風紋 もくじ / この前 / この後
4年に1度しかめぐってこない「2月29日」だから、何でもいいから今書けることを何か書き残したいと思った。
最近読んだ本の中で、心に残った本。 少しずつ春の気配が感じられるようになって、朝と夕方の空も私の好きな感じになってきて、この場所にも何か書けるようになるかなと思う今日この頃。しかし体調不良の日が多くて、今日と昨日も「昨日夜に帰ってきてから何とか夕食を食べて倒れ込むように横になったが眠れない。横になっているのがつらい。しかし起き上がっているのもだるい=どうしていいかわからない」という感じだったので、もうしばらくはこんなペースで進むと思います。 (2004/02/28、17:30記) 追記 結局、今日は外出の予定を2つキャンセルして、基本的には横になっていて、時々起き上がったりしていた(だるくて起き上がれなかった…)。20:00頃に何とか食器洗いができるくらいまでには回復。でも基本的に不調なので、早めに休みます。 (2004/02/28、23:00記)
今日は少し、落ち込み気味で暗めの日記。 一昨日、私が以前経験した「あること」の話を聴いて下さった方が、「“ありがとう”より“ごめんなさい”の方が先に来たのは、つらかったでしょう」という言葉をかけて下さった。 振り返ってみると、ずっと私は、“ありがとう”よりも先に“ごめんなさい”の方が先に来ていたような気がする。 そんな私のことを、私自身は情けないと思っていて。 どうして先に素直に“ありがとう”と言えない? 「時間が経ってからこそわかることもある」。 私自身の経験から、“あぁ、それはそうだな”と思うこともある。ただ、今は私は何もできていなくて、それがただただ悔しい。 今は、深呼吸を繰り返しながら、できることからゆっくりと進んでいくときなのかもしれない。 さっきまでものすごい勢いで落ち込んでいたのに、書き進めるうちに、日記の記述自体は、前向きに進もうという感じの記述になってきた。 ただ、私自身が莫迦なことばかりして、周りの人に迷惑ばかりかけて、“ごめんなさい”では済まないくらいいたたまれない気持ちであるのは、その通りで。 周りの人に迷惑ばかりかけて、信頼を裏切っていって、離れられるのが怖いのかもね…とも思う。それでも、ありったけの私で、ありったけの誠意で、いろいろな人と出会っていくしかない。
伝えたい、という気持ちがある。 我が家の飼い犬が、どうやら花粉症らしく、くしゃみを繰り返している。ということは私もそろそろ? 自分自身がアレルギー体質であることは、昨年の今頃わかったことだが、あまり自覚がないので…。
いろいろな人が、いろいろな思いを抱えて生きているんだな。目に見えなくても。 「風と夏と11歳〜青奈とかほりの物語〜」(薫くみこ:作、みきゆきこ:絵、1993年、ポプラ社)(詳細)という本のことについては、2002年12月1日の日記や2003年11月30日の日記に詳しく書いたことがあるが、その中で、主人公の1人である青奈(せいな)が、かほりに、かほりの家の屋根の上で、“あの木は望んであそこに生えたわけではないのに、人間の勝手な都合で切り倒されるんだね”という意味のことを言う場面がある(今、手もとに本がないので、正確に思い出すことはできないのでもしかしたら細かなニュアンスは間違っているかもしれない)。 別に何の脈絡もないが、何となく、その場面を思い出した。 「秘密のこと」には、2種類あるような気がする。 子どもの時の秘密には、甘やかな香りのするものが多かったような記憶がある。秘密の遊び場、秘密のおまじない、好きな男の子(女の子)のこと、などなど。 大人になるにつれて、抱えているのがつらくて重い秘密も持つようになることがある。 子どもだって「抱えているのがつらくて重い秘密」を持っているし、大人だって「甘やかな香りのする秘密」を持っていることもあるので、子どもと大人という区別はできないけれど。 “一瞬一瞬を、もう二度と戻らない瞬間だと思って大切に過ごそう”と思いながらも、何をどうすればよいのか、何をどうすれば“大切に過ごす”ことができるのかわからなくなって、私はどう生きればいいの?と、ぽやんと空に問い掛けてみる。 今日は、割合のんびりと過ごした。 昼寝をした。 本を読んだ。 (1)「アーモンド入りチョコレートのワルツ」(森 絵都:作、いせひでこ:絵、講談社、1996年)(詳細) (2)「ピアニッシシモ」(梨屋アリエ:著、講談社、2003年)(詳細) (3)「東京サハラ」(さとうまきこ:著、理論社、2001年)(詳細) 今、手に取っている本 (1)「生者と死者のほとり―阪神大震災・記憶のための試み」(笠原芳光・季村敏夫編集、人文書院、1997年)(詳細) (2)「カラフル」(森 絵都:著、理論社、1998年)(詳細) 「ヨーグルトケーキ」を作った。料理の苦手な私が唯一といっていいほど失敗せずにできるお菓子。というわけで、とてもとても簡単にできます。でも、途中で材料をこぼしてあたふたしたのは内緒。どこまでも粗忽者の私。 昨日少しだけ分析したデータの結果を、ぽやんと眺めていた。 そんなところ。 「風紋」(保科洋作曲)を聴きながら、いろいろな想いがめぐって、涙が止まらない。止まらないのに、繰り返し繰り返し何度も何度も聴いてしまう。 そんな夜。 覚え書き:唇ががさがさに荒れている。リップクリームを塗ると余計に荒れる。
春が来ているのかな、と、何となく思う。 もしも、私がいっぱいお酒を飲むことができるのだったなら。 もしも、私がいっぱいお酒を飲むことができるのだったら、「あなた」がお酒をたくさんたくさん飲まずにはいられないほどの心持ちである時に、一緒に飲んだくれて酔いつぶれることができるのに、と思う。 でも、一緒に飲んだくれて酔いつぶれることができたとしても、「あなた」の心持ちを完全に理解することはできないだろう。それで「あなた」の助けになれるのだろうか。なれない、と思うと悲しくなる。 せめて、忘れずに見守ることができればいいのにと思うけれど、そうしたって「あなた」にとっては重荷に感じることであるかもしれない。 力になりたいとは思うけれど、一緒に酔いつぶれるだけが方法ではないのかもしれない。だからって、どうしたらいいのか、わからないけれど。 昔からの友人数人と久しぶりに会っていた。気心知れた友人たちとはいえ、直前まで会うのがすごく怖かった。会わないうちに、みんなしっかりとそれぞれの道で進歩を遂げているのに、私だけ何の進歩もないことはわかっていたし、最近の私の状態がこんなのなので、話してもあまり明るい話題を提供できそうになかったから。 結局、会って良かったなぁと思った。どういう心境の変化かよくわからないけれど、皆のおかげだろうと思う。大切な友人がいてくれることに感謝している。 「もっと自信を持てばいいよー」と皆に言われた。うーん。最近は、私は自信を持つ資格もないと思っているからな。 最近は、「ひ」は「疲労」の「ひ」、「ふ」は「不安」の「ふ」、「ぜ」は「絶望」の「ぜ」、という日々なのだ。 ハーブティを飲んでいます。割と飲みやすい。好きになりそう。 (↑夜に書いたもの)
朝6時ちょっと過ぎ、まだ薄暗い時間に、新聞を取りに外に出る。東側の空は夜が明けかけていて、刻一刻と色が変わり、ところどころに黄みの赤色のくっきりした色が見える。周りの空も明るい白色。一方で、西側の空には、はっきりとお月様が見える。朝が近いのに堂々と輝いている。 昨日、NHKで「死の国の旋律〜アウシュヴィッツの音楽家たち〜」という番組(恐らく再放送)を見た。 この番組を見た感想を語る言葉を、私は今は持てない。 (2004/02/08,AM7:30記)
月が、とてもとてもきれいだった。 何ものかが壊れ、“何もかももうだめだ”と思い知った場所から、絶望以外のものは生まれないだろうか、と、ふと思う。元の通りには戻らないものもある。戻らないのは、身を引きちぎられるかと思うほど痛い。けれど、そこから何か…何か生まれないだろうかと思う。生まれてほしいと祈る。そう思うことは、希望的に過ぎるだろうか。 どうか、苦しみ過ぎることのないように。 と私が祈るのも、あまりにも無責任なことなのだろうかと思うと、黙って宙を見つめてぼんやりするしかない。 以前のようにすらすらっとこの場所に日記が書けるようになるかなという気がしている。一方で、もう無理なのではないかと思ったりもする。ここのところはパソコンに向かうのも疲れてしまっていて、この場所とは別にプライベートで書いている生活記録もほとんど書けなかった。 あと、昨日あたりからふらつきが再発しているような気がする。 BGM:「夜明けまでのマーメイド」(歌:松本典子) 今から10年以上前の歌だろうか。歌手と曲名と曲しか知らないけれど、ものすごく切なくて哀しいメロディーと歌詞が好きで、時々聴く。
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