として、応援していきたいと思う。

「紙の墓」と題した小倉豊文氏の詩がある。「亡き妻に」と副題があり、妻にあてた手紙を本にした気持ちが綴られている。ノーモアヒロシマズの祈りが出版に駆り立てたのだが、印税を受け取ることに葛藤した。悩んだ末、印税をみんなに使ってもらおうと決心がついた……と語りかける長い詩は、

 お前のお墓を建てるのも
 しばらくみんなおあづけだ
 本をお墓と思つてくれ

 地上の
 つめたい一つの一つの墓石より
 も無方にちらばる
 無数の紙の墓の方が
 お前もやつぱりいいだらう
 第一、
 軽くていいだらう

と結ばれている。この「紙の墓」を広めることが、映画化への後押しになればと願う。『絶後の記録―広島原子爆弾の手記』は最初の刊行から半世紀余りを経た2001年8月に中公文庫BIBLIO20世紀から改版が出ている。

2005年08月13日(土)  西村由紀江さんの『ふんわりぴあの vol.7』


2007年08月12日(日)  マタニティオレンジ157 0歳にしてジャズにスイング 

近所のお肉屋さんの入口に「バーベキュー」の張り紙を見つけ、店の人に聞いてみると、この近くで病院をやっているお客さんが毎年開いているものだという。近所の人はどうぞということなので、一家で出かけることにした。

開始30後頃に到着すると、バーベキュー会場に変身した医院の駐車場には、すでに50を下らない家族連れがつめかけ、テーブルはすっかりふさがっていた。空いているのは、今バンドで演奏しているメンバーの席だけ。演奏の間、そこに落ち着かせていただく。ちょうど、かぶりつき席で、同じテーブルの女性はバンドメンバーの関係者らしく、演奏の合間に「ビール持ってきてくれ」「ダメ」というジェスチャーでのやりとりが繰り返される。すでにいくらかアルコールが入っているようで、ほろ酔いで演奏してらっしゃるのだが、いい感じに力が抜けて、心地よい音になっている。

娘のたまにとっては、はじめて聴くジャズの生演奏。CDでもわが家ではジャズなどめったにかからないのだけれど、たまはずいぶん気に入ったらしく、わたしの膝の上で立ち上がり、しきりに手拍子を贈っている。絶妙なタイミングで「オー」やら「ホー」やらかけ声も飛び出す。バンドの方もそれに気づいて応じてくださり、わたしとダンナは「うちの子はジャズがわかる!」と大興奮。バレエ『白鳥の湖』を観て胎動を感じ、「うちの子はチャイコフスキーがわかる!」と生まれる前から親バカになっていたが、もしかしたら、本当に音楽を感じる才能がすぐれているのではないか。将来、この子が音楽の道に進んだら、「生まれる前にチャイコフスキーを理解し、0歳にしてジャズにスイング」したと触れ込むことにしよう。

演奏が終わったバンドメンバーの方々がテーブルに戻ってきて、「ノリノリでしたねえ」と声をかけてくださる。夫婦二人だけの参加だと、二人だけで黙々と肉を食べて帰ってくるだけになっていたかもしれないけれど、子どもが会話のきっかけになって、初対面の方とも話がはずむのはありがたい。

2006年08月12日(土)  土曜ミッドナイトドラマ『快感職人』
2005年08月12日(金)  宮崎あおいちゃんの『星の王子さま』
2002年08月12日(月)  お笑い犬トトの思い出


2007年08月11日(土)  マタニティオレンジ156 誰に似ているのか「顔ちぇき!」

娘のたまが生まれたとき、誰もがわたしに似ていると言った。狭い産道を通り抜けてむくんだ赤い顔は、二日酔いのわたしによく似ていた。ところが、顔の腫れが引いて「かわいい」と言われる回数がふえるのに反比例して、わたしに「似ている」と言われる回数が減っていった。先日もたまを抱いて信号待ちをしていたら、「あらかわいい、お人形さんみたいねえ」とさんざんわたしに話しかけてきたおばさんが、最後に一言、わたしの隣に立つダンナに向かって「お父さんそっくり」と言い放った。母子二人で出かけているときは、「かわいいですねえ。パパ、かわいい顔しているの?」と逆算され、母としてはとても複雑な気持ちになる。子どもがほめられるのはうれしいが、自分が過小評価されるのは悲しい。

新聞の整理をしていたら、7月13日付の朝日に「顔ちぇき!」が大人気という記事があった。携帯メールで顔写真を送ると、1000人ほどの有名人の顔写真と照合して誰といちばん似ているかの結果が返信されてくるというもの。会員登録は不要でメールのやりとりだけでサービスを受けられる手軽さが受けているのだとか。これで、たまとわたしの写真を送って、同じ有名人に似ているという結果が出れば、母子が似ているということになるのでは。早速たまの写真を送ってみる。似ている人は女に限定しないmixiを選ぶと、「水川あさみ 47% 小沢一敬 44% 高橋愛 43%」という結果。水川あさみ似と思ったことはないけれど、美人女優に似ていると言われて悪い気はしない。写真が違うと結果も違うんだろうか、と最近の他の2枚を送ると、「清木場俊介 46% 上野樹里 45% 阿部サダヲ 45%」「森迫永依 43% 水川あさみ 42% 小西真奈美 42%」と結果はまちまち。延べ9人の名前のうち、かぶっているのは水川あさみだけ。じゃあ、あの写真はどうだろう、と送りつけるうちに、送信ボックスと受信ボックスが「顔ちぇき!」だらけになった。記事と同じ時期のアエラの広告には「中高年もはまる『顔ちぇき!』」の見出しがあるが、世間よりひと月以上遅れて、わたしもはまった。(8月27日追記:記事の時点では「累計利用者3万人」となっていたが、携帯サイトkaocheki.jpを運営しているジェイマジック株式会社の8月17日付プレスリリースを見ると「5000万人を突破」とある。)

母子の似ている度チェックのためにわたしの写真を送ると、「TERU 46% 池脇千鶴 45% 木梨憲武 45%」と出た。3人中2人が男。わたしって男顔だったんだろうか。生まれた頃のほうがわたしに似ていたとすると、たまも最初は男顔だったのかもしれない、と思い、生まれた当日の8月22日からひと月刻みで送ってみると、
0か月「矢沢永吉 32% 小西真奈美 29% 上田晋也 29%」 
1か月「島田伸介 32% 明石家さんま 29% 井上和香28%」
2か月「須賀健太 48% 阿部サダヲ 43% ユンソナ43%」と仮説は証明され、
3か月「高島彩 35% 若葉竜也 27% 田中聖26%」でようやく女顔になった。以降、「清木場俊介」を除いては、たまは女顔であることが判明。

一方、ダンナの顔写真を送ると、「松岡恵望子(えみこ)57% 羽島慎一 56% 福山雅治 56%」とこちらは男のくせに女顔。女顔組と男顔組で仲間外れにされた気持ちになる。そうだ、ノーメイクがいけないんだ、としっかり眉を書き、アイラインを入れた写真を送ると、「木村佳乃 42% 堤真一 42% 田中聖 41%」が出た。2位3位は男だけれど、わたしだってその気になれば木村佳乃似になれるのだ(言われたことないけれど)。しかも3位の田中聖は、たまの3か月の3位と一致。田中聖を間にはさめば、わたしとたまは似ていなくもないのだ……と結果に満足していると、ふと新聞紙面から微笑みかけている木村佳乃嬢と目が合った。本人の顔写真を送ると、木村佳乃100%になるんだろうか。好奇心に駆られて、新聞をパシャリ。結果は「中山美穂 58% 松浦亜弥 57% 時任三郎 55%」。わたしの木村佳乃似も、あてにならないか。

2005年08月11日(木)  『子ぎつねヘレン』チラシ第1号
2003年08月11日(月)  伊豆高原
2002年08月11日(日)  ヤクルトVS横浜


2007年08月10日(金)  あの流行語の生みの親

出産、育児を通して知り合った方には旧姓でもある今井雅子ではなく本名を名乗っているのだが、メールアドレスがmasakoimai.comとなっているので、そこから「いまいまさこカフェ」を訪問されて、わたしの仕事や関わった作品を知ってくださる方は多い。先日、保育園で一緒に役員をされている方は、出版社に勤めておられるご主人が「いまいまさこ」という名前に聞き覚えがあるとおっしゃり、サイトで検索して「いまいまさこカフェ」を発見された。

こんな場合、抜群の知名度を誇る『子ぎつねヘレン』をはじめ名前を知っている作品名を見つけて、「観ました!」「観たかったんです!」といった反応があるのだが、この方は「あの流行語の生みの親だったんですね!」と驚かれた。わたしの書き散らした言葉を集めた「words」というコーナーの中に「コンクールに応募したコピー・標語・川柳」というページで紹介している「ハンドルとマイク握れば別の人」という川柳に反応。NHK札幌放送局が募集した「人とくるまのよもやま川柳」の入選作なのだが、当時札幌で通っていた自動車教習所で「流行っていたんです」と言う。放送で紹介されたのか、地元の新聞に載ったのか、自分の知らないところでちょっとした流行語になっていたとは、こちらも驚いた。それどころか、つい先日、NHK札幌放送局に勤めてらしたという方にお会いしたときに、「札幌局のオーディオドラマコンクールで脚本デビューしたんですよ」と話したのだが、その3年前に応募した川柳のことはすっかり忘れていた。人との出会いは、自分が知らないことも忘れていることも運んできてくれる。

2004年08月10日(火)  六本木ヒルズクラブでUFOディナー
2003年08月10日(日)  伊豆 is nice!
2002年08月10日(土)  こどもが選んだNO.1


2007年08月09日(木)  ちょこっと関わった『犬と私の10の約束』

『クイール』『子ぎつねヘレン』に続く動物と人のふれあいを描いた松竹春休み映画第三弾『犬と私の10の約束』の書き下ろし原作が送られてきた。著者はヘレンのノベライズも手がけた川口晴さん。原案になった英語の「犬の十戒」(The Ten Commandments)をもとに、原作と脚本の開発が同時進行し、先に仕上がった原作の内容が脚本にフィードバックされたそう。わたしは脚本開発に声をかけていただいたものの力及ばず、採用に至らなかったのだが、犬の十戒を自己流に意訳したものだけが目に留まったようで、その一部が原作の中で使われている。台詞も一行だけ生き残っていた。映画では生かされているかわからないし、たぶんクレジットもされないだろうけれど、自分の書いたものがカケラでもカタチになることはうれしい。

本は、「今井さんに力を貸してもらったあれ、こんな感じで進んでますよ」と報告がてらプロデューサーから送られてきた。脚本家が途中で変わることも、何人かが声をかけられてふるい落とされることもよくあるけれど、少しでも首を突っ込んだ作品のその後がどうなったかはとても気になる。だけど、そこまで気が回るプロデューサーは少ないし、お金の話を持ち出されるのを嫌って連絡を避けられる傾向もある。別の脚本家で決定稿になりましたともクランクインしましたとも教えられず、試写の連絡すらなく、映画の公開を知らせる広告を見て、「いつの間にか出来上がってたんだ……」と知らされることがほとんど。だから、今回のように、きちんと報告してもらえると、あ、透明人間になっていない、と安心し、ありがたい気持ちになる。

報告といえば、昨年再演された鴻上尚史さんの『恋愛戯曲』に、わたしの書いた脚本が数行使われたときも、事前に「いいですか」とおことわりをいただいた。もともと鴻上さんが書かれた戯曲を映画化しようという計画があり、映画用の脚本を作るにあたってお手伝いしたのだが、その中で生まれた台詞やアイデアが再演の戯曲に採用されたのだった。舞台にご招待いただいた上に、パンフレットで鴻上さんと対談させていただくという豪華なおまけもついた(>>>2006年05月19日(金)  鴻上尚史さんと「恋愛」対談)。脚本を書くというのは、なかなか当たらない宝くじを買い続けるようなもの。引き出しにしまったまま忘れた頃に当選を告げられてびっくりすることもあるし、当たらなくても気まぐれに配当が出ることがあるから面白い。

2004年08月09日(月)  巨星 小林正樹の世界『怪談』
2002年08月09日(金)  二代目デジカメ
1999年08月09日(月)  カンヌレポート最終ページ


2007年08月08日(水)  「やきやき三輪」で三都物語の会

ここ数か月関わっているテレビの仕事は、テレビ局担当者、製作会社プロデューサー、脚本家(わたし)全員が女性。男性の中で紅一点ということが多く、女ばかりというのは初めて。脱線話のガールズトーク(ガールって年ではないけど)も新鮮で、毎回打ち合わせが楽しみだった。だった、と過去形なのは、この三人で打ち合わせをするのは今日が最後だから。もろもろの事情により、いったんチームは解散となった。それ事態はよくあることではあるけれど、なかなかない出会いなので食事ぐらいしましょう、というわけで、最後の打ち合わせの後に初めての会食となった。

テレビ局嬢がご馳走してくださることになり、「鉄板焼きなんですけど、いいですか、関西風の」と聞かれる。「歓迎です。わたし、大阪出身なんで」と即答すると、「あら今井さん、関西人だったんですか。わたし神戸です」と製作会社嬢。「ええっ、お二人とも関西? わたし、京都です」とテレビ局嬢。「三都物語ですね!」と思わずわたしが言うと、「うまいっ!」と会議室に笑いがはじけた。

お店は広尾にあるやきやき三輪。関西風のベタなネーミングとは打って変わってインテリアは妙に洗練されて都会的。プリプリの蛸の鉄板焼、コロコロステーキなどに舌鼓を打ちつつ、どんどん平らげていく。打ち合わせ後の空腹も手伝って、箸が進む、お酒が進む、会話も進む。「味が気に入って通ってたんですけど、実は業界の人がよく来る店だったんです」とテレビ局嬢。隣のテーブルからは「24時間テレビTシャツ欲しい?」「欲しい!」という会話が聞こえる。あちらが丸聞こえということはこちらも筒抜けとなるのだけれど、仕事は一段落してしまっているので、ひたすらプライベートの話。自分たちのルーツを披露しあい、思わぬ接点を次々発見。そのテレビ局に深い縁のある得意先をわたしが広告会社のコピーライター時代に担当していたことも明かされ、「それじゃあ話が早い。また連絡しちゃいます」とテレビ局嬢。解散式でありながら出初式のようになった。

今回の仕事は、脚本家としてはちょっと宙ぶらりんな格好になり、残念だったけれど、珍しく「空しさ」を感じない幕切れだった。単純な性格なので、おなかが満ちたのに連動して、「おいしかったし、まあいっか」と気持ちの隙間が埋められたふしもある。これからも企画が頓挫したり飛んだりしたとき、最後の晩餐をやるのがいいかもしれない。満腹と満足がごっちゃになって、いろいろあっても「終わりよければ」になるような気がする。

2005年08月08日(月)  虫食いワンピース救済法
2004年08月08日(日)  ミヤケマイ展『お茶の時間』
2002年08月08日(木)  War Game(ウォー・ゲーム)


2007年08月07日(火)  シンクロニシティの人

呼んだかのように、響きあうように、同じタイミングで同じことを考えていたことを知って驚かされる。そういう偶然が何度も重なる人がいる。『パコダテ人』『ジェニファ 涙石の恋』で今井雅子を知って以来応援してくださっている大阪のさのっちさんも、そんな一人。『子ぎつねヘレン』の脚本に取り掛かり「ぼくがヘレンのお母さんになる」なんて台詞を書いているときに、飼育員さんがお母さん代わりになって白くまを育てたという実話の本(『人に育てられたシロクマ・ピース』)が送られてきたりする。アンテナの向いている角度が似ているのかもしれない。つい先日も、スターダストプロモーション系列の映画制作会社S.D.P.に挨拶に行ったその日、いまいまさこカフェに書き込まれた話題は、スターダストプロモーション所属の夏帆さんと林遣都さんが共演しているPVについて。交換した名刺からいまいまさこカフェを訪問されたS.D.P.の担当者氏もタイミングの良さにびっくりされていた。

折りよくさのっちさんからメールも頂戴したので、こないだ大阪に帰ったときは急でご連絡できなかったのですが、またお会いしたいです、と伝えると、「ちょうど東京に行く用がありまして」とまたしても打てば響くようなお返事。じゃあ会いましょうということになり、数年前に大阪でお初にお目にかかって以来、二度目の対面が今日叶った。いまいまさこカフェに足しげく顔を出され、わたしの近況も常連さんのこともよくご存知なので、共通の話題には事欠かない。好きなもの嫌いなものは少しずつ違うのだけれど、心地いい、好ましいと感じる基準がラジオの周波数のように合う。こういうことがあってうれしかったんですよ、困ったんですよ、という何気ない話が、すっと通じて説明がいらない。インターネットとのつきあい方、距離の取り方にも近しいものを感じる。メールをやりとりすれば、だいだいとういう人かわかりますよね、と話しながら、この人は最初のメールのときから印象が変わってないと気づいた。

わが家でのお茶を終えて「お邪魔しました」と立ち上がったさのっちさんは、椅子から立ち上がると、迷うことなく洗面所のドアを開けた。90度の位置に立っている玄関へ続くドアにはガラスがはめこまれ、その向こうには玄関が見えている。お酒も飲まずにこのドアを間違えるのは、堂々たる方向音痴である証拠。わたしも飲食店でお手洗いを目指しては物置きのドアを開ける常習犯なので、同志を見つけたようでうれしくなった。方向音痴ではあるけれど、好きなもの、気の合う人にたどり着ける嗅覚はしっかりしている、というのが二人の共通点らしい。

2005年08月07日(日)  串駒『蔵元を囲む会 始禄 小左衛門』
2004年08月07日(土)  ご近所の会・一時帰国同窓会
2002年08月07日(水)  ティファニー


2007年08月05日(日)  マタニティオレンジ155 シルバーパスの効用

東京都にはシルバーパスなるものがある。都営交通(都バス・都営地下鉄・都電)と都内の民営バスに乗車できるフリーパスで、70歳以上の希望する都民に発行される。負担額は、区市町村民税が課税されている人で20,510円。友人で医師の余語先生のように、行動力旺盛な方だと、すぐに元は取れる。非課税の人となると、負担額1,000円で乗り放題となる。

たまがわたしのおなかにいる間に70歳になったダンナ母は、「かぼちゃ煮たから」「梨をいただいたから」「パンが食べきれないから」と言っては都営バスまたは都営線一本で行き来できるわが家へちょくちょくやって来る。「わざわざすみません」と言うと、「シルバーパスがあるから」と笑って返されるが、孫の顔を見たくてバスや地下鉄にいそいそと乗り込む姿が目に浮かぶようで微笑ましい。

ダンナ父は息子夫妻の家に足を運ぶよりは孫を連れて遊びに来てほしい、という様子だったけれど、今月70歳になるのを機にシルバーパスを持った途端、わが家への出現率が急上昇した。昨日も今日も朝8時に電話があり、「今から行く」「いやお義父さん、もう少し待ってください」という問答の後に10時前に現れると、たまを連れ出す。「テレビばっかり見てないで出かけてくれば?」とダンナ母に言われてもなかなか動かなかったのが、パス一枚でいきなりフットワークが軽くなった。

この炎天下、昼間に出かけたら暑さでぐったりするのでは、と気を揉むと、「バスに乗るから大丈夫だ」と、ここでもシルバーパスが活躍。昨日はだっこひもで出かけたが、腰に来たらしく、今日はベビーカーでお出かけ。わたし好みのオレンジベビーカーとじいじの組み合わせは微妙いや異様ではと思うが、だっこひもだって何食わぬ顔して着こなすじいじはまったく意に介さない。「バスが混んでるとベビーカーたたまなきゃならないし、そうなると、片手にベビーカー、片手にたまで大変ですよ」と言うと、「俺みたいな老人に誰も注意はしない」と強気。確かに手押し車を杖代わりにしているお年寄りをよく見かける。

何かあったら電話くださいと言って送り出すのだが、電話もこないまま2、3時間帰ってこない。何やってるのかなあ、ぐずってないかなあ、と気になり、いい加減遅すぎないか、と心配になった頃に、「いい子だったよ」とじいじもたまも上機嫌で帰ってくる。哺乳瓶の麦茶を飲み干し、赤ちゃんせんべい2枚を平らげ、だけど、おむつはまだ大丈夫。たまもすっかりじいじになついている。こっちもどーんと構えて、洗濯やら掃除やら済ませればいいわけだ。

じいじばあばにはいい運動になるし、孫は遊んでもらえるし、お互いに出かける口実ができて、シルバーパスってありがたい制度だ。「財源確保が大変かもしれないけど、廃止しないでほしいなあ」とダンナに言うと、「考えようによっちゃ、都の財政にとってもプラスだよ」とダンナ。出かけることで足腰は鍛えられるし、ボケ防止になるし、心身ともに健康なお年寄りが増えるわけで、結果的には病気が減り、医療や介護関連の支出が軽減される。さらに、お年寄りが出かけた先でお金を落とすようになるので、景気回復につながる。加えて、ベビーシッター効果も期待できるとなれば、出生率アップにも貢献するかもしれない。

2002年08月05日(月)  風邪には足浴


2007年08月04日(土)  マタニティオレンジ154 タマーズブートキャンプ

ビリーズブートキャンプなるものを知ったのは、DVDの爆発的ヒットを受けてビリー氏が先月来日した際なので相当世間からは遅れているが、活字から情報を得るばかりで、映像はまだ見たことがなかった。今日、ご近所仲間のK邸を一家で訪ねたら、「見ます?」と言われ、拝見。この手の流行ものに飛びつかなさそうなK氏が、同僚の腹筋が割れたのを見て効果を確信し、購入したのだとか。「私もほんとに腹筋が固くなってきまして。まもなく6つに割れそうです」とK氏。早速ダンナがやる気を出し、テレビ画面のビリー氏とその生徒たち(皆すでに腹筋が割れている)とともにエクササイズ開始。5分も経たないうちに「ひ〜きつい〜」と音を上げはじめた。

傍で見ているたまは、筋肉を震わせながら上下左右に揺れ動くパパに興味津々。「もっとやれ〜」とけしかけているのか、「がんばれ〜」と激励しているのか、「おうおい」と言いながら手を振っている。ビリー隊長の檄よりも愛娘の声援のほうが発奮効果があるらしく、ダンナはそれから20分ほど持ちこたえた。K氏がところどころ早送りして、とくに効きそうなエクササイズを選んでくれたので、「きつい〜」の連発となった。

帰宅してからもDVDの内容を思い出し、たまをおなかに乗せて腹筋、背筋。もともと、たまは腹筋背筋を見るのが大好き。どうやら顔が近づいたり遠ざかったりするのが楽しいらしいのだが、「たまちゃん腹筋」と称してダンナがときどき筋トレと子守を兼ねてやっていた。その割にはビリーDVDでは早々にばてているので、たまちゃん腹筋で強化されるのは父娘の絆だけなのかもしれない。今のところ、わが家はビリー隊長にお出ましいただかなくても、へなちょこタマーズブートキャンプが相応のよう。年頃の娘になったたまが「パパ、おなかたぷたぷでかっこ悪〜い」と言い出す頃には、すでに懐かしグッズとなった大量のビリーDVDが破格で出回っているだろう。

2006年08月04日(金)  プレタポルテ#1『ドアをあけると……』
2002年08月04日(日)  キンダー・フィルム・フェスティバルで『パコダテ人』


2007年08月03日(金)  ラジオが聴きたくなる、書きたくなる『ラジオな日々』

ラジオな日々』の書評を新聞で見つけたとき、これは読まなきゃ、と思った。著者の藤井青銅さんは、わたしにとっては、NHK-FMで毎年恒例の「年忘れ青春アドベンチャー」の作者としておなじみの人。一年の出来事を笑いにまぶして振り返るこの企画のノリと勢いに舌を巻いていたのだが、いつデビューしてどんなものを書いてこられたかという作家としてのルーツは存じ上げなかった。

70年代の終わりに放送作家になった藤井氏が、80年代のラジオでどんな仕事をしていたかが活き活きと描かれた自伝的クロニクル。千本ノックを受けるがごとく書きまくり、少しずつ認められ、採用率がぐんぐん上昇し、80年代のラジオを書きまくる。デビューしたときからずっと書きまくっているのだが、ペンで道を切り拓いていくがごとく、書くことで出会いを呼び寄せ、新たな仕事を獲得し、活躍の場を広げていく過程には冒険活劇のようなスリルと躍動感がある。実名がバンバン登場し、エピソードは具体的で、目の前で「あの頃はね」よ語りかけられているような臨場感もある。

精魂こめて書いた脚本が、収録が終わったスタジオの床に散乱しているさまを、祭の後を眺めるように見ている若き日の藤井さんが目に浮かぶ。拾い上げら脚本の断片を見て、「そのゴミ捨てときましょうか」とアルバイトの女の子に声をかけられ、「ゴミ?」と引っかかる気持ちに深い共感を覚える。一瞬一瞬が刺激的だったに違いない「ラジオな日々」は藤井氏の記憶に新鮮なまま保存され、四半世紀の時を経て、熟練の筆に乗って見事に再現されている。ラジオに今よりもっと引力があった80年代を懐かしんだり、自分がラジオでデビューした頃を振り返ったりしながら読み、やっぱりラジオっていいなあと何度も思い、ラジオが聴きたくなったり、書きたくなったりした。

放送作家ならではのサービス精神なのか、ラジオドラマをどのように着想していたか、どんな直しを受けたか、といった手の内も気前よく明かされ、シナリオを勉強する人、とくにラジオを書いてみようという人には実用書になる。デビューするよりも作家として仕事し続けることのほうが大変、とはよく言われるけれど、書いたものが採用されるために藤井氏が実践したあの手この手の創意工夫は実に参考になるし、その意欲と情熱には大いに励まされる。

この本をこれから読もうかというときに、広告会社時代に机を並べていたアートディレクターで、今は独立してイラストや装丁を手がけている名久井直子さんとひさしぶりにメールをやりとりしたら、「最近やった仕事は『ラジオの日々』の装丁」と書いてあって、手元にその本がある偶然にうれしくなった。ぐいぐいと一気に読んでしまった読みやすさは、もちろん藤井氏の文章のなせる業なのだろうけれど、活字ひと文字ひと文字にこだわる名久井嬢のいい仕事も貢献していると思う。そういうわけで、今、すすめたくてたまらない一冊。

2006年08月03日(木)  子どもの城+ネルケプランニング『南国プールの熱い砂』
2005年08月03日(水)  『三枝成彰2005 2つの幻』@サントリーホール
2002年08月03日(土)  青森映画祭から木造(きづくり)メロン

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