パラダイムチェンジ

2003年07月31日(木) 「神田川」の歌詞がこわかったわけ

ちょっと前の、ほぼ日刊イトイ新聞で、作家の川上弘美と、糸井重里の
対談があった。

その中で、かぐや姫の名曲、神田川の歌詞の話が出てくる。
「ただ〜 あなたのやさしさが〜 こ〜わかった〜」の部分である。
その歌詞の意味について、糸井重里が説明している部分が面白い。

詳しくはリンク先を参照してもらうとして、その部分だけ引用すると、


糸井 男の子たちはバカだから、
ゲームとしての性というのを考えざるを得ない。
つまり、技術の性というのを
考えざるを得ない時期があるんですね。(略)

「もっとうまくなりたい」とか考える。
それを止めてくれる人は、いないんですね。

川上 そうですね。

糸井 実際は、「そんなことしてても、しょうがないや」
と思って飽きて止めるまで、
技術の追求が続いてしまうんです。

ただ、
性の技術の追求と、
「添い遂げる」ということは、
矛盾するんですね。

ある女性を好きになって、
この人をどうやって喜ばせようかということを、
花束であり、プレゼントであり、
様々なやさしさであり、性的技巧であり、と、
どんなにてんこ盛りしてても、
てんこ盛りにすればするほど、
「この人は私を他者として扱っているから、
  添い遂げないんだ」という……。

川上 それがこわいんだ。(略)



この話、前回の「湾岸ミッドナイト」27巻の高木社長の話と絡めると
個人的にはもっとわかりやすくなる気がする。

すなわち、
うちの工場には高価な車が入ってくる。
だがオーナーの充足度は驚くほど低い。

それは高価の見返りを車そのものに求めるからだ。
新しい高級車は次々と出るし、いくら追ってもキリがない。

得るべきものはそれとは違う他のモノからくるものなんだ。
わからないから充足を求めていつまでも車を買い換える。



結局、性の技術なり技巧を追求する限り、そしてそれに自分が長じている
と思う限り、その追求はやむ事はないし、また、結局それが見返りと
いえるのかはわからないけれど、新しく魅力的な相手が目に入ってくる
限り、目移りし続けて、結局充分に満足する事はないのかもしれない。


でも、それと「添い遂げる」というか、相手とずーっと一緒にいる、と
決意する事は、糸井重里の言うように、結局別のことなのかもしれない。

結局、それはその人の覚悟と言うか、意思の力で表わされるものなのかも
しれないなあ、と思うのだ。


でね、ちょっと前までの私は、結構、性の、というかモテる為の技巧を
駆使する人間を、恥ずかしながらも目指していたよなあ、と思うのだ。

つまり、よりよい女の子にモテる為には、自分自身を磨く事も大事だけど
それ以上に、駆け引きと言うか、テクニックの部分を磨かなきゃなあ、と
思っていたと言うか。

いやもちろん、恋愛の中には駆け引きの部分もあるし、そのためには
ある程度のテクニックも必要だと思うんだけど。

だけど、そこで本末転倒、というかそういうテクニック優先の生き方を
してしまうと、変な話、釣った魚にえさはやらない、じゃないけれど
絶えず新しいものを追いかける事に精力を注ぐ事になってしまうのかも
しれない。

一般的に、男は浮気をする生き物である、といわれているのは、こういう
男のサガのような習性?を表わしているのかもしれない。

でも糸井重里の言うように、その事と「添い遂げる」という事は、矛盾を
したりもする。


で、ここで二つの選択肢が思い浮かぶのだ。
一つは男としての色気を失わないために、浮気は男の甲斐性、とばかりに
性の技術の追求をしていく道を選ぶのか、

それとも、
あくまで「添い遂げる」という事を主にして、その性の追求をやめるのか
という二つの選択肢が。

これはここで答えの出る問題でもないだろう。
その人の生き方のスタンスによって決まる話だと思うし。

女性だって、いや相手が浮気してもいいから男の色気を失わないで欲しい
という人だっているだろうし、その逆で、浮気でなくてもこの人がどこか
へ行ってしまうような不安感のある相手とは付き合えない、と言う人も
いるだろうし。
なんか叶姉妹みたいな好対照な話だけど。


でも、そこで私はこうも思うのだ。
添い遂げる、という事を選択してなおかつ、男の、というかある種の
色気を失わない方法だってあるんじゃないのかな、と。
まあ、欲張りな話だったりもするわけですが。

で、この事についてはまだ、私の中でも答えは出ていない。
今後も多分、考え続けていくと思う。


でも、もしかしたらヒントになるかもしれない話が、やはり「湾岸ミッド
ナイト」27巻の中にある。
それは、主人公アキオが、あなたはどんなタイプの人を好きになるの?
と聞かれて答えた台詞。


―まあ、スキってゆーか…その…
これからもそばにいてほしい、そうおもうコはいますヨ
できれば、ずっとってカンジで

今、僕の周りにいろんな人がまあ、いて(略)
できればいつまでもいっしょにいたいと思いますヨ
でも、それはムリですよね、きっと

学校は卒業するし、バイトもいつかヤメる
そしてみんなの状況も変わるだろうし
今は当たり前に会えるコトが当たり前でなくなるとゆーか

人は変わると思うんですよ、その心とかじゃなくて…
おかれる状況とゆーか、そーいうのが

かわっていくのが当然のその中で、それでも変わらずいてほしい
それって強い気持ちでなきゃムリだと思うんですヨ

いつまでも会っていたいと、またいつでも会える
それはやっぱり違いますよね

今は同じに見えるかもしれないけれど、
先にいくほどその差は大きいと思うんですヨ(略)

教えられたんですヨ
かわらぬ状況を望むなら、それはお前の気持ちだけ
人も、そして他のコトもすべてお前しだい
それだけだろうって



うん、できれば私もそんな強い気持ちを持つ人間でいたいと思う。
そしてもしも、その気持ちを持つ事が出来たのなら、
「こわくないやさしさ」を持てる人間になるにはどうすればいいのか、
そのうちに見えてくるのかも、しれない。



2003年07月30日(水) 湾岸ミッドナイト27巻 見返りを求めないこと

前回「トーク・トゥ・ハー」の日記の中でも触れた、見返りを求めない愛、
についてちょっと考えてみる。


考えるきっかけになったのは、漫画「湾岸ミッドナイト」27巻のこんな
台詞(フキダシ?)から。


―覚えとけ。見返りを求めたら大事なコトは手に入らない。
人の気持ちもそして車もだ。そこがポイントだろうナ。

かけたコスト(代償)を車から回収しようとしても、それは無理だ。
できるワケがない―(略)

お前はあのZから何か見返りを求めているか?
払ったコストやリターンのリスクを考えているか?

考えてはいないよナ。
ただあの車で走りたい。それだけだろ(略)

元を取ろうとか何かを回収しようとか思ったとたん、あの車との絶妙な
バランス感は崩れる。

向こうが変わるんじゃないんだゼ。お前がだ―

見返りを求めたとたん、むこうに対するお前の何かが少し変わる。
その少しが大きく何かをかえていくんだ。

たまたまや偶然じゃあないんだ(略)

このRに対する接し方を見てもわかる。
今のお前には車に対する無償の愛がある。
それは強いよ(略)

ここまでやったからここまでの見返りがあって当然。
思ったとたん自分の中で何かが崩れる(略)

見返りを求めるほど気持ちはむくわれない。
人も車もきっと他のコトもすべて

うちの工場には高価な車が入ってくる。
だがオーナーの充足度は驚くほど低い。

それは高価の見返りを車そのものに求めるからだ。
新しい高級車は次々と出るし、いくら追ってもキリがない。

得るべきものはそれとは違う他のモノからくるものなんだ。
わからないから充足を求めていつまでも車を買い換える。

払った代償で得られるモノはちがうモノから―



これはライバルのスカイラインGT-Rを修理する為に借りた、修理工場の
オーナー、高木が主人公、アキオに言った台詞である。

と言っても、読んだことがなくて車に興味のない人には全然わからない
っすよね。


なので、ちょっと概要を説明しておく。
「湾岸ミッドナイト」は、首都高、湾岸高速道路で改造した車を300
キロで飛ばしてバトルをする漫画である。

で、主人公アキオは、自らも意志を持つかのような走りをする、と言わ
れる初期型のフェアレディZ、通称「悪魔のZ」を運転する。

そして、その「悪魔のZ」に魅せられ、またその悪魔のZにバトルで勝つ
為に、周囲に様々な人々、車が集まり、終わりのないバトルを繰り広げて
いく、という漫画なのだ。

なんて書くと、非合法の行為を煽り、助長するだけの問題漫画、のように
聞こえるかもしれない。


でも、私にとってこの漫画の魅力は、非合法なバトルにあるのではない。
この漫画、ある意味では、恋愛漫画だと思うんである。

すなわち、主人公がなかなか自分の思い通りにならない、自分の車と
いかに付き合うか、という事を通して、人や車に限らず、対象に対する
恋愛感情の距離のとり方を考えさせられる漫画なのだ。

例えば、今回の高木社長の台詞。
これは、車に対する愛情の持ち方の話だけど、これをそのまま人間に
あてはめても、そんなにおかしくはないと思う。

つまり、自分が愛した相手に対して、見返りをそのまま求めようとしても
それはかえってこない、という一種の恋愛哲学としても充分通用すると
思うんだよね。

で、そういう目でこの漫画を読み直してみると、そんな風に思わずメモ
したくなるような台詞が沢山あるのだ。


と、言うことで今回の台詞。
前回取り上げた、ベニグノ君の恋愛を今回の話にあてはめてみる。

そうすると、やっぱりベニグノ君は、どこか無償の愛に対して、見返りを
求めようとしていたんじゃないのかな、と思うのだ。
それは一般的には、下心、という。

でね、人が下心を持ったとたん、今まではなんともなかった関係がギク
シャクすることって、多々あると思う。

でも、それを今回の話にあてはめてみると、結局下心を抱くことで変わる
のは、相手の態度じゃなくて、自分の心だと言えるかもしれない。

すなわち、自分のした事に対する代償をそのまま求める限り、例え
リターンがあったとしても、それでは人は満足できなくなってしまうの
かも、しれない。
つまり、もっと多くのリターンを求めてしまうというか。

でもね、無償の愛、見返りを求めない愛だと言っても、そこにはちゃんと
代償として受け取るものはあると思うんだよね。
それは下心を通して見ると、あまり満足のいくものではないのかもしれ
ないけれど。

でも、それはその人が、見返りを求めずに行なった行為に対する、正当な
代償なんじゃないかな、と思うのだ。


それはベニグノ君と同じく、医療機関で働いている者としてそう思う。
すなわち、普段の私たちは、別に見返りがほしくて医療行為や看護を
している訳ではない。
いや、もちろん中にはそうではない人もいるかもしれないけれど。


自分の例でいうと、まだ病院で働き出して間もない頃、一人の女の子の
リハビリの担当になったことがある。
その子は自分の母校の後輩だったこともあって、話も弾み、そして何より
可愛い子だったから、リハビリをしているこっちも楽しい時間を過ごす事
ができていた。

で、個人的には、恋心とまでは言わなくても、ちょっと感情移入をしたく
なった部分もあったんだけど、結局その場では何も起こらなかった。

なぜなら、例えばそういう恋心に対する見返りは、仕事以外の所で求める
ものだろうと思っていたからである。
で、結局その時は何もなかったんだけど、もしも何かのきっかけで外で
会う事があったとしたら、もしかすると恋が始まったかもしれない。

でも、それは医療スタッフと患者という関係ではなく、ただの男と女、
という関係で始まるものだと思うのだ。

で、結局その時は、私の見返りを求めない?医療行為へのリターンとして
彼女からは、ヨックモックのクッキーという、報酬以外の好意をいただく
ことになった。

余談ながらそのクッキーを何も知らない同僚が先に開けて食べているのを
見たとき、ちょっと複雑な気持ちになったりもしたんだけれど。
まあ、ある種の嫉妬ですな(笑)。

あ、でもやっぱりそのクッキーは、大事に食べたので、ちょっと
美味しかったです。


なんか話が思わぬ方向に行ったので、今回はこの辺で。




2003年07月27日(日) 「トーク・トゥ・ハー」

今回のネタは映画「トーク・トゥ・ハー」

外国映画ながら今年のアカデミー賞脚本賞を受賞し、TVCMで、おすぎが
1時間泣いたというこの映画。
考えてみたら今年のアカデミー賞受賞作品は「戦場のピアニスト」以外
ほとんど網羅しているんだった。

さて、いつもどおり一言でいうと、「私は残念ながら?泣けなかったけど
1本の映画としては、とてもよく出来た映画」だと思う。

何故、私が泣けなかったのか、についてはネタばれも含むので後で書くが
一つの理由は、主人公の一人に感情移入できなかった事があると思う。


この映画、個人的な印象でいえば「一方通行の愛」がテーマだと思う。

この映画、二人の男と二人の女性が登場する。
女性は、バレリーナのアリシアと女闘牛士のリディア。

二人の女性は、それぞれ不幸な事故に遭ってしまい、意識不明のまま
病院で眠り続けている。
いわば現代版、「スリーピング・ビューティー」。

男の一人は、女闘牛士の恋人である、ライターのマルコ。
彼は、リディアが眠りつつづける病院で、一人の男に出会う。

それが看護士のベニグノ。
彼は、アリシアが事故に遭う前から彼女のことを見初め、そして彼女が
事故に遭ったことを知って以来、4年間、彼女の髪を切ったり、マッサ
ージしたり、至れり尽くせりの世話をし続けている。

ベニグノは、マルコにこう言う。
「彼女に話しかけるんだ。女性の脳は神秘的だから」と。

事実、彼は仕事から離れる平日の午後、見てきた映画やバレエの話を
彼女に語り続けている。
まるで、彼女がそこで目覚めて聞いているかのように。

そして、似た境遇にある男二人は、いつしか友情を芽生えさせていく。


これは現実にも起こりうる話で、ちょっと前のTV「アンビリーバボー」で
16年間意識不明だった女性が目を覚ましたという話をやっていた。

で、個人的には、そういう奇跡的な事は起こりうると思うし、その為には
ベニグノの言うように、献身的な介護をしたり、実際に話しかける事は
大切なことだと思う。

でも、じゃあ、逆に献身的な介護をしたから、必ずその患者さんが目覚め
る訳ではない。
偶然、奇跡的な瞬間が訪れるのを待つしかないと思う。

でね、ベニグノの行なった看護は、そりゃあもう、献身的な愛だと思うし
その結果に関しては、ある意味で愛の奇蹟、というか結晶だとも思うんだ
けど、でも、それって愛なのかな、とも思うのだ。


ベニグノが、彼女に恋していたことは、わかる。
でもそれは、恋愛と呼ぶには、あまりに幼稚な恋、なんじゃないのかな、
と思うのだ。

彼が彼女のことを一人で看護しているシーン。
眠ったまま、彼の前で裸体をさらしているアリシアの姿は、その美しさ
も加わって、献身的な愛というよりは、まるで「春琴抄」のような、
谷崎文学的なエロティシズムを感じてしまうのだ。

ベニグノにとって、この4年間ほど幸せな時間はなかっただろう。
だって、彼が秘かに思う恋心は誰にも踏みにじられず、傷つけられること
なく、彼女と共にあったのだから。

でも極端な話、彼にしてみれば、彼女がこの先目覚めることがなかった
としても、いやむしろ目覚めない方がよかったのかもしれない。
なぜなら、彼女が目覚めない限り、ずーっと一緒にいられたのだから。


でもね、これって、一方通行の感情ではあっても、恋愛じゃないと思う
のだ。
自分の思い通りになると言う意味では、彼にとってはこれ以上はない関係
なのかもしれないけれど。

個人的には、恋愛って、二人の感情がぶつかるというか合わさってこそ
育つものだと思うし、だからこそ思いがけないものなんだと思うし。

でも、ベニグノ君には、そういう恋愛を育てていこうという姿勢は見えて
来ないんだよね。

彼がどんなに痛切に彼女のことを考えたとしても、それが独りよがりな
ものである限り、それは恋愛にはならないんじゃないのかな。


ベニグノとアリシアは、あるアクシデントをきっかけとして、引き離され
てしまう。

でも、ここで私はこう思うのだ。
もし、引き離される前に、アリシアが目を覚ましたとしたら、二人の関係
は一体どうなったんだろうと。

小説だったら、ここから更にまたひとつの葛藤が生まれ、そしてもう一つ
の物語が生まれていくのかもしれないが。

この映画では、ある意味で映画的な結末を迎えることになる。
そして、この映画の主題かもしれない「一方通行の恋」は幕を閉じる。


(以下ネタばれ?につき、見たい人だけ要ドラッグで反転)
結局、アリシアと引き離されたベニグノは、アリシアが目を覚ました事を
知らないまま、死を選ぶ。

でも、彼にとっては、死または意識不明の状態を選ぶことこそが、自分の
恋愛を完成させる一つの必然的な手段だったんじゃないだろうか。

だって、死んでしまえば、彼の思い、は非難されることも踏みにじられる
事もなく、彼女への思いと共にあり続けるのだから。
でもね、そうしなければかなえられなかった、彼女への完璧な愛情って
あまりに観念的であるが故に脆弱すぎると思うんだよね。

でも、つくづく、今度は彼が眠り続けて、それをマルコが看病し続ける
という話にならなくてよかったよ。



だから、この映画、二つの愛に関する感情がごっちゃになっていると
思うんだよね。
看護(介護)をする立場での、相手への献身的な愛情と、ベニグノ個人の
彼女に対する一方的な恋愛感情と。

で、恋愛経験がない時って、しばしばこの二つの感情をごっちゃにしちゃ
う事って、あると思うのだ。

でも、前者の愛が、いわゆる見返りを求めない愛だとして、前者の愛を
受け入れたからといって、後者の個人的な欲望まで受け入れなきゃいけ
ない訳ではないと思うのだ。

むしろ、本当に彼女と恋に落ちたいんだったら、正々堂々と勝負して
みろよ、って気がどうしてもしてしまうんである。

で、私がこの映画で泣けなかった理由の一つは、そんなこの恋が特別に
美しいものではなく、恋愛感情が一方通行で終わってしまうことの方が
ありふれているような気がしちゃうからかもしれない。

逆にいえば、だからこそちょっとでも気持ちが通じた時のうれしさったら
ないんだと思うんだけど。


と、まあ個人的な気持ちは別として、この映画、とても完成度が高い
と思う。

映画の冒頭と最後に舞踏家ビナ・バウシュのダンスシーンがあり、
その次に、眠れる美女、アリシアの、美しすぎる寝姿が続き、
そして、女闘牛士リディアの、緊迫感あふれる闘牛のシーンがくる。

生と死、静と動の対比が素晴らしいと思うのだ。

それは、目覚めた後のアリシアを見てもそう思う。
それがいかに美しい寝姿であったとしても、やはり目を開け、表情を
持つ人の姿の方が、それがたとえ不自由な身体であったとしても、
何十倍も美しいと思うのだ。

アカデミー脚本賞をとるだけあって、脚本がとにかく、しっかりして
いると思うし。

音楽も映像にマッチしてとてもよかったので、その後でサントラ衝動買い
しちゃったし。


見に行った映画館は、新宿タカシマヤのある、タイムズスクエア内の
テアトルスクエア。

ここは元、IMAXシアターであった関係で、通常よりも縦に広いスクリーン
を、本当に間近で見ることが出来るので、最後列にいても、画面が近く
感じる映画館である。

んで、その巨大スクリーンいっぱいに映る、裸体と割れ目(謎)。
迫力ありすぎでしたわ。


以下、再びネタばれ
映画の最後、ビナ・バウシュの舞台で、マルコとアリシアはばったりと
出会ってしまう。

出会ったマルコは、アリシアに一体何を伝えた(Talk to her)のだろうか。



2003年07月26日(土) ホームページ

今現在、仕事場のWEBSITEを更新すべく頑張っている。
今までも、実はWEBSITEを作っていたんだけど、ロクに更新をせずに
そのままほったらかしになっていたわけですな。

ただ、それだとやっぱりまずかろうという事で、頑張っているんだけど
仕事上の内容を含むだけに、なかなか簡単にはまとまらないのである。

この日記?みたいに、あまりいい加減な事は書けないし、かといって、
凝ったことをしようと思うと、絵も欲しいよなあ、なんてないものねだり
?が始まってしまうのだ。

うーん、悩みは尽きないのである。

だからという訳ではないが、個人用のWEBSITE、いわゆるHPを作ってみた。

とりあえずは日記と、過去に撮った写真なんかを展示しておくけど、
もしかしたら、そのうち料理ページなんてのも作るかもしれない。

で、個人用ウェブサイトを作るうえで、ちょっと素朴な疑問が出てきたり
する。

自分のサイトなんだから、ホームページと呼んでいいんだと思うんだけど
そもそもホームページとウェブサイトの呼び方の違いってなんなんだろ?

何となく、ホームページと言ってしまうほうが、初心者っぽい気がする
ので、ちょっと格好つけて、ウェブサイトと呼んだりしているんだけど、
これって、正式な呼称とかってあるのかな?

まあ、あろうがなかろうが、おそらくは好きに呼ぶと思うんだけど。


で、もう一つの深刻な?悩み。
それが、BBS。

とりあえず、ホームページ?ウェブサイト?だったら、BBSの一つも
つけるのが礼儀だとは思うんだが、じゃあ、そのBBSに皆書き込みを
するのか?という疑問もあるし、例えば日記の内容に関連して
ツッコミが入ったらどうしよう?という心配もある。

いや、別にBBSはBBSで盛り上がって構わないんだけど、これだけとりとめ
のない話題で、果たしてBBSでの話が盛り上がるんだろうか、という疑問
?心配?があるわけだ。
何か、一つの話題に集約する形だと、皆レスを打ちやすくて、盛り上がっ
ていくんだと思うんだが。


で、もう一つ、BBSに関する素朴な疑問は、じゃあ、ゲストブックと、BBS
ってどう違うんだろう?
で、ゲストブックと、BBSが両方ついているサイトの場合は、一体どっち
に書き込めばいいんだろう?
なんて、迷ってみた事はありませんか?>おおる。


ま、などとひとしきり悩んではみたものの、結局その辺あいまいって事で
BBSという名前で掲示板をつけてみた。

まあ、ゲストブック的役割の掲示板って事で。
誰も書き込まなかったら、自然消滅させればいい訳だし(笑)。

でもね、ネット上ではない人間関係の人が、ネット上でハンドルネーム
をわざわざ作って書き込みするっていうのも、結構最初は労力?のいる
事だと思うんだよね。

当たり前のように書きこみし慣れた人にとっては何でもない事だと
思うんだけど。

なので、もしもよかったら、個人サイトにも訪れてやって、書き込みも
一つでも残してやってくださいまし。



2003年07月22日(火) テキトーでいいかげん2

さて、前回の脚本家の君塚良一の発言、どこで拾ったんだろう、と思い、
本棚を探っていたら、どうやら「テレビ大捜査線」の中の発言だった。

「踊る大捜査線」に限らず、メイキング・オブ・TV脚本なこの本、
読み返してみると結構面白い。

「踊る〜」関連の話で言えば、TVドラマOA当時、視聴率が上がらなかった
時のために、第4話までは、恋愛の伏線が張られていて、水野美紀演じる
雪乃は、織田裕二演じる青島刑事の恋の相手として用意されていたのが、
その後の路線変更で、警官を目指す話に変わったりとか、また同じく室井
管理官と恩田すみれの恋の話が用意されていたとか。

また、前回の映画のマスコミ向け製作発表の時、あまり記者たちが集まら
ないことに腹を立てたプロデューサーの亀山千広が、「映画のテーマは
愛と死です」といきなりぶち上げたため、当初の予定にはなかった青島
刑事のあわや?殉職シーンが入ったらしいとか。

ちなみに今回のサブタイトル「レインボーブリッジを封鎖せよ」も同じく
亀山プロデューサーが、「昔の娯楽映画みたいでいいですよね」と言った
ために、当初の予定になかった、レインボーブリッジ封鎖シーンが付け
加えられたらしい。

これは思わず買ってしまった、「踊る大捜査線 The Movie2−レインボ
ーブリッジを封鎖せよ−完全調書」
の中にあった。

この本、今回出版された舞台裏本の中では、スタッフ、各キャストたちの
インタビューが載っており、各人の思い入れが伝わってくるので、個人的
には結構オススメである。


で、話を君塚良一著、「テレビ大捜査線」に戻すと、この本の別の箇所に
ちょっと、おおっと思った部分があったので引用しておく。

突如、脚本が1行も書けなくなった著者、君塚良一に対して、一緒に飲ん
でいた先輩がこう言う。

「適当に書きゃいいんだよ」

一瞬ムカッとした。あ、そうか、やっぱりこの人もわかってくれない。(略)
すると、彼はこういうのである。

「お前、適当って言葉がどういう意味だか知っているのか?」
「そのくらい知ってますよ。手を抜いて、まあ、そこそこに」
「ちがうな」
「?」

「お前は今、人に誉められたいと思っている。世間の評判ばかり気に
してる。肩に力が入ってんだよ。それで、いいのなんか書けるわけない
だろ。野球だって、肩に力が入ってたら、いいスイングなんてできない
だろが。適当って言葉は悪い言葉じゃない。自分にとって、ほどよい力
って意味だ。力まずに自然のままの自分を出せば、いちばんいいものが
生まれるんだ」

びっくりした。そんな発想は私の中になかった。(略)

いつからか人は、親や学校や会社から自分の能力以上のものを求められ
るようになった。人はいつも緊張し、我を忘れ、無駄な力を込めて無理な
背伸びを始めた。そうしない者は駄目な人間と呼ばれる。あいつは適当で
いい加減なやつだと。

S氏の話は続く。
「適当に、いい加減に仕事をするっていうことは大切なんだぞ。無理し
たり、かっこつけたりしたら、自分を見失って本来の力も出せなくなって
いい仕事なんかできない」

彼の言葉で、わたしの肩に乗っていた大きく重いものが、はがれるよう
に落ちた。(略)



と、まあ以前も取り上げた私の人生のモットーの一つである、「テキトー
でいいかげん」
の境地についての文章なんだけど、読んでてちょっと
うれしくなったので、ここでちょっとご紹介しておく。

うん、結局いいパフォーマンスを生み出すためには、適当にリラックス
することが大切なんだと思うのだ。

それはいくら「根性出せ」と言われたからって出るもんでもないと思うし。
そんな風にプレッシャーに真っ向から立ち向かう必要はあえてなく、
むしろプレッシャーの状況をハスに構えて見る位のリラックスした状況
があった方が、よりよい結果を生み出せるんじゃないのかな。

という事で、私はますます適当でいい加減に、精進しようかな、と思う
のだ。



2003年07月19日(土) 「踊る大捜査線 The Movie2」ネタばれ無し

さて、あらかじめ断わっておくが、今回の日記は、かなり支離滅裂である。

今回のネタは、
「踊る大捜査線 The Movie2−レインボーブリッジを封鎖せよ」
公開日初日、オールナイトでの鑑賞。

さて、私は実はかなりの「踊る大捜査線スキー」である。
TVシリーズ全11話と、その後のTVスペシャルは全部録画してあるし、
前作の映画ももちろん、うちにある。

で、ちょっと前までTVでも再放送していたみたいだけど、今回の映画公開
にあわせて、TVシリーズと映画は見直しておくという念の入れよう。
すっかり準備万端である。

で、そこまで入れ込んでみた、今回の映画のできばえは一体どうだったん
だろうか。
いつも通り一言で言えば、「踊る大捜査線好きなら、間違えなく楽しめる
作品」であると思う。

つまりどういうことかと言えば、前作に比べると、踊る〜を知らない人への
アピールというか、映画としてのまとまりはちょっと落ちるような気がする
のだ。


これは、前作を制作する時に、脚本家の君塚良一が言った言葉なんだけど
「映画のようなTVシリーズを作ったんだから、映画ではTVドラマのような
映画を作ろう」と言ったらしい。

おそらくは今回もその精神は貫かれているような気がする。
すなわち、2時間あまりの一本の映画の中に、全11話からなるTVシリーズ
のエッセンスが余さず取り込まれているような映画作品になっていると思う。

ただし、9時間以上にもなるTVシリーズのエッセンスをぎゅうっと押し込め
ているから、結果一つ一つのエピソードの尺は短くならざるを得ない。
その分ちょっともったいないと言うか、これがTVシリーズだったら、もう
ちょっとこのシーン深く描けそうだよなあ、という部分がなきにしも非ず
だし、結果全体のまとまり感というか、感情の高まりというグルーブ感は
前回の映画よりは、落ちているかもしれない。

ある意味では、深さよりは広さを選択した感じと言うか。


でもね、
個人的には何より、5年ぶりに湾岸署の面々が、帰って来てくれた事が
何よりうれしかったりするのだ。

しかも、今回の映画では、彼ら一人一人に少しずつスポットライトを当てる
事で、この5年間で彼ら一人一人がどう変わって、またどこが変わっていな
いのか、映画を見ているうちにちゃんと伝わってくるというか。

前回の映画までって、群像劇と言われながらも、やっぱり主役の青島刑事
にみんな感情移入していたと思うんだけど、今回は皆が主役と言うか、
感情移入する範囲が広がっていったというか。

湾岸署のみんなは今でも皆元気です、という感じが伝わってくるのが素直に
うれしかったり。

青島君はいまでも調子いいし、すみれさんも元気だし、雪乃さんは今では
女青島と言われる位頑張っているらしいし、甲本雅裕と遠山俊也演じる元
制服警官は、今では念願の刑事になれたらしいし、キャリアでボンボンの
真下は出世した今でも雪乃さんの事を思いながら、情けなかったりするし。
スリーアミーゴスもいつものまんまだし。
元交通課の圭子ちゃんにまでちゃんとエピソードを用意しているあたりが
スゴイと言うかなんというか。

なんか今回の映画が終わった後も彼らはあの世界で頑張っているんだろう
なあ、と思えるような作りになっている。
なんつうのかな、脚本、演出、キャストを含めて、皆があの世界を大事に
愛しているし、それぞれに思い入れがあるんだなあ、と言うのが、素直に
伝わってくるのだ。


で、今回の映画のストーリーに関してはあえてここでは触れない。
やっぱり楽しみにしている人も多いだろうし。
素直に映画を見に行って楽しんでほしいと思うし。

ただ一つ、個人的に思った事を書けば、この映画はもちろん青島俊作が
主役なんだけど、それに増すように、今回は室井管理官と、恩田すみれが
影の主役であると思う。

特に今回は青島君とすみれさんの微妙な関係に、よりスポットライトが
集まっている感じかもしれない。


後は、チョイ役ながら個人的には豪華な出演者たちに注目というか。
TVシリーズでも出てきたけど、一世風靡セピアつながりの小木茂光が、
刑事課長として室井と絡んだりとか、前作にもあった和久さんと吉田
副総監の友情が押さえられていたりとか。

警視庁捜査一課に佐々木蔵之介や、小須田康人がいたりとか。
残念ながら筧利夫演じる新城とは、直接的な絡みはないんだけど。
その他にも池田成志がちょっとだけ出ているけどいい味出していたり。

犯人役でナイナイの岡村さん、ジョビジョバのマギー、山下裕子(再犯)が
いたり、小西真奈美がかわいかったりとか。
真矢みきも、今回はアウェイの憎まれ役だけど、やっぱり存在感あったし。
舞台関係で好きな役者さんが結構目白押しなのがちょっとうれしかったのだ。

筧利夫演じる新城補佐官は、今回あまり出番はないんだけど、かつての
ライバル室井管理官をちゃんと信頼している演技があったりして、些細な
シーンも見逃せない感じだったかも。


うん、2時間分ちゃんと楽しませてもらいました。

あ、でも最後にあえて一言苦言を言えば、予告篇でネタばらしすぎ。
あそこまでばらさなければもっと素直に感情移入できたのに、と思う部分が
あったので、それだけがちょっと残念だったかも。



2003年07月18日(金) ゲーム脳の嘘

ここ2、3日、やたら検索エンジンからのリンクが多いと思ったら、
例の長崎幼児殺人事件でヒットしているらしい。

で、例の少年について、たまたま雑誌の吊り革広告を見ていたら、
この少年が、ゲームセンター通いをしていた事から、「ゲーム脳」の
危険性についてまた、話題になっているらしい。


さて、「ゲーム脳」。
私は専門家でもなんでもないので、ここでは今までの報道の聞きかじり
のアウトラインを述べるだけにしておくと、
TVゲームをしている人の脳の活動は、抑制され、感情などの発達が阻害
される傾向にあるという話らしい。

まあ、昔から似たような話は、時々あったと思うんだけど、これが
「ゲーム脳」という言葉として認知されたのは、一冊の本が原因である。

「ゲーム脳の恐怖」。これが書名。
今、残念ながら、手元に資料となる雑誌がないんだけど、この本が発売
された当時、AERAや、ニュース解説番組でも広く取り上げられたから、
覚えている人も多いかもしれない。

私は、その本は残念ながら読んではいないんだけど、雑誌の紹介記事を
読んで、へー、そうなんだあ、と思った記憶はあるし。


でもね、実はこの本、その後大論争?を巻き起こしているのだ。
その内容の是非ではなく、その内容の虚実性でもって。

つまりは、この本、実際に読んでみれば、かなりの「トンデモ本」らしい
のである。


とりあえず、bk1のこの本の書評欄に行ってみてほしい。
そこで、自らも著書多数の精神科医、斉藤環が、内容に対して警鐘を
鳴らしている。

で、斉藤環に限らず、一般の人も含めて、この本の内容に関しては、
かなりの人が突っ込んでいるのだ。

斉藤環は、その後ゲームサイトのインタビューでも答えている。
インタビュアーが、ゲイムマンというあたりがちょっと痛いんだけど。



ただ問題なのは、いかにその本が問題本であったとしても、「ゲーム脳」
という単語が、例えば「援助交際」などと同様、少なくともメディアでは
一人歩きをしてしまっている事だろう。

すなわちその本の作者と編集者の意図を超えて、言葉として定着しつつ
あるということだろう。
いや、その分本が売れるから、意図した通りなのかもしれないが。


でもね、ここでちょっと考えてみれば、何もTVゲームだけが悪者なのでは
ないと思うのだ。

例えば、TVゲームではなく、ずーっとTV番組を見ている人は「TV脳」に
侵されているといえるかもしれないし、漫画ばっか読んでいる人は「漫
画脳」に、そして本ばっかり読んでいる人は「読書脳」に侵されていると
言えるのかもしれない。

そのうち「インターネット脳」なんて話も出てくるかもしれないが。


むしろ問題なのは、そうしたものに集中しすぎるあまり、他人とのコミュ
ニケーションが、うまくはかれなくなっていることの方が問題なんじゃ
ないのかなと思うのである。

で、時間つぶしならぬ「自分つぶし」をしているという意味では、
TVゲームも、TV番組も、漫画も、読書も同じだと思うのである。
なぜなら、そこに没入する限り、脳の一部だけが活性化することに代わり
はないだろうと思うからである。

で、例えば、TVゲーム。
昔、RPGゲームが流行っていた頃、TVゲームはおそらく子供たちのコミュ
ニケーションの中心にいたんじゃないかと思うのだ。

例えば、ドラクエや、FFが流行っていた頃、今自分がどの辺にいて、この
先どんなことが起きるか、という話で盛り上がっていたりとか。
そんな風に、TVゲームは、私の周りでもコミュニケーションの潤滑油に
なっていた時代があったと思う。

また、時々出す例えだけど、月曜日は、土曜のドリフの話題で持ちきり
だったり、それらはコミュニケーションの道具足りえた時代があると思う
のだ。

また、今の時代でも例えばポケモンを友達同士で対戦したり交換する時は
TVゲームも友達同士のコミュニケーションの潤滑油になっているのかも
しれない。

ただ、今の時代、なかなかそういう風にコミュニケーションの媒介になり
にくいのは、一人に一台、TVがある時代になって、お互いに干渉しない
空気が出来つつあるからじゃないのかな。


だから、今回の事件をきっかけにして、ただTVゲームだけを槍玉にあげて
取り上げるのではなく、バランスよく時間を使う習慣を作ればいいと思う
のだ。

それこそ、寺山修司が、「書を捨てよ街に出よう」と言ったように、
何かに浸りきるのではなく、バランスよく摂取することが大切なんじゃ
ないのかな。

食卓からTVをなくした途端、家族のコミュニケーションが活発になった
家庭もあるらしいし。

そうでなければ、結局、TVゲームが他のものに置き換わるだけだろう。


TVゲームをやる暇があったら勉強しろ、ではなく、勉強する暇があったら
会話しろ、くらいで、しつけはちょうどいいんじゃないのかなとも思うの
だ。


でも最近の新書って、タイトルだけよくて、中身は実際はそうでもないって
本が増えていると思いませんか?
やたら出版社が増えて刊行する数が増えたからかもしれないけど。
なんとなく、粗製濫造の印象もあったりするのだ。



2003年07月16日(水) 料理教室ふたたび

今日は月一回の料理教室の日。

本日のメニューはあじの塩焼きと、かぼちゃの煮物と鳥そぼろあん、
そしてなすとみょうがのお味噌汁。

女の子にとってみれば、えらとかはらわたの処理とかあじの下処理は、
ちょっと気持ち悪いかとも思うけど、個人的には前回の、天ぷらに比べ
れば、簡単でへっちゃらかな?と思いつつ、挑戦してみる。

うん、結構楽勝で面白かったっす。
なすはお味噌汁の具としては大っ嫌いだったんだけど、ちゃんと美味しく
飲めたし。やはり自作効果?

つっても、自分で全てをこなしたわけでは全然ないので、実際に自分ち
でやってみたら結構大変なのかもしれないけれど。


で、素朴な疑問として、料理教室で学んだことはちゃんと実践してるの?
とか、結構覚えたことは忘れちゃうんじゃないの?というのがあるかも
しれない。

うん、でも、意外と役に立っているんだよね。
今回、カゼで調子が悪い時は、第一回で習った、魚の煮付けを、まとめて
作って、冷蔵庫で保存したりしてたし。

で、しばらくぶりだと結構忘れちゃっているかな?とも思ったんだけど、
やっぱり見るだけでなく、自分の手を動かしたことは、意外とちゃんと
覚えているんである。

ああ、ここでこれに注意しなきゃいけなかったんだよなーとか。
それには、実はちょっとした秘訣があるのだ。

それは、料理を習う時に、気がついた事をちゃんとメモしておく、
という事。

先生の言葉を全部メモするんでなく、自分的にちょっと気になった事
だけをメモしておくと、意外とその時のことを思い出したりするのだ。

で、これって、多分、「きょうの料理」とか、TV番組を見る時にも、
有効な方法だとも思うんだけど、残念ながら、まだそこまでは実行は
せず、ビデオだけが撮りためてある状態だったりするんだけど。

また、もしかすると英語を勉強するときになんかにも有効な方法なのかも
しれないと思いつつ、やはりまだ実行はしていなかったりするんだけど。


もう一つ、料理教室に通うようになって、ちょっと困るのは、
教室仕様の道具がついつい欲しくなってしまうことかもしれない。
すでに軽量カップとか、軽量スプーンは買っちゃってるし。

今月は包丁が安いとかで、思わず買いたくなっている自分がいたり。
いや、もちろん料理教室としては、それが商売なんだと思うけど。
ここでもし自分が主婦だったら旦那とかにねだっちゃうんだろうなあ。
包丁、どうしようかなー。



2003年07月15日(火) ひとの「こころ」は育ちうる

先週、長崎の幼児殺人事件で、12歳の中学生が容疑者として補導
された。

中学生が逮捕・補導されて以降、マスメディアは予想したような
蜂をつついたような騒ぎになった。

曰く、
どうして12歳の少年が?
成績優秀だった少年のもう一つの顔、心の闇に迫る
社会のゆがみが背景か?
親の責任云々かんぬん

別に一つ一つの報道を細かく見たわけではないけれど、大体こんな
報道が多かったようだ。

で、正直、別に個人的に日記にまで書くほどの関心があった訳ではない
んだけれど、鴻池大臣が、「親は引きずり出して打ち首獄門にすべし」
と発言し、その後も何ら悪びれる様子もなかったみたいのなので、
ちょっと日記に書いておく気になったわけだ。

さて、問題の鴻池発言、その発言の是非はとりあえず置いておくとして、
個人的に問題にしたいのは、国政を預かり、青少年育成委員会だかの
委員長をしている人間の、政治的なスタンスの稚拙さだろう。

そんじょそこらの一般人が言うならまだしも、この複雑な問題も多い
現代に、「勧善懲悪」なんていう一元論で、政治的判断をしてもらっちゃ
困る気がすると思うんですけど。

ついでに、政治を勧善懲悪なんていう枠組みで判断していいんだったら、
さすがに打ち首獄門、とまでは言わないけれど、江戸処払いにしてほしい
代議士さんは、いっぱいいると思うんですけど。


さて、当の12歳の少年による、幼児の殺人事件について。

でも、個人的に思うことは、あまり多くはない。
12歳で4歳の幼児を殺した、少年が何を考えて犯行を犯したのか、と
いうのは、あまりに自分の想像の範囲を超えていると思うからだ。

そこに性的なサディズムがあったとか、幼児に対する偏愛があった、と
言われても、実感の湧きようがない問題であるし。


ただ、今回の問題、これだけ大きく世間を騒がせているのは、少年が
12歳で、刑事的な罪には問われない、という事が大きいんじゃない
のかな?

すなわち、これが14歳以上だったら、もちろん事件の惨たらしさの
問題もあり、やはりセンセーショナルな話題にはなったと思うけれど、
とりあえず立件されて、医療少年院なり、少年院に送致されるという、
一つの「物語の枠」に当てはまれば、人びとは少なくともほっとした
んじゃないのかな。


でも、じゃあ、その少年が医療少年院なり、少年法改正で刑事的に断罪
されたら、それで全てが済むんだろうか。
問題はもっと、別のところにあると思うのだ。


私がこの問題に対して考えることは一つ、その少年の心の問題である。
それは何も、加害者も少年だから、その心を保護しなければならない、
と言っている訳ではない。

彼が犯行を犯した理由。それは、これからの専門家の診断や、
様々な所からもしかすると明らかになっていくかもしれない。
でも、それより大事なのは、「彼のこころをどのように育てていくか」、
だと思うのだ。

今回の犯行を犯した背景の一つには、彼が自分の「こころ」を育てられ
なかった事が大きいと思う。


こころは、ほっておいて、勝手に育つわけではない。
私や、そしてこれを読んでいるあなたの「こころ」が今のようになり、
そして大きな犯罪を犯さずに済んでいるのは、自分や、そして周囲の人の
いい意味でも悪い意味でも刺激を受けたおかげであると思う。

それは、ただ単に両親のせいだけではない。友達や、親友や、そして
周囲の善意のある人や時として悪意のある人たちに囲まれた結果として、
今の「こころ」があると思うのだ。

つまり、個人的には「こころ」とは、まるで花を大事に育てるように、
水をやり、肥料をやるだけでなく、太陽や風にさらされて、育つものだと
思うのだ。


でも、じゃあ今回の彼のように、あまり育ってこなかった「こころ」は、
もう育つことはないんだろうか?

個人的には、そんなことはないと思う。
こころは、いつでも育てることができると思うのだ。
本人が、自分の「こころ」を育てる気になるのなら。


もちろん、今回の彼が行なった事件は、許されるべき問題ではない。
彼は今後も一生、罪を背負っていかなければならないし、鴻池大臣が
言うように、市中引き回しにしなくたって、この少年の両親は、今後も
ずーっと、罪の意識を背負って生きていかなければならないと思う。

また、被害者の両親は、今、少年がいくら謝罪をしたとしても、決して
許すことはないかもしれない。
もしも、自分が同じ立場だったとしたら、その少年を同じ屋上から何遍
突き落としたって、気が済むことはないかもしれない。

でも残念ながら?その思いが許されるのは、被害者の両親だけだろう。
私たちが、いかに気持ちを斟酌したって、わかった気になって、同情
することはいくらでもできるけど、両親の本当の無念さはわからない。
そのための補償は、いくらあったとしても足りないだろう。


だから、それより大切なのは、今回事件を起こした少年と両親が、果た
して本当に自分の罪の重さを背負って、それでも生きていけるだけの
「こころ」の強さを、育てることができるかが問題なんだと思うのだ。

ただし、こころは簡単には育たない。
例えば、医療少年院や、児童養護施設に彼を入所させて、こころの専門家
に預けたからといって、勝手に彼のこころが育つわけではない。

彼自身が、彼のこころを育てる努力をしなければ、こころは育つことは
ないし、それは彼の両親もそうだろう。

そして、仮にそれでこころが育ったとしても、周囲が遠巻きにして、
近づこうとしない限り、彼のこころは育つことはなく、途中で萎れて
しまうかもしれない。

その結果、もしもまた犯罪に手を染めることにでもなれば、「あの少年が
またやった」とマスコミは勝手な烙印をまた押すことだろう。


私は心の専門家ではないので、人の「こころ」を育てることがどれだけ
大変なのか、本当の所はわからない。
でも、どんなに大変な状況であっても、ひとの「こころ」は育ちうると
思うのだ。
本人が、こころを育てることの大切さに気付くのであれば。

せめて生涯、自分の罪の重さを背負い続けられる、そんな「こころ」を
あの少年には育てて欲しいと思う。
せめて、あの命を奪った、幼児のためにも。



2003年07月14日(月) キャラミル

今回のネタは、深層心理鑑定サイトネタ。
リクルートのつくった「キャラミル研究所」 が結構面白かったので、
ちょっとご紹介。

さて、このキャラミル、やってみればわかると思うけど、
ある質問に、はい、いいえ、どちらでもない、で答えていく形式で
あなたの心理とキャラクターがわかる、という一種のゲームである。

ちょっと前で言えば、「あなたを値段判定します」といった類のもの。

これって、その設問に答えていく段階で、すでに用意された答えに自分を
あてはめていくだけだから、本当の深層心理がわかるわけでもないとも
思うんだけれど、その結果が、思わずうーん、と納得してしまう内容
だったんである。

すなわち、あ、結構当たってるかも、と思ってしまったわけだ。

で、私の結果はどうだったのか、ここで一応ばらしておくと、
表ゲノムが、「クール」、
裏ゲノムが「ワイルド」「キャプテン」「フィーリング」だった。

表ゲノム、裏ゲノムとは何か、はサイトに行けば書いてあるので参照
してくださいまし。

で、一つ一つを引用しておくと、


「クール」は
ヒトはヒトカモメはカモメ。わりきり系のコミュニケーション

主な特徴
私は私、ヒトはヒト。自分だけの世界観を持つ人です。
「みんなと同じ」であることに価値を感じず、
自分の個性/信念に基づいて行動します。
ある意味、オトナ。

自分だけの世界観とか言うと
頑固に聞こえますが意外にそうでもありません。

よくしゃべる相手には聞き役、
社交が必要なときは当たり障りのない話と
相手に応じたコミュニケーションを
すんなりと操ることができます。
こうしたスムーズなコミュニケーションも
「ヒトと自分は別なモノ」とわりきれているからこそ。

周りのヒトが反論や批判など強い意見を言っても、
心の中ではそれほど動じません。
もめ事も少なく、さらりと会話をこなすタイプです。


で、「ワイルド」は
柔軟かつ独創的な発想をする人です。
「いかに周りをあっと言わせるか」が人生のテーマです。

遊び心があり、新しいモノを創造することを得意とするので
煮詰まった現状をブチ破る起爆材として力を発揮します。

本能に忠実で思うがままに行動する姿は
まさに野生児(ワイルド)。
「ワクワクがムクムクだぜ!」とか
本気で思っちゃうところが実にキュート。
子供の頃の気持ちをなくしてしまった
中途半端なオトナからみれば羨望のマトです。

そのぶん、周りの人はちょっと大変。
時に「立つ鳥後をにごす」わがままぶりに、
お友達の苦労も絶えません。
まさに劇薬・取り扱い注意のキャラクター。

行動特性
「遠足で調子に乗って川に落ちたりするタイプです」

・物事を柔軟に捕らえるのが得意です。
・時に誰も考えないことを創造します。
・好きなことはやる。きらいなことはやらない。
・子供じみた駄々をこねたりします。


「キャプテン」は
仲間思いのモラリスト。
礼儀やあいさつ、約束事など
とにかく「仁義」にこだわり、
仲間には惜しみなく思いやりを与えます。
「自分だけ良ければ・・・」などという気持ちとは
最も縁遠い、いまどき貴重な「まっとう」なヒト。

ほめ上手なのは当たり前、
他人の失敗を戒めたりする場面で、
愛のある態度で接することができる
しかり上手でもあります。

言ってしまえばアニキ/アネゴキャラ。
本物のチームを作れる
可能性を秘めた存在です。
しかし、わがままさんが多い現代社会にあり、
理想の通りにリーダーシップがとれるかというと
そこはまた苦労はつきないのであります。

行動特性
「基本的に『仕切り屋』です」

・面倒見がよく、仲間思いです。
・礼儀や人情を大切にします。
・平等をモットーにします。
・けっこうカタブツ。おせっかいなところもあります。


「フィーリング」は
いわゆる「カンのいい人」です。
事実だけでなく、いまの気持ちや直感を考慮して
物事を決めます。

「気持ち」とか「勢い」とか「根性」とか
「みんなの元気をオラにわけてくれ」とか
そういうもので気持ちを左右されます。

がちがちのお役所的発想とはまったく逆。
ユルユルです。かたいこといいっこなしの柔軟さ。
ときには「いいよいいよ」のお目こぼしもアリ!
という寅さん気質です。

しかし、仕事やチームワークの場面では
当たるも八卦。当たらぬも八卦。
話に一貫性がない、約束したことを守らない、といった
風まかせの一面もままあります。
「えへへ」ですまされるか、どうかは
その人の愛嬌にかかっています。

行動特性
「ふやーっとモノを考えるのが好きです」

・じっくり考えるより、直感的に行動します。
・楽観的で悩みがなさそうに見られがちです。
・数字、データ、メモ、など。実は好きじゃないです。
・前に言ったことを忘れてることがあります。



とまあ、こんな感じだった。
実際に私を知っている人から見てみたら、一体どの位の的中率
なんだろうか。


で、個人的には結構ヒットしてたんで、おお!と思い、
知り合いの人たちにもやってもらったりしたんだが、その結果、
意外にも裏ゲノムが、ピッタリ合う人が多かったんである。

それは果たして類友なのか、それともただの偶然なのか。


でもまあ、血液型もそうだけど、人を数種類に類型化するのには
限界も当然あるんだろうしなあ。
などと今はクールに思っていたりもするんだが。

話の種にでも、良かったらどうぞ。

また今回の結果はこうだったとして、私の心は、果たして「今」からまた、
どんな風に変わっていくんだろうか。



2003年07月13日(日) SPAMメール

最近、携帯にいわゆるSPAMメールが数多く入ってくるようになった。
いわゆる、出会い系サイトを紹介する、アレである。
私はauユーザーなので、今まで、Docomoユーザーの人が、SPAMメールに
困っているのを見ても、あ〜、Docomoの人は大変だねえ、なんて気で
いたんだけど。

まあ、今までは素敵な出会いをあなたに、なんてヘッダーがついて
いたら、あ〜はいはい、ご苦労さん、みたいな感じでその場で削除を
していたんだけど、敵もさるもの?段々と手が込んでくるようになった。

この前までさすがにやられた、と思ったのは、「メアド変更しました」
という奴である。
これで来ると、見覚えないのないメールアドレスでも、誰が変更した
んだろう、という気になって、思わず開いてしまう。

で、開いてみると、結局は出会い系サイトへのリンクが張られてた
だけだったりとか。
う〜ん、段々と手強くなっているというか。

で、最近は更に薄気味の悪いメールが送られてくる。
自分のメアドで、「好きです」なんてヘッダーが送られてくるのだ。

自分から「好きです」なんて言われてもなー。
ただ気持ち悪いだけだと思うんだけど。

技術的にはよくわからないけれど、PCのSPAMメールと同様に、自分の
発信元を隠して相手のアドレスを表示させるツールがどうやらある
ようだ。

ネットにつながっている限り、この手のSPAMメールが舞い込んでくるのは
ある程度しょうがないことなのかもしれないけれど、
その度にパケット料金払わされるのは、なんか損した気がして納得いか
ない気もするんだけど。

何とかならないのかな。
とりあえず、そんなSPAMメールを皆が、無視して利用さえしなければ、
経費が回収できなくて、ビジネスとして成立しなくなって減りそうな気も
するんだけれども。



2003年07月11日(金) 健全な?

さて、今回は前々々回?の続き。

「健全な精神は健全な肉体に宿るか」の続きである。

個人的に「健全な精神は健全な肉体に宿る」という意味には、
納得することはあっても、どこか違和感を感じるのが、元々の
原因だった。

結局、原語のmens sana in corpore sanoに対して、
「健全な」という訳語を与えたことが、原因なんじゃないのかな。
いや、もちろん、これを訳した当時の言葉で言えば、「健全な」以上に
ピッタリ当てはまる日本語はなかったのかもしれないけれど。

そのうちに「健全な」という部分が、エスカレートして解釈されていく
ようになった気もするんである。
すなわち、より「完璧な」という意味が付け加えられていったというか。


でも、じゃあ「健全」ってなんなんだよ?
という問いをした小説があったことを思い出した。
それは、山田詠美著「ぼくは勉強ができない」の中の一節である。


「秀美はねえ、要するに健全すぎるのよ」

「いいじゃねえか、健全なのって」
 ぼくは、真理の言葉の意味を計りかねて、首を傾げていた。

「そりゃ、いいわよ。安心できるわ。でも、男と女のことに関しては、
どうかしら。つまんないわよ、あんまり健やかなのってさ。体が健全な
のは基本なのよね。健康な肉体って素敵だと思う。特別な好みを持つ人も
いるけど、たいていの人は、健康な肉体に性的なアピールを感じるわ。
肉体って、即物的なものだもん、恋愛においてはね。解り易いっての?

でも、精神状態も、健全だってのは困るのよ。もっと不純じゃなきゃ。
いやらしくないのって、つまんないよ」(略)


「やらしいって、セックスのこと?でも、男と女って、そればっかりじゃ
ないだろう?」

「でも、始まりは、そういうことなんじゃないの?(略)男と女が魅かれ
合うのって、動物の雄と雌が求め合うのとそんなに変わりないと思うん
だよね。片思いで恋焦がれるのは結構だけど、そこには、必ず、セックス
に訴えてる部分って大きいように思うわけ。好きな人の前で顔が赤くなっ
たり、胸がドキドキするのもそう。求めてるって気持ちが体に表われる
じゃない?クラスの女の子なんて、セックスの経験乏しいからさ、わかん
ないのよ、きっと。神経が、下半身までまわんないのよ。あの子たち、
私がこんなこというと、すごくやな顔する。自分たちは、もっと純粋なん
だって、思いたいみたいね。プラトニックな恋愛ってのももちろんあるで
しょう。でも、それは相手が欲しいって気持ちを続かせているだけだと
思う。欲求不満の快感なんだと思うわ」(略)


「どうして時田は、そんなことを考えるようになったんだ?」
 ぼくは、真理との会話の内容を先生に話した。先生は、興味深そうに、
ぼくの話に耳を傾けた。

「彼女は、わりと賢いな。心身共に健康なのは、もちろん良いことだが、
無駄がなさ過ぎて退屈なんだと言いたいんだろう。時田、いいかい、
世の中の仕組は、心身共に健康な人間にとても都合良く出来てる。健康な
人間ばかりだと、社会は滑らかに動いていくだろう。便利なことだ。

でも、決してそうならないんだな。世の中には生活するためだけになら、
必要ないものが沢山あるだろう。いわゆる芸術というジャンルもその
ひとつだな。無駄なことだよ。でも、その無駄がなかったら、どれ程
つまらないことだろう。そしてね、その無駄は、なんと不健全な精神から
生まれることが多いのである」(略)



とまあ、ちょっと長めの引用をしてみた。
本当はまだまだ引用したい部分もあるんだけど、あんまり長すぎるのも
どうかと思うんで、気になった人は手にとってみてくださいな。


さて、この引用文中の、主人公時田秀美君に対して、健全さについて説く
幼なじみ、真理と時田秀美の尊敬する先生の意見は、言うまでもなく、
作者である、山田詠美の分身であり、その意見は山田詠美自身の意見
だろう。

で、彼女の考えで言えば、肉体が健全であるのは、賛美されるべき事で
あるけれど、精神が健全すぎるのは、退屈だし、考えもんだ、という事
なのかもしれない。


で、この部分を引用した私も、そうかもなー、と思うのである。
人が「健全な」精神というとき、もしもそこに精神の完璧さを求めると
するならば、その精神とは、無駄や隙のない、そつのない精神といえる
のかもしれない。

でもね、例えばそんなそつのない、非の打ち所のない精神を前にした時、
私たちはどう感じるだろう?
なんで、この人はこんなに人間味のない、疲れる人なんだろう、と
時として、自分の非を棚にあげて思ってしまうような気がするのだ。

で、結局その人らしさや、人間味っていうのは、もしかしたらその人の
醸し出す隙、にこそあるんじゃないのかな、と思うのだ。

もっと言ってしまえば、その人に隙があり、その隙に対して、例えば
カワイイなんていう感情移入をするからこそ、その人に好感を抱いたり
するんじゃないだろうか。

すなわち、隙が好きを生み出してくれる気がするのだ。


もちろん、自分が好きになる相手には完璧さを求める人もいるかも
しれない。
もし、そういう人が好みの人だったら、私なんかはストライクゾーンに
かすりもしないと思うけど。

でも、一見不完全な、無駄とも思える部分もある相手だからこそ、
愛すべき存在になる気もするんである。
まあ、あまりに不完全だと、あきれられて、話にもならないのかもしれ
ないけれど。

でも、自分の精神を完璧さにチューニングするよりは、より人間くさい
存在でいたいな、なんて私は思うのだ。



2003年07月07日(月) 「めぐりあう時間たち」

今日は映画ネタ。
今回見た映画は「めぐりあう時間たち」
ニコール・キッドマンが、アカデミー賞主演女優賞を取った事で
有名なこの映画。
この映画を見た友達から、面白いよ、と薦められ、もうすぐロードショー
は終わっちゃうなあ、と思ったので観にいってみる。

さて、この映画、一言でいうと、「とても不安定な感じのする映画」
である。
あまり元気のない人は、ちょっとよしといた方がいいかもしれない。

正直、男としてこの映画を見るのはちょっとつらい部分もあったり。

ただし、それは、この映画がつまらないという訳ではない。
ただ、ちょっと重いテーマを扱っている映画なのである。


映画は、1920年代に小説「ダロウェイ夫人」を執筆した、二コール
キッドマン演じるヴァージニア・ウルフと、1950年代に、その本を
読んでいる、ジュリアン・ムーア演じる、ローラ・ブラウンと、2001
年のNYで、恋人に「ダロウェイ夫人」と呼ばれている、メリル・ストリ
ープ演じる、クラリッサの、3人の女性が綾なすストーリー。

ごく普通の、何気ない一日の中の、でもその人の人生を左右する、一日
を描いたストーリー、とでも言えばいいのだろうか。

全くの予備知識もなしにこの日記を書いているんだけど、この映画にも
出てきて、ストーリーのベースとなっている「ダロウェイ夫人」も、
どうやら、ある女主人公の一日を追った、不思議な作品であるらしい。

で、この映画には実は原作があって、それを映画化した作品らしい。
本も買ってみようかなあ、とも思ったが、文庫化していないので、二の足
を踏んでしまった。


で、この作品、その3人の女性の、1日を追っていく作品なんだけど、
見ていく間中、どこか不安定な感じのする映画なんである。

不安定なのは、作品として稚拙なのではなく、その主人公たちの心理
状態の不安定さが、そのまま私に伝わってくるから、不安定な感じが
するんだけど。

とりあえず、この3人、異なる時代を生きていて、特に接点があるわけ
でもない、すなわちSFではないんだけど、その不安定さの原因は、
時代を超えて共通するとでも言えばいいんだろうか。

3人の人生の中の1日を描くことで、不思議な共通点が、段々と
あぶりだされてくるような、そんな作品なんである。
なんか、うまくは伝えられないけれど。


で少なくとも、私が感じることの出来た、その共通点って、男としては、
ちょっとつらいものだったんだよね。

以下、ちょっとネタばれ気味なので、要注意。


男は、彼女たちの幸せを願い、ある意味では自分を犠牲にしてまで、
「彼女のために」生きている。

でも、じゃあそんな風に用意された、一見とても幸せそうな家族に囲ま
れた生活が、当の彼女にとっては、単に息苦しいものだったとしたら。

そしてその彼女自身が、その人生が「彼氏のために」生きることを強要
される人生だと感じてしまったとしたら。

善意の積み重ねが、必ずしも幸福を運んで来てくれる訳ではない。
善意を積み重ねることだけに終始して、そこで何かを見落としてしまった
場合、その幸せにしたいと思っていた、善意の積み重ねは、ただ単に
相手にとっての「重荷」にしかならない、のかもしれない。

そして、その何かの欠落こそが、その人を不安定にしてしまうとしたら。


昔、第三舞台の演劇「宇宙で眠るための方法について・序章」の中に、
ケダモノ大王こと筧利夫と、ケダ三こと小須田康人の、こんなやりとり
があったのを思い出した。

「ケダ三、お前は今幸せか?」
「はい、ケダモノ王になって、なんか肩の荷がおりたようにとても楽に
なりました」
「確かに、お前は見違えるように、楽になった。でもお前の荷物が、
私の肩に乗るようになったんだよ」(略)

「お前は一体どこに向かうんだよ。そんなのは愛じゃないね。
それは暴力だね」
「それでも、それでもいいから、私は側においてほしいんです」



そして、こういう風景は、実は今の日本ではよく見かけるものなのだと
思うのだ。
いわゆる「いい人」の恋愛ってこんな感じかもしれない。
というより、ちょっと前までの私自身が、こんな感じだったかもしれない
と、思うからこそ、ちょっとつらい部分もあるんだけど。


結局は、「誰かのために生きる」という考え方をやめるしかないんじゃ
ないのかな。
「誰かのために」することだって、結局は「自分自身がしたいこと」で
あるわけだし。

ただし、これは皆が皆、自分勝手に生きましょう、と単純に言っている
訳ではない。
ただ、「他人のため」というおいしい?仮面をかぶることで、自分の
重荷を減らすことは、もしかしたら卑怯なんじゃないかな、と思うのだ。

だって、その重荷は、その誰かのために生きられている、相手の肩に
乗っかってしまうんだから。

そうではなく、これは山田詠美が書いていた事なんだけど、他人のために
する事だって、結局は自分がしたくてしている事なんだ、という自覚と、
それをむやみに押しつけず、時としては他人を自分が傷つけるという
責任と覚悟?を持つことが、よりいい人間関係を築いていく上では重要
なんじゃないのかな、と思うのだ。


映画の最後、1950年代の主人公、ローラ・ブラウンは、自分のために
「ある決断」をする。
彼女が、その決断をしたことが、後々で、様々な結果を導いてしまう事に
なるんだけど、彼女は最後にこう言い放つ。
「誰にも許されることはないだろう。でも私は、私の行動に責任を持つ」
と。

自分の本当の幸せを願うことが、他人を不幸に追いやることだったと
したら。
それとも、自分が我慢をすることで、他人が幸せな人生を送れると
したら。
その時、果たして私は自分の幸せだけを追求することができるだろうか。


結局は、どこかでお互いに「自分のために」生きることの折り合いを
つけていけるからこそ、皆なんとか幸せを感じて生きていけるような
気もするんだけれど。
うーん、なんか難しい宿題をもらったような、そんな映画だった。


でも、この映画って、原作者も、そして監督も男性なんだよね。
それなのにこれだけ女性の心理に真っ向から立ち向かっているのは
すごいかもしれない。
女性から見たら、どうなんだろう。


この映画を見終わった後、ヴァージニア・ウルフと同時代の作家と
言ってもいい、アガサ・クリスティーの恋愛小説「春にして君と離れ」
を思い出した。
この映画が面白いと思った人にはオススメかも。



2003年07月06日(日) 7月6日は

さて、7月6日は何の日か、ご存知だろうか。
7月6日は、七夕イブ、であると同時に、
7月6日は、サラダの日なのである。

この味がいいね、と君が言ったから
7月6日は、サラダ記念日


まあ、要するに俵万智の、歌の話なんであるが。
だから、本当にサラダの日であるのかどうかは定かではない。
あしからず。


さて、だからというわけではないが、うちの近所まで、わざわざ
サラダを買いに行ってみる。

うちの近所には、パークタワーという高層ビルがある。
で、このビルの高層部分には、パークハイアットというホテルが入って
いるわけですね。

で、そのパークハイアットの最上階には、ニューヨークグリルという
高級レストランが入っている。
近所に住んでいながらも、まだ2回くらいしか利用をしたことはないん
だけど、その風景と共に、おいしい料理を出すことで有名なレストラン
なんである。

で、このたび、そのニューヨークグリルが、パークタワーの1階部分に
デリをオープンしたんですね。
いわゆるホテルの一階、ホテイチって奴である。
どうでもいいけど、なんかしまらなくない?このネーミング。

で、物見遊山がてら、サラダ記念日という事で、サラダを買いに行った
訳だ。

買ってきたのは、シーザースサラダと、ホタテのマリネと、マッシュ
ポテト。
最上階のNYグリルと同じ素材を、デリスタイルという事で、半額位で
売っているらしい。
でも、デパ地下に比べるとちょっと高めなのかな?

デリだけでなく、オリーブオイルとか、高級アンチョビ、そしてデザート
も取り揃えているらしい。
パンプディングとか、ちょっと美味しそうだったかも。

で、そこで買った食材と、自分特製の?ペペロンチーノで、我が家で
食事などをしてみる。

うん、でも、どうせだったらやっぱり高層ビルの最上階で食べた方が
美味しいかも。
やっぱり、雰囲気あふれる場所で、至れり尽くせりで食べたいなあ、
なんて思ってしまったわけだ。

まあ、この時点で自宅でセレブ気分を味わうには失格って事なのかも?

でも、パークデリは、色々と、普通じゃ手に入らない食材も置いてある
みたいなので、そのうちまた利用するかも。
なんといっても近所だし。


で、ここからは余談。
実は、同じくパークタワーで昨年 に引き続き、七夕つながりで仙台フェア
をやっていたので、やはり萩の月と笹かまぼこと、天然にがりを買って
しまった。

萩の月は、やはり冷やして風呂上りに食べると美味しいんである。
来年もまた、やってくれないかなー。



2003年07月04日(金) 健全な魂は健全な肉体に宿るのか(後編)

と、いうことで前回の続き。
今回はもう少し、自分の仕事絡みの話になる。
「健全な精神は健全な身体に宿る」という言葉、
個人的にちょっとアレンジすると、更に共感しやすくなる。

すなわち、「身体が健康で余裕があると、心にも余裕ができて、
アイデアも湧きやすい」である。

そして、これをより専門的にいうと、
「身体の姿勢がちょっとおかしいと、気持ちの余裕は生まれにくいかも
しれない」となる。


なんでそんなことを思うのか。
それは、今回のようにカゼをひいてみるとよくわかる。
すなわち、カゼをひいて、鼻水ズルズルしていたり、今回はそうでも
ないけれど、頭がガンガンしている時に、例えばこの日記の内容を考え
ようと思っても、あまりいい考えは思いつかないし、アイデアもうまく
まとまらなかったりする。
まあ、じゃあいつもはそんなにまとまっているのかという話もあるが。

結局どんなにいいことを頭で考えようとしても、そこに栄養を送る
身体の状態があまりよくなければ、いかに優秀な?脳であっても、
身体の状態がいい時のようにはうまくは働いてくれない、という事だと
思うのだ。

つまり、(状態のいい)身体があってこそ、物事を考える余裕も出てくる
ってことなのかもしれない。


で、実は、これはカゼや病気だけに限らない。
普段の生活の中で、なんか些細な失敗をしてしまったり、物事がうまく
はかどらなかったり、些細なことで気が立ったりしてしまうことって
ないだろうか。

実は、そういう時、必ずしも相手が悪いわけだけでもなく、実は自分の
身体が不調を訴えている場合や、自分の姿勢が崩れている場合もあると
思うのだ。


これは、「こころの生態系」の中からでの、河合隼雄の発言。

河合 (略)でも、じつは、あれこれ介入する前に、悪循環だと思ったと
   きにどうしてもチェックしなければいけないのは自分の姿勢です。

   禅をやっている人に聞いて、ぼくはなるほどと思ったんだけど、
   長い間やっていると幻覚やらが出てくるわけですね。そうすると、
   天狗が出てきたりなんかするわけです。そのときに、「あ、出て
   きた。その天狗をどうしよう」と思う前に、まず姿勢を気にする
   んだそうです。そしたら、ちょっと背中の位置がずれてたりね。

   それですっと姿勢を正すと、天狗もパッと消えるというんです。

   だから、まず自分の姿勢を正す、それを考えますね。自分はどこか
   姿勢が歪んでいないかな、というのを考える。そして、明らかに
   歪んでいたなあと思うときには、それをみんなに言うんです。

   「ぼくは、このへんでちょっと歪んでいたように思うから、ここを
   まっすぐにしようと思う」という話をする。そのときに、あなた方
   がどうのこうのとは絶対に言いません。そうではなくて、自分の
   こととして言うんです。


これは、臨床心理学者としての河合隼雄が、患者さんのグループ討論に
介入をせざるを得なくなった時の心構えを述べている話なんだけど、
同様のことは、私たちの日常でもよくあることだと思うのだ。

例えば、子供の振る舞いに思わずカッとした時でも、すぐに切れたりする
のではなく、その前に一度自分の姿勢を直した方が、注意するにしても、
より、相手の心に伝わるのかもしれない。

もし、それを怠り、ただ単に自分の怒りを相手にぶつけるだけだと、
怒られた当の相手には、ただこの人は怒っているんだ、という感情だけ
しか受け取られないような場合もあるかもしれない。


こんな風に、自分の精神状態(感情)と、自分の身体の状態は、実は
密接な関係があるんじゃないかな。

で、自分の仕事っていうのは、大げさに言えば、できるだけ身体に
様々なことを考えられる余裕を与える仕事だとも思うのだ。

そんなわけでもう一回続く、かも。



2003年07月03日(木) 健全な魂は、健全な肉体に宿るのか(前編)

学生時代、といっても自分がまだ小さかった頃の話。
あまり好きになれない言葉が一つあった。
それが、「健全な精神は、健全な身体に宿る」という言葉である。

この言葉、体育の授業でよく聞いた気がするのは気のせいだろうか。
で、この言葉が好きではなかった私は、とどのつまり、体育の授業が
大の苦手であったのである。

今でもインターネットで検索をかけると、様々なサイトでこの言葉は
使われている。
特に体育会系や、スポーツがさかんな機関のサイトなんかでは、よく
見ることがある。

で、今現在の私がこの言葉に対してどのように思っているかというと、
この言葉にも、なるほど一理あるな、とは思うのだ。
でもその一方で、この言葉って、しばしば誤解されて便利に使われている
ような気もするのだ。

すなわち、
「スポーツ万能な、健全な身体を持つ人間でなければ、健全な精神を
養うことはできないのだ」というように。
まあ、ここまでくるとやや自分のひがみ根性丸出しな気もするが。


でね、なんでそんなことをふと思ったか、というと、
それは私の職業にもちょっと関係する。

つまり、じゃあ、病気で入院している人や、身体障害者の人たちは、
健全な身体を持っていないから、健全な精神状態ではないわけ?
という疑問が起きてくるのだ。

で、もしも病院で働いたことのある人や、家族や知り合いが病院に入院
した経験のある人ならわかると思うけど、確かに、そういう病気がちの
人の中には、心理的に偏屈になってしまって、あまり人の話を聞いてくれ
なかったり、絶えず問題行動を起こす人も多い。

なんだ、ほら見ろ、と思う人もいるかもしれないが、じゃあ、全ての
病人がそんな状態か、といえばさにあらず。
結構大変な病気を持っている人たちの中でも、健全な精神を養っていら
っしゃる患者さんは沢山いるし、事実そういう人たちに教えられた事や
育ててもらった部分も多々あるのだ。

で、逆にじゃあ、スポーツ万能の、完璧に健全な身体をもっている人
たち、TVでもよく見るトップアスリートたちが、みんながみんな、
人格者で立派な人物か、といえばそんなことはない。
いや、もちろん個人的に尊敬しているトップアスリートたちも沢山
いるんだけど。

そう考えると、結局「健全な精神は健全な肉体に宿る」という考え方は
前にちょっと触れた「以心伝心」と同様に、人びとの願望を表わして
いるのかもしれない。

と思いながら念のため、広辞苑をひいてみると、あるある、ありました。

(慣)健全なる精神は健全なる身体に宿る
 (mens sana in corpore sano(ラテン))
 (ローマの詩人ユウェナリスの「風刺詩集」から)身体が強健であって
こそ精神も健全である。詩の本来の意味は「健康な身体に宿る健康な精神
を願う」というもの。


となっている。
じゃあ、宿って欲しいという、これは願望である、という自分の解釈が
間違ってはいない訳ですね。

という事で冒頭に戻る。
じゃあ、健全な精神は、健全な肉体に本当に宿るんだろうか?
という事で次回。


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