風紋

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2004年02月29日(日) 2月29日

4年に1度しかめぐってこない「2月29日」だから、何でもいいから今書けることを何か書き残したいと思った。

“いつもと同じようで、少しだけ違う日々”が続いており、朝になれば太陽が昇り夜になれば太陽が沈んで暗くなり夜空に星が見えるというのも変わらないはずなのに、4年に1度だけ、2月は1日多い。何だか不思議なことだと思うし、ありがたいと思う。

でもよく考えると、「何気ない普通の日だと思える日」も2度と戻らないありがたい1日1日だなと思う。いろいろ考えた結果、今日は「少し不思議なありがたい日」だということにした。

私としては、もう2月が終わるのだという実感があまりない。牛乳やヨーグルトの賞味期限を見て「3月1日までだったらまだまだ大丈夫」と思っていたのに、気がついたら全然大丈夫ではなくなっていた。あたふた。

だからといって特別なことをしたわけではなく、ごく普通に過ごしていた。本を読んだり、データをまとめようとしたり、お寿司を食べたり。そんな日だった。


2004年02月28日(土) 読んだ本:「つきのふね」「悲しいくらい好きだった」

最近読んだ本の中で、心に残った本。

(1)「つきのふね」(森 絵都著、講談社、1998年)(詳細

特に森絵都さんの作品にはまったというわけでもないのだけれど、何となくとっつきやすそうな気がして、「永遠の出口」、「カラフル」、「つきのふね」、「リズム」、「ゴールド・フィッシュ」の順で読んでみたが、私は「つきのふね」が一番心に残った(今のところ)。読み終わった後、私に何かを残してくれたような気がした…と言ってもよい。その「何か」が何なのかわからないけれど、その「何か」があれば、私はきっと進んでいけると思う。

心に残った文章を1つ2つ引用しようとしたが、1つ2つでは済まないことに気がついたので、省略します。


(2)「悲しいくらい好きだった」(薫くみこ:作、のぞえ咲:絵、ポプラ社、1996年)(詳細

表紙の絵がおどろおどろしい感じがするけれど、どうかそんな理由で引かないで下さい…という本。むしろこの表紙の絵に、この物語のすべてがあるような気がするので。

ある意味、本当に「悲しい」物語。でもその悲しさがどこかにつながっていくと思いたい。それから「話すこと」「話せないこと」「『話せない』ということに込められた思い」などについても考えさせられた。


少しずつ春の気配が感じられるようになって、朝と夕方の空も私の好きな感じになってきて、この場所にも何か書けるようになるかなと思う今日この頃。しかし体調不良の日が多くて、今日と昨日も「昨日夜に帰ってきてから何とか夕食を食べて倒れ込むように横になったが眠れない。横になっているのがつらい。しかし起き上がっているのもだるい=どうしていいかわからない」という感じだったので、もうしばらくはこんなペースで進むと思います。

(2004/02/28、17:30記)


追記

結局、今日は外出の予定を2つキャンセルして、基本的には横になっていて、時々起き上がったりしていた(だるくて起き上がれなかった…)。20:00頃に何とか食器洗いができるくらいまでには回復。でも基本的に不調なので、早めに休みます。

(2004/02/28、23:00記)


2004年02月21日(土) 今日は少し、落ち込み気味で暗めの日記。

今日は少し、落ち込み気味で暗めの日記。

多少調子を崩しているのか、苦しくてつらくて、あせって、莫迦なことばかりしている。周りの人と衝突してしまっている。あるいは、周りの人にとても迷惑をかけてしまっている。こんなことをしていたら、きっと私は周りの人に迷惑をかけ過ぎて、呆れられてしまうだろうということばかりしてしまっている。

ごめんなさい、と思う。それで全て許されるとは思わないけれど、ただただ、ごめんなさい、と思う。

“ごめんなさい”で許されるとは思わないなら、今からでも何かはじめなければならない。小さいことでも、つまらないことでも、私にできることから、していかなければならない。それは何? 他の誰でもない私が、今までずっと生きてきて、いろいろなものに触れ、いろいろなものを得て、いろいろなことを考えてきた、そこから、他の誰でもない私ができることはあるのか?

私には、まだ、やりたいことがある。やらなければいけないことがある。それにまっすぐに進めるのか? 少なくとも今は進めていない。だからまだ生きていなければならない。

毅然として、ぴっと生きていくのが、ずっと私の憧れなのに。

目をそらしてはならない。私の眼の前のものをしっかりと見据えなければならない。真剣勝負で対峙しなければならない。


一昨日、私が以前経験した「あること」の話を聴いて下さった方が、「“ありがとう”より“ごめんなさい”の方が先に来たのは、つらかったでしょう」という言葉をかけて下さった。

振り返ってみると、ずっと私は、“ありがとう”よりも先に“ごめんなさい”の方が先に来ていたような気がする。

そんな私のことを、私自身は情けないと思っていて。

どうして先に素直に“ありがとう”と言えない?


「時間が経ってからこそわかることもある」。

私自身の経験から、“あぁ、それはそうだな”と思うこともある。ただ、今は私は何もできていなくて、それがただただ悔しい。

今は、深呼吸を繰り返しながら、できることからゆっくりと進んでいくときなのかもしれない。


さっきまでものすごい勢いで落ち込んでいたのに、書き進めるうちに、日記の記述自体は、前向きに進もうという感じの記述になってきた。

ただ、私自身が莫迦なことばかりして、周りの人に迷惑ばかりかけて、“ごめんなさい”では済まないくらいいたたまれない気持ちであるのは、その通りで。

周りの人に迷惑ばかりかけて、信頼を裏切っていって、離れられるのが怖いのかもね…とも思う。それでも、ありったけの私で、ありったけの誠意で、いろいろな人と出会っていくしかない。


2004年02月20日(金) 思いつくままに呟き(伝えることなど)

伝えたい、という気持ちがある。

しかし、今日の私は、それを言葉にして表現するだけの気力がない。何を伝えたいのかもよくわからない。

ちなみに、今日はほぼ1日中横になっていた。体調がいい時はいいのだが、良くない時はあまり良くないという日々が続いている。どこにも出向く気がしなかったので、約束を2つキャンセルしてもらった。

話すこと、聴くことは、時として、ものすごいエネルギーを必要とするものだということを思い知った。話している最中、聴いている最中は気がつかなくても、後で、ぐったりと倒れこみたくなるほどの疲労感を味わって、“あぁ、私、あの時に案外とエネルギーを使っていたのかもしれない”と気がつくこともある。

だからと言って、話したくないわけでも聴きたくないわけでもない。むしろ、話したい。聴きたい。

時と場合によっては、話したくもなく、聴きたくもないことももちろんあるけれど。

それだけのエネルギーを必要として話そうとしても、なお言葉にできないことは残るような気がする。

もどかしくて、もどかしくて、“あぁ”とか“ぎゃあ”とかいう呻きにしかならないこともあって、案外そっちの方が本当におもてに出したいことであることであるような気がしながらも、どこまでも“あぁ”とか“ぎゃあ”とかにしかならないものを抱えざるを得ないように思う。

だとすると、今の私は、何をどのような形で残せるのか?

そこまでの思いを抱えている私は、いったい何者?

「時間が経ったからこそわかることもある」という言葉をいただいたことを思い出しながらも、何故か無茶苦茶に焦っている自分がいる。

…駄目だ。今日の日記、全然ちゃんとした文章になってないじゃないの。


我が家の飼い犬が、どうやら花粉症らしく、くしゃみを繰り返している。ということは私もそろそろ?

自分自身がアレルギー体質であることは、昨年の今頃わかったことだが、あまり自覚がないので…。


2004年02月17日(火) いろいろな人が / 切られる木の話 / 秘密のこと / どうすれば / のんびり過ごした / 涙が

いろいろな人が、いろいろな思いを抱えて生きているんだな。目に見えなくても。

なんとなくそんなことを考えている今日この頃。

もっとも、それぞれの人が何をどのように考えているのかなんて、完全にはわからない。完全にわかったらかえって怖いと思う。だけど「わかる」に少しずつ近づいていきたい。近づいていきたいけれど、でも、どうしよう、どう出会おう、どう言葉をかけよう…と思うことも時々は、ある。言葉をかけることも何もできないことも。

せめて“何も言えないけれど言葉をかけたい気持ちでいるの!”という思いだけは伝えたくても、その思いを伝えることさえいいのかどうかわからなかったり。


「風と夏と11歳〜青奈とかほりの物語〜」(薫くみこ:作、みきゆきこ:絵、1993年、ポプラ社)(詳細)という本のことについては、2002年12月1日の日記2003年11月30日の日記に詳しく書いたことがあるが、その中で、主人公の1人である青奈(せいな)が、かほりに、かほりの家の屋根の上で、“あの木は望んであそこに生えたわけではないのに、人間の勝手な都合で切り倒されるんだね”という意味のことを言う場面がある(今、手もとに本がないので、正確に思い出すことはできないのでもしかしたら細かなニュアンスは間違っているかもしれない)。

別に何の脈絡もないが、何となく、その場面を思い出した。


「秘密のこと」には、2種類あるような気がする。

子どもの時の秘密には、甘やかな香りのするものが多かったような記憶がある。秘密の遊び場、秘密のおまじない、好きな男の子(女の子)のこと、などなど。

大人になるにつれて、抱えているのがつらくて重い秘密も持つようになることがある。

子どもだって「抱えているのがつらくて重い秘密」を持っているし、大人だって「甘やかな香りのする秘密」を持っていることもあるので、子どもと大人という区別はできないけれど。


“一瞬一瞬を、もう二度と戻らない瞬間だと思って大切に過ごそう”と思いながらも、何をどうすればよいのか、何をどうすれば“大切に過ごす”ことができるのかわからなくなって、私はどう生きればいいの?と、ぽやんと空に問い掛けてみる。


今日は、割合のんびりと過ごした。

昼寝をした。

本を読んだ。

(1)「アーモンド入りチョコレートのワルツ」(森 絵都:作、いせひでこ:絵、講談社、1996年)(詳細

(2)「ピアニッシシモ」(梨屋アリエ:著、講談社、2003年)(詳細

(3)「東京サハラ」(さとうまきこ:著、理論社、2001年)(詳細

今、手に取っている本

(1)「生者と死者のほとり―阪神大震災・記憶のための試み」(笠原芳光・季村敏夫編集、人文書院、1997年)(詳細

(2)「カラフル」(森 絵都:著、理論社、1998年)(詳細

「ヨーグルトケーキ」を作った。料理の苦手な私が唯一といっていいほど失敗せずにできるお菓子。というわけで、とてもとても簡単にできます。でも、途中で材料をこぼしてあたふたしたのは内緒。どこまでも粗忽者の私。

昨日少しだけ分析したデータの結果を、ぽやんと眺めていた。

そんなところ。


「風紋」(保科洋作曲)を聴きながら、いろいろな想いがめぐって、涙が止まらない。止まらないのに、繰り返し繰り返し何度も何度も聴いてしまう。

そんな夜。


覚え書き:唇ががさがさに荒れている。リップクリームを塗ると余計に荒れる。


2004年02月11日(水) 春が来ているのかな / お酒が飲めたら / 友と会う

春が来ているのかな、と、何となく思う。

本当に何となくしか感じないんだけれど。例えば、庭の梅がほころびかけてきたり、新聞に梅の開花情報が載るようになったり、植え込みの花が葉牡丹からパンジーになったり、夜明けの時間が少しずつ早くなってきたように思ったり。そんなことだけなんだけれど。

数日前に少し書いたような気がするが、最近、空を見上げることも、風を楽しむことも、道端の草花に目を遣ることも、少なくなった。あまり外出しなくもなった。最近は、ひどい時にはほぼ1日中布団の中で横になっていて起きられないということもある。もっともそれは本当にひどい時だけで、用事がある時はぴんしゃんして外出している。ただ、すぐ帰ってくるように心がけているのであまり周りを見ない。

そんな中でも季節は確実に移り変わっている…らしい。

春が来るのを待ち焦がれる気持ちと、このまま冬であり続けて欲しい気持ちと、両方ある。

春が来るのが怖い気持ちがある。できればこの冬の寒さの中にもう少し埋没していたいような気持ちがある。しかしいつまでも冬の寒さの中にいるのはつらすぎる。春が来ないと思うのはあまりにも寂しい。でも春が来るのは怖い。そんな思いがある。

しばらくは埋没しながら、少しずつできることやしたいことをしようと思う。

(↑お昼前に書いたもの)


もしも、私がいっぱいお酒を飲むことができるのだったなら。

もしも、私がいっぱいお酒を飲むことができるのだったら、「あなた」がお酒をたくさんたくさん飲まずにはいられないほどの心持ちである時に、一緒に飲んだくれて酔いつぶれることができるのに、と思う。

でも、一緒に飲んだくれて酔いつぶれることができたとしても、「あなた」の心持ちを完全に理解することはできないだろう。それで「あなた」の助けになれるのだろうか。なれない、と思うと悲しくなる。

せめて、忘れずに見守ることができればいいのにと思うけれど、そうしたって「あなた」にとっては重荷に感じることであるかもしれない。

力になりたいとは思うけれど、一緒に酔いつぶれるだけが方法ではないのかもしれない。だからって、どうしたらいいのか、わからないけれど。


昔からの友人数人と久しぶりに会っていた。気心知れた友人たちとはいえ、直前まで会うのがすごく怖かった。会わないうちに、みんなしっかりとそれぞれの道で進歩を遂げているのに、私だけ何の進歩もないことはわかっていたし、最近の私の状態がこんなのなので、話してもあまり明るい話題を提供できそうになかったから。

結局、会って良かったなぁと思った。どういう心境の変化かよくわからないけれど、皆のおかげだろうと思う。大切な友人がいてくれることに感謝している。

「もっと自信を持てばいいよー」と皆に言われた。うーん。最近は、私は自信を持つ資格もないと思っているからな。

最近は、「ひ」は「疲労」の「ひ」、「ふ」は「不安」の「ふ」、「ぜ」は「絶望」の「ぜ」、という日々なのだ。


ハーブティを飲んでいます。割と飲みやすい。好きになりそう。

(↑夜に書いたもの)


2004年02月08日(日) (とりあえずタイトルなしで)

朝6時ちょっと過ぎ、まだ薄暗い時間に、新聞を取りに外に出る。東側の空は夜が明けかけていて、刻一刻と色が変わり、ところどころに黄みの赤色のくっきりした色が見える。周りの空も明るい白色。一方で、西側の空には、はっきりとお月様が見える。朝が近いのに堂々と輝いている。

そんな風景を眺めると、ちょっと得をした気持ちになる。

今(朝7時30分)は、空が相当明るくなって、月がだいぶ薄く見えてしまっているけれど。


昨日、NHKで「死の国の旋律〜アウシュヴィッツの音楽家たち〜」という番組(恐らく再放送)を見た。

この番組を見た感想を語る言葉を、私は今は持てない。

(2004/02/08,AM7:30記)


2004年02月06日(金) 少しだけ

月が、とてもとてもきれいだった。

ただそれだけを伝えたくて伝えたくて、久しぶりにこの場所に言葉を綴っている。伝わればいいのにと一途に願いながら。

そう言えば、最近、空を見上げることも、風を楽しむことも、道端の草花に目を遣ることも、なかったよ。


何ものかが壊れ、“何もかももうだめだ”と思い知った場所から、絶望以外のものは生まれないだろうか、と、ふと思う。元の通りには戻らないものもある。戻らないのは、身を引きちぎられるかと思うほど痛い。けれど、そこから何か…何か生まれないだろうかと思う。生まれてほしいと祈る。そう思うことは、希望的に過ぎるだろうか。

どうか、苦しみ過ぎることのないように。

と私が祈るのも、あまりにも無責任なことなのだろうかと思うと、黙って宙を見つめてぼんやりするしかない。


以前のようにすらすらっとこの場所に日記が書けるようになるかなという気がしている。一方で、もう無理なのではないかと思ったりもする。ここのところはパソコンに向かうのも疲れてしまっていて、この場所とは別にプライベートで書いている生活記録もほとんど書けなかった。

あと、昨日あたりからふらつきが再発しているような気がする。


BGM:「夜明けまでのマーメイド」(歌:松本典子)
今から10年以上前の歌だろうか。歌手と曲名と曲しか知らないけれど、ものすごく切なくて哀しいメロディーと歌詞が好きで、時々聴く。


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浜梨 |MAIL“そよ風”(メモ程度のものを書くところ)“風向計”(はてなダイアリー。趣味、生活、その他)