2007年03月26日(月)  マタニティオレンジ100 1%のブルー

書きたいことが尽きないものだと我ながら感心してしまうけれど、マタニティオレンジの記念すべき100回目は、タイトルに反してマタニティブルーのことを書こうと思う。「本当に楽しいことばかりなんですか?」と何人かに質問をもらった。実際、本当に楽しんでいるけれど、妊娠してからずっと笑っていたわけではない。妊娠・出産・育児をしなければ味わわずに済んだ怒りや悔しさや悲しさはある。妊娠を知ってから400日余りの間に4日ぐらいは落ち込んでいた。99%はユカイだったけど1%はフカイだったというわけで、100話目にブルーの話。

はじめての出産だったけれど、マタニティビクスと助産院という心強い味方を得て、不安は最小限に抑えられた。けれど、妊娠中の二度の出血にはドッキリ、ヒヤリ。出血といっても点のような小さなものだったけれど、妊娠がわかって間もなくの一度目は血相を変えて近所のレディースクリニックに駆け込んだ。ちゃんと心音は聞こえているし、大丈夫でしょう、と言われてようやく動悸が静まったけれど、自分の狼狽ぶりを見て、もうおなかの命と一体感ができているんだなあと実感した出来事だった。二度目は妊娠後期で、前夜に長い打ち合わせをしたことが原因だと思われた。5時間も座りっぱなしでは、子宮だってエコノミークラス症候群になりかねない。このときは助産院に電話すると、「一日様子を見てから来たら?」と助産師さん。落ち着いた口調から「それほど心配しなくていいよ」のニュアンスを聞き取って安心したが、このときは「ここまで大きくなって、もしものことがあったら……」と焦った。二度とも出血はすぐにおさまったし、わたしのように問題ないケースが大半らしいが、中には危険な場合もあるという。いずれにせよ、二度の出血は、おなかの中からのSOSだったのだろう。一度目は、「おなかはまだ目立ってないけど、ここにいるんだから、いたわってね」というサイン。二度目は「仕事より大事なものが、ここにいるよ」というサイン。そう受け止めて、生活や仕事のペースを見直したことが、結果的には「出血しても問題なし」になったのではないかと思う。

泣いたことは二度あった。一度目は、妊娠6か月のゴールデンウィーク。大阪から遊びに来たダンナ弟一家とともにダンナの実家で食事をしたとき、「もうお子さんの名前は考えているんですか」とダンナ弟妻のノリちゃんに聞かれた。「うん」とわたしは元気よく答え、「男だったら優人(まさと)、女だったら舞子(まいこ)」と続けた。すると、「あらあら、楽しみがなくなっちゃったわね」とダンナ母。しまった、と思ったけれど、遅かった。その帰り道、「考えているかどうかだけ答えればよかったのに、なんで名前までばらすんだよ」とダンナになじられた。その言い方がきつくて、歩きながら、わたしはボロボロ泣いた。「ケチつけないでよ。人が機嫌よく妊娠してるのに」と言いながら泣いた。泣くほどのことじゃないと思いながらも、泣いてしまうと気分がすっきりと軽くなった。涙にはデトックス効果があるというのは本当だ。泣かせるつもりはなかったダンナはオロオロして、気の毒だった。「もういいよ。ケチついた名前は使わない。優人も舞子も使わない」と言うわたしを、「名前にケチつけたわけじゃないよ」とダンナはなだめた。この事件のせいじゃないけど、結局、違う名前になった。

二度目に泣いたのは、出産後。助産院から退院して自宅に戻った日だった。8月21日の夕方に破水して、あたふたと飛び出したきり。一週間も家を空けたのは『子ぎつねヘレン』のロケ以来。ひさしぶりのわが家でのんびりしたい、というのが本音だったけれど、命名式というものを急遽うちでやることになっていた。大阪から泊まりで手伝いに来ていたわたしの母に加えてダンナの両親と妹がやってきて、ダンナ母が用意した赤飯やサラダをテーブルに並べていった。汁物だけはうちで作ることになったのだが、ダンナ母は「あなたは寝てなさい」と言ったかと思うと、「どこに何があるか、さっぱりわかんない」と言い出す。いつも以上にはりきっていて、いつも以上にはっきりものを言うのが、産後で体も頭もぼーっとしているわたしには重かった。明らかにやり方の違う二人の母が台所に並んで、ぎくしゃくと息の合わない共同作業で汁物をこしらえる光景も、見ていていたたまれなかった。なんで、こんなことになってるんだろう。なんで、自分の家なのに落ち着かないんだろう……そんなことを考えていると、だらしなく膨らんだ子宮に悪いガスが溜まっていくみたいだった。

それでも食事は和やかに進み、ダンナ妹が達筆で色紙にしたためた名前は拍手で迎えられ、いい時間だった。さっきイライラしちゃったのは、疲れていたせいだったんだなと思った。いったん静まった感情の波が再び荒れたのは、トイレに入って、窓辺に並べたインク瓶のアイビーがそっくり消えていることに気づいたとき。母を問い詰めると、「枯れてたから捨てた」と言う。一週間の間にインク瓶の水は干上がり、アイビーの根は乾いてしまったようだ。それなら仕方ない。けれど、母が捨てたものは他にもあった。花瓶カバーに使っていたアメリカ土産の花柄の紙袋が、ビニール袋に突っ込まれているのを見つけて、「なんてことするん!」とわたしは噛み付いた。「埃まみれでボロボロやん」と母は言ったけれど、わたしには大切な小物だった。そのビニール袋には、他にも一見ガラクタだけれどわたしには意味のあるものが一緒くたにされていた。「勝手なことせんといて!」怒りが爆発した。

だが、実際には、母は捨てたのではなく、どけておいたのだった。ダンナ両親の目につかぬように。娘の暮らす部屋が少しでも見映えが善くなるようにと、早めに着いたダンナ妹とともに精一杯のことをしてくれたのだ。「あのままを見せるわけにはいかへんやろ」。ダンナ両親とダンナ妹が帰った後で、母はため息をつきながらそのことを話した。ごめんね、と謝るべきなのだろう。ありがとう、と感謝するべきなのだろう。でも、「余計なこと、せんといてくれたらよかったのに!」と憎まれ口しか出てこない。頭に血がのぼって、あっちこっちへ飛び出した感情のこんがらがってしまった。トイレにこもって、わあわあ泣いた。本当はこんな言い争いなんかしたくなかった。子どもを産んで、一週間足らずの育児で、母親の幸せと大変さを知った。自分やダンナもこんな風に生まれて育ってきたんだなと思い、自分の母親にもダンナの母親にも今まで以上に感謝と尊敬の気持ちを抱いた。なのに、なんで、二人の母に苛立ち、娘のためにやってくれたことに文句を言ってしまうのだろう。無性に悲しくて、やりきれなかった。泣きじゃくるわたしの声はドアの外にも聞こえていたはずだけど、母は何も言わなかった。ダンナはわたしの頭をぽんぽんとたたいて、「みんながんばってるよね」とだけ言った。わたしだけの肩を持つのではなく、みんなを持ち上げる。とんちんかんな慰め方だ、とそのときは物足りなく感じたけれど、みんな良かれと思ってやっているのにうまくいかない、なんでだろね、というもどかしさをわかって分かち合ってくれていたのだと思う。

ひとしきり泣いて、またもやすっきりして、あっと気がついた。8月22日の出産当日を出産0日目とカウントするから、今日は出産5日目。産後の憂鬱を表すマタニティブルーは5日目でピークを迎えるという。いつもだったら口ごたえひとつで済むようなことに目くじらを立て、泣き喚いてしまった原因は、これだったのかもしれない。精神的にいちばん不安定なタイミングに、神経をすり減らす出来事が重なってしまったのだ。思えば、高校を出て以来、母を離れた年月が母と暮らした年月を上回ってしまっていた。そんな母娘がいきなり息ぴったりで一緒に暮らせるはけがない。母が大阪へ戻るまでの一週間をかけて、母が手を差し伸べたいこととわたしが頼みたいことの折り合いがようやくついた。

娘を授かって良かったなと思うのは、母の気持ちに少し近づけたことだ。母は娘が何才になっても大人になっても母になっても、娘を必死で守り支えようとする。突っぱねられても、感謝の代わりに文句を言われても、どこまでも母であろうとする。そういうせつない生き物なのだということを知れたことはよかった。母との関係で泣くことはもうないのではと思うけれど、娘との関係で泣かされることはあるだろう。そのときもっと母の気持ちに近づけると思う。

2006年03月26日(日)  ヘレンウォッチャー【都電荒川線編】
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