パラダイムチェンジ

2003年05月28日(水) ナイーブな人(10)ネット集団自殺について

ただの思いつきで始まったこの一連のシリーズも早10回。
いい加減終わらせようとも思うんだけど、なかなか終着地点が見つから
なかったりする。
一体私はどんな落ちをつけられるのか、実は書いている本人もちょっと
楽しみ?だったり。

と、言うことで今回は「ネット集団自殺」について。

ネット集団自殺について、その問題をこの一連の「ナイーブさ」の中に
押し込めることに対しては、違和感を感じる人もいるかもしれない。
それがどんな理由であれ、彼らのした自分の命を自ら絶つ、という選択は
「ナイーブ」の一言ではなかなか片付けられない問題かもしれない。

ただ、個人的に、この「ネット集団自殺」の背景には、前回触れた、
「たった一つの共通の土俵の脆弱さ」という問題が含まれているように
思えるのだ。

ネット集団自殺に関して、精神科医香山リカが、ちょっと前、4月27日の
毎日新聞の文化欄「21世紀を読む」というコラムにこんな文章を載せていた。


香山リカ「個性を追求した果てに」

 インターネットの匿名掲示板で胸に隠し持っていた自殺願望を語り合
った3人の若者が、「じゃ、実行しようか」とどこかで集まり、そのま
ま"なるべく苦しまない方法"で死出の旅路へ。「ネット心中」などとも
呼ばれるそんな事件が、今年になって日本全国で起きている。共通点は、
「ネットでのやり取りだけでお互い面識はないこと」「人数は3人で異
性が混じっていること」だ。

 多くの人はこんな疑問を持つだろう。生死にかかわる重要な問題を、
ネット上で簡単に決めるのはなぜか。どうして恋人でもない異性と死ぬ
のか。ひとりでもふたりでもなく3人であることに理由はあるのか……。
この問いの中に、今の若者たちが抱える大きな問題の本質が潜んでいる。

 心理学ではこれまで、思春期から青年期にかけての若者は、仲間の真
似をしながら同時に「自分らしさの感覚」を育てなければならない、と
考えられてきた。たとえば、一時期、世間を驚かせたガングロギャルは、
まったく同じ格好をした友達と"ツルんで"街を歩きながらも「私って個
性的」と思い込んでいる。実はギャルたちは見分けがつかないほど似て
見えるし、その個性などたかだか外見的なものに過ぎないが、逆に考え
れば、それくらいのうぬぼれがなければ「自分らしさ」の感覚など手に
入れることはできないということだ。

 ところが、ネットをよりどころにする若者の多くは、仲間の真似をす
る無邪気さからも、奇抜な外見を「これが自分らしさで個性だ」と言う
うぬぼれからも無縁だ。おびただしい情報に触れ、実経験は少ないもの
の「世の中ってこんなもの」という見極めがついたつもりになっている
場合も多い。そうなると、まじめで純粋な彼らはひたすら自分の内面を
見つめ、「自分らしさってなんだろう?人生の目的ってなんだろう?」
と考えていく。

 しかし、「真の個性」や「真の人生の意義」など誰にもわからない。
大人ならそこで、仕事や家庭といった"言い訳"を見つけて思案を中断す
ることもできるが、彼らにはそんなごまかしは通用しない。その思考の
果てに待っているのは、「結局、人生や自分に意味はないんだ」という
虚無の落とし穴である。

 そのことをわかっていても、彼らはパソコンを鏡にしながら自分につ
いて考えるのをやめることができないのだ。同じような道のりをたどっ
てきた人にネットで出会ったときに「やっと同じ考えの人がいた」と覚
える安堵感は絶大であるはずだが、それはもはや「人生、捨てたものじゃ
ない」と生きるエネルギーには結びつかないほど、彼らは自分を見つめ
ることに疲れ切っている。

 それでも彼らが、最期に「ひとりではなく、だれかと」「自分と同じ
人だけではなく、異性と」と自分以外の他者を求めている姿には、胸が
痛む。―そう、それでいいんだ、今、あなたが見つけた仲間や異性の友
だちとこれからつき合いながら、ゆっくり「自分らしさ」を見つけてい
けばいいんだよ。誰かがそう声をかけてやりさえすれば、彼らは出会っ
たばかりの"同志"と生の旅路を歩んで行くこともできたのではないか。

 しかし、大人たちが自分の生活のこと、社会や国の安全を守ることで
手いっぱいになっている今、若者に寄り添って声をかけるその"誰か"に
なる余裕を持つ人、「とりあえず私のようにやってみなさいよ」と生き
るモデルを示せるような人は、残念ながらほとんどいない。「国益」と
いうことばが流行っているが、虚無や絶望に陥っている若者をすくい上
げる手だてがないことほど「国益」を損ねることはない。私はそう思っ
ている。



この記事と、どれだけ関連しているかどうかはわからないんだけど、
個人的に、ネット集団自殺に関して思うことは二つある。
一つ目は、「共通の土俵」の問題。
そしてもう一つは、「リアリティ」の問題である。


「共通の土俵」に関して言えば、
例えば、私が「自殺サイト」にアクセスして、その掲示板に「自殺は
やめよう」と書いたとしても、全く意味はないかもしれない。

なぜなら私は彼らと同じ土俵の上に乗っておらず、結果として接点が見つからないからである。

また、ネット自殺における共通の土俵に関しては、もう一つの疑問がわい
てくる。
自殺志願者が、そのサイトに集まる背景には、前回引用した鴻上尚史の
言葉のような「そこに書き込めば誰かが癒してくれる」という作用がある
と思うのだけれど、何故それは自殺を止める方向には働かないのか、

またはそれがネット上の癒しでは済まずに、現実に一緒に死んでくれる相手を募集し、それに応じてしまう人がいるのは何故なのか、という事である。


それは、もしかすると彼らにもネット上のつながり、安易に得られる癒しでは、自分の絶望は癒されないという思いがあるからなんじゃないだろうか。
すなわちネット上から現実上でのつながりを、やはり求めようという欲求の現れだとは果たしていえないだろうか?

これは個人的な推測なので、全くの的外れの可能性も高いとは思うんだけど、、一人ではなく、複数で、一緒に死ぬということは、香山リカも引用文中で推測しているようにやはりどこかで他人とつながりたい、という人間の本能的な欲求は、まだあるんじゃないかなあ、なんて思うんだけど。


ただし、その共通の話題が「自殺」であった場合、違う土俵でもお互いに接点が見出せればいいのだけれど、そういうものが全くない場合は、お互いの「異なる土俵」ばかりがクローズアップされることになって、結果
コミュニケーションが立ち行かなくなり、やはり自殺へと向かうしかなくなってしまうのかもしれない。
以上は個人的な想像の産物でしかないのだけれど。


そして、もう一つのリアリティの問題。
その例として、これが果たして適当かどうかはわからないんだけれど、
疑問に思うことが一つだけある。

それは、彼らは異性と共に自殺することが多いわけだけれど、死ぬ前に
果たしてSEXをした人はいるんだろうか、という事である。
これが不謹慎な発言かもしれない事は自覚しているが、死者を冒涜するつもりは全くない。

ただ、素朴な疑問として、これで自分の人生最期、となった時に目の前に
異性がいたとして、それでは何故最期の思い出に一緒にSEXしましょうとは、何故ならないのか、もしくはSEXしたとして、それが再び生きようという衝動を何故生まなかったんだろうと思うのだ。

もちろん、彼らにしてみれば、一緒に死ぬ、という文字通り自分の人生をかけた崇高な目的の前には、SEXなんて眼中にはないのかもしれないし、そもそも性的な営み自体を嫌悪しているのかもしれないけれど。

ただ、一ついえるのは、彼らにとってみれば、目の前のSEXの可能性よりも、一緒に死のうという事のほうがリアリティがあったという事なんだろうと思うのだ。


でもね、日々職業として、人の身体を扱っている立場で言わせてもらえば、およそどんな生命体―それは例えばガン細胞にしたって―も、自分の生命を永らえさせようという方向にのみ、活動を続けるものだと思うのだ。

それは、今まさに自殺しようとしている人の身体も同じ。
例えば薄れゆく意識のその瞬間だって、例えば心臓は、酸素を全身に送ろうと必死に働いているし、肺だって一生懸命酸素を取り込もうとしていると思うのだ。

そうやって、身体は必死に生きようとする活動を、意識が邪魔をしようと
しているのが、自殺という行為だと思うわけで。
ここでSEXを取り上げたのは、そうした生への欲求の一つとして取り上げてみたつもりなんだけど。


それでは、何故彼らはSEXよりも自殺という選択肢を選んでしまったのか。
実はそこにこの一連のナイーブに関する問題を考える一つの鍵があると思うのだ。
と、いうことで次回。


 < 過去  INDEX  未来 >


harry [MAIL] [HOMEPAGE]

My追加