| 2003年05月31日(土) |
ナイーブな人(13)ここまでのまとめ |
ここで再び、一旦問題を整理してみる。 いろいろと、言葉の上でもデリケートな問題を含んでいると思うので、 あえて村上龍的な言い回し?でこの一連のシリーズで何を一番の問題にしたかったのか、再確認してみる。
元々の問題提起は、日本人の持つナイーブさに関する問題であった。 でも、それは、何もナイーブなことが全て悪いわけではない。ナイーブさ 故の日本人の美点とよばれるものも、そこには数多く含まれていると思う。
また、インターネット上のコミュニケーションについても触れたが、私はネット上のコミュニケーション全てを否定するつもりは全くない。
ただ、ネット上のコミュニケーションには、共通の土俵がなければ、コミュニケーションが成立しにくいという特性があり、そこからネット上のコミュニケーションには、異物を取り入れようとする力はもしかすると弱いかもしれない、という事を指摘したかったに過ぎない。
その上で言えば、私はネット上のコミュニケーションに対して、過剰な期待も絶望もしないで、今後も利用していくつもりである。
また、何もインターネット上のコミュニケーションによって、人が癒されていくことを否定するつもりもない。 その場所で孤独さよりも、心の安定を得られる人は沢山いるだろうし、むしろそんな風に賢く?利用することで、日常生活をも円滑で楽しく過ごしている人のほうが圧倒的に多いだろうと思う。
自殺サイトのコミュニケーションにしたって、あそこに出入りしている人の全てが、自殺をしているわけでは決してないだろうし、むしろ生きる力を得ている人たちも沢山いるんじゃないかな、と思うのだ。
では、一体私は何を問題にしようとしているのだろうか。
それは、現代の日本の社会の場合、内側と外側の概念が曖昧になっていることと、ナイーブなふるまいに関する問題である。
それは一体どういうことなのか。 ナイーブでいられる人の場合、内側だけを意識している限り、その人自身にはなんら問題はない。なぜならそのナイーブさは、周囲に容認されていることが多いからである。
だから自分が内側に属している世界が充実している限り、特に不平不満はないはずだ。 それは極端な話?白装束の集団や、オウムの人たちだって同様だろう。
ただし、現代においては、庇護社会が壊れつつあることで、内側だけを意識していくことが困難になり、自分の外側に属している世界とも否応なく、付き合わなくちゃならなくなっている。
もちろん、外側の世界には目をつぶり、あくまで自分の属する内側の世界だけに目をやり幸せに生きていく生き方もあるかもしれない。
でも、もしもあなたがナイーブな人だったとして、内側でするのと同じナイーブな態度で自分の外側にある世界に出たとして、果たして内側にいるのと同様に、傷つかないままの自分でいられるだろうか。
具体的な例で言えば、それは例えば、日本の旅行会社の、日本人の添乗員が一緒にいる、日本人だけの海外パック旅行と、自分の身ひとつ、予定もホテルも何も決めないままで、飛び出していった海外旅行の違い、みたいなものかもしれない。 今までパック旅行しかしてこなかった人が、いきなり異国の地に放り出されてしまったら、一体どうすればいいのか、途方にくれてしまうと思うのだ。
そしてここで問題になるのは、今の日本の現状では、何が内側で何が外側なのか、その基準が人によってバラバラなので曖昧だという問題だと思う。
話を20年前の金八先生の頃のTVドラマに戻す。
あの当時、人々の意識の中では、内側と外側の意識ははっきりしていたと思うのだ。
すなわち、自分の町、というカテゴリーがあり、その内側に属してる人だからこそ、近所のおばさんもいろいろとおせっかいもしたし、おじさんに怒られもした。
また中学生でも、例えば中卒や高卒で働く人も多かったからこそ、中学時代という共通の内側から社会という外側への旅立ちが意識されたし、共感をしたんじゃないかな、と思うのだ。
また、外国人の例も同様で、ONとOFFのすみ分けはうまくできているからこそ、例えばビジネスの世界でナイーブなふるまいをする人はそんなに多くはないのかもしれない。
すなわち他者とのつきあい方に多少なりともしんどいものがあっても、ある一定の社会通念が存在しているからこそ、そんなに混乱したようには見えないのかもしれない。
ひるがえって現代日本の場合、 以前取り上げたような、様々なナイーブなふるまいが現れてくるのは、やはり何が内側として意識され、何が外側なのか、曖昧なところから起こるんじゃないのかな、と思うのである。
すなわち、今まで庇護社会としての内側のみを意識して、外側とのかかわりあいをほとんど意識してこなかったからこそ、現在、様々な分野で自分の外側にあるものとどのように対処していいのか、わからなくなってしまったために起こる様々な事柄が、ナイーブな現象として現れているんじゃないかな、と思うのだ。
つまりは、この内側と外側の曖昧な時代に、いかに外側にあるものとうまく付き合うか、というのが今求められていると思うのだ。
そしてもしも、この仮説が正しかったとするならば、私たちは一体どんな風に自分の外側に属しているかもしれないものとつきあえばいいんだろうか。
問題はナイーブさを単に否定すればいいのか? と、いうことで次回に続く。 ついに月越しているし。
| 2003年05月30日(金) |
ナイーブな人(12)ナイーブではなかった頃 |
前回は、かつての日本には「外部からの異物の刺激を取り込んで、それに適応することを活力に変えていた」力があるという話をしたんだった。 そして、それこそがもしかすると今の日本に一番足りないものかもしれないと。
ただし、これは単純に過去の栄光を懐かしがってひきずろうとしているのではない。 ただ、日本人には、ナイーブではない一面もあることを再認識したかっただけである。
例えば、終戦直後、あたり一面が空襲で焼け野原で、何もなかったと言われる時代。 果たして、日本人はナイーブだったのだろうか? おそらく当時ナイーブで済んだ人なんて、皆無だっただろうと思うのだ。
だって、皆が皆、食うや食わずだった時代に、誰がナイーブな感傷にひたっていられただろうか。 そんな事をしている人は、真っ先に無視され、どこかに消えていくしかなかったはずだと思うのだ。
そして、そんな日本人の活力あふれる姿が、戦後の日本をつくってきたんじゃないかな、と思うのだ。 そして、その当時の気分があったのは、何も大昔の話ではない。 高度経済成長時代を通してその気分は維持され続け、おそらくは20年前くらいまでは、受け継がれてきたんじゃないかなって気がするのだ。
ちょっと前、TVでまさしく20年前のTVドラマである金八先生を再放送していた。 あの当時の金八先生と、最近の金八先生。変わったのは、綺麗になった町の風景と、ちょっと老けて短くなった金八先生の髪型だけではあるまい。
その時代の雰囲気が違うような気がするのだ。 20年前の金八先生の放送があった当時までは、まだ日本の中には猥雑さも活力もあり、だからこそ第2シリーズの「くさったミカンの方程式」の一連の盛り上がりがあったんじゃないかな、と思うのだ。
今、当時の盛り上がりを知らなかった若者たちがあの放送を見たとき、彼らは一体どんなことを思ったんだろうか。
話を現代に戻してみる。 それでは現代、私たちはどうすれば再び活力を取り戻せるのだろうか。
例えば株価が20年前に戻ったからといって、今すぐ生活を20年前に戻せ、といったとしても無理があるだろう。
なぜなら生活水準を元に戻そうにも、私たちは便利さと文化と繁栄をもうすでに味わってしまったから。 第一、今、以前の生活水準に戻してしまったら、今より消費が冷え込んでしまい、活力がかえって目減りしてしまうかもしれない。
それは昨年のサッカーW杯の時に、現役日本代表選手に対して、メキシコ時代のOBが「ハングリー精神が足りない」と言ったことと同様、何の解決にもならないと思う。
そして、もう一つ、現代の日本の社会は、かつての日本のように「アメリカに追いつき追い越せ」というような単純なスローガンでは一つにはまとまれない時代に入ってきてしまっている。
単純に国力を増すことが、日本国民全体の利益になる時代ではなく、人それぞれの価値観で生きていく時代だけど、その価値観が見えにくくなっている時代。
でも、そんな時代に活力を生むための一つのヒントは、自分の外部にあるものをどう取り込んで、刺激を受けるか、という事のような気がするのだ。
そしてそれはある意味、最近の「学びたい」というひそかなブームに現れているとも思うわけで。
という事で次回。
| 2003年05月29日(木) |
ナイーブな人(11)異物を取り込む力 |
関係ないけど、村上龍のエッセイのアンソロジー集に「自殺よりはSEX」 というタイトルの本があったことを、昨日の日記をUPした後で思い出した <いやマジで。
残念ながらその本は読んでいないんだけど、種を明かせば、実はSEXに関 するリアリティのくだりは、これから引用する、村上龍と田口ランディの 対談の他の部分にインスパイヤされたものであった事を打ち明けておこう。 とりあえず、この対談、個人的にすっごく面白かったんである。
さてそれでは前回の続き。 彼らは何故、SEXよりも自殺を選んだんだろうか、という問題。 そのヒントになるかもしれない話が、 「存在の耐え難きサルサ」の中の 村上龍と田口ランディの対談の中にある。
田口 私がいつも相談に乗ってもらっている精神分析医がいて、その人 が以前にこんなことをいっていたんです。ふつう、僕らは異物と して世界からの刺激を取り込んで、それをエネルギーにしている んだけども、妄想は、それができない人間が自家発電で起こす異 物なんですよと。でも、自家発電はすごく電流が弱いし、すぐ切 れるんです。だから、自分の中で自家発電をしながら、自分の中 に異物をどんどんつくり出していくんだけれども、それは生きる という意味での力が本当に弱い。だから自閉は、生命力を持って いないパワーをつくる装置だというんです。
じゃ、人間にとっての生命力は何かというと、僕はそれはわから ない。でも、とにかく人間には生きたいというパワーがあって、 それを持っているから外のものも取り込めるんだけれども、自家 発電をすることによって、そのパワーは弱くなるんですよという。
村上 スパイラルになって、循環的になっていって、どんどん自分で消 耗する。
田口 パワーはすごく出るんです。でも、それは生きる方向に向かわな いパワーになっていくというようなことを説明されて。
村上 ちょっとデフレスパイラルみたいなものですね、どんどん縮小し ていく。
田口 その説明はすごく納得できた。
村上 それはおそらく正しいですね。
田口 そういう状況に入っちゃうと、かなりきつくなっていく。自家発 電によって妄想が大きくなっていくから、殺したり、そういう力 は出てくるんですって。けれども、それは生きる力には向かわな い。
村上 戦略的に考えて、こうした方がアドバンテージがあるとか、こう した方が自分がより自由になるとか、充実した人生があるとかと いうようなことに向かわないんですね。
田口 そう、ただ漏れ出してくる妄想の力なんです。
村上 引きこもりとかパラサイト・シングルの人に対して、平気で、そ ういう人は何か弱いんだという人がよくいますよね。すると、何 かドキッとするんだけれども、何が脆弱かわからなくて、今田口 さんがいったことで、少しははっきりと輪郭がつかめました。
ただ、その人が弱いとか脆弱だとして、強くなるためにはとか、 強さは何かというと、やっぱりわからなくなる。
田口 わからないですね。脆弱であることが悪いとかいいとも決められ ないから。
村上 いい部分もいっぱいあるものね。
この引用文中で取り上げているのは、引きこもりの問題であるんだけど、 生きる方向に力が向かない、という意味では、共通する部分があると思う。 異なるのは、引きこもりの人の場合、自分の外側にある世界とうまく付き合うことができないことが、内側にこもることに対して、集団自殺の人たちの場合は、「一人ではなく複数の人と」他の人の入り込むことのできない内側を形成し、死へと向かうことだろう。
誰にも侵されないという意味では、彼らは死ぬ瞬間まで、一種の幸福感に浸ることができるのかもしれないけれど。
そして例えば同様の事は、例えばストーカー殺人をしてしまう人の心理とも共通する気がするのだ。
ただし、私がこの文章を引用した理由は、彼らと私たちの心理的な違いを際立たせようとしているわけではない。 この引用文中の「異物として世界からの刺激を取り込んで、それをエネルギーにしている」強さを、それでは私たちがどれくらい持っているだろうか、という事が問題なんじゃないかな、と思うのだ。
なぜなら、今現在の日本を見回す限り、日本の社会に足りないのは、実は この「異物を取り込み、同化する力」なんじゃないかな、という気がするからである。
でも、たとえば過去の日本を考えてみてほしい。 過去、私たち日本人は、外部からの刺激に対して巧みに適応してきたのではなかったのだろうか。
例えば、1000年以上前には中国文化を取り込み、100年前には西洋文化を取り込み、50年前の敗戦の時には彼らの品質改善の手法を取り込み、それを日本風にアレンジしてきたからこそ、今日の日本の繁栄があるのではなかったか。
また例えば、30年前、自動車の排ガス規制があったときには、全世界でいち早く日本のホンダが適応したように、かつての日本人には、外からの刺激を受けいれて活力を生み出していたんじゃないかと思うのだ。 それは、まさしく「プロジェクトX」の世界だといえるのかもしれないけれど。
と、いうことで次回。
| 2003年05月28日(水) |
ナイーブな人(10)ネット集団自殺について |
ただの思いつきで始まったこの一連のシリーズも早10回。 いい加減終わらせようとも思うんだけど、なかなか終着地点が見つから なかったりする。 一体私はどんな落ちをつけられるのか、実は書いている本人もちょっと 楽しみ?だったり。
と、言うことで今回は「ネット集団自殺」について。
ネット集団自殺について、その問題をこの一連の「ナイーブさ」の中に 押し込めることに対しては、違和感を感じる人もいるかもしれない。 それがどんな理由であれ、彼らのした自分の命を自ら絶つ、という選択は 「ナイーブ」の一言ではなかなか片付けられない問題かもしれない。
ただ、個人的に、この「ネット集団自殺」の背景には、前回触れた、 「たった一つの共通の土俵の脆弱さ」という問題が含まれているように 思えるのだ。
ネット集団自殺に関して、精神科医香山リカが、ちょっと前、4月27日の 毎日新聞の文化欄「21世紀を読む」というコラムにこんな文章を載せていた。
香山リカ「個性を追求した果てに」
インターネットの匿名掲示板で胸に隠し持っていた自殺願望を語り合 った3人の若者が、「じゃ、実行しようか」とどこかで集まり、そのま ま"なるべく苦しまない方法"で死出の旅路へ。「ネット心中」などとも 呼ばれるそんな事件が、今年になって日本全国で起きている。共通点は、 「ネットでのやり取りだけでお互い面識はないこと」「人数は3人で異 性が混じっていること」だ。
多くの人はこんな疑問を持つだろう。生死にかかわる重要な問題を、 ネット上で簡単に決めるのはなぜか。どうして恋人でもない異性と死ぬ のか。ひとりでもふたりでもなく3人であることに理由はあるのか……。 この問いの中に、今の若者たちが抱える大きな問題の本質が潜んでいる。
心理学ではこれまで、思春期から青年期にかけての若者は、仲間の真 似をしながら同時に「自分らしさの感覚」を育てなければならない、と 考えられてきた。たとえば、一時期、世間を驚かせたガングロギャルは、 まったく同じ格好をした友達と"ツルんで"街を歩きながらも「私って個 性的」と思い込んでいる。実はギャルたちは見分けがつかないほど似て 見えるし、その個性などたかだか外見的なものに過ぎないが、逆に考え れば、それくらいのうぬぼれがなければ「自分らしさ」の感覚など手に 入れることはできないということだ。
ところが、ネットをよりどころにする若者の多くは、仲間の真似をす る無邪気さからも、奇抜な外見を「これが自分らしさで個性だ」と言う うぬぼれからも無縁だ。おびただしい情報に触れ、実経験は少ないもの の「世の中ってこんなもの」という見極めがついたつもりになっている 場合も多い。そうなると、まじめで純粋な彼らはひたすら自分の内面を 見つめ、「自分らしさってなんだろう?人生の目的ってなんだろう?」 と考えていく。
しかし、「真の個性」や「真の人生の意義」など誰にもわからない。 大人ならそこで、仕事や家庭といった"言い訳"を見つけて思案を中断す ることもできるが、彼らにはそんなごまかしは通用しない。その思考の 果てに待っているのは、「結局、人生や自分に意味はないんだ」という 虚無の落とし穴である。
そのことをわかっていても、彼らはパソコンを鏡にしながら自分につ いて考えるのをやめることができないのだ。同じような道のりをたどっ てきた人にネットで出会ったときに「やっと同じ考えの人がいた」と覚 える安堵感は絶大であるはずだが、それはもはや「人生、捨てたものじゃ ない」と生きるエネルギーには結びつかないほど、彼らは自分を見つめ ることに疲れ切っている。
それでも彼らが、最期に「ひとりではなく、だれかと」「自分と同じ 人だけではなく、異性と」と自分以外の他者を求めている姿には、胸が 痛む。―そう、それでいいんだ、今、あなたが見つけた仲間や異性の友 だちとこれからつき合いながら、ゆっくり「自分らしさ」を見つけてい けばいいんだよ。誰かがそう声をかけてやりさえすれば、彼らは出会っ たばかりの"同志"と生の旅路を歩んで行くこともできたのではないか。
しかし、大人たちが自分の生活のこと、社会や国の安全を守ることで 手いっぱいになっている今、若者に寄り添って声をかけるその"誰か"に なる余裕を持つ人、「とりあえず私のようにやってみなさいよ」と生き るモデルを示せるような人は、残念ながらほとんどいない。「国益」と いうことばが流行っているが、虚無や絶望に陥っている若者をすくい上 げる手だてがないことほど「国益」を損ねることはない。私はそう思っ ている。
この記事と、どれだけ関連しているかどうかはわからないんだけど、 個人的に、ネット集団自殺に関して思うことは二つある。 一つ目は、「共通の土俵」の問題。 そしてもう一つは、「リアリティ」の問題である。
「共通の土俵」に関して言えば、 例えば、私が「自殺サイト」にアクセスして、その掲示板に「自殺は やめよう」と書いたとしても、全く意味はないかもしれない。
なぜなら私は彼らと同じ土俵の上に乗っておらず、結果として接点が見つからないからである。
また、ネット自殺における共通の土俵に関しては、もう一つの疑問がわい てくる。 自殺志願者が、そのサイトに集まる背景には、前回引用した鴻上尚史の 言葉のような「そこに書き込めば誰かが癒してくれる」という作用がある と思うのだけれど、何故それは自殺を止める方向には働かないのか、
またはそれがネット上の癒しでは済まずに、現実に一緒に死んでくれる相手を募集し、それに応じてしまう人がいるのは何故なのか、という事である。
それは、もしかすると彼らにもネット上のつながり、安易に得られる癒しでは、自分の絶望は癒されないという思いがあるからなんじゃないだろうか。 すなわちネット上から現実上でのつながりを、やはり求めようという欲求の現れだとは果たしていえないだろうか?
これは個人的な推測なので、全くの的外れの可能性も高いとは思うんだけど、、一人ではなく、複数で、一緒に死ぬということは、香山リカも引用文中で推測しているようにやはりどこかで他人とつながりたい、という人間の本能的な欲求は、まだあるんじゃないかなあ、なんて思うんだけど。
ただし、その共通の話題が「自殺」であった場合、違う土俵でもお互いに接点が見出せればいいのだけれど、そういうものが全くない場合は、お互いの「異なる土俵」ばかりがクローズアップされることになって、結果 コミュニケーションが立ち行かなくなり、やはり自殺へと向かうしかなくなってしまうのかもしれない。 以上は個人的な想像の産物でしかないのだけれど。
そして、もう一つのリアリティの問題。 その例として、これが果たして適当かどうかはわからないんだけれど、 疑問に思うことが一つだけある。
それは、彼らは異性と共に自殺することが多いわけだけれど、死ぬ前に 果たしてSEXをした人はいるんだろうか、という事である。 これが不謹慎な発言かもしれない事は自覚しているが、死者を冒涜するつもりは全くない。
ただ、素朴な疑問として、これで自分の人生最期、となった時に目の前に 異性がいたとして、それでは何故最期の思い出に一緒にSEXしましょうとは、何故ならないのか、もしくはSEXしたとして、それが再び生きようという衝動を何故生まなかったんだろうと思うのだ。
もちろん、彼らにしてみれば、一緒に死ぬ、という文字通り自分の人生をかけた崇高な目的の前には、SEXなんて眼中にはないのかもしれないし、そもそも性的な営み自体を嫌悪しているのかもしれないけれど。
ただ、一ついえるのは、彼らにとってみれば、目の前のSEXの可能性よりも、一緒に死のうという事のほうがリアリティがあったという事なんだろうと思うのだ。
でもね、日々職業として、人の身体を扱っている立場で言わせてもらえば、およそどんな生命体―それは例えばガン細胞にしたって―も、自分の生命を永らえさせようという方向にのみ、活動を続けるものだと思うのだ。
それは、今まさに自殺しようとしている人の身体も同じ。 例えば薄れゆく意識のその瞬間だって、例えば心臓は、酸素を全身に送ろうと必死に働いているし、肺だって一生懸命酸素を取り込もうとしていると思うのだ。
そうやって、身体は必死に生きようとする活動を、意識が邪魔をしようと しているのが、自殺という行為だと思うわけで。 ここでSEXを取り上げたのは、そうした生への欲求の一つとして取り上げてみたつもりなんだけど。
それでは、何故彼らはSEXよりも自殺という選択肢を選んでしまったのか。 実はそこにこの一連のナイーブに関する問題を考える一つの鍵があると思うのだ。 と、いうことで次回。
さて、今回も前回の続き。 インターネット上のコミュニケーションの一種の限界について。
この一連のシリーズ、とりあえず自分の思いつくままに書いているんだけど、まさかインターネット上で、ネット上のコミュニケーションについて書くとは書いている本人も思わなかった。
ここでは、ネットコミュニケーションには一種の限界があるかもしれない、という事を書いていくけれど、それは何も、インターネット上でのコミュニケーションを否定するつもりではないという事をあらかじめ断っておく。
私自身の立場で言えば、ネット上のコミュニケーションに対して、過剰な期待も抱いていないし、かといって絶望をしているわけではない。
さてそれでは、ネット上のコミュニケーションの限界とは、一体どこにあるんだろうか。
私が考えるのは、「共通の土俵がなければ成立しにくい」ところにあると 思うのだ。
さて、ここで質問をしてみる。 あなたにとってインターネットとは、悪意の固まりですか?癒しの場所ですか?それともそのどちらでもない場所ですか?
これは、私が考えた質問ではなく、実は今年の1月に見に行った演劇「ピルグリム」のパンフレットの中の、鴻上尚史と宮台真司の対談の中にある言葉である。
宮台 名付けられない場所といえば、インターネットも、匿名的存在になって自由を得るために使われる側面が確かにあります。だから初期はそれが強調されたけど、今は逆の側面も出てきました。会社がいつ潰れ、自分の肩書がいつ消えるか分からない流動的な現実世界になると、コテハン(固定のハンドルネーム)でコミュニケーションするネット世界のほうが、むしろ流動性が低く、共同体的になりやすいからです。
鴻上 分かります一去年上演した『ファントム・ペイン』のアンケートに「インターネットは人間の悪意を形にするものだと鴻上さんは、言うけれど、インターネットにハマるいちばんの問題点は傷ついた私を慰めてくれる人が必ず待っているということ。簡単に慰められるということだと思います」というのがあって、なるほどと思ってね。
さて、インターネット上には、2ちゃんねる、ヤフー掲示板をはじめとして、日本語のサイトでも星の数ほどの掲示板が存在している。 おそらく多くの個人サイトには、一つくらいはBBSがついているはずだし。 すなわち、今この瞬間も、どこかのサイトでは書き込みが行なわれているわけだ。
かつてインターネットが流行りだした頃、そうした世界はバラ色の世界のように思われていたような気がする。 だって、今まで会った事もない見ず知らずの人と、共通の話題で盛り上がることができるんだから。
それが例えば自分の周囲の人とは盛り上がりにくいものでも、ネット上だったら、共通の話題で盛り上がれる人たちが存在する。 これは自分のネットワークが広がるという、何よりの利点だろう。
そんな風に、無限の可能性があるように思われたネットコミュニケーションだけど、今度はある問題に直面するようになる。
それが「荒らし」の問題である。
すなわちどこからか盛り上がっている掲示板に入り込み、共通の話題、共通の認識とは別の考え方を主張し、そこに普段出入りしている人たちを、 ちょっとイヤーな気分にさせてしまう人たちのこと。
「荒らし」はもちろん荒らすことだけが目的の人たちも沢山いるとは思うけれど、その一方で「その場の空気の読めない人たち」「共通の土俵がわからない(と思われる)人たち」が、荒らし扱いされてしまう事も往々に してあるように気もする。
その結果、何が起こるようになってきたか。
これはなんかの本でも、宮台真司が言っていたらしいけれど、共通の土俵 に乗れない人は排斥して、内側だけでコミュニケーションを楽しもう、という流れが生まれてきた。
それは例えば、2ちゃんねるなどの巨大掲示板でも変わらない。 一つの話題に対して、賛成するスレッドと反対するスレッドが立ち、反対側の人間が書き込みをすると排斥されたりする世界になる。
また、2ちゃんのローカルルールというか、不文律の共通のルールに乗れない人は排斥されたり無視されたりする。
だから、その場の空気が読めて共通の話題に乗れる人は歓迎されるし、その一方でその場の雰囲気を壊す人はどんなにいい意見であっても、共通の土俵から外れていたら、荒らしにされてしまう可能性もある。
でも、ここでちょっと考えてみてほしい。 この状況って、果たして本当に自由なコミュニケーションといえるんだろうか?
ネットコミュニケーションの元々の可能性って、見ず知らずの人の、様々な物の見方を知ることも、コミュニケーションの可能性としてはあったんじゃないのかな? いや、もちろんそんな活発なコミュニケーションの交わされる掲示板も沢山あると思うけど。
内側の意識だけで固まることは、むしろコミュニケーションの不自由さを 感じさせることもあるんじゃないか、とも思うのだ。
これのどこが、ネット上のコミュニケーションの限界を現しているかといえば、一つには、異物を取り込む力の無さを現しているんじゃないかなと思う。
いや待って、それはネットを通さない、オフラインでのコミュニケーションでも一緒なんじゃないの?という意見もあるかもしれない。
うん、でもあくまで個人的な感触でいえば、ネットだけのコミュニケーションと、顔と顔を合わせたコミュニケーションでは、取り交わされる情報量も違うし、また、荒らしのような問題も起きにくいように思う。
だから、ネット上だけのコミュニケーションは、やはりどこかつながりという 意味では脆弱な部分があるんじゃないかな、という気がするのだ。
そしてもう一つの問題は、「共通の土俵」さえあれば、それこそ無条件に相手を信用してしまうというまさしく「ナイーブさ」を現しているんじゃないかな、と思うのだ。
そして、これは過去2〜3年に渡って起きた「出会い系」のトラブルそのもの、といえるわけで。 すなわち、インターネット上の例えば、「17歳、女子高生、さみしいです」という言葉を信じて会ってみたら全然違っていたりだとか。
だから、ネット上で口説くのは、実はそんなに難しくはないのかもしれない。嘘をついてでも、相手の理想の相手、という共通の土俵に乗っかってしまえばいいわけだから。
一時期は、そんなネット系出会いのギャップが面白さとしてTVバラエティに組み込まれたりもしたんだけど、今度はそのギャップがオフラインで出会うことによりトラブルになり、殺人事件まで起こるようになってしまった。
最近、そんな事件を聞かなくなってきたのは、皆が少なくともネット上の出会い系に対しては、無条件に信用せず、ある一定の距離を持って接するようになり、ある意味賢く付き合えるようになったからかもしれない。
ただし、そうした問題が聞かれなくなって、それではネットコミュニケーションの問題が解決したかというとそんなことは無く、今度は「ネット集団自殺」の問題が起きるようになってしまった。
これは、たった一つの「共通の土俵」という脆弱さが引き起こしている連鎖反応のような気がするのだ。 という事で次回。
さて今回も前回の続き。
前回は最近の日本人のふるまいの中にナイーブなものが目に付くのは、 もしかして「何が外側で何が内側なのか」その認識がバラバラなことから 来るんじゃないのか? という所で終わったんだった。
そしてそれが端的に表れているのが、現在の若者に関する諸問題―例えばプチ家出とか―であるかもしれない。
さて、そうは言っても、昔から不良の若者たちは沢山いたわけで。 昔と今の一番の違いは何かといったら、彼ら若者の行動が、私たち大人の 理解を超えているように見えるということかもしれない。 自分でおっさんだと認めてしまったけど。
それではなぜ?今の子供たちは荒れている(ように見える)のだろうか。
ここで一つ断っておかなきゃいけないのは、私は別段、教育心理学者でも カウンセラーでもなんでもなく、ただ彼らの行動から、その気持ちに関してあてずっぽうかもしれない推測をしているに過ぎないということである。
もしかしたら、さもわかったようなこうした推測こそが、彼らの苛立ちの 原因であるかも知れないわけだし。 ついでに言ってしまえば、彼らに必要なものは、こうやって評論家のように他人事で冷静に分析することではなく、その場でちゃんと受け止めてあげることのような気がするんだけれど。
と、断り(言い訳?)を入れた上で、あえて個人的な推測を重ねれば、 それは、例えば大人たちのナイーブなだらしなさに対する苛立ちと言えるのかもしれない。 だって、子育てだろうが教育だろうが、皆責任の所在をたらいまわしにしているだけでしょ?
だから子供たちは、自分の怒りの矛先を一体どこにぶつけたらいいのか、 わからない。
すなわち、ここで考えたいのは、「子供にだけ問題がある」のではなく、 「大人に問題があり、それが無意識かつ無責任になおざりにされている」 からこそ、子供たちの問題として顕在化しているという見方もできるんじゃないだろうか。
これは前にも引用した河合隼雄、吉本ばななの対談本「なるほどの対話」 からの引用文。
吉本 でも、頭ごなしに言うような人があと15人くらいいたらいいと 思う。15人ってなんだかよくわからないですけど(笑)。「本読 め!」とか「雨戸閉めろ!」とか、何かそういうふうに。「深刻 すぎる!」とか。
河合 そうですね、みんなが理解しているふりをしてるからね。本当に 理解があるんやったらまだいいけど、「ふり」をしているから、 頭ごなしによう言わんのですよ。訳知り顔で言われると反発のし ようもないし、何も言いようがないんです。頭ごなしに言われれ ば、子どもは絶対反発できますからね。それがわかりにくいとい うか……。しかし、15人くらいということですが、あんまり多 くなったらいけませんよ(笑)。
吉本 あんまり多いと、雰囲気が、こう……(笑)。
河合 昔はすべての人が頭ごなしだったから。
吉本 それがいやだと思った世代が、いま一生懸命ああやって……。
河合 そうそう、みんなやめすぎているんですね。
吉本 その代わり、妙に柔らかくなった気がします。
昔よく近所に、ガミガミうるさい人がいたのは、彼らには頭ごなしに決め付ける「ナイーブな」一面もあったとは思うんだけど、その一方でちゃんと「地域の大人」としての責任が取れたからなんだと思うのだ。
そして、今、そういう人たちがなかなか発言権を得られないでいるのは、 「町」という単位が崩壊して、「首都圏」という大きなくくりになってしまっているからなのかもしれない。
だって、例えば渋谷にプチ家出していている子の自宅が、そこら辺の近所だったら面倒の見ようがあるかもしれないけれど、それが例えば何十kmも 離れた場所だったら、「町」「地域」の大人という立場の内側の論理では 何も言いようがないわけでしょ?
で、当の若者たちにしてみれば、単に自分の論理を振りかざしてガミガミ 言うだけの大人は自分の親たちと同様に「自分の事を理解しようともしない外側」の人間かもしれないわけで。
彼らにとっての外側と意識される限り、彼らに何を言っても聞いてもらえないのは当たり前、なのかもしれない。
でも、その一方で彼らは自分の身になって考えて、本気で叱ってくれる大人(他人)というのを求めているような気がするのだ。
例えば、ホストにはまる10代〜20代の女の子たちがいるのは、彼女らの言い分を聞いてくれて、時には叱ってくれるのが(そこには大金があるにせよ)彼らホストであるのかもしれないし、またそういうかけがいのない存在であると思えばこそ、そのお金はいくら払っても、ちっとも惜しくはないものなのかもしれない。
また、例えばインターネットの掲示板で「自分の本音を聞いてくれる誰か」を求めてしまうのも、もしかしたらそんな理由からかもしれない。
でも、これって単に若者だけの話ではないと思う。
癒しの空間としてキャバクラに大金を払う大人たちもいれば、出会い系に はまってしまう主婦や大人たちも沢山いる。
彼らにとってみれば、それらは皆、かけがいのない内側であり、変な話、 家庭が自分の外側になっている場合だってあるかもしれない。
ただ、例えばインターネットだけを内側にしてしまうと、そこには一つの 落とし穴ができるような気がするのだ。 そしてそれはネットコミュニケーションの一種の限界といえるのかもしれない。
と、言うことでまた次回。
| 2003年05月25日(日) |
ナイーブな人(7)第二部? |
さて、話が大きくなりすぎて、いささか私の手にあまるようになってきた 気がするので、話を 「私の中にもあるナイーブさと、どうつきあうか」 という話に戻してみる。
まずは思いつくまま、ナイーブさの特徴をあげてみる。 ・素直で純真である。 ・(少なくとも自分が所属している世界に対しては)やさしい。 ・外側の世界にはあまり目がいかない。
であるが、これら全てが悪い訳ではないと思う。 他人に対する親切心とか、心のきめ細やかさとか、その場の雰囲気を読む 能力など、日本人特有のいい性質とも関係があると思うし、また以前の 日記 でとりあげた、フローラン・ダバディの考える日本人の美点とも、 共通していると思うのだ。
ただ、問題になるのは、そういうナイーブさを内包している為の美点を 持つ人が、時として人の迷惑になるような「ナイーブな(子供じみた)」 行為をすることに問題があり、現在の日本ではそうした行動が特に目に つくんじゃないのかな、と思うのだ。
では、前回の最後で取り上げたように、果たして「ナイーブさ」は全て 捨て去った方がいいんだろうか、という疑問がわいてくる。
自分の心の中にあるナイーブさというのを否定してしまうのは簡単?なん だけど、「ナイーブなことが許される世界」というのを全否定してしまう と、今度はとたんに息苦しい世界が浮かび上がってくるような気がする。
それは例えば、その内側の世界に属していることが重要視されて、変に 目だって傷つきたくないと思うからこそ、単独の行動がとれなくなって しまっている世界であるとか。
具体的に言えば、誰かと一緒でなく、一人ではなかなか昼食が食べられないと言われているOLのランチメイト症候群であったり、公園デビューに失敗してしまうと延々と村八分にされてしまうらしい世界であったりとか。
つまり、内側にいればそれで安泰というわけではなく、内側にいるからこそ、息苦しさを感じる人も中にはいるわけで。
個人的に不思議に思うのは、なぜ、お互いに甘えあう世界と、今度はお互いに監視しあって抜けがけを許さない世界という両極端の世界だけが目立って、その中間で程よい世界というのを見かけることが少ないんだろうか、という事である。
いや、もちろん、そんな関係も沢山あって、私の場合なんかはそういう友 達に囲まれてきたからこそ、何とか?社会生活を営んでいけるわけだけど。
で、例えば欧米人―何かと比較の対象にする時に欧米人を引き合いに出すのは悪いくせだが、知り合いの外国人はアメリカ人が多いもので―の事を考えると、彼らの中にナイーブな一面が全くないかというとそんな事はないと思う。
彼らは自分の内面とか、内側に属するもの、例えば家族や友人といったものをとても大切にしている。 例えば、彼らがホームパーティなんかをよくするのは、自分の内側にあるものを大切にしている証拠だろう。
でもかといって、じゃあ自分の外側にあるものに対しては「ナイーブな」ふるまいをするかというと、そんなことはなく、ちゃんと一種の礼儀正しいふるまいを見せる気がする。
まあ、一連のアメリカの国としてのふるまいは、極めてナイーブな行動と いえるのかもしれないけれど。
私はこう思うのだ。 彼ら外国人と日本人の一番の違いは、外部に対する意識の違いなんじゃないのかな、と。
例えば、日本の場合、日本全体を曖昧に大きな内側と捉えている気がする。村上龍がよく書いているけれど、政治家の人たちが「国民が」とか「国民全員が」のような事を言ったりするように。 ただ、その場合の国民が一体どんな人たちを指している―例えば、老年層なのか、若年層なのか、都市部の人なのか、農村部の人なのか―具体的 な事はわからない。
外国人の場合、「内側」の概念はもっと小さな範囲に押さえられ、内側と 外側の境界がはっきりしているような気がするのだ。 それがいいのか、悪いのかは別として。
例えばビジネスの世界でも、多少の内側の意識はあるだろうけど、それだけではビジネスは行なわないかもしれない。 具体的な例で言えば、自動車メーカーが車の部品を手に入れようとする時、今までの日本の場合なら多少のコストが高くても「系列」の子会社から調達していたんだと思う。
外国のメーカーの場合は自分の子会社にこだわることはなく、そのコストが安ければ、ライバルメーカーの系列であっても、部品を調達するし、その部品メーカーもライバルの会社だからといって部品を売らない、なんて事はない。
その一方で、彼らは「家族」「親戚」「友人」「恋人」をすごく大切に する。それは彼らにとっての「かけがいのない内側」だからかもしれない。
それが街単位に拡がって、「ゲーテッドシティ」と呼ばれる、門に囲まれた外部の入り込まない街にまで範囲は拡大し、その行き過ぎた感覚が例えば「ボーリングフォーコロンバイン」の舞台となったコロンバイン高校の ような問題も起こしつつはあるけれど、とにかく自分の内側の、自分が ナイーブでいられる空間を大切にしようとしていると思うのだ。
逆に言えば、そうした「内側」があるからこそ、彼らは自分の外側の世界では自分のナイーブさを振り回さなくてもいいのかもしれない。 とは言いつつも、彼らのナイーブな振る舞いを目にすることも多いんだけど。
問題を日本に置き換えてみる。 今のナイーブさがやたらと目に付く状況って、日本人が今まで内側の論理だけで済ませてきた為に、「何が内側で何が外側なのか」一人一人の認識が異なることで、混乱が生じているんじゃないのかな、と思うのである。
これについて構図としてわかりやすい?のは、もしかすると現代の若者の問題であるかもしれない。 という事で次回。
| 2003年05月24日(土) |
ナイーブな人(6)庇護社会のほころび |
さて、今回はそれではナイーブなままでいられなくなってしまった人は どうなってしまうのかという話。
今一番顕著に表れているのは、自殺率の増加、といえるのかもしれない。
例えば、今まで大企業に勤めていればご安泰だったのが、突然リストラに あい、今まで庇護されていたものに守られなくなり、突然放り出されて しまい、途方にくれてしまったからこそ、中高年の自殺が特に増えている のかもしれない。
いくら大企業のエリートともてはやされたって、庇護社会を一歩外側に 出てしまえば、ただの人でしかないわけで。 そうなると今までナイーブでいられた分、その環境の変化についていく 気力がなくなってしまう、なんて事も自殺率が高くなっている原因の一つ なんじゃないかな、と思うのだ。
ただし前にも触れたとおり、その庇護社会は徐々に日本から消え去りつつ あるけれど、政界、官界、そして規制の枠内に守られている業界団体には まだ残っているのかもしれないし、逆に言えば、こういう時代になれば なるほど彼らは自分達のナイーブな環境を守るために必死になるだろう。
でも、その一方でその事自体が日本経済の大きなお荷物と化しているとも いえると思うのだ。
だって、規制で守られている限り、国際的競争力なんて関係ないわけ でしょ? また、結局不良債権の大半は金融とゼネコンが握っているわけだし、彼らを助けるという名目で日本では多額の財政出動をしているのが現実なわけで。
でも、ここでちょっと変な事を考えてみる。 ものすごーく乱暴な話をしてしまえば、今存在している金融機関とゼネコンが、なくなったとする。 その場合、大量の失業者が生まれるわけだけれど、そうしたら同じ業種で 彼らの受け皿となるような新会社を作ればいいだけの話なんじゃないの かな?
金融にしろ、建設にしろ、一事に比べれば斜陽産業と言えるかもしれない けれど、その需要が全くないわけでは決してない。 そして、需要があるなら、その需要を元に暮らしていける雇用者も生まれてくるわけで。
例えばそこには海外からの参入者もあり、パイの食い合いはあるだろうけど、ここは日本という、日本語が主の特殊な環境なんだし、また例えば建設業なんかに関しては、日本独自の確かな技術力なんてのもあるんだろうし、日本の金融資産がこんなに日本の金利が安い時代でも海外へと逃げ出していかないのは、前にも触れたとおりにまだ日本という国に対する信頼があるからなんだろうし。
そうしたら、それらの規制分野で不良債権を生み続ける人たちを思い切ってスクラップ&ビルドしてみるってのはどうなんだろう?と思うのだ。
おそらく、そんな事態になって一番困るのは、それらの企業の経営陣と 天下り先のなくなる官僚と、まとまった票田のなくなる代議士と、今まで ナイーブに自分のキャリアを過ごしてきてしまった人ぐらいなんじゃない のかな、とも思うんだけど。
でも、例えばそれら「ナイーブでいられた」業種の人たちの中にも、 「ナイーブさ」から離れようとしている人たちもいる。
それは例えば大企業であっても、国際的な競争が活発な業種にあっては、 社内ベンチャー制度があったり、また例えばルノーの資本傘下に入った 日産や、ダイムラーの資本傘下に入った三菱自動車などは、社内に多数の 外国人上司が入ってきて、社内公用語が英語になったりして、今までの 内側の論理だけでなく、否応なく外部的な思考とも対応せざるを得なく なってきたりとか。
また、キャリア官僚の中にも国費でアメリカ留学をした人の中から、 決して少なくない人数がMBAを取得したりして、官僚を辞めていったり する。 これなんかは外の世界を見ることで今までのナイーブさにプライオリティ を置いていたぬるま湯的社会から脱却しようとしていると言えるのかも しれない。
おそらくは、ここにあげた例だけでなく、そんな風にナイーブから脱却し ていく流れは、他にも沢山あるだろうし、今後の主流へと変わっていく んだろうなあ、と思うのだ。
また、その一方でこの「庇護社会」の中で今までナイーブな「内側」から 排除されてきた人々、というのも存在するかもしれない。 わかりやすい例で言えば在日外国人であったり、そして女性であったり。
近年、男性より女性の方が元気であると言われている理由の一つには、 男性は今まで庇護社会の中でぬくぬくと育てられてきたけれど、例えば 女性総合職で、バリバリ働くキャリアウーマン、みたいな人はその「内 側」から疎んじられる存在―なぜなら彼女たちを受け入れることは自分 たちの社会に変化を生じさせることだから―であったが故に、女性が バリバリと働こうと思うには、自分達のナイーブさを脱ぎ捨て、男性より も強い意志を持って仕事にあたる必要があったからじゃないかな、と思う のだ。
それは、女性総合職だけに限らず、近年医療関係でも、女性の志願者の 数が増えていたりとか、職人に人気が集まっていたりとか、「手に職」 を持ちたいという傾向が強まっているようにも見える。
一般的に、男性はまだナイーブさを保てる環境にいたがるのに対し、 女性は男性社会という、自分の外側にある社会に参加しようと思う場合、 そのナイーブさを捨てたほうがいい方向にプライオリティが働くからこそ 女性は強いと思われるのかもしれない。
またはこういう変動期だということを男性よりも敏感に感じ取っている のかもしれない。
なんか話が思わぬ方向に行ってしまったような気もするが、 そもそも私がなぜ、こんなことを感じるようになったかといえば、私自身 がナイーブでいられた環境、すなわち給料をもらう立場から、自営業に 変わったって事があるかもしれない。
ナイーブな経営者って、やはり大きな成功は得がたいと思うし。 でも、まだまだナイーブな一面は自分の中にもあるわけだけれど。
ただ、ここで一つ疑問が起きる。 では、ナイーブさは全て捨て去ったほうが果たしていい社会になるのだ ろうか、という事である。
というより、ナイーブさの入る隙間のない社会というのは、単にギスギス した社会になるだけなんじゃないだろうか? そして、今まさにそんな社会になりつつあるからこそ、人は将来に不安を 覚えているんじゃないんだろうか?
という事でまだ続く。
| 2003年05月23日(金) |
ナイーブな人(5)ここまでのまとめ |
これまでの話を一旦まとめてみる。
日本は今まで「庇護社会」という形のシステムをとってきており、その システムの内側にいる限り、人々はナイーブ(純真、無垢)なままで いられたし、日本ではそんな風に「ナイーブ」であり続けられることに プライオリティが置かれているのかもしれない。 それはいわゆる「勝ち組」層と重なる部分があるように思う。
そしてそのことは、「ナイーブ」という言葉が、日本では「ほめ言葉」 として流通していたことともパラレルではないと思う。
でも、それは今現在に始まった話ではなく、おそらくはかつての「村社会」 の時代からの伝統なのかもしれない。 それは例えば。「村八分」であったり、「よそ者」が定着することを嫌う 性質だったり。 異物をとりこむ事に対して強烈なアレルギーを示す性質とでも言えばいい のか。
それは例えば、例の白装束集団のキャラバン隊に対して、道路をバリ ケードやトラクターで強引に封鎖してしまう態度そのものかもしれない。 あのステッカーや道路の不法占拠も道交法違反だと思うけど、道路を一 民間人が封鎖してしまうのも道交法違反じゃないのかなあ、なんて思ったし。超法規的措置?
昔だったら、自分の村の外に出て行ってもらえれば、それでめでたしめで たし、問題はなかったのかもしれないけれど、今はご丁寧に全国ネットで 中継までしてくれる世の中になっているから、彼ら異質なものは取り込ま れる事はなく、どこまでも漂流しかねない状態になっていたわけだ。
ついでに脱線すれば、元旦の暴走族たちも、白装束着てたらもしかして 警察も大目に見てくれたりとか?しないとは思うけど。
おそらく、人々が「ナイーブ」であり続ける上で重要なのは、その枠組み が変わらず維持され続けるという事だろう。だって、その状態が長く続けば続くほど、「既得権益」を持っている人たちにとってみれば、自分の 権益は守られ続けるし、ナイーブなままでいられるかもしれないわけで。
「抵抗勢力」なんてそのために抵抗しているんだろうし。 だから、ナイーブなままでいたい人たちは総じて「保守的」になるような 気がする。
ただ、日本の場合、面倒くさいのは、革新勢力もすでに自分達の保身に 走ってしまっている場合があるので、「現状を維持したい」という意味で は、政治的対立が起こりにくいって事があるのかもしれない。
そんな感じで、今までの庇護社会としての日本は、ナイーブな人たちを ナイーブなままで養っていける余裕があったといえるんだけど、冷戦構造 が崩れて、世界の枠組みが変わって以降、その「庇護社会」のシステムに ほころびが生じてきたと思うのだ。それも同時多発的に。
それは例えば、 1)一つは、冷戦構造が崩れ去ったことでアメリカが無条件に日本の安全 を守る「核の傘」の大義名分が薄らぎ、安保上の危機が出てきたこと。
2)冷戦の終焉と同時に偶然?日本のバブルがはじけてしまい、日本が 構造不況におちいったこと。
3)オウム真理教に始まる様々な事件やら、学級崩壊やら、外国人窃盗団 と思われるピッキング被害やら、様々な社会的不安が表沙汰になってきた事。
これらの問題は、それ以前にももしかすると問題としては存在していたの かもしれない。 でも、今まではそんなに問題視はされてはこなかったんじゃないかな。 なぜなら、庇護社会というシステムにうまく守られていたから。
だから、昔は「有事法制」なんてことを考えなくてもいざという時はアメリカ軍に守ってもらえるから、日本は攻撃されないと高をくくっていたし そういう枠組みがあるからこそ、社会党は「自衛隊は違憲だ」なんてのうのうと言えてたわけだし。
高度経済成長が続く限りにおいては、終身雇用でリストラなんて全然問題 にならなかったし、官僚たちが天下って特殊法人でいくら税金使ってもう からない商売していようが目立たなかったし。
地域のコミュニケーションというか「地域」という名の「村社会」がちゃ んと機能していた時代には警察の検挙率だって高かったし、そもそも外国人が日本に来て犯罪を犯すなんて考えもつかなかったわけだし。
教育だって一律みんなエリートを目指せば幸せになれる、と信じ込ませて いられる間は教育の効率はよかったわけだ。
ただ、残念ながら今現在、日本の庇護社会のシステムはほころびつつあり そのために様々な問題が起きている。
このことはつまり、今までナイーブにいられた人たちが、ナイーブなままではいられなくなるかもしれないって事なわけで。 という事で次回。
| 2003年05月22日(木) |
ナイーブな人(4) 規制の中の人々 |
今回はナイーブな人の4回目。 前回は「庇護社会」という考えを取り上げ、それが段々と崩れつつある んだけど、一部にはまだ残っているという話で終わったんだった。
ちなみに前回取り上げた「存在の耐えがたきサルサ」の中の村上龍と、 妙木浩之の対談と、内容的にかぶっているところがあるかもしれないのを お断りしておく。
さて、それでは今でも「庇護社会」が残っている場所とは一体どこなのか。 その主たる場所は「永田町」と「霞ヶ関」だろう。
政治家がナイーブ?ってのは不思議に思うかもしれないけれど、思い当 たりませんか?「加藤の乱」とか「鳩山兄弟のドタバタ劇」とか。 あくまで理由なき抵抗しているようにも見える「抵抗勢力」とか。
すなわち、「地盤・看板・かばん」の三拍子揃った二世〜三世?議員たちって言うのは、選挙落ちたらただの人と言われても、あまり苦労は知らないかもしれないので「ナイーブな」ままでも全然いられる人たちかもしれない。
永田町の論理なんていう「内側だけにしか通用せず、国民とは乖離して いるかもしれない」独特の論理なんていうのもあるみたいだし。
彼らが大手を振ってのさばって歩いている限り、もしかするとこの国の 政治的状況は一向に成熟はしないのかもしれない。
そしてもう一方の官僚。 例えば、外務省の対外交渉における体たらくぶり、なんていうのは、一連 の北朝鮮問題の対応を見ているだけでも見えてくると思う。
また、「道路公団」やら、失業保険基金の無駄遣いぶりなど、特殊法人 なんていうのは、一種の「武士の商法」で、自分達の利権を内側で囲う 事で、どんなに社会主義的な非効率な経営をやっていて、どんなに負債が 生じても、それは国費で補填してくれるというし、この失業率の高い時代 に自分達の再就職先にも困らないという、究極の「庇護社会」。
そりゃ、いくら外側から理性で説得しようとしたって、特殊法人改革なん てできっこないだろう。 だって、その利権を手放したら、路頭に迷うようなもんだもん。
で、もう一つ、ナイーブなままでいられるかもしれない人たちがいる。 それが規制業種の人たち。 すなわち、ゼネコン、金融、教育、病院、そしてマスメディアの人たち である。
このうちの、ゼネコン、金融なんて、それこそ膨大な不良債権を生み出し ても、そんなに経営責任を問われていない人たちであり、お上頼りの経営 をしている人たちなわけで。 それでも彼らが生き残っていられるのは、やはりナイーブなエリートかも しれない官僚や、政治家たちと結託しているというか、親和性が高いから かもしれない。
また、病院に関して言えば、この間の構造改革特区で日本医師会が株式 会社の参入を強硬に反対していたことも記憶に新しい。 基本的に「診療報酬」というお上が決めた「飯の種」となるパイが決まっ ているから、この先、新興勢力が参入することは、自分達の飯の食い上げ につながることは目に見えているわけだ。 美容整形など、保険外診療を行なっているところ以外はどこも現状でも 苦しいわけだし。
でも、あえて言えば、経営のプロフェッショナルでない人たちが経営を しているからこそ非効率になって経営的に苦しいんじゃないの?という 気もするのだ。
もうちょっと経営が効率よくなれば、例えば人件費を下げなくてもちゃん とできそうな気もするんだけど。 ついでに言ってしまえばもう少し給料は上げてほしかったけれど。
学校に関しては、実はよく知らない。 でも、現在学級崩壊なんて事が言われている背景には、今までの学校教育 に慣れていて、子供たちの変化に柔軟に対応できない教育行政やら現場 の人たちの態度がナイーブな問題として見えているような気もするのだ。
で、彼ら規制業種の「ナイーブな」人たちには、もう一つ不名誉な印象が 最近は付けられていると思う。 それは、彼ら規制業種の人たちのセクハラや痴漢報道がやたらと目立つ という事である。
いや、もちろん、普通の人たちよりニュースバリューがあって目立ちやす いだけで、他の業種の人たちのセクハラやら痴漢も沢山あるという事なの かもしれないけれど、それでも多すぎはしませんかね?
こういう事件が多いという事は、それだけ彼らの中にこういう問題に対して鈍感な「ナイーブ」な人たちが多いという証拠なんじゃないだろうか。
そして更にここで論理を飛躍させると、 典型的なというか、ステレオタイプな「オヤジ像」って、ナイーブなまま 大人になっちゃった人といえるんじゃないだろうか。 実際に見たことはないけど、街で制服姿の女子高生見たらいきなり援交 せまるオヤジとか。
でも、そういうオヤジのナイーブさっていうのを子供の方では見抜いて いるからこそ、ダサいと言うか煙たがられちゃうんじゃないのかな。 パンツ箸でつままれて傷ついたりとか。まあ箸でつまむほうもナイーブ かもしれないけれど。
話を元に戻すと、こんな風に今までの「庇護社会」の中の日本では、ナイ ーブな人たちは、その内側にいられる限り、ナイーブなままでいられたし 守られているという安心感を得ることができていたんだと思う。
でも、問題になるのは、今度はそれこそパラダイムチェンジが起こり、 今まで庇護してくれていたものが機能不全になった時、ナイーブなままで いる事ができた人たちは、一体どうするんだろうという事だと思うのだ。
という事で次回。
| 2003年05月21日(水) |
ナイーブな人(3)庇護社会 |
さて、ナイーブな人の3回目。 前回は「ナイーブな行動」について、考えてみた。 すなわち、 「自分達の内側で通用する論理が自分達の外側でも通用する」と思って いる事。そして、 「自分の外側にあって、理解の範囲を超えることに関しては拒否反応を 示す事」 である。
この言葉、実は書いている本人にも当てはまっている部分がある(笑)。 そもそもそんな事をここで書いていること自体、「ナイーブ」かもしれない。 だから、この一連のシリーズは「自分の中のナイーブさとどうつきあって いくか」という話になるかもしれない。
さて、冒頭の定義。 これを別の言い方で言い換えると「自分の内側にあるものに対しては甘く 外側にあるものに対しては冷淡である」といえるかもしれない。
これは、精神科医香山リカと福田和也のナショナリズムについての対談本 「愛国問答」の中の香山リカのイントロ部分からの引用。
ビジネスやアカデミズムの世界で"成功している"と言われる若手に会うたび、彼らの人あたりの良さや趣味の良さ(つまり「オヤジくささがない」ということ)に感心すると同時に、彼らが「強い」「正しい」「稼ぐ」「有名になる」ことなどをあまりに屈託なく肯定しているのに驚かされる。
逆に言えば、彼らは「弱い」「正しくない」「稼がない」「無名のまま」 が大きらいで、そういう状態にいる人を心底、軽蔑しているのだ。 と言うより、「そういう人も、自分と同じ人間なのだ」という意識がそ もそも欠落している。自分たちと同類の(と判断した)人間には気持ち 悪いほどやさしい彼らなのに、話がひとたび自分たちとは異種の(と判 断した)人やできごとの話になると、「あんな犯罪者たちは一生、オリ の中にいてもらいたいですよ」とか「ホームレスが町をうろうろするの は汚いですよね」などと手のひらを返したような冷淡な態度を見せる。
彼らのもうひとつの特徴は、自分と同類の(と判断した)相手は、自 分と同じ価値観を共有しているだろう、と信じて疑っていないことだ。 あるとき、ベンチャー企業の若き社長に「精神障害者を簡単に退院させ られては、私たちは安心して暮らせませんよね」と正面から言われて、 一瞬返答に窮したことがある。彼はもちろん、私が精神科医であること を知っている。穏やかなその表情を見ていると、私にケンカを売ってい るわけではなさそうだ。
どうも彼はパーティートークのひとつとしてそう言い、彼と同類の(と 見なされたらしい)私も当然、「ええ、本当ですわ。地域の安全が保た れませんもの」とでも答えると考えていたようなのだ。 そう気づいたものの、私としては一応、「あの……、精神障害者が危険 だ、なんていうのは完全な誤解なんですが。それに、いろいろな人がい てこその健全な社会、と言えるんじゃないでしょうか」と言ってみた。
すると彼は、「はあ?」と表情をフリーズさせ、「なぜこの人は自分と 違うことを言っているのか」と考える様子さえ見せずに、「ところで携 帯電話の普及率ですが」と会話を別の話題へと移した。おそらく彼の中 では、「精神障害者は危険、そんな人が身近な地域にいてもらっては困 る」という価値観は1ミリも動くことはなかっただろう。似たような経 験は、ほかにいくらでもある。
そして、そういう社会に対して「庇護社会」と名づけた人が妙木浩之。 彼の著書は読んでいないんだけど、村上龍との対談本「存在の耐えがた きサルサ」から引いてみる。
村上 妙木さんの「庇護社会」という用語は本当に実感できるんです。 「庇護社会」というのが根底にあって、たとえば土居健郎さんが いう「『甘え』の構造」があると思うんです。甘えというのがまず あるわけじゃなくて、庇護社会があって、甘えというのは「私は 庇護されている」「庇護している」という関係性を確認する行為 ですよね。
妙木 「庇護社会」は日本が1940年代からずっと保ってきた社会経済 システムを指しています。当時の革新官僚たちが作った共産主義の 管理福祉社会に近い計画経済システムでした。それがそのまま終戦 後も生き永らえてきたんです。
庇護社会は、政府(お上)、企業、家庭からなる同心円の構造を しています。ここにも日本が昔から持っている反復がある程度あ りますが軍国主義化の中でこの構造は強化されたんです。
そして「お上」は企業を、企業は労働者とその家族を庇護します。 お上は公共投資や護送船団方式で企業を守ります。企業は家庭の 父親を戦闘員として同化するいっぽう、終身雇用制度と福利厚生 で家族を庇護します。どこを切っても金太郎さん構造なんです。 でも、軍事体制なので危機状態には国をあげて対応できる。それ で戦後の日本はとても強かったんです。つい最近まで戦争に負け て経済に勝ったって言われてきました。
庇護社会では、平等な分配を求める傾向が生まれ、累進課税など の仕組みで飛び抜けた大金持ちが生まれないようにしています。 ただ企業は、ベンチャーや投機、あるいはマネーゲームに参加し なくても、お上がどうにかしてくれるという庇護感覚が強いので、 現代のような複雑な金融システムの上に成り立っている経済にと ても疎いのが特徴です。
現代の金融の世界は個人が情報に基づいて行うマネーゲームの上 に成り立っています。庇護社会はこの情報戦にとても弱い。だか らデリバティブの世界では失敗するし、国際情報戦では敗退する し、バブルがはじけるとあたかも自分の失敗ではなく国の責任で あるように感じたり、天命としてあきらめたりします。だから経 済思考は育ちにくいといえます。さらには自立の感覚がなく、国 の安全保障についてもアメリカに任せきりの態度をとります。こ れらすべてを「甘え」と呼んでいいと思います。
ここで、いきなり現在の政治、経済情勢に持ってくると、ある構図が 浮かび上がってくるような気がするのだ。
今までの日本の場合、高度経済成長の時代は護送船団方式が成り立ち、 国民一人一人に等しく富の分配が行なわれていた時代だった。
そんな時代の中ではおそらく、「ナイーブでいられること」は一番の プライオリティだったのかもしれない。 すなわち、「いい学校に入っていい企業や官庁に就職して」という事が もてはやされた時代。
「ナイーブ」であることの利点は、「自分が傷つかなくてすむ」「精神的なコストを余計に払わなくてもすむ」事だろう。 だって、同心円状の庇護社会が「余計な心配をしなくてもすむ」社会を保障してくれていたんだから。
だから、そういう時代のエリートとはある意味では「最もナイーブな」 ままで過ごせる人と言えるような気もするのだ。 ちょっとやっかみ入ってますけど。
ただし、現在ではその構図は段々と崩れつつある。 あるけれど、一部には強烈に残っている世界があると思う。 それは一体どこなのか? という事で次回。
| 2003年05月20日(火) |
ナイーブな人(2)「白装束集団事件?のナイーブさ」 |
さて、今回は「ナイーブな人」の2回目。 そもそも、こんなことを思ったきっかけは、あの「白装束集団」の報道 が、きっかけだった。
白装束集団の行動だけを見て、「ナイーブだな」と思ったわけではない。 それを報道しているメディアも、そしてそれを見ている視聴者も含めて 「ナイーブ」なんじゃないかな、と思ったのだ。
白装束集団に関して、私が「ナイーブすぎる」と思った点は、大きく 分けて3つある。
一つは、彼らが「何とか波」だとか「二ビル星」だっけ?の衝突とか、 「反共ゲリラ」だっけか?からの襲撃なんてことを本気で信じている事。
二つ目は、「その彼らにしか通用しない(共有されていない)内側の論理 が自分達の外側でも通用すると思っている」こと。
そして三つ目は、あくまで個人的な想像の範囲で考える、「彼らの行動の 謎」である。 果たして、彼らはなぜ、今の時期にこれだけの脚光を浴びる羽目になった のか。
そもそものきっかけは、彼らと同一の集団と思われる一団が「タマちゃん のことを想う会」として、アゴヒゲアザラシのタマちゃんの捕獲に乗り出 して失敗し、その後地元住民ら「タマちゃんを見守る会」とのいざこざを 起こしたことがきっかけだった。
その後、「タマちゃんを想う会」と「白装束集団」との関係が表沙汰に なり、今にいたるんだけど、ここで一つ、疑問が起きる。
彼らはなぜ?あの時に両者に関係性があることを隠し立てせず、むしろ 積極的にアピールしているように見えたのか。
「キジも鳴かずば撃たれまいに」ではないけれど、あの時彼らがじーっと おとなしくさえしていれば、こんな大騒ぎに発展することもなく、彼らは 岐阜だか福井の山中で今もひっそりと過ごせたんじゃないだろうか、と 思うのだ。
そして、その疑問に対しての、私の答えは次のようなものである。 「この一連の騒動は、彼らがマスコミに騒いでほしくて行なった、一種の デモンストレーション」なんじゃないのかな。
では、なぜ彼らはそんなことを行なったのか。 無視されて寂しかったから?それとも新たな信者獲得のため?
いや、これは想像の域を出ないけれど、おそらくは、 「彼らは5月15日に二ビル星が地球にぶつかると本気で信じていて、 その脅威を、ノアの箱舟よろしくできるだけ多くの人に知らせたかった だけ」なんじゃないかな、と思うのだ。
そのためには彼ら自身がどんなにさらされようが迫害を受けようが構わない。 また彼らの論理で言えば、本気でタマちゃんを箱舟に乗せたかったのかも しれない。
すなわち彼らの行動には、何らかの悪意があったわけではなく、彼らなり の「善意」まさしく「ナイーブ(純真で幼稚)な」善意の押し付けが、 一連の行動だったんじゃないかな、と思うのだ。
だから、騒動の始まりが二ビル星がぶつかるとされた5月15日の約1ヶ 月前に始まり、5月15日を過ぎたら急速に終息に向かった理由もわかる 気がするのだ。
そして、その一方でそんな「白装束集団」に振り回され続けたメディア や、私たちの対応も「ナイーブな」ものであったような気がする。
それは例えば、彼ら白装束集団がどんなことを信じていて、どんな「トン デモ」行動をしているか、面白おかしく報道している限り、彼らの異質さ を浮き彫りにしているだけで、では実際彼らをどう取り扱うのか、という 対処法に関しては、ちっとも迫っていないことかもしれない。
すなわち、自分の外側にあると思うものに対しては、強烈な拒否反応しか 示していない。
これは、8年前のオウムの過熱報道となんら変わるところはないし、むし ろオウム報道のフォーマットをなぞっているに過ぎないと思うのだ。
ここで話を一旦整理してみると、白装束の集団にも、そしてマスメディア の連中にも共通して言えるのは、 「自分達の内側で通用する論理が自分達の外側でも通用する」と思って いる事。そして、 「自分の外側にあって、理解の範囲を超えることに関しては拒否反応を 示す事」 だと思う。
あれ?でもこれって彼らだけの問題ではなく、もしかすると 我々日本人も内包している問題なのかもしれない。
と、いうことで次回に続く。
日記サイト開始1周年記念だからという訳ではないけれど、 ナイーブな人、 という連載?を始めてみようと思う。
さて、ナイーブ。 日本語のニュアンスでは、例えば「あの人ってとてもナイーブなの」 なんて表現をした場合、意味としては「繊細で、素朴で、子供のように 無邪気で」といった感じで、誉め言葉としても使われていると思う。
広辞苑によれば、 「素朴なさま。純真なさま。感じやすいさま。うぶ。」であるらしい。
友達同士の会話でも、「いや〜、俺ってシャイでナイーブだからさ〜」 なんて言葉の後には「オイオイ、どこが?」みたいな感じで、必ずしも 否定的な意味では使われてはいないかもしれない。
ただ、英語で(元々はフランス語らしいが)"naive"を引くとニュアンス は若干異なってくる。
試しにこのパソコンにインストールされている、MicrosoftのBookshelfで 調べると、
【英和】 1 (特に若いために)世間知らずの; 単純[素朴]な; 純真[うぶ]な だまされやすい. 2 〈…するとは〉〔人は〕単純で; 〈…するとは〉〈人は〉純真で It's naive of you [you’re naive] to trust everyone. だれでも信用するとは君もうぶだ. �� (特定の分野に)未経験な; 先入的知識のない. �� 1 〈考えなど〉単純な, 甘い, 素朴な. 2 〔美〕 素朴な, 原始的な.
【和英】 ナイーブな unspoiled; naive (注英語の naive は今では「考え方の幼稚な」という悪い意味で用いられることが多い).
という意味になり、必ずしも誉め言葉ではなく、けなす意味になる。 よく、英語で外人に誉め言葉のつもりで"You are so naive."なんて 言った日には、相手は相当気分を害している可能性があるので気をつけ た方がいいかもしれない。
ちなみに英英辞典のLongmanの解説を訳してみるとこうなる。 「人生がどんなに複雑かを知る経験がないために、人を信用しすぎて、 よいことがいつも起きると信じてしまう」
それを踏まえてここでは「ナイーブ」という意味を次のような意味で 使いたいと思う。 すなわち「幼稚な、または単純で傷つきやすい」という意味で。
で、日本人はナイーブな人間なんじゃないか、という問いかけは、実は 様々なところで行われていて、とりたてて目新しいものではない。
最近読んだ本の中では、こんな文章が目に飛び込んできた。 平尾誠二・古田敦也選手・岡田武史監督の対談本「勝利のチームメイク」 の中からの引用文。
平尾 岡田さんは97年に日本代表監督に就任して、アジア第三代表決 定試合で劇的な勝利を収めたじゃないですか。
岡田 あの試合をきっかけに、俺の人生は狂ったよ(笑)。
平尾 それでね、試合会場のジョホールバル(マレーシア)から帰国し てすぐに、日比谷の外国人記者クラブで記者会見したでしょ。
岡田 何でそんなこと覚えているの?嫌だなあ。
平尾 知り合いの編集者に教えてもらったんですよ。
岡田 それで?
平尾 「代表監督に就任して、最初に思ったことは何だ」って質問され てね、「国の代表選手が、こんなにも幼稚であることに驚いた」 っていうことを言ったらしい。
岡田 覚えてないな(笑)。
平尾 僕ね、感覚としてわかるんですよ。おそらく岡田さんは、本来の 意味の「幼稚」という言葉を使ったんではなくて、ゴール型競技 の選手として当たり前のこと、例えば「グラウンド上では自分で プレーを判断しなければならないのに、それが満足にできていな い」みたいなことを言ったのかなって。
岡田 まあ別に代表選手に限った話ではなくてね。日本人選手は監督の 言うことをキッチリ聞いて、凄く頑張ってくれるんだけれど、逆 に「指示待ち族」的なところがある。「監督、次はどうしたらい いんですかぁ」って、すぐにたずねてくるんだ。聞いてくる話の 中には「おいおい、それは自分で考えることだろう」ということ も多々あったから。
平尾 それね、個人の問題というより、教育の問題ですわ(以下略)。
今現在のサッカー日本代表選手が果たしてナイーブであるのかどうかは、 置いといて。 実は「ナイーブ」について考えることで、実は今の日本に起きている様々 な事を考える一つの鍵になるんじゃないかな、と思うのだ。
なぜ、そんなことを思ったのか。 そのきっかけは、あの「白装束集団事件?」だった。 という事で次回に続く。
| 2003年05月18日(日) |
Number 576号から |
現在発売されている雑誌Number576号で、マリナーズの長谷川が ヤンキース松井との初対決を振り返っている。
TVのニュースでは、「松井君が試合前にやってきて、長谷川さんの本を 買いましたって言われたんでヒットを打たせてあげました(笑)」なんて ジョークを飛ばしていた彼だけど、今回は真面目に?振り返っている。
初対決は、たったの2球だった。 「松井君のことはテレビでは見ていましたが、正直、知らないバッター でした。日本で一度対戦してますけど、ちょっと簡単に考えていたとこ ろもありましたね。僕のシンカーだったら、何球投げてもポーンと打ち 上げてくれる、または引っ掛けてくれるような雰囲気がありましたから」 マリナーズの長谷川滋利は、ヤンキースの松井秀喜に対する第一印象 をこう語った。(略)
「初球の空振りを見て、『このシンカーは今の彼には打てない』と閃い ちゃったんです。それで同じ球を、スピード少し速くしただけで真ん中 に投げちゃった(笑)。少し安易でしたね。僕は松井君はアメリカ人的な バッターなのかなと思って同じ球を続けましたけど、日本人的な巧さを 持ったバッターでしたね。だからこそこっちのナスティ(汚い)なボール に苦しんでいるんでしょう。日本のピッチャーはみんなスピンのかかった きれいな伸びのあるボールを投げるじゃないですか。でも、アメリカの ピッチャーは意図して手元で変化させる。ウチの投手陣は特にナスティな ボールを投げるピッチャーが多いから、そりゃ、松井君も苦労したと思 いますよ。きれいな回転のボールを投げるのはアーサー(ローズ)くらい かな。でも彼の球はきれいだけど速すぎるし。僕も汚いボール、投げま すよ(笑)。試したいことはまだ他にもいっぱいあったんですけど、何も できないうちに終わっちゃいましたね」
日本のプロ野球とアメリカのメジャーリーグの球質の違いについては、 いろんな人が指摘しているけれど、「きれいな回転の球」と「ナスティ な球」と言われると、なるほどそうかと思ったりする。
アメリカの投手というと、どうしてもランディジョンソンみたいに 160kmのスピードボールを投げると言うイメージがあるけれど、 全員が全員、そんなスピードボールを投げられるわけではないし、 過酷な生存競争を勝ち残るためには、そういうナスティなボールも 投げられないといけないわけだ。
そう考えると、日本の速球派投手の球が易々とメジャーの選手たちに スタンドへと運ばれてしまうのも頷けるような。
ちなみに次回、長谷川と松井の対決の可能性は8月。 それにしても、マリナーズvsヤンキースっていう日本人にとっての人 気カードを、ゴールデンウィークと、夏休みに持ってくるあたり、MLB もさすがと言うか、そつがないと言うか。
さて、松井選手、今のところ5番打者の打撃成績としてはいまいちパッと していない割に、ヤンキースファンからはそんなにバッシングを受けては いない。例えば昨年移籍した当初、打撃不振だったジェイソン・ジアンビ は、打席に立つたびにブーイングを受けたりしていたのに。
その背景としては、今のところチームの成績がいいという事と、あの本拠 地デビュー戦での満塁ホームランが、ヤンキースファンの心を見事にGE Tしたって事も大きいとは思うんだけど、もしかするとあともう一つ、 あまり目立たない理由があるような気がする。
昨年までのヤンキースの場合、レフトにレギュラーが定着せず、守備の 不安が唯一残るポジションがレフトだったんだけど、そこにきちんと守 備のできる松井が入ったって事が大きいような気がするのだ。
つまり、長年のヤンキースファンにしてみたら、今までダメだったレフト に、いい選手がやってきたって事が嬉しい訳だから、多少の打撃の不振は 今のところ大目に見てあげよう、って感じなんじゃないのかな。 その意味でも、今季ヤンキース入りした松井はラッキーだったと言えるの かも。
なんて思っていたら、現地時間で5月17日のデーゲームでは、守備で 二つの失策を重ねてしまい、早速ブーイングを受けていたみたいだけど。 ドンマイドンマイ。 人柄はちゃんと評価されているらしいし、これからっすよ。
さて、Number576号はメジャーリーグ特集なんだけど、その中 でイチロー選手が、自分の4月の打撃不振について振り返っている。 4月の成績に関しては「そりゃ屈辱ですよ」らしい。
その原因に関して、イチロー自身が分析していて面白いのだ。 詳しくは、雑誌を手にとって読んでもらうとして、かいつまんでみると、
イチロー自身の打撃に対する意識改革が進んだ結果、体の感覚として、 「ヒットにできる」と判断するポイントが劇的に増えたんだけど、その 結果、頭ではヒットにするのは難しいと判断している難しいボールに対 しても、思わず体が反応してしまい、ミスショットが増えてしまったらしい。
イチロー曰く、 「打てると思うポイントが広がって、ヒットを打つのが難しいはずのボー ルでも打ちに行っていたら、だんだん、完全に捉えられなくなってきた。 なぜだかはわかりませんけど、体の使い方に問題が出てきてしまったのか もしれません。
だから、打席ではいつも何かを考えながら、微調整をしています。意識を 置くポイントは時期によって足だったり、手だったりするんですけど、 少しずつ自分の中のイメージに自分の形を修正しています。単に打つこと を繰り返しているだけじゃ、ダメです。そんなに簡単なものじゃない。
どうすればいいのかも、もちろん見えています。それはずっと見えていま すし、だいぶ取り戻せたという実感も持てています」
不振の4月とはうって変わって、現時点でのイチローの5月の打撃成績は 4割5分にせまり、通算打率も3割を超えた。 果たしてイチローが今後どんな活躍をするのか、楽しみになってきたと 思う。
この記事の最後は、イチローのこんな言葉で締めくくっている。
「僕は常に戦っています。苦しいのは当たり前だし、それもメジャーで 野球をやる楽しみの一つなのかもしれません。一番苦しいと感じるのは、 できるのにできないということ。相手にやられて、とてもそんなことは 自分にはできないと思えるのなら、まだいいんです。それは自分の力の 無さですから、しょうがない。でも、できるはずのことができないから こそ、歯痒いし、悔しいんです」
イチローが、ヤンキー・スタジアムのバッティングケージのところまで 挨拶に出向いた松井と握手を交わした時のことだ。「アジャストするのが 大変です」とこぼした松井に対して、イチローはこう言ったという。
「いいじゃん、だって日本ではそんなことはなかったんだし、それが楽し いんだからさ」
ますます今年の彼の活躍ぶりが楽しみである。
有事関連三法案が、与野党の賛成多数で衆院を通過した。
昨年は一度廃案になった法案が今回通過した背景には、良くも悪くも 北朝鮮に対する脅威といったものが関係しているのかもしれない。
法案の細かい内容をちゃんと見ているわけではないので、いささか無責任 な発言になってしまうけれど、これで、日本もようやく有事となった際、 ―日本の場合は専守防衛の原則だから、相手に攻め込まれた場合という 意味だが―、ようやく自衛隊もあわてふためくことなく、防衛出動がで きるようになったってことかもしれない。
もしも、これら一連の法案がなかった場合に、今回有事と想定される事 態になったとしたら一体どうなるのだろうか。 その事態を想像するのは難しいことだけど、似たような事態はかつての 日本でも実はあったのだ。
それは太平洋戦争末期、いよいよアメリカ軍が本土上陸するかもしれな いと言われていた時期。 その時、学徒出陣で戦車隊の隊長として栃木県佐野市にいた司馬遼太郎 が、こんなことを書いている。
私事をいうと、私は、ソ連の参戦が早ければ、その当時、満州とよばれた 中国東北地方の国境の野で、ソ連製の徹甲弾で串刺しにされて死んでいた はずである。その後、日本にもどり、連隊とともに東京の北方に駐屯して いた。 もし、アメリカ軍が関東地方の沿岸に上陸してくれば、銀座のビルのわき か九十九里浜か厚木あたりで、燃えあがる自分の戦車の中で骨になってい たにちがいない。そういう最期はいつも想像していた。
あの当時、いざというとき、私どもが南下する道路の道幅は、二車線で しかなかった。その状況下では、東京方面から北関東へ避難すべく北へた どる国民やかれらの大八車で道という道がごったがえすにちがいない。 かれらをひき殺さないかぎりどういう作戦行動もとれないのである。さら には、そうなる前に、軍人よりもさきに市民たちが敵の砲火のために死ぬ はずだった。 何のための軍人だろうと思った。 (司馬遼太郎著 『この国のかたち(1)』)
私の記憶が正しければ、この「ひき殺すしかない」というくだりは、確か 司馬遼太郎が、上司である指揮官に訊ねた時に、その指揮官がしばらく 黙った後に返答した答えだったと思う。
実際には、そんな悲劇が沖縄に続いて繰り返される前に、「映画が終わる ように」敗戦の日を迎えたため、幸い?そういう事態にはならなかった。
このエピソードが語っているものは、いざそういう事態になった時には、 法律があったとしても、戦争行動―相手の戦闘力を圧倒すること―の前に は、国民の生命と安全が必ずしも保証されるわけではないということだと 思う。 だけど、もしもそういう状況への対処法が、まったく想定されていなかっ たり、法として明文化されていなかった場合、いざという時に同じ悲劇が 繰り返されるかもしれないし、そうでなくても、指揮系統が混乱し、せっ かく買った豊富な兵器があっても右往左往しているうちに全滅してしまい、 税金の大きな無駄遣いに終わってしまう可能性だってあるわけだ。
まあ、今でも、アメリカ軍なしには単独の軍事行動はまともには取れない 軍事力であったり、専守防衛の割にクラスター爆弾持ってたり、色々と 無駄遣いな一面はあると思うんだけど。
ただ、ここではっきりさせなくちゃいけないのは、 有事の際の自衛隊の行動が認められた=いつでも日本は戦争に突入しま すよ、という話ではないんじゃないかな、と言うこと。
日本のメディアはどうしても左翼系の人たちと同様、一気に、想像力を エスカレートしがちな気がする。 それは、普段有事という事態を意識の外において意識しないで、というか 考えないようにしてきたからこそ、想像力の方向が「バカの壁」よろしく そんな方向にしか進まないのかもしれないけれど。
私自身は別に右翼であるわけではないし、好戦的な人間でもない。 ただ、現実的な問題として捉える必要があるんじゃないかな、と思うのだ。
今から10年前、自衛隊の海外派遣を認めるPKO法というのが成立した。 国会でも当時の社会党やら公明党が、反対をして紛糾した挙句、自衛隊は 海外派遣しても、身を守れるかどうかもわからない、わずかな小火器しか 持っていけなくなったし、そして自分から勝手に反撃しちゃいけないという、 いざと言う時の自分達の命さえ守れるかどうかわからない、行動を縛られた 状態で、当時はまだ紛争地帯だったカンボジアに派遣されていった。
で、そんな法律で海外に派遣された自衛隊は一体どうしたのか。 ちゃんと、その法律解釈を遵守して、任務を全うしたのである。 その背景としては、そんな扱いにくい軍隊だったから、後方支援活動中心 の活動ではあったらしいけれど。 でも、当時の現地指揮官は、万が一の事態になった時には、死を覚悟して いたと言う。
一部の?左翼系の人の話って、例えば自衛隊の存在を許したら、一気に 日本は軍事国家へとまい進してしまうと考えがちなんだと思うけど、 当の自衛隊は、そのデリケートな問題?に合わせて、今のところはちゃんと 文民統制されていると思うのだ。
また、実際この有事三法案ができたと言っても、いざ本土決戦なんて ことになった日には、いかにこの国の好戦的な人たちが気持ちを高ぶらせ ようとも、国民の被害が甚大な物になるのは目に見えているわけで。
だから、実際の政治、外交の舞台では、いかにこの有事三法案を使わない で済むように事態をおさめるか、が重要になってくると思うのだ。 すなわち、いかにこの劇薬にもなりかねないものをいかに上手に取り扱い コントロールできるかと言う手腕とそのための今後の議論が大切なん じゃないのかな。
伝家の宝刀はいざという時がこないからこそ、伝家の宝刀としての価値が あるんだろうと思うし。 なんて考え方をしてしまうのは果たして楽観的すぎるんだろうか。
ついでに言ってしまえば、今回民放連が有事の際には政府のお先は担ぎま せんよ、と申し入れをしていたけど、いざ、そういう事態になった時には 我先にと争って、皆横並びで一斉に政府の広告塔になってしまうんじゃ ないのかなあ?と思うのはうがちすぎだろうか。
| 2003年05月15日(木) |
テキト−でいいかげん |
さて、私のことを知っている人はよくわかっているかもしれないが、 私はかなりアバウトな人間であり、適当でいい加減である。
なんて書くと、かなりだらしない人間のような印象を与えるかも しれない。いや、実際そうだとは思うんだけど。 でも、個人的には適当でいい加減にし続けるのって結構大変なことだと 思うのだ。
ここで、一応「適当」と「いい加減」を広辞苑で引いてみる。
【適当】 1.ある状態や目的などにほどよくあてはまること 「適当な広さ」
2.その場に合わせて要領よくやること。いい加減 「適当にあしらう」
【いい加減】 1.よい程合い。適当。ほどほど。
2.条理を尽くさないこと。徹底しないこと。深く考えず無責任なこと。
3.相当。だいぶん、かなり「いい加減いやになる」
さて、私は一体、どの意味の「適当」で「いい加減」なんだろうか。 この辺はもしかすると、私と周囲とでは意見がちょっと食い違っている 可能性もあるけれど。
さて、「適当」と「いい加減」に関しては、こんな文章もある。 平尾誠二と松岡正剛のラグビーに関する対談本「イメージとマネージ」 からの引用文。
平尾 ぼくの判断というのは、ものすごく感覚的なものなんですよ。湯 加減みたいなものなので、熱いか冷たいか個人差があるわけです よ。だから、ぼくがそのつど、口酸っぱく言ってわかってもらう しかなかった。
松岡 湯加減?いいなあ。そのとおりです。なんといっても体で測る湯 加減がいい(笑)。温度計で測っちゃいけない。それでは「いい加 減」の境地は生まれない。
平尾 そうですね。「平尾の感覚」をおぼえてもらうしかないわけです よ。それを意識してもらって、注意深くなっていくということで す。マニュアルどおりにいくわけないんです。
松岡 キャプテンがイメージすることを、メンバーがマネージするという ことですね。 ちょっと余談になるけれど、ぼくは「加減」と「結構」という言 葉が大好きでね。「湯加減どうですか」「ええ加減ですわ」とい う意味もあるし、逆に「ええ加減なやっちゃ」という意味にもな る(笑)。その両方の意味を瞬時に判断するのがコミュニケーショ ンの真骨頂でしょう。「結構ですね」というのと、「もう結構」 というのも同じですね。「結構!」と言われた瞬間に、そのどち らかを判断できるようなコミュニケーションが大事なんですね。 ぼくはこれらの言葉をトワイライト・カテゴリーと名づけている んですが、その感覚はかなり重要です。
平尾 ぼくの場合は、ほんとにいい加減な人間なんです(笑)。
松岡 それがいいんです。加減のプロこそ、ほんとうのプロフェッショ ナルですよ。いわゆる按配(塩梅)、塩加減ですね。料理の鉄人 もそれに勝負を賭けているわけですし、ぼくの仕事も結局は「加 減」と「結構」をつくっていくことなんです。いいかえれば「具 合」です。もっといいますとね、仕事でいちばん重要なのは「場 合」と「具合」をどうつくるかということなんです。
平尾 なるほど、それはそうですね。
松岡 「場合」というのは場が出合うということ、「具合」はいろいろ なシナリオが交差するところです。
平尾 それはええこと聞きました。
松岡 そういう感覚にはマニュアルとかレシピとかは役に立たない。繰 り返し、同じものをつくったり売ったりするのなら、それでいいん ですけどね。ハンバーガーショップとか。
平尾 ゲームメイクにはマニュアルはかえって邪魔ですね。たとえば、 「今日のゲームのテンポは遅かった」と反省で言っても、それが 「そうだな」とわからなきゃいけないわけです。実際に昨日のゲ ームのA君の走力の速度と今日の速度とを測定して言っているわ けじゃない。0.3秒遅いとか速いというのではなく、「とにか く遅いんや」ということ。そうやって言い続けると、だんだん幅 が縮まって、そのうちにいい加減がわかってくる(笑)。
松岡 それって、ほんとうは「文化」なんですよ。
平尾 ええ、そうなんです。ゲームメイクは文化をつくることなんです。
この引用文中にあるように、同じ言葉なのに、相反する二つの意味が あるところに、「いい加減」と「適当」の面白さがあると思う。
でも、もともとの意味で言えば、「適当」とは「的に当たっているさま」 を表しているはずであるし、「いい加減」に関しても「好い加減」、 すなわちいい塩加減であったり、いい湯加減を指している言葉だと思う。
だから「いい加減にしなさい」とは、「あなたの裁量でいい加減に調節 しなさい」という意味であると思うし、「その仕事適当にやっといて」 とは、「その仕事をいちいち指示しないでも要求を満たしといてね」と いう意味であると思うのだ。
だから、本当の意味でいい加減にするには、その塩梅の調節を、細心の 注意を払わなければ、できないことかもしれない。 こんなこと、本当にいい加減で適当だったらできないだろう。 うーん、日本語は難しい。
その上であえて言えば考えてみる。 いい加減と適当の反対語ってどんな言葉だろう。
それはおそらく、広辞苑にあったとおり、「徹底した」とかそんな感じ なんじゃないのかな。 でも、何かを「徹底して」突き詰めてしまうよりは、ちょっとだけでも 遊びの部分を残しておくというか、腹八分目の方がやはり自分の性には あっているような気もするわけで。
それが果たしてB型という血液型のせいなのかどうかは別として、私は 今後も「適当」で「いい加減」をモットーにしていきたいと思うのだ。
そんなわけで、この日記サイトを借りてもうすぐ1年になる。 個人的には1年続いたというよりは、この半年間、よく続いたな、 って気がするんだけれど。
まあ、今回それなりに息が長く続いているのは、自分の中での距離の 置き方が安定しているって事かもしれない。
日記っていうのは、日々の記録、の意味だと思うんだけど、記録される ものは人によってさまざまだと思う。 その日に起きた出来事の記録であったり、思い出や記憶の記録だったり、 感情の記録であったり。 そしてこの日記は思考の記録である、といえるかもしれない。
また個人的に日記サイトって、誰に伝えようと思うのか、を設定するの が結構難しいような気がする。 その中で一番、設定しやすいのは、あくまで自分に向けて書く場合と、 もしくは、自分を知っている人向けに書く日記だろう。
その場合プライベートなことや、その仲間内で共有される感覚をベース にできるし、対象もはっきりしているので書きやすい。 つまり、お互いに共通する土台があることが前提になる。 ただし、その場合その共通する土台のない人にとっては、入り込みにくい 世界になったりする。
いや、もちろんそれで構わないんだけれど。 ただ、個人的にはできれば不特定多数?の人にもできればメッセージを 伝えたいとも思ったりするわけで。
その反対に、誰か特定の対象を設定せずに書いている場合、今度は今、 書いている事を伝えたいと思う対象が不在なわけだから、途中で自分の やっていることに無理を感じたり、息切れをしてしまったりするかも しれない。
っていうか、自分は典型的にこっちにはまりやすいんだけど。 やっぱり徒手空拳というか、まったく対象のいない世界で書き込み続け るのにはおのずと無理があるような気がするのだ。 それは例えば、作家の人たちも同様かもしれない。
ではこの日記の場合、私は果たして誰を対象として、書いているのか。
私がこの日記で伝えたいと思う誰か。 その内の5割は自分。過去の自分と未来の自分への伝言である。
これはどういうことかといえば、過去の自分に対していえば、かつての 自分が疑問に思っていたことに対しての、現時点の自分なりの解答である といえるし、未来の自分に対しては、あの時、自分がどう思っていたか ということの記録であるといえる。
それは大げさに言えば、自分自身との一種の対話であるといえるかもし れない。 だから以前も書いたけど、読者としての自分がつまらないと思うものは なかなか載せられない。
ただし、自分との対話をするだけならば、何も日記を公開する必要は なく、ただ一人でシコシコと書いてりゃいいじゃないの、と思うかも しれない。
でも個人的には、公開していることに意味があると思うのだ。 もしも、自分が自分の思いを、自分の中だけで育んでいこうとしている と、個人的には自家中毒のような状態になり、やはり日記を更新し続ける 事は難しい。 それは、もう小学生時代からの伝統?なわけで。
この日記の場合、それは例えば5割ではあるけれど、他者という外部を 意識しながら書いている。 ただし、それは外部の評価を気にしながら書いていると言う訳ではない。 それが具体的な誰かである必要は必ずしもなく、自分の外側にいる誰かに 伝えようと思うことで、自分の考えを自分にも、そして他人にもわかり やすい形で伝えるための努力をしているんじゃないかな、と思うのだ。
そして、もしもそんな個人的な思考の中から、他の人にも共感が生まれる としたら、それはその意見の中に普遍的なものが生み出されていることに なるわけで。
だからそれも例えばBBSのように直接的な形ではないにせよ、一種の コミュニケーションの形といえるんじゃないかなあ、と思ったりもする。
なんつうのかな、自分の知識をひけらかすわけでもなく、かといって 閉じてしまうわけではない、という絶妙の?距離感が今後もとれていけ ればいいなあ、なんて思うわけである。
そんなわけで定期的にでも不定期にでも、はたまた偶然にでもこの日記を 読んでくださっている皆さんへ。 わざわざ読んでくださってありがとうございます。
果たしてこの日記を読むことがあなたの得になっているのかどうかは わかりませんが、何かしら得るものがあればいいなあ、と思います。
そんな感じでキャラバンは進んでいきたいと思う。
とは言っても、今年の暮れ、暴れまくって壊す場所を丸ビルにするか、 それとも汐サイトにするか、それとも六本木ヒルズにしようか悩んでい るかもしれない着ぐるみ(失礼)のことではなく。
メジャーリーガー、松井選手のことである。 松井選手の動向に関しては、読売新聞のフォロー記事が面白いので、 WEB上で時々読んでいる。
さて、松井選手。 その一挙手一投足ならぬ一打席一投足が注目され、ホームランを打てば 歓喜し、打席不振におちいれば、心配される。 ニュースのスポーツコーナーでも、国内のプロ野球情報より優先して 松井選手を筆頭にしてメジャーリーグ情報が流される。
その一喜一憂ぶりは、タマちゃん並みといっても過言ではないかも しれない。
個人的には、今年、松井がメジャーでどれだけの成績を残すのか、もち ろん楽しみにはしているけれど、でも、そんなにあせんなくてもいいん じゃないかな、って気もしたりする。
なぜなら、今までの彼のキャリアの中で、松井選手は年数を増すごとに、 問題を克服して、進化し続けてきたからである。
そのことについて二宮清純著「最強のプロ野球論」 から引用してみる。
プロ入り以来、彼のスプリング・キャンプでの練習ぶりをずっと見てき たが、感心するのは、毎年、バッターボックスでのテーマが違うことだ。 たとえば97年の松井は極端なくらいホームベース寄りに立っていた。 あらゆるボールを苦手なインハイに見立て、それを狙い打った。ライオ ンズからジャイアンツに移籍してきたばかりの清原和博がインコースの ボールを嫌い、アウトコースのボールを気持ち良さそうに打ち返してい る姿とは、あまりにも対照的だった。
インハイ打ちの成果はすぐに現れた。97年、松井はヤクルト・スワ ローズのホージーの38本に次ぐ37本のホームランを記録したが、そ の三分の一が内角か真ん中から高目のボールだった。
メジャーリーグではバッターの得意なコースをホットゾーン、苦手な コースをコールドゾーンと呼ぶが、松井の場合、インハイのボールは明 らかにホットゾーンであり、ピッチャーにとってそこにストライクを投 げることは自殺行為にも等しい。
バッターにとって、最も打つのが難しいといわれるインハイの速いボー ルを、いとも簡単に攻略してみせたところに、松井の非凡さが見てとれ る。(略)
インハイ打ちは克服した。名実ともに最強打者への道を歩み始めた松 井だが、実は思わぬところにコールドゾーンが存在する。驚くことにイ ンローとアウトローのボールがフェンスの向こうに届いていないのであ る。
「バットがボールに当たりさえすれば、僕の場合、どこだって入るんで す。強いスイングよりもタイミングの方が大切なんです」 と口ぐせのように言う松井だが、これはどういうことなのか?思い当 たるフシはただひとつ。97年は、インハイを攻略しようという意識が 強過ぎるあまり、実際のストライクゾーンよりもボールをひとつ分か二 つ分、高目に設定したのではないだろうか。(略)
それが最も顕著に表れたのが97年の10月である。スワローズのホ ージーとホームランキングをめぐって激しいデッドヒートを展開した松 井は、この月、1本もフェンスの向こうに打球を運ぶことができなかっ た。(略)
この頃、スワローズのピッチャーたちの松井への攻めは徹底していた。 キャッチャーの古田敦也は、インサイドにはボール球のストレートのみ を投げさせ、腰を引かせておいて、勝負どころではアウトロー、インロ ーにボール気味の変化球を要求した。 この配球パターンに松井はまんまと引っかかった。バッターボックス で筋肉が硬直している様子が手に取るようにわかったものだ。(略)
この反省を踏まえて、98年のスプリング・キャンプではアウトロー、 インローのボールを万遍なく打ち分ける松井の姿があった。(略)
あえて、この引用に付け加えるとすれば、昨年、松井選手はホームラン 50本を打ち、そして三冠王まであと一息、の本人のキャリアハイの成 績をおさめた。
97年終盤、松井を見事に封じ込めることに成功した古田選手をして、 松井には投げる所がない、とまで言わしめるまでに進化していったのだ。
だからもしも今年、彼の成績が思ったほど伸びなかったとしても、 個人的には来年、どんな風に更に進化していくのかという方に興味が わくのだ。
ついでに言えば、今年はイチローが「自分自身の最高の成績を残したい」 といい、松井選手に関しては「100%意識している」と言い放つ彼の 今年の活躍ぶりを楽しみにしたいなあ、と思うわけである。
| 2003年05月11日(日) |
「ボーリング・フォー・コロンバイン」 |
今日見た映画は「ボーリング・フォー・コロンバイン」。 昨年のカンヌ映画祭審査員特別賞、今年のアカデミー賞の長編ドキュメ ンタリー部門を受賞し、話題となった作品。
今年の1月から恵比寿ガーデンシネマ他で上映されていたんだけど、 今回、アカデミー賞受賞を記念してか?池袋シネマサンシャインでも上 映開始したので、ようやく見ることができた訳だ。
さてこの映画、一言で言えば、面白いけど彼女と見に行くのはどうなん だろう、である。 いや、別に恋人と見ても、全然いいと思うんだけど、自分が好きな子を 映画に誘うんだったら、ジェニファーロペス主演の「メイド・イン・マン ハッタン」とかに行くかも。いや、見てはいないんだけど。
いやもちろん冒頭の銀行のシーンからユーモア溢れていて、面白いんだ けど、その面白さは深く考えさせられる面白さ、とでも言えばいいのかも しれない。
パンフレットの中で、監督のマイケル・ムーアはこう言っている。 「観客が(アメリカの真実に)意気消沈して劇場を出れば、行動を起こ そうなんて気にならない。めげる気持ちを怒りに変えるのがユーモアな んだ。グラウチョ・マルクスやレニー・ブルースなどの最高のコメディ アンたちは怒りの人でもあっただろう?現実政治に対する風刺とユーモ アのアメリカ的伝統は死んじまったけれど、まっとうな怒りを持ち続け るためにユーモアは必要なんだ」
映画「ボーリング・フォー・コロンバイン」とは、1999年4月20 日、アメリカのコロラド州、デンバーの郊外のリトルトンという町にあ るコロンバイン高校で起きた銃乱射事件を発端とするドキュメンタリー 作品である。
トレンチコートマフィアを名乗り銃を乱射していた、その模様は日本の ニュースでも大きく報じられたから覚えている人も多いかもしれない。 関係ないけど、この映画を見た後、当時の報道 を見てみると結構興味深 かったりする。
コロンバイン事件をきっかけに、マイケル・ムーアは一つの疑問を持つ。 何故?アメリカではこんなにも銃による死亡者が多いのか?
そして、マイケル・ムーアはただ問い続ける。
例えば、多くのアメリカ人が行なう運動のように、日本車をハンマーで 壊すように、銃を一箇所に集め、それを壊したり、銃が一箇所にある事 の異常さをアメリカ市民たちにアピールしたりはしない。
また、日本のイブニングニュースのレポーターが例えば、今まさに自転 車をそこに放置しようとしている人に詰め寄るように、紋切り型の問い 詰め方はしない。
ただ、彼らに映像でもって、そのおかしな構図を切り取り、ユーモアたっ ぷりに銃がある事が当たり前で、ちっとも変だとは思わない人たちに、 そのおかしさを見せつける。
マイケル・ムーアは、ただ問い続ける。 何故?コロンバイン高校の2人の高校生は銃を乱射したのか?
コロンバイン高校の先輩で、アニメサウスパークの作者、 マット・ストーンはこう答える。 「ここは退屈なだけの町で、退屈なだけの学校だ。俺は小学校の 6年生の時、数学クラスを受けようと思った時、こう言われたよ。 今回失敗したら、もう次はない。お前はこの先、一生敗者だと。
でも、彼らが敗北感を感じ続けなきゃいけないのは高校にいるまでの後 1年だか1年半(マイケル・ムーア:いや、彼らはあと2週間で卒業でき たんだ、と補足する)だけで、そんなものとは自由になったはずなのに。
学校を成績優秀で卒業した奴が保険の外交員になってつまらない人生を 送り、落ちこぼれた奴が成功したりすることがあるのが人生なんだ」と。
犯人二人が、ドイツ系ヘビメタのファンだったってだけで、諸悪の根源に 祭り上げられたマリリン・マンソンはこう言う。
「俺は悪者だ。ロックをやっているんだからな。でも俺に非難が集中し ているのは、それがわかりやすいからだ。(マイケル・ムーアに事件の あった日、クリントン大統領が命令して、コソボで過去最大の空爆があっ たのは知ってる?と訊かれ)ああ、知っているよ。全く皮肉なもんだ。 人びとに恐怖を植え付けているのはメディアと大統領であるのかもしれ ないのに。その話はメディアの構図にはそぐわないらしい。(事件後、 自分のライブの開催を反対したデンバーの人たちに言いたいことはある? と訊かれ)いや、何も。ただ、彼らの言い分を聞いてやりたい」
マイケル・ムーアは、ただ問い続ける。 何故?6歳の男の子は、6歳の女の子に銃で発砲したのかと。
事件のあった町、フリントの保安官はこう言う。 「この国の貧困者対策は間違っている。何故、男の子の母親は片道1時 間半もかけて郊外のリッチ層の住む町まで行って、リッチ層のために決 して高くはない時給で、ドリンクを作り続けなくちゃいけないんだ。
彼女が70時間も働いても、アパートの家賃さえ払えなくて大家に追い 出されたんだ。彼女が追い出された後、身を寄せていた親戚の家で、男 の子は拳銃を見つけた。彼が拳銃を見つけた時、母親は遠くの町まで働 きに出ている途中だったよ」
マイケル・ムーアは、ただ問い続ける。 豊富な映像と音声素材で。
コロンバイン高校の防犯カメラ。911(アメリカの119番)の電話音声。 コロンバイン高校からの悲鳴。おっとり刀で聞いてくるメディアの声。
事件後、事件のあったデンバーで全米ライフル協会(NRA)の大会を開き、 「権利がある限り、誰も私達を止めることなどできない」と声高々に謳 いあげる会長、チャールトン・ヘストンの姿と、その会場の外で被害者 たちの感情を逆撫でするなんて許せない、と集会を開く住民たちの姿を。
息子を失った父親は言う。 「この国はどこかおかしい。そろそろ皆気付くべきだ。 もしも私の息子が生きていたら、一緒にこの場に立っていた筈だ」と
何か事件が起きた時、真っ先に駆けつけるメディア達の姿。 カメラの前では悲痛な表情を演じながら、その裏では自分の髪型を気に するレポ−ター。
マイケル・ムーアは訊く。 何故、黒人による銃犯罪はトップニュースになって、空気汚染でハリウッド サインが見えないことは問題にしないんだと。
彼はただ、問い続ける。 ハンディカメラを持って。
コロンバイン高校事件の被害者たちとともに犯人に銃弾を売ったスーパー マーケット、Kマートの本部へと。
そしてNRAの会長、チャールトン・ヘストンの自宅へと。
彼らは、カメラの前に立つしか術はない。 なぜなら、彼らは映像の持つ力の怖さを、嫌と言うほど知っているから。 そして立ってしまったが最後、彼らの姿は映像によって残酷なまでに 切り取られる。
ここには、ヘストンを支持する熱狂的な会員たちの姿はなく、ただマイ ケル・ムーアと、彼らの姿を撮影しているカメラしかない。
1対1(いや、カメラもあるから多対1か)になってしまった限り、 彼は虚勢を張ることもできない。ただ、映像で切り取られた姿しか そこには存在しない。
チャールトン・ヘストンは今年の春、アルツハイマー病に冒されながらも 今まで続けていたNRAの会長を辞任した。
そしてKマートは、昨年経営困難に陥った。 まさか銃弾を一切扱わなくなったためではないと思うが。
そして私は考える。 もしも、日本で銃の規制がなかったら、一体どうなるんだろうと。 もしも、アメリカのように例えば西友で簡単に銃弾が買えたとしたら、 日本の銃犯罪による死亡者数は、例えばカナダのようにそれでも 低いままでいられるのだろうか。
日本でも、恐怖は簡単に植え付けられているんじゃないのか? そして例えば諸悪の根源を、クレヨンしんちゃんに押し付けていたりは しないのか?
そして私は考える。 何故、ボーリングはよくて、マリリン・マンソンはダメなのか。
私の答えはこうだ。 それは、マリリン・マンソンや、黒人の貧しさの原因が、人々の 理解と関心の外側にあるからだけなんじゃないのか、と。
自分の外側に、何か理解の範囲を越えるものがあると考え、そしてその ことが強調され続ける限り、恐怖がなくなる事はないのかもしれない。
この映画をみて、映画「チョコレート」 の事を思い出した。 この映画と、「チョコレート」の底流に流れるものって 共通しているような気がする。
そして奇しくもこの2作品や、「アメリカンビューティー」が アカデミー賞を受賞している事に何やら因縁めいたものを感じて しまうのは私だけだろうか。
| 2003年05月10日(土) |
日本は本当に、不景気なのか |
という事で今回は前回の続き。 日本経済の不景気はどこから来るのだろうか。
色々と今の日本の経済状態を考えてみると、実はそんなに思ったほど、 悪くはないんじゃないかな、って気がするのだ。
いや、もちろん前回も触れたように、失業率は高いは、平均年収も下がっ て来ているは、経済成長率だって、この2、3年は実質ゼロかマイナス 成長だわ。 これらの指数のどこに明るい兆しを感じろというのか、という人がほと んどだろうと思う。
うん、でもね、この一連の流れ、資産デフレは別にして、一種の調整局 面になっているという考え方もあるんじゃないかなあ、と思うのである。
失業率に関して言えば、アメリカやドイツなどの失業率と比べて、そん なに飛びぬけて高いわけではないし、平均年収に関して言えば、まあ、 これはあくまで平均で言えば、だけれどEU各国やアメリカに比べても 日本の平均年収は高いほうだったのが、段々と各国並みになってきてい るという見方もできる。
いや、もちろん失業率は低いに越したことはないし、年収だって年々 増えていくに越したことはないんだけど、それらについて言えば、 今までの日本の状態が異常なんであって、今の状態が飛びぬけて悪い 訳ではなく、日本もようやく各国並みになってきたと言えなくもない。
そして同じ事はもう一つの指標、経済成長率にも現れていると思う。 すなわち、実質的経済成長率がゼロのまま推移したことのある国は、 おそらく日本だけではなく、例えばイギリスやイタリアだって、長年そ んな時期を過ごしてきたと思うのだ。 <この辺は資料にあたってはいないんで、勝手な思い込みかもしれない けど。 ついでに言えば、イタリアの場合は地下経済が実質経済と同じ位の規模 であるらしいから一概には言えないらしいけれど。
むしろ問題になるのは、今までがそうだったからって、今後も日本経済 は高い経済成長率を維持しなきゃいけない、という思い込みと、今の低 調な日本の経済成長率に対して、アメリカや中国の経済成長率が高いこ とへのやっかみに似た気持ちなんじゃないだろうか。
すなわち中国やアメリカに比べて日本の経済成長率が落ち込んでいるか ら、だから日本はダメなんだと必要以上に落ち込んでいたり、より不景 気感があおられているような気もするのだ。
これは例えば今までずーっと学年トップの成績を続けてきた優等生が、 1位の座を他人に明け渡したことでガックリと落ち込み、勉強する意欲 をなくしてしまい、実力以上に順位を下げてしまっているようなものか もしれない。
でね、ここで日本が負けたとされる、アメリカと中国の高度経済成長の 内幕を見てみると、アメリカに関して言えば、以前に触れたように、 借金に借金を重ねた個人消費でその成長率を無理して維持している側面 はあるし、中国に関して言えば、いくら経済成長が著しいとはいっても、 まだその経済の規模やGDPは、まだアメリカや日本には及ばない。
逆に言えば、日本ほど連続した経済成長を遂げ続けた国というのは、 珍しい存在なんだと思うのだ。 そして、その実質ゼロの経済成長率にしたって、これだけの土地及び 株式の資産デフレがあるにもかかわらず、実質ゼロという事は、もちろん 国の多額の財政出動に支えられているという側面はあるにせよ、その 不良債権問題とデフレ状況がなければ、実質的には経済の規模、パイは そこそこ成長し続けているといえるんじゃないのかな。
だから、マスコミが煽り立てるほど、今の状況は悲観的ではない、 と思ったほうがいいような気もするのだ。
毎日新聞の経済欄に「経済観測」という小さなコラムがある。 ちょっと前の4月24日、その欄にこんな記事が載っていた。
デフレは極悪か
インフレターゲット論は福井俊彦日銀総裁の就任を機に下火となったが、 デフレ脱出のためには手段を選ばず、という発想はまだ根強い。ノーベ ル賞をもらった米国の学者でも、日銀の超緩和で効果がないなら、政府 紙幣をバラまいたら良いという噴飯ものの説をなす人がある。しかし、 経済の実体が弱い時にインフレになったら、適切な範囲に制御などでき るわけない。国債の暴落、金融システムの崩壊、産業・経済の混乱で 収拾不能となる。 真逆に、デフレはそれほど極悪なのか、を吟味する必要はないか。株価 や地価の下落は銀行や企業の資産を目減りさせ、売り値が下がってコス ト割れの企業は行き詰まり、失業が増える。株価のように、売り要因だ けが増幅する市場構造のゆがみを放置しているのは無策だが、デフレ自 体は悪いことばかりではない。
世界全体として見れば、経済のグローバル化や価格革命を通じて、所得 の平準化が進んでいる。国内でも年金生活者をはじめ、物価が下がって 暮らしやすくなったと思う人は意外に多い。失業が増え、当事者の苦痛 は察してもあまりあるが、社会全体としてはまだ緩衝力を残している。 この状況の中で確実に産業の構造変化が進んでいる。銀行の不良債権処 理もこれ以上加速しなければ破綻にはいたらない。
人心もバブル期の浮ついた状態から見れば、正気を取り戻してきた。確 かに一人一人にとっての痛みは出ている。しかし、それはライフスタイ ルを見直し、人として生きる上で何が大切なのか、を自分に問い直す良 い機会にもなっている。
デフレ自体が悪いのではなく、楽を求めるのが国民で、それを満足させ ねば、票は取れず、政策としても失敗だ、という発想の仕方に問題があ るのではないか。
ここで一つ分けて考えなきゃいけないことがある。 資産デフレと、物価が下がるデフレーションは、与える影響が少し異な る、という事である。 引用したコラムで言っているのは、物価の下落に関してであり、物価の 下落は、消費者には優しいが、資産デフレの場合、財産を持っている人 にとっては、自分の財産の価値が減るという事を指す。
だから消費者としてはありがたい一面もありつつも、資産家や借金をして いる人たちにとってはありがたくなかったりする。
でも、資産デフレに関しても、例えば不動産価格の下落は、新規に家や マンションを購入したいと思う人にとっては、手を出しやすくなったと いう利点はあるわけで、一概に悪とは言えないかもしれない。
逆に、インフレターゲットを実行し、仮に成功したとしても、物価は 上昇するが、消費者の所得は増えないというシークエンスになった場合、 国の借金と不良債権は消えても、消費者にとってはスタグフレーション になり、更に生活が締め付けられる可能性もなくはない。
今のデフレ状況が果たしていつまで続くのかはわからない。 なぜならこういう状況は日本が初めてで、今後世界に飛び火していく 可能性のあるものであるからである。 例えばドイツでも、デフレに対する懸念が出始めていたりする。
そういうデフレ時代に必要なことは、実質ゼロ成長でも生き残れるビジ ネスモデルとライフスタイルを模索することだと思う。
今までの日本がとりわけよかったのは、高度成長の波に乗ることで、 経済の発展を誰もが享受でき、また中間業者のマージンなどの多少のコ ストやロスの負担も気にしなくてもよいという、一種理想的な計画経済、 社会主義経済を実現してきたことにあると思う。
ただし、これからの日本はそうした社会をもはや維持できなくなってき ているんだと思うのだ。
だから例えば、全てのモノが売れるわけではなく、100円ショップの 様にただひたすら安いものか、ブランド品や、大人向けのフィギュアの ように付加価値の高いものが売れていくし、また一つのモノを売るにし ても、一つ一つの利益率は低くならざるを得ないから、より中間マージ ンや人件費などのコストのかからないものを取り扱う所、それだけの 実力か体力のあるところが生き残っていく形になっていく。
だからカルロスゴーンは日産で無借金経営を果たしたし、また、 一段の生産の合理化を図ったトヨタは、空前の営業利益を計上した。
すなわち、この先例え更に日本の経済成長ができたとしても、全ての 人がその富を分かち合えるわけではないかもしれない。 果たしてその格差が、例えば村上龍が心配するほど拡がるのかどうなの かはわからないけれど。
でも、そんなふうに伸びる産業、落ち込む産業があり、淘汰される企業 が増えてくるというのも、資本主義経済、自由主義経済ではあたり前の 事のような気もするわけで。 日本はこのままでは沈没するという議論の前に我々は、その前提が果た して正しいのかどうかを考える必要がある気もするのだ。
その上で、あえて日本の今後に関して提言すれば、今はまだ製造業を 含めて中国に脅かされている、というよりかつてほどの粗利を得られな くなっていても、日本の生産性はおそらく世界有数の実力があると思う けれど、例えばこの先、少子化による労働生産人口が段々と減っていく 限り、日本が更なる経済成長を望むことは、難しくなっていくと思う。
その時、日本が沈没しない為にとり得る道は、おそらくはこういう方法 なんじゃないだろうか。 それは、日本が安定した投資先になることである。
日本人の資産が海外に流出せず、そして海外からも決してバブルにはな らない規模で流入し、そして還元し続けられる環境。 そのためには、金利が安定して数%代を維持できるような環境を、日本 の金融当局が目標にして作る工夫をするのが一番なんじゃないかな、と 思うのだ。
そういう安定した資金の供給先が存在すれば、例えばどこかの国が経済 的危機になったとしても、世界恐慌は起きにくくなるだろうし。 そしてそれは、円が今と変わらず実力を持ち続けるということでもある。
そして、そのための保障というか担保として1400兆円<だっけ?の巨 額な預貯金があれば、それが何も急激に動く必要はなく、むしろ堅調な 経済成長率がその金額を更に大きくしてくれる。
ただし、現実の動きは全然そんな風には動いてはいなさそうだし、 実際、日本の政府にそんなことができるだけの能力があるかどうかも 定かではないんだけど。 その絵が正しいかどうかは別にしても、絵に書いただけでは、餅は食え ないよねえ。
さて前回、前々回と、経済について久しぶりに書いてみて、わかった事 が一つだけある。それは自分がとにかく、細かい数字の正確さに対して からきし弱いって事である。
元々がアバウトな性格なので、数字の正確性というか、数字を覚えるの が、とにかく苦手なんだよね。 いや、よかったっすよ、そのまま経済学の分野に進まなくて。 もしも、あなたやあなたの将来の子供が数学が嫌いで文系に進んだ人間 だったら、できれば経済学部には進まないほうがいいかもしれない。
などと、言いつつも今回も経済ネタ。しかもここで日本経済の今後に対 して大胆?提言。ただし、相変わらず数字的にはアバウトな話であるこ とをあらかじめお断りしておく。
さて、まずはこんな問題提起をしてみよう。 果たして日本は本当に、不景気なんだろうか。
多分、これを読んだ人の大半が「不景気だよ」という突っ込みをして いることだと思う。 いや、実際自分も不景気だとは思うんだけどさ。
株価は20年前の水準に戻っているし、大規模な倒産を含めて、倒産件 数は毎年更新しているし、失業者だって、5.6%だっけ?もあるし、 サラリーマンの平均年収だって実質下がってきている。 毎年決算時期には、○月危機なんて叫ばれ続けていたりするし。
でもねその一方で、例えば国民一人一人の生活水準が、果たして20年 前に戻ったかといえば、そんなことはなく便利な生活を送っているし、 今年はまあ、イラク戦争やらSARSやら色々あって、海外旅行に行く 人の数も減ってはきているけれど、20年前より数多くの日本人が今も 海外旅行をしているし、有名ブランド品を世界中で一番買っている国民 は、今も日本人である。
つまり、メディアが声高に叫んでいるほど、今のところは国民一人一人 が不景気感を感じることは、そんなにないんじゃないだろうか。 いやもちろん、そんなの感じたくはないし、これからもっとそれを実感 する可能性は高いわけだけれど。
マクロで見れば、個人消費が冷え込んでいるという指摘はあるわけだけ ど、それはGDPに対しての個人消費の割合が落ち込んでいるっていう 事であって、ミクロ、というか個々人に割り振ってみれば、みんな意外 にお金は使っているような気がするんだけど。
例えば、少子化によって、家庭の子供にかける金額の総額は、少なくな っているかもしれないけれど、一人当たりにかける金額は上昇している と思うのだ。教育費とか、高級ブランドの子供服とかね。
ではなぜ、日本はこんなに不景気なのか。 その答えは、大雑把にいって二つあるように思う。
一つは、日本のお金がちっとも動かないこと。 そしてもう一つは、そのことによって経済成長率がマイナス成長に なっていることである。
前回、バブル経済が起こる理由について、国内外から資金が豊富に流入 したから、という仮説を立ててみたわけだけれど、今の日本の場合は国 外から資金が流入しないだけでなく、国内の資金が停滞し、効率よく流 れないことが、この不況の原因になっているんじゃないかな、 と思うのだ。
例えば今現在の株式市場は、前回も書いたように、売り圧力が強く、 下げ止まらなくなっている。だから、日銀がいくら金融の量的緩和 (紙幣をじゃんじゃか刷って市場に流すこと)をしても、一向に不良債 権は減らない一種の異常事態になっている。この状態は、竹中ショック の一環だという見方もあるわけだけど、とりあえず言えることは、株式 を売る人が多く、買う人がそんなにいない状況だからこそ、株式の平均 値は下がり続けているらしい。つまり需要と供給のバランスがすごく悪 いわけだ。
でも、その一方で、日本には1400兆円とも言われてる莫大な量 の預貯金が存在している。 普通に考えれば、この巨額な預金が、これだけ金利が安い日本から、海 外に逃げ出したり、一山当てようと株式市場に流れ出してもおかしくは ないはずなんだけど、ちっとも動かないのが問題であるわけだ。
でも、これは現代日本人の特徴なのかもしれない。 なぜなら、昭和初期、日本政府が金解禁した(再び金本位制を導入した こと)時には、当時の日本人の何%だかを占めていた日本の富裕層は、 金利の安い日本からより高利な海外へと資金を移し、その結果金融恐慌を 起こしてしまったわけだけれど、今回は日本人が高齢者を中心に平均的 に?その富を分散して持っているからか、それともまだまだ日本経済に 対しての信頼感があるからか、その資産は日本国内に留まり続けている。
逆に言えば、その多額の資金が日本国内に日本にあることこそが、日本 の信用を失墜させず、どんなに株価が安くなろうとも今のところは、日 本の体力の源になっているわけで、それが例えばアメリカとの大きな違 いといえるかもしれない。
でね、もしもこれらの預貯金額の、何%かでも流動性を持って、株式市 場に流れ込み、株式を買い出せば、日本経済は、再び動き出しそうな気 もするんだけど、残念ながらこれらのお金は、そんなリスクのある市場 には流れ出せない。
だって今の状態だったら、投資した分確実に還ってくるなんて保証は、 どこにもないからである。
だから、日本の不況を生み出している大きな要因の一つは、こんな風に 日本の株式市場及び、金融市場に対して、信用が持てずにいるという、 心理的な気持ちの冷え込みが関係していると思うのだ。
それは例えば雪印の不祥事隠しが起きた後、人々が皆、雪印の製品を 買うのを控えたようなものかもしれない。 かつて野村證券が株式の補填を一部の有力投資家に対して行ったことや、 それと相前後して株式ブームで皆こぞって株式を買い、バブルを形成し、 その後株式市場のバブルがはじけた時に皆で損をした痛手が今も深く 残っているからかもしれないし、そして今現在、こうしているときも 株価が大幅に下がり続け、買った時の金額より、下がることで今も 資産を減らしてしまっている状態に対しての恐怖感があるからかも しれない。
で、先程も書いたとおり、日本が他の国々と一番違うのは、他の国々の 場合、国民の例えば数%のみが多大な富を持っているのに対し、日本で は国民に広くその財が広がっているということだろう。
つまり突出した個人ではなく、国全体として多くの財を持っている形に なっているから、その財が一つの方向性を持っては動きにくい、という 事である。
例えば、この前発表されたイギリスの所得番付では、総資産100億円ぐ らいでは、まだ100位ぐらいにしかならず、総資産トップの人は何千 億円もの資産を持っている。 これは例えば、その大金持ちが、自分の資産の何%か、例えばほんの? 数100億円程度、を預けていた国から別の国へと移せば、それは一つの 投資の流れを生むのに対して、日本人富裕層の例えば数人が、自分の資 産の何%か、例えば数億円を動かしたとしても、大きな流れを生むこと はできない、という事を指す。
逆に言えば、そのことが今のところ日本経済が大崩壊をしない逆支弁に なっていると言えるし、別の見方をすれば、それこそが日本経済が停滞 している原因であるといえる気がする。
だから、もしも日本経済に再び流動性をつけようと政府が思うならば、 日本の金融市場と株式市場の信用を回復する必要があるんじゃないかな、 と思うのだ。
そんな風に日本市場に対して信頼が増せば、海外からの投資も増えるし、 今現在眠っている巨額な預貯金も動き出す。 少なくとも、株式市場に投資すれば、大儲けはしなくても、そんなに損は しないと思えば、現在塩漬けに近い状態になっている金融資産の何%かは 動き出す可能性はあると思う。
これぐらい、こんな素人でもわかりそうな問題なんだけど、それがうま い具合にいかないのは、日本の構造的な不況を生む構造?がある訳で。
それはすなわち、今の資産デフレを生んでいる金融機関に残る多額の 不良債権問題なんだけど、その根本の原因は、また別のところにある ように思うのだ。
その根本の原因に関して、自分が思うことは近いうち、また別の機会 にでも触れたいと思う。 という事で次回は、経済成長率と私たちの心理状態について触れてみる。
と、言うことで今回は前回の続き。 バブル経済のリスクについて。 バブルがはじけることがなぜ問題なのか。
まずはなぜ、バブル経済が起きてしまうのか。それは簡単、その国の 経済的成長率を見込んで、国内外から膨大な資金が流れ込むからである。 つまり、あの国に今、投資すれば自分の資産が2倍になる、と思えば 誰でもその国にお金を投資しようと思うでしょ?
日本のバブル経済を起こした元々の原因は、土地の値段が上昇したこと ではない。1985年のプラザ合意によって、今まで1ドル240円だ った、為替レートが一気に倍の1ドル120円にシフトしたことである。
これがどういうことであるかといえば、すなわちある日起きてみたら 日本は濡れ手で粟のように、今までの2倍の資産を持つお金持ちになっ てしまったということである。
本来なら、為替レートが大幅にシフトしたことで、日本の輸出分野は 大打撃を受けるかと思われたが、そこは日本の底力。なんとかなって しまった。
そうなると今度は、余ってしまったお金をどのように使うか。 結果、そのお金は日本のみならず世界中の不動産に多くが流れていき、 日本は空前のバブル景気を経験した。
で、その好景気の日本に対して、海外の投資家たちもだまって指をくわ えて眺めているはすもなく、結果日本にはどんどんお金が集まるように なり、経済の規模も大きくなった。 当時は4%もあった金利の高さも、日本に資金があつまった原因かも しれない。
でも、やがてそのバブルははじけてしまう。 バブルがはじけた原因は、不動産取引の総量規制にあったとも言われて いるが、本当の原因は個人的にはよくわからない。 でも結果として、日本には海外からもあまりお金があつまらなくなって しまった。
だって、日本に投資したって見返りが少ないんだったら、投資する意味 ないでしょ?100万円預けて1年でたったの100円しか利子くれな い国に誰が投資をするというのか。 その結果今まで、借金してでも回っていたはずの金融が、今度は 回収困難な不良債権の山の前に苦しむ結果となってしまったわけだ。
これはある意味、日本という国全体がクレジットローン地獄に陥って しまったようなものかもしれない。 これが問題になるのは、結果として本業をも圧迫した結果、その人たち の生活費すら、借金の返済に回さなきゃいけない状態に陥ることだろう。
もちろん、そんなことをしたら生きていけなくなっちゃうわけだから、 多くの人の場合は、借金の期限を延長して、月々のやりくりの中から 細々と借金を返していたわけだけど、今度はそんなことをしている内に 資産の価値が下がってしまう資産デフレが起こってしまい、借金を猶予 している銀行のほうの体力がなくなってきた。
そうなると、個々の借金の返済を待つ余裕がないから、無理に取立てする 貸しはがしや、新たな借金をしぶる貸し渋り、なんて事態になってきた わけだ。 ついでに言えば、現在の株価下落の一因は、銀行の持ち合い株解消の為 と、厚生年金基金で儲けようと思っていた、企業の代行返上による株式の 売り注文一辺倒になっていることもある。つまりある意味では、 自分で自分の首を絞めているといえるのかもしれない。
また、さっき国自体がクレジットローン地獄に陥ってしまった、と書い たけど、国には私たちにはない、特権がある。 それがいくらでも紙幣を刷ることができるという権利と、それによって 国の借金である国債の支払いに関しては、滞る心配がないという権利。
だから、国がいくら借金しても心配ないよ、なんてことは実はなく、 そんな風に自分の借金をチャラにするためにじゃんじゃか紙幣を刷って いると、いつしか国の信用や、その通貨の信用が落ちてきてしまい、 結局その通貨の価値が今までよりも下になってしまったり、新たな借金 をするときに、今まで以上の金利をつけないと国債を買ってもらえない という可能性がでてくる。
そして、その高くなった金利分を補うために更に紙幣を刷ると、益々 通貨の信用と価値が落ちてしまうという悪循環に陥りやすくなる。
つまり85年のプラザ合意では、2倍に跳ね上がった円の価値が この先落ちる可能性をはらんでいるということである。 ちょっと落ちるだけならいいけれど、大幅に下がるとアルゼンチンの ようになってしまう危険性もある。
まあ日本はまだ多額の預貯金を含めて、体力があるのでそこまでの危険 性はないと見られているわけだけど。
さて、話をバブル経済に戻す。 それでは、バブルのはじけてしまった日本に集まっていた、今までの お金は今度はどこに集まるようになったのか。 それがアメリカ。
だからアメリカは製造業がいくら弱くて、輸出量より輸入量の方が多く て国民一人当たりの借金がいくら多くても、好調な経済発展を90年代 を通して続けてきたわけだ。
だって、一人一人の借金がいくら多かったとしても、そこに投資すれば 倍になる可能性があるんだったら、みんな投資するでしょ? 実際、アメリカの企業の業績も好調だったわけだし。 そしてやはり、4%だか何%だかの高利な金利が続けば、やはりお金は その国に集まるわけだ。
そう、集まっているうちはいいのだ。 でも、集まらなくなってしまったら? やはりバブルははじけてしまう危険性が高くなる。
今までアメリカにこれだけの資金が集まっていた理由、それは何も アメリカだけが好景気だったからだけではない。他にドルに代わる基軸 通貨になりうるものが見当たらなかっただけだという見方もできる。
でも今は広大なヨーロッパという市場を持つユーロという基軸通貨が 力を持ちつつあるし、アジアに目を移せば、12億の民が住む中国の元 という脅威もある。
もちろん、ユーロにしろ、元にしろ今すぐにドルに代わりうる魅力の ある通貨になっている訳ではないけれど、この先ドルに代わる可能性は 十分にある。
事実、アメリカドル−ユーロは1:1の為替レートだったのが、段々と ユーロ高になりつつあるという見方も存在している。 今のところはお互いに牽制しあっているという見方もできるかも しれない。
でも、もしもドルよりユーロのほうが魅力的だということになった場合 あれほどアメリカに集まっていた資金は、雪崩をうってヨーロッパに 移ってしまう可能性はある。
だって、アメリカの金利も最近は下がってきているみたいだし。 だからブッシュさんは、戦時下という非常事態?にもかかわらず、更なる 個人消費を喚起するために、大幅な減税策を打ち出してきた。 それによって、景気後退の懸念を見せるアメリカ経済を何とか下支え しようという腹積もりだろう。
でも個人消費が、ミニマムペイメントなどの借金によって支えられて いる限り、結局海外からの資金流入という条件がなくなってしまえば、 アメリカのバブル経済は、急速にしぼんでしまう危険性はあると思う。 果たしてこの危険な綱渡りは成功を収めるのだろうか。
更に言えば、アメリカのバブルが終われば、この先どこかでバブル経済 が再び起こる可能性は果たしてないといえるんだろうか。 個人的には、行き場を失った多額の資金が世界中にある限り、いつか またどこかでバブル経済が起こる可能性ははらんでいるような気がする。 それも割と近くの地域、たとえば中国で。
さて、何を隠そう?、実は私は経済学士である。 って、何も威張りちらす事ではなく、単に大学の経済学部を、それも あまり優秀とはいえない成績で卒業しただけの話であるが。
まあ、その後はりきゅうの道に入ったことでも、あまり優秀でなかった ことはわかるかもしれない。 いや、もちろんこっちの方が面白かったからだけど<一応強弁。
で、私がまだ大学生だった頃、世の中ではバブルが崩壊した。 すなわちバブル経済真っ最中の頃に経済学部に入り、バブル経済と マルクス経済の終焉を目にするという、ある意味貴重な体験をした世代 であるわけだ。
で、マル経はひたすら単位取得に苦労した思い出しかないが、バブル経 済に関しては、実はその当時からひそかに?考え続けていた事がある。 すなわち、バブル経済の正体とは、果たして何であったのか。
これから2、3回そんな落ちこぼれ経済学士のたわごとを書いてみたい。 ただしたわごとだから、資料価値はほとんどないと思う。
こんな大それことを思ったのは、先週の4月19日に放送された NHKスペシャル『個人破産〜アメリカ経済がおかしい』を見たことが きっかけだった。
アメリカの2002年度の個人破産件数は、150万件。過去最悪の数 字である。ITバブルがはじけたといわれる2000年以降、それでも アメリカ経済が好調さを維持してきたのは、個人消費の伸びにあるとい っても過言でない。
でも、その個人消費の伸びにも、かげりが生じてきた。
個人消費を支えてきたのは、日本にはないアメリカ特有のクレジットサ ービス、「ミニマムペイメント」と、不動産資産の借り換えである「リ ファイナンス」によるところが大きいとこの番組では指摘している。
「ミニマムペイメント」とは、クレジットカードの請求額の2%程度を 支払えば、残りの支払いは、期限を決めることなく、ずーっと先送りで きるシステムのことである。通常の分割払いと違い、請求額をいつまで に支払わなければならない、という期限はなく、90年代以降、クレジ ットカードの利用が増える上で、大きな役割を果たしてるとされている。
そして「リファイナンス」とは、自分が購入した住宅の不動産価値が あがった場合、その上昇分を担保にして、新たにローンの借り換えを して、価値上昇分の金額を手にしたり、またはより安い金利にして 月々の支払いを減らすこと。 アメリカでは、不動産価格がこの10年上昇し続け、住宅販売も好調な こともあって、住宅の値上がりをもとに新たに借金をする人が増えてい て、それが個人消費の財源となっている、らしい。
あー、そこそこ。いいなー、日本でもないかな、なんて言わないように。
「ミニマムペイメント」に関して言えば、先送りした分の請求額に対し ては、通常よりも高率な利子がつけられている。すなわち、ミニマム ペイメントを利用し続ける限り、一生払い続けなきゃいけないし、借金 の総額も減るどころか、むしろ増えてしまう場合もある。
「リファイナンス」に関しても同様。とりあえず住宅価値が上がってい る間は、その増加分の金額を手っ取り早く手にすることはできるけど、 それも実は借金であることに違いはないから、自分が手にした以上の 金額を、将来的には金融機関に払わなければならない。
で結局、いくらミニマムペイメントを使ったり、リファイナンスで 当座の資金を手に入れたとしても、多重債務におちいり、月々の支払い が滞ってしまえば、ゲーム?は終わり。 あとは個人破産が待っているのは日本もアメリカも一緒である。
そして実はそんなあたり前のことに対して、人々の感覚が鈍くなってし まうところに、バブルの罠が潜んでいるのかもしれない。
それはどんなことかといえば、「今まで経済は成長し続けたんだから、 この先もずっと伸びていくはずだ」という思い込みである。
アメリカの場合、ITバブル、株バブルはもうはじけたと言われている。 90年に2000ドル代だった株価の平均高は、20世紀の終わりには 10000ドルを突破したが、その後は乱高下は繰り返しながらも、 最高値を更新することはなくなってきている。
そして、今まで堅調な伸びを示してきていた不動産価格、住宅販売の 上昇に関しても、そのカーブは段々と鈍くなってきており、FRBの グリーンスパン議長も、この先の価格の上昇に関しては悲観的な見方を している。 すなわち、ずーっと成長していくはず、の経済的な基盤がここに来て その保障がなくなったことを指している。
これとよく似たことが、実は日本でもあのバブル時代には起こっている。 「土地は戦後、いや、日本ができて以来、一度も値段が下がったことは ない。土地ほど確実な資産はない。だから土地は買いだし、土地に対し ては、いくらでも金出しますよ」というのが当時の合言葉。
すなわち、土地を買うために借金に借金を重ねてたって、いつかその 借金分は、不動産価格や株価の上昇分でチャラになってしまいますから、 皆さんどんどん借金しましょう、が当時の常識だったような気がする。
その後結局土地の値段は下がり続け、その当時した借金が不良債権とし て、今も日本経済の首を絞めることになってしまったのは記憶に新しい。 まあ、日本の場合は政府の出した「総量規制」という人災によって 一気に景気が冷え込んでしまった、というような気もするけど。
さて、ここで問題になるのは、 じゃあ、とりあえず借金に借金を重ねても、将来的にその借金はチャラ になるかもしれないから、借金をしてでも個人消費をしてお金をどんどん まわしましょう、という状態は、果たして好景気といえるんだろうか、 という事である。
これはもちろんマクロ経済で見れば、経済の規模が大きくなっている から、好景気、高度成長といえるかもしれない。 でも、個々の資産を見れば、資産より借金の方が大きい、債務超過の 状態に陥りやすいというリスクをはらんでいる事になる。
すなわち、実質的なお金の総量が増えているわけではなく、ただ単に 借金の分だけ、経済が成長しているように見える状態、それがバブル経 済の正体だといえるような気がする。
ここまで考えて、ある文章を思い出した。 養老孟司「バカの壁」 の中の一文。
こういう状態で考えておかなくてはならないのは、日本政府なり、世界 中なりが、経済統計のみを問題にしているということです。経済統計と いうのは非常に不健康な部分を持っている。なぜなら現在のように紙幣 が自由に印刷できるという状況だと、統計そのものが「花見酒経済」に なっているからです。
樽が真ん中にあって、八つぁんと熊さんが担いでいて、八つぁんが熊 さんに十文渡して一杯飲む。次には熊さんが八つぁんに十文渡して飲む。 そうすると、樽酒はどんどん減っていく。この八つぁんと熊さんの金の やりとりは、実は経済統計を極めて単純化したものです。経済はちゃん と動いている。にもかかわらず、ひたすら目の前の酒が減っている。こ れを経済的な発展と捉えていいのか。(略)
ところが実際には、無駄にお金を回し続けないと経済は成り立たない、 という思い込みが世界の常識になっている。実の経済と虚の経済がある ということは常識になっていない。つまり、八つぁんと熊さんの間で金 が回っている、金が回っているのが良い状態だと。
しかし、実はそうではないはずなのです。実体が見えない状態で、欲 のままにお金を回していけば、「経済は好調だ」とか何とか言っている うちに、いつの間にか目の前の酒樽は空っぽ、ということになってしま う。
さて、バブル経済には、二つの面でリスクの高さがあると思う。 一つは、この引用文中にあったように「花見酒経済」に陥りやすい部分。
ただし実際の経済では、ただ単に酒がなくなった代わりに酔っ払った だけ、なんてことはなく、たとえばその分個人消費などによって耐久材 などが手に入るんだから、実際には何か実質的なものを手に入れている といえるとも思うけど、問題なのは、そういう「本業」によって手にい れらる資産より、株や借金によって手に入れられる資本の方が規模が大 きく、簡単である、という事だろう。
これの何が問題なのか。 それは、次の問題によって脅かされやすいということである。 それはすなわち、バブルはいつかはじける、という問題。 と、いうことで続く
♪それがオ〜ケ〜ピ〜♪ それがオ〜ケ〜ピ〜♪ ♪人生で〜起こることは〜♪すべてここでもお〜きる〜♪
と、いうわけで今回のネタは、三谷幸喜作演出のミュージカル、 「オケピ!」
と言っても舞台を見に行った訳ではなく、WOWOWの生中継を、 録画したのを見たわけである。 いや、よかったよ、マジでWOWOW入ってて。
さてこのミュージカル、一言で言えば、予想以上に面白かった、である。 全体的な流れでいえば、いつもの三谷幸喜スタイルの演劇を、ミュージ カル仕立てにした内容。
三谷幸喜の演劇を見たことない人でも、最近までやっていた、「HR」 や、映画「ラジオの時間」あたりを見て、面白いと思った人なら、 きっと面白いと思うはずである。 ちょっと待ってよ、でもミュージカルでしょ?それって一体どうなのよ? と、思ってしまう人でも、多分大丈夫なんじゃないかな。
さて個人的にミュージカルは、そんなに手放しで大好きな訳ではない。 ある一定の条件がないと、なかなかこのミュージカル面白い、とは思わ なかったりする。
その条件とは、 1)曲がいい。 2)歌がいい。 3)キャストがいい。 の3つである。
でね、おそらく自分を含めた日本のミュージカルが苦手な人たちって、 1)の曲がどんなによかったとしても、おそらくは2)の歌の段階で ダメ、って人が多いんじゃないかなあ、と思うのだ。
つまり、それがどんなにいい曲だったとしても、英語ならまだしも、日 本語で歌っているのって、なんかマヌケだよね、って気がしちゃうと、 途端に退いちゃう気がしたりとか。
今回の、「オケピ!」の場合、そこをどうクリアしているかというと、 10割ではなく、3割打者を目指すことで、クリアしているような気が するのだ。
つまりどういうことかというと、全部が全部、感動的な曲にはできるわ けじゃないから、逆にマヌケな、というかギャグ狙いの歌詞を混ぜる事 で、日本語の歌詞ってマヌケなんだよなあ、というお客側の思い込みを うまく利用しているのかもしれない。
でも、冒頭に紹介した歌詞のように、おちゃらけてはいるんだけど、 曲とあいまって耳から離れなくて、ついつい口ずさみたくなってしまう 歌が多いんである。 ♪気〜になって〜気になって〜♪の歌とかね。
その代わり、本域でいい曲は無茶苦茶いい曲に聞こえるような演出に なっているというか、そのメリハリがあるから、名曲が名曲として、 より心に響いてくるような気がする。
そして、それはキャストにも見事に現れている。 オーボエ奏者の布施明の役って、物語上はそんなに重要な役ではないん だけど、1幕の終盤、彼が歌い上げるところから、劇の雰囲気がこう、 盛り上がっていくような気がするのだ。
やっぱり歌がうまい人っていいよね〜って感じでなぜかちょっと得をし た気がするのは何でなんだろう。
また今回のヒロイン役、天海祐希も、元宝塚トップスターの実力をここ ぞ、と言うくらいに見せてくれるのが気持ちいい。 やっぱり天海祐希は素敵だなあ、なんて思ってしまうのである。 2幕のソロとか、泣いてたし。
そしてそれは他のキャストについても同じ。 白井晃、戸田恵子、小日向文成、温水洋一、瀬戸カトリーヌ、そして、 相島一之、小林隆の三谷演劇常連陣に加えて、寺脇康文、川平慈英、 小橋賢児と、いずれもTVなどでおなじみかつ、演劇経験の豊富な役者 さんたちが出ている舞台ってのは、ある意味幕の内弁当のように贅沢だ よなあ、と思うのである。
ついでに欲を言ってしまえば、この作品を、英語に翻訳して、オフブロ ードウェイあたりでやらないかなあ、なんて思うんだけど。 意外に通用すると言うか、うけるんじゃないかな。
DVD、もし出たらその時お金に余裕があったら買っちゃうかも。
さて、ここから先は余談。 ふと気がつくと最近、妙にミュージカルづいているような気がする。 去年は、「フォッシー」「ライオンキング」と2本見に行ってるし、 映画では「ヘドウィグ・アンド・アングリーインチ」見てるし、 今年に入ってからは、映画「シカゴ」を見ているし。 しかも今年は鴻上尚史も、ミュージカル演出を手がけるらしいので、 多分見に行くんだろうし。 まだ見ていなかった「ムーランルージュ」も、今度WOWOWでやる みたいだし。
俺ってもしかして、実はそんなにミュージカルって嫌いじゃなくて、 ただ単に食わず嫌いだっただけなのか?もしかして。 そういえば昔映画「コーラスライン」にめちゃくちゃ感動してたし。 まあ、もちろんそれが面白ければ、ミュージカルだろうと何だろうと 構わないって事ではあるんだけど。
今日のネタは キダム。 フジテレビが盛んに宣伝をしているアレである。
フジテレビの宣伝に載せられた訳ではないけれど、一度みてみたいと思っ ていたのと、CMで東京公演が5月5日で終わること、そして今なら当 日券がまだ手に入ると言っていたので、ちょっと見る気になったので、 電話をかけて当日券を見事にGET。 でもSS席1枚11500円。高い。
でもね実際に見てみたら、十分元の取れる内容だったのだ。 このイベント、一言で言えば、生きている間に見られてよかったかも、 である。
キダムは、元々はサーカスの一種だと思うんだけど、そんな自分の予想 をはるかに越える驚きの連続だったのだ。 もう、口開きっぱなし、拍手しまくりで手痛すぎ。
なんていうのかな、ある日自分の町に旅芸人の一座がやってきて、 ちょっとドキドキしながら、テントの中をのぞいてみると、そこは まるで非日常的な、夢のような世界が待っていたって感じかもしれない。 雰囲気としては、いきなりヨーロッパのカーニバルに紛れ込んでしまっ た感じが近いかも。
もしくはグリム童話の世界や、または不思議の国のアリスなどの挿絵で 有名な金子國義の世界に近いというか、ちょっと退廃的で、エロティック で、会場には子供もいっぱい来てたけど、もしも自分が子供だったら、 ちょっと見てはいけないものを見てしまった時のドキドキ感というか、 妖しい雰囲気が漂っているというか。
そして、そんな雰囲気の中で繰り広げられる出し物?の一つ一つが、私 たちの想像の範疇を超えているというか、とにかく人間業ではないのだ。
特別な道具や、たねや仕掛けがあるわけではなく、基本的に自分の身ひ とつで行なっているので、人間の肉体というのは、これだけの可能性を 秘めているんだ、というか、身体が躍動しているのって、とっても美し いよなあ、というか。
出し物の中には、小さな子供たちも出てくるんだけど、それだけ驚異的 な技を、できて当然というか、あたり前のようにこなしているのがマジ ですごいと思うのだ。 失敗したら大怪我しそうな技に関しても、もう100回やっても失敗し ないと思わせるような、説得力というか技術の裏づけがあるというか。
そしてそういう出し物の合間に繰り広げられる、クラウンたちの客いじり やコミカルな動作の面白さ。
なんつうのかな、さすがに喜怒哀楽の怒、はさすがにないけれど、自分 の持つ感情すべてに訴えかけられている感じかもしれない。 すなわち、技に驚き、ハラハラとして、成功したら大喜びをして、その スピード感とリズムに酔いしれ、そしてクラウンたちに大笑いをする。
どんな大人でもあのテントの中では子供の頃に戻ってしまう、そんな 魔法をかけられてしまったような感じのするショーだった。
最後、旅芸人さんたちが帰ってしまうとき、え、もうこれで愉しかった 時間は終わってしまうの、とちょっぴり切なくなってしまったり。
おとぎ話で、ハーメルンの笛吹きってお話があったけど、思わずついて いってしまう子供のように、ちょっと怖いけど、でもその世界に ついていってしまいたくなるような、そんな感じというか。
って、一日たっても全然文章としてまとまっていないんだけど。 でも、仮にどんなに言葉で表現しようと思ってもあの感動と興奮は 見た人じゃないと伝わらないような気がする。
どうしようかな、もう1回くらい見ても惜しくないよなーと思うくらい 面白かったです。 いや、マジでもう1回行けたら行ってしまうかも。
最後、これは多分見た人じゃなきゃわかんない話だと思うけど、 あの3人のクラウンの一番小さい人、ナイナイの岡村さんに似てない すか?最初、え、これってめちゃイケのオファーシリーズなの?と ちょっぴりドキドキした自分がいたんだけど、それって俺だけかな。
| 2003年05月01日(木) |
「ロードオブザリング 二つの塔」 |
毎月1日は映画サービスデー。映画が1000円で見られる日。 あれ?この間までは毎月第一水曜日じゃなかったっけ? そう、知らない間に変わっていたのである。
ということで今日見に行ったのは、今更ながら?「ロードオブザリング 二つの搭」。「キャッチミー・イフユーキャン」とどっち見ようかと 散々迷った挙句にこっちを選択。今回見逃しちゃうと、平気で1年ぐらい 見ないような気がするし。
と、いうことで見た「ロードオブザリング 二つの搭」 。 一言で言うと、これはもう、そのまんま楽しむしかないでしょう。
どういうことかといえば、原作「指輪物語」の世界をおそらくは、真正 面から忠実に、生真面目に映像化した映画だと思うのね。 原作→映画化、と言う時にありがちな遊びの部分があまりみられないと いうか。
で、原作の「指輪物語」自体、物語としての構造が、がっちりと固まって いる作品だと思うので、これはもう、目の前で起こる重厚なスペクタクル を、3時間に渡って楽しんでいただきましょう、って映画なんだと 思うのである。 ええ、もう十分に楽しませていただきました。
ただそうだな、あえて一言言わせてもらえれば、あまりに物語ががっち りとしているので、自分を登場人物に置き換えて、自分だったらあの時 こうするだろうなあ、とか考えにくいっていうのがあるかもしれない。
例えば、ここにロードオブザリングというRPGゲームがあったとしても、 展開が一本道で、異なる選択肢を選びにくいというか、いや、もう 指輪物語の世界ではこうなる運命でしょう、みたいな感じというか。
だから、自分が仮にあの世界に放り込まれたら、大変そうだし嫌だなあ、 って感じかも。いや、もちろん放り込まれたりはしないんだけど。 前作もそうだったんだけど、見終わった後、なんか本当に果てしない旅を してきたような感じがするのだ。 だからこれを何回も見直せる人って、体力があるってことかもしれない。
個人的には、2、3年後に、また見直したいと思う体力があったら、 見てみたいと思うかも。
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