パラダイムチェンジ

2003年01月30日(木) 自意識

「ピルグリム」のパンフレットの対談の中にこんな部分があった。

鴻上 最近の若者を見ていると、自意識そのものに苦労している
のではなく、自意識に悩んでいる自分を恥ずかしいと思う自意識で
振り回されているということを感じるんですよ。

宮台 自意識の間題を自意識的に悩んだって、自意識の墓穴を掘る
だけだ。それくらいの失望には、体操がふさわしいという話ですよね。



自意識、について考えてみる。

個人的には次のように考える。
自、意識というとおり、要は関心のベクトルを自分に向けている
状態なんじゃないかな、と思うのだ。
そしてもう一つ思うこと。
それは最低限の防衛本能が働いている状態、なんじゃないだろうか。

人は自意識の状態にいる時、その人が世界の中心になる。
いわば、自分が主人公の世界。
例えば恋をしている時、その人の自意識は活発になるのかもしれない。

そしてもう一つの極端かもしれない例をあげれば、例えば自分が
いじめられている時や、病魔に苦しめられているとき。
自分が悲劇の主人公やヒロインだと思うことで、実は人はその苦しみを
緩和しているのかもしれない。

なぜなら自意識の状態でいれば、傷つくことは少なくなるから。
まるで亀が自らの頭や手足を引っ込めるように、自意識の甲羅に
守られてることってあるような気もする。

たとえどんなに苦しい状況でも、自意識のフィルターを通すことで
その痛みは和らげられる。これを心理的な合理化と言ってしまって
いいのかはちょっとわからないんだけど、そうやって人は最低限、
自分を守っているような気がする。

ただし、ここで問題がある。
一つは自意識の甲羅の中にいることを心地よく思ってしまうこと。
自意識の中にいる心地よさを覚えてしまうと、外に出て行くことが
億劫になったりすることってあるかもしれない。
だって自意識の中だったら自分は傷つかないんだから。

自己嫌悪することはあるかもしれないけれど、自己嫌悪も、多くは
合理化の一つのような気がする。昔、鴻上尚史が言ってたけど、
実は自己嫌悪は自分に対しては優しい、のだ。
いわば緩衝材というかクッションのように、傷がそれ以上大きくなるのを
防いでくれる。

そしてもう一つの問題。
それは自意識の世界では、自分の嫌なものはいくらでも消せる、
ということ。

ズーニー山田さんのコラムに 似たような話がある。
すなわち、電車の中で平気でメイクできるのは、周りの人たちの
存在を消しているから。

周りにいるのが人間でなければ、いくらみっともないと
思われる事だって平気でできてしまうのかもしれない。
そんな風に自意識の世界の中では、世界でたった一人だけの存在に
だってなれるのかもしれない。

そしてその状態がもっと進むと一体どうなるだろうか。
今度は自分の肉体すら、消し去ってしまうような気がするのだ。
なぜなら、自意識とは結局、脳の中の幻想?であるから。

片付けられない人、というのがいる。
まあ自分もあんまり人のことは言えないんだけど。
なぜ片付けられないのかといえば、その人の関心が外へと向かって
いかないから。

自分は、鍼灸師という立場で人の身体を触れる事が多いんだけど、
話してみて自意識の強そうな人って、結構自分の身体の変化に
対して、鈍感なことが多いような気がする。

そんな姿勢で座ってたらつらいだろうって姿勢で電車の椅子に座って
いる人なんてのも、そうかもしれない。
自分の身体から送られるシグナルでさえ、自意識がカットして
しまっている人って実は多いのかも。

そして、自ら命を絶ってしまう人も、もしかすると自分の身体が
存在していたことを忘れてしまっているのかもしれない。

問題なのは、そういう自意識に苦しんでしまうと、今度はだんだん
出口が見つからなくなってしまうことだ。
内へ内へと向かう意識のベクトルを、外に向ければいいだけなのかも
知れないけれど、そうすると今度は無防備な自分を外にさらけ出さない
といけなくなる。

でも、もともとは外に目を向けるのが苦手だからこそ、自意識で
守られていたわけだから、外を向け、と言われたからってそうそう
簡単に変われるわけではなかったりもする。
そんな感じで自意識に苦しんでいる人って実は多いのかもしれない。

では、どうすればいいのか。
個人的に思う解決法は、結局は自分の身体を思い出すこと、
なんじゃないかなと思うのだ。

まずは立ち上がってみる、そして大きく伸びをする。
自分の身体のどこが伸びて、どこが伸びにくいのかを感じてみる。
歩いてみて、どうしたら疲れずに歩き続けていけるのか、
歩くことが楽しくなる歩き方ってどんなものなのか、考えてみる。

脳の中から、意識を身体という「外」へ持ち出すだけで、実は
そこには様々な発見があることに気がつくような気がする。

例えば考えに煮詰まった時、意識を身体に向けて歩いてみる。
もしくは、ただ漫然と食べるのではなく、この食べ物の
どこに魅力を感じるのか、いとおしいと思うものはなんなのか、
考えてみる。
そんなことの積み重ねが、外に向いても傷つかない心を磨いて
いくんじゃないかなあ。

心は、というより心を発生する元々の脳は、脳だけで生きている
のではない。
そこには脳を生かすための、身体があり、身体が酸素を含めて
様々な栄養を脳に運び、そして不要物を排泄してくれるからこそ
脳は生きている。

自意識にとらわれている状態、すなわち心のベクトルが自分に
向いている限り、人に何かを伝えようと思っても難しい。
なぜなら伝えようと思うベクトルが相手ではなく、自分を向いて
いるのだから。

そして、伝えるべきツールとなる身体をどこかへ忘れてきて
しまっているから。
だからこそ、最近では自分の身体を見直すような様々なメソッドが
静かなブームになりつつあるのかもしれない。

自意識と身体については、山田詠美がエッセイの中でちょっと
触れている。

【(略)こうあげてみると、私は、口の上手いやつが嫌いみたいだ。
心に発生した言葉を、そのまま語り、足りない分は体で補う男が好きだ。
体で語ることを知っている男は素敵だ。
そういう人は、あらゆる体のパーツが饒舌なのだ。
これは誰にでも出来る芸当ではない。自意識を取り外せる男だけ
が、体の言語をものに出来るのだ。
自意識を取り外すと、その分だけ、言葉に隙間が出来るのね。
そこに肉体をすべり込ませるというわけ。

 時田秀美は過剰な自意識を削り取ろうとする真っただなかにいる。
上手く行けば、意識的に無自覚を手中に収めた魅力的な男が
出来上がる。無自覚、無頓着(無神経とは違うよ)は、私の好きな
男たちに共通したセックスアピールである。そういう男たちは、
くるぶしや肘までもがお喋りである。
体が詩人の素質を持つ、そういう男と私はベッドに入りたい。(以下略)】

(山田詠美 「AMY SAYS」 新潮文庫収録、『時田秀美の場所』より)

いい男・いい女になること。
それは自分の自意識との適度な距離をつかめるって事なのかもしれない。


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