パラダイムチェンジ

2003年06月30日(月) 夏カゼ後日談

さて、前回の日記、ちょっと持って回った言い方というか、
舌足らずな部分があったとも思うので、今日はその後日談などを。

舌足らずな部分というのは、読んだ人に「カゼひいた位だったら、
医者なんて行かなくても平気だよ」という、印象を与えてしまった
かもしれない、という部分である。

ええとですね、そんなことはなくて、カゼひいた位でも、もちろん
医者に行った方がいいと思います。
ただ、医者に行くことも重要だけど、充分な休息をとることは、もっと
重要かもしれませんよ、と言いたかったのだ。

事実、自分も翌日は、喉の腫れは少し治まってきたんだけど、今度は
治りかけの症状として、鼻水が止まらなくて困った状態になってしまった
ので、結局仕事前に、時々通っている耳鼻科のお医者さんの所まで
行ったし。

で、これを書いている今現在は、もう平気。
カゼの峠も越して、大体90%位は回復している。
鼻水も治まったし。

結局、カゼって、早期発見早期治療ではないけれど、ひどくなる前に
早め早めの対処法を心がけておけば、そんなにひどくなることはない
んだと思う。


で、今年初めてのカゼひいた記念?で、カゼについて、もうちょっと
脱線してみる。

時々、カゼを引いたというと、気合が足りないんだ、とか、カゼは気合
さえあれば簡単に治るんだ、という人がいる。
で、実はこの説にも一理はあると思う。

どういうことかといえば、いわゆる気合が満ち溢れている状態、という
のは、身体の中の自律神経と呼ばれる、身体の状態を調節する神経の
内、交感神経が優位に働いている状態だと考えられる。

で、交感神経、他にどんな時に優位に働くかといえば、極端な例で言えば
戦争で戦闘中や、集中力を必要とする状態で、優位になる。

すなわち、自分の生命が生きるか死ぬか、の瀬戸際の時には、カゼをひい
ただの、なんだの言ってられない状態であるわけだから、火事場の馬鹿力
ではないけれど、身体の免疫力、抵抗力は、一気に増強される。

5年前のワールドカップフランス大会で、日本代表のゴンこと中山選手が
ジャマイカ戦で、骨折していたにも関わらず、その後もピッチに立ち続け
ていたことを覚えている人も多いかもしれない。

いわゆるあの状態のことである。
本人としては相当痛かったとも思うんだけど、それにも増して交感神経の
働きが、彼をピッチに立たせていたといえるのかもしれない。

そこまで極端な例じゃなくても、そんな風に気力が充実している時は、
確かにカゼはひきにくいと思う。

ただし、だからといって自己弁護するわけじゃないけれど、カゼをひいて
しまった人のことを、例えば「だからお前は気合が足りないんだ」という
のは、ちょっとしたお門違いである。

なぜなら、人は絶えず交感神経だけを緊張させて、生きている訳では
ないからである。
むしろ、交感神経だけが緊張し、反対の身体をリラックスさせる
働きを持つ副交感神経がうまく働かなくなってしまった人の中には、
「自律神経失調症」と診断されて苦しんでいる人も結構いると思うのだ。


また、似たような例としては、栄養ドリンクを飲めば、カゼなんか吹っ飛
ぶよ、という意見もよく聞かれる。
噂によれば、ユンケルの一番高い奴はよく効くらしい。

でも、これも先程の例と同様、今回は栄養ドリンクの成分を利用して、
一時的に交感神経優位の状況を作り出しているからかもしれない。
この辺は薬学を専門にやっているわけではないのでなんとも言えないが。


で、確かにカゼ引いているけど、これからどうしても仕事をこなさなきゃ
いけない、という時には、総合感冒薬よりは、そうした栄養ドリンクの
方が「効く」かもしれない。

総合感冒薬には、眠くなる成分というか、身体をリラックスさせる方向に
働かせる成分が含まれているものも多いみたいだし。


でもね、個人的に思うのは、それが効くのは、ごく一時期であると思う。
それより重要なのは、そんな風に頑張って乗り切ってくれた身体を、
その後でちゃんと休ませてあげることだろう。

無理な頑張りの利く、若い内はまだいいんだけど、そのうち段々と無理が
きかなくなってきた時に、同じように頑張っていると、思わぬ所で足を
すくわれる事もあるかもしれない、と思うのだ。

まあいずれにしろ、休息が一番、という事でお開きにしたい。




2003年06月29日(日) 夏カゼ

そんなわけで、朝起きたらいきなり喉が痛いので目覚める。
どうやら夏カゼを引いてしまったらしい。

先週夏バテだと言って治ったと思った矢先にこれである。
ヤレヤレ。

思い当たるフシは特にないんだけど、おそらくは暑苦しい
布団をはだけて、尚かつ大口開けて、アホ面丸出しで寝ていたことが
おそらくは原因だろう。

とりあえず、扁桃腺とかが腫れているわけでもないし、喉が腫れて
いるだけで、特に熱もないようなんで、ひとまず安心。

とりあえず、カゼと言うと病気の一種だし、熱が出れば、身体も
だるくなるし、鼻水や咳込めば、仕事にならないから、とかく
厄介もの扱いされがちの物である。

もちろん、そのまま大したことないと放置していたら、最悪死に至る
可能性だってあるわけだし。

でも、私たちの仕事の方面では、風邪にも効用があるという意見を
言う人も実はいるのだ。

それが野口整体と呼ばれる整体法の創始者、野口晴哉の「風邪の効用」
この本によると…、といつもだったらここで引用をするんだけど、
さすがに身体の調子が悪いとそこまでする気にはならないんで、それは
またの機会ということでご勘弁を。

でも、この本、今でも本屋によっては平積みになっているくらい、
おそらく普通の人が読んでも面白い内容になっているんで、よかったら
手にとって読んで見てくださいな。


で、個人的な風邪に対する最もよい治療法とは一体何だろうか?
それは、もうイヤ、と思うまでぐっすりと休息することである。

これはどういうことかと言えば、一部、先ほどの本の内容ともかぶるん
だけど、一般に風邪を引き起こすウィルスって、日常からウヨウヨとして
いる位、ありふれた物である。

じゃあ、なんで普段は風邪を引かないのか、と言えば、風邪のウィルスって
ものすごーく感染力が弱いから、普段は身体の抵抗力の方が勝っている
ためである。

すなわち風邪のウィルスが身体にとりついても、簡単にやっつけている訳
ですね。

でもって、じゃあなんで風邪を引く時は同じようにやっつけられないか、
と言えば、そんな弱い風邪のウィルスにも負けるくらい、身体の抵抗力が
弱ってしまっているのが原因と言えるわけだ。

ここで、あえて別の方向から見てみると、要は身体の方が、今は風邪の
ウィルスにも負けてしまうくらい、身体は疲れているんですよ、旦那、
という悲鳴と言うか、サインを出しているとも言えるわけだ。

で、ここでそのサインを無視して更に頑張っちゃたりすると、無理に無理を
重ねる形になってしまい、風邪をこじらせたり、更には最悪、肺炎を起こし
たり、死に至る場合もあるわけですね。

だから、風邪を引いたという自覚症状があった場合は、悪いことは言わ
ない、さっさと休息に入るのが一番だと思うのだ。
第一、風邪だというと、周りもしょうがないな、とちょっと温かい目で
見てくれるし、こっちも気がねなく?大っぴらに休めると言う特典?つき。

せっかくのんびり休む機会を得たんだから、そういう時は下手な考え休むに
似たり、ではないけれど、変に抵抗するよりはさっさと休んだ方が実は
回復は早いような気がする。

ただし、これは例えばSARSとか、インフルエンザの話ではないので、
念のため。
彼らはもっと感染力が高いので、こんな余裕をかましているよりはさっさと
お医者さんに行ったほうがいいのかもしれない。


で、これで終わってしまうと、なんか治療者?らしくはないので、個人的な
対処法をもう少し付け加えると、
風邪の超初期症状の時、ちょっと身体がダルい、首の回りがいつもより
凝っている、などの時には、個人的にはカレーをよく食べる。

なぜならカレーの香辛料って、その内の多くは、漢方薬としても使える物が
多く入っているからである。特に前述の風邪の超初期症状に当てはまる
ものも多く含まれているのだ。

ただし、これは胃がやられている場合には、すでに体質的に合わない状態
なのでおススメはできないので、あしからず。


そしてもう一つ、個人的な風邪の対処法としてあげられるのは、今回みたい
に喉が痛い場合は、喉の周りに冷シップを巻く方法。
冷えピタとかで構わないので、それを自分で喉を触って一番熱感を感じる
あたりに、巻いておく。
そうすると、意外に?早く喉の炎症が引いてくれるのだ。

そんな感じで、今日1日はのんびりと過ごしてみた。
でも今週は、ちょっとおとなしくしている方がいいのかも。



2003年06月28日(土) 日記と等身大の自分


今回もまた、唐突な思いつきである。
果たして日記は、等身大の自分を表わしているんだろうか?

例えば、この日記を読んだ人の中に、私の事を全く知らない人がいたと
する。
その人のイメージする「私」像と、実在している「私」との間には、
一体どれ位のイメージのギャップがあるんだろうか。

また、その一方で、普段の「私」を知っている人でこの日記を読んでいる
人がいたとしたら、「○○は、一体どうしちゃったの?」と思う人も
少なからずいると思うのだ。

少なくともここに書いてある内容のような事を、普段会っている人との
日常的な会話には、はさんだりはしないし。
というより、ここで書いてある内容を、普段の日常会話にするには、
やはりちょっと重いと思うのだ。

なので、この日記の存在を知っている人との会話でも、この日記に書か
れている内容は、大体ほっとかれている事が多い。
まあ、そんなにつぶさに読んでいる人も稀だとは思うが。

では、この日記に書かれている「私」は、日常生活から全く切り離された
「私」であるかと言えば、そんなことはない。

これも立派に?「私」の中の一部分である。

むしろ、普段私が日常生活を送ったり、何かを考える上での、基礎的な
部分である、とでも言えばいいかもしれない。
すなわち、普段は奥の方にしまわれている、私を形づくる「原型」の
一つ、とでも言えばいいのかもしれない。

ただし、これはあくまで私の中の「一部」であり、「大部分」ではない。

例えば一日の大部分を、この日記の内容を考えることに使用するなんて
事はなく、普段の日常の私は家事や、仕事や、趣味娯楽に忙殺される
毎日を送っている。

では、この日記に書かれているような事柄は、一体どんな時に考えている
んだろうか。

大抵の場合は、朝起きて、駅まで歩く道のりであるとか、その後電車に
乗り、ボーっとしている時間であることが多い。
そしてそれを仕事場について、仕事を始めるまでの時間に簡単なメモに
起こしている。
そうしないと、思いつきは忘れてしまう事が多いんである。

で、実は朝起きて、ご飯をちゃんと食べて、きれいさっぱり?身づくろい
をして気分転換した後の駅までの歩く道のり、というのが、実は最も
考えがまとまる時間なんじゃないのかなあ、と思うのだ。

これが仕事が終わった後、帰宅するまでの道のりでは、そんなややっこ
しい?事なんか考えたくもないし、第一アイデアも身体が疲れていると
そんなには生まれてこない。

でも、朝、出勤する前の時間だと、一応、十分な睡眠が取れていれば、
疲れもとれているし、朝ごはんを食べていれば、脳への栄養もバッチリ
取れているから、頭もはっきりしているし、身づくろいをしていれば、
さっぱりしているので、気分爽快でアイデアも出やすくなる。

また、駅までの道のりは、さすがに本を読みながら歩くわけにもいかない
から、手持ち無沙汰であるし、別に音楽を聴いていたから何かを考えられ
ない、という事もなく、むしろそれがいい刺激になることもある。

で、もう一つは歩く、という事と何かを考える、という事はいいコラボ
レーション?というか、不思議な相乗効果を生んでくれるような気が
するのだ。

歩きのテンポと、こうして文章を考える時のテンポって、似ている気が
するんだよね。

だから、私が考えにつまったり、書くのに詰まったりした時は、歩行の
リズムを思い出すことにしている。
そうすることで意外とすらすらと、筆?が進んだり、メモには書き忘れた
事まで思い出してきたりするのだ。

だから、もしも私の文章を読む人が、私の文体に一定のリズムを感じた
としたら、それはおそらく、私の歩行のリズムであるかもしれない。


さて、歩行(散歩)と書くこと、考えることの因果関係は、実は私だけで
はなく、多くの人が指摘している。

例えば作家の池波正太郎は、自分のエッセイの中で、自分の創作方法は、
まず導入部だけを書いた後、散歩をすることでその後の展開を考えると
書いている。

他にも、例えば元ラグビー日本代表監督の平尾誠二は、考えに詰まった
時は、裸足になり、カーペットの幾何学模様に沿って歩くと、アイデアが
生まれてくるらしいのだ。

で、もう一つ、歩行をしながらものを考える事の利点は、ただ机の前に
座って物を考える時に比べて、発想が飛躍しすぎない、という事があげ
られると思うのだ。

すなわち、何かを想像するにしても、それがあまり実感のない方向には
行かないというか。
この辺に関しては、またいずれ、考えがまとまった時にでも。


で、話が大分、それてしまった気もするので、元に戻してみる。

では、その朝の貴重な?時間を割いて考えた話が、何でこういう話になり
しかもそれをウェブサイトで公開なんかするのか。

どうせ書くなら、普段の日常生活や、近況を記している方が、よほど
普段の私をよく知る人にとっては、有益なんじゃないのか、と思う人も
いるかもしれない。


うん、でもね、もしもそういう話だけだったら、多分私が読み返した時に
あまり面白くはないんである。

以前の日記で、私が想定している読者の5割が自分自身であることや、
また、私が感動したことを伝えたい、という話を書いたんだけれど、
それと全く同じ理由が、そのまま当てはまるのだ。

私が読み返して面白いと思うくだりは、その出来事に対して、当時の私が
どう思っているか、というくだりであるし。

で、逆に言えば、ここに書いてあるような話は、そのまま周囲の人に
しても、大抵の場合は伝わらないし、むしろ、そういう話よりは、日常に
根ざした話題を多くしたいとも思うのだ。

だから、この日記はその行き場のない?思いを綴っているといえるのかも
しれない。
なので、私にとってのこの場所は、「王様の耳はロバの耳」に出てくる
切り株だか、根っこの役割、といえるのかもしれない。


でも、その一方で、そんな風に自分の思考のアウトプットを絶えずする
事で、私の頭の中は段々と整理されてきているし、それが自分の仕事上の
いい発想にもつながってきているような気がするのだ。

普段は「語られない言葉」を形にすることで、何を語る必要があるのか、
という事がはっきりと形になって表れてくるような気がするし。

そんなわけで、普段の私を知っていて、「○○どうしちゃったの?」と
心配をしている人がいたら、どうぞご心配なきよう。
意外とバランスとりながら?やってます。


ただ、これからの蒸し暑い時期に、こんだけややこしい事を考えられる
のか、ついでに読みたいか、という問題もなきにしもあらず。

なので、やっぱり夏場はちょっと軽めに抑えるかもしれない。



2003年06月25日(水) 「ミニミニ大作戦」

今回は映画ネタ。
見たのは映画「ミニミニ大作戦」
場所は、シネマサンシャインのレイトショー。1200円。

同じ時間帯に、同じくレイトショーで、「恋愛寫真」もやっていて、
ちょっと悩んだんだけど、スカッとしたかったこともあり、こっちを
選択。

でも、この選択、はっきり言って「当たり」だったんである。
つまり、予想した以上に面白い映画だったのだ。
こういう時って、ちょっと得した気分になってしまったり。

この映画、いつもどおりに一言でいうと、「タイトルと見かけにだまされ
ちゃいけない」である。

これは一体どういうことか?

多分、この映画について他人に話すと、「ああ、あの小さな車で駅とか
走っている映画でしょ?CMで見たよ」なんて反応が返ってくるかも
しれない。
事実、私自身も見るまでは、そんな感じだろうと思っていたし。

でもね、私のこの映画の一番のオススメするポイントは、実はそこでは
ない。

この映画、実はまるで実写版「ルパン三世」なんである。
しかも、みすぼらしくない?豪華版。


お洒落でテンポのいい、オープニングのタイトルバックに始まって、
いきなりヒロイン、シャーリーズ・セロンの艶やかな寝姿(しかも
下はトランクス!)で始まるこの映画。

冒頭から目を離せない展開で始まり、そのままの勢いで最後まで見せて
しまう映画で、時間がたつのを思わず忘れてしまいそうになるくらい、
テンポがよく、飽きさせないつくりになっている。

脚本というか、プロットがよく練りこまれていて、次にどういう展開に
なるのか、まるでわからない。

全体の印象としては、カーアクションのB級作品、というよりは、
「オーシャンズ11」の方が近いと思う。
すなわち殺しのない華麗な犯罪もの、と言えるのかも。

カーアクションも勿論見せ場の一つではあるんだけど、他にも見せ場は
沢山あるとでも言えばいいんだろうか。
でも、個人的にはオーシャンズ11よりもこっちの方が楽しめると思う。


キャストは、ブラピや、ジュリアロバーツの出ていたオーシャンズ11に
比べれば、確かにきらびやかなキャストはいないかもしれない。
主演がシャーリーズ・セロン、マーク・ウォルバーグでは、ちょっと
地味目だと言えるかもしれない。

でも「レッドドラゴン」のエドワード・ノートン、「トランスポーター」
のジェイソン・ステイサム、をはじめとして、皆いい味を出しているん
である。


そして特筆すべきなのは、この映画のカーアクション、吹き替えなしで
彼らが実際に演じているところが多い、という事だろう。
すなわち、彼らは、カーアクションを「特訓」して、この映画にのぞんで
いるのである。

車が揃って、階段を下りたり、地下鉄の駅の中を走っている映像って、
日本では20年前くらい?に、ダイハツかどっかのCMで見慣れちゃって
いるかもしれないけれど、それをさすがに全部じゃないと思うけど、
実際の役者さんがやっていると思ったら凄くないすか?

こればっかりは、大スターさんたちには出来ない芸当かもしれない。
でも、それがこのCG全盛時代に、ちゃんと本物の迫力として、迫って
くると思うのだ。

事実この映画を見て、キビキビと走る、新型ミニクーパーを、初めて
カッコイイと思ったし。

監督は、「交渉人」のF・ゲイリー・グレイ。
サミュエル・ジャクソン、ケビン・スペイシーが好演をした「交渉人」と
いい、この監督は、大スターではない(失礼)役者さんのいい仕事を
引き出すのが本当にうまいのかもしれない。


この映画、「マトリックスリローデッド」と「チャーリーズエンジェル
フルスロットル」にはさまれてしまって、いまいち話題になっていない
のか不憫なくらい、アクション映画としても、サスペンス映画としても
上質な映画だと思う。

本当に最後の最後まで、最後はどうなるのか展開が読めなかったし。
音楽も、いい感じで盛り上げてくれているし。

そして何より、主演のシャーリーズ・セロンが、可愛かったんである。
芯は強いんだけど、ちょっとだけ脆い所もある、という所の見せ方が
うまくて、ちょっとほれちゃいました。

DVD、出たら買うかどうするか迷うかも。
とりあえずWOWOWで放送したら絶対録画するでしょう。
この梅雨の時期、スカッとしたい人にはオススメの映画である。

あ、ちなみに(以下雑感)
主演のマーク・ウォルバーグ、クレジットを見るまでずーっと
ケビン・ベーコンだと思ってました(笑)。
今回はカッコイイなあ、ケビン・ベーコン、なんて思ってたり。





2003年06月24日(火) 参鶏湯

今回も前回に引き続き、ご飯ネタ。
前回はお店の紹介だったんだけど、今回は料理の紹介。

さて、タイトルの参鶏湯。知っている人はもちろん知っていると思う
けど、韓国の鍋?料理である。ちなみに「サンゲタン」と読むらしい。

で、このサンゲタン。なんで今回取り上げたかというと、ぶっちゃけた
話、初めて食べたわけですね。

うちの仕事場の近所に、韓国家庭料理店があるんだけど、ここのランチ
タイムにこのサンゲタン定食があるんである。ちなみに1000円と、
ランチとしてはやや高目?

で、先週末から調子がいまいちだった事もあり、昼飯はあっさりした
ものがいいなあ、なんて思ったときに、ここのサンゲタン定食を思い
出したのだ。

なので、ちょっとトライしてみたわけだ。

で、実際のサンゲタン定食、まるで鍋焼きうどんのように熱々の一人用の
鍋の中に、ほぐした状態の鶏が入ってやってくる。
知っている人はもちろんわかると思うけど、スープは白く澄んでいて、
お米は、雑炊のように鍋の中に入って煮込まれている。
だからおかゆのようであり、鍋の後の雑炊のようであり。

で、食べてみると、これが美味しいんである。
韓国料理なのに辛くはなく、あっさりしているけれどコクがあるとでも
言えばいいんだろうか。

付け合せのナムルやカクテキと一緒に、フーフー言いながら食べてしまった。

で、食べている間に、なんかごぼうの柔らかいのが入っているなあ、でも
なんかちょっと変な味だなあ、なんて思いながら食べていた食材があった
んだけど、後から考えてみたら、それはおそらく高麗人参であったらしい。

高麗人参は、漢方にも使われる高級食材で、個人的な経験では、高麗
人参茶や、エキスを舐めたことはあったんだけど、独特の苦味がある
ので、個人的にはちょっとパスしたい食材だったのだ。

サンゲタンの中で煮込まれた高麗人参は、スープにエキスを十分に出した
後だからか、そんなにきつくなく、初めてちゃんと食べられたんだった。

でもね、実はその後がちょっと大変?だったんである。

そんな感じで午後の仕事も軽快にこなしたのはよかったんだけど、
今度は家に帰って、いざ寝ようと思っても、変な話、体が火照って、
なかなか寝付けないのだ。

いや、やらしい意味ではなく、目がギンギンに覚めちゃっている感じ。
しょうがないので、昨日の夜はついつい夜更かしをし過ぎてしまった
んである。

なので、今朝はちょっと寝不足だったんだけど、全然疲れていないし、
今こうして、日記を書いているときでもまだ、体がちょっとポカポカ
している感じなのだ。

で、考えてみたら高麗人参って、精力剤、強壮剤としても珍重される
食材なんだよね。
他に理由は見当たらないし、まさに高麗人参おそるべし、である。

でも、サンゲタン、ちょっと夏バテしちゃった時とかにはいいかも
しれないと思うのだ。
クーラーで冷え性になっている時は、夏こそサンゲタンを一度食べて
みるのもいいかもしれない。



2003年06月22日(日) 中華粥

さて、そんな訳で今回も食べ物ネタ。
といっても、自分の料理の話ではなく、お店の話。

実は先週末から、早くも?軽ーい夏バテになってしまった。
うう、ひよわい。

で、何で夏バテになったかというと、先週末の暑さも関係あるんだけど、
それに加えての湿気と寒さと風が原因である。

元々、季節の変わり目は体調を崩しやすい時期である。
急に暑くなったりとか、寒くなったりとか。温度の急激な変化に、身体は
すぐにはついていけないから、そういう時に意外と体調は崩れやすい。

で、自分の場合、今回はその前から唇の端に、カラスのお灸が出来ていた
りと元々、消化器系の調子を崩しぎみだったところに、先ほどの湿気、
寒さ、風が拍車をかけて、体調の変化についていけなくなって、主に胃の
調子を悪くして、その結果、ご飯を食べて休息してもちょっと疲れが
取れない状態になってしまったわけである。

夏バテの主たる原因って、やっぱり暑気にあたることによる食欲不振が
一番大きな原因だと思うし。


で、私の本職の東洋医学、実はそういう治療もできるのだ。
というより、実はそういう体質改善は得意分野なのである。

専門的な言葉で、自分の状態を考えてみると、
元々、胃の内部に熱がこもってしまっている状態で、消化力が落ちていて
食べた食べ物が発酵しやすく、ガスがお腹にたまりやすい状態だった所に
梅雨と台風の影響の湿気と、各所で急にききだした冷房の寒さと風が、
更にその状態に拍車をかけてしまい、お腹が張って苦しくなってしまった
わけだ。

東洋医学では、湿気や風や、寒さやそして暑さというのは、身体に様々な
影響を与える原因だと考えられており、そういう原因に基づいて、東洋医学なりの診断法があるんですね。

で、特にこれからの時期、ここに上げた湿気や冷房の風や寒さというのは
私に限らず、様々な人たちに影響を及ぼすと思うので、ちょっと疲れ気味の時には、特に気をつけた方がいいかもしれない。
ついでに老婆心?ながら書いておくと、やはりそういう状態の時には、生ものと冷たいものはあまり食べない方がいいかもしれない。胃を更に刺激するのに拍車をかけてしまい、消化力が落ちてしまうからである。

で、実はその診断法に沿って、ちゃんと治療法を加えれば、その状態は
比較的簡単に体質を変えることはできるのだ。

え、じゃあなんでお前は調子崩しているんだって?
これを俗に、紺屋の白袴、医者の不養生という。
まあ、私は医者ではないんだけど、忙しくってついつい自分の身体の
手入れを怠ってしまったわけですね。


で、ようやく本題?
そういう状態になってしまった時、胃の消化力を増すような治療を加える
ことも大切なんだけど、ついでに消化のいい食べ物を食べることも重要
なんである。

だって、いきなり消化しにくいものを食べてしまうことは、例えば消火
活動をしている火事の現場に、また油をまいているようなもの。
それだとなかなかその状態は治らない。

で、私はそういう時、どうするかというと、お粥を食べるわけだ。
普通の白粥と梅干でも、もちろんいいんだけど、味に変化がないと、
ちょっと飽きちゃうんだよね。<贅沢言ってますけど。

なので、そういう時は中華粥を食べるのが実は好きなのである。
中華粥だと、具財も多いし、生姜やクコの実など、身体を温める食材も
入っていることが多いし、なによりちょっと出汁?がきいている気がして
美味しいのだ。

で、こんな時に限らずよく行くお粥専門店が、新宿の西口と南口を結ぶ
地下街、京王モールの中にある「謝朋殿 粥餐庁」 。西安餃子のグループ
のチェーン店なんだけど、お手ごろな値段で食べられるのがうれしいので
時々お粥が食べたくなった時に通っている。

個人的なお勧めは、ここの「煮込み肉団子のお粥」。
これにこのお店特製の「お粥用のタレ」をちょっと垂らして食べるのが
お気に入りなんである。
で、ついでにデザートで食べる杏仁豆腐も、値段の割に美味しいので
ついつい頼んでしまったりもする。

そんな感じで、週末自重したおかげでどうやら、その状態からは
脱したようだ。
今年はもうちょっと気をつけないとなー。



2003年06月18日(水) 料理教室

さて、実は何を隠そう?今、料理教室に通っている。
通っているのは「ベターホーム協会」の料理教室で「基本料理の会」。
この日は仕事をちょっと早目に終えて、いそいそと料理教室に向かう
わけだ。
実は先月から通っていて、今月で2度目である。

「基本料理の会」は月一回で、半年で大体2万円くらいと思ったより
安かったのも、ちょっと通ってみようかなあ、と思ったポイントである。

さて、料理教室、ちょっと考えれば分かるが、男性はあまりいない。
生徒さんのほとんどは、うら若き?女性たちである。

んじゃ、さぞかし華やかなハーレム状態で、鼻の下伸ばしまくっている
んだろうなあ、と思われるかもしれないが、実はさにあらず。

料理教室は、実は一種の戦場?である。
すなわち、その時間にまずは先生のお手本を見た後に、自分たちでも
実際に作ってみるわけだけれど、ポヤーっとしている暇なんか、料理
教室には存在しない。

手際のいい人は尊敬され、足手まといは疎まれる、
なんて事はないけれど、料理初心者の野郎としては、グループの足を
引っ張らないようにするだけで精一杯。

でもね、そういう状態が実は楽しいんである。

自分の知らない料理の基本法を学ぶだけでなく、実際、どう動けばより
手際よく作業が終わるか、というオペレーションまで学ぶことが出来る。

すなわち知らないことを知り、なおかつその場で先生や人に聞きながら
作業できる。
で、料理初心者向けの基本料理の会だから、周りの人もある程度、
足手まといになっても、ちょっと温かい目で見てくれる。

これが自分ひとりで料理の基本をマスターしようと思うと、自分の経験
上で言えば、やはりかなりの遠回りになってしまうと思うのだ。

で、授業は6時半からはじめて、料理が出来上がるのが9時過ぎ。
だから、その頃にはお腹がペコペコになっていて、なおかつ自分たちで
先生の言うとおり作った料理だから、すっごく美味しいんである。

ちなみに今回は天ぷらとそばという、難易度の高い?メニューだったん
だけど、やっぱりちゃんと美味しく出来た。
少なくとも天やの天ぷらには、思い入れの加わった分、勝っている感じ。
かき揚げもちゃんとまとまってあがったし。

ただね、だからといってうちで一人で天ぷら揚げるかというと、微妙な
ところで。
後片付けとか、下ごしらえの手間を考えると、美味しい天ぷら屋さんに
食べに行こうかな、なんて思ってしまうんだけど。

でも、とりあえずそんな感じで自分の知らないことを誰かに習うのって
やっぱり楽しいなあ、と思ったわけだ。

料理に関しては、また書くかもしれない。
目指せ、料理迷人?。



2003年06月17日(火) 「思考のレッスン」

さて、晴耕雨読、という訳ではないけれど、
今回も読書ネタ。

まあ大体、晴れてようが雨降っていようが、何かしら活字は読んでいる
訳だけれど。

今回取り上げる本は、丸谷才一著「思考のレッスン」

丸谷才一の本は、むかーし「文章読本」を半分以上意味もわからず
読んでいたっけかなあ、位なじみが薄いんだけれど、
たまたま行った本屋で、この文庫本が平積みになっているのを手にとって
パラパラと読んでいたら、意外にも?興味深かったので、
思わず買ってしまった訳だ。

これも一つの出会いだと思うし。
こればっかりはオンラインの本屋さんではなかなか出来ないことである。
でこの本、例えば目次の見出しを見るだけで個人的には興味がひかれる。

いわく、
「考えるためには本を読め」「ホームグラウンドを持とう」「7月6日を
うたった俳句と短歌の名作は?」(思考の準備)

「『謎』を育てよう」「定説に遠慮するな」「仮説は大胆不敵に」
「考えることには詩がある」「大局観が大事」(考えるコツ)

「文章は頭の中で完成させよう」「レトリックの大切さ」「言うべき
ことを持って書こう」(書き方のコツ)
などなど。

いや、すんごく大それた事を言えば、普段自分が思っていることを
言い当てられたような、そんな感じだった。

この本を手に取った時はちょうど、「ナイーブな人」の内容を考え終わっ
て、でもこんなの誰が読むんだろうなあー、なんて思いながら、日記を
UPしていた時だったので、あ、もしかしたらこれでもいいのかも、
とちょっと励まされた気持ちになったのである。
ある意味他の人には、はた迷惑だった本と言えるかも?

でも、この本に書いてある内容にいちいち頷けるんだよね。
例えば、

 僕は、「遊び心」をとても大切にしています。新しいことを言い出す
遊び心というか、遊びとしての新しい意見、みたいな気持ちがあるんで
すね。

 ほら、誰だって、新しい思いつきがひらめいたら楽しいし、それを
うまく工夫して理屈にして行くのはもっと楽しいでしょう。

 「遊び」なんて言うと、じゃあ不真面目なでたらめかと思われると
具合が悪いんだけど、大真面目ではないかもしれませんが、しかし多少
は頷けて、納得できる節もある、そう言えないことはないなあくらいの
説得力はあって、しかもおもしろいというのを心がける。

であるとか、
 
 まず第一に、本を読む上で一番大事なのは何でしょう?
 僕は、おもしろがって読むことだと思うんですね。おもしろがるとい
うエネルギーがなければ、本は読めないし、読んでも身につかない。
無理やり読んだって何の益にもならない。

であるとか。

または、
  考える上でまず大事なのは、問いかけです。つまり、いかに「良い問」
を立てるか、ということ。ほら、「良い問は良い答えにまさる」という
言葉だってあるでしょう。(略)

 では「良い問」はどうすれば得られるのか?それにはかねがね持って
いる「不思議だなあ」という気持ちから出た、かねがね持っている謎が
大事なのです。(略)

 よく自分の疑問を人に話す人がいますが、これはお勧めしません。と
いうのはそんなことを他人に話したって、だいたい相手にされない(笑)。
相手にされないと、「これはあまりいい疑問じゃないのかなあ」と自信
をなくして、せっかくの疑問が育たないままで終わってしまう。

とか、

また、
 次に大事なのは、「仮説」を立てるということです。
 どうも現代日本人は仮説を立てることが嫌いでね。仮説を立てること
は邪道扱いされる。しかしどんな仮説であろうが、最初は仮説です。
仮説立てて、それでダメだったら自分で捨てればいいし、自分で捨て
なくても世界が捨ててくれる(笑)。

 とにかく最初に仮説を立てるという冒険をしなければ、事柄は進まな
い。直感と想像力を使って仮設を立てること、これはたいへん大事な
ことですね。

 同時に、仮説を立てるに当っては、大胆であること。びくびく、おど
おどしていてはダメです。(略)

などなど。

もう、いくらでも引用したいくらい、学者丸谷才一の思考の過程を、
語り聞きという形で、平易な言葉で書いてあるので読みやすい。

もちろん、私と丸谷才一を比べるなんていうのはおこがましいほどにも
程があるが、偶然とでも言うべきか、似たような発想の仕方をする人が
いるんだなあ、と心強くもあり、うれしかったのだ。

正直、この本で取り上げられている具体的な例の半分ほども、知らない
んだけど、でもそういう知識の欠けている自分でも楽しく読み進むこと
ができたし、まるで丸谷才一教授の臨床を見せてもらっているような
気分だった。

この本を読んだおかげで、自分の日記の方向性についてもちょっと
迷いがなくなったかも?
まあ、あんまり暴走するのもあれなんで、せめてジャイアンのリサイタル
よりは、ましなクオリティの文章が書けたらいいなと思ったり。

自分で何かを考え、書きたいという人にお勧めの本かもしれない。



2003年06月15日(日) 「マトリックス リローデッド」

という事で、今回のネタは「マトリックスリローデッド」
オールナイト上映での鑑賞。

先々行オールナイトや先行オールナイトで見たかったんだけど、
あまりの混雑振りに断念してたんで、今回ようやく見ることができた。

さて、いつもどおり一言で言うと、ストーリー、映像共に前作から
宣伝どおりに正常進化して、面白さ1.5倍(当社比?)になった
作品だと思う。

とりあえずね、劇場公開前日にオンエアされた前作「マトリックス」を
見ていてよかったー、って感じかも。
その分、今作品の進化ぶりがよくわかったような気がする。

特に、映像に関しては、ウオシャウスキー兄弟の画づくりにかける執念と
才能をまざまざと見せつけられた気がするのだ。


以前、「スターウォーズ エピソード1」の時にも書いたんだけど、
これだけCG技術やVFXが進歩すると、その監督の画づくりのセンス
といったものが、あらわになってしまう気がする。

それは、前作「マトリックス」公開後、同様のギミック(ワイヤーアク
ション、ストップモーション、360度回転など)を取り入れた映画
作品が、それこそ山のように公開されてきたけれど、どれも「マトリッ
クス」のインパクトは超えることが出来なかったように。
超えたのは「少林サッカー」と「火山高」位かな?

そして今回の作品は、その差を更に広げてしまったような気がするのだ。

いや、もちろんスタントとワイヤーアクションや最新のCG技術を使え
ば、また似たような映像は作れるのかもしれなけれど。

でも、多分ウオシャウスキー兄弟の画にかけるこだわりとか、業といった
ものは、もっと深いところにありそうな気がする。
おそらくは他の人だったら、さじを投げてしまいそうな位、手間をかけて
いそうな気がするのだ。

これは、奇しくもこの映画の前に予告編として流れていた「チャーリーズ
エンジェル フルスロットル」のVFXと比べると分かりやすいかも
しれない。

どちらも似たような技術を使っていると思うんだけど「〜リローデッド」
の方が、画がより緻密な気がするのだ。
これに比べると、予告編で流れていた、爆発で人が吹き飛ばされるシーン
とか、どうしても「〜フルスロットル」は粗く見えてしまう気がする。

その一方で「〜リローデッド」の方は、高速道路のシーンをはじめとして
「一体どうやったら撮れるんだろう?」と思うくらいに、実際のアクトと
CGの合成のつなぎ目が見えないように思うのだ。

そしてそれはおそらく、監督のキャストに対する要求水準の高さという
形でもあらわれていると思う。

主演のキアヌリーブスをはじめとする主要キャストたちはインタビューに
答えてこう言う。

キアヌリーブス 「普通は1秒24フレームで撮影するものだけ
れど、この映画では130フレームで撮影するようなシーンがある。その
戦いで僕がパンチや刀をよけるんだ。24フレームでは難なくこなせるけ
れども、130フレームだと、刀がかなり離れている時点でよけている事
がわかってしまってね。すると(ウオシャウスキー)兄弟は『もっとギリ
ギリに見えるようによけてくれ』っていうんだ。もっと速く、もっとギリ
ギリで……」(略)

ローレンスフィッシュバーン 「そうなんだよ。あの二人は…
なんていうかな、キューブリック的(完璧主義の例え)なんだ」
(月刊テレビタロウ関東版 7月号より)


でね、映画を見ている私たちは、ついマトリックスという仮想空間での
出来事なんだからさー、こういう事だってあるかもねー、とそのまま
受け入れてしまいがちなんだけれども、実際の映像として形にするため
には、おそらくは想像を絶するような、手間がかかっているんじゃない
かな、と思うのだ。

キャストたちも通常では考えられないようなアクションをしなきゃいけ
ないわけだし。
そして実際、その要求に応えるだけのアクトをしてきたからこそ、これ
だけのインパクトのある映像になっているんだと思う。

すなわち、全部がCGなのではなく、そこにちゃんと現実の役者さんの
肉体が「ある」感じ。
その説得力は、この先CG技術がどれだけ発達したとしても、やはり
その映像作家の才能によるところが大きいのかもしれない。

でも、そんな映像は日本のアニメで見慣れているよ、という意見もある
かもしれないけれど、極端な話、アニメだったら絵が描ければできるかも
しれないわけだし。
いや、もちろん、アニメにはアニメなりの膨大な時間と労力がかかる事も
知っているけれど。
それを現実の役者で実現しようとしているのは、やはりスゴイとしかいい
ようがない気がする。


そしてもう一方の側面、ストーリーに関しては、いろんな意見があると
思うけれど、前作の内容をうまく引き継ぎ、前作の疑問に対して答えた
上で(ザイオンとはどんな場所であるのか、予言者とは何であったの
か)、更なる謎の提示をすることで物語の幅を広げ、次回作「〜レボリュ
ーション」へのうまい橋渡しをしていると思う。

とりあえず、今作品は前作にも増して意味ありげな台詞、人物が出てく
るので、謎スキーな人には結構たまらない作品になっているんじゃない
のかな?

秋の次回作公開にあわせて、「マトリックスの謎」探求本や、ウェブサ
イトが結構出てきそうな感じかも。


その上で更につけくわえると、今回の作品では、ウオシャウスキー兄弟
の、日本に対するリスペクトというかオマージュが更に感じられる作品
になっていると思う。
「キーメーカー」とか「日本刀」とかね。
秋葉原とか、大好きなんだろうなー。

多分、第3作公開前にはもう一回位見るんだろうなー。
あと、やっぱり長いエンドタイトルが終わるまでは席は立たない方が
いいかもしれない。



2003年06月14日(土) 六月の花嫁

たまには軽めの季節ネタなんぞを。

さて、東京も先週、とうとう梅雨入りした。
6月〜7月のこの間は、どうしても愚図つく天気になる。

一方で、6月は「ジューンブライド」と言って、結婚するには
一番の季節であるとされている。

これってなんか変じゃない?
なんて疑問を持つまでもなく、「ジューンブライド」とは
"June Bride"である訳だから、元々は、英語圏か、ヨーロッパ文化圏の
慣習である。
それを言葉と概念だけ、輸入したわけですね。

さて、6月、梅雨、花嫁と来ると、つい思い出してしまう文章がある。
前回も取り上げた作家、北村薫の小説 「夜の蝉」の中の一節。


《梅雨は英語で何というのですか?》
 中学生の時、用事で職員室に行き、ことのついでにそう質問したこと
がある。真面目にである。六月のこと、相手は勿論、英語の先生だった。

 丸顔でいつもにこにこしていたその先生は、にやっと笑い、
《プラム・レイン》
 番茶をサベッジ・ティーの類いだ。

《はああ》と訳の分からないまま感心しかけた私に、《大体が梅雨が
あっちにはないだろう》と先生はおっしゃり、
《それじゃあ、六月は何という》
《ジューン》
《ジューン・ブライドって言葉は知ってるかい》
《はあ、何となく》
《あれだって、向こうでは六月が気候がいいからだろう》
《なあるほど》

 頷く私に《僕ぁ、十月に結婚したぞ》などと、あまり本題に関係のな
い注釈を付け加えてから、《無理にいうならレイニー・シーズンかな》
《雨の時期ですか》
《そう、雨季ということになる》

「六月の花嫁」より

考えてみたら、昨年の今頃も、北村薫の小説を取り上げていたんだった。
自分にとっては、やはりこのうっとうしい季節を忘れさせてくれる一服
の清涼剤、みたいなものなのかもしれない。

さて、こう考えると、新暦といい、ジューンブライドといい、現代の
日本人って言葉と概念だけ輸入して、ありがたがっている側面もある
のかも。
2月14日のラバーズデイが、チョコレートの日に変化してしまった
ように。


元もとの"June Bride"、インターネット で調べると、6月は、
古代ローマの結婚を司る女神、Junoから名前を拝借している所から
この月に結婚すると幸せになるという言い伝えがあるらしい。

で、この話に関しては、実は個人的に思い込みをしていたことが判明
したんである。

てっきり、かつてのローマ皇帝、カエサル(ブルータス、お前もか、
のジュリアス・シーザー)が、6月と7月があまりに快適で過ごし
やすい季節だったので、自分の特権を利用して自分と后の名前を
入れてしまった(6月が妻で7月が自分=Juliusの頭3文字)
と思いこんでいたら、どうやら違ったらしい。

正確には、ジュリアスシーザーが、自分の誕生月である、7月に
自分の名前をつけ、その後同じくローマ皇帝になったアウグストゥス
が、自分の名前を8月につけた(August)というのが真相であるらしい。
ついでに言えば、だから9月(September=seven)になる訳だけど。

うん、やっぱり調べてみるもんだ。

でも、これは全くの想像だけど、6月の花嫁が、特別扱いされる理由
の一つには、6月と7月がヨーロッパの人たちにとってみれば、
特別な月である、という事も関係しているんじゃないのかな。

ヨーロッパは日本の北海道よりも高緯度に位置している地方が多いから、
一般的に冬が長く、夏は短い。
で、6月7月は、6月22日が夏至であることからもわかるように、
彼らにとっては最も日の光を浴びることのできる期間、すなわち
光り輝くサンシャインデイな訳だ。

実際、この時期、彼らはよく日光浴をするらしい。
だから、その時期に結婚式を挙げたくなる気持ちはわかる気がする。

ついでに言えば、ヨーロッパの学校の多くが、9月に開講し、5月で
終わる理由の一つには、やはりこの光り輝く季節に、校舎で勉強なんて
してられるかい!みたいな気持ちがあるのかもしれない。

大体サッカーだってこの時期はオフで、皆バカンスを楽しんでいるみたい
だし。

ただし、日本においては、6月というのは、大体においてジメジメした
季節であるわけだから、結婚式の料金も高く、スケジュールも詰まって
いそうなこの時期よりは、五月晴れで新緑が息づいてくる5月か、
せめて6月の梅雨入り前位が、結婚式のベストシーズンであるような
気もするんだけど。

ただし、これはあくまでネット上での噂みたいなものかもしれないが、
一説には、それこそバレンタインデーのように、日本の結婚業者が、
この梅雨の時期はどうしても結婚式需要が下がってしまうので、6月は
ジューンブライドといって、この月に結婚した花嫁は、特別に幸せに
なれます、なんてキャンペーンをはったのが、日本でこれだけ認知される
ようになったきっかけである、なんて話もあるようだ。
ちょっと信憑性があるような気も。

まだまだ自分には縁のない話なんで、余計なお世話ではあるんだが。



2003年06月13日(金) しょうがない

実は最近、前回の「バカの壁」で取り上げた、「話してもわからない」
状態に、奇しくも遭遇した事がある。


それは、久しぶりに会った女友達と、一緒に食事をしている最中。
話がたまたま、マスコミ報道のいい加減さという話題になり(今から
考えればそんな話をすること自体が間違っていたのかもしれないが)、
つい、「でも、マスコミに目くじら立ててたってしょうがないよなあ」
と言ってしまったら、途端に彼女に怒られた。

「○○君、そういう言い方はよくないよ」
「えっ?」
「何でもさもわかったような顔して、しょうがないとか言うの、
 すっごく後ろ向きな発言に聞こえるんだけど」
「え、いやでも、俺ってこういう人間だし」
「そう、いつもそうやって開き直るの、悪い癖だよ。考えてみたら
 昔からそういう所あるよね」

となり、どうやら私は相手の気分をいたく害してしまったらしい。
果たして今、彼女の機嫌が直っているのかどうかもわからないんでは
あるが、まあ、確かに私には、物事をハスに構えて見たがる癖がある
かもしれない。

彼女に限らず、そのことで気分を害している私の周囲の人がいたら、
そこら辺は謝っておこうと思う。いや、マジで申し訳ない。

で、考えてみれば、確かに「しょうがない」は最近の私の口癖である。
でも、「しょうがない」を連発しているから、何かを諦めてしまって
いるわけではなく、個人的には、結構ポジティブな意味のつもりで
使っていたんで、指摘されてビックリしたわけだ。

とりあえず、しょうがない(原語は仕様がない)を広辞苑で調べてみる。
すると、「施すべき手がない。始末におえない。しょうがない」となる。
確かにこれらの意味で言えば、後ろ向きの発言と取られても、しょうが
ない。


しょうがない、と似たような言葉で「どうせ」という言葉がある。
で、この「どうせ」という言葉を聞いて思い出す文章がある。

それは、北村薫の小説「スキップ」 の中の一節。


 さらに、わたしはそこまで考えもしなかったことを付け足していた。
「《好きな言葉、嫌いな言葉》を書いてもらったわね」
 チームは、とまどいつつ、頷いた。
「はい」
「嫌いな言葉は《どうせ》だと書いた人がいるわ」
 正面の高い窓が明るく光っていた。

「―わたしも嫌いよ。―《どうせ》ボールは島原さんのところに来るん
だ、はやめよう。《どうせ》勝てないんだ、もやめよう。どうなるかは、
神様にしか分からない。でも人間には想像することができる。イメージ
することができる。だったら、勝った自分達を考えてみよう。目をつぶっ
て、十分後の、皆なの―」と、わたしは手を広げた。手の両側には、わ
たし達のクラスの子が広がっている。「歓声を聞いてごらん」

 再び、チームは顔を見合わせた。柳井さんが、目をつぶろう、と
いった。十秒ほどの黙想。木場さんが、ぱっと目を開き、おどけた調子
でいった。
「―聞こえたぞ」



と、まあこんな感じで、「どうせ」に対しては私もあんまり好印象は
ないんだけど。
「どうせ」と言った言葉の後ろには、どうしても後ろ向きの否定語が
ついてしまうと思うのだ。「どうせ」何をやったってうまくいかないん
だから諦める、のように。

でも、「しょうがない」の中には、決して後ろ向きではない「しょうが
ない」もあると思うのだ。
すなわち、私が「しょうがない」という言葉を使うときは、「しょうが
ない」から諦める、んではなく、「しょうがない」から、そこから何と
かしようと思うのだ。

何でそんな事を思うのか。
それは、前にも書いたけど「人は無条件にわかりあえるわけではない」と
思うから。

逆に言えば、簡単には相手のことも理解はできないし、そして私の事も
理解はしてもらえないからこそ、理解しようとお互いに努力するんじゃ
ないだろうか。

日本には、「以心伝心」という言葉があるけれど、これは以前に鴻上尚史
がエッセイで述べていたんだけど、人の願望であるとあると思う。
つまり、なかなかお互いに理解できないからこそ、「以心伝心」の境地に
憧れるんだと思うのだ。

でも、実際に本当に相手の心の中が手に取るように分かってしまったら、
どうだろう。何かをする度に「あ〜それやだなあ」とか「お前うざいよ」
なんて言葉が聞こえてきたら、誰だってイヤなんじゃないのかな。

で、話を元に戻すと、「相手になかなかわかってはもらえない」という
前提だからこそ、自分の言葉が相手に伝わらなかった時は「しょうがな
い」と私は思うのだ。

でも、「しょうがない」から諦めるのではなく、この言い方で伝わらな
かったんだったら、別の言い方はどうなんだろう?とそこから試行錯誤
が始まるわけで、それが私にとってのコミュニケーション方法なんだけ
れど。

だって、何かが伝わらなかったからといって、そこで放棄していたら、
自分の言葉が伝わるチャンスがどんどんなくなる訳だし。

で、ついでながら言うと「しょうがない」の一般的な使用例って、
例えば幼児がミルクをこぼした時に「あーあー、しょうがないなあ」
みたいな使い方だと思うんだけど、この場合、言った本人は、物事を
後ろ向きに捉えて、諦めたままにしているのかな。むしろ、今度はこぼ
させないようにしないと、なんて思っているんじゃないのかな。

っていうか、もしかするとそんな感じで高みからの発言のように聞こ
えたことが、相手の感情を逆撫でしていたとか?

とまあ、そんな事を思いつつ、その場はいろんな弁解というか、説明を
加えようと努力したんだけど、その場は結局、
「ぜんぜんわかんない」
「たとえ話がよく見えない」
と、にべもなく否定されてしまった。

うーん、やはり人に何かを伝えるというのは難しいなあ、と思ったんで
ある。
まだまだ、修行が足りないようだ。

果たしてその女友達がこの日記を読んでいるかどうかはわからないんだ
けど、以上を持って私の弁解としたい。

でも、やっぱり「わからない」と言われるかもなー。



2003年06月12日(木) 「バカの壁」(2)y=ax

今回も前回の続きで養老孟司著「バカの壁」 を取り上げてみる。

さて、前回取り上げた引用文の末尾にもあるように、
「話せばわかるは大嘘」である、というのが、「バカの壁」の
白眉であると思う。

これについて、養老孟司はこの本の冒頭でこんな例をあげている。


「話してもわからない」ということを大学で痛感した例があります。
イギリスのBBC放送が制作した、ある夫婦の妊娠から出産までを
詳細に追ったドキュメンタリー番組を、北里大学薬学部の学生に見せた
時のことです。(略)

 ビデオを見た女子学生のほとんどは「大変勉強になりました。新しい
発見が沢山ありました」という感想でした。一方、それに対して、男子
は皆一様に「こんなことは既に保健の授業で知っているようなことばか
りだ」という答え。同じものを見ても正反対といってもよいくらいの違
いが出てきたのです。

 これは一体どういうことなのでしょうか。同じ大学の同じ学部ですか
ら、少なくとも偏差値的な知的レベルに男女差はない。だとしたら、ど
こからこの違いが生じるのか。

 その答えは、与えられた情報に対する姿勢の問題だ、ということです。
要するに、男というものは、「出産」ということについて実感を持ちた
くない。だから同じビデオを見ても、女子のような発見が出来なかった、
むしろ積極的に発見をしようとしなかったということです。

 つまり、自分が知りたくないことについては自主的に情報を遮断して
しまっている。ここに壁が存在しています。これも一種の「バカの壁」
です。(略)

 女の子はいずれ自分たちが出産することもあると思っているから、
真剣に細部までビデオを見る。自分の身に置き換えてみれば、そこで
登場する妊婦の痛みや喜びといった感情も伝わってくるでしょう。
従って、様々なディテールにも興味が湧きます。一方で男たちは「そん
なの知らんよ」という態度です。彼らにとっては、目の前の映像は、こ
れまでの知識をなぞったものに過ぎない。本当は、色々と知らない場面、
情報が詰まっているはずなのに、それを見ずに「わかっている」と言う。

 本当はわかっていないはずなのに「わかっている」と思い込んで言う
あたりが、怖いところです。(略)



さて、ここでこの箇所を引用したのは、やっぱり男子学生はダメだなあ、
って事を言いたいわけでも、「授業中の教材はやはり真剣に見なきゃダメ
だな」なんて事を言いたいわけでもない。

自分が知りたくない事について自主的に情報を遮断してしまう「壁」は、
おそらく誰の心にもあると思うのだ。

すんごい極端な話をすれば、私は別に死体の映像のようなグロテスクな
映像は見たくもないし、人が人をののしっている様は見ていてつらいなあ
と思い、自然と目をそむけてしまう。

でも、人によっては、インターネットでこの前のイラク戦争での残虐な
映像を集めようとしている人もいるだろうし、ある種のフェティッシュ
な趣味を持つ人にとっては、人の排泄する姿すら、見たいと思うものに
なる。
ましてや人のいさかいや噂話だったら、三度の飯より好きな人は沢山いる
だろう。
このように人によって「バカの壁」はそれぞれ異なっている。

どうしてこういうことが起こるのか、養老孟司は「脳の中の係数」という
章で、こう語る。


 では、五感から入力して運動系から出力する間、脳は何をしているか。
入力された情報を脳の中で回して動かしているわけです。

 この入力をx、出力をyとします。すると、y=axという一次方程式の
モデルが考えられます。何らかの入力情報xに、脳の中でaという係数を
かけて出てきた結果、反応がyというモデルです。

 このaという係数は何かというと、これはいわば「現実の重み」とでも
呼べばよいのでしょうか。人によって、またその入力によって非常に違っ
ている。通常は、何か入力xがあれば、当然、人間は何か反応する。つまりyが存在するのだから、aもゼロではない、となります。



ただし、時としてこのaがゼロになる。この場合は何を入力されても、出力はなく、何の反応や行動も起きない。

養老孟司は、例えば先程の男子学生の例では係数aはゼロであり、現実感のない話だったと想像する。
そして、またオヤジの説教を全然聞かない子供の場合も、同様であり、
その時だけは子供はウンウンと相槌を打つけれど、実は何も聞いていない
から、次の日も同じように悪いことをする、と指摘する。

また、養老孟司は、a=ゼロの逆、係数aが無限大になった場合を原理主義
であると定義づける。この場合は、ある情報、信条がその人にとって絶対
のものになる。例えば、尊師が言ったこと、アラーの神の言葉、聖書に
書いてあることが全てを支配し、その人にとっての絶対的な現実になる、
と指摘する。

また、aがプラスに働けば好きな感情が生まれるし、マイナスに働けば
嫌いな感情が生まれる。aが値が社会的に適切な値であれば、社会生活
にうまく適応できるし、不適切であれば、その環境には合わないという
事を示す、などなど。

このくだりは面白いんでよかったら本屋で手にとってみてほしい。

その上で、養老孟司はこう述べる。
このa=ゼロとa=無限大というのは現実問題として、始末に悪い。テロは
無限大の悪い形の表れであるし、社会的にコミュニケーションの取れない
人、というのは、係数aがゼロになっている場合がある。


全てのものに対して反応しなければならない訳ではないと思う。
例えば、私はこの先、グロテスクなものや、人の悪意といったものに
対しては、今後も限りなく係数をゼロにしていくと思う。
ついでに言えば、やはり自分を含めた人のナイーブな行動に対しても、
あまり反応はしたくはない。

その一方で、自分の周りにいて、関わりあいを持ちたいと思う人たちや
関わりあいを持つ必要のある人たちに対しては、出来るだけ係数aを持ち
たいと思う。それは、まだ見ぬ自分と関わりあいを持つかもしれない人
に対しても同様である。

こんな風に、一体何に対して係数aの値を持つかという事が重要なんだと
思うのだ。

この本を読みおわった後、自分の興味のあるものに対して、もしくは
自分が嫌悪しているものに対して、一体自分の係数aがどんな風に働いて
いるか、考えてみると面白かった。

そして、係数=無限大になってしまうことの弊害についても。

そんな風に周囲のものに対して擬似的に数値化してみるのも、
たまには面白いかもしれない。
ただし、くれぐれもそれを「絶対化」しない方がいいと思うけど。


そしてもう一つだけ、書いておきたいのは、冒頭の引用文中にある、
「本当はわかってないのに、わかった気になる」という問題である。

すなわち、私たちはある情報を手に入れると、その情報を、今までの
自分の経験に基づいて、つい「想像して」わかった気になってしまう。

でも、その自分の「想像した」ものと実際の現象は、必ずしも同一では
なかったりするので、そこでしばしば誤解が生じることもある。
そして極端に思い込みが激しい場合は、自分の想像の方が正しいと思い
事実を事実として認められなくなってしまう。

養老孟司は、次のように言う。


 何でも簡単に「説明」したからってわかることばかりじゃない、という
のが今の若い人にはわからない。「ビデオを見たからわかる」「一生懸命
サッカーを見たからサッカーがどういうものかがわかる」……。わかる
というのはそういうものではない、ということがわかっていない。

 ある時、評論家でキャスターのピーター・バラカン氏に「養老さん、
日本人は、"常識"を"雑学"のことだと思っているんじゃないですかね」
と言われたことがあります。私は、「そうだよ、その通りなんだ」と
思わず声をあげたものです。



個人的に思うには、だからこそ、情報を手に入れただけで、「わかった
気になる」んだと思うのだ。

すなわち、普段の私たちは、情報を手に入れることだけが重要になって、
その情報が私たちにとって本当に重要なものであるのか、どの情報が
本当は知りたいことなのか、という情報の「重みづけ」が出来ていない
のかもしれない。

そしてだからこそ、白装束集団の動向なんかに躍起になって振り回され
ているのかもしれない。

でね、この「想像してわかった気になる」というのは、自分自身にも
実は思いっきり、当てはまるのだ。
だから、本当に自分が知りたいこと、興味のあることに対しては、
想像力だけの陥穽にはまらないように、やはり反証?して見る必要が
あるのかもしれない。

そして、もう一つ言えるのは、やはり自分の観念を「絶対視」はしない
って事かも。
そしてもう一つはやっぱり、様々な情報を実感できるだけの許容量を持つ
って事なのかもしれない。



2003年06月11日(水) 「バカの壁」(1)日記を書く理由

さて、たまにはこの日記の置いてあるジャンル「読書日記」らしく、
読書感想文なんてものを書いてみたい。

今回取り上げる本は「バカの壁」

さて、このバカの壁、実はちょっと前の狂気的な?長期連載?「ナイー
ブな人」を書こうと思った理由の一つは、この本を読んだことである。

なので、この本の中のどこにひかれたのかを書こうと思うんだけど、
実は?子供の頃からいわゆる読書感想文って苦手なんだよね。

なので、まずは著作者自身に語ってもらおう。
これは5月25日の毎日新聞の文化欄「21世紀を読む」からの
引用。


21世紀を読む
「イラク戦転じて新型肺炎」
養老孟司 

世に話題は尽きないもので、イラク戦争が終わったら白装束だ新型肺炎
「重症急性呼吸器症候群」(SARS)だと、もう別な騒ぎである。
どれも私に直接の関係はない。そんなこと知ったことか。
それが私の本音である。(略)

それにしてもなぜこうつぎつぎに世間の話題が移るのか。あまりのこと
に、情報過多という表現ができた。じつは情報過多というものはない。
過多になるのは情報の本質である。情報はひとりでに消えはしないから
である。人間はかならず「ひとりでに消える」、つまり死ぬ。
情報は動かない。創刊以来の毎日新聞の記事はいまでも読めるであろう。
それを「動いている」と思うのが現代人である。それならいかにも
「動いているように」見せなければならない。だから毎日「新しい
ニュース」を追いかける。だからといって、昨日のニュースが消えた
わけではない。調べたらちゃんと残っている。その上に今日のニュース
を重ねるから昨日のが見えなくなるだけである。

その裏にあるのは、逆に人間は変わらないという思い込みである。
ひたすら変わりつづける人間を、「変わらない私」「個性を持つ私」と
思いこむ。それなら「変わらない」ものである情報を、変わると強弁
しなければならない。だから毎日、大急ぎで情報を取り替えるという
騒ぎになる。

ニュースをとりかえる作業がどんどん早くなる。だからいまではビン・
ラディンがどうなったか、フセインがどうなったか、一言もいわない。
白装束やら肺炎やらで覆い隠してしまっただけ。それなら始めからいわ
なきゃいいだろうが。そもそも私にゃ関係ないんだから。とまあ、
この私はそう思っている。

人間は変わらない。情報が毎日変わっていく。それが現代人の巨大な
錯覚である。だから人が「死ななくなった」。メディアとは、その
錯覚を維持する装置である。

なぜかって、「変わらないもの」がなぜ「亡くなる」んですか。
理解できないじゃないですか。死ぬのはいまの元気なあなたじゃあり
ません。よれよれになって、まさに死にそうなあなたが死ぬんですよ。
そのあなたはいまのあなたではない。いってみれば、違う人なんです。

いくらそう説明しても、わからない人にはわからない。それを私は
「バカの壁」といったのである。



で、この引用文の中に、実は「ナイーブな人」連載中に思った、「何故
マスコミは執拗に白装束集団を追っかけたのか」に対する一つの答えが
あると思う。

すなわち、今ある情報を追っかけ続けないと「『変わらない』もので
ある情報を、変わると強弁」できなくなるから。

これを個人的に、別の言い方をすれば、「一つの問題を深く掘り下げる
よりは、新しい情報を次々にお茶の間に提供しなければ、飽きられて
しまう」とマスメディアと、私たち視聴者は、思い込んでいる、といえ
るのかもしれない。

それは別の例え方をすれば、「絶えず発表される新製品を買い続けなけ
れば、乗り遅れてしまう、という恐怖感に煽られている」事と根は同根、
といえるのかも。

でも、例えばちょっと前までの新製品だって、今度発売された新製品と
革命的に何かが劣っているわけではない、という事に最近の私たちは
気づいているような気がするのだ。

そして何も新しい情報だけを追いかけるよりは、今までにもあった情報
の中には、実はこんな見方もあったんだ、なんて見直して再評価してい
くことも大切なんじゃないのかな、とも思うのである。

少なくとも、そういう流れが今後もっと出てきても、いいんじゃないだ
ろうか。


そしてもう一つ、この引用文から引くと、大切なのは
「情報は変わらないが、人間は変わる」という事なんじゃないだろうか。

私たちはつい自分や周囲の人たちが、ずっと変わらないでいる、と思い
がちかもしれない。
でも、私たちの体内の中の細胞が、毎日少しずつ再生されているように、
私たちは日々、様々な刺激を受けながら生きている、と思うのだ。

そしてそういう風に刺激を受けている限り、人間はいい方にも悪い方にも
少しずつ変わっていく。

逆に言えば、そうでなければ、こういう日記を書いている意味はないと
思うのだ。
人間は日々、少しづつ変わっていくから、久しぶりに読み返してみると
その変化に気づき、ビックリしたりするのかもしれない。

そして、だからこそ、今、こうして書いている日記を、将来の自分が
見たとき、なんて思うのかが、ちょっと楽しみだったりするのだ。

「あの時は青かったなあ」と思うのか「お、意外といいこと書いている
じゃん」と思うのか、それとも「あの頃の方がよかったかもなあ」と
思うのか。

出来れば最後のようには思わない人生を歩んで生きたいものだ。

という事で、続く?



2003年06月09日(月) 「8Mile」

さて、今日のネタは白人ラッパー、エミネム主演の映画 「8Mile」
見に行ったのは池袋シネサンシャインのレイトショー。

とりあえず、普段はあまり映画館では会わないような、Bボーイ?というか、ヒップホッパー?の人たちが、大勢見に来ているこの映画。
いや、なかなか不思議な気分での鑑賞。

さて「8Mile」、いつもどおり一言で言うと、心臓をギュッと掴まれる感じのするいい映画、だった。


エミネム扮する主人公、ジミーは、ラップと不況の街、デトロイトに住んでいる。
タイトルの「8Mile」とは、デトロイトの中心を走る道路の名前。
8マイル通りをはさんで、リッチ層と貧困層、白人と黒人の居住地が
別れる境界線。

ジミーはそんなデトロイトの町で、妊娠した彼女と別れて、母親と幼い
妹の住むトレーラーハウスに出戻る。

トレーラーハウスでは、母親が自分の母校の先輩を引きずり込んでSEX中。
母親に誕生日プレゼントだと言ってもらった中古車は故障中。
働き出したプレス工場では、厳しい上司に目をつけられる散々な毎日。

ジミーは白人でありながら、ドゥープな(最高な)才能を持つラッパー。
黒人の理解のある仲間たちとつるんで、いつか有名になって大金稼いで、
こんな最低な毎日からはおさらばするぜといいながら、だらだらと過ごす
退屈な毎日。

ジミーはフリースタイルのラッパー。
黒人たちであふれるクラブで、黒人相手にラップバトルに出ては見るけど、
相手の口からあふれる言葉は、白人差別の言葉ばっかり。
反吐が出るほどあふれる緊張。
なかなか出ない自分の熱情。

夢はいつになったらかなうのか。それともここで終わるのか。
果たして俺は負け犬なのか。どうしたらここから抜け出せるのか。


とりあえず、映画全編を通して、お下品な言葉のラッシュ。
ラップバトルは、昔、TV番組「ロンドンハーツ」で元彼元カノ同士が
お互いにマイク握って罵り合っていたやつのラップ版みたいな感じかも。
いや、もちろんこっちの方が本家?だと思うけど。

リズムに乗せて、アドリブで相手をののしり、自分のリリックの才能を
見せつけるか、相手に何も言わせなくすれば勝ちのバトル。
お下品な言葉を短いリズムにうまく乗せると、観客たちが皆よろこび、
どんどんヒートアップしていく。

これって英語がもっとわかれば、内容的にもっと楽しめるんだろうなあ。
個人的には、韻を踏んでいるかどうかしかわからなかったっす。
でもやっぱり?映画館を出るときは、仁侠映画の健さん気分ではない
けれど、気分的には、なんちゃってラッパー気分になってたり。


この映画はエミネムの半自伝的映画と言われていて、彼の人生そのまま
ではないにせよ、彼のバックグラウンドがよくわかる内容になっている
らしい。

これがスクリーンデビューのエミネムのラップの才能も凄いと思うけど、
彼の目の力も凄いと思う。
そこに佇んでいるだけで、やっぱり存在感があると思うのだ。

そして、周りのキャストたちも結構いい。
母親役のキムベイジンガーや、仲間のフューチャー役の役者もよかった
けど、個人的にヒロイン役のブリタニ−マーフィーがよかったと思う。

あの目と唇で「あなたは成功する予感がするの」なんて見つめられながら
言われたら、そりゃ男はもう、頑張るしかないでしょう。
少なくともこの映画の主人公ジミーは、あの子に会って、初めて変われ
たんだと思う。


この映画を通じて感じたのは、「夢は見るものじゃない。夢を見ている
限り、ぬるま湯のような状態の中にいるかぎり、このヒリヒリとした
現実は何も変わらない」という事かもしれない。

夢は別にあきらめなくたっていい。ただ夢をかなえるためには、
このどうしようもない現実と戦い、自分でやっていくしかない。
チャンスは一度だけ。チャンスを手にする機会を見逃すな。


いや、マジでよかったっす。もう一度見に行ってしまうかも。



2003年06月08日(日) ラクーア

今日は日曜日なんだけど、午前中だけ仕事だったんだけど、今日は
競馬のG1レースの「安田記念」の開催される日だったんで、皐月賞
の時と同じく午後から後楽園へ。

前回後楽園を訪れた時と、今回と一番違っているのは、旧後楽園遊園地に
アミューズメントとショッピングと温泉の融合施設、ラクーアがオープン
した事だろう。

遊園地なんだけど入場料は取らないので、ちょっと見るだけ見てみよう
と思って入ってみる。

温泉とショップと遊園地の融合した場所、のイメージが全然わかなかった
んで、正直どうなんだろう?と思ったけど、意外に?いいんである。

ざっと見ただけだけど、正直ショップはここでなくても都内のあちこちに
あるショップが入っているって感じだし、遊園地、といっても昔ほど充実
しているわけでもない。

でも、その二つが組み合わさることで、買い物テーマパークみたいな
感じになっているんだよね。
だって、ショッピングモールの上を高速でジェットコースターは通り過ぎ
て悲鳴が聞こえて、ウォータースライダーからは水しぶきがあがるのである。

こっちは別に乗り物目的ではないんだけど、それでもちょっとハイな気分になるんである。
これだったら、他の場所でなくても、もう一回そこに行ってみようかなー、という気にさせるのかもしれない。

事実、昔の後楽園遊園地時代に比べても、沢山の人手で賑わっていると
思えるし。

このリニューアル、意外に成功だったんじゃないのかな?
少なくとも、私がまた後楽園に用事があるときは、ちょっとふらっと
寄ってみたいって気になったし。

で、元々はちょっと遅めの昼飯を食べるのが目的で、本当の目的は
KONISHIKIプロデュースのハワイ料理のお店だったんだけど、ちょっと
混んでそうだったので、もう一箇所入って見たかったババガンプのお店
へ。
ここは映画「フォレストガンプ」のフォレストガンプが起こして大成功した
エビ会社「ババガンプ」がレストランを経営したらこんな感じかも、
という一種のフードテーマパークのつくりになっているんである。
ちなみに料理は全体的にちょっと高め。

ここで、ハンバーガープレートを試してみる。
ちょっとフレンチフライの塩加減はきつかったんだけど、ハンバーガーの
味は、近くにあるベースボールカフェよりはこっちの方が美味しいかも。
ちゃんと焼き加減も聞いてくれるし。

今回はオーダーはしなかったんだけど、フォレストガンプも大好きな
Dr.ペッパーにアイスを乗っけたフロートとかもあるんで、今度来た
時には試してみたい。

温泉も今回は遠慮したんだけど、今度は仕事帰りにでも来て入ってみよう
かな、という気になった。
全体的に値段は高めなんだけど、たまにだったらいいかな?って感じかも
しれない。

で、肝心の馬券。
残念ながら外れてしまいました。
やっぱり競馬はなかなか難しいんである。

でも、ちょっと充実した休日だったといえるかもしれない。



2003年06月06日(金) 「トゥー・ウィークス・ノーティス」

ちょっと遅れてしまったけど、毎月1日は映画サービスデー。
という事で、今月も当然?見に行ったんだけど、今月の1日は日曜日。
と、いうことでどこも超込み。

今回は後に予定が入っている、いわゆるケツカッチンの状態だったので、
歌舞伎町で「シカゴ」か、 「トゥーウィークスノーティス」か、どっちかを見ようと思ったんだけど、「シカゴ」は超満員で入れず。

しょうがないわけではないんだけど、こっちを選択して、中へ。

こっちも、もう最前列しか空いてません、と言われたんだけど、運良く?
最後列に一人分だけ席が空いていたので、そこに潜り込む。

「空いてますかあ?」と聞いた時に返事をしてくれた人の目線がちょっと
いぶかしげだったのは、せっかくの日曜日?に恋愛映画を野郎一人で見に
行ったからかも。
野郎が恋愛映画一人で見てて、悪かったっすね。


なんて事はさておき、この映画。
一言で言えば、期待以上に面白い、いい映画、でございました。

タイトルは"Two Weeks Notice"
雇われている人が、自分が辞めたいと思う2週間前に雇い主に、宣告する
慣習?のこと。

この映画は、サンドラブロック演じる一人の女性キャリア弁護士が、
ひょんなきっかけで雇われた、ヒューグラント演じる巨大不動産王の
社長に、あと2週間で辞めます、と宣告した後の、お互いの気持ちの
揺れ動くさまを描いた作品。

サンドラブロックで、ニューヨーク、ラブコメディ、というのは、結構
定番?メニューだし、ヒューグラントで、美形で金持ちだけど、どこか
だらしない人、って言うのも、今まで割とありがちな作品だと思うけど、
すごく安心してみられるというか、期待を裏切らない作りになっている
と思う。

いや、とにかくヒューグラントの情けなさぶりの板のつき方が、
いいんである。
もはや一つの芸といってもいいんじゃないかな。

彼と、阿部寛はどこかキャラが重なる所があると思うけれど、
だらしないけど、どこか憎めないキャラを好演していると思う。

でも、ただ単に情けないだけではなくて、金持ちで、ルックスがよくて、
女性に不自由しなくても、そのことが逆にコンプレックスになっていて、
「ハーバード大出身の女性は、俺のことをバカにするだろ?」なんて事を
本人に屈託もなくしゃべるあたりの細かな描写が、うまいと思う。

自分がこれだけ共感するのは、もしかすると、個人的にちょっとだけキャラがこの主人公に似ている部分があるかも、と思ったからかもしれない。
いやもちろん、そんなにお金持ちでもないし、ルックスも負けているし、
女性にも不自由はしているんですが。

でも、主人公のちょっとマヌケだけど、無頓着な様は、やっかみ抜きに
して、ちょっと格好いい?かもしれない。


ヒロインのサンドラブロックも、「辞めます」というまでの間はもう、
そのヒューグラントのだらしなさにウンザリしてたと思うんだけど、
自分より若くて可愛い?ライバルが出てくると内心面白くなかったり
するのが面白い。

やっぱり、ヒューグラントの気取りの無さって言うのが、いつの間にか
心地よかったりしたのかもしれない。


で、やっぱり恋って、自分に無いものを持っている人に憧れる気持ちって
あるよなあ、と思うのだ。
はじめの内は気づかないんだけど、一旦意識してみると、それが結構かけがいの無いものに感じられたりして。

そして、やっぱりそんな風に影響しあってお互いに変わっていける関係っていいなあ、なんて思うのだ。


これはある意味もう一つの「プリティウーマン」みたいな話なのかも。
やっぱり恋愛映画には、おとぎ話のようなロマンティックな部分も
ちょっとだけ、欲しいかも、と思う人におススメかもしれない。

結構笑えるし。
台詞も結構気のきいた台詞が沢山出てくるし。
「もう一人のジョージよ」とかね。
個人的にはライバルの女の子にも結構好感持ったし。
野心のある女の子って、いいよね。嫌いじゃないっす。

あと松井も住んでいるらしいトランプタワーの、不動産王トランプや、
NYメッツのキャッチャー、マイクピアザ?や、そしてグラミー賞を
とったノラジョーンズが実名で登場して、ノラジョーンズは歌まで歌って
雰囲気盛り上げてくれているし。
英語も結構聞き取れていい勉強になりました。

DVD、安かったら買うかなあ?



2003年06月05日(木) ナイーブな人(18)イマジン

さて、という事でいよいよこの長かったシリーズも終わりになる。

今までちゃんと読んでくれた人が、どれくらいいるのかはわからない
けれど、読んでくださった皆さん、どうもありがとうございました。

最初は10回位で終わるかな、と思っていたのが、そこは素人の悲しさ?
結局18回にも長引いてしまった。

長引いた分、ちょっと冗長な感じになってしまったけれど、
ナイーブさに関する、私の考えは、ひとまず区切りがつけられたようだ。


さて、そもそも何でこんなことを書こうと思ったのか。
その動機の一つは、このシリーズの最初に記した白装束集団は、何で
あんな行動をしたのか、そして何故、マスメディアは一見どうでも
いいような集団の行動を執拗に追い回したのか、という事だった。

あの事件は、今ではもうすっかり過去の事になってしまっているけれど、
結局は、自分の理解しがたいものが側にいることに対する嫌悪感、としか
いいようがないほどの生理的な拒否反応だったような気がするのだ。

それでは一体、何故その嫌悪感は生まれ、その一方で子供たちの問題や
ら様々な問題に対しては、私たちは問題の目を向けないのか、それは
もしかすると、日本人は他者と付き合うのが下手であるとよく言われて
いることと関係するんじゃないかな、と思ったのが始まりである。


そして、もう一つの動機。それはネット集団自殺の問題だった。
彼らは何故、誰かと一緒に自殺をしたいと思うのか。
彼らを自殺に駆り立てるものは一体なんなのか。
それは単に時代の閉塞感という、時代のせいにすればいい問題なのか。
それとも、何か出口は見つからないのか。


おそらく、この二つに対して、養老孟司はこういうのかも知れない。
それこそ現代社会が、身体的な感覚を忘れ、脳の中の意識だけで生活
すると思い込んでいる「唯脳社会」の問題であると。
で、あるならば、私たちは一体どうすればいいのか。

そのヒントの一つは、前回の最後に取り上げた、藤田宜永のインタビュー
記事の中にあると思う。
それは、「ネックは"傷つきたくない"という気持ちの裏返しである、自尊心の高さ」であり、また、「情報を集めすぎて、臆病になっている」事であり。

そしてそのための解決法としては、
「もっと動物になって直感を信じたほうがいいよ」であり、「胸が高鳴ったとき、思い込みでどこまでバカになれるか。それが惚れる力であり、ひいては生きる力だと思うな」であると思うのだ。

このシリーズでも度々引用してきた、河合隼雄と吉本ばななは、「なるほどの対話」 の中で、こう言っている。


河合 吉本さんの作品を読んで、手紙を書いてくる人が多いということ
   ですが、そういう人たちに対して何かメッセージというか、言っ
   てあげたいことはありますか?

吉本 私自身も彼らと同じように、いま何かを探しているところなの
   で……、そういうことがいいのかもしれないですが。

   その子たちには特徴があるような気がしています。すごくみんな
   素直で、打たれ弱いっていうのかな、ちょっと「ピシッ」と言う
   と「ピューッ」と引いていっちゃうところがある。世の中に対す
   る皮膚が薄いような感じがするんですよね。

河合 それ、いい表現ですね。

吉本 私などは歳いって分厚くなっているから、いいのですが。皮膚の
   薄さがあって、そこに感性の世界というのもあって、ちょっとだ
   け免疫をつけて丈夫になった方がいいのではと思います。

河合 おっしゃるように、強くなければダメ。ダメなんだけど、いわゆ
   る「強い人」というのは感受性がないでしょ。そこを間違わない
   ように。いろいろ感じ取りながら、別に傷ついたって構わないん
   だけれど、傷ついたままで戦うというか、これが必要なわけです
   よね、次のステップが。それは、吉本さんの言われた「いかに折
   り合いをつけるか」という言い方をしてもいい。感性を自分のな
   かにグッと持ってくるというか。

吉本 そういう感じがあると、もっと楽になれるんじゃないかと思いま
   す。それと、もう少し肉体的な感覚を磨くというか、寒かったら
   こう感じるとか、そういうことに敏感になると、たぶんそういう
   ふうに変わっていくと思います。

河合 いまは身体的な感覚から少しずれたところにあるので、自分のも
   のになりにくいんですね。

吉本 ケガしたら痛いよーとか、治っても三日は動きにくいよ、とか、
   そういうの。

河合 そうそう。あと「怖い」っていうのあったでしょ。

吉本 はい。本当に死ぬかと思ったこと、何回もありました。

河合 いまそれが、なさすぎるんですよ。



そして今、必要とされている肉体的な感覚とは、この引用文中の、「怪我したら痛いだろうなー」と思える想像力なんじゃないかな、と思うのだ。

怪我したら痛いかも、という感覚や、このまま転んだらちょっとやばい
かも、という「怖さ」というのは、直感であり、一種の皮膚感覚である
と思うんだけれど、そうした感覚が現在はなおざりにされすぎているの
かもしれない。

でも、それは、自分の外側にいる「他者」と付き合う上では、実は
重要な感覚だと思うのだ。

だって、例えば誰かが指を包丁でザックリ切っちゃったら、「痛いだろうなあ」という想像力が働くからこそ、なんかしてあげようかなあ、という
気持ちが生まれるし、道徳の時間じゃないけれど、「こんな事されたら
嫌な気になるだろうなあ」と思うからこそ、人をむやみに傷つけるのを
ためらうんだと思うし。

そういう感覚が育たない社会、「正直者がバカを見る」社会のように見えているからこそ、人々は漠然とした不安感を抱いているし、一部の人たちはそんな社会で生きることに絶望してしまっているのかもしれない。


また、この文章の中の「感受性のない、いわゆる強い人」とは、結局、
マッチョな人と言えるのかもしれない。
すなわち、結局マッチョな人というのは、ナイーブな人の裏返しであり、
「自分の外側にあるものに対しての想像力の欠如」という意味では、同じ
ような気がするのだ。

そして、個人的にそんな想像力のない人に対して、違和感を感じるのは、
想像力が欠けている分、自分達の分かりやすいように、シンプルな構造に
現実をあてはめようとし、結果、「無知ゆえの頑迷さ」という頭の固い
人間が出来上がることである。
こうした現象に対して、養老孟司は「バカの壁」と名づけたように思う。


で、その上で個人的に思うのは、結局、そうした頑迷さに落ち込まない
為には、結局は、自分の外側にある、時としてわかりにくい外側にある
ものと、ある時はしたたかに、ある時はしなやかに、そしてある時は
マッチョに、折り合いをつけてつきあっていく事なんじゃないのかな、
と思うのだ。

このシリーズの10回目 で引用した、香山リカの引用文の中にこんな
くだりがある。


おびただしい情報に触れ、実経験は少ないものの「世の中ってこんな
もの」という見極めがついたつもりになっている場合も多い。そうなる
と、まじめで純粋な彼らはひたすら自分の内面を見つめ、「自分らしさ
ってなんだろう?人生の目的ってなんだろう?」と考えていく。



このコラムのタイトルが「個性を追求した果てに」。
いわゆる「自分探し」の旅と言ってもいいかもしれない。

でも、それは以前この日記の「自意識」でも触れたように、自意識を
自意識的に悩んでも、答えの出ない、迷宮の世界にさまよいこんで
しまうのかもしれない。

別の言い方をすれば、このシリーズの11回目で取り上げた、田口ラン
ディの意見のように、そのパワーは「生きる方向には向かわない」スパイラルにおちいってしまうのかもしれない。


でもね、個人的にはこう思うのだ。
自分の内面が充実するかどうかは、鴻上尚史も言うように「どれだけ
他者から、自分が面白いと思う刺激を受けたか」によって変わってくる
んじゃないだろうか。

他者と触れ合い、自分が属する世界が広がっていく結果、後々で考えて
みると、自然と自分の内面にも自信が持てるようになり、他人に目を
向ける余裕も生まれてきたりする。

それこそが、自分及び、社会に活力を生む「異物を取り込む力」を活性化
させると思うのだ。


そしてその上で、あえて自分の想像力の翼を拡げるならば、
単純に自分の内側と外側を分けずに付き合っていける存在になった時、
その人は本当の「強さ」を手に入れる事ができるのかもしれない。

それは内側でも外側でもない、簡単にはカテゴライズはされない、境界線上のマージナルな存在でいるということかもしれない。

それは例えば、水(酢)と油という、相反する素材で構成されたサラダドレッシングも、よく振ってサラダにかければ、口に入れたときに別々に口にした時以上の美味しさを感じるようなものかもしれない。

そしてさらには、マヨネーズのように、酢と油が混ざり合って、簡単には
分離しない存在になるように。


それは、簡単にカテゴライズできる世界ではない故に、わかりにくく、
簡単には理解できない世界だとも思うけれど。

でも例えばある種の宗教のように、善悪や、内側と外側という、シンプルで一元的な何かに依存する形ではなく、人々がマージナルな存在でいる
ことに耐えられる強さを持つならば、そしてそんな状況でも楽しさを感じられる強さを持つならば、この世界はもっと、笑顔のあふれる世界に変わっていくのかもしれない。

それは例えばジョンレノンの名曲、「イマジン」の世界のように。

少なくとも自分の外側にあるものに対しての関心と想像力を持つことは
私たちの考えをもっと豊かにしてくれるのかも、しれない。



2003年06月04日(水) ナイーブな人(17)他者とつきあうには

という事で前回の続き。
それでは、私たちはどんな風に他者とつきあっていけばいいんだろうか。

そのヒントになるかもしれない話が、河合隼雄と吉本ばななの対談本、
「なるほどの対話」の中にある。


吉本 若い人たちは、こんな若いのによくそんなことわかるなというよ
   うな、深い、生きる、死ぬなどという話が多いんです。みんな真
   面目だと思います。もう、手紙なんて感動しますよ。こんなに若
   いのに人生に対する深い関心を「よくぞ」って。しかも文章もう
   まいし、絵もうまい。みんな絵が入っているんです。実感として、
   その人たちの感性の豊かさというか、平和ななかで感性を磨いて
   きた子どもたちの力というか、そういうものをすごく感じます。

河合 「感性」を磨くということは教育の世界でもよく言われます。そ
   れは、磨くべきであるし、磨けるものであると思っているんです
   ね。ところが面白いのは、「感性」という言葉をマイナスの意味
   に使う人がいるんですよ。「いまどきの若者は感性だけで動いて
   いる」と。「好き!嫌い!」で動いているからダメだ、とね。そ
   こでは、「論理的、理性的に思考できない」という意味で使われ
   ているわけです。

吉本 でも、大勢でいるとあまりのうるささに、「感性だけで動くな」
   って思います(笑)。彼らがいまいちばんかわいそうだなと思うの
   は、若いときはそういう感性やエネルギーがいっぱいあるけれど、
   それをどうしたらいいのかがわからないまま、だんだん大人にな
   ってエネルギーが減っていって、他のものが増えてくる。その過
   程で若い人は別の世代、たとえばおじいちゃんやおばあちゃんや
   近所のおばちゃんや、年上の他人でもなんでも、持っているもの
   を交換するといいと思うんです。エネルギーを若い人が与えて、
   上の世代が知恵を与えてって。でもいまはお互いに交換できる場
   っていうのが日本にはあんまりない。それが気の毒で。

河合 本当は、意見交換しないと面白くないわけですよ。いまの若い人
   たちは、いったいどのように誰とつながるのかが、すごく難しい
   時代なんじゃないですか。

吉本 若い人たちだけで固まっていますよね。そうなるとたぶん広がっ
   ていかないんだろうなと思う。

河合 せっかくの鋭い感性が、ものすごく形になりにくいんですよ、い
   まの時代は。

吉本 そうなんです。それで、誰も「こうしなさい」って言ってあげら
   れない。大人でさえも困ってますから、いま。核家族だし。私な
   ど、深刻さにかけては右に出るものはいないというぐらい深刻な
   はずなのに、いまの若い人はもっと深刻ですね、実際に話をする
   と。将来を憂えているし、不安もすごく持っている。「そんなに
   深刻じゃダメだよ」というぐらい素直だし、「そんなに深刻でど
   うする」というぐらい深刻で。でも、これがいまの時代。本当に
   深刻な時代なんだなと思う。

河合 大人が若い者の、いま言ったような実状をもっと知るべきでしょ
   うね。大人はちょっと安閑として、「我々は一生懸命やってきた
   けど、いまの若い人たちはいい加減にやっている」と単純に思っ
   ているわけでしょ。実際はそうじゃない。

吉本 彼らが混乱しているのは社会のせいで、子どもたちのせいじゃな
   いと思います。もし私が、いまの時代に中学生、高校生だったら、
   ああいうふうに考えるのは無理もないって、なんとなく気持ちが
   わかるので。すごい髪の毛にしたり、こんな厚いサンダルを履い
   たりでもしないとやってられないよって。



こんな風に、世代を超えた対話というのは、一つの外側にいる他者との
対話だと思うのだ。
なんでそんな事を思うかといえば、私のはりきゅう師という職業上、
かなり上の世代の人たちと接することが多いから。

これは一般論だけど、私たちはお年寄りという存在を、もう時代に取り
残された、介護すべき過去の人、という目で見がちである。

でもね、彼らは決して「おじいちゃん」「おばあちゃん」なんて曖昧な
存在ではなくて、ちゃんと個性があり、しかもその個性は、年輪を重ねた
分、際立っていると思うのだ。

だから例えば病院で、医療スタッフが、患者さんであるお年寄りに対して
「おじいちゃん」「おばあちゃん」と声をかけるよりは、ちゃんと「○○
さん」と、名前を呼んであげた方が、回復が早かったりするかもしれない。

それは、彼らに対して「おじいちゃん」と呼んでしまっている限り、
彼らは私たちの意識の外側の人間であり、彼らにとっては、自分の個性
を否定されたような気がするからかもしれない。

そうではなく、ちゃんと名前で呼んであげることで、初めてコミュニケーションの下地が出来上がるような気がするのだ。
そしてそれは、もしかすると今の子供たちも同様かもしれない。

それに、彼らとの対話自体が結構、面白いのである。
だって、私がまだ経験していないことを沢山経験してきた人たちで
あるわけだから。


そして、それは世代を超えた対話に限らない。
例えば、性別を超えた対話でも、それは変わらないと思う。

男女の性別を超えた対話、というとすぐに恋愛が思いつくと思うけど、
恋愛に限らず、例えば友達づきあいでもそれは変わらないと思うのだ。

私には女友達、といっても性的なニュアンスを含まない友達が沢山いる。
果たして、「男女の間に友情は成立するか」という永遠のテーマは置いといて、個人的な異性の友達を作るコツは、「ナイーブさを捨てて」つきあう事だと思う。

なぜなら、男女って、必ずしも同じ世界に属しているわけではなく、お互い外部の世界に属している人間であると思うからである。
そして、例えば恋人同士だったら、お互いに甘えあい、依存しあう関係
でも成立するけれど、異性の友達という関係では、そのお互いの違いを
乗り越えなければ、成立しにくいのかもしれない。

逆に言えば、自分の外部の世界にいる人間とつきあう、という事を何も
難しく考える必要はなく、異性と対話してみれば、自然と外の世界と
つきあうことになると思うのだ。

そこで大切になるのは、「自分の属する世界の言葉」が相手にそのまま
通用するとは思わないこと。
それはすなわち、
お互いに分かりあえないというのが前提にある、と言う事だと思うのだ。


でも、そのことについて何も悲観的にならなくてもいいと思う。


だって、逆に言えば、これから対話をしていくことでお互いの共通認識が
深まるかもしれない、という事を指すのだから。

ついでに言えば、
自分の属する世界でのみ通用する言葉以外の言葉を話すということは、
自分の属している世界が拡がっていく、という事でもあると思うのだ。

そしてそれは例えば、男女間に限らず、
外国人に対しても通用するし、そして例えばジェンダーを超えた人、
ゲイの人たちに対しても同じなんじゃないだろうか。

そう考えると、女性でオカマバーに行って癒される気になるのは、SEX
を意識せずに、自分の外側にいる人間と気楽に話せるから、なのかもしれ
ない。


そして、それは恋愛に関しても同様であると思う。

これはあくまで個人的な意見だけれど、
恋愛ほど、自分のナイーブさがプライオリティではなく、足かせになる
分野はない、と思うのだ。

だって、ナイーブなモテモテの男ってなんか嫌じゃないっすか?
内面ではなく、ルックスやら仕事やら収入やらで勝負してそうで。
<やっかみ入ってますけど。

あ、でもそのナイーブな一面が、女の人の母性本能を刺激したりするの
かもしれない。
稀だろうけど、二人でいるときだけは、幼稚言葉になっちゃったりとか。
そういうのが好きな女性もいるだろうし。
いや個人的には全然憧れないし、うらやましくもなんともないんだけど。

そういう極端な例?ではなくても、
自分が内心モテたいと思っているのに、何の努力もしない人とか。
何も努力していなくてもあなたがいいの、と言われることを一生夢見て
そうな人たちとか。

そういう人たちに限って、相手への想像力が欠けてしまっているような
気がしてしまうのだ。

恋愛に絡めた話では、ダビンチ'03年5月号で、藤田宜永が、こんなことを
言っている。


「オレ、男だから男の情けなさいっぱい見てるの。女性に申し訳ないと
いうくらい、いまヒドイね」

 藤田宜永さんは、育ちの良さや海外暮らしの経験もあって、根っから
のフェミニスト。だから現代の恋愛事情を俯瞰する視線も女性に同情的
で、おのずと"男の子が頑張んなきゃ"という方向になる。ネックは"傷つきたくない"という気持ちの裏返しである、自尊心の高さだと言う。それ
は現代の男女なら、みんな抱えるアキレス腱だという気もするが―。

「やっぱり女性は普通、待ちの姿勢でしょう。だから男の子がアタック
しないと恋は始まらない。でも1、2回蹴られると、諦めるのね。自尊
心は高いのに、気が弱い」
 欲しいものをゲットしようという欲望が衰えているのかなぁ、と首を
ひねる。(略)

「恋愛が流行らないのは、みんないま、保守的だからだと思う。情報を
集めすぎて、臆病になっている。もっと動物になって直感を信じたほう
がいいよ。"こういう男(や女)はやめましょう"みたいな先回りする情
報を仕入れると、カンって目減りするんだ。永遠の恋なんて誰も信じて
ない。でも"ない"と冷めているのも、かしこ過ぎる。胸が高鳴ったとき、
思い込みでどこまでバカになれるか。それが惚れる力であり、ひいては
生きる力だと思うな」


と、いうことで次回ようやく最終回。



2003年06月03日(火) ナイーブな人(16)

さて、長かったナイーブを巡る旅も、いよいよ終わりに近づいてきたと
思う。
だけど終わりに近づいてもなお、私の考えは、「では、どうしたらいい
のか」という、明確な答えを出すことはできないでいる。

でも、ありきたりな言い方をしてしまえば、こうした方がいいんだ、
なんて明確な答えは、ないのかもしれない。

それこそ、百年前、夏目漱石が「草枕」の冒頭で「智に働けば角が立つ
情に棹差せば流される」と語ったように「とかく人の世は難しい」もの
だとも思うから。


今までの話の流れで言えば、「ナイーブ」や「マッチョ」であることよりは、
「したたか」であることの方がいいんじゃないか、とも思うが、
では、「したたか」な人であれば、幸せなのか、と言われると何とも
いえないし。

前回の終わりに書いたように「騙す人」「騙される人」ではない、「騙されない人」を選択すればいいのか、と言われるとやはり、そうだと言い切る確信は無い。
なぜなら「騙されまい」として、身を固くして、頑なになることが、
必ずしもいいことだとも思わないからである。


結局今までの話を振り返ってみて、私が一番違和感を感じていたのは、
もしかすると、ナイーブな人やマッチョな人の、「無知ゆえの頑なさ」
だと、いえるかもしれない。

「無知ゆえの頑なさ」は、「頑固さ」とはちょっと違うかもしれない。
要は、「自分の外側にあるものに対しての、想像力の欠如」だといえる
ような気がするのだ。

それは、必ずしもある特定の知識が豊富であればいい、という事では
無い。
それは例えば、受験の勝ち組である、東大出身のエリートさんたちが、
全て人間として魅力があるのか、という事でもあるかもしれない。
もちろん、人間的に魅力的な東大出身者も沢山いると思うけど。

そうではなく、いかにこの複雑な現代を生き抜いていくための「知恵」を
持っているか、という事の方が重要なんじゃないかな、と思うのだ。

そしてそう思うとき、時として「無知ゆえの頑迷さ」におちいりやすい、ナイーブな人に一番足りないのは、「自分の外側にあるものに対しての、想像力」であるような気がするのだ。


それでは、一体、どうすればいいんだろうか。


そのためには、結局、外の世界と触れ合う、という事が大切なんじゃない
だろうか。

自分の属する内側の世界では、もしもそれが許されるのであれば、ナイーブなまま、で過ごしても全然、構わない。
むしろ、自分が無防備にナイーブな一面を出せる場所は、それがどこであれ、あなたにとってはかけがえのない内側だろうと思うのだ。

でも、それとは別に、外の世界に向ける目を持つことは、その人の「異物を取り込む力」を活性化させると思うのだ。


本当は、ここに引用するつもりは無かったんだけど、鴻上尚史は、現在発売中のSPA!6/11号の「ドンキホーテのピアス」の中でこう書いている。


 そして、こういう言い方は道徳的に響く危険があって嫌なんですが、
人間が成長し、成熟するのは、結局、「どれくらい"他者"とつきあった
か?」しかないのです。

 それは、「面白いのは」と言い換えてもいいです。あなたが本当に面
白いと感じるのは、「"他者"とつきあった時」だけなのです。

 "他人"の友達や恋人は、やがて、飽きます。それは一緒にいる切実な
理由がないからです。あなたを本当に刺激するのは"他者"だけなのです。



それでは、一体、私たちはどのように他者とつきあえばいいんだろうか?
と、いうことで次回。



2003年06月02日(月) ナイーブな人(15)したたかさ

いきなりだが、今週発売されたばかりのの雑誌SPA! 6/10号の、鴻上尚史が連載中のエッセイ「ドンキホーテのピアス」で、ネット自殺者について触れている内容が面白い。

偶然、この連載?と内容がかぶっているように思う部分があるのだ。
現在発売中の雑誌という事もあり、大きな引用は避けるけれど、このエッセイの中で鴻上尚史は、「家庭が息が詰まる場所になったのは、『家庭だけが異文化という場所』になったからです」と指摘している。

そしてその上で、「他者」と「他人」の違いについて触れ、
「そして、分かりあってないんだけど、あなたが分かりあいたいと熱望したら、それは"他人"ではなく、"他者"と呼ばれる存在になります。

"他者"は、『理解したいんだけど、理解できない』と同時に『理解したくないんだけど、理解しないといけない』存在のことです」
と定義づけて
いるんだけど、この定義づけが、なんか納得できるというか。

その上で鴻上尚史はある一つの結論を出しているんだけど、これは雑誌を手にとって見てくださいまし。
たまたま手にとって読んだんだけど、ちょっと自分の喉に刺さった魚の
骨が取れたような、すっきりした感じだった。


という事で、前回の続き。
それでは、「ナイーブ」でも「マッチョ」でもない選択肢とは一体どんなものなのか。

その内の一つは、「したたかさ」かもしれない。

それは例えば、「エリートサラリーマン」でも「キャリアウーマン」でも
ない第3の道、「事務職OL」の道といえるかもしれない。

これはどういうことか?

それは「ナイーブなまま」生きるのではなく、かといってナイーブさを否定して「マッチョ」に生きるわけでもなく、自分をちゃんと養ってくれそうな人を「したたかに」見極める人たちのことである。

ある意味、自分がナイーブなままで生きられる環境を選択していくという
意味では、ナイーブな人の変形ではあるけれど、「賢い」ナイーブな人、
と言えるのかもしれない。

旦那が多少ナイーブだろうがなんだろうが、ちゃんと養ってくれるなら、
文句なし。「亭主元気で留守がいい」んだから。

で、ナイーブな亭主にしたって、そんな風に自分を気持ちよく手のひらの
上で転がしてくれる人だったら、自分もナイーブなままでいられるわけだし、何の問題もなし。
嫌な問題は別に気にしなきゃいいだけだし。

こう書いてみると、「ナイーブな人」と「したたかな人」というのは、
すごく相互に補完しあっているナイスなカップルなのかもしれない。


「したたかな人」が「ナイーブな人」を上回っているのは、その見極める目だろう。
すなわち、自分をちゃんと養ってくれないなら、もしかすると平気で相手を捨てられるのかもしれない。

例えば、イメージ上の神田うの、のような人。イメージ上の、と断ったのは、本人が実際どうなのかは知らないし。
本当に情が絡まず、ドライに捨てられる人が、いるのかどうかはわからないけれど。

ついでに想像を拡げてしまえば、「したたかな人」に選ばれるのは、「ナイーブな」人だろうが、「マッチョな」人だろうが、別に構わない。
ちゃんと自分を養ってくれるのが前提になっているから、「養ってくれない」ナイーブな人にも、マッチョな人にも興味は示さなかったりするのかもしれない。

以上の話はあくまで私の想像である。
で、ここにあげた「したたかな人」に対しての印象は悪いかもしれない。

でも、逆に言えば、自分が生き抜いていく上での知恵がちゃんと備わった人、という意味でもあると思う。


そしてそれは何も事務職OLの恋愛話だけではない。
いろんな意味で「したたかな面」を持つ人はいっぱいいると思うのだ。

例えば、ビジネスでちゃんと成功をおさめている実業家は、少なくとも
ビジネスの世界では「したたか」だろう。
また、ついこの前も不用意な発言をして謝罪をした、麻生太郎のように
時としてナイーブな振る舞いをしてしまう二世三世議員だって、自分の
地盤を守るためだったら、相当「したたかに」抵抗をすると思うのだ。


昨年、公開された映画で、窪塚洋介自らが企画を持ち込んだ作品で、
「凶気の桜」という映画がある。

香山リカと福田和也の対談本 「愛国問答」の中でも取り上げられていて、
香山リカはこの作品と窪塚洋介の発言について、ナショナリズムの台頭を
危惧する発言をしている。


だけど、少なくともこの原作自体の意図は別のところにあるような気がするのだ。

物語の冒頭、ネオナチズムをもじった「ネオトージョー」を名乗り、ナショナリストの名の下に暴れまくる彼らの姿は、マッチョでありながら、とてもナイーブなものに映る。

しかしながら彼らのマッチョな行動は、段々と周囲のしたたかな、ヤクザや殺し屋たちに取り込まれ、自分達のナイーブさ故にそれぞれ挫折を経験してしまう。

すなわち、彼らがどんなに声高に自分達の主義主張をしても、ナイーブなままでは、大人たちの世界では通用しないよ、という事を言いたかったんじゃないのかな。


それは、もう一つ映画ネタ?で言えば、馳星周原作の「不夜城」の中で
主人公が言った、「世の中には2種類の人間しかいない。騙す人間と、
騙される人間だけだ」という言葉のように、ナイーブやマッチョでは
結局したたかな人たちにいいようにされるだけ、なのかもしれない。

それでは、「騙さないけど騙されない」存在でいようとするには果たして
どうすればいいんだろうか。
という事で次回。



2003年06月01日(日) ナイーブな人(14)マッチョ

今回も前回の続き。
それでは、私たちは自分の内側にもあるかもしれないナイーブさを、単に否定すればいいのだろうか?

ここで、ナイーブの対極にあるものについて考えてみる。

ナイーブの対極に位置するもの、それは「マッチョ」な思想といえるかも
しれない。
マッチョを広辞苑で引いてみると、
「男っぽいさま、特に外面的な体型、筋肉などについていう」とある。

例えば、50年前の終戦直後、人々がナイーブであることにあまり価値を置かなかった時代。
「マッチョ」さは時代の精神であったろうし、それは少なくとも20年前の金八先生の時代までは継続していたものだと思う。

実際、その頃ひ弱な少年時代を過ごしていた私は、ひ弱さ故に結構バカにされたことがあったし。
また、その頃の人気のTV子供ドラマは、「あばれはっちゃく」というガキ大将の物語であったし、またかつてのハムのCMで、「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」というキャッチコピーが時代を表わしていたように思うのだ。

現代でもマッチョな人は様々な場所にいると思う。
例えば、いわゆるガテン系な人や、各種の職人気質の人にはマッチョな人が多いと思う。

また、前にも触れた「キャリアウーマン」、いわゆる男性と伍して仕事をこなす人の中には、少なからず男勝りな「マッチョ」な女の人って、多いんじゃないかな、と思うのだ。

彼らがマッチョである理由。
それは、彼らが必ずしも庇護社会の内側には属してこなかったという事があげられるかもしれない。
そしてそれは例えば、在日外国人の人々にも当てはまるかもしれない。


ここで、いきなり話を恋愛にふってみる。

例えば、庇護社会にどっぷり浸かっているだけのナイーブな人、というのが本当にいたとして(例えばマザコンとか?)、その人と、マッチョな人との恋愛って、果たしてうまくいくんだろうか、という問題である。

例えば、規制業種のエリートサラリーマンや、キャリア官僚と、女性総合職のキャリアOLの組み合わせ。

もちろん、当人同士の相性によるところが多いだろうと思うし、実際に
うまくいっているカップルも多いだろうと思うけど。
でも、あくまで想像の範疇で言えば、あまりうまくはいかない気がするのだ。

なぜなら、お互いの属する世界というか、世界の認識の仕方が違いそうな気がするから。
もちろん、どちらかがどちらかの世界に合わせればいいだけの話なのかもしれないけれど。

あくまで想像の範囲で言えば、だから「ナイーブな」エリートサラリーマンは、「マッチョ」な女性総合職よりは、より自分の世界に近いかもしれない「事務職」OLを選んでいくような気がする。

これが本当か嘘なのかは知らないけれど、同じ会社の同じ世界に属している事務職OLが花嫁候補として会社に就職していた、というフォークロア?があるのももしかするとそんな理由なのかもしれない。

ついでに想像力の翼を更に拡げてしまえば、かつて家柄にこだわっていたというのは、自分達の「ナイーブでいられる」環境を守る上で、マッチョな人たちが入り込むのを避けようとするあまりに、まだ世間も何も知らない「箱入り娘」がもてはやされたんじゃないだろうか。


さて、それではこの世界には「ナイーブ」と「マッチョ」しか選択肢はなく、「ナイーブ」を捨てた人は否応なく「マッチョ」を選択しなければならないのだろうか?

いや、実は選択肢は、まだ他にもあると思うのだ。
という事で次回。


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