風紋 もくじ / この前 / この後
ここに文章を書くのは随分と久しぶりのことになってしまった。しかも前回も「取り急ぎ」という感じで、メモ程度に走り書きという感じで書いたので…(でも、今、前回の日記を読み返してみると、あれであの日書き残したいことのおおかたは書き残すことができているような気がする)。 「桜が何となく咲きたがっているように見える」と書こうとしたら、ここ数日で、種類によってはかなり咲いている姿を見ることができるようになった。種類や場所によってはまだのところもあるけれど。 なんだか、私ってずるいなぁひどいなぁ…と感じるのは、この季節以外は、桜の木がそこにあるということを忘れているということ。桜の木は桜の木として、年中変わらずそこにいて、桜の木なりに日々を過ごしているのに、どうしても桜の木に注目するのはこの季節だけになってしまいがちだなぁと思うと、ごめんね…と思う。 それでも、桜の木は桜の木として、誰の目も気にせずに、年中淡々と生きているのは、すごいと思う。 花に関連した話題をもう1つ。 先日、とても美しく咲いている花を見た(花の種類は忘れた)。この花、ずっとこのまま咲いていればいいのにと思った。そして、この花が美しかったということや、この花の様子や、この花との出会いが私にとってどのようなものであったかを残しておくにはどうすればいいかなと思っていた。 咲いている姿をいつまでもとどめるために、その花とそっくりの造花をつくるというのも違うような気がする。写真に撮っても、足りないような気がする。言葉で残しても、足りないような気がする。 ではどうやって?…と考えると、写真や言葉を使うのも1つの方法だけれど、結局は私自身がしっかりと見て、心の中にその姿をとどめておいて、しっかりと対峙するというのが全てかなとも思った。 …それでも忘れることはあるんだけれど。
今日はメモ程度に2つほど書き残す。本当はもっと私自身の中であたためてから書きたいことなのだけれど、今日はそれだけの余裕がない。せめて手がかりだけでも残しておきたいから。 「そう遠くない昔のことのような気もするし、ずっとずっと昔のことだったような気もする、そんな過去のある時に、もう二度と会うことのできない遠いところへ旅立った友人」に、久しぶりに会いに行ってきた。 以前会いに行った時から後に起こったこと、出会った人、考えたことなどを静かに振り返っていると、不意に「ありがとう」と私は呟いていた。今まで「ごめんなさい」の方が先に出ていたのに、すっと「ありがとう」と。 不思議だった。やっと、やっと「ありがとう」と言えた…。 運良く居合わせたご住職とゆっくりとお話をさせていただき(全然考えずに訪れたのだが、今日は彼岸の入りだったのだ)、安心した時間を過ごせた。そして、いろいろと考えた。塔婆をお供えさせていただいた。 音楽を演奏する時に、「nobilmente」(日本語で「高貴に、気高く」)という指示があるところは、「espressivo」(日本語で「表現豊かに」)に演奏するということではない、ということだった。 確かにそれはそうだろう。作曲者がわざわざespressivoでなくnobilmenteと書いてあるのだから。 でもnobilmenteとespressivoの違いは何だろう。nobilmenteに演奏しようとすると、espressivoとも少し重なってしまう。 そもそも作曲者はこの箇所に、どんな思いを込めてnobilmenteと書いたのか。それは、他の音楽表現用語についても同じことが言えるけれど、ひとつひとつ丁寧に見て考えながら楽譜と向き合いたいと思った。 取り急ぎ、忘れないために、今日、心に残ったことを手がかりだけでも書いておきたかった。なんだか、今週に入ってから、毎日が何かしら激動(というと言い過ぎか?)である。
最近の私は、とにかく私の話を聴いてほしいという思いが強すぎて、他のことが何も見えていなかったなと、気がついた。反省した。 最近、外に出ると、めまいとか、ふらつきとか、耳がつーんとかきーんとする感じとか、ひどいときには頭痛もする。季節的なものなのかな。 でも、今日は仕事を1つ済ませた。 桜が、なんとなく咲きたがっているように見える今日この頃。
一昨日に、「今年の夏に、絶対してみようと思うことがある」と書いたのだけれど。 昨日、帰りにバスに乗ったのだけれど、その運転手さんは、黄信号に近いタイミングでも停車せず進んでしまうような、ちょっと“あれっ?”と思う場面も多かったのだけれど、1つ1つの停留所ごとに「○○です。お降りございませんか? 発車します。お気をつけ下さい」と言葉を添えてくれる、優しい運転手さんだった。 のだが。 同じことでも、順序を変えて 昨日、帰りにバスに乗ったのだけれど、その運転手さんは、1つ1つの停留所ごとに「○○です。お降りございませんか? 発車します。お気をつけ下さい」と言葉を添えてくれる、優しい運転手さんだったのだけれど、黄信号に近いタイミングでも停車せず進んでしまうような、ちょっと“あれっ?”と思う場面も多かった。 と紹介すると、読んだ方の受ける印象が少し違ってくるかもしれないと思うと、どう書こうか悩んだので、両方書いてみた。ちなみに、私は「いい運転手さんだなぁ。また乗る機会があればいいなぁ」と思った。 昨日は、現在私が抱えている問題点の突破口になることを、いろいろな方からご指摘いただいた。ありがたい日だった。とりあえずできることから少しずつしてみようとしている。1つ1つは小さいことでもいいや。積もれば山…になるかどうかわからないが、何かにはなる…だろう…なってほしい…。 昨日学んだ、最も大きなことは「一気にどかんと素晴らしいことをしようと思わずに、何年も何年もかけて積み重ねていくということも大切だ」ということ。 しかし今日は、だるいような頭痛がするような、という気がしたので、寝たり起きたりしながら、ちょこちょこパソコンに向かって作業をしたり、ちょこちょこ小説を読んだりしていた。ビーズの指輪作りも、頭痛の時にすると余計に頭痛を倍増しそうなので、今日はお休み(今、取り掛かっているところが、右と左がごっちゃになってテグスが絡まって割とやりにくいところなので…)。
今年の夏に、絶対してみようと思うことがある。 春の気配を感じるようになり(でもここ数日は暖かくなったりものすごく寒くなったりよくわからないけれど)、少し、この場所に書くための言葉が無理をしなくても自然に出てくるようになるような気がする。この場所に書き記したいと思うことも、無理をしなくても「心のアンテナ」(←私が命名したものだが)に引っ掛かってくるような気がする。 年が明けてから(2004年になってから)、ここに日記を書き記す頻度が落ちたなとは私自身も感じていて、別にそれで誰も困らないのかもしれないし、私も困らないのかもしれないけれど、何となく気にはなっていた。何というか…私の中の何かが、頻繁に日記を書いていた時とは違っていたのだ。その「何か」がやっと戻ってくるような気はしている。 …しているが、他に色々所用を抱えていたり、ここに書く体力がなかったりするので、しばらくは「少しずつ」になると思います。 えぇと、今日も多少暗めと言えば暗めの日記なのかもしれないけれど。 「私はいつ命が尽きても後悔しない」と言いたいところだけれど…言いたいところだけれど…なかなかそう言い切ることは、実はできない。その時その時は2度と戻ってこないものだから、一瞬一瞬を大切にしようと思いながら、なかなかそのようにはできていないし。ただ、その時その時で私自身が素直に思う方向には進んできたつもり…かな?(やはり自信がない)…ので、“その時”が自然に来たならば、その時はその時だと考えるようにしている。 ただ、“その時”が自然に来たとしても、後悔が残るだろうと思うのは、私にとって大切な人に、伝えたいことを何も伝えられないまま、そうなってしまったら…ということ。「伝えたいこと」というのは必ずしもうまく言葉にならないかもしれないけれど、“伝えたいことがあるの!”ということだけでも伝えたいと思う(…それも迷惑かもしれないが)。 時々、ほんの稀に、時々、ではあるけれど、夜に眠りにつく時に「明日も私は本当に生きているかな」と不安になることがある(別に重病を抱えているわけではないのに…)。もしかすると、このまま目が覚めなかったら、絶対に、私にとって大切な人に、伝えたいことを何も伝えられないままであったことを悲しく思うだろう。 そんな夜は、携帯電話を出して、メモリを探して、「受話器を上げる」ボタンを押そうとしたくなる。無性に。 …朝になると普通に目が覚めているから、今、こうして日記を書くことができているのだが。 言葉になるものは、ほんの一部であるとは思うのだけれど。 最近凝っているものは、ビーズアクセサリー作り…と格好良く言ってみたいところだが、今のところ指輪が1つできただけで(それもごく初歩的なもの)、2つ目の途中で挫折している。細かい作業なので、あまり熱中すると頭痛がするし。 どうせ興味を持つなら、縫い物や編み物やお料理の方が実生活に役立つのに、私の興味の方向は非実用的だな…と思わないでもないけれど、まぁ心の向くままでよいかしら、とも思う。 あと、再びお茶の淹れ方に凝ったりもしている(ジャンル問わず)。抽出時間や温度などを考えると、疲れてしまってやめたくなってしまうので、基本的に「茶葉にお湯をかけて色が変わったら飲める」と大ざっぱに考えるようにしている(→大ざっぱすぎる)。 ソフトコンタクトレンズのはめ方に、未だに慣れない(ハードコンタクトレンズとソフトコンタクトレンズ(1日使い捨て)と眼鏡を併用するようになった事情については、また後日←でもそれほど大した事情でもない)。 BGM:「The Divine Comedy」(I.The Inferno, II.Purgatorio, III.The Ascension, IV.Paradiso)(Robert W. Smith) わざわざ英語で書いたが、和訳だと「神曲」(1楽章:地獄篇,2楽章:煉獄篇,3楽章:天国篇,4楽章:昇天篇)となる。吹奏楽のオリジナル曲。 私は演奏したことがないが、後輩が演奏したのを聞いたことがある。好きな曲だと思ってCDを手に入れた。今日、久しぶりに聴いてみて、“あぁ、やっぱり次の演奏会のステージに乗りたい”と思った。別に次の演奏会でこの曲をするわけではないけれど、久しぶりにこれを聴いて、ステージに乗った時の感覚や嬉しさ、興奮が懐かしくなって、絶対次の演奏会に出るんだ!って。 …えぇと、楽団の練習に行けない日々がまた続いているのです。 音楽が嫌いではないのに、むしろ音楽についてなら何時間でも話せるほど好きなのに、明らかに今は私にとって練習に参加することは負担になっている。嫌いではないけれど、好きなのだけれど、その場に出るのがつらい。だから今は行けない。でも自分の存在を忘れ去られたくはない。本番にも出たい。 …どうなることやら。 メモ:今日は午前中はだるくて横になったりもしていたけれど、午後はやりたいこととやらなければいけないことを、細々としたことでも整理できたと思う。メールで連絡を取るとか、メモを取るとか、雑用を整理するとか、1つ1つは小さいことでも、積み重ねれば何とかなるかしら。なってほしいな。
帰りのバスに乗っていた時のこと。 と、書きつつ、なぜか今日は帰宅してから妙に「何かしなければならない気分」になり、必死で「何かすること」を探している。そのくせ、しなくてはならないことをする気になれないのが、何というか…。 今日は外出した時に多少ふらついたことだし、無理せずにゆっくりと過ごそうと思う。 と言いつつ、ビーズアクセサリー作りに取り掛かったら、初っ端から「交差のさせ方」がわからず、挫折。 3月になった。2月はあっという間に終わってしまった。取り急ぎ、冷蔵庫の中にあったはずの3月1日賞味期限のヨーグルトをどうしよう。
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